V
法隆寺の子院 に就 いて 付
僧 房 の規 模 と子院 の発 生
法 隆寺 が建 立 され た当時
,法
隆寺 に止住 す る僧 侶 が どの よ うな建 物 に住 み,
どん な生 活を して い た か を物 語 る資料 は ま った く残 され て い ない。法 隆寺創建 時 の伽 藍跡 とい う若 草 伽 藍趾 の発掘 の結 果 も
,僧
侶 が居住 す る僧 房 の遺構 は発 見 され てい ないが,奈
良 前期 に再興 した とい う現 西院伽 藍 には四棟 の僧 房 が存 在 して い た こ とが天平 19年 (747)の 『法 隆寺 資財 帳 』(以下『資財 帳』とい う
)に
よっ て明 らか となってい る。一 口長十七丈 五尺
広 三 丈 八尺
一 口長十八丈 一尺
広 三丈 八尺 僧 房岸 口
̲口
長十五丈 五尺広 三 丈 二尺 一 口長十丈六尺
広 三 丈 六尺
この記録 か らは それ ら僧房 の内部構 造 な どを想像 す るこ とは不可能 で あるが
,現
伽 藍倉」建 以 来 の追構 で あ る「東室」 が『資財 帳』 記載 の僧 房 四棟 の うちの「一 日長十七 丈 五尺 広 三丈 八尺」 にあた るこ とが解体修 理 の結 果 明 らか となってい るので
,そ
れ を基 準 と して 他 の三棟 の規模 を想定 す るこ とが可 能 で あ る。昭和32年 か ら同35年 に行 われた東室 の解体修 理 によって
,部
分的 で は あ るが,創
建 当初の構 造 に復 元 して い る。 それは内部 北 よ り第二房
,第
二房 に見 られ,桁
行 二 間 を一 房 と し て仕 切 り,方
二 間 の母屋 と東西 の庇 か らなって い る。 これは,奈
良時代 の僧房構 造上 の基 本 的 な もの とい われて い る。創 建 時 の東室 には先 の構 造 を もつ房 が九房 あったか ら
,『
資財帳』 記 載 の残 り三棟 の僧 房 も東室 同様二 間一房 と仮 定 す れば,「
長十 八丈一尺広 三丈 八尺 」 の もの は
8房
か ら9 房,「
長 十丈 六尺広 三丈 六尺 」 の もの は
5房
か ら6房
あった こ と とな り,東
室 の9房
と 合 わせ て30房 か ら32房 が存 在 した もの と想定 され る (これ は昭和55年 度 の発掘 に よって】し 僧 房 の追構 の一部 を大講堂 の東 で確 認 してい る)。『資財 帳』作成 時
,法
隆寺 には176人の僧 と沙 弥87人 の計263人が止住 して い たの に照 ら し合 わせ る と, 1房
に平均8,9人
が住 んで いた ことになる。 この一房 に対 す る住 僧 数 は, 大安寺 な どの諸大寺 とほぼ等 しい居住 密度 で あ る とい う。この
4棟
以外 にイ曽房 が存 在 した とい う記録 は見 あた らないが,現
存 す る妻室 (月ヽ子 房)の解体修 理 の結果
,平
安 時代 を下 るもので は ない こ とが半」明 した。小 子房 は東室 の大房 に付 属 す る もの で
,上
代寺 院 の僧房 は大房 と小 子房 を一 組 とす るの が通例 とされてお り,妻
室 は その追 例 と して は なは だ貴 重 な建 物 で あ る。 お そ ら く『資財立早
帳』作成以後
,
きわめて近 い時期 に建 て られた もので あろ う。東室 と妻室 の関係 は,東
室 の大房 に上位 の僧 が住 み,妻
室 にはその従僧 が住 む もので あった と考 えられている。ところが平安後期 になると
,僧
房 は連続 して惨事 に見舞 われて い る。北 室 は延 長3年
(925)雷人 によって講堂 とともに焼失 し,西
室 も承暦年 中 (1077〜80)に
焼失,東
室 は康和
3年
〜天永元年 (1101〜10)に
ことごとく顛倒 し,法
隆寺 の僧房 は70年余 りの間 に全減 している。 その うち東室 が保安2年
(1121)に再興 されたが,そ
の再興 は旧姿 に復 した も のではな く,南
端3房
分 を聖霊院 (聖徳太子 を安置 し供養 す る殿堂)と
し,残
り6房
のみ がイ曽房 としての復興 であった。記録 の上 で
,僧
房 としてその役割 をはた していたのは,再
興 した東室6房
および小子房9房
と東院付属 の僧房 であ り,北
室 と西室 は再興 されていない。このよ うな状況下 において僧房 にかわる僧侶止住 の坊合
,い
わゆ る後世 の「子院 (塔頭寺院ともいう
)」が造立されつつあったものと考えられる。それを裏づける資料にはとぼ
しい が
,11世
紀 初 頭 の頃 か ら子院 ら しい名称 が諸 文献 に散 見 で きる。 お そ ら く一部 の住 僧 は法 隆寺僧 綱 所 の認可 を得 て寺地 の一隅 に坊舎 を構 え,僧
房 にお け る公的 な生活 に対 して 私 的 な生 活 を送 って いた もの と考 えられ る。子 院 が建 立 され た理 由 につ いて
,つ
ぎの よ うな推 定 がで きる。1 ‑定
の信任「 お よび教学 を振興 す る専 門 の道場 と して一 院 を構 えるこ とを目的 と した もの。2 1人
の高僧 を中心 と して,そ
の系統 の従イ曽が集 い,独
自の生 活 を行 うこ とを目的 と した もの。3
連 続 す る僧 房 の惨 事 によって,そ
の対応 策 と して僧 房 にかわ る雑合 が造立 され,そ
れ がや がで他 の諸大寺 において発 生 しつつ あった子院 の影響 を受 け
,
しだ い に子院 と し て進展 した こ と。4
身分 制 度 下 にあって,僧
侶 とな るため に高貴 な身分 の出身者 が増加 した結 果,僧
侶 個 人 の財 産 をもって一院 を構 え,一
種 の貴族 的 な生 活 を行 う傾 向 をみせ るよ うになったこ と。
発 生 当初 の子 院 は私的 な建物 で あったが
,僧
房 は七 堂伽 藍 の一 つ と して公的 な建物 とな っ て い た。 そ こに止住 す る僧侶 には と うぜ んい ろい ろの規則 条件 が あった と考 え られるが,その言羊糸田は判 明 しない。
『嘉 元記』 に
暦応二年昂五月二 日実願 □□□東室第二坊東浦 ニテ他界早於三面僧坊之室内他界之例無之候然 難為疾病之間不及力
,次
第之……とあ り
,僧
侶 の生 活 が子 院 に移行 したため僧房 で死去 す る例 が既 にな くなっていた こ とを 物 言吾っ て い る。子院名 の初 見
子院発 生 に関 す る資料 には とぼ しい が
,経
巻 の奥 書 な どに記録 す る院名 によって,す
でに平 安 時代末 期 には子院 が存在 して いた こ とを示 して い る。 それ らの資料 を列挙 す る と,
円城 院
当二東室】ヒ行 二半町̲在ェ木瓦葺堂̲三間一面也。 号二円成院̲。 万寿年中
雨二多羅葉̲所也
空 智聖人住 所
此寺寄=北槌地̲在=此堂̲云々 (『太子伝私記』下巻)
天治元年五 月十 日円城院書写 了 (『新撲字鏡』第十巻)
