著者 宮本 圭造
出版者 法政大学能楽研究所
雑誌名 能楽研究 : 能楽研究所紀要
巻 37
ページ 49‑110
発行年 2013‑03
URL http://doi.org/10.15002/00008778
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目 巴
• 狂 と絵画 言
ー 描かれた能・狂
言 の 系 譜
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本
圭
下丘二
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はじめに
シェイクスピアが前開削した十七川紀初頭のロンドン︒テムズ川市山にはいくつもの劇場が旭ち政ぴ︑山側劇文化が大きな喰を聞かせた︒しかし︑その劇場の内部で前じられた芝厨の様子を揃いた絵は︑ほとんど残されていない︒たま
たまロンドンを旅していた一人のオランダ人が知人に送った手紙の中に︑ロンドンで見物したスワン座の芝居風討を
摘さとめているのが唯一の州祝であり︑その他には︑シェイクスピア時代の劇場の内部構造を伝える絵耐資料は全く 知られていない︒それに引き将え︑日本の前刷巾んは数多くの絵耐資料で彩られている︒宗教州や
円仙
協同を中心とする
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ッパ絵阿に
対し
︑
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本の美術では風俗間の伝統が脈々と受け縦がれているためであろう︒エリザベス朝演劇よりも遥かに成立が遡る能・狂言
につ
いても︑十六世紀に遡る画証が多く残されて
いる
︒しかしながら︑能楽研究の分 49
野において︑こうした絵州資料を川いた研究は︑必ずしも盛んに行われてきたわけではなかった︒歌舞伎の分貯では︑
諏訪お雄﹃歌紙付伎の州証史的研究
﹄(
附削凶卜九年︒飛鳥昨日)をはじめとして︑災に数多くの研究桃山側があり︑人形
却
浄璃璃の分野でも︑舞台構造に注目した﹁人形浄瑠璃舞台史
﹄( 平成 三
年︒
八 木
壮 一
u庖)など︑絵画資料に基づく優れた
研究が多くなされているが︑それとは対照的に︑能・
狂 一
の研究者は︑絵阿資料の利川には必ずしも限械的に取り組. d
んではこなかったのである︒欧
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伎や 人形 浄閉 山川 と迫 って
︑ 能の 場合
︑
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ハ併 記後 半に
なるとほぼ現行と
川じ い削 川が
山一
応消
して
おり
︑
絵州資料に捕かれた前能の
川 明
日間
が ︑
すでに現行の能とほとんど変わらないという点が
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山の.っとして準げられよう現有は出じられてないお同のかぶさ刷りを克明に揃いた絵州資料とは︑州ぷとしての点桜山が只な
るのは当然である︒そのため︑従来はもっぱら︑能舞台の変遷や︑能興行の具体的な機子を窺う資科として絵柄が朋
いられてきたに過ぎなかった3しかし︑能・狂言と絵爾との関わりは︑これにとどまらない多機な広がりを持ってい
る︒例えば︑能の物叩
品川 股叩 介を 絵州 化し た絵 巻
・絵本の航が多く残されており︑山川劇としての能と物清絵との附わりを
民FJえる
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で尖に興味深い問題を合んでいることは︑小休健﹃小 附い 劇ょ やの
研究﹄(
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一年
弥 仲 町 札
川 山 山
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に指摘するところであるホA四
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能に比べて台本や出川の附定化が巡れた紅・J
の場 合︑ )江 .ド 似の 絵州 資料 も州 YA
として
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︑永 井組
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引
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変遷身
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成ト問年J r
ル 州 仲 庁 内 山 山 ︺ } ︑
総同道子﹁拙かれた狂
JU
﹂(型付女学院短期大学﹁研究紀要﹂
30 市ド 成十 :一 年) など の論 考が 備わ る
︒近年も︑阿野ぷ
維によって︑江戸前期の狂一
JM
を多く収めた﹁抗訂後ぷ山間帖﹂という注けすべき資料が制介されるなど( ﹁
新山資科
﹃+
日 抗
一可後長帖﹂について﹂﹁国立能楽堂凋先研究﹂
6
︹ 川
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・・ ト問 年
︒日本芸術文化娠興会
︺ ) ︑新川資料の紹介が相
次いでおり︑今後も大きな成果が期待できる分針であろうこうした川近の研究動向を踏まえ︑千成二
十間
住
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川の
能濃学会大会は﹁能・紅
一刀と 絵. 向資 科
﹂をテ
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マに法政大学で行われたc同年に創立六十問年を迎える法政大学能梨研究所と能梨学会との共仰による企尚で︑それにANわせてポアソナ
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卜問附の博物館展・不出において﹁能・ 村 代 ・Jを柿く﹂と題するM竺小も行い︑能業研究所が所川賦するは々な絵両資料を以示した
本怖 はそ の民
・ぷ にお ける キャ
プシヨンをもとに再構成したものである︒なお︑千成二十五年二月から三月にかけて凶立能楽堂版示室で行われた
﹁収蔵資科展﹂のキャプションも一部加えているuこの展示も川じく能来研究所の制攻六十同年を記念した企両であ
く り︑能来研究所と同立能来堂が所泌する二してお本の﹁能絵鑓﹂を中心に︑多くの絵阿資料が陳列されたことを付
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一 、
芸
を伝え る ための 絵 師
始めたい 能・紅
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と絵画といった場合︑そこにはどのような絵が含まれるのであろうか︒まずは︑その慨裂を不すことから能・収
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と関わる絵州には︑おおむね次のような係頑のものが作介比
する
︒
能・狂ヨと絵画
51
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ぷをμ
えるための絵州s
役斤の而泌を記憶する絵同
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胤対の一つとして蹴能を描く絵州
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能・狂言の舞台を描く絵画
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能の興行を記録する絵画
F
能の物語を描く絵剛
それぞれがどのような作品であるかについては︑れは概ね︑﹄れらの絵州がな均してき以ドに倒別に取りしLげるが︑
5 2
た時代舶に並んでいる︒すなわち︑能を怖いた絵州として沿も占い資料は
︑ 川 悦 阿仰のづ
一品
川
三体
人形
問﹂
である︒こ
れは﹁芸を伝えるための絵問﹂に分期されるものであり︑そこには絵によって︑老人
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人・武士・山泌
を演
ずる
際の
体の例えが示されている︒録台上の人物の励きや体の悦えなど︑
一 汀
葉によって衣現することが桂しい所作を絵によっ
て例示する方法は︑伝える側にそれなりの絵閥的センスがなければ叶わぬことではあるが︑主を後代に伝える布効な
手段の一つであろう︒﹁
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山=.体人形同﹂以降にも︑これと
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じく体の抑えを凶.
