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1 平城 官 の四至 と条坊

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(1)

1  平城 官 の四至 と条坊

平城京は朱雀大路を中心に

,東

西おのおの

9条 4坊

の左京 と右京にわかれ

,左

京にはその東に2 条か ら

5条

にわたつて

4条 3坊

の外京が設け られていた。*平城京の条坊制については

,す

でに多 く の先学の業績があ り

,京

城の四至や京内道路の幅員が考究 されてきたが

,種

々の解釈があつて未だ 結論をえない状況にある。現在幸いに も平戒京の大半はまだ水 田地帯 として残つてお り

,旧

条坊の 痕跡はかな り粥瞭に道路や畦畔で追跡できる。航空写真などでみると往時の条坊の道路が糸H長 く続 く水 田列 として残つているものもあつて

,そ

の旧位置や幅員を推定できる。 ここではこのような条 坊の痕跡をもとにして先学の業績を参照し

,平

城宮跡周辺か ら条坊の諸問題を とりあげたい。

平城京の地割は

,大

宝令の小尺を測地尺 として1800尺で計画され

,各

坊 の町はすべて方400尺で あると説かれていた。 ところが近来の研究で大路の幅員には広狭があ り

,さ

らに平安京 と同様ある 部分では条坊間にも大路が存在す るらしいことが判つてきた。そ の結果

,条

坊地割の寸法 と大路・

小路・ 町の通計 とは一致しな くなるものもあ り,旧来の説 と矛盾が生 じてきた。 これを検討す る に は,一坊大路・ 二条大路 。防間大路 (平安京壬生大路に当る

)な

,他

の大路 よ りも

,す

べて広い幅員 の大路を含む左京右京各一坊が

,最

適 と考えられ る。

A条

坊 の 地 割

平城宮跡の東西に接 して南北に細長 く続 く水 田列がある。 これは航空写真でみると

,旧

京の殆 ど 全域にわたつて続 き

,明

瞭に一坊大路の形跡を残す ものである。宮城は東西を一坊大路

,南

を二条 大路で限 られるが

,東

西の一坊大路間の距離を求めると平城宮の東西幅すなわち

2坊

分の実距離を 知 ることができる。 この場合条坊地割が朱雀大路を含むか

,或

は朱雀大路両側か ら東西に設定 され たかを

,併

せて検討できることになる。 この両水 田列の距離を

,文

化財保護委員会作製の平城宮跡

1000分

1地

図で計測す ると

,外

畔 間3600尺

内畔間3380尺であつて

これか ら宮域東西幅は 3380尺

,一

坊大路幅員は110尺ほ どになる(PLAN l)。

宮南の一坊を同様航空写真でみ ると

,朱

雀大路

,一

坊大路や これに換 まれ る一方の

4町 3路

の形 跡が

,水

田畦畔か ら明瞭に認め られ る。 ここで注 目され るのは

,一

坊内にある

3路

の うち中央の路 は幅が広 く

これが坊間大路 と確認できることと

,ま

た町の形状が正方形にな らず

とくに朱雀大 路に隣接す る町にこの傾向が著 しいことである。それ らの東西幅を現地で水田

1筆

ごとに略測す る と

, Fig.26に

示した ような値になる。坊間大路が条坊地割 の中心にあると仮定す ると

,宮

跡東部

「律書残篇」(改定 史籍集覧27)に左京 条九防JfF六,

右京条九防対三 の記載が挿入 されてい る。 この京 は 他 の記載事項 か ら平城京 と考 え られ

,誤

記 でない と

すれば

,平

城右京 には3坊分条坊 が設 け られ なかつ たか もしれない。現状 では旧右京 四坊 は大部 分が条 防 の痕跡す らも認 めがたい。

平城京概観

一坊大路跡

坊聞大路の 存在

(2)

測地尺 と現 在尺 との比

1800尺 の地 !

平城宮発掘調査報告

 I

の朝堂院跡 は

,中

軸線 を 坊 間大路 中心

,す

なわ ち 条坊地割 中心に一致 させ た と考 え られ る。*1000分 ノ1宮跡 地 図上で

,昭

和 30年 発見 の大極殿 回廊や 諸堂跡 を示す土壇か ら朝 堂院中軸線を求 め

これ と宮城東西幅を

2分

して 得 た平城宮 中軸線 との距 離 を計測す る と880尺と な る。地割が1800尺 で計 画 され た と仮定 して これ をそ の半分 の900尺とす る と

,測

地 尺 と現在尺 と の比率 は0.978とな る。

この比率 で宮跡東西 幅 を測地尺に換算す る と,

3380■0。978‑3456.0すな わ ち3456尺 とな り

,宮

Fig。

26 

平城宮跡東南付近条坊痕跡

東 西 幅は1800尺 で想定 した地害」寸法 よ り小 さ く

,そ

の差 は1800×

2‑3456‑144(尺

)と な る。 しか し 一坊大路 の外側間の距離3600尺を換算 した3681尺は

,地

割 寸法 よ り81尺 大 きい。 この結果 か ら, 地割線 は宮域中心す なわち朱雀大路 の中心 と

,一

坊大路 の中心 よ りやや外方

,道

幅 のほぼ

3分

ノ 2 の位置にあた る ことにな る。 また この値 には朱雀大路 幅員 の

2分

1が含 まれ るので

,京

の地割 は 未雀 大路 の両 似1から設定 された ものでな く

,む

しろ大路 中心か らの設定 と考 え られ る。

以上 は

1800尺

を規準 とす る地割 が行われた としての考察 で

これを他に及ぼ してゆ くと次 の と お りである。 まず南北方 向は宮域 の北限が確定 しない現状 では

,平

城 宮跡 を基準にす ることが 出来 ない。 しか し二条 につ いてはす でに大 岡実 に よる東 大寺転害門心 (一条大路心)からぅ 旧二条大路南 縁 石垣 まで の実測値 が あ り, 1837.1尺 と知 られ る。 これを先 の数値 に よつ て換算す る と1880尺と な る。

**そ

こで これを地割線を一 。二条大路心 とみ る と

,南

北 方 向では80尺 の差が生ず る。 この差 は二条大路南半 の幅員 で

,二

条大路 は160尺と計算 され る。 同様三条につ いて も

,大

岡実 の興福寺 旧境 内の南北 の実測値があつ て

,1646尺

と知 られ るので,***前 記 の二条 の実測値を加えて

,一

条 大

次節 でのべ るよ うに宮斌 中央 区は 第1次, 東方区 は第2次の朝堂院に比定 され る。第1次の朝堂院 は 朱雀大路 中心 と中軸線 を揃 え るので

,第

2次の もの も正面 の坊 間中央 路中心 に中4H線 を一致 させた と考 え られ る。 しか し坊 間大 路を示す水 田の中心線 の延 長 は

,現

状 では正 し く朝堂隣跡 中軸線 と一 致 し な い。 これは水 国の東西幅が120尺ほ どあ るためで

,

坊間大 路幅を100尺とみて

,中

心線 と中軸擦が一致

00

す ると仮定 した① なお朱 雀大 路 の幅員 はFig。26に した水 田か らは260尺ほ どとみ られ るが

,南

の水 田 は これ よ り広 く平安京 同様280尺の幅員 とみ るべ き であろ う。

 

大 岡実「平城京二条大 路 と束京極路

J(建

築 史 1

‑1)昭

14

*大岡実「興福 寺建築論」 (建築雑誌505)昭3

(数字 の単位 は 山尺)

(3)

Fig 27 平城富周辺条労復原図

 

