会計上の見積りに対する監査基準について
著者 町田 祥弘
雑誌名 同志社商学
巻 71
号 6
ページ 1303‑1314
発行年 2020‑03‑13
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000150
会計上の見積りに対する監査基準について
町 田 祥
1
弘
Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 国際監査基準における展開
Ⅲ わが国の監査基準の改訂の焦点
Ⅳ 特有な領域における監査対応の限界
Ⅴ むすびにかえて
Ⅰ 問題の所在
2019年12月6日,企業会計審議会総会・第46回監査部会が同日開催され,監査部 会において,近年の国際監査基準(International Standards on Auditing : ISA)の改訂動 向,すなわち,ISA315「財務諸表の重要な虚偽表示のリスクの識別及び評価」,及び2
ISA540「会計上の見積り及び関連する注記についての監査」の改訂(以下,それぞれ,3
改訂ISA315,改訂ISA540という)に対応して,リスク評価及び見積りに関する監査
手続について,監査基準の改訂を審議することとなった。
このうち,改訂ISA315は,リスク評価に関する基準であり,リスク評価,リスク対 応,及び証拠の評価,並びに,それらを含む監査計画等からなる,いわゆるリスク・モ デルの改訂作業が,今後続けられていく手始めの改訂とも位置付けられる。主な改訂点 としては,特別な検討を必要とするリスク(Significant Risk)の定義の変更や,2005年 の監査基準の改訂によって,「重要な虚偽表示のリスク」として結合された状態で評価 することとされていた固有リスクと統制リスクを再び別々に評価すること,さらには固 有リスク要因,固有リスクのスペクトラム(spectrum)といった新しい用語の取扱いと それらに基づいて特別な検討を必要とするリスクを評価すること等が挙げられる。リス ク評価はリスク・モデルの基礎であり,今後,他のISAの規定及び監査実務に対して も大きな影響を及ぼすことが想定される。
一方,改訂ISA540は,ISA315の改訂を受けての,いわゆる適合修正としての改訂 と,財務報告において複雑な見積り項目が多く含まれるようになった現状において,従 来の基準がカバーしきれないかった部分をカバーするための改訂が行われている。とく
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1 まちだよしひろ。青山学院大学大学院会計プロフェッション研究科・教授。
2 International Auditing and Assurance Standards Board[IAASB],(2019)Identifying and Assessing the Risks of Material Misstatement,December.
3 IAASB,(2018)Auditing Accounting Estimates and Related Disclosures,October.
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に,国際財務報告基準(International Financial Reporting Standards : IFRS)9号「金融商
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品」の改訂が公表され2019年1月1日以後開始する事業年度から適用が開始されるこ とに伴い,ISAの整備を図ったという側面がある。
改訂ISA315も改訂ISA540も,いずれも重要な基準ではあるが,わが国の監査基準
及びそれに基づく実務を考えるときに,前者は,基準の内容の改訂であるのに対して,
後者は,現在,わが国の監査実務における課題とも相俟って,重要な問題を惹起するよ うに思われる。
例えば,公認会計士・監査審査会が公表している「監査事務所検査結果事例集(令和 元事務年度
5
版)」によれば,会計上の見積りに関して,以下のような課題があったこと が挙げられている。
「検査結果の概要
会計上の見積りの監査において,監査チームの職業的懐疑心が欠如していたこと により,経営者の仮定や会計処理の理解にとどまり,棚卸資産の評価ルールの妥当 性,会計上の見積りに利用された事業計画の実現可能性等,経営者の主張に対する 客観的な評価を行わず,当該主張の合理性を検証する手続が不足している事例がい まだ多くみられる。
また,監査基準委員会報告書540における要求事項に対する理解が不足していた ことから,監査における要求事項を実施していなかった事例も多くみられる。」(下 線含め,原文ママ)
すなわち,日本公認会計士協会が,改訂前のISA540を翻訳し,一部修正の上で実務 指針として公表している監査基準委員会報告書540「会計上の見積りの監査」に対する6 理解が浸透していない事例が多く見られるというのである。言うまでもなく,監査基準 委員会報告書は,企業会計審議会の監査基準とともに,「我が国における一般に公正妥 当と認められる監査の基準の体系」をなすものとされてい
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る。
これに対して,日本公認会計士協会の監査基準委員会報告書の根本規定と位置付けら れる企業会計審議会の監査基準では,見積りについては,主な規定は次のものしかない。
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4 International Accounting Standards Board[IASB],(2017)IFRS9 : Financial Instruments, October.