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おり
︑
や点的安町の﹁宍鐙妙﹂系伝代げなどに︑司二山一一一体人形同﹂向級︑mm絵による人物聞が
見られる︒しかし︑これらはいずれも体の榊えを示したものであり︑陣列台
k
の人物の動きを絵に織くという手法は︑ 江川初期の﹁八帖本化
伝作
﹂
能で
は品
川ど
川い
られなかったω能の動きそのものが非常にシンプルで︑
刷日
付と
して
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J
化することが比較的行妨であったためであろうcその剛市川川に線計上の人物の絵が怖かれることもきわめて少ない︒
川品
川能
ド慌
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去で
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家に伝わる巻﹁の能伝作に︑シテやワキの安が
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とともに拙かれているのがその数少ない例外だが︑そこに拙かれる人物の絵姿と刷付の内容とは一
致し
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ムヤ
持ガ
ヨキ
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仰いシ市ノナキ時は可持也﹂(恰胤)︑
﹁正
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太刀
也 ︑
ホコ
誕シ
﹂ (正 呼)
︑ ﹁
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体ノ
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ノヤふハナシ﹂( 三鎗 )な ど
︑術与の不正政さを指摘する文訂が一々
品川き込まれている︒その点から見ても︑当初から︑絵入り型付として冷かれたものではないらしく︑能における所作
の伝承に︑絵はさほど坑観されていなかったと
3
えるだろう一方︑作り物に附しては︑下問少進策﹃狩台之削﹂をはじめ︑多くの絵州資料が残されており︑物府方の資料にも︑hM付けのト刀法などを凶不するものが散見する︒
ぬ1
二尚 三
体人形図(能楽研究所蔵)
応永二十八年(一聞ここの奥舎を布する世阿弥伝待︒能の波技の基本となる﹁二山
三体
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・歌二山と︑老体・女
体・
山小 体三 体の 期目
ω
についての論︒人体の絵問を示すところに特色がある︒二山 川
の表 伯郡 とし て
﹁伝 舞﹂
の姿を凶示し︑
一一
体に
ついてはそれぞれ﹁微絵﹂により体の情えを示すとともに︑その妥点を﹁閃心
w m 日
﹂﹁ 休心 抗力
﹂﹁ 体
hM昨
心﹂ のよ うに 問中 執⁝
認でぶ現する︒
叫 円 阿仰 の山 怖い 本は 現存 せず
︑能楽研究所必の令#抑竹(似阿弥の娘術)
によ る転 写本 が川 以内 の伝
本︒
原本を忠災に活き写ししたものらしく併阿弥が釧︑
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紙によりいた 絵の 抑 分
間気をも
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もよく伝えている︒
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川 ( 鴻 山文州政
)
近恢初頭成なの能伝品川︒
会八巻
︒
原武 川ル 引は
﹁花 伝山
川川
﹄であるが
︑川名の他力と灰別するために
﹃八 帖本
花伝引い﹂と通林される︒
祇阿弥伝冷や戦凶則成立のさまざまな能伝品川川
を集成
・編集したもの
︒
その巻五では
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・鬼
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老人・老
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糊混など
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キャラクターごとに削解する
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一 一 一 体人形附
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述内山什には相巡
山⁝ が
多く︑直接の山形符関係はないようである︒
・米
・舟
以
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に同内科の伝川が
w wh 忙したかは不明︒
災際の出技に則
した共体的な記述が多い︒
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刊JAhhハ器︒本川
は︑制悦泌の句"をはじめ︑日仰々の伝札いから成ゐが︑
その巻.に
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・作手・舞子︑伝情之市F﹂として︑
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伐のw柄本となる体の例えそ阿ぷする品川所がある的行は納行のなち川町︑川俊を︑
川ヤ火
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人・山地役それぞれにぷしたむの︑後い
れば 子
の協えみを・九つに分納してぶしたもので︑いずれも体の品川きがよく比え
るよう︑保体で炎現されているこの郎分
は︑江.い
前川
︑
多くの能伝川を制換した点的篠山崎の﹃脱欧仔仰木犬伝川﹂に法づく
もので︑そこに仲怖かれる位同をそのまま川いる︒
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尚4盟強江間日記(能楽研究所蔵)
本願寺の坊官で︑金春流の繁人役者としても活践した下問少進(一
五五
一
1
二三六)怨の能伝柱︒少逃が師匠の金森大夫笈週から相伝を受けた内容を舎き惚めたもので︑少進三十二成の天正十年(一五八二)から舎き始められている︒山ごとに︑而・装束付︑型付︑演能上の心得などを︑能舞台の輪郭図の余白を中心に︑びっしりと役き込む︒舞台輪郭闘の中には︑作り物の形状や置き所︑前者の立ち位置︑持の動線などを︑絵聞によって示す︒
