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森有礼と近代日本の啓蒙主義

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森有礼と近代日本の啓蒙主義

著者 スウェール アリステール

雑誌名 同志社法學

巻 59

号 2

ページ 393‑443

発行年 2007‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011195

(2)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九三同志社法学 五九巻二号

森有礼と近代日本の啓蒙主義

Alistair Swale

 (九六三) 駐米代理公使任務

 森の生涯において、駐米代理公使在任の期間から帰国後の啓蒙運動期は極めて興味深い。この時期、森の政治思想は有機体論の受容を初めて明確にし、より体系的な形を取りつつあった。本章の目的は、その形成過程を探りつつ、駐米

代理公使時代の思想、及びそれ以降の、文明開化期の思想との基本的な一貫性を提示することである。その一貫性は三つのレベルにおいて観察できる。第一は、森の進歩的な歴史観を示す「開化論」であり、第二は、それと共存している

極めて慎重な改革論、つまり、森の漸進保守主義的な政治思想である。そして、第三に、より具体的なレベルにおいて、

第一、第二のレベルを根拠づける実践的な方法として成立していく社会有機体論の受容である。

(3)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九四同志社法学 五九巻二号 (九六四)

 広く知られているように、士族の帯刀権を撤廃するという「廃刀論」は、森の生命を脅かすほど激しい反発を招いた。

その騒動がようやく治まった頃、森は政府の命令に従って上京した。彼の行動は新政府の指導層にとって深刻な困惑を生ずるものとなったため、何らかの形で罰を与えられても不思議はなかったであろうが、森自身は役人に任じられるこ

とを密かに希望していた。従って、この時の上京は、彼の政治的運命を決定的に左右する意義を持っていた。

 結局、森は政治的に復活できたが、それは彼が望んでいた通りの形ではなかったようだ。駐米弁務・代理公使という任務により、最終的に三年半ほどアメリカに滞在することとなったが、実際、森は自分の若さを痛感し、自分が天皇を

代理するにたるような人材ではないと思っていたらしい。その上、彼の本来の関心は、外交ではなく内政にあり、殊に法律あるいは教育制度の改革に加わることであった。いずれにしても選択の余地はなく、外交官として再びアメリカに

渡った。しかしながら、アメリカに戻ることは、西洋の文化、特に西洋の法定機関及び教育制度を検討できるという点では、貴重な機会となったのである

1

 駐米弁務公使として任命を受けてまもなく、森は明治三年十二月三日アメリカの郵便船グレート・レパブリックに搭

乗し渡米した。同行したのは、弁務公使館秘書等三名、そして二人の留学生であった。弁務公使館職員の中には、外山正一も含まれていた。森とは在英時代に交流もあり、又在米中も、英米の学問を共に研究した。しかも、森が後に文部

大臣になった時、外山は森の推薦によって東京大学の文学部長に任命され、主にスペンサーの社会進化論を中心とした講義を行うことになった。これは正に滞米中の交際と学問的関心の共通性が実を結んだものである

2

(4)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九五同志社法学 五九巻二号 一八七〇年代のアメリカ

 一八六七年、森が初めて渡った際のアメリカは、極めて深刻な政治的危機に直面していた。滞在中、エリー湖畔のブ

ロクトンでハリスの教えを受け、ずっと閉鎖的な社会に暮らしていたにもかかわらず、当時の混乱には気付かざるを得なかったであろう。内戦後のアメリカ人は正に社会全体の徹底的な再構築を経験していた。ちょうど一八六七年に、共

和党の急進派は当時の大統領、アンドリュー・ジョンソンを様々な卑劣な戦術によって弾劾しようとしていたところであった。しかも、それ以降の第十四修正条項の採用によって、南部の州を長期的に北部の州の下位に置くという急進派

の「再建」政策が確立した

3)

 森が再びアメリカに渡った一八七一年に至ると、政党政治は以前の抽象的な理想から離れてしまい、高度な組織化と深刻な腐敗を特徴とする新時代を迎えていた。後に「金箔の時代」と称された七十年代の前半には、新たな繁栄を作り