現地形 で認 め られ る三条大 路跡 の 水 田は平城宮 に接 す る部 分 では

,南

北幅 が特 に広 く170尺ほ どで あ り

,東

一坊大 路跡 よ り束 側の水 日では160尺ほ ど になつてい る。宮正面 のみは広 くされていた よ うで

路 中′いよ り三条 大路北縁 までの距離 を求 め れ ば 3483.1尺

これを換算 して3562尺と な る。三条大路 中心が地害↓線 とす る と 1800×

2‑3562‑38(尺 )差

が あ り

,三

条 大 路 の幅員 が76尺 とな る。

以上 の一坊 と二 。三条 の計算か ら

,条

坊 地害Jを1800尺 とみ るのは妥当 であ り

, 1町

を400尺とす る と三条大路 の計算値を参考 に して

,大

路80尺 小路40尺 とみ なせ よ う。

この こ とか ら

Fig.27に

示す よ うにぅ条坊 を限 る大路 が地割線上に 2a cO尺

)で

計画 され

,一

坊 大路・ 二条大路 は さ らに これ を 平城 宮域 の側 に

,等

距離

b(=a)で

拡 げ ら れ

,そ

れ ぞれ120尺

,160尺

の幅員を もつ よ

うに なつ た と考 え られ る。*す なわち大路で 幅 の広 い ものは

,計

画数値80尺 の どち らか に

,道

幅を広 げ た結果 と考 え るのであ る。

条 坊 を限 る大路 が80尺 よ り広 い幅員 で設

あ る。

** 大 岡実

,浅

野清「大安寺南大F日中門及 び回廊 の発 掘」「 薬師寺南大 門及 び中門の発掘」 (日本建築

¥

会論文集50)「 西大 寺東西 両塔」(同論文報告集54)

大路・小路 の1隔

道路幅員の 町への影響 け られ る と

,地

割 寸法 が各 条坊 に一定 であ る以上 は

,当

然 条坊 内の町に影響を及ぼす ことにな る。

宮南 の一坊 で は

,二

条 大路 に南接す る町が Fig。

26で

認 め られ る よ うに

,南

3町

よ り南北 幅が狭 いのは このためであ り

また前述 の よ うに一方 の東西方 向は中間に大路 が設定 されたため

,町

幅に 広狭 があ るのが 明瞭に認 め られ る。大路 の幅員が町に及が最 もよい例 は朱雀大路両協 の町で

,最

大 の幅員 の路 に接す る町が最小 の幅 とな る。

この1800尺 の地割 を

,一

坊 と二・ 三 条 以外 で検討 してみ る と

,次

の よ うにな る。最 近

,大

安寺南

 

機翼寸法の 大門ぅ 中門

,西

大寺東西両塔

,薬

師寺 南大F写

,中

門 な ど京 内寺 院 の一部 が発掘 され てそ の位 置が確

定 した 。**寺院 の中軸 線 は条坊 に規制 され るので

,奈

良市作製 の3000分ノ

1都

市計画 図上 で この位 置 を計測 し

,条

坊地割 を検討 で きる。発掘 に よつ て得 られ た大安寺伽 藍 中軸線 は

,平

城 宮 中軸線 よ り5730尺東 に あ り

これ を換算す る と5859尺となる。伽 廷 中軸線 は三坊大路 の1町東 の小路 中どい と一致す るの で

,想

定地割 寸法 は 1800×3(坊)+40(大路半)+400(町)+20c/1ヽ路半)=5860(尺)で

,実

測値 とよ く合 致す る。 また西 大寺東西両塔 の中Jい

,す

なわ ち西 大寺伽 藍中軸線 は

,平

城 宮 中軸線 の 4620尺 西 にあ り

これを換算す る と4724尺 とな る。伽 藍 中軸線 は三坊 九〜十二坪 の中′いと一 致す る ので

,想

定地 害↓寸法 は 1800×2(坊)+40(大路半)+400×2.5(町)+40×2c/1、路)=4720(尺

)と

な り,

両者 はほぼ合 致す る。 一方薬師寺伽藍 中軸線 は

平城 宮 中軸線か ら3100尺西 に あつ て

,換

算す る と3170尺 とな る。伽 藍 中軸線 は

,一

坊 大路 の

3町

西 の小路 にあ る と仮定すれば

,想

定地害J寸法 は,

f

(4)

外京 の地割

条坊間大路 の問題

平以宮発掘調査報告

 [

1800(坊

)+40(大

路半

)+400×

3(町

)+40×

2.5(小 路

)‑3140(尺)と

な り

これ では30尺の差 が で き る。*以 上は東西距離であるが

,南

北 方 向では薬師寺南大門

,大

安寺南大門の基壇前面 と宮跡 南端 間 の距 離 が計測 され

これ は7040尺

,換

算す る と7198尺 とな る。 宮城南端か ら六条大路北縁 までの 計 画 寸法 は, 80(二条大路半

)+1800×

4(坊

)‑40(大

路半

)=7240(尺 )で

, これ も約40尺 の差が 出来 るが

,門

の前面が大路 よ り後退 していたであろ うか ら

これ では細かい検討 はで きない。

な お 外京 の東西地害J寸法 は1800尺 ではない。興福寺金堂′

bす

なわ ち興福寺伽藍 中軸線 と大安寺伽 藍 中軸 線 との距離 は5410尺 で

,換

算す る と5532尺 とな る。興福寺 中軸線 は七坊五〜八坪 の中Jいにあ

るとすると, この中で外京のみの寸法は,5532‑〔 1800‑(40+400+20)〕

=4192(尺

)と なる。これ を

1800尺

の地害

Jで

2坊

1坪

半として計算した結果 , 1800(坊

2+40(大 路半 )+400×

1.5(町)