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舞台之関 混迷iJ:IHJ日記
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(鴻
山文庫
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右と同じく下問少進の能伝舎︒四十磁の作リ物について︑形状や慢き所を図示する︒とりわけ︑多彩な色で拙かれた作り物の詳細な摘写が
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を引く︒附 腿
MK
元年(一五九六)の刷内容を有する少進の能伝嘗﹁輩舞抄﹂と製版が同一で︑それと同じ頃の成立ら
しい
︒尚4・5はともに下問家伝来の少進自筆本︒江戸初期には︑
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事島
ぬ6
要滋
抄(
鴻山
文脱
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仙台務お抱えの物将せがまとめた怖心付けに附する伝内︒内行はあまり杭M理されておらず︑波多な覚︑ぇ舟きといった性的
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の仕 刊で
ある︒相子の被せド刀︑必付けの陪の純の結びみなどを︑絵凶によって九体的に示している点が興味深い︒
江. ドぶ 川川 の成 な
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台必では将多泌‑L︿峨泌の役行がH大に抱えられていたため︑向山流のね付けの相沢にも‑JH
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回開
佐波
大成
版謡
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山文
郎蔵
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昭和六年から昭和九年にかけて刊行された制限枇出・米正本の品本︒いわゆる昭和版︒ぷ曲のためのテキストである部本の側外に︑
能の舞台安のスケッチを伸絵として入れた附則的な本︒
絵は
川阿
川附
漁門
ドの
抽出
削・
一家
︑鈴野炎風が術いた︒所作の動きを悦覚的に
﹂らず﹁川 町 ︑ 小し︑絵によ例とい﹁品仰の似を知らんと欲せば能を知らぎるべかてぷの伝水をよみた伶川町の引えそうだが︑凡例には︑っ・ ・
4叫
ん氷
牧ぴ
に似
能川
択の
妥叫
叫に
添は
んと
する
もの
なり
﹂
とあ
り︑
﹁去を似えるためというよりは︑
﹁能を錐賞するため﹂の日的で挑かれたむの.と見るべきであろう︒
間
一 一 、 役将の而修を記憶する絵
削
門限州は︑その人物のイメ
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シを決定付ける爪濯な.決ぷである例え
ば︑
近術家に仏比える川氏・
山刊
什辺
貨の
附怖
い
﹃州 問J
山﹂ に︑ 後水 出. 大引 の生 付
・小利門院の門的⁝州に附するこんな迎f川
が絞
っている後水児院は中和川院の円印州
や﹄槌政姉かせ︑そのうち一番先しく比えるものを選んだeそれに対し川りの火山・が﹁
ソレ
ハ
一チ似モヤラズ︑必コソ
能似タリ﹂と別の一伎を指さすと︑後水足院は︑行年後にはぷも朗を知っている人もいないだろうから︑このように
美しいん外性だったと思われた五がよかろう︑といって︑必初のご伐を取り上げたというn
靴阿弥の円仙降雨が残っていれば︑設々の
叶 一
例怖に対するイメージは︑その門限阿に大きく縛られることになったに
迎いない
ギに して か︑
不幸にしてか︑
枇阿 弥の
山口他耐は現
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しない︒
また
︑
社阿弥のnm開削が尖際に怖かれたかど
うかも現時点では不明であるが︑川時代に品川
山附
した
能役
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の小 には
︑
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阿弥や世阿弥のように︑門限阿のが伐を示すいくつかの資料が残されている例もある(天野文雌﹁御川役者
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阿弥をとりまく環境﹂﹃能処迫 遥( 下)
能の歴史を歩
く﹄︹平成二十二年︒大阪大学出版会︺)︒もっとも︑これらは肖像両としては現存せず︑禅僧の詩文集に収められて
いる両像賛によって︑その存在が確認されるに過ぎないc室町後期から戦国期にかけての能役者の間像画についても
同様であり︑景徐問麟の﹁
翰休 諸問 麗集
﹂に 比える間
川
小次
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光商像技︑日出町蒋桂の﹁幻主文集﹄に見える間世大夫同
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︑金 作円
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郎ぷ倣仕が︑托のみの形で伝わっている︒後行のうち︑観舵大夫両仮託は観附‑
一 一 郎 (
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)の州仰に
付されたもの︑
合作
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合弁 山町 小此
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打r・ 久
郎
hH久(史涜ぽ守}
の弟
子︑
打削
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前税策}
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kH久の指消帽を受けてぷが上述したことを必念して制作した門限州であり︑後出のふ日明休ぶ術門州仰と川
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弥左衛門岡像が話術に腰を卦け︑まさに小鼓を打とうとする除を揃くのに対し︑
金谷 川
f五郎必仰は︑﹃幻
詩文集
﹄に﹁傍布佐﹂
と花
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があることから︑btH作打r・h.郎の傍らに此を揃く他行であったことが知られる
江.