5 公認会計士・監査審査会(2019)「監査事務所検査結果事例集(令和元事務年度版)」,7月,Ⅲ.個別 監査業務編・3.会計上の見積りの監査,106頁。
6 日本公認会計士協会監査基準委員会(2015)「会計上の見積りの監査」,5月29日最終改正。
7 企業会計審議会(2002)「監査基準の改訂について」,1月25日,二 改訂基準の性格・構成及び位置 付け・2 改訂基準の構成。
なお,日本公認会計士協会の監査準委員会報告書においても,同様に,次のように述べられている。
「監査基準 委員会報告書は,企業会計審議会が公表する監査基準(法令により準拠が求められて いる場合は,監査における不正リスク対応基準を含む。)を実務に適用するために具体的・詳細に 規定したものであり,監査実務指針の中核となるものである。」(日本公認会計士協会(2016)監査 基準委員会報告書(序)「監査基準委員会報告書の体系及び用語」,1月26日最終改正,2項。)
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「第三 実施基準・三 監査の実施 5
監査人は,会計上の見積りの合理性を判断するために,経営者が行った見積りの 方法の評価,その見積りと監査人の行った見積りや実績との比較等により,十分か つ適切な監査証拠を入手しなければならない。」
このように,見積りについては,会計上の見積りの合理性の判断と,十分かつ適切な 監査証拠の入手を要請しているだけで,ごく簡単な規定に留まっている。この規定は,
2002年の監査基準の改訂時に導入されたものであるが,当時はともかくとして,現在 の財務報告において多岐にわたり,かつ,複雑化している会計上の見積りに対して,十 分な対応が求められているとはいえないように思われる。
現在の財務報告においては,見積りが重要な要素となり,かつ中には複雑な見積り項 目も含まれてきている。さらに,現在の財務報告は,財務諸表本体における財務情報よ りも,注記や財務諸表外における記述情報に価値関連性が見出される状況にある。かか る状況を踏まえて,金融庁では,2018年6月に,金融審議会より「ディスクロージャ ーワーキング・グループ報告 ──資本市場における好循環の実現に向けて
8
──」を公 表し,非財務情報の開示を重視する方向へ大きく舵を切り,その後,2019年3月には,
「記述情報の開示に関する原則」及び「記述情報の開示の好事例集」を公表してきてい る。また,企業会計基準委員会においても,2019年10月30日に企業会計基準公開草 案第68号「会計上の見積りの開示に関する会計基準(案)」及び企業会計基準公開草案 第69号(企業会計基準第24号の改正案)「会計方針の開示,会計上の変更及び誤謬の 訂正に関する会計基準(案)」(コメント期限:2020年1月10日)を公表し,両会計基 準ともに,2020年3月に最終基準化することを目標としてい
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る。
こうした中で,企業会計審議会が公表する監査基準が,わが国の監査規範の中核とし て,わが国の監査実務において見積りの監査が課題を有している現状に対して明確なメ ッセージを発信する,又は啓発的な役割を発揮するとともに,原則的な内容を規定する 監査基準において,会計上の見積りに対していかなる監査手続が原則として示されるの かを明示することは重要であるように思われる。
本稿では,これまでのISA540の改訂の経緯を検討した後に,わが国の監査基準の改 訂に当たって,いかなる事項を監査基準において規定すべきかについて検討してみるこ ととする。
また,その上で,今般のISA540の改訂がIFRS9等において求められる不確実性が高 い複雑な見積りへの対応であったことに鑑みて,一例として,現在,国際会計基準審議
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8 金融審議会(2018)「ディスクロージャーワーキング・グループ報告 ──資本市場における好循環の 実現に向けて──」。
9 企業会計基準委員会(2019)「現在開発中の会計基準に関する今後の計画」,12月27日。
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会(International Accounting Standards Board : IASB)で審議中のIFRS17「保険契約」の ケースを例に,不確実性が高い複雑な見積りに対する監査の課題について検討する。今 般のISA540の改訂は,バーゼル委員会(Basel Committee of Banking Supervision)等の 国際的な金融規制当局からの強い要請を背景としている。こうした動向又は不確実性が 高い複雑な見積りに対する監査の要請は,実際に,どこまで対応可能なものなのかとい う問題意識である。