金 光 院
(承暦二年
)金
光院三昧僧等解申請法隆寺
政所裁事 (『法隆寺文書』)
】ヒ布印F]万言
保安四年八月十二 日
於法隆寺北御門房
書写 了千時
許筆師宗信為結縁助成往生極楽也 (『鼻奈耶巻』第一)
東花 園
大治二年四月晦 日申剋許書 了為減罪生善
僧覚厳
法隆寺東花園此校 了
尋乗 (『観 自在菩 薩輸伽論念誦儀軌』)
な どで あ る。 これ以外 にも存在 していた子 院 が あった と考 え られ るが
,そ
れ を伝 える資料 は ない。 しか し,13世
紀 にな る と,興
薗院 ・ 西 園院 。松 立 院 。北 室・地 蔵 院 。政 南院 。中 院 ・西福 院 ・ 宝光院 ・瓦坊 。法性院 。中道院 な どの子 院 が造 立 されていた ことが『別 当院』『嘉 元記』 などの記録 によって明 らかで あ る。
当初 の子 院 の様 子 は現状 と異 な り
,子
院 を囲 む築地 もな く坊合 のみで生囲 な どをもって 周 囲 をめ ぐら していた と考 えられ る。とこ ろが弘 長 元年 (1261)後嵯峨天皇 が法 隆寺へ行 幸 され るに当 って寺 内の大整備 が行 われ その一環 と しては じめて子院 の築地 が築 かれ た こ とが『別 当記』 良盛別 当の項 に,
諸房諸院築地 ヲ槌キタ ゝヒ悉覆之 とあ るこ とよ り明 らか となってい る。
した が っ て
,
その内 に建 つ坊舎 な ども全体 的 に きわめ て筒 素 な もので あ り,屋
根 も茅 葺な どの筒 素 な もので あった らしい。 それは
,法
隆寺 の別 当 が住 す る坊 の ことをと くに「瓦 坊 」 とよび,他
の坊舎 とは異 なって当時 と しては特別 の もの で あった こ とが推察 され よ う。『太 子伝 私 記』 下巻 に
「次 食 堂 東
有 瓦葺房
名 二解 脱房
̲
昔 者 別 当房 也今 者 只 人住 所也 。全喜ζ 」 と言E録して い る こ とか らも明 らかで あ る。
この よ うに して
,当
時 の子 院 の規模 は,
この瓦坊 や持 仏堂 を所有 して いた金光院 。中院中世 以 降 も これ らの子 院 は ます ます増 加 す る傾 向 をみせ
,政
蔵 院 ・安養 院・ 金 剛 院 。西南 院 ・阿伽 井 坊 ・椿 蔵 院 ・ 西 之院・ 知足 院 ・脇 坊 。弥 勒 院 ・ 多 聞院 ・ 湯屋 坊 ・ 明王 院 ・宝蔵 院・ 西坊 ・耳ヒ之院 ・仏鉤 院 。東倉 院 。発 志院 ・阿弥 陀院・橋 坊 ・福 園院 ・蓮池院 。法花院・善住 院・ 西東住 院 。中東住 院・東住 院・蓮光院 。文殊 院・ 十宝 院 。賢聖院・橘坊 な ど数 多 くの子 院 が造 立 され て くる。
これ ら子 院 の名 称 のつ け方 はつ ぎの よ うになって い る。
1.仏
教 の用 語 。本尊名 よ り命名 した もの金 光 院
円成 院
普 門院
中道 院
法 花院 阿 弥 陀院 弥勒 院 地蔵 院
多聞院
文殊 院
2.子
院 の敷 地 の従 前 の地 名 お よび従 来 その他 にあった建 物 か ら命名 した もの 東 花 園院 (花 園 の旧地)
`政 南院 (政所 の南 隣 の旧地)
政蔵 院 (政所 の蔵 が建 って い た ところ)
宝蔵 院 (宝蔵 の旧地)
東倉 院 (宝蔵 の東 か或 いは東 の蔵 が あった ところ)
3.子
院 が建 て られ た方位 か ら命名 した もの 西 南院 (法 隆寺 の西南 に位 す る子 院)西坊 (法隆寺 の西 に位 す る子 院)
東住 院 (法隆 寺 の東 に位 す る子 院)
西東住 院 (東住 院 の西 に位 す る子 院)
中東住 院 (東住 院 と西東住 院 との中間 に位 す る子 院) 北 之 院 (法 隆寺 の北 に位 す る子院)
脇 坊 (法隆寺 の東 南脇 に位 す る子 院)
4.子
院 で行 われ る専 門教学 よ り命名 した もの 明工 院・金 剛 院 (と もに真 言密教 の道場)子院 の制 度 に就 い て
南 都 諸大寺 お よび高野 山 の寺院機構 におけ る僧侶 間の身分制度 の中 に「学侶」 と「堂衆」
とい うの が あ る。 この制度 の内容 につ いては各寺 院 ご とに異 な るもの と考 え られ るが
,共
通 して い る こ とは
,学
侶 を上位 と し,堂
衆 をその下位 と して い る こ とで あろ う。この制度 がいつ ごろか ら発 生 した かは詳 かで ないが
,法
隆 寺 で は保 安3年
(1122)の「林 幸一切 経 書 写 勧 進 状 」 の内 に「 当寺 禅 侶」 と記 載 して い るか ら,平
安末期 にはす で に生 じ て い た もの と考 え られ る。 それは禅侶 とい う言葉 が,後
世,堂
衆 の別名 と して使 われて い る こ とか ら想定 した もので ある。その他
,後
世 の堂 衆 の異称 となる「東寺」 の名 称 も康和 元 年 (1099)ごろ には生 じて いた よ うで あ る。 それは 『法華 文句』巻 第一 の奥 書 に
康治元年議六月廿 日本写 巳了
為レ令二法久住決定往生二安養浄刹̲也
法隆寺住僧東寺末葉沙門 覚F口
為レ之
と記載 して い るこ とか らもわか るが
,そ
れ らが後 世 の堂衆 を意 味 す る もので あ ると断言 す るに至 る確 固 た る資料 とは い えない。 しか し嘉 禎4年 (1238)ご
ろ,顕
真 が編 した 『聖徳 太 子伝 私 記』 の年 中行 事 の頂 に「学衆」,「禅 衆」 の こ とを明記 して い ることか ら,
この制度 は12世 紀 頃既 に成 立 して いた こ とが明 らかで あ る。
学侶 は別 名 「 学衆」 とよび
,顕
密 二教 の学行 を専 らに して,主
に講経 論談 を修 学 す る学 問僧 とい う。 その うち三経院 で唯織 を研 鑽 す る学 問僧 を「口佐織 講衆」 といい,聖
霊 院 で真 言密 教 を修 法 す る僧 の こ とを「本供養衆」 と呼ぶ制度 も鎌 倉 中期 に生 じた とい う。堂衆 とは別名 「堂 方」 「禅衆」 「夏衆」 とよび
,行
事 を専 らに して,夏
は堂 に籠 って安 居禅行 を修 し,仏
前 に香花 を共 して法要 の承仕 を司 る僧 の こ とをい う。 その うち,行
を専と して主 に西 円堂 。上 之堂 の堂 司役 な どを勤 め る系統 の僧 を「行 人」 とよび
,律
を専 と し て主 に上 宮王 院・ 律 学院 の堂 司役 な どを勤 め る系統 の僧 を「律 宗 方」 とよぶ制度 があ る。この制度 も中世 以 降 に生 じた もので あ り
,こ
れ らの行律 の一高 の こ とを「両戒師」 といい,行 人 の一 扇 を「夏 一 戒 師」
,律
宗 方 の一南 を「 院主戒師」 とよんで い る。右 にのべ た学侶 ・ 堂衆 の意味 は この制度 が発 生 した ころの もので あ るが
,時