上げた鉄道会社の社長などが、莫大な賄賂を提供し、自分に有利な法案を政治家から「買う」ことさえできた。時間が経つにつれて実業家と政治家の関係は益々根深くなったが、意外なことに、政党幹部は徐々に実業家を巧みに操るよう

になり、以前は比較的に均衡を保っていた両者の関係は、政党政治の民間企業への浸透という形で、政党優位へと傾いた。

 従って、森が眼の当たりにしたワシントンの政界は、いかなる基準で見ても、アメリカ政治史上最悪の時期に近かったであろう。一八六九年に共和党の大統領となったグラントは、続発する汚職に関し、政治的指導力の乏しさと定見の

 (九六五)

(5)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九六同志社法学 五九巻二号

なさを露呈していた。党内の政治家でさえ、この無能な大統領に対しては、呆れ顔であった程である。森が帰国した直

後、ニューヨーク市の"ボス"と言われたウィリアム・ツウィードの議員との癒着が暴露され、グラントとの親密な関係も報道されていたが、それにもかかわらず、グラントは最終的にどうにか距離を置き、再選にも成功した

。森が見て 4

いたのは、正にこうした腐敗政治で、この体験を元にアメリカの政治をかなり批判的に描いたとしても不思議はない。数年後に来日した際、グラントは森の真面目過ぎる側面を否定的に述べたが、大統領であった頃のグラントを眼の当た

りにしている森がグラントを他の日本人と同じように暖かく歓迎できなかったとしても、驚くことはなかろう。

 ところで、森の共和国に対する批判的な意見の形成に当たって、グラント政権の弊害を非難していたアメリカの知識人や政治家の影響を見逃してはならない。一八六〇年代の自由経済論、殊にアダム・スミスの経済学を受け継いできた

人たちは当時の中央政権の権力拡大を警戒しつつ、南部諸州に対するより非干渉的な政策を唱えていた。そして、コンクリングやローガンのごとき新型政党政治家の選挙戦術によって犠牲となったシャルツやガーフィールドなどといった

政治家もグラント政権(あるいはそれを支える新型共和党)の打倒を狙っていた。しかも、いま一つの批判的な陣営は大学や新聞社から輩出されつつあった知識人によって構成されていた。大学の教員や新聞の評論家は政党政治と直接に

関わりを持たず、当時の政治体制を客観的に批判していた。彼らは政党政治と距離を置き、自分たちをアメリカの「最も秀れた人材」として考えていた。この動きは当時のアメリカの知的潮流、殊に社会科学の発展を著しく反映していた。

一八六九年に設立されたアメリカ社会科学学会には、有名な新聞(﹃ネーション﹄、﹃ノース・アメリカン・リビュー﹄、﹃トリビューン﹄等)の編集者の他に、大学の経済学者ないし慈善的実業家が含まれていた

5  (九六六)

(6)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九七同志社法学 五九巻二号  この多元的な知識人階級は「リベラル派」と称されていた。支持者は政治的に広範囲に及んでいたが、過半数は共和党と何らかの関係を持っていた。しかし、リベラル派の論客は政党政治の弊害を厳しく糾弾し、国民の教育及び道徳の

向上を中心とした、より「科学的」な政治を唱えていた。彼らの政治的理念を要約すると、第一に、国富を確保するために商業を強調すること、第二に、政府の役割を国民の平等と法律的な正義の確定という極めて限られたものに限定す

ること、そして、第三は、強制的な政治的措置を避けつつ、一定の政党と関係を持たない最も優秀な人材を政府に入れることであった。

 森の政治思想の形成に対する以上のリベラル派の影響は、見逃してはならない。その重要度を見るために、﹃日本の

教育﹄に寄稿したアメリカ人の背景を観察するのがよかろう。実業家であったピーター・クーパー、当時の商務長官ジョージ・ブートウェル、及び議会議員(後に大統領)ジェームズ・ガーフィールドを除けば、全ての寄稿者がアメリカ

