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ル川凶能楽図譜(能楽研究所蔵)

能・狂言絵制作のための粉本・下絵︒金五十八枚

︒一

部彩色が施されているものもある︒怨致の典なる絵が混殺し︑複数の絵

師の手になるらしい︒伝来の絞綜や銑写時期は不明ながら︑﹁金札﹂問中に﹁行年八十二歳雪中

咋商

﹂と 思一 容が あり

︑廿

↑燃の門人として商業にも堪能であった術主流協役者︑町制王淡右衛門 ( 宵

界)鍛の能絵の写しも合まれる︒能絵の制作過程が波える貴

重な資料︒友にはその﹁金札﹂と﹁常陸術﹂﹁氷室﹂の闘を掲げる︒

﹁常

殴荷

﹂は江戸期︑宝生流のみの所協州であった秘的︒

﹁氷 山金

﹂図 は

︑能研本﹁能絵鑑﹂の﹁

氷 山 怠

﹂図

( ぬ

凶)と問栴凶で︑﹁能絵鑑﹂の粉・本・が後世まで受け縦がれていた様相を示して

いる

8 4  

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TE

金 札

弱 み

尚 却 能 之 凶 式

(能楽研究所蔵)

元禄十年(一六九七)刊の絵入り能楽概説書︒能の由来についての解説︑

物 件

ム ロ

・而・衣装

・小

道 日

・作り物の悶解︑訴の山名目

録などを収録する︒大部分は貞

一 手

間作(一六八七)刊﹁能之訓談開

設 ﹄

からの低級であるが︑凶版を大幅に地繍するなど︑入門

校としての性格をより顕者に打ち

出し てい る

とり わけ

︑﹁

高砂

﹂﹁ 道成 寺

など

二十山に及ぶ能の舞台肉の挿絵を新たに収

めているのが注目される︒婦絵のいくつかは︑仏

i

間 日

ほ川 の谷 閣と 人物 の俄 図が

酷似し︑同系統の粉本を参照するらしい︒

狂言・と絵図

。:"'~{í1首

1: 85 

ぬ 包 狂

古図

﹁禰

立山

伏﹂

(佐

野文

館内

服)

従貯竪氏旧蔵︒同じく笹野氏の旧蔵であった﹁狂言古凶﹂

(国

立能

楽堂

蔵)

﹁狂言

後紫

古画

帖﹂

(江島博志氏蔵)と問一蹴の形

状・寸法がほぼ同じで︑もと一具の般れと見られる︒中央の大黒天の部分だけが例り立かれ︑そこに後から方形の紙が貼られ

てい

︒左に禰賞︑右に山伏の姿を描く︒

制酬

の姉

写な

どに

︑狂

言古図・狂言

後索

古磁

帖と

北ハ

︑過

する

錐致

が見

て取

れる

︒現在は

メクリの状態で保存されているが︑裂に金砂粉が付析しており︑もとは堺風に鮎り交ぜられていたか︒

8 6  

J'古│

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11:3 

r

首ヲIJ

詑 狂

﹁ 品

川引﹂悶(能楽研究所総)狂言古閑などと同様︑団扇型の狂言凶であるが︑寸法がやや大振りで︑別系統の作品らしい︒これとほぼ肉じ大きさで︑鍬下致

もよく似た団扇型の狂言闘が他にも現存し︑もともと三十枚以上存したことが知られている

︒ 一

巡の狂言古凶の作品群よりや

や時代が下る時期の制作らしいが︑その分描写も洗練され︑役者の生き生きとした動きを鮮やかに伝えている︒

能・狂Ifと絵IIIII

8 7  

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も 蕗 ;

的ω筏一J凶巻

( 鴻

山文州政)

品川

節斎

(伝 .小 川

判 )

の市 にな

At

‑卜一.