代 が移 るに した がって その意 味 内容 も複雑 な変遷 をみせ,や
がて学侶 が法 隆寺 全体 を支配 す る制度 に まで進展 す るの で あ る。 しか もこの僧侶 間 の制度 は僧侶 が居住 す る子院 にまで影響 をおよ ばす こ とにな り,「
学 侶 坊」 「堂衆坊」 「7RTf坊 」 の寺格 区分 が生 じ,法
隆寺 の機構 に と って重要 な制度 の一 つ となって くる。この制度 が発 生 した ころの状況 を知 ろ うとす ることは
,資
料 に とば しく非 常 に困難 で あ るが,『
太 子伝 私 記 』 の年中行事 の項 に見 られ る記録 か らは,後
世 の よ うな きび しい両者 間 の区分 は あ ま り感 じられ ない。室 町時代 にな る と学侶 上位
,堂
衆 下位 の傾 向 が い っ そ う強 ま り,徐
々 に両者 の対立 は激 しさを増 す こ とに なった。 それ を裏 づ けるもの と した,永
享7年
(1435)の南 大 門焼 打事 件 が あ る。 その事件 につ いては 『古今一陽集』 の南 大門 の項 に,永享七年正 月十一 日晩
依禅学之静
南大門焼畢
同十一稔新造畢央
又視綱所 日記永享六年 正 月十 日夜焼却畢堂家之所以也
為失心経会於面 目
とあ り
,南
大 門 の焼 失 年代 につ いて二 つ の説 が あ るが永享7年
を正 説 と して い る。 その焼 失 原 因 は学侶 ・堂衆 間 の争 い によって堂衆 が焼 却 した もの とい う。 この よ うな惨 事 は突如 起 きた もの で は な く,そ
れ以前 か らすで に両者 は険悪 な状況 下 にあった と想定 され る。また
,享
禄3年
(1530)の『坊別並僧別納 帳』 に「学侶坊」 「堂衆坊 」 の区分 がみ られ,各 子 院へ の支給 高 も明確 に記録 してい る。
学侶坊 別分次 第不 同 一貫 文
政蔵 院
宝光 院
安 養 院
瓦坊
金剛院
地蔵 院
西菌院
西南院
中院
阿伽 井坊 椿蔵 院
花 園院
西 院
知足坊
脇 坊
弥勒 院
多聞院
金光院
普 門院
宝蔵 院 五百 文
湯屋坊
松立院
明王 院 一貫五百文
北室寺 学侶寺僧別分
(長乗以下34名の学侶名 を記 し
,お
の おの200文宛 となってい る。)堂衆坊別 五百 文
西 円堂
太子 堂
宝性 院
西坊
】ヒ院
仏飾 院
政南院
東倉院
発 志 院
阿弥陀院
中道 院
橋 之坊
福 園院
遵池 院
法花院
善住 院
西東住 院
中東住 院
東住 院
蓮光院
文 殊 院
賢聖院
橘坊
一貫 文 十宝院 堂衆寺僧別
(実春 房 大以下25名と大外 の学禅房以下46名が記 され, おの おの に百 文宛 となってい る。)
当 時 47ヶ 院 が あ っ た こ と が半J明 し
,学
侶 ・ 堂 衆 の 区 分 が完 全 に生 じて い た こ と を物 語 っ て い る。学 侶 の子 院 は主 に西 院 側 に あ り
,堂
衆 は「 東 寺 」 と総 称 す る風 習 が平 安 末 期 に生 じて い たであろ うことは,先
にのべ た通 りである。しか し当初敷地 の区分 は後世のよ うに完全ではなかった らしい。 それは金光院 が東寺側 にあ りなが ら学侶坊 で あ り
,阿
弥陀院 が西寺側 にありなが ら堂衆坊 で あったことが,先
の『坊別並僧別納帳』よ り明 らかであるが,ま た
,享
禄4年
(1531)の『坊別並僧別納帳』 に は学侶坊 ・堂衆坊 の区分 はなく,各
院 とも同等 に記 し,僧
侶 については学侶42名,律
宗方 82名と両者 を別々 に記載 している。おそらくこれは当時,学
侶坊 。堂衆坊 の区分 が完全でなかったことを意味 しているのであろ う。
このよ うな状況下 において
,織
田信長はついに西寺 。東寺 を各別 とす る方策 を講 じるこ ととなった。 その事情 を伝 える文書 に,今度法隆寺西寺東寺申分相尋候処
西寺仕様相掠狼藉段曲争候
薙然片方打果候而茂惣寺滅亡候 条
所詮今度東寺破却卦目当
西寺江申付
其以後之儀者
両寺為二各別
̲
何レ茂相立候様堅ク 可レ被二申付̲事
専一仁瑚
'緩
々ノ儀不可レ有レ之候也
六月十二 日
信長
御朱即 筒井順慶
当寺事従二先 々
̲
西東諸色雖レ為二混合̲
於三自今以イ処 者吼 為二各房L
次東之寺領所 々散在等 永代不レ可レ有卦目違̲
然而為二西寺段銭̲以下恣令二取沙汰̲之儀堅可二停止̲
猶以令二違乱̲者 可レ加二成敗̲也拇状如レ件
天正式十一月十 日
信長
御朱F「
法隆寺東寺惣中
とあ り, この分離 を施 行 した年代 の明記は ないが
,後
者 の文書 に天 正2年
(1574)と 記 し て い るか ら,天
正2年
に施 行 した と考 えて よかろ う。 この分離策 によ って,両
者 間 の対 立 が い くぶ んや わ らいだ か にみ えるが,従
来 の学侶 上位,堂
衆 下位 の制 度 は維 持 され て いた よ うで ある。この分離策 が どの範囲 にまでおよんでいたかは明 らかでないが, おそらく知行高の区分 や寺地 の分離 などの一部 分 であった と考 えられる。 それは従前通 り上宮王院 での行事の主 導権 は
,依
然 として学イ呂が掌握 していることよ り察せ られ るが,寺
地 の区分 があった こと を物語 る資料 として,高
さ約70cmほ どの石柱 に「従是東寺中境 内」 と刻 まれてお り,従
前 はこの石柱 が西東両寺 の境 界線上 に立っていた と思 われ るが,こ
の石柱 の旧地 が定 かでな いのが′階 しまれ る。この両寺 を各別 とす る策 は長続 きしなかったよ うで ある。 それは各 別策 を施行 した織 田 信長 が天正10年
(1582)6月
2日の本能寺 の変 による他 界 によってその策 も効 力 を失 った か らであろ う。 それ以来,西
東両寺 はたがいに和合 の努力を重ねた らしく,『法隆寺文書』に (天正10年7月23日
)「
法隆寺法FF有助外39僧連署・学侶堂衆和談之儀付条々」 とある 記録 か らも うかが える。このよ うに して
,両
者 は対立の時代 から和合 の時代へ と移行す る傾 向 をみせ,徳
川政権 下 にいたって完全 に学侶 の支配の もとに統一 されるのである。子院制度の確立
法隆寺の子院 は室町末期 か ら徳川初期 にいたって全盛期 を迎 えた とい うべ きであろ う。
徳川初期 (寛永年間
)の
法隆寺古図 によると,修南院
三宝院
北室寺
成福院
賢聖院
蓮光院
文殊院
持宝院
中東住院
西 東住院
金光院
金光院坊
発志院
福生院
林賢坊
釈迦院
金蔵院
地福院
菩 住院
清浄院
十宝院
蓮池院
法花院
橋之坊
福園院
宝寿院
和喜坊
普門院 華苑院
阿弥陀院
橘坊
西之院
明王院
威徳坊
安養院
松立院
政蔵院
宝光
院
東蔵 院
政 南院
瓦坊
仏鉤 院
中道 院
多聞院
福 智院
】ヒ之 院
弥勒院
知 足院
宝蔵 院
円成 院
椿蔵 院
閉伽 井坊
薬 師坊
薬 師堂
供 所
宝 性院
円明院 徳蔵 院