の一流大学や研究所、あるいは道徳の涵養を促す宗教機関に所属していた。ハーバードとイエールの学長の他に、アムハースト、プリンストン、及びスミスソニアンという名高い機関の主任者から寄稿を得たのは、実に誇るに足るべき業

績であった

しびサチューセッツ州及ニ、ューヨーク州を中心にマと。機しかも、彼らの所属関るの地理的背景を考察す 6)

た大学地帯が殆どである。言うまでもなく、リベラル派の論客の多くは正にその地帯の出身であった。従って、森の主要な活躍がワシントン市で行われていたにもかかわらず、 東海岸とのかなり深い関わりがあったと推測しても差し支

え無かろう。

 しかし、リベラル派の政治的生命は恵まれたものではなかった。一八七二年の大統領選挙に際して、リベラル派は立

 (九六七)

(7)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九八同志社法学 五九巻二号

候補者の本格的な擁立に乗り出した。民主党の支持を得るために、同党の支持者にアピールする政策や立候補者が検討

されたが、結局、リベラル派の大会は政党政治の弊害に左右され、一般的なコンセンサスに恵まれなかった立候補者が選出された。トリビューン新聞の編集者という履歴を持つグリーリは、政治的能力が乏しかったが、それにもかかわら

ず、陰の取引によって当選した。これに対して共和党は満場一致の決議によって再びグラントを共和党の立候補者に推した。結局のところ、リベラル派を団結させる唯一の具体的な政策は、共和党の「再建」政策、殊にその干渉的な側面

を撤廃することであった。予測通り、優れた組織力を持つ共和党は「血まみれのシャツ」を振りつつ、解放されたばかりの黒人の不安を巧みにあおり、リベラル派の主張及びグリーリの選挙戦略を無意味なものにしてしまった。このよう

にしてリベラル派は政治的運動としてはいま一つ成功しなかったが、彼らの活躍によって共和党における中道派の影響力が拡大したとは言えるであろう

7

 当時の文化的・歴史的背景に関して更に注目すべき点は、アメリカ、殊に新しく開拓されたカリフォルニア州におけ

る一般市民のアジア系移民に対する反感である。アジア系移民は、大多数の白人労働者にとって、最適な「スケープゴート」であった。実際、アジア系移民は、東海岸の場合でも、労働者のストを破るために用いられた。そういう偏見が

あったため、森は、場合によって無礼と思われるほど、日本人と中国人の区別を強調していた。

 岩倉使節団が一八七二年に渡米した頃までに、森はある程度反感を無くすことに成功していたようである。使節団に関する当時のアメリカ人による記録や新聞の記述を見ると、実に好意的な態度が示されている。彼らを迎えた実業家や

有志は、殆ど例外なく、「商業」に基づいた将来の友好関係を強調していたが、七十年代が後に「金箔の時代」と称さ  (九六八)

(8)

森有礼と近代日本の啓蒙主義三九九同志社法学 五九巻二号 れたことから分かるように、当時のアメリカは史上稀に見る経済的・技術的発展を辿っており、そのために、そういった風潮はさほど不思議ではなかった。ランマンの記録によると、当地の新聞は熱心に岩倉使節団の活動を描いていた。

時に、使節団は単なる滑稽なものとして扱われていたが、ランマンはより正確、かつ誠実な記事を

T he J ap an es e in

A m er ic a

で記録している。殊に注目されたのは、サンフランシスコの

D ail y E ve nin g B ull et in

から引用された次の記事

であった。

「以前の事情を考えると、今日の日本は、世界の最も進歩的な国である。(中略)中国人とは違って、改善する価値があると思うと、衣服、食料、生産、生活様式をすぐにも換える。民族としては、日本人は直情的で、鋭敏、無鉄