ド則 に人 ると
︑ 川 悦
Uけする能位行の門印州は大川に附加する円多じ大夫氏能・
" u
・u aタト太夫氏以
H U. H
多じト
人火
山能
の口問州(円 多 ・ 一 氷 川 賦
}を
はじ め︑
む野九郎兵術むと
以ドの以代(ルUU
野京雌
}︑
ド川 け桜 山ザ 品川 次
・肱
川山 川兵 術爪 政
(桜川家
仙 紙
)︑
千円 加兵 術判 例杭
(千円家成)︑制川左近一
川市
(制
伽一
家縦
)︑出
m m
陀兵衛光広(能来研究所必てん位指勺()前川家雌kなどの肖像岡がそれであるP近代になると︑写点の登場によって︑こうした門限両はほとんど術かれなくなる︒
﹁ 役
者の而影を記也する﹂手段は︑やがて写真に取って代わられることになるのである︒
ぬ8{gm
弥ド バ術 門
商
品 開
(似
品帆 新九 郎家 文州 政
)
的判
例則 に寸 前政 した 能役 私自
︑官 補引 弥左 衛門 別賢 が小 川以 を打 つ安 を摘 く
︒能役者の税U
けす る山 川像
例としては似占の泣品︒
山 川 山 川 引 は 小技
v州
山 氏の
2 M
的m
役お と仙 川帥 川付 けら れ︑ 天文 .以( 一
托で で
. 1
五五
)に若狭で亡くなっ
て い る 本 . 肉 品開 は︑ その 公的 伏の 守必 大名 武 川氏 の彼 符で
︑日 制引 の小 波
の弟子でもあっ
た. 山村 与
三科術門の依析により制作されたもの︽絵師
は大 水
1天ぷ刈に京郎ゃれ扶
で活 躍し た仰 山川 統必 で︑
g m
は素人の話役者としても知られる︒天文頃の制作か︒
嗣仙 聞の 上
級に記された貯は英市水雄(
総長 女﹄ )の 手に なり
︑氷 川織 の
詩集﹃羽弓仙とによれば︑絵の制作期より五卜年ほど後の度長同年
( 一
五九 九
)に汗かれたものという︒
能.lE.̲fと事会I経
子 手
, 思
59
尚9
似肘 一小 次郎 日光 州倣 代
(祈
九郎 家文 m 山 m 賊)
﹁市 町弁 度﹂ や﹁ 紅紫 狩﹂ など の 作者として知られる室町末期の鋭惟度の大鼓役者︑制似批小次郎幻光の桝像佼︒
.肉 像そ のむ の
は失われ︑賛のみが樽僧設徐周麟の詩文集﹃翰林街溢集﹄に収められ︑今に伝わっている︒
本資 料は
︑そ の商 品開 伎の 全文 を︑
江戸前期の傷者林道春が︑級位大夫前日成の依頼によって書写し︑返点・送り仮名・朱引を施したものである︒
ω
州
m
J t A M
咋yp え
HH
'川町守
4
守a4n
・ 咽 呼
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品 門 倒 川的川f
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刊代品四円均
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庄兵衛光広岡像(能楽研究所政)江戸
後期
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役都
打︑
市仲
間庄
兵衛
光広
日以
晩年
の内
山脈
光広は出方俗川州︒
家の六悦
︒叩
附肘 一向 一館 方と して
︑山 下保 から 党政
にかけて江
戸械での能に治仰した本阿像は文化元年
( 一
八
O
凶)
︑
光広
じ
十八
段の
円像
を・
け晶
子の
保
mHK厳光浮が附捌かせたもの︒絵川不明︒
克広は当時すでに江戸川械での能の郷台からは泌ざかっていたが︑この州には︑れ手に筒をしっかりと持ち︑品川筋をすっと仰ば
した受で儲かれ︑八十成を日前にしてなお頑健であった総子が現われる︒上部の常山を大きくとっているのは貨を花す予定であったためか︒
能・狂
3
と絵l曲i
‑ 彊瞳
I
PO
6 2
一 一
一 、
風景の
っ と して演能を描く
絵画
十六世紀になると︑能の上演の株子を描いた絵画資料が登場する︒その絵間資料は大きく二つのグループに分けら
れる︒すなわち︑一つは寺社参詣虫茶縦と呼ばれる︑寺社の境内を描く作品群であり︑もう一つは治巾治外閥︑四条
河原遊楽図など︑都市の景観を描く作品群である︒いずれも︑寺社や都市を彩る風景の一つとして能の持台を描く点
が共通するが︑制作年代や絵師の系統など︑制作背景がある程度明らかにされている後者に対し︑寺社参詣口虫茶維は
その制作時期や絵師を特定しうる作品がほとんどない︒
寺社参詣町民茶羅のうち︑能の上演場面を姉くのは︑多賀参詣史茶縦と伊勢参詣円山茶維のこつである︒多賀参詣些茶
羅は︑多賀大社蔵の二本がいずれも︑拝殿前に置かれた伽丹市平での淡能場前を姉き(一本は︿
品 川 ﹀
︑
演目不明)︑個人蔵の一本が舞車のみを描く︒多賀大社では正月と六月に神事能が行われており︑戦闘期までは近江 一本は化粧裁のため
独楽が︑近吐には多賀社の禰宜が波能した︒その様子を描いたものと考えられるが︑多賀社の神事能が舞車上で行わ
れたことを示す記錦は知られておらず︑舞車の数少ない画一社としても背革︒伊勢参詣蛇茶縦は︑神宮徴古館殿︑三井
文庫
蔵︑
アメリカ・パワ
l
ズ氏蹴︑東京・伺人蔵の四本が知られており︑このうち演能場面を描くのは︑三井文館本とパワ
l