中院
三 階坊
福厳 院
西福院
薬 師 院
西 方 院
吉祥 院
湯屋 坊
西園院 地蔵 院
の68ヶ 院 を記載 して い ることか らも子院制度 の全盛期 を しの ばせ て いる。 しか し
,そ
の頃 の法 隆寺 の経 済 力 は けっ して豊 かで は なく,天
正 13年 (1585)の秋,豊
臣 秀長 の大和入 国 によって諸寺 の寺 領 は こ とごと く減 額 し,法
隆 寺 の寺領 もまた千石 に減 じられたので ある。天 正14年 (1586)の 『収納 米支配帳』 に,
一
五百三十八石一斗七升弐勺
寺辺
一
九拾 七石 玉手庄
一
三百六十七石八斗二升八合
安堵村 分米千石
とあ り
,
この知行 高は徳川政権下 になっても安堵 されている。学侶・堂方両者 の相違 は徳川時代 になって確 立 した ものではな く
,往
古 か らの申 し伝 え を法式化 して,そ
の掟 がいっそ う厳重 となった ものである。寛文
9年
(1669)の 「法式条 々」 には,学
侶 ・堂衆 ともども守 るべ き往古 か らの法則19 ヵ条 を列記 している。 その内容は法隆寺の年中行事 における学侶 と堂衆 の役割 などを詳細 にのべた もので あ り,主
に堂衆 に対す る厳 しい掟 を法令化 した ものである。 とくにその末 尾 の文 によると,堂
衆 は上宮王院観音堂 。聖霊院・西円堂 を学侶 よ り預 か り,朝
暮の勤行,香花燈 明の調達 を司 り
,堂
内の掃除 などを行 う役人 であるとのべ,つ
ね に堂衆 は学侶 の指 揮下 にあることを明記 している。そのよ うな身分制度 の きび しい学侶・堂衆 となる条件 は
,
とうぜ んの ことなが ら僧侶 の 里元の家柄 が問題 となって くるのである。往古 は種姓 の吟味 によって公家 な どの身分の高 い家筋の出身者 は学侶 とな り,そ
れに満たない家柄 の者 は堂衆 となるといった漠然 とした もののよ うであったが,徳
川政権下の封建制度 の確 立 に伴 い,そ
の条件 の法則化 が行 われ てい る。 それは享保4年
(1719)の『寺門天奏願記』 に,学
侶 について「学侶者公家又者 五代相続之武家種姓吟味之上旧取立者也」 と規定 している。これによると
,学
侶 に取 り立て られるには,公
家 もしくは五代以上相続 している武士 の 出身者であることが第一条件 とされ,五
代相続 の武家の出身者 は法隆寺学侶衆の評定集会 につ いてその家系 などを吟味 し,条
件 がかなえばは じめて認可 され るので ある。 それにた い して公家 の出身者 は,学
侶 の評定 を受けることは無用 とされていたとい う。このよ うな規定 か ら法隆寺 の学侶 となる者 は遠 国の出身者 が多 く
,近
在 としては幕末 に 郡 山藩 が若干 あるのみで,ほ
とん どは公家や岸和 田・尼崎 などの藩士の出身者であった。堂衆 につ いては「堂方者種姓吟味無之」 とあ り
,学
侶 のよ うに家柄 は重視 されず種姓の吟味の必要 はな く
,学
侶 の認可 さえ得 ればよかった とい う。このよ うに して
,学
侶・堂衆 となるにはその出身の家筋 によって左右 されたのであ り, 当時の封建的身分制度 が寺院 にもその影響 を大 いに及ぼ していたことを物語 っている。学侶 は法隆寺 のすべて においてつね にその主導権 を掌握 し
,堂
衆 はその支配下 にあった ことは各時代 を通 じて不変の法式である。 それは徳川時代 になっていっそ う強 まる傾向 を みせ,学
侶 の直轄下 に承仕 中間 (学侶 に仕 え諸行事 の雑役 を動 め る僧 の こと)と
専当仲間 (算主 ともいい,寺の雑務 を担当 した職 で,従
来 は下級 の僧侶 の役 であったが,徳
川時代 か らは在俗 の者 がその任 にあたっている。 この仲 間の中 には勾当 。都維那・納言師・専当な どの役割 があった)が
置 かれ,そ
れ らが従来 は堂衆 の役 で あった香花仏供 の調達,法
要のAff職
な どの雑 務 を司 ることとな り,堂
衆 の存在価値 はます ます薄 れる結果 となる。子院制度の崩壊
徳川初期 に隆盛 をきわめた子院 は
,中
期以降徐 々 に衰退 の きざしをみせは じめて くる。安政
3年
(1856)の 『 自公儀梵鐘取調記』 などによると,当
時の子院 は一様 に老化 してい たよ うであ り,
この期 に従来 の大和葺 などを瓦葺 に葺 き改 めた子院は崩壊 をまぬがれたが, それがで きなかった建物 は相ついで荒廃 していった とい う。この よ うな悪条件下 に拍車 をかけたの力朔 治維新で あった。 この変革 によって多 くの学 侶 が隠退 す るとともに
,子
院の建物 も老化 による崩壊 が続出 し,そ
れに伴 い学侶 。堂衆・承仕 の制度 も崩 れ る傾 向 をみせた。 この制度 はすで に寛政■年 (1799)の寺法 の大改正 に よって緩和 していたとはいえ
,い
まだ封建制 の風潮 は根強 く残 されていたのであ り,そ
の ためにもこの新時代 に即応 した完全 な寺法の改正 が必要 となったのは,当
然 とい えよ う。明治維新 に際 して隠退 したのは主 として学侶 で あ り
,寺
にとどまったのは,お
もに近在出身の堂衆 ・承仕 の住僧 であった。 このような状況下 か らも
,堂
衆・承仕 を学侶 に昇進 さ せ ざるを得 なかったのである。そのため
,明
治2年
10月 に寺法改正集会 を開 き,従
前 の学侶・堂衆・承仕 の階級 を撤廃 し,無
条件 ですべ てを学侶 に推挙 したのである。 しか しその ころの子院 の荒廃 ぶ りは激 し く,時
の塔頭寺院住職 は明治8年
から西円堂 御供所 に居住 し,倹
約生活 を行 なっている。このよ うに子院 の荒廃 がつづ く中
,役
所へ廃 院願 いを提 出す る子院 力>目つ いでいる。 そ れ を伝 え る記録 の中 に,子
院本来 の性格 を物語 る興味 ある記載 がある。それは明治
6年
8月 に廃寺届 を提 出 した西南院の書類 に「右廷宝年中建立英賛房私造二御座候」 とあ り, 子院の建物 は公的 なものではなく
,私
的 に営造 したものであることをのべ ていることである。しか しそれ以降 も廃 院 は続出 し
,そ
れに加 えて法隆寺 の維持 も困難 を極 めてお り,そ
の 対応策 を協議 すべ く明治8, 9年
の両年 に寺法改政集会 を開 いている。 その結果,明
治9 年9月19日,従
前 の法隆寺一高寺務職 に代 わって法隆寺住職 の職 が設 け られ,新
時代 に即期 牌 回
﹃ 鰯
関伽井坊ロ
第82図
江戸初期頃 の法隆寺境内子院配置図
第33図
寛政
9年
の法隆寺境内子院配置図89
応 した機構 とす ることに努力 している。 それ と同時 に経済面の打開策 として法隆寺の宝物 157点 を皇 室 に献納 す ることを決定 し
,こ
の恩賜 として1万
円が下賜 され法隆寺の経済面 の危機 を救 ったのであった。 この献納 の議 は,塔
