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ローマ教養とその崩壊

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ローマ教養とその崩壊

井 為 友

1 ローマ教養の意味

 ここでは,短かくローマ教養ということばを使うが,その内容を適確i精細に 描き出すことは,非常に困難なしごとである。それは,明らかにギリシャ人の 持っていた教養とも,キリスト教主義の教養ともことなっている。概念の周辺 は相当にきわ立っているようでありながら,内実にわけ入ってみると必ずしも 予想されるほど明確ではない。これは,すべての民族の教養に共通することで

もあろう。

 ただ,ここでいうローマ教養ということばの使い方だけは一応はっきり規定 しておきたい。Roman Cultureといえば, P一マ文化の意味である。ことさ らにここでローマ教養といったのは,ローマ人が多く後天的に身につけていた 特性をさそうとしたからである。教養というかぎり,それは先天的なものであ

るよりも修飾的なものである。しかし,この区別はさほど明確でない。なぜな らば,教養は性格的なものにまで定着することによって,はじめて教養として 生きて働らくからである。とくに,個人のばあいならば,まだこのふたつを区 分してとらえることもできようが,民族のばあいになると,両者はほとんど一 体にまで融合している。

 いずれにせよ,ここではローマ教養ということばにおいて,ローマ文化を創 造した精神的な諸力を考えたい。それが基底にあって,ローマ文化(Roman Culture)乃至ローマ文明(Roman Civilization)の花が咲いたと考えられるよ

うなものである。

 ローマ教養を,他との対比においてとらえようとする試みは,古くから多く の人によって試みられている。例えば教育史家デヴィドソン(Thomas Davi一

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dson)はつぎのようにいう。

  アテネからローマに移ると,詩から散文にうつり,芸術家の遊山から事務  所にうつり,現在を美しくしてそれを合理的に高雅に享楽しようとする人民  から,現在の享楽を将来の利益のために隷属せしめようとする人民にうつ  り,理性によって生活する人民から,権威によって生活する人民にうつるの

 である。

  アテネ人はかれらの神々の「前で歓楽する」が,ローマ人は神々と共に憤  務者と債権者との計算をし,そのバランスがつねに正しい側にあらしめよう  と心配する。

  ローマ人とスパルタ人とはよく似ている。両者には同じような厳正な組織  があり,個人が全く国家に従属する点も同一である。けれどもつぎの如き著  しいまた重要な相違がある。即ちスパルタ人は厳格にして大げさな訓練によ  って団結するけれども,ロー−r人は協力的労働者の団体のように自己の意志  によって団結する。このことは,保守的な,散文的な,実践的な,排他的な,且  つ永続的なローマ人の生活一それと共にP一マ人の教育を多く説明する。*

 以上のような叙述は,たしかに明確にローマ教養をうきぼりにする。しかし このようなとらえ方は,やはり多少の無理をともなっていると思われる。

 *Thomas Davidson, A History of Edu(ration,1900(小林澄兄訳「世界教育思想史」

  (1952)の訳による)

 周知のように,ローマ教養をヘラスの教養との対比においてばかなりでな く,ヘブライとの対比において,あるいはまた後に続くビザソチソやサラセン との対比においてとらえた文化史家は多い。これらの努力によって,P一マ教 養の周辺は可成り明確に区切られる。しかしながら,この種の把握には,対象 から余りに距離をおいて見ているのではないかという難点と,対象そのものの 動的な把握に欠けるのではないかという憂慮とがつきまとう。

 ことに,この後者の観点は重要である。たとえばローマ教養に本質的なもの を,共和制以前の時代に求めようとする考え方がある。ロムルスとレムスの建 周の伝説に象徴されるような,素朴剛健な気象,長期の家庭教育によってつち

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かわれる敬神と勇武の精神,勤労を尊ぶ積極果敢の習性,これらのものこそ,

ローマ教養に本質的なものとして,あの巨大な世界文明を築いた根源力である とする考え方である。

 この見地に立てば,ギリシャ文化の侵入(Hellenization)は,本来のローマ 釣なものの喪失であり,ローマの堕落ということになる。老カトーによって代 表される保守主i義の努力,とくにB.C.161のDecree of the Roman Senate や,B. C.92のDecree of the Censor*などが,結局のところ効を奏しなか ったということは,P一マ教養崩壊の第1原因であると見られるのである。

 この見地に立って,ローマに対するキリスト教文化の流入が,ローマ教養の 崩壊を促進した第2の原因であるとする考え方も一般におこなわれている。こ のばあいの保守主義は,2〜3世紀における残忍なキリスト教徒迫害としてあ らわれたと見るのである。そして結局のところ,どんな狂暴さも,キリスト教 を抹殺し去ることができなかったとき,ローマ教養は完全に滅び去ったのであ ると見るのである。

 *Cubberley, E.P., The History of Education,1920, P.63.