+40(小

)=4280(尺

)と比べ る と夕 全 く合わない。 これ は外京 の東西方 向の計画寸法が

,1800尺

り小 さかつ た ことを示す もので

,興

福寺周辺 の条坊痕跡 に よつ て も同様 な結果が得 られ る。そ の原 因 は使 用 尺度 の相違 か

,ま

たは大路 。小路 の幅員 が狭 かつた ものであろ う。 いずれ にせ よ外京設定 の時期 が遅 れ る ことを示す と考 え られ る。**

条 坊 間 の大路 につ いては

,主

として中世 の田畑券文 に よつ て現在―・ 二条や一 。二坊にそ の存在 が知 られ ている。***こ の うち水 田の畦畔 に よつ て

,明

瞭 に条坊 にお よが条 。坊間 の大路 が認 め られ る もの は

,宮

南 の左右各一方 の坊間大路 のみであつ て

,他

の ものは確認 で きない。条坊地割寸法 は 坊 間大 路 の存在 になん ら制約 されず

,何

れ の条坊 で も等 しい寸法 であ るため

,距

離測定 か らは大路 の存在 を確認す る ことができず

,現

在 では文献 に よるか

,そ

の痕跡 を留 める水 田の形状 に よらざ る を え な い。 宮東 の一 。二条では

,宮

跡 付近 の水 田の形状 か らは坊間 の

3路

すべ てが

,大

路 の よ うに 広 い幅員 で認 め られ る (PL l,Fig.26)。 しか しこれ を追求 して も

法華寺以束 では大路 の痕跡 を 求 め る こ とが で きな い。

二 条 の条 間大路につ いては二・ 三 の問題 があ る。「東 大寺修理所 修理注進状」(東南院文書

)に

中 御 門 大 路 の記載 があ り

,条

間大路 が外京に も存在 した ことが知 られ る。一方地害Jを一定 とみ る とす でに述 べ た よ うに

この大路に隣接す る町は400尺平 方 よ り小 さな面積 でなければな らない。 正倉 院文 書 紀 朝 臣勝長 家地 相換券文 に は

,外

京 の二条 五 坊七町は

1町 2段

124歩 o00尺平方

)と

記 或 さ れ矛盾 が生ず る。 また東大寺 中御門に相当す るいわ ゆ る焼門 の位置 は

,大

岡実 の実測 に よつ て転害 門心 よ り855。

3尺

南 と知 られ る。 とすれ ば 中御門大路 は地割 の中′いに位置 しない ことにな り疑 問 で あ る。 なお坊 間大路 につ いては右京 九条二坊

,左

京 四条一坊 では文献上否定的 な もの もあ り

また

坊 間 の中央 に ない大路 が

,右

京三条 一坊 に存在す る こ とな どが あつ て判然 としない。或 は利用度 の 高 い小 路 のみ は

,大

路 に拡張 され た の であ ろ うか 。****

*これ は現在考 え られ てい るいろいろな条功寸法 を用 いて も,う ま くゆかなとヽ。楽師寺 は条坊 とずれ て建 て

られた らしい。

*半

 

興福 寺 の伽藍 中軸線 は大路6丈小路3丈lm員 計画 された条坊 に よく合致す ることが今 迄知 られて きた。 しか し外京 の東西 方向の地割をそ う認 め て

,な

お寸 法 に差 があ る。興福 寺の伽藍 中軸線 が,

この基 準 の異 な る外京 の条坊 に合致す る以上

,興

寺 の造 営 は外京 設定以後 となる。興福寺 の供養 や維 摩会 が和 銅7年に行われていることか ら

,外

京 の設 定 は和 銅年間 とみ られ よ う。

0ク

キ掛

 

田村苦永「平城京条坊機IPIの諸問題」(史逃 と芙

22‑9)昭

2盈大井重二郎「平城京条坊大 路以外 の 六大 路 の確 認 と京極道路 の再計算 について」 (続 本紀研究4‑8。 9)昭32。

*卜・ キ

 

東大 寺文書「 薬師寺僧慶意 田地処 分状」 に

,右

京 九条 二坊 八坪西小略

,東

大 寺文書「 藤井姉子 田地 処 分状Jに左京 四条一坊七坪東少路 とあ る。 これ か らは この坪 に接 す る坊間 の路は小路 の よ うにみ られ る。 また西大 寺本検注 目録「西大 寺四王 堂 免 田 等 事」 に右京一条三房一坪南大路 とあつ て

,坊

間 中央 路 の他 に も大 路が考 え られ よ う。

(5)

B  平 城 官 の 地 割

宮城東西距離は前述のように地割線よリー坊大路幅員の3分 ノ2を 減じたものであつて ,一 坊大

路 幅員 を120尺 とみたため

,(1800‑80)×

2=3440(尺

)と

な る。

南北 距離 も南 限 は二条 大路 のためせ ばめ られ てい るが

,北

限 も北 京極 路 で同様せ ばめ られ た とす る と宮城 の広 さは3440尺四方 とな る。

宮城 には朝 堂 院

,内

,各

省官衛 が存在 し

,そ

れ らを画す る道路 の存在 が考 え られ るが

,平

安 宮 古 図にみ られ る よ うな宮城 内の路 は現在 の地形か ら明 らかに指摘す るこ とはできない。発掘 で判 明 した道路遺構 は

, 6ABO区

中央 の官衡群を画す る幅50尺 ほ どの南北路 で

この位置は 宮域中軸線 上 にあ る。また

,6ABN区

南端部 は地 山が南 よ りも一段 高 くな り,こ の部分 ではなん らの遺構 も発見 されないため

,東

西 に通ず る路 と推定 した。 この位置 は南北 地割 の

4等

分線上に相当す る。 なお こ の他に地域 を画す る遺構 として

,昭

3年

発掘 の

6 AAB区

に玉石積 の溝が知 られてい る。濤 が発 見 され た場所 は南北 に林H長く連 続す る水 田

この水 田列 は宮域 中心に までお よび

,朝

堂院 と東一 坊 大路 の間 の宮域北半地域を

2分

す る位置 にあ るが

,地

J寸法 とは直接 関係 しない。 なお

,現

在 国 有 地 となつ てい る朝 堂院跡 につ い てそ の構成 と地割 の関係 をみ る と

,南

,中

,大

極殿前 F]の そ れ ぞれ前面は南北 地割 の

4等

分線上に位置す る。 この諸門 と道路 との関係 は

,平

安 宮古 図に見 られ ない もので

,官

内建物 群 の全体 計画を考 え る上に注意すべ き点 であ ろ う。

上記 の要 旨を列拳す る と次 の とお りであ る。

平城京 の条坊 は1800尺 の等間隔で方H長に地割 され

,地

害」計 画 では条坊大路 の幅員 の広狭 は考 慮 され なかつ た 。

2条

坊 大路 は地割 線上 に設定 され た。

3幅

員 が広 い大路 を設定す るに当つ ては 本来計 画 され た条 坊 大路 の片側 ない し両 側 に拡 げ られ た 。

4幅

員 が広 い大路 に隣接す る町 は,大 路 の影響 で町 の広 さが縮少 され た。

 5五

〜七坊 のいわゆ る外京 では

,南

北 方 向 と東 西方 向は地割 の 寸法が異 な る。 南北 方 向は一 〜四坊 の延長 なので問題 ないが

,東

西方 向の地割 の違 いは

,外

京 設定 時期 の遅 れ る こ とを示 してい る。

平城京 条 坊制 の正確 な数値 は

,旧

京 全域 にわ た る

'山

形測 量 に よ らない限 り結論 は求 め られず

,今

後 の問題 として残 さざ るを えない。 とはい うものの

,平

城京 の大路 の位置や幅員は平安京 と近似 し てい る。大 きな差 異 は町の広 さが一定 でない ことで

,そ

の他は延喜式 に示 され る京程 を平城京 に も 適用 して よい の ではないだ ろ うか。平安京 条坊制 は町 の面積 を一定 に し,北 辺坊 を整備 した もの で, 全 く平城京 条坊制 の発展形 式 と解 され るのであ る。

2  官 内諸建 造物 の機 能 と位 置

A  文献にみえる建造物群

ここでは文献 にみ え る平城 宮関係 の殿

,院,苑

,

理分類 してそ の機 能 と宮 内位置を考 えてみ る。

  

  

宮城 の周 囲 に は宮塔 が め ぐらされ(宮衛令宮瑞条),

門 な どを宮城 門

,内

,朝

堂お よび諸官衛 に整

その外辺には溝が掘 られていた (同条古記)。

0∂

宮城の広 さ

宮城内道路

(6)

