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第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産 と普及

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(1)

と普及

著者 西 圭介

雑誌名 經濟學論叢

巻 61

号 3

ページ 597‑635

発行年 2010‑01‑20

権利 同志社大學經濟學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012510

(2)

【研究ノート】

第一次世界大戦以前のドイツにおける 自転車の生産と普及

西   圭  介  

は じ め に

 現在の自転車の原型は,様々な技術開発を通じて1880年代のイギリスにお いて姿を現す.そしてこの製品を生産する工場はまずアメリカで叢生し,次 にイギリスを筆頭にヨーロッパ諸国においても設立されていく.19世紀か ら20世紀への世紀転換期にはアメリカ国内で供給過剰となった自転車がヨー ロッパに流入したことによって価格競争が生じ,ヨーロッパの自転車工業は 変容を迫られたのである.この価格競争は通信販売のような新しい販売方法 によって促進され,自転車価格は大きく下落した.世紀転換期から第一次世 界大戦前にかけて自転車を主商品とする労働者による購買協同組合が拡大を 遂げ,このころに就労者の約半分を構成した労働者に自転車が普及し始めた と考えられる.ドイツにおいて世紀転換期から第一次世界大戦の間は労働者 の所得が向上したこと1)によって彼らの生活改善が起こった時期2)に当たり,

このころの労働者は実用性(通勤手段)と娯楽性(週末のサイクリング3))を同 時に備えた初めての消費財として自転車を購入4)したと考えられる.自転車

1) Hohorst/Kocka/Ritter (1975), S.107.

2) Ritter/Tenfelde (1992), S.519-527.

3) 労働者サイクリスト連盟が出版した機関誌 Der Arbeiter=Radfahrer によれば,構成員が週

末に頻繁に郊外へのサイクリングを開催している(189721日号によるとライプツィヒ支 部では半年で17回開催された)

4) 第一次世界大戦前のドイツにおいて労働者が受容していった消費財として自転車の他には↗

(3)

によって労働者は鉄道の有無を問うこと無く,勤務する工場から離れた場所 に安価な住居を購入する可能性を得5),週末には工場内の労働から解放され て郊外へのサイクリングを享受することができたのである.

 すでに自転車に関しては様々な視点から研究がなされている.主にイギリ スとアメリカにおける技術的発展についてはハーリィ6)が明らかにしており,

イギリス自転車工業の発展過程に関してはすでに考察7)がなされている.そ して本論文との関連で特に興味深いのがハウンシェル8)の研究である.彼に よって軍廠における小火器生産からミシン生産,自転車生産に連なる工場内 生産技術・組織の発展過程が明らかにされ,T型フォードの大量生産に至る 歴史的経路が主に技術的な観点から考察されている.自転車生産はここでは ミシン生産とT型フォードの大量生産をつなぐ「架け橋」9)として考えられ ている.

 日本においては荒井(1988)10)がイギリス自転車工業の発展に関して明らか にしている.ドイツ自転車工業に関しては種田(1993)11)が特にオペルによる 自転車生産を考察し,馬場(1999)12)がビーレフェルトにおける自転車工業の 発展について考察している.しかしながら両研究ともドイツ自転車工業の発 展については付随的に述べるにとどまっている.

ミシンが挙げられるが,実用性という面ではミシンもそれに該当するが,娯楽性という面では 該当しないと考えられる.

5) ビーレフェルトという都市に関してだが,Jahresberichte für die Geschäftsjahre 1906, Deutscher Metallarbeiter-Verband Bielefeld, S.11では労働時間の短縮と郊外での居住の可能性に触れ,「い まや彼(労働者)は工場の近くの高価で,しばしば不十分な住居を購入しなければならないと いうわけではなく,工場から少し離れていても,良質で,健康な住居を購入できる」と述べら れている.労働者は世紀転換期に近代的移動手段の発達(鉄道,自転車)と労働時間短縮によっ て郊外に居住し始めたと考えられる.

6) Herlihy (2004), pp.15-305.

7) Lloyd-Jones /Lewis (2000), pp.1-96.

8) ハウンシェル(2002),pp.3-327.

9) ハウンシェル(2002),p.12.

10) 荒井(1988),pp.553-582.

11) 種田(1993),pp.69-93.

12) 馬場(1999),pp.58-63.

(4)

 ドイツにおいてもラーベンシュタインが近代ドイツ社会と自転車の関係を包 括的に考察13)し,自転車が女性解放に果たした役割をブレックマンが考察14)

している.そしてラドカウの研究15)においては技術の社会への適応という観 点でドイツにおける技術発展が考察され,その中で自転車は「技術と身体を 統合するもの」16)として注目されている.このようにドイツにおいても自転車 に関する研究は現れてきているが,上記したものの中でも自転車工業の発展 過程は十分に考察されていない.しかし本論文ではドイツ自転車工業が第一 次世界大戦以前において,後のフォード社によるベルトコンベヤーシステム に代表される大量生産システムに連なる工場内生産技術・組織を有しながら も,製品を多角化させることによって発展していったことを明らかにしたい.

 本論文では以上のような研究状況を踏まえつつ,自転車の供給サイドに関 しては同時代の博士論文や社史,ドイツ自転車工業家協会の記念誌を参考に した.その中でも特にザイフェルトの博士論文17)は第一次世界大戦以前のド イツ自転車工業における工作機械の発展やそれによる「大量生産」18)の成立,

各社の発展,小売業の状態などについて触れており,非常に興味深い.アイカー の博士論文19)は1920年代におけるドイツ自転車工業の発展や,各社の発展 について明らかにしている.1928年に出版されたドイツ自転車工業家協会の 記念誌20)には当時の構成員表に創立年,立地,被雇用者数,生産品目が付記 されており,これも非常に興味深い.1905年のアドラー社による社史21)は工 場内の様子について写真を交えて詳細に説明しており,非常に価値の高い史 料である.本論文ではこのアドラー社について考察するが,その際にInstitut

13) Rabenstein (1991), S.10-330.

14) Bleckmann (1998), S.7-153.

15) Radkau (2008), S.9-254.

16) Radkau (2008), S.157.

17) Seyfert (1912), S.1-111.

18) Seyfert (1912), S.17.

19) Eicker (1929), S.1-85.

20) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.15-127.

21) Lang (1905), S.1-94.

(5)

für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main)での史料収集の成果22)も 利用されている.

 本論文では上のように供給サイドを考察すると共に,供給と需要を結び付 ける販売面と労働者の自転車所有についても考察する.世紀転換期に自転車 の通信販売を通じて事業を拡大する会社についてはすでにヘーゲとプリュー マーの研究23)がある.1890年代後半から発展し始める自転車を主商品とする 労働者による購買協同組合については労働者サイクリスト連盟Solidaritätの ハンドブック24)や,この組合による営業報告25)を参考にした.次に本論文 では労働者による自転車所有を確認するが,その前提となる労働者の生活改 善については膨大な研究があり,その一部26)を参考にした.そして主に労働 者家計調査27)から労働者による自転車所有を検討した.