 このような見方に対して,全く反対の見方も成立する。異質物の摂取融合力 こそ,ローマ人に本質的な力であるとする考えである。たえず外来の文化を摂 取して,これを自己の血肉にまで消化し,生成発展していったのがP一マ人の 教養の実体であるとするのである。ローマ人は,その種族が本来的に雑種であ るように,純粋なもの,特異な固有なものを持ちあわせていなかった。そのた め,かえってかつて無いような包容力のある民族性を発揮したのであるとする のである。このような見地の方が,すくなくとも事態を発展的にとらえている 点で,比較主義や類型主義の立場よりも一層具体的であると思われる。

 ローマ教養を発展の相においてとらえるとしても,これを時代区分する考え 方はさまざまである。石山脩平氏は,共和制期と帝政期との2つに分けている*

し,またたとえばカーチス,バウルトウッド(Curtis, S. J. and Boultwood,

M.E.A.)などは,大きく2大時期にわけるとすれば,紀元前世3紀の中頃,第  *石山脩平「西洋古代中世教育史」1950,p.218 f.

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1ポエニ戦後の終末の時を境にすべきである*としている。一般にぱソビエト

 *Curtis and Boultwood, A Short History of Educationa11deas,1954, P.48.

教育科学アカデミー編「世界教育史」で述べている*ような,つぎの3時代区 分が無難とされている。

 (1)種族ローマまたは専制ローマの時代(B.C.6世紀まで)

 (2)共和制ローマの時代(B.C.6世紀からAD.1世紀まで)

 (3)帝政ローマの時代(紀元5世紀まで)

 *コソスタンチーノブ監修「世界教育史」第1巻(勝田昌二等訳)1954,p. 34.

 これらの時代の中でのP一マ教養の変貌の姿をこまかに検討しながら,なお そこに一貫しているローマ教養的なものをどうおさえたらよいであろうか。そ

こではおそらく,ことさらに周辺の文化との対比をうき立たせるのでなく,む しろそれらに共通点を求めながら,しかもなおローマの独自性を失わないもの を追求すべきであろう。こういう点から,一般に承認されるような特質をとり 出すと,それはいきおい抽象的なものにとどまらざるを得なくなる。しかし,

われわれは,これをつぎの3点でおさえておきたい。

 その第1は,既にふれたように,寛容性という特性である。これを包容力あ るいは同化力といいかえることもできる。ローマでは諸種の外来文化が比較的 抵抗なしに,またそれ故に歪曲も少なくて,受け入れられた。「道はローマに 通ずる」ということばが示した抽象的な側面は,このような包容力を示してい

た。

 この点からみるならば,老カトーなどの抵抗にもかかわらず,P一マ教養と ギリシャ教養との同一の側面さえ指摘できよう。同一といえないまでも,必ず

しも氷炭相容れないものでなかったという点である。すなわち,実際性と芸術 性との相違があるにせよ,両者はいずれも現世的・地上的であったといわれ

る。ギリシャ文化移入期の抵抗は,むしろ数世紀の文化史の落差から来ている といえないことも無いようである。

 キリスト教文化移入の過程についても,また同様なことが言える。ローマ人 はもともと自然崇拝の多神教徒であったけれども,比較的宗教への熱狂性に乏

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しかった。このことは,宗教的寛容性に通じていた。この性格が,多種類の民 族の征服統治を可能にした原因とも考えられる。この点からいうと,キリスト 教徒迫害は,排他的な一神教徒として,異教信仰を認めまいとするキリスト教 徒が,みずから招いた結果といえないことも無いようである。キリスト教精神 の中にある個人主義的傾向は,共和制期を通じてつくりあげられてきたローマ 人の特性と相通ずるものがある。この点でも両者の共通のひろばは相当に大き

く展開していたとおもわれる。

 第2の特性は,すでにデヴィドソソにおいてもみたように,実際的功利的な 性格といえよう。ローマ人は,合理的とか整合的とかいうことよりも,それが どれだけ役に立つかという点に優位をおいた。百の議論より一の実行であっ た。この考え方は,教育の世界では行為(doing)の重視としてあらわれてい

る。訓戒といわれるような,ことばの上で理解させるよりも,実践による示範 が遙かに手っとり早いものとされたのである*。

 このような実際的功利的な性格が,軍用道路の建設を実現させ,水道も浴場 も,コPセウムもつくらせた。しかも,永遠の都ローマの繁栄は,結局のとこ ろ征服地の貢納や徴税にかかっていたのであるから,統治の方式は,ローマ人 において大きな関心事とならざるを得なかったわけである。

 *例えばSenecaはEpistulae Moralesの中で次のようにいっている。 Long is the

  road through precepts;short alld effective, through examples. (Graves, F. P., A   History of Edu(ration Before The Middle Ages,1910, P・242・

 第3の特徴として,政治的人間(homo politicus)の成長を問題にする必要 がある。それは,初期の12銅版法の成立の中に萌芽が見られ,これによって法 治国民としての国民性が形造られたと見られる。12銅版法は法規というよりも その取扱上からは教育の戒律というべきである。紀元前450年の成立以後にお いては,ローマのすべての子どもが,12銅版法を学習し,その意味を説明し得

るということが,自由民としての不可欠の教養とされた。

 12銅版法は,B.C.450に貴族に対する平民の最初の勝利の記録として成立し たといわれる。これは両階級の合意にもとづき,両者ともに守ってゆくべきも

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のとして明文化されたものといわれるが,ローマ社会の「氏族制諸関係の遺制 を根強く残しながら,奴隷制度が確立した時期の産物*」とされている。現在 推定される内容はつぎのようである。

 *ソビェト科学アカデミー版「世界史」(林基等訳)古代第4巻,1960,p.163.