Ⅱ 国際監査基準における展開
ISAの体系において,ISA540は,以前から会計上の見積り及び関連する注記に関し て,ISA315を含む,リスク・モデルの監査手続をいかにして適用するかを取り扱うと ともに,見積りの監査に固有の検討事項等を規定するものとなっている。
・改訂ISA540は,2018年6月にIAASBが改訂案を承認,同年10月に改訂基準を公 表したものであり,2019年12月15日以降開始事業年度から適用されることとなって いる。
今般の改訂に先立つ基準は,IAASBが2009年12月に公表した「公正価値会計の見 積りを含む会計上の見積りの監
10
査」(以下,旧 ISA540という)であった。旧ISA540は,
ISAの体系におけるクラリティ・プロジェクト(Clarity Project)に対応するとともに,
それまで分かれていた公正価値の評価と開示に対する別基準──ISA545「公正価値の 測定と開示の監
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査」──を取り込んで1つのISAにすること,並びに,従来,用語等 の適合修正に留まっていたビジネスリスク・モデル(わが国でいう,事業上のリスク等 を重視したリスク・アプローチ)を,会計上の見積りの監査に適用することにあった。
こうした目的をもって改訂された旧ISA540は,ISA545との統合に示されるように,
公正価値評価を特別の領域とせずに基準化を図ったこと,リスク・モデルへの対応を図 ってリスク評価やリスク対応手続にかかるISAの監査プロセスに応じた手続が規定さ れていること,「見積りの不確実性」という概念の下,測定の問題だけではなく,開示 の問題も含めた基準となっていることなどの特徴を有してい
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た。
これに対して,今般の旧ISA540から改訂ISA540への改訂作業は,3つの背景を契
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10 IAASB,(2009)Auditing Accounting Estimates, Including Fair Value Accounting Estimates, and Related Dis- closures,December.
11 IAASB,(2003)Auditing Fair Value Measurements and Disclosures.
12 旧ISA540の意義については,例えば次の文献を参照されたい。
内藤文雄(2010)「ISA540 公正価値の会計上の見積りおよび関連する開示を含む会計上の見積りの監 査」,内藤文雄・林隆敏・松本祥尚編著『国際監査基準の完全解説』中央経済社,第5章「監査手続と 証拠」所収。
奥西康宏(2010)「ISA540における見積りの不確実性の内容と役割に関する分析」『現代監査』20号,
3月,79-88頁。
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機として行われたものである。
第1には,会計上の見積りが複雑化し,監査リスクが高まっている状況に対応すべ く,監査手続を精緻化することである。
一般に,近年,会計上の見積りには,将来情報を利用した不確実性の高い複雑な見積 りの占める割合が増加し,それに伴って,監査リスクが高まってきている。また,そうし た情報については,測定基礎や見積りに利用されるデータ及び仮定等について非常に多 くの注記が求められることから,かかる注記に対する監査上の対応を図る必要もある。
何より,前述の通り,IFRS9「金融商品」の適用が大きな要因となっている。IFRS9 において求められている「予想信用損失モデル」に関連する金融商品の評価及び開示に 対して,監査上の対応が強く求められたのである。ここで大きな契機となったのは,バ ーゼル委員会であった。同委員会は,「銀行の外部監
査」の策定過程において,201313 年 3月にIAASBにレタ
ーを送付し,銀行の監査に特有のリスクに対処するため,ISA14 の
強化を要請した。とくに,貸倒引当金についての監査に関する指針を開発するよう求め たのである。
すなわち,今般のISA540の改訂は,金融規制の影響を強く受けたものであり,不確 実性が高い複雑な見積りへの対応が強調されているという点に留意する必要がある。後 述するように,わが国の企業会計審議会が公表する監査基準において,監査の原則的な 手続,あるいは,上場企業に限らない広範な範囲にわたる監査において利用される監査 基準の性格からみて,あまり詳細にISA540を取り入れてしまうことは,監査実務に無 用の負荷又は制約を課してしまうように思われるからである。
ISA540改訂の第2の背景は,グローバルな監査の品質にかかる検査等において,会