 本論文は以下のように構成される.第1節では自転車に集約されることに なる技術の発展について考察し,19世紀中の様々な技術開発により19世紀 末のイギリスにおいて自転車が姿を現すことを明らかにしたい.第2節では 第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業において,専門工によって操作され る工作機械が導入されることを通じて工場内生産技術・組織の発展が起こっ ていたことと,ドイツにおける自転車生産のパイオニアと呼べる企業が工場 内生産技術・組織を発展させつつ,製品を多角化させることによって拡大し ていったことを明らかにしたい.第3節では世紀転換期に価格競争を促進し た販売方法について考察した後に,労働者による自転車所有について検討し たい.それによって組織された郵便サービス28)を前提とした通信販売や労

22) Institut für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main)W1/14 Nr.224, Nr.301-314.

23) Heege/Plümer (1996), S.7-44.

24) Fischer (1908), S.3-59Bundesvorstand (1927), S.3-79.

25) Fahrrad-Haus Frischauf für das Geschäftsjahr 1912=13, (1914), S.1-31.

26) Hohorst/Kocka/Ritter (1975), S.15-140Nipperdey (1998), S.291-334, Ritter/Tenfelde (1992), S.263-675を参照.

27) Haushalts-Rechnungen Nürnberger Arbeiter, (1901), S.1-109Fuchs(1904), S.1-272Conrad (1909), S.3-43.

28) Heege/Plümer (1996), S.31によると「統一された郵便料金や郵便為替,または着払いによる

商取引をともなう,しっかりと組織された郵便サービス」を意味.

(6)

働者による購買協同組合の発展過程が明らかにされ,世紀転換期からの一部 の労働者による自転車所有が明らかとなる.これら一連の考察を経ることに よって,第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の供給サイドと需要サ イドの発展過程がその両面を結びつけた販売方法も含めて明らかとなるので ある.

1 自転車の開発

 ドイツ自転車工業家協会が創立50周年を記念した記念誌の中で,自転車の 開発について「一定の目標設定なしに,多かれ少なかれ無作為に経過した」29)

と述べられている.この言葉に端的に示されるように,自転車の開発は様々 な技術開発の複合の結果現れたものであった.鉄の軽量化,ベアリングの改良,

チェーン伝導の導入,フリーホイールの開発,空気タイヤの開発などを通じ て現在の自転車が登場するのである.

 18世紀後半のパリで人力によって動く四輪車が注目を浴びた後に1814年 にカールスルーエのドライス男爵が二輪車を考案した.この二輪車は全て木 製で,チェーン伝導やブレーキなどはついておらず,搭乗者が地面を蹴るこ とによって前進した.このような二輪車は「名人」によってのみコントロー ル可能なものであり,走行の際の危険が非常に多かったため,広範な社会層 に普及しうるものではなかった.しかしこの二輪車は「コンパクトでペダル 出力の乗物に向かう最初の重要なステップ」をなしたのである30)

 やがて1859年にフランス人のミショーが前輪にペダルを装着したこと31)

によって,ドライス男爵が開発したような「歩行補助機械から真の乗り物へ と変化」させる画期が訪れた.この二輪車の特徴はスピードを向上させるた めに肥大化した前輪である.ミショーの開発した二輪車を生産していた工場 は一時500人を雇用したが,この二輪車も広範な社会層に需要されうるもの

29) Fünfzig Jahre Verein Deutscher Fahrrad-Industrieller, (1938), S.43.

30) Herlihy (2004), pp.16-22.

31) Brockhaus Konversations=Lexikon, (1895), S. 196.

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ではなかったので,1860年代の終わりからこの工場の経営は傾いていった32).  ミショーの二輪車は世界各国で注目を浴びたものの1869年にはそのような 関心も冷めてしまったが,1870年代に様々な技術がこの二輪車に導入される ことによって改良は継続していき,1885年のイギリスにおいて現在の自転車 の原型 ローバー が姿を現す.この ローバー では後輪にチェーン伝導 が導入されることによって前輪が縮小し,安全性が向上した.そして「全世 界の自転車のタイプとして普及するのみではなく,それはまた非常なブーム の中で最高潮に達する先例のない世界大の需要のきっかけとなる」33)のである.  1890年代の初めに技術的に完成(軽量化,変速ギアの開発は後にも行われるが)

された自転車はまずアメリカで急速に普及したが,1890年代後半には生産過 剰に陥り,アメリカ製自転車がヨーロッパに流入することになる.ヨーロッ パ自転車工業にとってアメリカ製品の流入は自転車生産の採算性の悪化を意 味し,各企業にとっては工場内生産技術・組織を変化させる契機になったと 考えられる34)

 自転車走行における安全性を高めた外的要因として道路の整備が挙げられ る.1902年のある自転車生産者は「自転車は道路の改良の先駆者として歴史 に残るにちがいない」と述べた35).1888年の空気タイヤの開発も自転車の安 全性を高めたものとして挙げられる.1870,1880年代にはソリッドラバータ イヤが普及していたが,空気タイヤの開発によってゴムタイヤ工業が勃興す る36).ドイツにおけるゴムタイヤ工業の中心地はハノーファーであった37)

32) Herlihy (2004), pp.76-94.

33) Herlihy (2004), p.225.

34) Lloyd-Jones/ Lewis (2004), p.38からイギリス自転車工業の世紀転換期における変化(「工作機 械の導入」)が明らかとなっている.

35) Herlihy (2004), pp.235-298.

36) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.102 らドイツ自転車工業家協会に参加していた従業員数11,000人のゴム製品企業が確認されている.

37) 空気タイヤ,ゴムタイヤ工業に関しては Euhus (2003), S.6-122を参照.

(8)

2 ドイツ自転車工業の発展過程

 第 1 表は1990年国際ドル表示の1人当たりGDPの成長とイギリスを100 とした指数で示したものであり,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツの 成長を比較したものである.この表から1820年から1913年にかけてのドイ ツにおける一人当たりGDPの成長と,イギリスとの格差縮小が明らかとなる.

1867年から1913年にドイツにおいて銑鉄生産と鋼鉄生産はそれぞれ20倍,

25倍になり,世紀転換期ごろにドイツはイギリスの銑鉄生産と鋼鉄生産を凌 駕するにいたった38).そして世紀転換期ドイツは1896年からの景気上昇局面 の中にあり,製鉄業,電機工業,工作機械工業,化学工業のような諸工業が 台頭する中で39)ドイツ自転車工業も発展するのである.

 この節では(1)と(2)で第一次世界大戦以前におけるドイツ自転車工業の発 展過程を明らかにし,(3)では第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業におけ る工場内生産技術・組織を考察する.世紀転換期ドイツにおける電機工業の 発展を明らかにした今久保(1995)では,当時の電機工業における工場内作業 組織の発展(万能作業組織から品種別作業組織へ)が指摘されており,この工場 内作業組織の発展は同時に手工業的熟練工の専門工による代替を意味した40)

38) Nipperdey (1998), S.230.