宮城十二門 号

平城官の宮 城門

平城宮発掘調査報告

 1

4面

に はそれ ぞれ

3門

ずつあ わ せ て 12の 大 F]が 存 し(宮衛令宮閤門条古記

),門

前 に 橋 を 渡 し て (営繕令京内大橋条古記),宮 城外に通 じていた。宮城十二 門 の ことはす でに飛蔦板蓋宮にみえ るが (皇

極紀4・

6),十

二 門 の存在を確証 で きるのは

,わ

が 国都城制 に飛躍的 な発展を言」した藤原 宮において であ る。 宮城 門は また外門 とよばれ

,門

部が守衛す る。 これ に対 して

,宮

城 内には衛 門府 と衛士府 が 防守す る宮開 (中門), 兵衛府が主当す る閤門 (内

)が

あつ て (宮衛令宮閤門条古記), 内裏を中心 に

3重

の構造 をな していた。

宮城 十 二 門 には固有 の門号がつけ られ

,平

安 営の場 合には拾芥抄 (宮城部第19)による と

,東

面北 か ら陽 明・ 待 賢・ 郁芳

,南

面東か ら美福・ 未雀・ 皇嘉

,西

面南か ら談天・ 藻壁・ 殷富

,北

面西 か ら 安嘉 。偉甕・ 達智 とよばれた。 ところが これ らの門号 は

,弘

9年

に唐 風の

2字

を用 い る美称に改 め られ た もので 感己略弘仁9。 4・庚辰

),そ

れ 以前 はそれ ぞれ 山

,建

,的

(県犬養

),壬

,大

(朱

),若

犬 養

,玉

,佐

伯夕伊福部

,海

犬養

,猪

使

,丹

治比 と氏 名を冠す るものであつた。キ平城 宮 の 場 合 も この氏 名を冠す門号であつた こ とは

,の

ちにみ る よ うに続紀 の実例に よつ て証 明 され る。氏 と門号 の関係につ いては従来

,拾

芥 抄(同上部

)の

記述 か ら各氏族 がそれ ぞれ の門を造営 した もの と 考 え られ て きたが

,最

近 の研究 に よつ て氏族造営説 はつFせられ

,門

号 となつ た各氏族 は実 は大化前 代 以来 の天 皇近侍氏族 で

,令

制 では宮城 内の守衛 にあた る衛門府 門部に系譜を引 く氏族 であ る こと が 明 らか に され

,改

新 の プ ロロー グを な した入鹿誅滅事 件

,い

わ ゆ る乙巳の変 に際 して

これ ら氏 族 が板 蓋 宮 の大門を防守 した功労 を顕彰 して附 した もの とす る見解が とられ るに至つ てい る。**

平城 宮 十 二 門 の うち

,文

献 にみ え る ものは

,朱

雀 門 (続紀和銅8・ 正・朔

,天

6・ 2・

,天

16・

3・ 丁丑

,儀

制令儀文条古記), 建部 門 (大日古12‑392), 中壬 生 門 (続紀神護2。 5・ 戊年), 的門 (続紀 宝亀3・ 12。 乙亥

)の 4門

であ る。

 

朱雀 門は宮城 南面 の中央 に位す る宮城正門で

十 二 門中最 も重要 な外門 で あ る。元 日朝賀に際 して鼓吹騎兵が この門 の左右に陳列 し

,天

皇が この門 に 出御 して

,京

中 の大 歌 垣 を観 覧 してい るな どの続紀 の事 例がそ の こ とを証 切 してい る。儀制 令儀支条 古 記 に も

「元 日未雀 に飾馬を陳列す る許に

藤 原右大臣 (武智麻呂

)の

儀 支 を立つ」 とあ るか ら

元 会朝賀 の儀式 に 朱雀 門は久 くことので きない重要 な ものであつ た。平安 宮 の場合 も同様 でそ の 委 細 は 貞 EFL儀(巻第6元正朝賀

)に

よつ て 知 ら れ る。 い うまで もな く

,元

朝俵式 は天皇大極殿 に 出御 して 朝堂 で行 われ る ものであ り

,朱

雀 門は いわ ばそ の延 長 として利用 され るのであ る。朝 堂 と未雀 門 の こ うした機能 上 の対応関係を考慮す る と

,平

城宮跡 で朝 堂 を東 方部 に推 定 した従来 の説は再 検討す る必要 が生ず る。朱雀 門 の記録が天平16年 以降に見当 らない点か らすれ ば

,記

事 の省略を考慮す る として もなお

,そ

れが かつ て朝堂正面 の関 であ り

これ以後朝堂 の位置に変更があつ て

,機

能 的に 以前 の重 要 性 を失 つ た事情 を示す のではなか ろ うか。(後述参照)

建 都F弓は正倉院文書 に右大臣 (藤原豊成)以下13人 が この門に参 向した とみえる ものであ る。そ の 年時 を大 日本古文書 の編者 は

,勝

4年

としてい るが

,た

しか な こ とはなお不Hjlであ り

,何

のため

の参 向か も明 らかでない。 ところで建部門 の位置 であ るが

,本

来 は平安 宮待 賢F]の 位置ぅす なわ ち

県犬 養F日は一条兼良「年 中行事秘抄」所 引「弘仁 陰陽寮式 」群書類従 6)にみ え

,佐

伯有清 は弘仁式

所載 のF且号 を恭仁遷都 か ら景雲3年までの もの とし た。「 宮 城十二F日号 と古代天皇近侍氏族」(続日本紀 研究2‑4)5)。

 

大伴 門が朱雀 門にかわつ た時期 は不 明 であ るが

,宋

雀 門の初見 が和銅8年であ ることか どθを

らすれば,あ るいは平城宮 では じめて改号 され たF電

であろ うか。

** 川勝政太郎「平 安宮十二 門に関す る問題」 (史 と美 術15‑6),井上薫「宮城十二P日号 と乙巳の変」

(続日本紀研究 1‑7),山田英雄「宮城十二 門号 に つ いて」 (続日本紀研究1‑10),佐伯有清前掲論文

(7)

東 面 中央 であ るが

,弘

仁式

,貞

観式 の逸 文 か ら佐伯 有清 が復原 した ところに よる と,*恭仁宮 以来 景 雲

3年

までの平城宮は東面 の門号位 置 に移動があ り

,建

部門は本来 の的門

=郁

芳 門 の位置す なわ ち 東 面南端 に位す るのであ る。勝宝

4年

の もの とすれ ば丁度そ の間にあた るわけであ る。つ ぎに中壬 生 門。 これ が もし壬 生 門 と同 じな らば

,平

安 宮美福 門の位置

,す

なわ ち南面東 の開であ る。それ な らば何故「 中」 の字 を冠す るのか。 拾芥 抄 で東

,南 ,西

各面 の中央F弓が また「 中御 門」 とよばれ て い る こ とか らして

,「

中」を 中央 の意 味 に解す る こ とは きわ めて 自然 であ る。 ところが続 紀に よる と

,中

壬生 門の西に官人百姓 の訴陳を聴 く場所 を設 けた とあ るか ら

この門は宮城 の北面か南面以 外 には考 え られ ない こ とにな り

,お

そ ら く南面東 の門 と推 定 され る。 したがつ て 「中」 の字 は位 置 の意味か らは解けず

,別

の解釈が必要 に なつて くる。南面東門 とすれば

,東

側朝 堂 の正 面 に あ た る。 さきに朱雀門につ いてのべた よ うに

,朝

堂 の正 面 F]は 朝俵 に際 して重要 な機 能 を もつ ものであ つ て

,こ

うした事情 が「 中」 の字 をつ け た理 由では なか ろ うか。

的F]は 平安 官郁 芳門 と同位 置 とす れ ば

,東

面 の南端 の門であ る。続紀に よる と

,宮

城 内に あつ て 的 門 に通ず る東西 の路 に

,太

政官弁官 曹 司 の南 門が 開いていた こ とがわか る。 この的 門 と弁官 曹 司 の位置は平安宮の場合 もほば同 じであ る。

 

 

 