砲と思われるほど勇敢で、清潔ずきで、名誉感が強い。そして、地位や地域と関係なく極めて礼儀正しい。しかも、彼らは外国人、特にアメリカ人に対して好意的な態度を持っている

。」 8

 地方の有志や新聞の他、ワシントンの政治家や官僚の歓迎は、より一層暖かいものであった。予測された「不平等条

約」の改正ができなかったにもかかわらず、下関条約の賠償金を全額岩倉使節団に返還するという議会での決議は、当

時の国内事情及び国際事情を考えれば、驚くほど好意的な展開であった。グラント政権は、国内の面では数多くの不祥事を抱え、また国際情勢の面では、カナダの将来などを巡って英国とかなり深刻な対立関係にあり、慎重なる対応を迫

られていた。従って、上述のごとく、日本に対して極めて好意的な態度を示したのは、実に注目に値する。しかも、その展開における森の役割は見逃してはならないのである

9)

 (九六九)

(9)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇〇同志社法学 五九巻二号

英文出版の背景

 滞米中の活躍によって残されている資料は、多少断片的ではあるが、在英留学時代と比べれば、森の行動と知的関心に関して、原型的な「思想」の形成を窺わせるものが多い。森や他の代理公使館職員は、全員代理公使館となっていた

建物に暮らし、一種の共同生活を送っていた。木村匡によると、毎日の生活は、殆ど塾並みの雰囲気であった。

「属館従者の区別なく寝食を共にし、言笑怡々として恰も家人の如くなるは先に外国判事として東京に在りし時の如し。思ふにハリス氏の塾風を私淑する所あるか。而して常に品行方正。一批判の余地を興へす。却って米人の不

品行を冷罵したりと云ふ

。」 10

 ところが、入館してまもなく、森は様々な困難に出会った。外国経験者であったとは言え、やはり代理公使館にかかわる慣習や形式を知らないまま、アメリカの国務長官ハミルトン・フィッシュや他の外交官吏と接していたため、数多

くの誤解を引き起こした。幸いに、フィッシュという人物は、甚だ丁寧かつ親切な人柄で、森に適切な助言を与えた。しかも、そういう外務関係の人物以外にも、当時のアメリカの最も優秀な学者及び知識人との付き合いがあったため、

好意的な有力者と接することもできた。既に触れたように、国立博物館の初代理事ジョセフ・ヘンリーとの交流によって、アメリカの有名な大学の理事や有力政治家との関係を持つことができた。中でも重要なヘンリーとの付き合いは、

恐らく日本の近海での太平洋の調査がきっかけになったと考えられる。そのうち森は様々な悩み事をヘンリーに相談するようになるほど彼らの親密度は深まっていった。実際、代理公使館に勤めていた多くの人材はヘンリーの推薦によっ  (九七〇)

(10)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇一同志社法学 五九巻二号 て採用されていた

11

 ヘンリーが紹介した人物の中で殊に注目に値するのは、チャールズ・ランマンである。森はランマンの協力によって滞米中の英文著作を完成したからである。木村匡の伝記によると、アメリカへの到着以来、森はかなり集中的に読書を

続け、日常的な外交以外にもかなり本格的な研究プログラムを実行していた。岩倉使節団がアメリカに滞在している間(一八七二年二月二九日

七月二七日)を除いて、比較的自由に時間を過ごすことができたため、読書の他に、英文著 作の編集も可能となった

。次るあで点三のは作著な主のそ。 12

L ife a nd R es ou rc es in A m er ic a

(一八七一年九月)

R eli gio us F re ed om in J ap an

(一八七二年一一月)

E du ca tio n in J ap an

(一八七三年一月)  

“L ife a nd R es ou rc es in A m er ic a”

は、最終的に日本人向けの本であったが、まず英語で書かれたものである。内戦の

渦中より数年しか経っていなかったことを考慮すれば、当時のアメリカ人がその著作に対してさほどの興味を示さなくても不思議ではなかろうが、森が接している人々、特に秘書のランマンは、その著作に対して非常に高い関心を示して