39) 世紀転換期ドイツにおける工作機械工業の発展については幸田(1994)が,電機工業につい ては今久保(1995)が,化学工業については工藤(1999)が,合理的管理については井藤(2002)

が明らかにしてくれている.

40) 今久保(1995),pp.225-336.

年 イギリス アメリカ フランス ドイツ

1820 1,756 100 1,287 73 1,218 69 1,112 63

1870 3,263 100 2,457 75 1,858 56 1,913 58

1900 4,593 100 4,096 89 2,849 62 3,134 68

1913 5,032 100 5,307 105 3,452 68 3,833 76

第 1 表 1990年国際ドル表示の1人当たりGDPの成長とイギリスを100とした指数(1870-1913)

 (注) 小数点以下切捨て.

 (出所) マディソン(2000),p.11から作成.

(9)

(3)ではこのような視角を継承して第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業に おける工場内生産技術・組織の発展を明らかにしたい.そして(4)ではドイ ツにおける自転車生産のパイオニアであるアドラー社の発展過程と工場内生 産技術・組織を考察したい.

 アーベルスハウザーによれば世紀転換期ドイツでは自律的な諸経済的アク ター(企業,協会など)による共同作業(Zusammenarbeit)を特徴とした「協調 的市場経済」41)が成立し,この「協調的市場経済」では高度に発展した応用 可能な工学技術と長期的な顧客関係に基づいて「多角的高品質生産」が行わ れていた.この「多角的高品質生産」によって,ドイツ的生産レジームは「汎 用性の高い生産方法で特殊な製品を生産できる物質的,組織的前提条件を有 しているのみではなく,供給サイドからすれば特殊機械によって標準化され た製品を生産できる状況(これは大量生産の枠組みに対応)にもあった」のであ る(その代表例としては化学工業が挙げられている)42).このようにしてドイツの 各工業は様々な需要に合わせて柔軟に生産システムを変化させていったと考 えられる.ドイツ自転車工業の発展過程はこのような解釈の中でどのように 理解されうるか,ということについてはこの節の最後で試論的に述べたい.

 (1)ドイツ自転車工業の成立と拡大(1880年代半ば〜1897年)

 1880年代半ばまでドイツの自転車市場においてはイギリス製品が優位にあ り,1887年におよそ7,000台の自転車がドイツ国内で生産されていたが,こ の年の販売台数は15,000〜20,000台と見積もられる(生産台数と販売台数の差 がイギリスからの輸入量と考えられる).1887年のドイツ自転車工業は64社で

1,150人の被雇用者を擁するに過ぎないものであり,そのうち33社が10人以

下,12社が10〜18人,12社が19〜40人,7社が40人以上の規模であっ

41) アーベルスハウザー(2006)ではkorporative Marktwirtschaftを自律的な諸経済的アクター

による共同作業を特徴としていることを前提として「団体調整的市場経済」と訳出している.

ここではその前提を文中で説明しているので「協調的市場経済」と訳した.

42) Abelshauser (2004), S.39-44.

(10)

43).このようにドイツ自転車工業はこの時期においては小規模なものであった.

 しかしビーレフェルトのミシン工場など44)が自転車生産に参入(1885年デュ ルコップ社45),1887年オペル社)することによって,そのような状況は変化し ていった.これらの参入企業はミシンの販売危機(原因として過剰生産とアメリ カのシンガー社との競争46))に直面して自転車生産に参入したのであった.さ らにドイツにおける自転車生産のパイオニアと呼ぶことができるアドラー社

(この会社の発展過程については後述する)が1887年に「ドイツでイギリスのそ れ(工場)に比肩することができた最初の工場の一つ」47)を建設し,ドイツ自 転車工業は発展を開始する.

 同時代人の技師パーラーによればドイツの自転車生産台数は1891年に 55,000台,1894年に120,000台,1897年に350,000台に達し48),1895年には ドイツ自転車工業は210社から構成され,7,177人の被雇用者を擁するものに 成長した49).そして1895年の百科辞典にも「最近ドイツでは自転車工業が飛 躍を遂げ,いまやドイツ製品がこれまで一番人気のあったイギリス製品と少 なくとも同価値に見られるようになった」50)と誇らしげに述べられている.

 (2)販売危機と一部企業の大規模化,部品専門企業群の出現(1898年〜)

 1897年までドイツ自転車工業は順調に拡大したが,1898年から自転車生産 の採算性が悪化する.原因としては原材料の高騰,アメリカ製自転車との価

43) Seyfert (1912), S.40.

44) Seyfert (1912), S.78によると,第一次世界大戦前においてビーレフェルトはドイツ国内の総

生産量のうち約13%の自転車を生産していた.ビーレフェルト以外の自転車生産の中心地と してはニュルンベルク,ブランデンブルクが挙げられる.

45) Dürkoppwerke (1927), S.7-33によると,創業者デュルコップは錠前工(Schlosser)のもとで 徒弟修業を積んだ後に1867年にデュルコップ社の原型となる会社を創業する.デュルコップ 社は1889年に株式資本2,250,000マルクで株式会社化.

46) Eulner (1913), S.13.

47) Seyfert (1912), S.41.

48) Paller, S.216.

49) Seyfert (1912), S.22.

50) Brockhaus Konversations=Lexikon, (1895), S.196.

(11)

格競争,悪天候,ドイツの低率輸入関税51)が挙げられる.第 2 表はアメリカ 製自転車価格とドイツ製自転車価格を比較したものである.この表から安価 なアメリカ製品の流入と,世紀転換期からのドイツ製自転車価格下落の傾向 が読み取れる.この自転車の販売危機は1902年には終息し,1903〜1907年 にかけて自転車販売は再び好況となるが,自転車生産の採算性はこの時期も 悪化していく52)

 第 3 表は1895年のドイツ自転車工業の企業規模と1907年のそれを比較し たものである.1907年にドイツ自転車工業は1,325社で19,670人の被雇用者 を擁し,工業全体として成長していたのみならず,200人以上の工場によっ て雇用されるものが全体に占める比率は41.60%(1895年)から59.04%(1907 年)に上昇し,500人以上では7.80%(1895年)から27.17%(1907年)に上昇 しているので,この時期に一部企業が大規模化をもしている.販売危機の中 で特殊工作機械の設置による投下資本の巨大化が生じたために53),一部企業

51) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.82によるとドイツの低率輸入関税は自転車100kgにつき24マルク,1台当たり3.10マルク(価

値の1%)であったが,アメリカへの輸出はアメリカでの高率輸入関税(価値の45%)によっ

て妨げられた.このドイツの輸入関税は1901年に改定され,自転車100kgにつき150マルク,

鉄製自転車部品には100kgにつき40マルクの関税がかけられた.