朝堂 は諸 司百官 が

,一

堂 に会 して朝 儀 を行 う場所 であ る。北 域 に天皇 の高御座 を設 け る大極 殿 の 一郭 を付 し

,南

面 には捲 えの場

=朝

集殿 の一院を配 し

,こ

の間に朝儀 の場 として の12堂 があつ て以 上3つの部分か らなつ てい る。宮城 内諸建築物 中内裏 とともに

,最

も重要 な もので あ る こ とはい う

まで もない。そ こで まず 朝儀 の具体 的 な 内容 を続 紀 につ いて調べ る と次 の よ うで あ る。

      

賢薪 式の 即位 お よび大嘗会 の饗

元 日朝 賀 お よび饗

蕃客 (外使・隼人

)謁

見お よび饗

 4 

正月の節宴 (7日16日<踏 歌>,17日 <大射乃至内射>) その他

 

 

読経 (1代1度の住王 。大般若経の講読

,天

9年度着流行につき最勝王経転読)

 

授位 (神6・ 3・ 甲午

,延

2・ 2・ 壬子)

 

宣 詔 (天平元・8・ 癸亥<改元

>,宝

6・ 6。庚茂<高野天皇詔

>,天

応元・4・癸卯)

 

特 別 な宴 (神4・ 1い 己亥<基王誕生>)

つ ぎに律令の規定お よび集解註釈書 につ いて朝堂 の儀 の内容を検討 しよ う。衣 服令には大祀 。大 普・ 元 日の三大儀式 に際 して

,五

位 以上 が着 用す る礼服 の詳 細 な規定 が見 えてい る。 また 同令武官 朝 服条に は

,特

別に「会 集等 日」 の月R装が きめ られ てい る。 この「会集 日」を義 解 は「元 日及乗集 井 春客宴会等」 とし

,穴

説 は「 大祀

,大

,元

日お よび宮衛令の儀伏を立て る 日」 としてい るが, 儀 伏 を立 て る 日とは宮衛 令元 日条 に「元 日

,朔

,若

し くは乗集す るこ と有 らん

,お

よび蕃客 の宴 会 辞見 には

,皆

儀 伏 を立 て よ

Jと

あ るのを指す。儀 伏を立 て る儀式 のす べ てが

,朝

堂 で行われ る と は限 らぬに して も

,さ

きの続紀 の用 例 に徴 して

,そ

れ らが多 く朝堂儀 であ る こ とは まちが いな い。

右 にあげ た ものの うち

,朔

日す なわ ち告朔儀 の ことは俵制 令文武官条 に

,前

月 の公文 (いわゆる告朔 文

)を

五位 以上が朝庭 の案上に送 り着 け

これを大納 言が進奏す る とあ るか ら

,朝

堂 でお こなわれ た こ とは 明 らかで

続 紀 にそ の例を見 な いのは

毎 月 の常 例行事 として省略 した ものに他 な ら な

%〕

:窪 3蚕

9〔 (北

)山  

  

県犬養 門

  

 

  

陽 明門

(中

)建

部 門

  

  

  

建都

F] 

待賢 門

(南

)的  

  

達 部 F目

  

 

  

郁 芳 門

70,

佐伯有清 は弘仁式 の場 合

,大

寒 の前夜 に束面 の関 につけ られ る土 牛童子像 の色が,のちの貞観式・ 延 喜式 とことなつ てい る ことか ら

,門

号 に移 動があつ

た ことを推定 され,つぎの よ うに整理 され た。

(8)

朝堂関係用

平 城 宮 発 掘 調 査 報告

 I

帝ヽ。

天平10年頃 に で きた大宝 令の註釈書古記 は さきの宮衛 令元 日条 で

,朝

堂儀式をそ の儀式 内容 に よ つ て次 の

3つ

に分類 している。

1,元

日… …五 議を装い

,鉦

鼓 あ り。

2春

客 宴会辞見

,左

大 臣以上任授・……艦を立つ る も巖 。鉦・ 鼓 な し。

乳 五 位 以上 授 ……瞬 な く直に帯伏威儀。

これ に よつ て平城宮におけ る朝堂儀式 の一端を うかが い知 ることが で きよ う。

以上 の事 例 に よつ て

,平

城宮 の朝堂が

,常

の行事や臨時 の大事 に際 して朝俵

,饗

宴 のいずれ に も 使用 され た ものであ る こ とがわか るが

,平

安富 においては弘 仁年 間豊楽院

;武

徳殿 な どが新 し く造 営 され て

,饗

宴・ 騎射が朝儀その ものか ら分化 し

,そ

れ ぞれ 固有 の殿舎 を もつ よ うになつた。 この

よ うな両者 の差異は

,実

は奈良朝

,平

安朝 の政治 のス タイルを反映す るものであろ う。

つ ぎに大極殿

,朝

堂関係 の用語 を個別的に検討 してお く。

a.大

極 殿 閤門 (大極殿南門

,南

)と重閤門 (重閣中門

平城宮 の大極殿が 諜原宮 と 同様朝堂 院 に対 し南 面 を閉 じて一院をなす構造 であつた こ とは

,平

安 宮 の場合 と異 なる大 きな特色である。

大極殿南面 の正門は続紀 に大極殿 閤F弓

,単

に閤門

,あ

るい は大極殿南門

,単

に南門 とみ えてい るも のがそれ にあた る。そ の用例 をみ る と

,隼

人奏楽観覧 。大害会宴・ 正月 の節宴に際 して ここに天皇 が 出御す る ものであ る。 これ に対 して重閤門

,あ

るいは重 閣中門はそ の用例がいずれ も5月 5日の 騎射 であ る こ と

,騎

射 が行われ る場所 は他 の例では

,松

林 苑や甕原 の南野桝 であ り

,正

17日の大 射 (あるいは内射

)が

朝 堂院 で行われ ているの と対照的 であ る こと

さ らに「重閤」 ない し「 重閣」

とい う門 の構造 に注 目す る と

,平

安 宮の会 昌門あ るいは応天門 に相当す るものではなか ろ うか 。**

なお この他 に重 閣中院 なるものが

,宝

4年

正月7日の節宴 に利用 され ているが

,同

日の節宴 の他 の例か ら推 して

,朝

堂院一郭 の謂 であろ うか。

b.大

極 殿 南院 。南院・ 南聞

  

南 聞は霊 亀元年 (大射), 大極殿南院は勝宝

3年

(踏歌宴

)に

1 例ず つみ え

,単

に南院は

,勝

3年

(七夕宴)。 宝 字元年 (奈良麻呂の乱につき畿内百姓本寸長以上に諸)の

2例

み え る。 南 聞は大射 の行われた他 の例か らす る と朝堂院 の別称 であろ う。霊 亀元年 の こ とだか ら

,ま

だ朝 堂 院 の体裁 を整 えていなかつた ものに

,こ

の よ うな表現を用 いたのであろ うか。 大極殿 南院

,南

院 も朝 堂 院一郭 を指す らしいが

,こ

の用例が いずれ も孝謙朝 の ものであ るこ とに注意 した い。孝謙朝 の 内裏・ 朝堂 の利用が不安定 な ものであつた こ とは

,第 1章

に ものべた通 りであ るが,

宝字元年 は丁度大宮改修 のために

,田

村 宮に移御 していた時期 の もの であ り

,勝

3年

2例

は当 時朝 堂 に何 等 か の改 修が行われ た と思われ る時期 であ る。 かか る時期 の朝堂院一郭 を

,あ

え て南院

・ 南聞 と称 した とすれ ばはなはだ興味深 い ものがあ る。

C.中

朝 。西朝

  