頭住職合議 の うえで決定 し,そ
の同意書に献納 目録 を添 えて献納願 を堺県令 に提 出 している。
その同意書 に
,塔
頭住職 が署名 してお り,当
時12ヵ院 に住職 がお り,他
の子院 は院名 と その寺地 をとどめ るにす ぎなかったよ うで ある。 その後,阿
弥陀院・弥勒院 ともに老化 が 激 しく,坊
舎 などの建物 を取 りたたみ明治10年 ■ 月 に弥勒院の院名 を聖天堂供所へ移 し,阿弥陀院 も明治41年元金剛院の西里奄地へ再興 されたが
,興
菩院の名称 は興福寺へ移 り,賢聖院 とともに廃 されたのである。現在 では
,中
院 。宝珠院・西園院 ・地蔵院・宝光院 。 弥勒院 。実相院・普門院・宗源寺・福生院・善住 院・耳ヒ室院・円成院・阿弥陀院の15ヶ院となっている (明治年間 における法隆寺子院 の変遷状況 に就 いては拙 著『近代法隆寺 の歴 史』 をか照 されたい)。
なお
,廃
院 となった子院の表門や築地 な どが多 く現存 してお り,法
隆寺 の子院の変遷 を 研究 す る上 で好資料 となっている。 また,昭
和53年度 よ り行 われてい る法隆寺防災工事 に 伴 う発掘調査 に捺 いて も,中
世以降の持仏堂跡,井
戸跡,築
地跡 などの子院遺構 が確認 さ れてお り,今
後 の発掘調査 が進行す るにつ れて子院の規模等 が明 らか となることに期待 が 寄せ られている。甲
僣 ふ 野 リ ニ 落 泉
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十 炉五 家 暁 舒 十
贔 酌
詢 機
第84図
明治28年 の法隆寺境内図
2.発 掘調査 と建造物
顕真 が嘉禎
4年
(1238)頃に編述 した『古今 日録抄』 には,舎
利殿修造の際,
その辰 巳 角の南1丈
ばか りで掘立柱2本
が掘 出 され,時
の人 は聖徳太子の宮門の柱 と思 い恋慕の心 を持 ったことをのべている。戦前 に東院舎利殿及絵殿 の解体修理 が行 われた時,当
時の人 が見 た掘立柱 は,東
院創建 の際の北 回廊 の柱 で あったことがわかったが,こ
の修理 の際, 東院創建時の遺構 とは別 に,斑
鳩宮跡 と推定 され る掘立柱建物群 が発見 された。昭和9年
に始 め られた昭和大修理 では
,建
造物 自体 の調査研究 とともに,建
築遺跡 の発掘 調査 にも 慎重 な努力が続 け られてめざま しい成果 をあげ,調
査技術 も格段 の進歩 をとげた。現在全 国各地 で行 われている歴史 時代の追跡 の発掘調査 も,
この時の手法 を継承 し,
これ を発展 させていると云 って過言でな く,当
時調査 の中心 となられた浅野清博士 らの業績 は忘 れ る ことの出来 ないものである。法隆寺 では大正14年か ら昭和
3年
にかけて,大
掛 りな防火設備工事 が行 われた。寺院西 北方の谷 を堰止 めて只宇水池 を作 り,
こ ゝか ら境 内全域 に導水管 を埋 設 した°。多量 の瓦 が 採集 されたばか りでな く
,
トレンチの土層 の状況 にも留意 されているり。平城 宮跡 の整備事 業 にともない, 1部
の地下遺構 が発見 されたの もこの頃の ことである3ち この工事 中 に,五
重塔 の心柱 の下 が空洞 にな り
,地
下深 く据 えられた心礎 に仏舎利 を納 めてい ることが知 ら れ,舎
利容器の調査 が行 われているが,当
時の記録 が発表 されたのはは るか後 日で,五
重 塔 の解体修理 中の昭和24年 10月 に再 び舎利容器の調査 が行 われてか らである°。東院 においては
,回
廊 の旧葛石・雨落玉石敷 が岸熊吉氏 によって確認 されていたので,昭和
9年
に昭和大修理 が始 ま り,東
院礼堂 の解体修理 に着手す ると,ま
ず先 に発 見 されて いた高石や玉石敷の調査 が続 け られて,礼
堂 において も基壇 。礎石下根石 が確認 されたが, さらに掘立柱 の柱根 が発見 されて9,は じめ『資財帳』 に見 える桁行7間 ,梁
間2間 ,掘
立 柱 の中間が建 ち,平
安時代,貞
観年間 (859〜876)の
道詮律師の修 造で5間2間
の礎石建 物 に改め られ,
さらに鎌倉時代,寛
喜3年
(1231)に現在の建物 に建 替 えられていた。東 院回廊,南
門,舎
利殿及絵殿 において も掘立柱 を礎石 に改造 した状況 が確認 され,伝
法堂・舎利殿及絵殿 の下 とその前面では,】ヒで西へ大 きく振 れて東院伽藍 と方位 の違 う建物群 が発見 され
,焼
土や焼 けた壁土 があって,皇
極2年 (643)に
焼失 した斑鳩宮 と推 定 され, は じめて掘立柱 の宮殿遺跡 が具体的 に検 出 された。。大講堂 においても
,前
身堂礎石据付痕 や仏壇 の状況 などが解明 されてい る'。聖霊院 にお いては改造前 の礎石据付痕,基
壇 の一部 などが発見 され0,金堂・五重塔 では基壇 築造状況 などが調べ られ,金
堂 は一部地 山 を削 り残 した上 に版築 を行 い,礎
石 は一部古 い礎石 を転 用 し,塔
の土壇 は地山の上 に下 か ら版築 を行 い,心
柱根 元の空洞の状況 も一層鮮 明 にな り, 基壇 の旧状 も復原 された9。西院境 内の東南隅子院 の南 に盤石 があ り
,む
か し若車 の伽藍 と伝 えていた と『古今一陽 集』 は述べているが,こ
の塔 の心礎 は明治年間寺外 に出て,昭
和14年寺 に返却 され,こ
の 時石 田茂作博士 が発掘調査 をされて金堂,塔
の土壇 の跡 を発見 された1°。南 に塔,北
に金堂 があ り,方
位 が北 で大 きく振 れて,現
西院伽藍 とは大 きく異 なり,出
土瓦 も飛鳥時代の古式の ものである。 この若草伽藍 の塔跡 は南辺部 が現在の西院大垣 で切 られてお り
,西
院大 垣 の修理工事 がこの部分 に及ぶの を機会 に,昭
和43・ 44年度 に国営発掘調査 が行 われた。この結果
,金
堂・塔 が再発掘 されて,金
堂基壇築成後,一
帯 に盛土整地 の うえ,整
比土 の上 か ら切 り込 んで塔 の基壇 が築 かれ
,金
堂東南隅 か ら出た濤 が塔土壇 で こわ されていて, 塔 の建立着手 が金堂 よ りお くれ ることが半J明 した。 しか し全体 に大 きく削平 されていて,回廊 などの跡 は明 らかで な く
,西
院大垣 の下 で も若草伽藍 の建物遺構 は残 ってい ない1'。金堂・五重塔 。新堂 の修理工事完成 を以 て昭和大修理Iよ終 了 したが
,そ
の後 も東室 をは じめ として多 くの建物 の修理 が続 け られ,
これ らの修理工事の地下調査 で も重要 な成果が あげ られている。東室 では各坊 ごとに排水施 設 があ り,大
部分の凝灰岩礎石 が建 立以来不 動 で,
しかも古 い礎石 を裏返 しに使 い,地
山は北 か ら南 に下 っていた。東室建 立 当初 の間 取 りや構 造 も復原 されたが,柱
に多数 の古材 が当初 から転用 されてお り,桁