 1 執政官の召喚に関すること  1[法律制定の手続きに関すること

 皿 自白または判決による刑罰の執行に関すること  ]v 父権

 V 相続及び後見に関すること  V[所有権と占有に関すること  W 不動産に関する法

 珊1不正行為および傷害に関する法  x 公法

 X 祭祀法

 X[ 1乃至Vの補則,2階級間の婚姻の禁止  皿 V[乃至Xの補則,雑則。

 このような規定を,子どもの中から九九のように暗論させられたということ は,特異なことである。こうして成立したローマ人の政治的性格は,全く法と きり離すことのできないものであり,これが異民族統治において特殊な才能を 発揮させた根拠とも見ることができる。かれらが,征服した民族を全く無法に 取り扱うことなく,法の範囲内で合法的に取り扱ってゆこうとする意図を示し たということが,異民族統治の秘密であるといわれる。いわば,法の普遍性が 異民族の社会秩序へ侵透していった政策を可能にしたといえる。ローマの世界 史的意義と使命とを,イェーリンク(R.von Jhering)は,「普遍性の思想に

よる民族性原理の克服」といっている(「ローマ法の精神」)が,このことの意 味は,一つには以上のような点にも見られるといえよう。

2 ローマ教養の啓培

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 P一マ教養を,つねに生成発展の過程にあったものとしてとらえながら,し かもそれらの発展をつらぬいてその基底を形成していたものとして,われわれ は,寛容性,実際性,政治性の3つをとりだしてみた。そこで,このような性 格が,特殊な民族性としての性格を持ちながらも,なお伝統として受け継がれ,

教化形成されていった場を明らかにしなければならない。

 ローマ教養の啓培において,すでに多くの教育史家が指摘するように・学校 教育が占めた役割は必ずしも大きく評価することができない。むしろ一般にロ ーマ人は,学校に対して大きな期待をつないでいなかった。この点では,1世 紀末の人であるクインチリアーヌス(Marcus FabiusΩuintilianus・35−96)

でさえなお「弁論家の教育」の中で,学校教育の存在意義を大いに弁護しなけ ればならなかったということが証明する。*

 *横尾壮英「クィソティリアーヌス」(1957)ではつぎのように書いている。「学校は   すでに共和制末期から漸次増加し,教育の場としての家庭に対する比重を強めっっ   あったのであるが,しかし父兄の中にはいさぎよくこの新傾向を是認して・その子   弟を文法教師の下に送る者と,なお1udusの教育に疑惑をもって・家庭教師による   教育を好む老との2派があった。」(p.82)

 それならば,学校以外のどこでこのような性格を身につけたかというと・そ れは周知のように家庭においてである。家庭教育が意図的計画的に組職だてら れていたという点では,ローマは古今にその比を見ないといわれている。いう

までもなくそれはとくにギリシャ化以前の時代のことである。

 12銅版法が家庭において学習されたことはすでに見た如くであるが・これは 同時に読み書きの学習をも兼ねていたようである。12銅版法まで進む前の段階

として,過去の有名な物語の暗論,長詩や・軍歌・信仰歌の暗諦などがおこな われた*。そして,解説と共に暗諦させられた12銅版法では,父権(patria po−

testas)について,つぎのように規定していたといわれる。

 *Graves, op. cit., p.238.

  父は不具崎形の初生児を直ちに殺す権利を有し,また子どもの生涯を通じ  て,監禁し,鞭健し,殺害しまたは売却し得る権利を有し,公職高位につけ

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 る後の子どもに対してすら,これらの権利を有していた詳

 *石山脩平,上掲,p.225.

 この点で父権は子どもの成人後,女子の結婚後にまで及んだ。こういう教育 が幼少時から注入されると,極端に専制的な家族社会を出現させると考えられ

る。しかし,それがわが国の戦前までの家族制度のように,極端な個人の抹殺 にまで至らせなかった原因としては,母権ともいうべきものの高さをあげるこ

とができよう。

 12銅版法には父権のみが規定されていて,母権については何等言及していな い。しかし,実質的には慣習として母権が父権にまさるとも劣らないものとし て認められていた。》;くむしろ幼少時の子どもたちの教育の全責任が母親にまか せられていたといっても過言でない。子どもにたいして,道徳的,宗教的情操 を植えつけるのは,母の責任であった。これらを通して,正しい人生観と生活 態度の基礎を身につけさせたのは母親である。「母の膝の下で教育されること」

(educari in gremio matris.)は,ローマ教育の本道と考えられていた。

 *Grves, op. cit., p.237.

 このため,婦人に対する尊敬が,とくに厚かった。キリスト教の出現以前に おいて,婦人をこれ程までに尊敬した種族は他に無いといわれる。街頭で男子 が婦人に道を譲ることは当然の社会的ルールであったし,婦人の前で無作法を 演ずるものは処罰された。また婦人は,夫の会食や会議や裁判等の公共の席に 同伴して,知見をひろめるのが慣例であった。* このような高い地位が保障さ れていたからこそ,子どもたちの教育を全責任をもって遂行できたのである。

 ee石山脩平,上掲, p.224.