いたのである。その著作には森自身の意見が克明に記されていたため、「地位の高い日本人」のアメリカに対する意見を伝える貴重な記録であったに相違ない

13

 (九七一)

(11)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇二同志社法学 五九巻二号

 

“R eli gio us F re ed om in J ap an ”

は、岩倉使節団がアメリカを去ったのち書かれたものである。殆ど一人で完成した著

作であったため、これは森の思想及び政治的価値観を表わす非常に重要な資料である。書名から言えば、当時の宗教問題を中心に論じていると思われるが、実際は、法律及び国家の在り方に関する記述が多く、日本の伝統、特に儒教の思

想に対する批判もかなり詳しく述べられている。更に注目すべきは、はじめから一人で英語で書かれたという点である。英語能力の上達を示していることを別にして、森がアメリカ社会を試論の場にして、日本の内政を論じようとしたこと

は、いささか驚くべきことであり、アメリカ人を前にして宗教の自由を論じることによって、日本の「開化」をアメリカに説得的に伝えることができた

支よを伝えることにっ事て、アメリカの情内ア国ある。更に、メのリカ人に日本ので 14

援を引き出すことも容易になったであろう。言ってみれば、森が日本の国内事情をアメリカの新聞などにおいて取り上げたのは、日本のアメリカとの知的交流を強いる意図を示していることになる。

 

“E du ca tio n in J ap an ”

は、森自身がアメリカの知識人や有力者に依頼して集めた教育に関する意見書を編集したもの である。寄稿者の手紙などの前に、森は六十頁に亘る論文を緒論として付け加えた。その緒論には日本史の概略が収められ、又、近年の政治的変革及び国民開化が描かれている

弁、己自的治政の長薩に的果結は述論るす関に本日の時当。 15

護とも考えられるが、いずれにしても、アメリカ人の意見を調査し、自分の緒論を付け加えたのは、正に前述した交流から得た成果を反映している。こうしてアメリカ知識人の意見を求めながら、森は自分の日本に関する意見を世間に知

らしめたのである。

 最後に殊に注目すべきは、

“T he J ap an es e in A m er ic a”

であろう。同書は、森でなく、ランマンの著作であるが、森の  (九七二)

(12)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇三同志社法学 五九巻二号 駐米代理公使としての活躍と岩倉使節のアメリカ滞在を取り扱うものとして、極めて貴重な資料である。ランマンは、一八七二年八月まで森の秘書として雇われていた。秘書の仕事に就く前に、彼は数年に亘って国会下院図書館及びワシ ントンの市立図書館の館長であったが、日本に対して深い関心を持っていたため、日本の代理公使館で働くことにしたと言う

。すみならず、日本人に対るて暖かい敬意が窺われるのし読対の森に関する叙述をめ。ば、ランマンの森に彼 16

森の「啓蒙思想」◇その歴史的背景及び特色

 以上の著作は、森の思想の体系化、及び現実的な問題に対する政策の由来を窺わせるものとして、実に貴重な資料である。彼の思想の体系化が当時の知的風潮と如何なる関わりを持っているか、及びその思想が如何に首尾一貫したもの

になりつつあったかは比較的はっきりと考察できる。実際、在米時代に成し遂げられた思想の体系化は、生涯に亘って影響を及ぼしたとも言えるであろう。前述のように、通説によれば、森の在米時代及び帰国後の明六社時代が「自由主

義」あるいは「啓蒙主義」の時代、在英時代及び大臣時代が「国家主義」と特徴付けられているが、事実は、アメリカに滞在していた間になされた思想形成が、殆どそのまま発展していったのではないだろうか

17

 後に詳述するが、実践と科学を重視した森の

E nli gh te nm en t

は、正に当時の英国やアメリカのそれに類似していた。

その「啓蒙主義」的精神の本質を窺うには、先ずランマンの岩倉使節団に関する記録に見られる当時の知的風潮の描写

を考察するのがよかろう。

 (九七三)