52) Seyfert (1912), S.64.

53) Seyfert (1912), S.24.

年 アメリカ製 ドイツ製 年 アメリカ製 ドイツ製

1890 − 230-320 1901 − 75-85

1894 − 200-285 1902 − 75-85

1897 125-150 − 1904 − 70-80

1898 80-90 − 1905 − −

1899 − 120-160 1906 − −

1900 − 110-140 1907 − 53-60

第 2 表 自転車の価格(マルク)

 (注) ドイツ製自転車価格に関しては下記のザイフェルト論文より引用した.この価格には空気 タイヤ価格が含まれていない(1890年,1894年の価格を除いて)

 (出所) Seyfert (1912), S.43,S.49,S.58.

(12)

が大規模化したと考えられる.この時期における特殊工作機械の設置が具体 的に何を指すかについては(3)で詳述する.

 個別企業を販売危機前と販売危機後で比較すると,企業間の業績の差異が 大きくなっており,販売危機時に無配に転落する企業が現れれば54),製品を 多角化させて成長していく企業も現れた55).世紀転換期から自転車生産の採 算性が悪化する中で1907年にカルテルが結成されて50マルク以下の自転車 に関して値上げがなされ,生産量割当によって競争が回避されたが,企業間 の異なる利害によって1909年にこのカルテルは解体した56)

 一部の大規模企業は完成車を生産するために世紀転換期ごろから部品を自

54) Seyfert (1912), S.56-57, S.76-77Paller (1908), S.10-32.

55) 世紀転換期に自転車生産に参入してワイマール共和国期に有数の自動車メーカーとなる企業 には後述するアドラー,他にはNSU,オペルなどが挙げられる.大島(2000)から.

56) Seyfert (1912), S.64-70.

年代 1895年 1907年

企業規模 企業数 比率(%)被雇用者数 比率(%)企業数 比率(%)被雇用者数 比率(%)

1人 8 3.80 8 0.11 449 33.88 449 2.28

2人 31 14.76 62 0.86 313 23.62 626 3.18

3〜5人 44 20.95 172 2.39 344 25.96 1,290 6.55

6〜10人 40 19.04 302 4.20 91 6.86 668 3.39

11〜20人 23 10.95 315 4.38 38 2.86 580 2.94

21〜50人 27 12.85 889 12.38 31 2.33 988 5.02

51〜100人 21 10.00 1,338 18.64 18 1.35 1,202 6.11

101〜200人 8 3.80 1,105 15.39 15 1.13 2,253 11.45

201〜500人 7 3.33 2,423 33.76 19 1.43 6,269 31.87

501〜1000人 1 0.47 563 7.80 6 0.45 4,207 21.38

1000人以上 − − − − 1 0.07 1,138 5.78

総計 210社 100.00 7,177人 100.00 1,325社 100.00 19,670人 100.00 第 3 表  自転車および自転車部品の製造企業数と被雇用者数,それらが全体に占める

比率(1895年と1907年)

 (注) 小数点3桁以下切捨て.

 (出所) Seyfert (1912), S. 22-23から作成.

(13)

製していく57)が,それらと並んで部品専門企業群58)も同時に存在していた ことを指摘しなければならない.第3表の1907年の経営数(1,325社)と被雇 用者数(19,670人)のうち,自転車部品生産に従事していたのは55社で被雇

用者3,349人に及ぶ.そして輸出面においては世紀転換期から完成車輸出よ

りも部品輸出が顕著となる.第 4 表は総輸出額(自転車,自転車部品),完成車 輸出額,部品輸出額,およびそれらが全体に占める割合を表にしたものである.

この表から1897年から1910年にかけて総輸出額(自転車,自転車部品)が約7 倍に達したことが明らかとなる.さらに総輸出額に占める自転車部品輸出額 は1898年の44.85%から,1903年に78.64%,1910年には91.28%に上昇して いる.このように世紀転換期から自転車,自転車部品輸出額は顕著に上昇し,

57) Geschäfts-Bericht der Bielefelder Maschinen-Fabrik vormals Dürkopp & Co. 1890-1914.

58) 自転車部品を生産する会社は同時に原動機付自転車用部品や自動車用部品などを生産してお り,それらをここで完成車生産会社と区別するために部品専門企業と呼ぶ.

年 総輸出 完成車 比 率(%) 部 品 比 率(%)

1897 9,905

1898 12,667 6,985 55.14 5,682 44.85

1899 11,710 5,905 50.42 5,805 49.57

1900 10,796 4,407 40.82 6,389 59.17

1901 12,082 4,549 37.65 7,533 62.34

1902 14,405 3,368 23.38 11,037 76.61

1903 18,557 3,962 21.35 14,595 78.64

1904 20,112 5,240 26.05 14,872 73.94

1905 28,366 7,259 25.59 21,107 74.40

1906 48,273 8,938 18.51 39,335 81.48

1907 66,433 10,105 15.21 56,328 84.78

1908 56,503 9,343 16.53 47,160 83.64

1909 60,083 5,515 9.17 54,568 90.82

1910 71,362 6,220 8.71 65,142 91.28

第 4 表  自転車,自転車部品の輸出額(1,000マルク),それらが全体に占める比率(%)

(1897-1910年)

 (注) 小数点3桁以下切捨て.

 (出所) Seyfert (1912), S.88から作成.

(14)

その上昇は主に自転車部品による輸出額の上昇であったと言える.

 自転車工業家協会の創立40周年を記念した記念誌59)の中には,1928年当 時の構成員110社の創立年,生産品目,立地が載せてある.その中から部品 専門企業(自転車部品生産には限らない)と完成車・部品企業を共に自転車部品 関連企業群として抽出し,それらを創立期間別に示したのが第 5 表である.

この表から1898年以後に設立された自転車部品関連企業のほとんどが完成車 生産を行っていなかった部品専門企業であったことが明らかとなる.それに 対して完成車・部品企業のほとんどは1898年以前に設立されている.このよ うな事実から,1898年から1902年に起こる販売危機は自転車完成車生産企 業の採算性を圧迫したのであり,部品専門企業は輸出を中心としてこの時期 にも成長したと考えられる.1898年から1914年の間に設立された部品専門 企業16社のうち,11社は原動機付き自転車や自動車用部品などを生産して おり,製品を多角化させていたことが確認されている.

 ベルカーの研究60)から第一次世界大戦以前において各工場によって設定さ れた工場規格が存在していたことは明らかになっているが,工場間の規格に ついてはいまだ明らかにはなっていない.上で考察したように世紀転換期か ら多くの部品専門企業が設立されていくことから,第一次世界大戦以前にお いて工場間の規格が存在した可能性がある.後述する自転車の通信販売会社 は部品を購入して組み立てて商品としたのであり,その存在もこの可能性を

59) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928).

60) Wölker (1992), S.21-39.