 もちろん,子どもたちも成長すれば,男子は父に従って集会や仕事にたつさ わり,これを実地に指導され,また女子は母親のもとにあって,家庭の管理を 実さい的に習得した。こうしたローマの家庭教育において,もしも寛容の特性 が養われ得たとするならば,それは家庭における父母の同権に由来するといっ てよい。政治的性格,実際的性格等については,家庭教育の様式の中に,これ を養い得る要素が多分にあったことが認められる。

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 しかしながら,家庭という小単位の世界で,以上のような3つの特性が,世 界的な意味を持つまでに伸長され得たかという点は問題である。この点で,例

えばバッツ(Butts, R. F.)なども指摘するように*,ひろい意味での社会内の

 *Butts, R. Freeman, A Cultural History of Education,1947, p.123.

教育が大きな教育力として作用していたことは事実であろう。いわば,わが国 の社会教育という概念がねらっているような,社会における教育機能の問題で ある。P一マ社会では,建国以来この種の社会教育が,教育的効果を高度に発 揮し得る体制がつくられていたと考えられる。バッツがあげているところで

は,the Forum, the Senate, the popular Assembly, the civic religious

observances等の活動が,共和制時代においても,巨大な教育力を持ってい た。また,すぐれた建築,彫刻,美術などがたえず一一般の目にふれるところに 置かれて居り,これが後々までもローマの偉大さへの誇り,皇帝への敬意を喚 起させた。種々の競技,サーカス,劇場,公衆浴場,祭典,休日等が,ほとん どすべて公共的なものとして運営され,強い社会的教育力を発揮した。この点,

わが国で現在でもこれらの活動が,ほとんどすべて反教育的なものとして機能 しているのとは大きな相違といえよう。また,知的探求を志すもののためには 後になって設けられたものではあるが,図書館,博物館,研究所等の施設が社 会教育の機能を発揮した。*

 *Butts, op. cit., p.124.

 これら家庭や社会での教育についで,学校もまた相当の教育的機能を営んだ ことは無視できない。学校というものが,もともと,教育活動を最も組織的計 画的に実施する施設としてうまれてきたものであるかぎり,それがほとんど教 育作用を営まなかったとしたら奇怪なことである。

 しかしながら,ローマ教養における学校の位置は,すでに述べたように,必 ずしも高くない。それは,ローマ人の実際的性格と合致しなかったのではない かとも考えられる。学校が意図的組織的な教育機関であるという本質は,同時 に学校の教育内容の非実際性,抽象性と無縁ではない。実行を重んじ,「なすこ

とによって学ぶ」(Learning by doing)を学校がどんなに強調したとしても・

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学校というワクの中での実行(doing)は,所詮「ままごと遊び」に過ぎなくな る宿命をもっている。

 学校の抽象性は,それの社会との隔離性とも無縁ではない。学校と社会の間 に通路をつけよ*ととなえても,学校は不可避的に特殊社会として,社会に対

し高い障壁を設ける。それが教育的機能を発揮しようとすればする程,学級王 国,学校王国を形成し易いのである。

 *たとえぽ,01sen, E・G・and Others, School and Community,1945等。

 P一マ人の実際性と開放性とが,学校という特殊社会になじめなかったとい うことは,無理ないことと思われる。ヘレニズム受容以前からあったといわれ る初等教育形態としての1udusでは,これが建物の軒や辻に設けられるという 習慣が長い間存続した。この事実の中にも,ローマ人の開放性をうかがい知る

ことができる。すくなくとも帝政の最盛期(紀元2世紀)まで,このような開 放学校が一般的に存続したといわれている。

 中等教育としてのgrammaticusの学校, litteratusの学校などは,明らか にヘレニズム侵入以来のものである。高等教育機関としての修辞学校(schola rhetorica)や大学(ローマの町ではAthenaeum)なども,ローマ的な修飾をう けながらも,基本的にはギリシャ的性格が主導線になっていることを否定でき ない。これらの教育機関の教師が多くギリシャ人によって占められていたとい うことや,そこでの学習で,ギリシャ語が最も重んじられたということばかり ではない。それは根本の思想において,ローマの実際的功利的,あるいは実用 主義的な性格に結びつくものではなかった。人文的教養(humanitas)という 概念も,このようなギリシャ的性格の学校の中に強化されてくるのであるが,

この概念すら,基本的にはローマ教養に定着したとは言えない。むしろ終始空 虚な名をローマ社会に占めていた概念といえる。

 このいみで,ローマの学校教育は,ローマ人のギリシャ化にも役立たなかっ たけれども,n一マ教養に寄与するところもまた少なかったと思われる。寄与 したものがあるとすれば,その意図しない場面においてであったとさえ言えよ

う。

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 しかしながら,P一マ人が組織的な学校教育に実用性を見出したものがない わけではない。それは,学校を雄弁術の練習所にすることによってである。ロ