行柱 間 に違 い があるの も古材再用 によるもの と考 えられている1り。妻室では,は じめ東室 に近接 して建 ち,2度
東へ移 していることが知 られ,現
在 は2度
日の位置 に建 っている10。西院 と東院 をつ なぐ参道南側西寄 りの江戸時代 に福園院・橋坊・法花院・蓮池 院・十方 院 が並 んでいた ところに
,聖
徳会館 を建設す るに当 り,昭
和34年に石 田茂作,村
田治郎博士
,稲
垣晋也氏 らによって発掘調査 が行 われた。 この調査地 の西方で北 か ら流 れ る旧河川 が発見 された。 この旧河川 は少 くとも飛鳥時代 か ら平安時代後期 にかけて流 れていた とさ れ,調
査 関係者 はこれを若草伽藍東限 に当 るもの とされている。今回 も参道南側 の先の発 掘地 の一部 と,参
道北側 の律学院耳ヒ方 の導水管敷設個所 でこの旧河)IIを検 出 した。また
,昭
和38年,東
院東側 の中宮寺新本堂建設の事前調査 では,焼
土 で埋 め られた平安 時代後期 の池,室
町時代の子院境 界の濤 が検 出 されたが,奈
良時代 の遺構 は認 め られなかった。
西院回廊 の北方は現在北へ折曲 って経蔵 。鐘楼 に取付 き
,大
講堂 に達 してい るが,『
資 財帳』 には「庶廊壱廻」 とあ り,昭
和23年の調査 で北回廊 が金堂・五重塔 を取 囲 んで閉 じ ていたことが知 られていた二。。丁度 その基壇 中央 を旧導水管 が通 っているので
,一
部再調 査 を行 って北回廊雨落濤 を再確認 し,導
水管 の位置 を旧北回廊南方へ変更 した。回廊 の南・東 。西の
3面
で も導水管埋 設 の位置で基壇 に トレンチ を入 れたが, 3方
とも 地 山は外 に下 り,旧
表土 の残 るところ,整
地前 に鍛治仕事 をして焼土の残 るところがあ り,な ど
,入
念 に計画 されてお り,整
地 の選定 も巧妙 で,切
土,盛
土 を最少限 にとどめ るよ う 配慮 している。中門の東方では土壇 中 か ら平安時代 に降 る土器片 が発見 されていて,
この 部 分では平安時代 に土壇 の くずれ るよ うな災害 があって,土
壇 の修築 に及ぶ大規模 の修 理があった ことになる。
大講堂東脇 の回廊基壇 内及 びその耳し方 の調査 では重要 な発見があった。 これは回廊 を縦 断す る南北海 と北方で東へ走 る濤 で
,建
物 の西及 び北側 の雨落濤 と考 えられるもので あっ た。 ここに僧房 を想定 して東方 で も小 さい トレンチ を入 れてみたところ,土
壇 は後 に削 り 取 られていてほ とん ど残 らないが,僧
房基壇 南縁及 び東側 雨落濤 とみ られ る濤 を検 出 した。これによると基壇幅 は東西
35,4m,南
北12.4mと
なる。 『古今 日録抄』 に,こ
の講堂 の東 浦 に北室跡 あ り,石
居少 々残 して見 ゆ としるすので,こ
の僧房 に当 ると考 えられ,延
長3 年(925)に
大講堂・鐘楼 と同時 に焼失 した と考 えられ る。基壇長 さは天平尺120尺
となり
,『
資財帳』 に見 える4棟
の僧房 の うち,第 4の
長10丈6尺 ,広 3丈 8尺
にほ ゞ見合 う ので一応 これにあてて考 えてい るが,基
壇 幅 は第3の
長15丈5尺 ,広 3丈 2尺
の方 が約5 尺 の軒 の出が取 れて都合 よ く,南
と東 は あま り明確 なものではないので,参
後 の検討 余地を残 している。僧房 の間取
,構
造 などは東室 の解体修理 の時の調査研究 で旧状 が半J明して い るので同 じよ うなものであった と考 えられ る。大講堂 の解体修理 にともな う発掘調査 は昭和11年に行 われ
,こ
こでは前身堂礎石 を掘 り 起 した後 の雌型 が検 出 され,前
身堂 の全体規模 は現堂 とかわ らず,た
だ前身堂 の柱 間寸法 は庇 の出が短 く身舎 を長 く取 っている。桁行 は現堂 とも8間
で,現
堂 は元禄修理 に庇 を取 込 んで9間
とし,今
もそれを踏襲 してい るが,東
側面両隅柱 と中央柱 の位置は前身堂以来 かわっていない10。旧僧房基壇 はこの大講堂東側 面柱筋 か ら約9mは
なれ,大
講堂正面柱 通 りと基壇南縁 がほぼ そろ う。大講堂西方 にも僧房 があった とす ると都合 が良いが,西
側 で は導水管位置の都合で,雨
落濤 に当 る場所 は調査 していない。導水管 を敷設 した部分 の回 廊基壇 内は地 山が削 り残 されているが,僧
房 の確認 はで きていない。 これ も今後 の課題 と して残 っている。大講堂修理工事 の際,大講堂旧西側面柱筋 から約2.4m程
西方 に約2.4m
の間隔 を置 いて小礎石 と根石 が発見 され
,
その前後 にこれ と見合 うらしい基壇 の一部 と西 方 に南北 の排水濤 があり,こ
れ らと僧房 との関連 なども検討 の要 がある。僧房 と大講堂 の 間の軒廊 と見 られると都合 が良 い。大講堂 では旧仏壇内 か ら隆平永費 (廷暦15年,796,初
鋳)が
出土 したので,延
暦以降の建立 と考 えられているが,前
身堂規模 が『資財帳』 の食 堂 の長10丈2尺 ,広 5丈 5尺
と合 うととは早 くか ら指摘 されている。今回の大講堂耳ヒ方 の 調査 では地 山が急 に上 って大 きい建物 を建 て る余地 はな く,脇
に僧房 が並 ぶ ことをも考 えると大講堂 の前身堂 が『資財帳』 の食堂 にあた る可能性 は一層強 くなる。
大講堂東脇 では振 れの大 きい南北方向の掘立柱 穴
3個
を検出 した。 この振 れは若草伽藍 の方位 に合 い,西
院伽藍造営以前の もの と認 め られ る。西院回廊東南隅の南方で も同 じ方93
位 の小掘立柱 穴
2個
が検 出 されていて,西
院以前の遺構 がかなり北方 までひろがってい る ことがわかる。西室 は現在西回廊 よ りかな り西へ離 れて建 つ。寛喜
3年
(1231)再建 の とき,西
方へ位 置 を変更 した とされている。今回の調査 で その東北隅部分 の可能性 の高 い遺構 を検 出 して いる。矩折 りに曲 る濤 と瓦組 の施設 などで僧房 にふ さわ しい遺構 であ り,現
西室 よ りず っ と回廊寄 りにあ り,西
回廊西北隅 とほ ゞそろ う。西室 については今後南方部 で調査 を行 う 予定である。大正 の際 に現西室 の東南方,西
回廊 か ら13.4mに
南北方向の凝灰岩切石 の濤 の発見 が報 じられており1牝 上記旧西室東北隅 と推定 した濤 はこれよりさらに回廊 に近 いの で相 互の関係 もこれか らの課題 である。聖霊院 か ら大宝蔵殿院の前 にかけて入 れた東西 トレンチで も掘立柱穴 が出てい るが余 り 大 きくない。綱封蔵地下 では
4種
の掘立柱穴 が発見 されている。大 きい ものは地 山面 で検 出 され約90cm角程 あ り,4個
東西 に並 んで柵状 となるが,そ
の他 の柱穴 は整地土 で検 出 さ れ,穴