山の

・J州︒巻末の川市

川 に

よれば︑兆一

円相 前の

従・U雨巷を絞りしたものという︒

江戸

中川

頃の作︒

リチ ャ

lド・

p

・ゲ

1ル氏政の炎.燃勺﹁抗

日絵 巻﹄

が本谷の.版本で︑その原本の安を克明に写している︒補修の際

の鎖的があり︑州中に記載の品川名はその補修後に作き加えられ

たも ので

﹁ 米 市 ﹂

﹁恵比定昆沙門﹂

の阿 の

一部を﹁児沙門述

歌﹂と誤って記入する︒写真は︑淑為捌が鬼と行引き合戦を繰

り広げる狂戸﹁計引﹂の一場而︒ユーモラスな鬼の表情が而白︑︒

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aE,"11

88  尚剖 征 江

﹁節分﹂問{能楽研究所蔵)

江. P

の町 絵師

︑山 仰向 谷の 恰い にな る狂

3

州︒問符は

・ば

﹁ 川附江年{十

.じ

O

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の生まれ︑文化・

冗年

ご八

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問)の

︒一

酬を

防火

.燃

の門

人依 脇由 之に 学び

一燦風の風俗画を御意とした︒

本紬 を収 める 初代 げに は

﹁耐制﹂とあるが︑武・必而に設笠という出で立ちから︑狂汁﹁節分﹂に管場する越裟・川の山地の姿を揃いたものと知れる

︒﹁

節分﹂は節分の伐にやってきた必柴山の山

泌 が ︑

一人

留守をする次に懸怨するも︑一

u

によって追い払われるという内符の絞一

u

︒本間の鬼の揃写は︑一燦管﹁十二ヶ月胤俗凶巻﹂

(現 所在 不明

︒模本東京樹立博物館蔵)

所収 の打 紘

一日﹁節分﹂図に怖かれる鬼の姿と除似し(一部衣袋の術写に相述ありて一一線の保闘に基づく粉本を利

m

するらしい︒

なお

︑大正問年の京ぷ尖術倶楽部﹃

某大 家所 蔵口 川入 札

﹄の日録に﹁お谷叙

3

双制

が見え︑本品開ももとは双幅で︑その片側に︑

﹁節 分﹂ のも う

一人の登場人物である女の姿が捕かれていた可能性があろう︒

~E , r~自分J I

ぬお能楽凶絵(能楽研究所殺) 明治・大正期に活蹴し︑附和二年に没した月間排漁は︑他州というジャンルの政弘に多大な功制を来たした人物として知られ る︒浮枇絵師の刀附附万年やυ

山形

H

らに

附州

市 'o当初は伶の尖米の俄である坂巻姓を名来っていたが︑明治末年頃から︑バ附万 年と川M附した付の泊

3

により︑刀附挑漁をbh来る︒

その

俳倣 川明

仰の

人作ともいうべき作品が明治一・ ぃ

:ト

年か

ら・

・ 一十

κ

年・ にか け て州版された﹁能濃凶絵﹂︑大正十.年から卜凶年頃にかけて出版された﹁能淡町幣﹄であり︑創刊紙な備制と変化に山んだ州

hr

Jで能耐の世界に新境地を聞いた︒

.~五六と絵|描i

• •  

89 

1 1日軍s

Jf'Tf 

m山能尚凶式(野上文服部概}

ヒ殺で歌川副芳に浮叶一絵を学ぴ︑さらに前村制白について狩野派を学んだ何鍋焼斎は︑大山賊流の狂

‑J

をも晴むマルチタレント

の持ち主であった映斎の両側は多岐にわたる

︒狂汀州も多く間伐しており︑その代長作には慶応

ぷ 一

年ご八六じ)刊行の﹃能両側式﹄がある︒明治士十一

・・

年に

ド谷

御知

山町

の有

川合兵術より刊行された本内は︑その﹁他出向閉式﹄から符1u州を抜き山して川

版したもので︑﹁本六駄

﹂﹁

依大名﹂以ド︑会ヒ十二併の托

‑ r u

州を収めるcその特妙高川脱な市孜は︑蹴動感あふれる犯・バの励き

を余すところなく術写し︑暁宵川の点竹川

以を

示して

いる

9 0  

尚幻総楽凶式(能楽研究所桜)

能・叙

‑ Jの待合凶を術く木版多色刷の絵本金二十六制を︒

収め

る︒明治問十年の刊行ながら︑江戸械での

﹁可 欠立

AH﹂や︑武 士が

H

所に 肘鋭 ぶ宝 性宅 での 能初 めの 例な ど︑ 総ボ の山 川能 の隙

︐を伝える絵凶が散見する何鍋晩粛の作・狂のf他の能J併‑︒

合凶は山名と流儀取引を併記︒

府 代

のe d 附併 合同 が

的も

多く

︑鳩 山山 の﹁

M m 峨﹂﹁参宮﹂などの同はAは︐︑

失わ れた 鷺山 此の 前 山を伝え

る資料としても段坑である︒写真は︑主住宅での能初の制と︑犯

・ バ ﹁

円相伐﹂の同︒

能.lllI‑と絵図

91 

ぬ 持 能 濃 ス ケ

ッチ(能策研究所必)