ーマの学校は,雄弁学校(schola oratore)たることにおいて・その生き生き とした存在性を見出していたといえる。

 雄弁は,ローマ社会において国の草創期から大きな役割を果たしていたと思 われる。非民主的な社会では,沈黙と忍従が重んじられるが,自由民に関する かぎり,ローマでは早くから雄弁と自主性が重んじられた。これが,法治国家 としてのローマに,その共和制を築かせた基礎である。共和制時代になると,

人を魅了するような雄弁によって,一躍政治の桧舞台に立つことさえ可能であ ったといわれる。この点わが国の20世紀後半期という現在において,雄弁家で はなく歌手が,ただそのうたい方のスキルや声のよさによって,一躍マス・コ ミュニケーシ・ソの脚光を浴びるのにも似ている。雄弁と歌謡とでは,その知 性的な裏づけにおいて大きな逞庭が感じられるが,これは民族性と社会体制の 相違でどうにもならない。

 いずれにせよ,ローマ人においては,雄弁に大きな実用性のあったことはた しかである。ギリシャにおいては,弁証法(dialectica)はそれ自身が目的であ るか,あるいは思索を精緻に展開する具であったが,ローマでは弁証法も修辞 学も,雄弁という実際的なものの具であった。雄弁術は,自由人の諸学芸(artes liberalis)の中でも,中核(core)の役割を果たしていたとさえ見られている。

 しかも,雄弁はうまれつきのものではなくて,修練によってつくり出される

ものであった。Orator fit, poeta nascitur.ということばが,よくこれをあらわ

している。雄弁術には,誰でも練習を積みさえすれば,高度なところまで進み 得るものであるという魅力があった。ローマ人にとって,共通の関心を寄せ得

た理由である。

 その上,雄弁術は,その教育の方法において実際性が重んじられるという特 色があった。Learning by doingということをいうとき,雄i弁術ぐらいdoing

と直結した学習はなかったといえよう。実演ということを離れて雄弁術の教育 はあり得ない。この点,他の諸教科が,教科的性格と密着して,非実際的傾向

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を持っていたのと大きく異なっている。

 ローマ社会において,最も組織的な教育学書といわれるクインチリアーヌス の主著が,「弁論家の教育」(lnstitutio Oratoria)であったということは,決し て偶然ではない。

 雄弁的性格は,しばしば深い哲学的思索をそこなう。あるいは,哲学と雄弁 とは矛盾するもののようでさえある。ローマ人の哲学が,しばしば浅薄な幸福 論や道徳論に終始し,功利的,常識的な世界を脱却できなかったといわれるけ れども,それはこのような雄弁重視の傾向に素因をもっていると見られる。も

ちろんこれらは必ずしも非難さるべき性格ではない。むしろ学校という教育施 設が,本来の教育機能を発揮させようとしていたものとして,ローマの雄弁学 校は多くの示唆を与えるものである。

 以上ローマ教養を啓培した場として,家庭,社会,学校の3者を見てきたが,

これら3者に明確な境界線がなかったということも,ローマ的性格の特質であ ろう。そのいずれを重しとすることもできなかったということは,同時にその いずれも矛盾対立する関係におかれなかったということである。一方の場での 教育力が他方の場で反教育的に作用するようなことが無かったということであ る。この点,教育社会としてのローマ社会のあり方は,われわれにとって重要 な関心の主題である。

3 ローマ教養の崩壊

 10世紀をこえる長期の繁栄を保ちながら,P一マ社会は外敵の侵入によるの でなく,本質的には自壊作用をおこして減び去っていったといわれる。古来多

くの史家が,この滅亡の秘密を追求した。そこには,多方面から歴史の必然が たどられている。ローマ教養の崩壊過程も,この歴史の進行と無関係ではな い。いやむしろ,その進行の基底にあって,これを根本からゆり動かす力とし て,それ自体長期にわたって変質作用をとげつつあったといえよう。

 変質作用は,早く12銅版法の成立の頃にはじまっている。奴隷制度の確立は,

ローマの家庭教育を徐々に変質させていったといわれている。奴隷が単に野外

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労働力として使用されている間,あるいはまた家事労働であっても,知能労働 以外のものに限って使われている間は,まだ家庭教育そのものの変質にひびく 度合いが少なかった。しかしその間にも,子どもに関する配慮の一定量を,童 僕という奴隷的な身分のものに譲りつつあった。子弟に対する教育活動の中で 次第に多くの分量が奴隷の手に移った。とくに大ギリシャの地から,文化的に 高度と思われている奴隷を大量に獲得してきてからは,家庭教育の中での知的 な分野と道徳的な分野との分離がはじまった。童僕を使用することが出来た のは,ローマでも上層階級の家庭に限られていたようであるが,家庭教育の崩 壊は,この上層階級からはじまって,次第に下層に及んでいった。

 もちろん童僕には,高い教養と純潔な品性が要求され,家族からも多くの尊 敬と権威を与えられており,知能の側面ばかりでなく,子どもの言動について も指導監督する権限が与えられていたものも少なくない。しかしそれにもかか わらず,ディルタイ(Dilthey, W.)も指摘するように*・自分自身の奴隷的心 情によって,子どもの自主性,真の服従心,正しいしつけなどを破壊すること がなかったとは言えない。