ズ本の二本である︒前者は内宮一の鳥居前︑外宮一の鳥居前における演能場面を︑パワl
ズ本は内宮での出能のみを姉く︒伊勢械楽による正月の間宮への奉納︑あるいは四月の御衣祭にともなう神事能の綴予を描くものと考
えられているが︑外宮での前能の場所は正月の奉納場所とは異なり︑四月の神事能の場所とほぼ一致するから︑後者
の可能性がより高いといえよう︒これらの参詣必茶羅はそれぞれ類似の描写を持ち︑同じ個所に同じモチーフを撒く
という類型表現が認められる︒社頭での節能図も︑諸本に共通するモチーフの一つといえよう︒そうした点を踏まえ
るなら︑従来あまり注目されてこなかった悩人蔵伊勢参詣受茶維の社頭の光景があらためて注目される︒
その 表現 は︑
三井文時本やパワ
l
ズ本と大きく異なり︑よ
り古雅な印象を与えるが︑モチーフの共通という傾向は確認され︑例え
ば︑ ご一 井文 庫本
・パ
ワ
l
ズ本がともに内宮一の鳥居前における思女神楽の舞台を拙くのに対し︑例人政伊勢参詣受茶報にも︑ほほ同じ位置に︑一以一女が神楽を奏する場而が描かれる(建物はなく︑地面上で神楽が奏される)︒注目される
のは︑その下の方に︑金烏帽子を着け︑袖を大きくかさす人物とともに︑笛役者と思しき人物や︑観衆と見られる人
物の姿が見えることである︒三井文庫本・
パワ
1
ズ本には︑これと同じ位置に付帯能の場而が見え︑個人蔵伊勢参詣円史茶縦もこれと同様に神事能の僚子を描いている可能性があるのではなかろうか︒
参詣蛇茶羅で出能場而を航くのは︑多賀参詣並茶紙と伊勢参詣良茶艇のみであるが︑その系滑に辿なるのが︑
同 情 態
惣社三ツ山祭礼凶麻風(兵版県立歴史博物船蔵)︑長崎誠訪神社遊楽閥解胤(回以鹿山人民俗間物加減)など︑紅一戸
初朋 か
ら前則にかけて制作された祭礼凶府胤である︒これらの作品の巾にも神明能の場以を姉くものがあり︑神甲能の阪わ
いを伝える町永な史料となっている︒
郎市のは爪観を揃く近叶一胤俗肝風にも︑能の絵阿資料として有川な作品が多い︒治中治外凶の現存舵占の作例で︑大
永‑
一年
( 一
κ
・一五)の対似を術くとされる町川家本治小外同(同立股史民俗博物州政)にも︑﹂以郎知外での勧進能の隊子能.ll: 0
r
と絵l出i
が怖かれており︑これは能の上出場而を揃く以も市い聞説である︒以後︑江戸初朋にかけて制作されたみ川小治外凶や
凹条 河川 郎遊 来附 でも
︑
胤此の一コマとしてしばしば能の上出場而が取り上げられる︒山M
木山 水本 的中 治外 凶
(ぃ 以
ぃ 以 問
h仏
博物船縦)︑
山久
保河
以遊
来同
(ボストン美術館蔵)
︑問 条河 川郎 附
MW
胤(制凡夫術加政)などがそれである︒初則の作品で
はい 川郎 の町 を彩 る
一つの胤抗として出能凶を姉くに過ぎなかったが︑時代が下るに従って
︑町
会ル
怖
を拙くものから︑
6 3
凹条河川胤の芝肘町の様子を描くものへと掛かれる対象は次第に狭められ︑やがて︑相応守川胤(徳川禦明会政)︑邸内
64
遊楽図(日本浮世絵博物館蔵)のように︑能の舞台を画聞の中央に据え︑これをクローズアップして描く絵画作品も生
まれてくる︒
その
延長
線上
に︑
﹁能絵﹂という新たなジャンルが成立する︒そこでは︑能が演じられる舞台をも画面
から消し去り︑舞台上の登場人物のみが描かれることになるのである︒
四 能 ・ 狂 言 の舞台を描 く
千宗旦が束稲門院から拝領したと伝わる一一聞の縫絵がある(不審庵蔵)︒能﹁氷室﹂の後場を描いたもので︑画面右
上部には京福門院御製を示す﹁御作﹂
の文
字(
宗
n口
一筆
)が
見え
る
︒これは縫絵という特殊な技法を
用い
たも
ので
ある
が︑
一川
町台
上の
シテ
の姿
を岡
市左
上部
に
描き︑脇座に居並ぶワキの姿を右下部に描く構図は︑後述の﹁能絵鑑﹂と同一の
手法であり︑
いわ
ゆる
﹁能絵﹂の作例として︑最も初期に属するものといえよう︒しかも︑その制作に高貴な女性が
関わっていたことを示す点でも注目すべき作例であり︑﹁能絵﹂の制作背景︑あるいは手受層を考える上で︑重.要な
示唆を与えている︒
能絵の現存作例はかなり
多い
︒それらは︑絵巻物の体裁をとるもの︑折本の形をとるもの︑貼交の扉風絵として伝
わるものなど様々で︑その能者も︑狩野派や土佐
派の
絵師︑英
一燦
門人の脇役者・稲王雪等︑備前向山務主・池田制
政︑あるいは素姓不明の町絵師など︑多岐にわたっている︒能絵が画閣の一つとして定精し︑江戸期を通じて腕広く
享受されていた様相を示している︒その中でもとりわけ豪務絢矧で知られるのが﹁能絵鐙﹂と呼ばれる一群の作品で
ある
︒
﹁能絵鑑﹂は現在︑国立能楽堂本・能楽研究所本・宇和島伊達本(宇和島伊達家蔵)の三本が知られている︒国立能
楽堂本は冗十凶︑
能研
本と
ん予
知刊
品川
V述本はそれぞれ
. h r
九
十凶を収める︒宇和島伊達本には修復補修の手が入り︑
一部江戸後期に新調された能絵が含まれるなど︑以状を
大きく損
ねて いる が︑
国立能楽堂本と能楽研究所本はほ
ぽ版袋をとどめており﹁
能御絵鏡
﹂
あるいは﹁能御絵
鑑﹂
と金
泥品
川の あ
る氷結も制作当初のものらしい︒
これ
ら
一 一 本はそれぞれきわめて顕似する阿柄で胞の一助耐を一
揃く︒榊凶が全く一致する山も少なくなく︑
M .