計上の見積り,とくに,公正価値評価等の見積りに関して,各国の監査規制当局が指摘 事項を掲げ,監査監督機関国際フォーラム(IFIAR)による報告書においても,公正価15 値測定を含む会計上の見積りが指摘事項の大きな割合を示している。すなわち,見積り における仮定の合理性が欠けている,データの正確性の十分なテストが欠けている,十 分なリスク評価手続が実施されていない,関連する変数が検討されていない,経営者が 代替的な仮定を検討したかどうかについての評価が行われていない,経営者の判断にお ける偏向の兆候について適切に検討されていない等の指摘事項が,指摘が多かったもの として列挙されてい
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る。
これには,旧ISA540では,要求事項が22項に過ぎない一方で,適用指針が127項
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13 Basel Committee of Banking Supervision,(2014)External Audits of Banks, March.
14 https : //www.iaasb.org/system/files/meetings/files/20150316-IAASB-Agenda_Item_5-B-BCBS%20Letter.pdf.
(2020年1月10日閲覧。)
15 IFIAR,(2019)Survey of Inspection Findings 2018, May 16th. 16 Ibid,Table B.4 Listed PIE Audits, p.B-9.
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にも及び,かつ非常に多くの検討事項又は考慮事項が挙げられていることも影響してい るように思われる。しかも,監査手続に関しては,適用指針の検討事項や考慮事項の他 は,監査実務において何を行えばいいのかについて,殆ど具体的に規定されていないよ うにも見受けられる。改訂ISA540では,そうした旧 ISA540の不十分さや曖昧さの見 直しが図られたとも考えられる。
さらに,第3の背景としては,2015年1月に公表された監査上の主要な検討事項
(Key Audit Matters : KAM)の記載を求める一連の監査報告書の拡充に関するISAの新 設又は改訂が挙げられ
る。KAM17 の記載に関しては,ISAにおいては,2016年12月15
日以降に終了する事業年度からの適用を求めているため,わが国以外の世界の殆どの 国々においては,適用が開始されている。
KAMは,「監査人の職業的専門家としての判断において,当年度の財務諸表の監査 において最も重要であると認められる事項。監査上の主要な検討事項は,監査人がガバ ナンスに責任を有する者にコミュニケーションを行った事項から選択され
18
る」と規定さ れている。したがって,会計上の見積りは,KAMの主たる対象となるものと想定され ることから,今後は,監査役等とのコミュニケーションの重要なテーマの1つとなるで あろうし,監査報告書を通じて,会計上の見積りに監査人がどう対応したのかが,財務 諸表利用者に開示されるであろう。改訂ISA540は,監査人による手続を強化し,会計 上の見積りの監査手続に関して,監査役等とのコミュニケーションや,監査報告書の記 載を通じた財務諸表利用者への説明に際して,認識ギャップや期待ギャップが生じない ように,監査手続を改善し,精緻化したものと解されるのである。
これら第2及び第3の点は,わが国の監査実務にも当てはまる課題であろう。第2の 監査の品質に関する問題については,先に挙げた公認会計士・監査審査会の指摘におい ても同様であるし,第3のKAMの問題は,わが国においても,2021年3月決算にか かる財務諸表の監査から「監査上の主要な検討事項」の記載が求められるため,それに 備えて,会計上の見積りにかかる監査手続についても,見直しを図る必要があるといえ よう。
以上のような背景を有する改訂ISA540であるが,その主な改訂内容を列挙すれば以 下の通りである。
会計上の見積りの監査において,重要な虚偽表示のリスクの識別及び評価に関する 手続を強化したこと。とくに,従来,「見積りの不確実性」という概念で整理され ていた虚偽表示リスクの問題を,データ,仮定,モデル等にかかる「複雑性」,及 び見積りの属性やデータ固有の限界による「主観性」に焦点を当てて検討すること
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17 IAASB,(2015)ISA 701Communicating Key Audit Matters in the Independent Auditor’s Report,January.