年 部品専門企業 完成車・部品企業 総 計

1840-1897 15 7 22

1898-1914 16 1 17

1914-1928 10 1 11

第 5 表 部品専門企業と完成車・部品企業の期間別設立数

 (出所) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.99-127から作成.

(15)

肯定していると考えられる.以下ではそのような規格化の前提条件である自 転車工業の工場内生産技術・組織の発展について述べたい.

 (3)  第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業における工場内生産技術・

組織の発展

 1912年に出版されたザイフェルトの博士論文61)では当時のドイツ自転車 工業の工場内生産技術・組織の発展について明らかにされている.

 旋盤作業場にはかつて汎用性の高い旋盤(Universaldrehbank)が置かれ,そ の取り扱いのためには手工業的熟練工としての旋盤工(gelernte Dreher)が必 要であった.しかし第一次世界大戦以前にはこれに代わってタレット旋盤が 導入され,その取り扱いには専門工としての旋盤工(angelernte Dreher)が必 要とされるのみであり,作業効率も向上した.さらにザイフェルト論文の中 ではアメリカが導入した「自動工作機械」(eine automatisch arbeitenden Maschine)

とタレット旋盤が比較され,前者の作業効率が良いことと労働者の疲労度の 少なさ,取り扱いの簡単さなどが述べられている62)

 円フライス盤(Rundfräse)の利点についても触れられ,「その利点は加工さ れるものの均質性(Gleichmäßigkeit)にあるのみではなく,特に専門工(angelernte

Arbeiter)を雇用し,彼らにさらに多くの機械を同時にゆだねることを可能に

することにある」63)と述べており,円フライス盤の導入による作業効率の改善,

手工業的熟練工の専門工による代替について明らかにしている.

 型抜き機(Stanzerei)の導入についても述べられ,鎖歯車やハブなどを可鍛 鋳鉄から製造するコストと板金から打ち抜いて製造するコストが比較され,

後者の作業効率の良さが明らかとなっている.型抜き機の導入以外でははん だ技術やラッカー塗装の発展などについても明らかにしている64)

61) Seyfert (1912), S.10-38.

62) Seyfert (1912), S.10-12.

63) Seyfert (1912), S.13.

64) Seyfert (1912), S.13-16.

(16)

 以上のようにザイフェルト論文から第一次世界大戦以前のドイツ自転車工 業における工場内生産技術・組織の発展が明らかにされている.このころには,

手工業的熟練工によって操作される従来の汎用性の高い旋盤に替えて,専門 工によって操作されるタレット旋盤や円フライス盤,型抜き機などが導入さ れていたのである.これらの工作機械の導入によって工場内分業がより強化 され,作業効率の改善や取り付け費用の減少などが可能となったのである.

しかしアメリカの「自動工作機械」との比較から明らかなように,作業効率 の面で彼らにはまだ劣っていたとザイフェルトは述べている.

 (4) 第一次世界大戦以前におけるアドラー社の発展過程

 アドラー社の創立者ハインリヒ・クライヤーはダルムシュタットの機械工 場主の息子として1853年に生まれる.彼は父の機械工場で様々な機械や原材 料を知る機会に恵まれ,理論的教育を実科学校とダルムシュタットの工業大 学で受けた.1875年にはハンブルクで機械輸入を営むビアナツキィ社に勤務 し,この会社での経験からクライヤーはアメリカの機械製造と工場設備への 関心を抱いたのであった.1879年にはアメリカを旅行しつつ多くの機械製造 企業で働き,特にワシントンの特許局ではアメリカの様々な機械技術を理論 的に知ることが出来たという.そして旅行中に自転車レースを目撃してドイ ツでも自転車が普及しうると考え,1879年の秋にドイツに戻り,1880年に はフランクフルトに移住して同年3月には自転車(この時期はミショーの二輪 車)の販売に乗り出すのである.当初は自転車販売と並んでガス・モーター や編み機などを販売していたが,1886年に機械工場を購入して自転車生産を 開始し,現在の自転車が現れたことによる需要増加に対応するために1887年 に新工場の建設を始め,それは1889年に完成した.アドラー社は1895年に は株式資本2,500,000マルクで株式会社 Adler Fahrradwerke vorm. Heinrich Kleyer となる65)

65) Lang (1905), S.11-40.

(17)

 第 6 表はアドラー社による1880年から1913年にかけての総売上,自転車 販売台数,自転車価格を載せたものである.売上に関しては1881年からの大 きな増加,1887年の工場建設を画期としたさらなる増加(1898年まで),自転 車の販売危機による1899年から1902年までの停滞,その後の増加を指摘で きる.アドラー社は1898年にタイプライター生産,1900年に自動車生産に 参入しており66),1897年までの売上が自転車生産によるものだと考えられる.

販売台数に関しては1901年,1902年の販売台数の減少とその後の増加,停 滞が看取される.自転車価格に関しては販売危機時(1898-1902年)からの価 格下落を指摘できる.ここから,世紀転換期における販売危機からアドラー 社製自転車価格は下落し,当初はアドラー社の販売台数も減少したものの,

その後販売台数は増加したことが明らかとなる.ゆえにアドラー社は自転車 の販売危機時から生産を効率化させて価格下落に対応したと考えられる.さ もなければ販売台数が減少した後の1903年からの販売台数増加は起こらな かったであろう.次に,そのような時期にあたる1905年に出版されたアドラー 社の社史67)から当時のアドラー社の工場内生産技術・組織を明らかにしたい.

 この史料は1905年のアドラー社の事務棟や工場の動力源である蒸気機関な どの説明に続いて,様々な作業場(Werkstätte)の様子について明らかにして いる.鍛工場(Schmiede)については「アドラー鍛工場の鍛造機械やプレス装 置は最も迅速で安全に小さな鍛造品を大量生産(Massenfabrikation)するという 特色を有している」68)と述べられ,型抜き機部門(Stanzerei)では「それら(型 抜き機,プレス装置など)が非常な圧力で様々な加工対象をほとんど無音で望ん だ形にしている」69)とされた.このような作業場で加工された製品,および半 製品は倉庫に置かれ,それらは「倉庫係」70)によってふたたび必要とされる 場所に運ばれたのである.

66) Lang (1905), S.45.

67) Lang (1905), S.67-90.

68) Lang (1905), S.70.

69) Lang (1905), S.75.

70) Lang (1905), S.69.