の工
. M
︑あるいは系統を川じくする絵師の手で制作されたことを
示していよう︒
もっ
とも
︑
コ.本間には若干の聞胤の相逃
も見て取れる︒それは而を付けないワキの表情に顕著に
あらわれており︑能楽研究所本に見えるワキの表情はそ
れぞれがきわめて個性的に描き分けられているのに対し
能.
, E .
I"と絵 柄 (図版1)︑
出hi
能来武本には一
郎 ︑
例性的な表的のワキ
も・尚じるものの︑能川本ほどに多慌ではなく︿凶版
2 )
︑また宇和品川V述本にいたっては︑より一
一府
︑没
例性的で
剛一的な揃写がなされているのである︒
さら
に︑
他の二
6 5
本がいずれも横長長方形の地紙を用いるのに対し︑宇和
図:1反1
│刈版2
ω ‑ U
仰辻本のみ︑地紙を門恥山
Y M
形に切り抜いたものをましえ︑両副に変化を持たせているこれは前述の修白川削修に
際しての処附かとも思われるが︑・・一本はそれぞれきわめて近い関係にありながら︑必ずしも川時朋に川一
ω
で制作‑ L
・されたものではなく︑その制作時期や制作者にお干の呉川があることを物芯っていようそこで問題となるのが三本
の先後関係であるが︑他の二本は紙本清色であるのに︑凶立能楽堂本のみ絹本お色で︑しかも曲目を示す組簸が付さ
れ︑描かれた場面を示す羽市を
A
き込むという以上級
の仕織で制作されていることが注
U
される︒また
︑所 収品 川村 も︑
他の二本が百江ト凶であるのに対し︑そのJ4分の一の托ト凶にとどまっている行.九ト同の中から五卜図を選んで
結にしたとら併しうるが︑日以初から百五十附に及ぶ
‑ K 却
な能絵鑑を制作したと見るよりは︑内初制作されたのは冗十
同の能絵鑑であり︑それを
m
補して行五LI
Mの能絵鑑が山米た︑と見るトHがより現尖的なものではあるまいか一 日 ︒‑
本
の小で︑同伝能寝食ぶ・が沿
' u 下の込んだつくりがなされていることも︑そうした号︑えを主持しよう
すな
わち
︑
│匝│
能来堂本の制作時期が抗も平く︑他のて本については︑下如何品川V江本の人物航写がやや予仮であることから︑能研
レ ホ
よりも若・ト下る時間の制作かとの推測を・ボしておきたい︒
このように
﹁能 絵鐙
﹂の
・・ 一本 はそ れぞ
れ児なる特徴を持っているのであるが︑その制作時則は︑江戸中則の特定の
時則に限定することが可能であろうすなわち︑J一本のうち宇利
‑ U
伊 込本 は︑hハ
代将 術也 川・ 一氷 山川 に側 川人 とし て仕 え
た川
部内
. M
此が将市
・米
より
外卸
した
け川
とい
似え
ら
れているラ
下利
川伊辻本に付制の川約十六年‑ H﹁川
部家 符巾 代川
﹂
に ︑
﹁・
χ
附院殿布市院股ノ御州代ヨリ削れ飢ニハ川迎派之︑於御拠御内打飢ノ雌ニハ仰ニ山・
μ
へ航
﹂とあり︑文
附院 はし ハ代
ん氷
山村
︑む
市院
はじ
代米
柑純
であ
るか
ら
この
μ
爪をいずれば︑およ
そん
仁ぷ
・‑
此郎
作中川の制作ということになる
また
︑
能研本には近術家伝来とする貼紙があり︑当
初のも
のと
忠わ
れる
木鮪
に︑
件付
野作
湖(
稲川
川橋
狩野
山家
の飢
‑A
‑e
・ 内
4
F. a 寸れ引l︐
h η
没)の本であることを示す﹁ぷ湖乍﹂の金泥刊がある︒能研本が近術家川縦であることは︑大正七年六月の﹁近衛公
時御磁器約官凶入札口銭﹂に﹁ぷ湖能御絵手鑑弐帖﹂として︑この能絵鑑の写児が準がっていることからも隊尖
視される︒六代家穴のい炎︑天英院照子は近衛北川照の長女︑すなわち︑近衛法照は家守一の岳父にあたる︒基照は︑
家 山 ハ
が将軍に就任した後の宝永七年から翌年にかけて江戸城に滞在︑しばしば奥に出入りし
て︑
歌批
けの
講義
を行
った
ほ か ︑
有稜故実についても様々質問を受けたという︒能研本
﹁ 能
絵鑑﹂は︑そうした際に︑将軍家より近衛家に贈られたも
のなのかも知れない︒能研本の祭者︑狩野蒜湖は ︑家宣の叩府藩主時代からのお抱え絵師でもあり(分限帳﹃
m s
府民下録﹄に﹁高伶人扶持﹂の﹁御絵師﹂として狩野が洲の名が見える)︑﹁能絵鑑﹂の制作には︑将軍家穴の影が見え隠
れする︒同立能楽怯本については︑紀伊徳川滞附家老︑
水野
家の
トボ
山間
であ
る水
野山
品川
が所
脱し
たと
の伝
ぷが
ある
のみ
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家ん
はと
の
凶わりは特に比山だせないが︑
やは
り︑
同じような環岐で制作された吋能性が向いのではあるまいか︒
家ん
川は
な
u多
山況
の 能を 学び
︑江 .ド 城小 県に おい て︑
間部設
. M
らの近出とともに矧燃に出能に興じていた︒ ﹁ 能絵錯﹂の
所収山日は当時の喜多流のレパートリーと草なり(宇和尚伊述本のうち︑新調された凶の中には﹁千引﹂のように京
生流のレパートリーが含まれるが︑それは字和島伊達本の修復補修が︑宝生流全蝶則の幕末になされたことを示唆し
ているてまたそ
こに
捕かれた演出も喜多流のそれと一致する︒例えば︑上崎りでは︿高砂﹀のシテがさらえを手にす
るのに対し︑喜多流をはじめとするド崎りでは杉詐を持ち︑また︑︿天鼓﹀の偶妓ムリ
を悦
く一
位ム
nを出すのも︑喜多・
能.lE.