 *Wilhelm Dilthey, Padagogik−Geschichte und Grundlinien des Systems(Gesam・

  Schriften】X Band,1934)白根孝之訳,1937, P.65及P・68・

 ローマにおける学校の成立も,このような家庭教育の変質化に対応してい る。早く学校的施設は紀元前500年の頃に見出されるといわれるが,これはパ

ッツも指摘するように*, 明らかに家庭教育と何らの境界線をもつようなもの ではなかった。集団をつくって童僕に指導される形態としての学校の成立は,

紀元前3世紀はじめからであり,これがやや一般化したのは,前3世紀の終末 であるといわれる。

 *Butts, op. cit., p.115.

 この頃に成立してきた初等,中等及び高等の学校は,その内容面において帝 政時代を通じても大きく変化することはなかった。しかし,その管理連営面に

おいて,大きな変貌をとげていた。すなわち,学校教育にたいする公費の援助 と,それに併行する公権力の統制支配の強化である。

(14)

 この点を明らかにするためには,ローマにおける帝政成立の由来と,その新 制度の基本的な要求とを明らかにする必要がある。

 紀元14年におけるオクタビアヌス(Octavianus)による独裁政治の確立は,

ローマにおける帝政への移行を決定的にしたものと見られている。しかし,そ の移行過程は,いちじるしく緩慢であった。寡頭政治の時代から帝政に移って からさえも,なお,共和制的君主制ともいわれる多くの時代を経過している。

 3回にわたるポエニ戦役でカルタゴを打イトしたことは,地中海制覇の確立を 意味し,ローマを商業国家に変えた。個人主義にもとつく私有財産制の容認と,

利潤追求の自由の確立は,商業資本の権力化を促進した。この権力化傾向は,

しだいに高利貸資本,金融資本に移行し,ついに金融資本の君臨を実現させ る。帝政の成立は,この過程に対応していると見られている。

 いうまでもなく,早く共和制の時代から,貴族の手による土地所有の集中化 傾向は進んでいた。帝政期に入ると,大土地所有は急速に進展し,領主的土地 所有に変質しつつあった。これが奴隷労働の上に立つラティフンディア(1ati−一一 fundia)といわれるものである。P一マ社会崩壊の直接の契機は,このlatifund ia による生産形式のゆきづまりにあると見られている。

 Iatifundiaの行きづまりには,いろいろな原因が考えられる。一つには,大 征服戦争の終熔による奴隷供給の欠乏がかぞえられる。latifundiaは,本質的 に奴隷の労働に依存しており,しかも奴隷は征服によるほか補給が困難であっ たとするならば,早晩この種の生産形式は大農場経営に移行しなければならな かったともいえよう。

 ローマ全体としてみるならば,必ずしも労働力が欠乏していたとは言えな い。むしろ都市には労働力があふれていたといわれる。土地を失った自由耕作 民や小土地所有者たちは,投機利潤を求め,利鞘を求め,あるいは賭購などに よるギャンブル収益を求めて,都市に集中した。これらのルンペン・プロレタ

リアートを救済するためには,多くの国費が使われている。しかもこのような 国費の負担は,多く地方農民の上に負わされたのである。賭購生活の不安定さ から足を洗おうとする無産者たちは,傭兵となって職にありつく外なかったが,

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これがまた地方農民からの租税によってまかなわれるほか無かったのである。

 政治家たちは,権力の地位につくためには,無産者の投票をかき集めようと 努力した。そのためには,無産者に食事や娯楽を提供して,その歓心を買おう

とした。

 たとえば,グラディアトル(gladiator)の斗技を主宰する官吏としてのエヂ レス(aediles)に任じている者は,任期中に多くの私財を投じて斗技を盛大に 行い,民衆の歓を買い,選挙を自己に有利に導くために努力した。かのユリウ ス・カエサル(Julius Caesar)でさえも,エヂレス在任中,320人の91adiator の命を犠牲にして民衆を娯しませたといわれている。

 このような人気政策によって政権にありついた者は,多くは一時的弥縫策を こととし,根本的な生産のための人的配置のたてなおしに着手するというよう なことをしなかった。latifundiaは,労働力の不足ばかりでなく,奴隷という 生産性の低いものに依存していたために,しだいに遠隔地の農業生産に敗北し た。こうして農業は,徐々に耕地を細分して隷農(colonus)に貸与する小作制 度に改編されていったのである。

 ローマの帝政は,権力の集注と考えるには問題があろう。少なくとも,近代 絶対制国家の中央権制とは基本的に異なっていたと見るべきである。近代絶対 制国家では,君主が法であり,法は君主の恣意として,絶対命令の形で人民の 上に強制されるのが常であった。しかしながらローマでは,君主よりもむしろ 法に力があったと見られる。このことは,帝政P一マの社会での暗殺の流行と

関連があろう。

 近代絶対制国家では,君主は法の上に立ち,法を支配するものであるから,

君主に気に入らない思想の持主は,「合法的に」裁判し,合法的に処刑するこ とさえ可能であった。しかるにローマでは,かの有名な暴君ネロでさえも,そ の近親や側近を合法的に殺すことができず,暗殺という手段によっているので ある。この事実は,ローマにおける皇帝の権力の実態を示すものといってよい