(18)

年 総売上 販売台数 自転車価格 アドラー ヘロルド

1880 9,447 − − −

1881 70,921 − − −

1882 182,037 − − −

1883 329,814 − − −

1884 522,878 − − −

1885 670,645 − − −

1886 774,797 − − −

1887 1,066,314 − − −

1888 952,106 − − −

1889 908,465 − − −

1890 947,518 − − −

1891 885,539 − − −

1892 1,211,258 − 270 −

1893 1,642,678 − − −

1894 2,296,752 − − −

1895 2,534,641 − − −

1896 3,791,820 − − −

1897 5,307,387 − − −

1898 5,811,940 − 315 263

1899 5,556,927 − 245 −

1900 4,817,062 23,530 220 190

1901 4,942,911 20,802 − −

1902 4,795,523 20,275 218 −

1903 6,338,669 25,249 − −

1904 7,128,405 25,169 190 −

1905 − 24,815 190 150

1906 − 26,132 190 150

1907 − 26,277 − −

1908 − 26,383 − −

1909 − 25,607 − −

1910 − 26,788 − −

1911 − 23,128 − −

1912 − 25,591 − −

1913 − 24,400 − −

第 6 表 アドラー社の総売上(マルク),自転車販売台数,自転車価格(マルク)(1880-1913年)

 (注) 1897年までの総売上は自転車のみによるものと考えられる.アドラー社は1898年からタ イプライター,1900年から自動車生産を開始する.ヘロルドとアドラーは別品種.ヘロル ドは社名が冠されていないが,アドラー社製.アドラーは旅行用タイプで最も安価なもの.

1892年の価格はアドラー安全車で最も安価なもの.

 (出所) 以下より作成.

    Lang (1905), S. 47.

    Institut für Stadtgeschichte, Sig W1/14 Nr.224, Nr.301-314, Adlerwerke.

(19)

 自転車組立については少々長いが以下のような非常に興味深いことが述べ られている.

   「金属工業のもっとも重要な部門である自転車生産は,経済的,技術的な関係でと もに興味深い.私たちはこの分野でもっとも進んだ分業に出会うだけでなく,もっと も発達している大量生産にも出会う.大量生産という原理がこの自転車工業ほど大 きく花開いている部門は他に存在しない.これには明白な根拠がある.というのは,

私たちが大型機械製造で通例であるような原理によって自転車を生産しようと意図 したならば,自転車への大きな需要に接して必要な労働者が欠けたであろうからであ る.大型機械製造の生産方法は,機械部分の個々の寸法が測定機器や罫書き針などを 用いて決められ,それに従って穴や切り込み溝がフライス盤で切削されるかもしくは 何らかの方法で個々に加工されることに主に基づいている.自転車への大きな需要は この方法に基づいては満たされられなかったであろう.それゆえ自転車の大量の生 産を可能にする,新しい生産方法が考え出されなければならなかった.この課題はご く数年のうちに極めてうまく解決された.新しく考え出された生産方法では,工作機 械の配置をシステマティックに完成させること,言い換えればある特定部品の生産の みに使用される特殊工具の運用に結びついた工作機械の独立したシステムの創造が 重要であった.この生産方法において,機械に大量に持ち込まれた個々の自転車部品 を組み立てる設備を広範に使用することはさらに重要である.いっそう特徴的なのは 全組み立て過程がたくさんの個別過程へ分解したことである.その個別過程は特定の 労働者グループに委ねられ,その中でつねに同じ組み立てが行われる.それによって 徐々に優良品化と高速化が追求される.個々の自転車部品の生産にもちろん現代の工 作機械製作の成果が十分に用いられる.例えば自動工作機械や,特殊旋盤,フライス 盤などがこの自転車工場で様々なかたちで見出される.そのような方法で自転車は大 量に生産され,個々の部品加工では人の手によって達成できない精確さがさらに高め られている.」71)

71) アンダーラインは筆者による.Lang (1905), S.78.

(20)

 ここから,アドラー社は自転車生産のために大型機械製造の際とは異なっ た新しい工場内生産技術・組織を採用したことが明らかとなる.その技術・

組織は特殊工作機械の導入と組立工程の分割によって特徴づけられ,最後の 文では機械製互換性部品生産の発展に言及している.

 アドラー社は自転車生産を端緒に発展していったが,自転車の販売危機 時(1898-1902)からタイプライター,自動車生産に参入していく.そして

1905/1906年の営業報告には「タイプライター生産と自動車組立は自転車生

産と並んでわが社の主要部分を形成しているので,わが社(die Firma unserer

Gesellschaft)は現時点の活動とは異なり,時には思い違いとなるイメージを

変える必要がある.合目的な理由から社名の Adlerwerke vorm. Heinrich Kleyer, Aktiengesellschaft への変更を取り決めることが望ましい」72)と述べ られ,このころにはアドラー社においてタイプライター,自動車生産の比重 が高まっていたと考えられる.

小  括

 この節の最初ではドイツ自転車工業の発展過程を考察し,1880年代にイギ リスからの輸入に依存していたドイツ自転車工業が1890年代の半ばにはその 依存から脱却し,1898年から1902年にかけての自転車の販売危機を通じて さらに工業規模を拡大させたことを確認した.そのような過程は同時に一部 企業の大規模化と部品専門企業群の形成を伴っていた.そしてザイフェルト 論文から第一次世界大戦以前におけるドイツ自転車工業の工場内生産技術・

組織の発展を明らかにしたことによって,当時の自転車工業が特殊工作機械 の導入による生産の効率化,手工業的熟練工の専門工による代替を行ってい たことが確認された.しかしザイフェルト自身が述べているように,生産の 効率化という観点ではいまだアメリカの「自動工作機械」には劣っていたの

72) Institut für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main) W1/14, Nr.229. この時期にお ける社名の変更については現在確認できないが,Schmitt (1926)から1926年には社名が変更さ れていたことが確認される.

(21)

である.次にドイツにおける自転車生産のパイオニアであるアドラー社の発 展過程と工場内の様子を明らかにしたことによって,世紀転換期における販 売危機時でのアドラー社製自転車価格下落と販売危機後の販売台数増加が確 認され,当時の工場内の様子からアドラー社の工場内生産技術・組織の発展 が看取された.

 このような自転車工業における工場内生産技術・組織の発展はザイフェル トが「大量生産」と述べているように,後のベルトコンベヤーシステムに代 表される大量生産システムに連なるものとして理解される.アドラー社によっ て1905年に出版された社史においても同社の工場内生産技術・組織の発展

(特殊工作機械の導入と組立工程の分割)が看取されたが,同時期の1905/1906年 の営業報告からこのころには自転車の販売危機時に参入したタイプライター,

自動車生産がアドラー社で大きな比重を占めていたと考えられる.このこと から自転車生産に端を発したアドラー社は自転車の販売危機を通じて工場内 生産技術・組織を発展させつつ,同時期から製品を多角化させることによっ て企業規模を拡大していったと考えられる.このアドラー社のような大規模 な完成車生産企業が存在した一方で,世紀転換期における自転車の販売危機 から部品専門企業群も形成されたことを上で確認した.この部品専門企業群 は後述する自転車組立業者(通信販売会社)や輸出に販路を求めつつ,製品を 多角化させていったと考えられる.このようなアドラー社と部品専門企業群 は規模などを異にしつつも,両者とも多角化を行っていたことから,ドイツ 的生産レジームにおける「多角的高品質生産」によって発展していた可能性 がある.