中朝 は天平

2年

(正月 7日 節宴), 西 朝 は霊 亀

3年

(隼人奏幻 にそれぞれ

1例

ずつみ え る。「 朝」 は朝 堂 と解す るのが 自然 で

,隼

人 の奏楽 は朝堂 でお こなわれ るのが通例であ る。

d.太

政 官 院 と朝 堂

  

太政 官院 は

,の

ちに のべ る弁官曹 司を含 む太政官 の官衛 であ り

,ま

た太 政 官坊 とも よばれ る。 (続紀宝字元・7・ 戊午)

太政 官院 は大嘗 の斎事 のお こなわれ る場所 で もあ り

,淳

仁 。光 仁・ 桓武 のいずれ の時 もここでお

続紀天平9・ 6・朔 日条 に「廃 朝す

,百

官官人疫 を患 らるるを以 てな り」 とあ る。 この朝儀 は告 朔 の ことであろ う。

福 山敏 男 は これを大種殿間関 と同一 に考 えてい る

,そ

の用例 の差 果 に着 目す るな ら,いかがである

うか。『 大 極殿 の研 究』p.25

(9)

第Ⅶ章

 

こなつた。

 

平安宮では

,朝

堂院 (八省院

)に

斎場を造 るのが通例で

貞観儀式には微細にわたつて その儀式次第が記 されている。 したがつて平城宮では朝堂 とな らんで

,大

嘗の斎事を行 うかな りの 規模の太政官院一郭が存在 していた と推定 され

,平

安宮古図に よつて知 られる太政官の規模 とは相 当異なつていた もの とお もわれる。いずれ も長岡宮の例であるが

,太

政官院に百官の朝座が設け ら れ

,そ

の周囲に築垣がめ ぐらされていたことな ども(続紀延暦5,7・ 丙年

,同

4・ 8・ 乙酉

),平

城宮の太 政官院の規模・機能を知 る上に参考になる。その位置はあ とにのべ る弁官曹司を含む ものであるか

,朝

堂の東南にあつた ものであろ う。

内裏 はい うまで もな く

,天

皇 の常 の御所 であ る。 しか しそ れ は単 な る天皇常住 の殿舎 ではな く, 後 にみ る よ うに 授位

,賜

,外

使接見の行われ る政治 の場所 で もあつた。続紀

,万

葉集 な どに「 内 裏」 と記 さ れ る ほ か

,「

御 在所」 「中宮」「 中宮安殿 」「 中宮院」「 中宮西院」「東 院」「東 内」

「東常 宮 (南大殿)」 「 西宮前殿」「西宮寝殿」「 内南安殿 」 な どとみ えてい るもの も

,内

裏そ の も のの別称

,或

は 内裏 内の殿舎 を示す とお もわれ る。 これ らの個別的な検討 はす でに関野貞が『平城 京 及大 内裏考』 に よつ て一応果 してい ることであ るが

,個

々の点につ いては異論 もあ り

,近

来 の発 掘 の進 展 で得 られ た新知 見 もあ るので

,今

一度それぞれ の用例 を検討 し

,な

かで も各 々が どの よ う

な関係 にあ るかを中心に

,問

題 を整理 しつつ述べ てみた い。

a。 中宮 と内裏

  

中宮 は養老

7年

を初見に

,勝

6年

に至 るまで都合22回 続紀にみ え る。*こ の うち

3例

を除 く19例 は

,天

平12年 正 月以前

,す

なわ ち恭 仁遷都 以 前 に 限 られ る。そ の19例 につ いて利用内容 を検討す る と

,授

,賜

,春

客献4/J,読 経 な ど種 々の行事 に使われ てい るが

,そ

中で 目立つ た傾 向 として

,天

平元年以降元 日の賜宴に

6度

使 われ ていて

,そ

の画一的な利用がみ ら れ るのであ る。 中宮 の宴 は侍 臣に賜わ る ものであ るが

これ と対 をなして

,そ

のほか の五位 以上お よび蕃客 は朝堂 で饗せ られ る。元 日の饗宴に際 して賜宴 を うけ る身分 に よつ て中宮 と朝堂が使いわ け られ てい るの であ る。 この よ うな一般 的な中宮使 用例 か らす れ ば

,恭

仁京 か ら還都後 の3例はい ずれ も特殊 な ものであ る(読経2,宮子崩)。

ところが天平18年 以降は上にのべた よ うな用例 の中宮 は記録 上か ら消 え

,か

わつ て内裏 の用語が 一般的にな る。天平12年 以前 に も内裏 の用語が全 くみ られ ないわけではないが

この例 はわずか 5 例 で しか も特 殊 な用例 な ので あ る。

**恭

仁遷 都 を境 に

,内

裏 関係 の用 語 に中宮→ 内裏 の変化 がみ ら れ るこ とは興 味深 い こ とであ る。御在所 の意味 もこの時期 以前 は 内裏 と同義 に用 い られ てい るのに 対 し

以後 は一時的 な行宮御在所 の義にかわつ てい る。

***続

紀 の編纂者が用語を統一す ることな

,以

前 の記録 をそ の まま採 用 した1つの例 であろ う。

中宮につ いては

これを宮子皇太夫人 の御所 とす る説 もあ るが

,****上

の用例か らす るな らば,

内裏 と同一 の機 能 を有す る殿舎 とすべ きであ ろ う。後 にみ る東 院・ 東 内。東宮 。西宮に対 して宮城 内中央 に位す るこ とか らよばれた「 内裏」 と考 え るべ きであ る。

求 「 中宮院」5,「中宮西 院

Jl,「

中宮供養院J llま 含 まず。

*キ

 

神亀元 (大嘗賜宴), 神亀3(玉来生ず), 天平 元

(光明立后宣 勅),天3(政務 に関す る宣勅),天 平9 (新羅使不ネしにつ き官人 に意見 を陳べ させ る)。

+続

紀神 亀

3,3・

辛 巳条

,天

平元 。3・癸 巳条,

天平12・ 9・戌子条 にみえ る御在所 は内裏 と同義 で あ り

,感

宝元・ 闘5。丙辰条,勝 宝4・ 4・ 乙酉条,

宝字5・正・ 丁西条 では

,御

在所 をいず れ も一時的 な天皇居所 の意 に使つ てい る。

**十

 

大 井重二郎「平城宮 の中宮

,皇

后宮 と西宮につ いて」 (大和文化研究4‑4)

中宮

(10)

中宮院

東 宮

東 院

東 内

平城宮発掘調査報告

 

b。 中宮 院 と中宮

  

中宮が恭仁遷都以前に特徴的 な「 内裏」 の称呼であることを のべたが

,中

宮院 は逆 に 天 平17年 以降 に のみみ られ る ものであ る。す なわ ち天平17年 5月 平城還都に際 して

,御

在所 とした ところが 中宮院 であ るのを初見 として

,そ

の後

5例

み えてい る。 この うち天平18年 正月 に太上天皇 (元

)の

御在所 を中宮西院 と呼んだ例 (万葉集

)を

除 けば

,残

りの

4例

が全 て宝字

6年

5月 以降 の

,淳

仁天皇 の御在所 として示 され てい る点 は きわ めて特徴的であ る。そ こで考 え られ る こととよ ① 中宮院がみえ るのはいずれ も平城宮が改造 中

また は改造 を要す る落着かない時期 であ るこ と。(2)中宮 の如 き「 内裏」観念がそ こにはみ られず

,朝

儀・ 賜 宴が催 され る こ ともな く

,全

く天皇 の御 在所 のみになつ て

,機

能的に縮少化す る傾 向がみ られ ることであ る。

C。 東 宮 。東 院・ 東 内 。西宮

  