であろう。

 しかしながら,皇帝がその地位を保つためには,重税にあえいで反逆する地

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方農民をおさえなければならず,また食物と娯楽とを求めて暴動をおこす都市 無産者を鎮圧しなければならなかった。わがスラムのような事態がしばしばお こり,競輪場競馬場の投石暴動が同じような回数で頻発していたと思えばまち がいないであろう。こういう事態に対処するために,ローマの権力者もまた権 力の集中化を求めてやまなかったと思われる。それは,自衛兵力とか機動警察 力とかいわれるものの強化によるほか無かったであろうが,ローマでは,これ が傭兵であった。しかも,異民族の傭兵には充分に信頼をおくことができなか った。鎮圧にむかったが戦う相手が同種族の者であることを知って,寝がえり をうつことさえおこなわれたからである。

 それ故に,権力の集中化のためには,自衛兵力の洗脳教育も重要ではあるが,

基本的には国民一般の教育を振興し,しかもそれを権力に好都合な人間形成に 奉仕させねばならなかった。そのため,学校の管理運営を統制しようとしてき たわけである。

 ローマは,その社会秩序が自由放任の原則に立っていたといえるし,教育も また個人の要求にもとついて,個人の利益のために行われるという傾向が強か った。一般にすべての原始社会ではこういう考え方に立つのが普通であるが,

時に急激な国家統制を受容するものと,容易にこれを受け入れない体制とがあ る。ローマのばあいは後者であったといえる。

 しかるに今やローマも帝政期に入ると,最初は教員給与の補助という形で,

恵与的衣裳をまとって教育の国家統制が登場する。それは,教育が権力の宣伝 の機関となることを意味する。権力の僕碑となった教育は,教育の自由,学習 の自由を喪失する。モンテスキューは,その古典的な名著の中で,ローマ衰亡 の根本原因の一つとして,自由の喪失を指摘している。*

 *Montesquieu, Consid6rations sur les causes de la grandeur des Romains et leur   dさcadence, IX.

 教員給与の国庫支出ぼかりでなく,学校維持にたいしても国費支出がおこな われ,教師に対する特権が授与され,生徒にたいする奨学資金の給与が実現さ れてゆく。早く,ユリウス・カエサル(Julius Caesar)は,ローマ市内に住む

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教師にはたとえ外国人であろうとも参政権を賦与するという特権を与えた。ア ウグスツス(Augustus)も,外国人すべてのローマ市からの追放という処置を 行ないながらも,教師は例外としてこれから除外している。また,ヴェスパシ

アヌス(Vespa sianus)は,ローマ在住の外国人(ことにギリシャ人)教師に,

国庫から多額の俸給支払を規定した。クインティリアーヌスは,この恩恵に与 った最初の人であろうといわれている。

 第2世紀を通じて,ことにハドリアーヌス(Hadrianus)などによってこの 政策は一層おし進められ,アントニーヌス・ピウス(Antoninus Pius)はこの 政策を地方にまで拡大した。マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)は,

教師にたいする給与を,アテネの教師にまで拡大し,トラヤーヌス(Trajanus)

は,5000人の生徒に奨学金を支給したといわれる。

 またさきのアソトニーヌス・ピウス(Antoninus Pius)は,すべての都市の 多数の教師に,国税および地方税を免除した上,兵役を免除し,軍隊維持のた めの奉仕活動を免除するというような,大巾な特権を与えた。*

 *マキアヴェルリは「ローマ史論」(1−51)の中で,つぎのようにいっている。「共和   国または君主は,必要に迫られて施す恩恵であっても,下々をあわれむ振舞である   かのように見せなけれぽならない。」これは共和政治の時代に元老院が軍隊に対し   て国費麦出をするときのことに関連して言及しているのであるが,教育への支出も   また同様である。

 以上のような,学校教育の国家統制への努力は,時代の進行とともに,ますま す強化されるばかりであった。とくに,コソスタンチーヌス(Constantinus)

や,グラチアーヌス(Gratianus)は,教育に対する特権の賦与に非常に力を注 ぎ,これが後に中世において僧侶が特権をもつようになる基礎となっている。

 ローマ皇帝の教育統制は,強化される一方であった。そして,教師や生徒に 特権を与えるという手段だけでなしに,教師としての資格の賦与権,すなわち 免許状授与の権限にまで拡張されてゆく。361年にユリアーヌス(Julianus)は,

皇帝自身が教師の資格審査の権限をも掌握すべきであると主張した。しかしこ の措置に対しては,多くの反対論があって容易に実現しなかった。この方策が

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漸く実現したのは,425年のテオドシウス(Theodosius)およびバレンティニァ ーヌス(Valentinianus)の法令によるものであった。この法令には,学校を設 立し.編成する資格は皇帝只1人が持つべきものと規定し,もしこの禁を犯す 者があるならぼ,これを厳罰に処するということを規定した。