3 自転車の普及過程

 上においてドイツ自転車工業が世紀転換期の販売危機を通じて第一次世界 大戦以前に後の大量生産システムに連なる工場内生産技術・組織を発展させ ていたことを明らかにしたが,以下ではそのような技術・組織によって生産

(22)

     (出所) Lang (1905), S.75.

写真 1 アドラー社における型抜き機作業場(1905年)

写真 2 アドラー社におけるフレーム製造場(Rahmenschlosserei)

     (出所) Lang (1905), S.79.

(23)

された自転車がどのように販売され,世紀転換期に就労者の約半数を形成し ていた労働者に普及していたか,を検討したい.

 (1)自転車の販売方法

 1895年に機械・機器を取り扱う商業は1,699社,被雇用者6,176人によっ て構成されていた73)が,1907年には12,585社,被雇用者25,195人によって 構成されており74),世紀転換期にこの商業が大きく成長したと考えられる.

同時代人ゾンバルトによれば19世紀末にドイツにおいて小売業の変化が起こ り,従来の「手工業的,伝統的に訓練された活動」から「目的意識的,合理 的商業」へと移行した.それによって競争は激化し,「経済生活での集中化と ともに増大する,個人商人の販売条件の急速な悪化」が起こり,取引は「大

写真 3 アドラー社における自転車組立

     (出所) Lang (1905), S.81.

73) Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1899), S.39.

74) Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1909), S.84.

(24)

75) Sombart (1909), S.245-252.

76) Sombart (1909), S.249によれば,通信販売のほかには「競売会社(Auktionsgeschäft),分割 払い店」が挙げられている.

77) Kleyer (1911), S.1-19.

78) Heege/Plümer (1996), S.7.

79) Heege/Plümer (1996), S.14.

80) Löns (1982), S.10.

きな売上,小さな利益」というものになっていった.そしてこの一連の変化 から「非常に新しい販売方法」が発展したのである75).以下ではアドラー社 の支店による自転車販売や,この「非常に新しい販売方法」76)の一つであっ た通信販売,そして労働者による購買協同組合について考察したい.

 2-(4)で考察したようなアドラー社やデュルコップ社という大規模企業は支 店を通じて顧客に製品を直接販売していた.1911年のアドラー社ベルリン支 店の様子について写真を交えて紹介している史料77)によると,1911年にアド ラー社の全支店で200人以上の従業員が雇用され,ベルリン支店では応接間 や商品の実演をする部屋を設けて自転車,自動車,タイプライターを販売し ていた.さらにアドラー社ベルリン支店は職業運転手などを養成する自動車 専門学校(Automobilfachschule)を所有していたのである.

 このように大規模企業は支店を通じて顧客に直接販売する一方で,「非常に 新しい販売方法」が登場した.その一つが通信販売である.自転車の通信販 売を展開する会社をシュトッケンブロークが1890年に設立するが,この会社 はやがて「小さな商店から,わずか数年のうちに数百の従業員を抱え,世界 大で営業を営む企業に発展し」,「すでに世紀転換期に通信販売会社の発想を ドイツで広範に現実化した」78)のである.

 この会社の大きな特徴は自社で自転車の関連部品を生産せずに,部品を購 入して組み立てていたことにある.「シュトッケンブロークは自転車やその部 品を大量に発注し,自社の錠前工によって顧客のニーズに合わせて改造させ るか,独自の設計を発展させた」79)のである.そして組み立てられた自転車 は自社に引き込まれた専用側線によって鉄道で運搬された80)

(25)

 このような通信販売会社にとってカタログは販売の際に非常に重要なもの となる.1893年にこの会社による小さなカタログが現れるが,1894年には そのカタログが広範なものとなる.そして1900年のカタログは108ページに およぶものになり,発行部数は1900年に100,000部,1905年に300,000部,

1907年には500,000部以上となった.そしてそれらはレストランやドイツ帝

国鉄道の車室に置かれた81)

 この会社の自転車販売台数は1890年に28台であったが,1893年に182 台,1894年に482台,1895年に840台,1896年に1,641台,1897年に3,300 台,1899年に6,700台,1902年に約10,000台,1904年には21,000台になり,

1906年には会社の最高販売台数である22,000台を記録するが,この年を境に してこの会社による自転車販売は停滞していく82).シュトッケンブロークに よる自転車販売台数は自転車の販売危機時(1898〜1902年)に上昇したと考 えられる.

 1895年にこの会社の自転車は空気タイヤ,空気ポンプに加えて1年間のタ イヤの保証付きで225マルクであり,1897年には同条件で160マルクであっ た83).この価格を第2表,第6表で挙げたものと比較すると,アドラー社製 自転車よりも安価で,アメリカ製自転車よりも若干高い価格帯に位置してい ると言える.このような価格帯でこの会社が世紀転換期における販売危機の 時期に成長したことから,シュトッケンブロークは販売危機時における自転 車価格下落の一端を担ったと考えられる.

 シュトッケンブロークは1901年から机時計,写真機,双眼鏡などを,1906 年からはミシン,グラモフォン(旧式の手回し式蓄音器),レコードの販売も手 掛けていく84)が,会社のもととなった自転車販売は1906年に頂点に達した

81) Heege/Plümer (1996), S.19-22, S.34-36.

82) Heege/Plümer (1996), S.12, S.29-30. Seyfert (1912), S.103によると自転車の通信販売の停滞は 捨て値で売るような多くの「投機的商人」の登場と時を同じくしている.

83) Heege/Plümer (1996), S.13-15.

84) Heege/Plümer (1996), S.31.

(26)

85) Seyfert (1912), S.103-104.

86) Reulecke/Weber (1978), S.216-244.

87) Fischer (1908), S.38によると,この決議は労働者サイクリスト連盟という組織内では1地区

に連盟が所属する協会は1つとする決定であった.

88) Fischer (1908), S.43によると,連盟の中でこの購買協同組合の持ち分証書を販売することも

1908年に認められた.

89) Bundesvorstand (1927), S.63-64.

後に停滞していくことは上ですでに明らかにした.1912年のザイフェルト論 文でも「自転車の取引における通信販売会社の黄金時代は過ぎ去っている」

と述べられており85),このように自転車の通信販売が停滞する時期から,自 転車を主商品とする労働者による購買協同組合が発展し始めるのである.

 当初の目的は生活必需品の共同購入であったものの,労働者による購買協 同組合は1865年から設立された.経営の不安定さゆえに設立と破産を繰り返 しながら1900年代には再び活発に設立され86),そのような経過の中で労働者 による自転車の購買協同組合も発展を開始するのである.