東 宮が皇太子 の居所 であ ることは

,東

宮職 員令にHrl示され てお り続紀 の唯― の事例

,神

5年

8月丙戊条 の「東宮」 も

,基

王 の居所 であ ることか ら問題 はない。

そ して

これ が天皇 の御在所 に対す る方角か らよばれ た称呼 であ るこ とも

,東

宮職 員令集解 の「御 子 の宮

,御

所 の東に在 る故 に東宮 と云 う也」(穴

)な

どに よつ て明 らかであ る。

東 院 は続 紀 勝 宝

6年

正 月7日 (五位以上賜宴

),神

3年

正 月18日(宣

),同

2月14日(出

雲国造神賀事), 同年4月14日(東院玉殿新成

,群

臣乗集), 景雲

3年

正月17日

,景

4年

正 月8日 条(次侍従己上賜宴)と

6例

み え るが

これ らはいずれ も孝謙 。称徳朝 の ものであ る。そ して孝謙朝 よ

りは称徳朝 に多 くみ え るが

東 院玉殿が称徳朝に新造 され

そ の利用 の仕方 も

正 月節会 の侍臣 (或は次侍従

)以

上 に対す る賜宴 な ど

,か

つ ての中宮

或 は後 の内裏 の機能 と全 く同 じであ ることな どが注意 され る。 なお この東院が宮城 内に存在 したか否 か は東 内・ 東院を含 めて問題 とな るが

,宮

城 内 と考 え られ る理 由は次 の とお りであ る。

続 紀 では天 皇 が宮城 内の殿 合に 出御 の時 は「御」 と記 し

,宮

城 外に 出幸 された場合 は「幸」 と記 して使 いわ け るのを一応 の原則 とした らしい。*東院 で「幸」 としてい るのは

,神

3年

2月14日の 出雲 国造神 賀 事 奏上 の

1例

のみで

,他

はすべ て「御」 とす る。 国造神賀につ いて続紀で奏上 の場所 を明記す る ものが他に

1例

あ り(勝2・2o癸

), 

この場 合 は大安殿 であつた。

 

したがつ て

,先

1例も内裏 乃 至 内裏 関係 の殿 舎 で行われた とすべ く

,東

院 を宮城外に求め る必要 は認 め られ ない。

東 院 に関 しては事 例 中唯 一つ

孝謙朝に属す る勝宝

6年

正 月7日の記事 が

万葉集 e301)の詞 書に もみ え る。

 

これ には「7日

,天

皇太上天皇 (聖

)皇

太 后 (光明子), 東 常 宮 の南 の大殿 に在 り て卑宴す る歌 」 とあつ て

,東

院が また東 常 宮 ともよばれ た ことを しめ している。東常宮が さきの皇 太子 の居所 東 宮 に通 じる ものであ り

,孝

謙 が聖武太 上 。光 明皇太 后 とともに東常宮に在 つ て

,正

月 節宴 に奉 歌 を うけ てい る様子 は

皇太子時代 の居所 (東

)を

即位後 も常 の御所 とした ことを想像 させ る。そ して称徳朝 には さらに これが改修発展 して

,の

ちに のべ る西宮 とともに

,内

裏 の一翼 を にな うにいたつ たのであろ う。 なお平城宮 の東宮殿舎 は

,和

7年

に立太子 した元 明 。元正朝 の首 皇子 (聖

)に

まで さか のぼ るものであ り

おそ ら く霊 亀か ら養老にかけ ての時期 に造 営をみた の では なか る うか 。**

東 内は続 紀 景雲元年12月 乙西条 (造東内次官任命), 同

3年

正 月丁丑条(御東内始行吉祥悔過

)の 2例

のみで

,称

徳 朝 に のみみ え る。景雲元年か ら

2年

にかけ て造 営が行われれ

, 3年

正月にいたつて竣

天皇が宮城 外 に出幸 された場合 は例外 な く「幸J

であ るが

,「

御」 は必 ず しも宮城 内 とは限 らない。

例 えば天平14・ 2・

,皇

后宮に幸 した あ と, 3月 20日には皇 后宮 に御 して五位以上を宴 してい るな ど

′θB

の用 例 もあ る。

 

東宮 を内裏 内殿舎 とす る ことは当時 の皇太子 の珀 位 を考 え る と無理 であろ う。

(11)

 

工 した東 内においては じめて吉祥悔過を行なつた ものであろ う。*東内 と東院の関係は不 切 とす るは かはない。

西宮は称徳朝にのみ固有の宮殿であつて

,続

紀に よると5例みえる。**これ らの利用例をみれば,

最桝の例は元 日朝賀に際 して

,天

皇が西宮前殿に出御 したものであるが

,元

朝の常例は大極殿 出御 であ り

もし大極殿が存 しない場合は廃朝 され る前例があるか ら,***これは前後にそ の例をみゑ特 殊なものである。その他の例は

,さ

きの東院 と比較すれば

,や

や奥向きの行事に利用 された もの と 解 され

,法

王道鏡が大臣以下の元 日拝賀を西宮で受けているのも「内裏」 としては副次的な もので あつたか らであろ う。道鏡の法玉宮においても節 日に賜宴が行われていることか ら考 えれば

,称

徳 朝における西宮は

,機

能的に東院 と法玉宮の中間に位す るものであ り

,称

徳崩御 の場所が西宮寝殿 であることも

これが さきの中宮院 と似た性格のものであつたと推定する理由となろ う。

なお

,そ

の宮城内の位置は関野貞のい うように

,宮

城内西方に「大 り宮」 の字名を残すあた りと 考えられ るが

,ま

た内裏 として拡張発展 した東院に対 して

,か

つての中宮院が

,西

宮 とよばれた と

も考えられ るか ら

どちらか決しがたい。

d,大

安殿 。中安殿・ 内安殿・ 内南安殿

  

これ らがいずれ も内裏内殿舎を指す こと

,大

。中・

内がそれぞれ平安宮内裏の紫庚殿・ 仁寿殿 。常寧殿に比定され るとす る通説は妥当な解釈 とお もわ れ る。 これ らの うち

内南安殿は勝宝

7年

8月13日の癖宴の場所 として

万葉集 (4452)の詞書に みえるもの。大安殿は続紀の神亀

2年

以降の例にみえるが

うち

3例

は天平14年正月か ら17年正月 のすなわち恭仁・ 甲賀宮にかかわ るものである。なお勝宝

2年

元 日の朝賀 と

,同

年 2月 4日 の出雲 国造の神斎賀奏事 の

2例

,当

時滞在中であつた難波宮の大安殿であるか もしれない。残 る

4例

は 確実に平城宮のもので

冬至 難 宴

1,踏

歌宴

2,無

遮大会1(天17。 8。 15,平 城退都の直後

)な

ど 多 くの節宴に使用 され ているが

,恭

仁・紫香楽宮においても七 日宴 名 踏歌宴

1,な

どに使用 され ている。 したがつて

,大

安殿で行われた元 日受朝は特例に属 し

,大

安殿を大極殿 と同一 とす ること はできない。中安殿は元 明太上崩御 の場所 としてみえるのが唯― の例であつて

これがのちに仁寿 殿に相当す るとい う通説の重要な根拠をなしている。内安殿は

,養

5名

神亀

4年 ,宝

3年

,

4年

の4回みえるが (続

),養

5年

の伊勢斎内親王任命を除いて

,い

ずれ も重要事態にのぞみ,

主典以上の官人を集めて詔勅を賜わ り

,あ

るいは授位を行つている。 この ように

,機

能的にはむ し ろ「大極殿」に相当す るが

,や

は り内裏 内殿舎 とすべ きであろ う。

ところでこれ ら内裏内殿舎 とお もわれ る安殿関係の記事は

,大

安殿は勝宝

6年

まで

,内

安殿は宝 字

4年

正月まででな くなる。 これを宝字年間の内裏改修に関係づければ

,大

安殿・ 内安殿 。中安殿 はいずれ も宝字以前 の旧内裏にかかわ るものであろ う。宝字の改修以後で大安殿 (南殿

,正

殿

)に

相 当す るものは「前殿」である。 ここでは宝亀

7年 8年

の元 日の宴

,16日

の節宴

,遣

唐使節刀賜与が 行われてお り

前後の記事に徴 して

,「

内裏」 の前殿であることは切らかである (別5参)。 称 呼の上か らいえば

,さ

きにみた称徳朝 の西宮前殿にそ の系譜をひ くものであろ うか。

 