18 Ibid,par.7.
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を求めていること
会計上の見積りの注記に関する監査を重視していること
見積りの方法,並びに,それに用いられたデータ及び仮定について,要求事項
(requirement)に規定し,監査手続を厳格化したこと
会計上の見積りに対して実施した手続について,職業的懐疑心の発揮を促すため,
個別の手続に留まらず,総括的な検討を実施するための「一歩下がっての評価」
(stand back)を要求していること
会計上の見積りに関して,監査役等とのコミュニケーションの規定を強化している こと
見積りの不確実性やそれに関する注記は,多くの場合に,KAMに該当し得ること を明記したこと
以上のような改訂趣旨を踏まえ,わが国の監査基準では,いかなる対応を図ればいい のであろうか。
Ⅲ わが国の監査基準の改訂の焦点
わが国の現行監査基
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準では,会計上の見積りに関する規定は,主に,以下の[表1]
に示す3箇所にしか示されていない(下線は筆者による)。
表1 現行監査基準における「見積り」の規定
第三実施基準・二監査計画の策定 5
監査人は,会計上の見積りや収益認識等の判断に関して財務諸表に重要な虚偽の表示をもたらす可能性 のある事項,不正の疑いのある取引,特異な取引等,特別な検討を必要とするリスクがあると判断した場 合には,そのリスクに対応する監査手続に係る監査計画を策定しなければならない。
第三実施基準・三監査の実施 5
監査人は,会計上の見積りの合理性を判断するために,経営者が行った見積りの方法の評価,その見積 りと監査人の行った見積りや実績との比較等により,十分かつ適切な監査証拠を入手しなければならな い。
第四報告基準・三無限定適正意見の記載事項・(4)監査人の責任
監査人の責任は独立の立場から財務諸表に対する意見を表明することにあること
監査の基準は監査人に財務諸表に重要な虚偽の表示がないかどうかの合理的な保証を得ることを求めて いること,監査は財務諸表項目に関する監査証拠を得るための手続を含むこと,監査は経営者が採用した 会計方針及びその適用方法並びに経営者によって行われた見積りの評価も含め全体としての財務諸表の表 示を検討していること,監査手続の選択及び適用は監査人の判断によること,財務諸表監査の目的は,内 部統制の有効性について意見表明するためのものではないこと,継続企業の前提に関する経営者の評価を 検討すること,監査役等と適切な連携を図ること,監査上の主要な検討事項を決定して監査報告書に記載 すること
(筆者作成)
────────────
19 企業会計審議会(2019)監査基準。
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この中で中心的な規定が,監査人による実施手続を示している第三実施基準・三監査 の実施5の規定であることは明らかであろう。
しかしながら,同規定で示されているのは,会計上の見積りの「合理性」を評価する ことが要請されている点と,それに関して十分かつ適切な監査証拠を入手しなければな らない,という点に過ぎない。
前述の通り,同規定は,2002年1月の監査基準の改訂で導入されたものであり,以 後,改訂は行われていない。[表2]に示した時系列的な基準設定の経緯を見れば明ら かなように,2002年改訂において参照されたのは,ISAでいえば1994年公表の当初の
ISA540であると想定され,その後のリスク・モデルの変更等は反映されていないと考
えられるし,当然そこで想定されているのは,公正価値評価等を含む現代の高度な見積 りではないと解される。今般のわが国の監査基準の改訂は,2002年監査基準改訂以後 のリスク・モデルの変更を踏まえて,また近時の会計上の見積りの高度化,複雑化を考 慮に入れた上で,改訂ISA540の内容を前提として,監査基準上,どこまでの見積りに 関する監査を規定するのかという課題を有しているのである。
このときに目標とすべきは,監査基準において,会計上の見積りに関する基本的な枠 組みを示すことと思われる。
表2 会計上の見積りに対する監査基準の経緯
年月 国際基準 目的・特徴 日本基準 目的・特徴
1988年 国際監査ガイドライン
(International Auditing Guideline)26号