(13)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇四同志社法学 五九巻二号

 岩倉使節団がアメリカに滞在している間、歓迎の晩餐会が頻りに開かれた。当然、晩餐会であるが故に、そこでは演

説が甚だ多かったわけであるが、その交流を記録した

Ja pa ne se in A m er ic a

を見れば、

“E nli gh te nm en t”

“P ro gr es s”

が、頻繁に演説に現れている。その言葉は、日本人のみならずアメリカ人にも、度々用いられていたのである

。記録による 18

と、岩倉具視は、堂々と

“ W e ca m e fo r en lig ht en m en t, an d gla dly fi nd it h er e.”

(「我々は、開化を求めて、自国より発ちました。大変喜ばしいことに、貴国においてそれを発見しました」)と言った

を新展発内国の降以維、は文博藤伊。 19

述べ、アメリカをモデルとする進歩を強調した。無論、多少芝居臭さを感じさせるところもあった。例えば、伊藤は、恰もキリスト教徒の如く、神様を

A lm ig ht y

と呼びつつ、演説をした

対「に念理ういと」歩進び及」化開、「れあもと。 20

する熱意は、正しくその時期の基調であった。

 ところで、「啓蒙主義」と言えば、先ず「明六社」のそれが浮かび上がるであろう。しかし、前述のように、森の啓蒙思想は、明六社以前の時点より形成されていた。その実体に迫るためには、その明六社以前の段階を充分吟味しなけ

ればならない。しかし、その前に森の「啓蒙思想」に対する幾つかの曖昧かつ雑多なイメージを削りとる必要がある。つまり、森の明六社時代に先んずる「開化論」の思想を検討するには、ある程度「啓蒙運動」を問い直さなければなら

ないということである。無論この運動の全体を再定義するというつもりはないが、森自身のそれはより正確に把握する必要がある

21

 森の「啓蒙」思想に関して先ず指摘しておかなくてはならないのは、森の「啓蒙」が十八世紀のそれではなく、十九

世紀のそれに属していることである。つまり、思想の系譜に関して言えば、森の啓蒙思想の起源はフランスにあるので  (九七四)

(14)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇五同志社法学 五九巻二号 なく、英国にあるということである。十九世紀の英国は、産業社会の確立及び科学技術による日常生活の変容という点で、十八世紀の場合と大いに異なる前提を示していた。英国の

E nli gh te nm en t

がフランス啓蒙思想をある程度継承して いたとは言え、十九世紀英国の非国教会の実業家や思想家は、フランスのフィロソフや百科全書派と比べれば、全く別の精神を保持していた。彼らは遥かに実践的・実証的な

E nli gh te nm en t

を唱えていた

理ばが会社間人、えいてし張誇。 22

性の解放によって進歩するという見解よりも、むしろ科学的・技術的な発展による物質的な生活向上というニュアンスがあるのである。又、フランス啓蒙主義に多く見られた性善説に対して、英国啓蒙主義の場合には、例外はあるものの、

基本的に「性悪説」、あるいはより中立的人間観が前提とされていた。森の実際の言動を考察すれば、十八世紀後半の啓蒙主義の基調とも言うべき「理性」あるいは「合理主義」への敬意は勿論現れているが、そういった基調が主役を担

っているわけではない

23

 事実、森の行動には、理念的な「合理主義」と一致しない面があった。木村匡が書いた通り、森の人格には「一批判の余地」もなかったが、他人との摩擦を引き起こす場合が多かった。目賀田種太郎は、当時の森を次のように描いた。

「森氏は率直勇進、毫も忌憚なく、宴席に招かるれば出席し求めらるれば必ず演説をする。其間毫も飾りなく、只実際を述べ、又日本人が他の東洋頑迷人と同じく視らるる如き事があれば、之を訴ふべき時は容赦なく訴えていた

のである。夫れ故に、学者社会、教育社会、政治社会にも相当に尊重されて頗る人望のある人であった

。」 24.