吉祥天悔過 の ことは景雲元,正・乙未条 に諸 国国 分寺において正月8日か ら7日間 お こな うべ き こと を命 じてい るのを初見 とす るが

,宮

中にお いてお こ なわれた最初が さきの景雲3年正月 の も の で あ ろ う。東 内は宮城 内閣過 道場 として造営 された もので あろ うか。

** 

宝字9・ 正・ 癸 巳条 (前殿

,受

), 神護

3,8

・ 乙酉条 (寝殿,設 斎),景2・11・ 壬辰条(前殿,

新嘗窒楽),同 3・正・ 壬 申条(前殿

,法

王道鏡 に拝 ),同 4・ 8・癸 巳条 (寝殿

,称

徳 崩)

*特

 

別表5参照。

西 宮

内裏内殿舎

(12)

大蔵省

南 苑

平城宮発掘調査報告

 1

 

 

a。 (太政官

)弁

官 曹 司

  

宝 字元年7月庚戊条 と宝 亀3年12月乙亥条にみえ る。後者は さきに宮城 門 の ところで のべ た よ うに

,弁

官曹司の所 在を推定 し うる貴重 な記事 であ る。す なわ ち

,弁

官曹 司 は

,宮

城東 面南端 の的門に通ず る路に南門を開 き

,朝

堂東 回廊 のほぼ中央部 に接 してそ の東側 に位 置 していた。 この位置 は平安宮 内の太政官 とほぼ一致す る。

b.中

務南 院

  

勝宝

5年

正 月癸卯条にみえ

,元

日賜宴 に使われ ている。普通一般 の元 目宴は,

内裏 あるいは朝 堂 が用 い られ てい るか ら

,こ

の場合 は特例 であ る。

C.武

部曹 司

  

宝 字

5年

正 月丁酉条にみえ

,小

治 田宮か ら還幸 なつてぅ

 

ここを御在所 とした と あ る。当時平城 宮が改作 中であつたための処置であろ う。

d。 大蔵省 (節部省

養 老

5年

・ 天平10年 。宝字

8年

。宝 亀3年・ 同6年 。延暦元年 の

7例

み え る。位置を直接 示す ものはないが

,宮

城 内

,宮

城外 を判定す る一つ の手がか りとして

,さ

きに も使 つ た「御」「幸 」 の用字を検 出す る と

,天

平10年 が「御」 とあ り

,宝

亀3年 。7年 の ものが 「幸」 と なつ てい る。わず か の例 であ るが

,い

ずれ も平城宮改作前後 の安定 した時期 の ものであ り

,朝

堂 の 移建 に よつ て官衝 の配置 が え も行われた と推定 され るか ら

,天

平 頃 に宮城 内に存 したのが

,宝

亀に 宮城 外へ移建 され た のではなか ろ うか。 なお

,倉

には雙倉・ 長蔵 な どの種類があ り

,「

北 行東第二 雙 倉」 とあ る こ とか らす れ ば

,南

2列

以上 に並 んでいた の であ ろ う。

e。 そ の他 │■

lt学 僚 雲元 。2・ 丁亥)・ 左右兵庫 (天平元・4・)。兵 庫南院東庫 (天平元 。12・庚 成)。 図書寮 (宝8。 10。 壬申)。 図書蔵 (宝字元・7・ 庚成)・ 靭 負御 井(宝3・ 3・ 甲申

)な

どがみえ る。

この うち大学 は「幸」 とあ るか ら宮城外 らし く

,図

書寮・蔵 は明 らかに宮城 内であ るが

,そ

のほか

は不 切であ る。

  

  

a。 南苑 (南樹苑

南苑 は続 紀神 亀

3年

3月 幸巳条を初見 として

,天

平19年 までに16回 みえ る が

,天

平末年 でた え ることは

,恭

仁遷 都以前 の平城 宮にかかわ る苑 であ るこ とを示 してい る。天平 19年には

,本

来 内裏 あ るいは朝 堂 な どで行われ るべ き元 日宴会 の他

,授

位 。騎射 。仁工経講読 な ど に用 い られ てい る。 これは恭 仁遷都に よ り荒廃 に帰 した内裏・ 朝堂が

,遠

都後 まだ使用 にたえなか つ たための臨時禾1用と考 え られ る。 これを除 く天平12年 まで の南苑用例 をみ る と

,冬

至 な どの節宴

8回

そ の他

3回

であ る。関野貞 は南苑 を宮城 内の中央都

,内

裏 の南域 に比 定 され たが

,節

宴 の内容 か ら今 少 し小規模 な もの と考 えて よいのではあ るまいか。南樹苑 と別称 され

,曲

水宴 に も使われ て い るか ら

,水

に関係 あ る場所 であつたのであろ う。 あえて南苑 の位 置 を求 め るな らば

,中

央 内裏 と 朝 堂 の間

,あ

るい は場所 は不 明だが

,同

様 な こ とに使 用 され る松 林苑 の南 であ ろ うか。天平19年 以 後 に南苑がた え る こ とは

,以

後 の宮城 内改造 でち

 

この地域 が他 の ものにかえ られたためであろ う。

b.松

林苑 。松 林 宮・ 北 松 林

  

天平元年 3月 癸 巳条を初見 に,い ずれ も天平年間に5回み え る。

曲水 の宴 に

2回 , 5月

5日騎射宴 (端午節句

)に

2回

正 月17日 (大射宴

)に

1回使 用 され てい る。

さきの南苑 同様 の機能 を もつ た苑 で

,泉

水 のえ られ る場所 であつ た ろ う。北 松林 とあ るか ら内裏 の 北 方 であ る こ とは まちが いな いが

,宮

城 内であ るか否 か は不 明 であ る。 この苑 の記事 が天平年間で 限 られ てい るのは

,南

苑 と ともに注意 をひ く。

C.そ

の他

  

西 池宮 (天10・7・ 癸酉

),蔦

池塘 (神5。 3・ 己亥), 内嶋院 (宝8・ 3・ 乙卯

)な

がみ え るが

これ らの位置や実体 はあ きらかでない。

′′0

Fig 27  平城富周辺条労復原図 キ   現地形 で認 め られ る三条大 路跡 の 水 田は ,  平城宮 に接 す る部 分 では ,南 北幅 が特 に広 く 170尺 ほ どで あ り ,東 一坊大 路跡 よ り束 側の水 日では 160尺 ほ ど になつてい る。宮正面 のみは広 くされていた よ うで 路 中′ いよ り三条 大路北縁 までの距離 を求 めれ ば 3483.1尺, これを換算 して3562尺 とな る。三条大路 中心が地害↓線 とす る と1800×2‑3562‑38(尺 )差

参照

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