 1910年に労働者サイクリスト連盟(1896年設立−以下連盟)によって所有さ れることになる購買協同組合の原型は1890年代後半に結成され,1901年の 終わりに200人以上の構成員とともに連盟に参加し,1903年には修理場を備 えた店がベルリンで開店される.1904年に連盟において集中化決議87)がな されてベルリンにあった7協会が1つに統合され,その際この購買協同組合 も連盟が引き継いだ.そして1906年にはそれまでの局地的な(マグデブルクで も1902年に購買協同組合が設立)購買協同組合を連盟構成員のための購買所(商 事会社)に変更するが,連盟とこの購買協同組合の関係は不明瞭なままであっ た.しかし1908年には会社の業務執行をする人間の雇用が連盟の会議で承認 されなければならないとされ,会社の経営陣は翌年(1909年)より連盟の資産

から15,000マルクまでの貸付を必要な場合に受けることが出来るとされた88)

そして1910年から連盟はこの購買協同組合を所有するのである89)

 この購買協同組合は多様なサービスを連盟構成員に提供した.組合が取り 扱う商品は自転車のみならずミシンや毛織物にも及び,連盟構成員は購入に

(27)

際して10%の値引きが認められた90).1908年からこの組合の支店網は拡大す るが,1912年からは組合の支店内で預金業務が行われていく.そしてこのよ うな支店に直接赴いて商品を購入できないものはカタログを通じて商品を購 入することができたのである91).1912年の営業報告では分割払いの未回収金 が経営を圧迫していたことが報告され,購買協同組合で顧客に分割払いサー ビスが提供されていたことが確認される92)

 この購買協同組合の売上は1905年の24,000マルクから,1906年に48,000 マ ル ク,1907年 に80,000マ ル ク,1908年 に183,823マ ル ク,1909年 に 291,185マルク,1910年に474,974マルク,1911年に842,605マルク,1912 年に1,015,547マルク,1913年に1,275,802マルクに上昇した93).このように,

売上が確認される1905年から急速に売上を伸張させていったことが明らかと なる.

 この購買協同組合は1923年から自転車を自製し始めたことが確認されてい る.それまでは「商業を営む企業」(Handelsunternehmen)であったが,1922年 から自主生産を開始した94).第一次世界大戦以前においてこの購買協同組合 が自転車部品を購入して組み立てていたのか,または完成車を購入していた のかは,現在のところ確認されていない.

 世紀転換期に機械・機器を取り扱う商業は成長し,ゾンバルトが述べてい るように小売業は「合理的」なものとなった.このような小売業の変化によっ て個人商人の経営は圧迫され,「大きな売上,小さな利益」が一般的な取引に なっていったと彼は述べている.2-(4)で考察したアドラー社のような大規模 企業は支店を通じて顧客に直接販売し,世紀転換期には自転車の通信販売を 通じてシュトッケンブロークは事業を拡大した.そして世紀転換期から第一

90) Fischer (1908), S.42-43.

91) Bundesvorstand (1927), S.44-69.

92) Fahrrad-Haus Frischauf für die Geschäftsjahre, (1914), S.8.

93) Bundesvorstand (1927), S.71.

94) Bundesvorstand (1927), S.66.

(28)

95) 注28参照.

96) 注82参照.

97) Ladwig-Winters (1997), S.74によると,1925年におけるドイツ小売業の全売上の各小売形態

別割合は82.2%が専門店(Fachhandel),3.7%が百貨店,2.6%が消費協会,6.8%が街頭販売と

市場販売(Straßen-/Markthandel),3.0%が通信販売,1.7%がその他.

98) Nipperdey (1998), S.9, S.291.

99) Ritter/Tenfelde (1992), S.118.

次世界大戦以前にかけて労働者サイクリスト連盟と関係を深めつつ,自転車 を主商品とする購買協同組合が発展するのである.通信販売と購買協同組合 は発展する時期を異にしつつも,共にカタログ販売という組織された郵便サー ビス95)を前提とした販売方法を採用し,特に後者に関しては労働者サイクリ スト連盟と関係を深めつつ発展していったことから顧客との密接な関係を指 摘出来る.ここでは大規模企業の支店を通じての直接販売,通信販売,購買 協同組合という小売形態を明らかにしたが,ザイフェルト論文では「投機的 商人」96)という存在が指摘されており,第一次世界大戦以前のドイツにおけ る自転車小売業を考察する場合には彼らの存在を明らかにせねばならないが,

それは今後の課題としたい97)

 上において世紀転換期における自転車の販売方法について考察したが,次 に世紀転換期からの労働者による自転車所有を検討したい.

 (2)第一次世界大戦以前のドイツにおける労働者の自転車所有

 1866年 か ら1918年 に か け て ド イ ツ に お い て 人 口 は39,800,000人 か ら

67,800,000人に増大し,増加した就労者の約半分は労働者によって占められ

ていた98).このような時期に労働者の生活水準は向上し,同時代人シュモラー は「下層」に賃金労働者を位置付けると同時に「中下層」に小農や手工業者 などと並んで「稼ぎの良い労働者」を挙げたのである99).以下では,世紀転 換期ごろの労働者の生活改善について確認した後に,主に労働者家計調査か ら労働者による自転車所有を検討したい.

 労働者の平均年間名目賃金,並びに平均年間実質賃金指数(1895年を100と

(29)

して)は1871年に493マルク(70),1880年に545マルク(79),1890年に650 マルク(96),1900年に784マルク(111),1910年に979マルク(119)に上昇 し,19世紀の終わりから世紀転換期にかけて労働者の平均年間名目賃金のみ ならず平均年間実質賃金指数も大きく上昇したことが確認され100),労働時間 は1860年の週78時間から,1871年に72時間に,1885/90年には66時間に,

1910/13年には53~57時間に減少した101).そして一部の労働者の食事の改善

(パン,良質な小麦,ミルクと乳製品,砂糖の消費の増加)や服飾への支出の増加は 世紀転換期ごろから顕著になり,第一次世界大戦以前には彼らの食習慣や家

協会 DRB Solidarität DRB Solidarität

年 構成員数(人)構成員数(人) 年 構成員数(人)構成員数(人)

1884 2,537 − 1904 − 24,846

1885 5,156 − 1905 41,206 40,425

1890 13,406 − 1906 − 62,000

1896 約28,000 476 1907 約40,000 86,301

1897 − 1,415 1908 − 103,570

1898 − 2,330 1909 − 111,487

1899 − 3,500 1910 − 125,000

1900 − 6,500 1911 − 133,928

1901 − 9,451 1912 47,515 143,369

1902 − 11,275 1913 − 147,557

1903 − 19,201 1914 − 75,187

第 7 表 市民サイクリスト協会DRBと労働者サイクリスト連盟Solidaritätの構成員数

(出所)以下より作成.

   Bundesvorstand (1927), Handbuch, S.7.

   Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1889), S.11.

   Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1891), S.21.

   Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1913), S.3.

   Meyers Grosses Konversations=Lexikon, (1907), S.277.

   Rabenstein (1991), S.199, S.206-207.

   Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1907), S.356.

100) Hohorst /Kocka /Ritter (1975), S.107.

101)  Nipperdey (1998), S.302.

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