監査実務の参考資料としての位置づけ
1994年 ISA540 監査の標準的な手続を規定するISA
としての基準設定
2002年 監査基準の全面改訂 リスク・アプローチの徹底
の下,初めて「見積り」に 関する監査規定が導入(現 在の監査基準の規定)
2003年 ISA540改訂 ISA315及 びISA330の 導 入 に 合 わ せ た適合修正
2009年 ISA540改訂 クラリティ対応
ISA545との統合
リスク・モデルに基づく見積りの監 査手続
「見積りの不確実性」概念の導入
2018年 ISA540改訂 IFRS9等の複雑な見積りへの対応
KAMへの対応
「複雑性」及び「主観性」の検討 職業的懐疑心の発揮の要請 一歩離れての評価の導入
監査役等とのコミュニケーションの 強化
2019年 見積りに関する監査
基準改訂の審議開始
(筆者作成)
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まず,現行監査基準のように,会計上の見積りの「合理性」を評価しなければならな い,それに関して十分かつ適切な監査証拠を入手しなければならない,というだけで は,見積りに関する監査実施の枠組みは明らかではない。
また,会計上の見積りについては,現在でも,日本公認会計士協会の監査基準委員会
報告書540が,旧ISA540の翻訳を基に策定され,実務指針として機能している。今
後,改訂ISA540を踏まえた改訂が予想される中,実務指針の基礎となる原則的な規定
として,何をどこまで規定するのかも重要な点であろう。
会計上の見積りの監査手続は,個々の見積り項目によって,多様なものとなるが,こ こで,その基本的な構造を示せば,以下のようになるものと思われる。
1)経営者が見積りを行った方法,その基礎となるデータ及び見積りの仮定の検討 2)必要に応じて,監査人による見積額又は許容範囲の設定
3)会計上の見積りにかかる注記の合理性の検討
監査基準の改訂に当たっては,この見積りにかかる監査手続の骨格を示すとともに,
リスク・モデルを適用し,かつ,改訂ISA540の原則的な部分を反映する基準の策定を すべきではないかと考えるのである。
すなわち,1)については,旧ISA540においても示されていた「見積りの不確実性」
の概念とともに,見積りにかかる「複雑性」及び「主観性」の概念を示すとともに,リ スク・モデルに基づいて,リスク評価として,経営者の見積りの方法,並びに,その基 礎となるデータ及び仮定を検討することが求められる。
その際に併せて検討すべきは,旧ISA540の段階から導入されていた「経営者の偏 向」(bias)の概念とそれに基づく,重要な虚偽表示リスクの検討であろう。
また,2)については,従来,選択可能な監査手続の1つとされていた監査人自身に よる見積額又は許容範囲の設定が,改訂ISA540では,経営者が見積りの不確実性に適 切に対処していない場合には必須の監査手続となったことを踏まえて,監査基準上も,
監査人自身による見積額又は許容範囲の設定の必要性について明確に規定する必要があ る。
また,併せて,一歩離れての評価(Stand back)の規定を置き,監査人が,リスク評 価,リスク対応,及び証拠の評価のリスク・モデルのプロセスを総括的に評価し,職業 的懐疑心の発揮を促す必要があるであろう。
とくに一歩離れての評価は,今でこそ,ISA において広く利用されている概念又は手 続であるが,わが国においては,それに先んじて,2014年に改訂された監査基準にお いて,いわゆる準拠性意見と適正性意見の相違を説明するに当たって用いられ,適正性 に関する意見表明に当たっては,財務諸表利用者の観点から,「財務諸表の利用者が財 政状態や経営成績等を理解するに当たって財務諸表が全体として適切に表示されている
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か否かについての一歩離れて行う評
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価」が求められることを明示している。この監査の 目的に関連する規定との整合性を図りながら,一歩離れての評価の規定を設ける必要が あるように思われる。場合によっては,ISAにおけるstand back規定の多様を踏まえ て,「一歩離れての評価」という用語/訳語を変更する必要があるかもしれない。