も小 さくまとまらない。 さらに耳しか ら来 て網封蔵 中央 あた りで東へ向 う古 い濤 と南 耳ヒ方向 に重 なって南へ延 る濤 が2期
あるが,性
格 は解明 されていない19。 しか し,伽藍 東方 部 は もと政所,大
衆,倉
などの関係建物 が建 っていた と考 えられる。今回発見 の掘立柱 穴 もこれ らに関連す るものか,造
営時の仮設的建物 で あろ う。中世 になると多 くの子院 が建 ち並 び,今
回 もここで池,築
垣,井
戸,道
路 などの子院関連遺構 が検 出 されているが,か
な り重複 している。
聖霊院 の東南方では トレンチ内で焼土 を多量 に合 む谷状遺構 を検 出 してい る。 この谷 は 回廊 と聖霊院
,東
室 の間 を】ヒ上す る谷 で あるが,聖
霊院下 の地山は西耳ヒ隅が高 く,南
と東へ ずっと下 る。東室 は北方部 は地山が高いが南へ次第 に深 くなり
,整
地前の旧地表面 に灰 や炭・焼土 があ り,フ
イゴ・鉱滓 も検 出 してい る19。聖霊院 の南方部 の盛土 も深 く,整
地 土 に灰・炭 がは さまれ,も
と谷 は聖霊院 。東室 の下 にも広 くひろが り,聖
霊院 。東室境 の西 方吉Ьは地 山が盛 り上 っていた らしい。聖霊院 の前で旧谷状遺構 か ら前 に述べ た東面大垣 東方の旧河川 まで約
150m(高
麗尺45 丈)余
りあ り,
この谷 が若草伽藍 の西側境 界 と推測 す ることも出来 るが,若
草伽藍・西院 南面大垣 の調査結果 をも併せて検討 す るこ とを要 し,今
回の調査 でも中門前東西参道 におけ る調査 を予定 しているので
,そ
の結果 をも見て若草伽藍寺域 の検討 を行 いたい。東院 は昭和大修理 における発掘調査 で特 に成果 があげ られた ところであるが
,今
回 の東 院 における防災施設工事 が主 として大正敷設 の旧導水管 を同位置で取替 える方針 のため, 掘 り形 の位置 も大部分 が大正時代 の もの と重複す るので調査範囲 も限 られてい るが,新
しい見解 もい くつか得 られている。
第1は推定斑鳩宮宮殿群 の南限 と考 えられ る東西大濤 の検 出である。 この大濤 も池 や大 正 の導水管 によりかな りこわされているが
,傍
に柵列 があ り,戦
前 に確認 された建 築群 と方位 が一致 し
,明
らかに人工の濤 で,重
要 な意味 を持つ遺構 と見 られる。 この方位 の掘立 柱穴 は伝法堂・舎利殿及び絵殿地下 のほか,北
室院表門の解体修理の時 に1個,昭
和54年 の東院西脇 門建設の事前調査 で2個
を検 出 しているが,そ
のほかではいまの ところ同方位 の古 い柱穴 は検 出 していない。 かえって律学院】ヒの西院 との境界 に当 る旧河川のあた りで7世
紀前半の須恵器・土師器 などの土器 をかな り発見 している。奈良時代の東院伽藍造営 当初 の伽藍 は記録 と発掘調査 から明確 にされているが
,今
回の トレンチで伽藍南半部 に厚 い整地 が行 われていて,斑
鳩宮の敷地 はいまの ところ前記大濤 か ら北方 と見てよいと考 えているが,ま
だ大 きな謎 に包 まれている。既 に検 出 されている 宮殿群 は少 くとも2期
に分れると考 えられ るが,前
回 も今回の調査 にも焼土 。焼 けた壁土 片 を発見 して,皇
極2年 (643)に
焼失 した と考 えられるが,今
回発見の大濤 よ り北方で も,舎
利殿及絵殿 の前面 に同方位 の幅広 い大濤 が発見 されていて,今
後 の調査成果 をふ く めて検討す ることになる。聖徳太子 がここに宮 を営 まれたのは推古
9年 (601)で ,推
古29年(621)12月
母后問 人大后 がな くなり,翌
30年2月 には太子 と妃の膳 大郎女 が相ついで亮 じられた。太子の亮 去 は『書記』 は斑鳩宮;『
大安寺縁起』 は飽浪葦培宮 とす る。 その後,斑
鳩宮 は山背大兄 王 に引継 がれ,皇
極2年
に上宮王家 が亡び,斑
鳩宮 が焼失す るが,聖
徳太子 は皇太子 として摂政 につかれ
,山
背大兄王 も田村皇子 (舒明)と
天子の位 を争 ったのであ り,
ここに営 まれた斑鳩宮 が余 り小規模 の ものであった とは考 えられない。公私 の宮殿,役所,一族 の住 居 も広 く営 まれたであろ うから,全
体 ではかなり広 い地域 を占めたのではないかと思 われ る。 また,太
子 の亮後,そ
の宮殿 をそのま ゝ山背大兄王 が用 いたとは思 われず,建
て替 え た り,位
置 をかえた可能性 も大 きく,斑
鳩宮 に関 しても今後 の長い調査研究 を必要 とす る であろ う。東院の寺地 は『東院資財帳』 に「院地壱区東西各Hj七丈
南北各五十二丈」 とされてい る。『斑鳩古事便覧』 では東西 を■lr七丈 とす るが
,現
在では47丈がとられている。 この範 囲 をどこに取 るかい くつかの見解 がある。今回の調査 で,北
室院境内 において も東院伽藍 と方位 が合 い,東
西棟東妻 と見 られ る掘立柱,小
規模掘立柱建物 を検 出 し,現
西面大垣 の 西方,現
福生院構 図東方 トレンチで も同方位 の掘立柱穴 を検 出 した。 したがって東院寺地は北室院 にも
,西
方福生院 にも延 びていたことになろ う。東院南門の前の芝の回は現在空地 であるが
,南
門す ぐ直前 に東西の道 があって,町
屋 が建 っていた し
,後
の盛土 が多 く,南
門の位置 は奈良時代以降動 いていないから,
こ ゝを南 限 と考 えてよい。子院関係 の追構 も数多 く発見 されてお り
,築
地・濤・池・井戸 などが トレンチの各所で 検出 されている。昭和53年度 に西院西端 で西南院本堂 の基礎 が確認 され,昭
和56年度 には 福生院表門のす ぐ内方で旧通光院本堂の基礎 を検 出 している。 ここには享保8年
(1723)に参道南側 に移 された現福園院本堂 が建 っていた。 このほか
,
トレンチ内 には子院建物 の 礎石跡 と考 えられ る小掘形 もあるが,
トレンチ調査 のためつ なが りが明 らかに出来 ない。法隆寺 には古代以来の各時代の建造物 の遺構 が残 されているが
,建
替 え,改
造,修
理,移築 も数多 く
,す
でに退転 した建物 もあ り,ま
た,盛
土,切
取 りなどによる土地 の形状 の 変更 も随所 で行 われている。子院 にも再三の変遷 をへた ものが多い。地中 にも遺構,違
物 が随所 に埋蔵 されていて,建
築学的 に見 た法隆寺 の歴史 の解明 にも発掘調査 の成果 による ところが大 きい。 法隆寺 における建造物保存修理 などに関連 して,発
掘調査 の進歩 もめ ざ ましく,貴
重 な成果 が次 々とあげられて,建
築史学 をは じめ各方面 にはか りしれない寄与 をして きたことはすでに述べて きた通 りである。今回 も新 しい発見 力>目ついで,従
来の見 解 を補正す るところが少 くないが,防
災工事の導水管 などの敷設 にともな う調査 のため, 主 として トレンチ調査 であり,発