r
と絵情i金作
の・
一流のみ︑といった
nH
円A
であ
る
︒このような前山上に見られる円多色も︑家日の周辺で﹁能絵鑑﹂が制作され
たことを物加るものであろう︒
その傍杭として︑山安徳川家の記鈷﹁川部事実﹄(州文学研究資
料加
山城
)の
芯
引を挙げてお
きた い
元文六年(一七
四 二
︑天英院鼎子(
・一
家立
の必
)が亡くなった後︑彼女の泣
その泣品の中に﹁能御u m が次々に川安家に送られてきた︒
6 i
絵援﹂があった
こと が︑
元文六年(一七四こ四月六日条に次のように見える(該当箇所をゴシックで示した)︒
回
‑大抗︿院械御造物之外ニ納勉リ峡n山
々︑今
日庄 一之 辿
米
後伏見院従事一
︑御製行行
.j!i
、待I 御),~n~
a
ト,、物品
'1'
近衛
准后
御悦
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‑ N :
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却 .J!~
~~
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渋川
市官
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九HU訓V1E︐aqd
・"
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巾叫
ん恥
側倹
忠卿
︑秋
AU
御 軸 物
hH州卿御事
︑税
ぃ
1H AI
集
て
能御
絵鑑
一︑ほ絵御手鑑
で
われ よ八 仙人
.︑御M
叶胤 叫付 野秀 日本
を
申10¥
符
1
1
自 和 双︿T rb u
. ノ UH M"
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.︑御胤呂先御肘胤
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i
却ノn k
JJ
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山 川 縫m L ‑
川一︑米臨御M
叶 胤
双
一︑耐
f
伽阿
川胤
双
川
M
慎一︑御衝立脚
一︑
御ム
ロ下
梨地
飾
一︑御火鉢
此後追々︑雪村花鳥︑常信琴碁品川u商之御酔胤等︑霊芝一箱︑[記弐通入︑
一通
者和
文]
︑御
刀掛
類
︑一通者漢文︑
其外御盟等泊茂相廻ル︒
右に﹁天失院様御遺物之外﹂とあるのは︑﹁天英院の遺品以外の品﹂の謝いではなく︑﹁天笑院のその他の遺品﹂の
能‑JEJと絵繭 意である︒﹁問薄明実﹄の前日(凹月江円)粂によれば
︑こ
の口
︑
﹁天英続様御法物﹂として︑二条為家銑﹁伊勢物語﹄︑
件付
好探
酬惟
﹃花鳥押絵御昨風﹄などが叩安
・米に
刷け
られ
てお
り︑
山花
・ 川︑その他の遺品として追加で送られてきたのが︑
布の品々なのであった︒
この
詑引
は︑
田安家にもかつて﹁能絵鑑﹂が所出賊されていたことを伝えている︒それは能研
本とはまた別の﹁能絵鑑﹂であったろう
︒ ﹃
m川
部事
﹂実は︑.大災院の遺品のうち絵師の名が明らかなものにつ︑
いて
ハ 叶
up u
は︑これを明記している︒能術本は木知の金山内によれば狩野作湖の市であり︑もし天英院遺品の﹁能絵鑑﹂が能研
70
本と同一であれば︑そこにも春湖銃の注記があったと思われるからである
︒ ﹃
旧藩事実﹄によれば︑間安家に周けら
れた
天英院の遺品のうち︑近衛基照や後水尾院筆の掛物な
ど ︑
いくつかは回安家中の武士が拝領している︒田安家に
伝わった天英院遺品の﹁能絵鑑﹂も︑後に紀伊滞附家老の水野家が拝領し︑同家に襲蔵されるにいたったというケ
l
スも︑あるいは考えられるかも知れない︒しかし
︑旧
安山
本が
もと
紀伊
徳
川家の分家筋にあたるという以上に︑水野家
と旧安家との関わりゃ﹂見出せず︑その可能性は低いように思われる︒むしろ︑現在知られている三本のほかに︑旧安
家にもまた別の﹁能絵鑑﹂が伝わっていたと見た方がよいかと思われるが︑﹃凹薄事実﹄の右の記事で何より注目さ
れるのは︑その﹁能絵鑑﹂が天英院の旧蔵品であったという事実である︒天英院照子は近衛基照の娘として京都にい
た幼
少期
から
︑時
の品
川子
内親
王や兄弟とともに︑しばしば轍子や冷瑠璃を見物しており(﹁常子内親王
日記
﹄ ) ︑将軍御
台所として江戸城に入った後も︑大奥に舞妓を召すことが度々あった(﹁徳川笑紀
﹂ ︒
宮川長森年﹁風俗図巻﹂︹東京国
立博物館蹴︺はその機子を描くものか)︒家五没後︑部飾して天英院を名釆ってからも︑御能見物のために︑しばし
ぱ江戸城の二丸や西丸を訪れたことが﹁山務事実﹄に見える︒その御能の場で︑
m
安宗武が徳川家賃一の名代として︿難波
﹀
︿
鵜飼﹀の能を舞い︑天英院の御覧に入れたこともあった︒このように能を深く愛した天英院照子の存在も︑
﹁能
絵鑑
﹂の制作を促した一つの要因であったのではなかろうか︒家宣が天英院をはじめとする近判明者のために
︑御
用絵師らに命じて作らせたのが﹁能絵鑑﹂の諸本であった可能性を指摘しておきたい︒
現存する三本の﹁能絵鑑﹂は︑先述のごとく︑それぞれ同一山については︑ほとんど同じ構図で拙かれている(図
版3・4)︒こうした現象は︑粉本・に基づく能絵の制作においては︑しばしば見られるところであり︑﹁能絵鍛﹂
の制
作に際しても︑共通する下絵が用いられた可能性を示唆していよう︒
しか
し︑
﹁能絵
鑑 ﹂
以前の作品に︑これと同一
の桃聞の能絵を見出すことは出来ない︒
その
こと
は︑
﹁能絵鑑﹂が︑先行する能絵の粉本に基づいて拙かれたもので
はないことを示してい
i 色 色
る さ ら に
︑
﹁ 能 絵
拡﹂の
. . .