3)については,経営者の見積額と見積りに関する不確実性についての注記の検討が 求められる。旧ISA540では,注記の適切性(adequateness)の検討が求められていた が,今般の改訂では,合理性(reasonable)という概念で,経営者の見積りの方法の検 討を行う際の判断規準との整合が図られている。
注記は,本来,財務諸表の一部であることから,従来は,会計処理及び開示の説明と して扱われるのみであった。しかしながら,現在の会計上の見積り等の高度化,複雑化 の状況によって,注記の重要性は格段に高まり,監査手続としても,注記に対する固有 の手続を要請せざるを得なくなったものと解される。
また,近い将来,財務諸表外情報についても,監査人の通読及び検討,並びに,監査 報告書の個別記載事項としての取扱いが開始されるものと想定するならば,そうした手 続におけるヨリ良い監査実務を促すためにも,同じ定性的情報である注記に関して,そ の合理性の検討の要請を啓発的に監査基準に規定する意義は大きいであろう。
Ⅳ 特有な領域における監査対応の限界
ここで,会計上の見積りに関する監査対応の困難性を検討するために,1つの例をあ げてみたい。現在,IASBにおいて審議中のIFRS17「保険契約」における見積りとそ の監査対応であ
21
る。この例を挙げるのは,保険契約は見積りの塊のようなものであり,
IFRS17の適用に当たっては,膨大な見積り項目の監査を実施することになるからであ
る。
・会計上の見積りは,基本的に会社の側でいかなる仮定を置いているかによって変わっ てくるので,監査においては,会社側の見積りの根拠となる仮定やデータを確かめてい くことになる。例えば,生命保険を例にとれば,ビルディング・ブロック・アプローチ
(BBA)が一般モデルとして規定されているが,そのとき,保険負債の履行キャッシ ュ・フローによる計算,すなわち,一時払い保険料から,期待将来キャッシュ・アウト
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20 企業会計審議会(2014)「監査基準の改訂に関する意見書」,二 主な改訂点とその考え方・1 監査の 目的の改訂。
21 IFRS17の導入に関する監査上の課題については,以下の文献を参照されたい。
町田祥弘(2020)「IFRS17『保険契約』に関する監査上の課題」,『青山学院大学大学院会計プロフェッ ション研究科ワーキング・ペーパー』2019-1, 3月。
本章における内容は,上記の文献において示している,保険会社の監査担当パートナーへのヒアリン グ調査に基づいている。
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フロー及びリスク調整額を控除して求められる「契約授与のサービス・マージン」
(CSM)については,経営者が,それぞれの時点でいかなるデータを用いて,計算に必 要な金利や死亡率その他に関していかなる仮定を置いていたかが反映されることとな る。
こうした項目について,監査人としては,社内で行われている膨大な見積りと比較検 討するために,監査人自身が見積額又は許容範囲を設定するという改訂ISA540のアプ ローチで対応することは,ほぼ不可能に近いという。
そのため,すでにIFRS17に相当する会計基準が導入されているアメリカや,先行的 に同様の手続を取り入れつつある欧州では,会社側の見積りに関連する各パラメーター の設定について検討する独立の委員会などのガバナンスの存在やその会議体における資 料を頼りに,その見積りの合理性にかかる根拠を確かめている。ときには,会社側のア クチュアリーの計算についても,会社側での計算について,適切な手続が採られている ことを会社のガバナンスに依拠して受入れ,注記等の監査手続を実施しているに過ぎな いというのである。
さらに,IFRS17の適用における移行期の問題もある。IFRS17を初度適用する際に は,完全遡及,すなわち,保険契約が締結された時点での将来キャッシュ・フロー等に かかる判断を遡及して措定し,保険契約にかかる財務数値に反映するアプローチが原則 的なものとされている。しかしながら,かかる遡及の適正性や,仮に,それが不可能だ として,その原則から離脱する場合に求められる「合理的な理由」の適否についても,
監査人が検証することは,実際には非常に困難な問題であるといえる。