 学校の特権化の過程は,必然的に学校の孤立化を促進した。さきにも見たよ うに,学校はこのような特権の獲得を通じて,次第に周囲の社会から隔離され 特殊な閉鎖的社会となっていった。それ故,学校の内部で,どんなに悪徳が行 われても・一般社会の目には容易にふれないことになった。学校の卒業者が,

社会においてあまり役に立たず,学校で身につけた教養が,非実際的であると して非難されるようなことがあっても,学校は安泰に存立していることがでぎ るようになった。

 こうして学校における教養内容は,単に特権階級であるということの標識に なり,学校教育の実際的な目標は失われた。雄弁術が教えられたとしても,専 制君主のもとでは,これを行使する機会も得難くなった。こうして学習の成果 は,街頭で人々を楽しませるだけの,内容の乏しい説教になるか,あるいは単 に一つの見せ物にすぎなくなっていった。

 2〜3世紀の頃には,学校教育への特権授与に応じて,学校教育観が初期の ものと大きく変質してきていた。その一例としては,3世紀はじめの歴史家デ イオン・カシウス(Dion Cassius)における義務教育観の出現に見ることがで きる。デイオンは,大土地所有者であり,元老院議員や統領にもなった反動思 想家である。かれは,「賎民の自由は高貴な人々の破滅である」と書き,その

ローマ史の中で,つぎのような政策を主張した。すなわち,都市の自治の完全 な廃止,あらゆる自主的思想の抑圧,国家の手による画一的な義務教育の実施,

哲学者や宗教的伝道者の追放,あらゆる謀反人にたいする容赦ない弾圧,高貴 な人々,すなわち最も富裕な人々をよりどころとする皇帝の強大な権力の樹 立,等々である。*そのむき出しな反動思想とともに,すでに義務教育という

ものが,どのような教育観の歪曲の上に立って主張されていたかを知ることが

 *ソビェト科学アカデミー版「世界史」(香山陽坪等訳)古代第6巻,1961,p・994.

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できる。

 学校教育のこのような変質化は,当然教育思想においても,その楼小化を見 せてきている。この点についてデイルタイはつぎのようにいう。

  彼等(n一マの諸皇帝)は, まず政治学の発達を否定した。 プラトン

 (Platon), リアストテレース(Aristoteles),ポリビウス(Polybius), キケ

 ロ(Cicero)等の偉大な歴史的政治的思想が衰えたということは,教育にも  政治的立場が反映したことを示すものである。政治は既に自由にして公の討  議の対象ではなく,治世上の1つの秘密となり,政府は元老院や法廷の有名  な演説を,その手で定期的に公報するようになった。*

 ……教育学はもはや政治学との大きな関係において理解されなくなった。他  面においてそれは個人の発達を促進するに足りる原理を欠き,教育そのもの  の統一的基礎をなしていた確信の核心と,雄弁家==政治家という理想的目的  とを失うことになった。**

 *デイルタイ,上掲書p,88.

 **同上,P,90.

 以上のことは,ディルタイも指摘するように,教育学が教授方法学に局限さ れることであり,その結果教授方法という目的すら充分に達成し得ない科学に 堕することを意味した。そして,このような倭小化の傾向は,初等教育の機関 から大学にまで浸潤した。ローマ教養は,大きく瓦壊の契機をはらんできたわ

けである。

 社会教育の方面からの崩壊現象は一層はっきりと進行していた。帝政時代に 入ってから,図書館や博物館などの社会教育機関は一段と目ざましく充実した が,形式的な充実が,実質的な教育機能の発揮を意味していなかった。むしろ,

共和制の末期から,浴場,斗技場等の公衆の場が,反教育的に機能してきてい たように,もっと意図的教育機関であるはずの図書館等々が,空疎な書物陳列 場になってしまった。

 ローマ大図書館が戦火によって焼けるさい,誰1人貴重な書物を助け出そう とする者がなかったという事実は,民衆の心の中に書物がどのような位置を占

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めていたかを示しているものといえよう。こうして,社会がほとんど教育機能 を発揮せず,むしろ反教育的作用ばかりが増長してゆく中では,手をうとうと する種々の措置が,結局のところことごとく反教育的に作用してゆくほか無か

った。

 ローマ教養はついにキリスト教的教養にとって代られ,中世1千年の相対的 安定の時代がつくられる。しかしこの見方についても多くの問題がある。ロー マ社会は,本来的には,自由と平等を求めて,民主的社会の形成を追求してい ったはずであるが,その達成できなかった意図を継承したはずのキリスト教も,

じつは自由と平等を発展させる方向においてではなく,縦の秩序の中にすべて の人間を固定させることによって,安心立命の世界を形造るという方向におい て,中世を展開させていったと見られるからである。

 ローマ教養が,奴隷制度の上に乗っていたものであるという点が問題であ る。いわば,みずからをささえている制度そのものを崩壊させる要素を,みず から創造しつつあったわけである。この点,基本的には,ローマ教養の成立と 崩壊は,奴隷制度そのものの生成と崩壊に裏づけられていたと見るべきであろ

う。ただ,ここでは,そのような基礎構造への考慮よりも,より多くローマ人 の教育とその制度への態度という点に焦点をあててみた。

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