掘位置 も限 られてお り,
とくに古代 か ら近代 にいたる遺 構 が重複 し,発
見 した遺構全体 の規模 を明確 にす ることも困難 である。従 ってその性格 も 推測 にとどまらざるを得 ない ところも少 くなぃ。寺史 の解明 に重要 な課題 で もあるので,今 後学術調査 によってその不足 を補 い,一
層 の成果のあげられることが期待 される。東院伝法堂 か ら絵殿 ・舎利殿 にかけて,前
後2時期 にわた る掘立柱建物遺構 を見つ けて いる。前期 の ものは東院伽藍 の方位 とい ちじ るしく異 なる建物群 で, さらにい くつかの時 期 に分 かれ るよ うである。検 出 された建物 は 1棟が東西棟 で,あ とは南北棟 で ある。東西 棟建物 が主殿 で,南北棟建物 がこれ と左右対 称 に配置 された ものか どうか,調査範囲 が限 られているので よ くわか らない。 しか し, こ れ らの建物 は梁行 の柱 間 が3間であることが 特徴 である。 この時の調査 では,焼土や灰 が
出土 してお り, これ らの建物 が火災 にあった ことを示 している。 これによって,『日本書 紀』皇極天皇2年 (643)紀1と記す斑鳩宮焼 亡の あとを うかが うことがで きた。後期 の も のは東院創建時 の もので あ り,寺院建築で あ って も,掘立柱 によるもののあった ことが知
註
1)法
隆寺 防火設備 水道 工事 々務所 『法 隆寺 防火 設備水道工事竣工報告書』 昭和3年。2)上
田三平・岸熊吉 「法 隆寺 出土古 瓦 の研 究」 『奈 良県史蹟名勝 天然記 念物 調査 会報告』第 9回大正15年
奈 良県。
3)上
田三平「平城 宮 吐調査 報告」 『史蹟精査 報 告』 第2
大正15年内務 省 。
4)岸
熊吉「 大正 十五年 の法 隆寺 宝 器調査 記」 『史 逃 と美術』200号昭和25年 ①福 山敏男「関 野 貞博 士 日記及 手記 (法隆寺 五重塔 関係 分)」 『大和文化研究』11巻 1号
昭和 15年 。
5)掘
立柱 の遺跡 は これ よ り前,昭
和5年度 に梯 田柵跡,同
6年度 に城 輪柵跡 で確 認 されてい る。上 田三平 「梯 田柵FJr̲・ 城 輪柵FIL」 『史 蹟精査 報告』 第3
昭和 13年文部 省。
6)国
立博物館 『法隆寺 東院 に於 け る発掘 調査 報 告書』昭和23年 。
7)法
隆寺 国宝保 存事 務所 『法 隆寺 国宝保 存 工事 報告書 第6冊国宝建 造物法 隆寺 大講堂修理 工事報告』
昭和 16年 。
8)法
隆寺 国宝保 存委 員会 『法隆寺 国宝保存 工事報 告書 第12冊国宝建 造物 法隆 寺 聖霊 院修 理工 事報告』昭和30年 。
9)法
隆寺 国宝保存委 員会 『法隆寺 国宝保 存 工事 報告書 第13冊国宝建 造物法 隆寺 金堂修理 工事 報 告書』 昭和31年 。同 『同第14冊 国宝建 造物法 隆寺 五重塔修理工事報告書』昭和30年 。 10)石田茂作「法隆寺 若草伽藍址 の発掘」 『 日本上 代 文化 の研究』
法隆寺
昭和16年。 『総
説飛鳥時代寺院址 の研究』
大塚 巧芸社
昭和19年。 『伽藍 論孜』
養徳 社
昭和23年 。 11)『法 隆寺者草 伽藍跡
昭和43年 度発掘 調査概 報』
,『
法隆寺若草伽藍跡昭和 44年 度発掘
調査概 報』
文化庁 記 念物 課。
12)奈良県教育委 員会 『重要 文化財 法隆寺 東室修 理 工事報告書』
昭和37年 。 13)奈良県教育委 員会 『重 要 文化財 法 隆寺 妻室修 理 工事報告書』
昭和38年 。 14)浅野 清 『法隆寺建 築綜観』
便 利堂
昭和28年 。
15)大正 の導水管敷設 の際 も中門東方 の回廊 基壇 トレ ンチで
,整
比土下 の腐蝕 土 を混 じえた倉」立前 の表土 ら しい層 か ら須恵 器片 を発 見 してい る。上 田三平 「法 隆寺 西院 南廻廊 基壇 の切 断 面」 『寧楽』 六
大正 15年 。
16)注(7)に同 じ。
17)注修)に同 じ。
18)奈良県教育委 員会 『重要 文化財法 隆寺綱 封蔵修 理 工事報告書』
昭和41年 。
19)この谷状遺構 の下層堆積土 か ら西院倉」建 時 の軒 平 瓦1個が出土 してい るが
,他
の焼土 中の瓦 は若草伽藍 関係 の ものや, 7世紀末頃 の須恵 器 な どを含 む。従 って この谷 を埋 立 て回廊,
僧房 な どの造営 が進 む まで か な りの年 月 を要 してい ると思 われ る。
97
3.法 隆寺 の瓦
は じめに
倉J建以来
,連
綿 と して法灯 を伝 える法隆寺 の瓦 は,そ
の種類 も文様構成 も実 に多岐 にわ たっている1ち法隆寺 の各時代 の瓦 は,そ
れぞれの時代 の特徴 をよ く反映 して い るので,そ
の瓦 を概観す ることによって,わ
が国の瓦の歴史 を大筋 として理解す ることがで きるとい って も過言ではない。 また,そ
れ らの瓦 には法隆寺 の各時代の歴史 がこめ られている。わが国 に瓦作 りの技術 が伝 えられたのは
,崇
峻天皇元年 (588)の 飛′亀寺造営 に際 してで あることは,す
で によ く知 られてい るところである。飛鳥寺造営 の きっかけ となった百済 か らの仏舎利や各種二人 は,形
式的 には「献上」 されたもの とされているが,実
質的 に受 け入 れたのは造営 を一手 に引 き受 けた蘇我氏 であった。 したがって,飛
鳥寺 に対す るその 後 の とり扱 いかたには微妙 な面 が多い。蘇我氏 の氏寺 として建立 された この寺 が,蘇
我氏 の減亡後 に官寺 としての とり扱 い を受け ることになったのは,わ
が国最初 の本格的 な寺院 であった とい う点だけではな く,仏
教受容時 における複雑 な政治的事情 があったか らかもしれない。
一方
,天
皇 あるいは皇族 による初 めての寺 が『日本書紀』 に記す四天王寺 で あるにせよ,あるいは出土遺物 の面 か らみて法隆寺 であるにせ よ
,
ともに聖徳太子発願の寺 であること は,わ
が国の仏教受容時 における混乱状況 を収拾す るにあたって聖徳太子 が大 きく関与 し ていたことを示す ものである。そ うした事情 の一部 を瓦 が示 して くれ る。法隆寺境内から出土す る瓦 には
,飛
鳥時代の 中で もご く古 い時期 の ものが数多 く出土す る。 それ らの出土状況 か らみて も,
この寺 が遅 くとも7世
糸己のご く初 め頃 に営 まれ始 めた ことに誤 ま りない。以下,時
代 を追 って法隆寺 の瓦 を眺めてみ よ う。若草伽藍の瓦
法隆寺 には
,多
くの飛鳥時代 の軒瓦 がある。軒九瓦 を飾 る文様 はいずれ も単弁蓮華 文で あ り,蓮
弁 の数や,形
の相異 か ら何種類 かに分 け られている。 それ らの瓦 を葺 いていたの は倉」建法隆寺,す
なわち若草伽藍 の堂塔 であった。今,普
問院や実相院 の裏 に空地 があ り,ここに大 きな塔心礎 がある。 そこが若草伽藍 の中心部 だったのである。
若草伽藍 は