以上のようなことから,現実的には,IFRS17の適用後の監査対応に当たって,監査 人は,会社内における会計上の見積りにかかる内部統制が有効に整備及び運用されてい るか否かを確認し,見積りの適否については,あくまでも,有効な内部統制の下であれ ばその中で計上された見積額については適正であろうとして,類!推!的!に!判断する他ない とも言われている。かかる手続は,会計上の見積りを監査したといえるのかどうかとい う懸念もあるが,逆に言えば,高度かつ複雑な会計上の見積りに対する監査対応の限界 を提示しているともいえるのではなかろうか。
こうした問題は,程度の差こそあれ,保険契約に限った問題ではない。すでに1980 年代から,時価会計の進展に伴って指摘されてきた問題である。それに対する解として 提起されたのが,いわゆるジェンキンス委員会の事業報告モデ
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ルにおける保証の枠組 み,すなわち,異なる硬度の情報の開示に対しては,異なる水準及び形態の保証を提供
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22 American Institute of Certified Public Accountants[AICPA],(1994)Improving the Business Reporting──
A Customer Focus : Meeting the Information Needs of Investors and Creditors.(八田進二・橋本尚共訳
(2002)『事業報告革命』白桃書房。)
会計上の見積りに対する監査基準について(町田) (1313)83
するという,保証の階層性を含むビジネス・レポーティングの枠組みであ
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る。
つまりは,時価や見積り項目に関する監査上の対応には限界が識別され,それを認め てそれに対処しようとするならば,保証水準の検討を含む,財務報告モデル全体の見直 しが不可避だと考えられるのである。言い換えれば,会計上の見積りが高度化,複雑化 し,それに対する監査対応が求められた結果が改訂ISA540であるならば,改訂ISA 540の実務が現行の監査の枠組みでの保証に関する限界を露呈させ,財務報告モデル全 体の見直しに繋がる可能性さえもあるとえいよう。
Ⅴ むすびにかえて
今般の改訂ISA540に対応するわが国監査基準の改訂の議論は,2002年の監査基準改 訂以来,等閑視されてきた見積りにかかる監査対応を整備する重要な機会であると思わ れる。
その際には,見積りに関する詳細な規定を設けることよりも,原則的な規定を置き,
適切な監査実務を促すべく配慮することが求められる。そのことによって,今後,監査 報告書に監査上の主要な検討事項が記載され,さらに,記述情報の開示が一層充実して いく中で,注記や開示に示される会計上の見積りにかかる監査対応が充実していくこと が期待される。
さらにその先には,一層複雑な見積りへの監査上の対応が求められることが想定され るが,そうした中で,現時点でも,公正価値評価等において,社会の期待とは一定のギ ャップを生じて実施されている監査実務について,監査報告書上の監査上の主要な検討 事項の記載等を通じて,社会的な認知が深まる可能性もあるかもしれない。少なくと も,固有の限界をかかえた監査実務に対して,不当な期待と誤解を生じたままで,一層 高度な見積りへの対応が要請され続けていくことは,適当ではないであろう。
今般の会計上の見積りにかかる監査基準改訂の議論は,わが国における財務報告の見 直しに繋がる一歩ともなり得るものと捉えて,今後の審議の動向を注視したい。
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23 同様に,以下の文献等で提唱されているEnhanced Financial Reporting(及びコックピット・モデル)で は,対象となる財務報告の硬度は保証業務によって担保されるとして,財務報告ないしそれに含まれる 重要な要素である非財務情報の硬度と,それに対する保証業務の組合せを識別しようとしているものと 解される。
広瀬義州編著(2011)『財務報告の変革』中央経済社。
同志社商学 第71巻 第6号(2020年3月)
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