ぶ・
の阿
川仰
を比
較す ると
︑
防州はほと
んと川しながら︑
J{~ 姶
人物の品川きが微妙に民
なる例が多く見られる
ことに気付く
左に掲
げたのは︑能研本と同
立能業常本との問に民
川が 見ら れる
﹁山 川船
﹂
同である(肉版
5
・6 1
両同とも︑船の作り物
mt' l(~r と絵桝
やワキの描き方は酷似
l叫It'i3
l渇附4・1 しているが︑能研本が︑引き留めようとする日本のLJと辿れれ柿ろうとする府の子との問で組段宮人が板挟みになる場
似の事例は︑中仰向伊辻本との間にも必められるところであり︑ 而を姉くのに対し︑同h仏能梨常本はその後の︑親子丘人打ち揃って舟に決り︑
w k
に対同する渇耐を怖いている︒川
制作における惚放のド絵の作配を物折つ
71
﹃能 絵鑑
﹂
ている
﹄こ
に︑
能印
刷本
・川
な能 仙波 常本
・宇
和山
川
V述本のJ
・本 に比 一泊 する 州十八阿につき︑その悦凶の同川の打燃を
72
示すと次のようになる︒
なお︑人物の微細な動
きの差異については特
に奥問とは認めず︑明
らかに舵図や人物の動
きが巽なるもののみを
異向として取り上げた︒
また︑装京については
俳図が同一であっても︑
文様まで一致する例が
ほとんどなく︑共通す
る下絵を用いながらも︑
あえて異なる文総の装
東を描くことで︑岡両
島
骨ι
図版5
[豆1I:F.i6 に変化を持たせているように見受けられる︒そのため︑装束の文様の相違についても︑
即決
岡の
例に
は
加えなかった︒
( A
)
一一一本とも構図が同一のもの(凶山)高砂・嵐
山・
賀茂・和布刈・回村・
頼政
・東北・松胤・湯谷・江口・葵上・税目前神・
社若
・芦刈・融・
天技
・安宅
・七騎絡
( B )
能研本
のみ
悦凶が見なるもの
(日品川) 錐波
・乃八幡
・在 松
・氷前
・忠 度
・尖脱
・野々官
・野守
・凶行桜
・海上
・橋弁出
( C
)
川立能淡快本のみ
m m
凶が邦なるもの( G
山)山川髭・
小鍛冶
‑ m m ‑
自然肘上
・仙
以下
側
・州 側
々
( D )
宇和品
川
V述・
4
のみ併凶が見なるもの
( 8
品 川
)
阪・
八嶋
・娃
界
‑AIH利・
山姥
・似品
・羽衣
・肱川
( E )
三本ともそれぞ
れ併問が旧民なるもの
( 5
山)市対
弁慶
・道成寺
・三輪・
府船
・お減
右に見るように︑﹁能絵鑑﹂の
三
本は︑その多くが同一の隣凶で描かれているが︑その一方で︑構図を異にする ケースも少なくない
︒
また︑構図はほとんど同じながら︑登場人物の動きが微妙に異なり︑数秒前あるいは数秒後の 場市を描く例も散見する
︒この
ことは︑実際の舞台の写生に基づいて︑怯
数の下絵が作られたこ
とを物話っていよう
︒
能.ff.jと絵画 その下絵を適宜取捨選択して
︑﹁
能絵鑑
﹂
の祐本が制作されたのだと与え
られる
︒
すなわち
︑先行
する
能絵の粉本に 頼ることなく︑写生による下絵から始めて
︑
いわば姉きドろしのよう
な形で
︑
五十図
︑さらに行五十閃にも及ぷ膨大
な能絵の作
品が
完成された
ことになる
︒
そのためには多大な労力と時間を要したであろう
︒
当時こう
した
一大プロ
ジエクトを推進することが可能であった
人物
は︑
家 内
川以外に考
え難い︒
家穴は瓦代将市制
bけ
をも越える能
柾いとして
73
知られるが︑﹁能絵鑑﹂もま
た︑その能紅いを伝える資料の
一つといえるのではなかろうか
︒