戦川

町中

の能

で綿花J

けを

Ad

む)のスケッチ︒州

ん 氷

は.小川だが︑泌絞

V

氏のように動さの一つ.つを従えたデッサンから

は ︑

剛山氷

のぼかな校以が鴛われる削悦

UU

の八冊には﹁

. K

1 L

・ ﹂

から﹁

κ

十八弘まで泌し田町りが付されており.さらに・九十間分が別に作

介比したらしい附和十八年から十九年にかけての︑以以火山の制似会能濃常での減能か山中心万点は︑附初Ll

年の

出向

引い

山念

日にしし抗された以前鑑﹂︑および川

年 ・ ・

川六日の制附A

公定期能で上滅された隅川川

﹂のスケーチ﹁

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緒﹂は峨減免仰の

た め に 作 ら れ た 所 作 能 米

て川英

d

伐の訓を受け︑市慨に鑑船を進める絃必・砲術ししらの安を指︿﹁問川川﹂

は ・ 川 晶

をさらわれた川りが花火となってわが子を

d

ね隅川川までやってきた均耐を偽くシテはともに﹂ハ悦脱欧鋭一之一本(俗勺)がつとめた︒

9 2  

111

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五 ︑ 能の

興行を記録する絵

μ

中氷川になると︑ある能の出しを︑

.辿

時間的披移とともに︑その純ムHの山氏側も合めて怖いた︑新たな地内の

能・

技 ・

J両がな場する︒前節で取り上げた倣々な絵耐

作品 が︑

もっ

ぱら

鮮人

打で怖じられる能・

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托.

.は

その

もの

捌く

のに

対し

﹁能の興行を記録する絵阿﹂は︑

掛川

上での出能のみならず︑それを凡物する制符の資︑務局で山砕

を 仰

つ役持の安などにもスポットライトを当て︑能の似しの全体的問を描くことに主眼をおく︒それゆえこの純の絵州は︑

前能の

HH

体的様子を伝える記録画としての性的を持っており︑能来史料としてもきわめて布川な資料となっている︒

その代表例が︑弘化勧進能絵巻であろう︒江戸の町名主︑斎藤川山今の本になるもので︑能策研究所などに大久保斑

当らの手になる写しが綾数所川賊されている︒宝生家にも月以︐肉恨の弘化勧進能絵巻があったが︑大臣の淀災により焼

失︒しかし︑同絵巻に基づく忠実な版本が刊行されており︑それによって失われた絵巻の而影を知ることが出来る︒ 弘化勧進能絵巻は︑当時から評判を呼

んだらしく︑制作直後より多くの写本が作成されたことが︑﹃斎藤月本日

記﹄の記述から知られる︒現存諸本には︑出能の

舞台

凶や絵の配列に若干の相違が見られるが︑そうした異同は︑月

巾今自ら複数の館本を制作していたことに起間するのであろう︒その弘化勧進能絵巻の概要を︑能策研究所蔵の大久保 .JE. fと絵ii

砲告書写本によって示せば︑辻札・入場切手の模写︑能助金問・桟敷全開の控え︑能場の地図︑興行に先立つ触れ太

鼓の

問︑

能川

怖の

外観

図(

﹁斎

藤月

山今

日記

﹄山

︑ 水

元年二川条にこの下絵が拙かれる)︑能場入り口の図︑興行前の舞台桟

敷の側︑御出役方詰所の問︑舞台・総針りの剛︑興行中の持ム門桟般の閥︑山氏側より見た桟敷席の問︑来

M m 一 の

問︑場内

光り物の悦写問︑

u m

途につく比物客の凶︑卜五け間の能許制肌の慌写図等から成っており︑勧進能の始まりから終了ま

93 

で︑谷郎から舞ム口市氏まで︑余すところなく術

η

する︒さらには︑場内で光られていた隙々な弁中l

・小

物の却の校写を

ドキュメント内 能・狂言と絵画 : 描かれた能・狂言の系譜 (ページ 37-63)

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