「率直勇進」といったようなところが「尊重」される理由になっていたとしても、「忌憚なく」、又は、「容赦なく」とい

 (九七五)

(15)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇六同志社法学 五九巻二号

うようなところは、問題の原因となっていた。岩倉使節団がワシントンにて条約修正の努力を続けていた際、森は、場

合によっては、アメリカ人のみならず、日本人とも激しく衝突した。その頃の最も有名な事件は、吉田清成との衝突であろう。吉田は、秩禄買い上げという政策を実施するために渡米し、資金を募集していたが、森はこの政策に強硬に反

対し、アメリカの新聞においても反対の意を表したのである。

 森は何を根拠に強引な振る舞いをしたのであろうか。それを解明するには吉田の叱責に対する反論が興味深い。吉田は、次のように述べている。

「新案の禄制を目して政府に而盗賊の所業を為すに均しと云、加之公然と之を書面に認めて減奪又は買奪と云へり。

既に之を認めて禄と名る時は其所有家産にあらさる事明瞭なり。無能の禄に安すべき理なきより之を没入するとも猶可なり。然るに之を目して賊と名つくべき理ある歟、仮令姑らく其理あるとも政府の代任として此般の語を発し、

自国政府之光栄を辱かしめて可なる歟如何

」。 25

これに対して、森は言う。

「政府盗業の談は論理上類を引き発せし事あるを覚。何の故障あるや。又減奪買奪の文字御嫌の状なれとも是は文学者、或は字書等御問合に及候ハヽ御明解可相成と存候。同箇条中諸族地行高を既に禄と認むるなり、之は御維新

後更定に候歟承知致度候。又既に禄と認むれは没入するとも可也と、僕更に其理を知らず。単察するに是或は東洋  (九七六)

(16)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇七同志社法学 五九巻二号 流行無理の理より生する理にも可有之。但し、聊性情ある人理とは全く別物と存候」(傍点著者

26

森の反論においては、「論理」あるいは「理」といったような表現が頻繁に出てくる。しかも、森は東洋の「無理の理」を厳しく批判する。森自身は、常に理に従って振る舞っていたつもりであろう。確かに、その振る舞いにおいて、「西

洋的」な合理主義は何らかの形で表されている。それと同時に、その「理」が「性情ある人理」とされている故に、「理」の抽象的な側面、あるいは客観的な側面よりも、実践的、あるいは実用的な側面が強調されているようである。従って、

悪く言えば、森の「合理主義」は、多少感情に左右されやすいものであった。しかしながら、それはかなり実践的、あるいは、人情的な志向を示してもいた。

 「廃刀論」などを巡って起こった騒動は、過激な改革者、あるいは西洋主義者というイメージを定着させてしまった

かも知れないが、滞米中の英文著作や明六社時代の著作を検討すれば、そういうイメージとは全く逆の姿が浮かび上がってくる。森は正に「近代化」という過激な社会改革の必要性を確信している進歩的な人物であったが、通説的な自由

主義あるいは西洋主義に当てはまらない要素が多く、新規な枠組みが必要になってくる。森の思想には、特殊な社会進

歩観が内在していたのである。従って、「自由主義」や「啓蒙主義」よりも、むしろ彼固有の「開化論」に焦点を当てなければならない。事実、森自身は「啓蒙」という言葉を殆ど使わず、「文明開化」、もしくは「開化」という表現を専

ら用いていたのである。

 (九七七)

(17)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇八同志社法学 五九巻二号

駐米時代の「文明開化論」

 上述のごとき「不調和」から推察するに、森の「啓蒙思想」は簡単明瞭なものではないと言えよう。一般社会の常識に異を唱えるにも躊躇しないという傾向は、ただ強引というわけではなく、「理」と「人理」を優先させたものである。

しかし、森にとってのその「人理」の根拠とは何であろうか。これ以降は、森の著作にみられる思想的発展を考察し、殊に、「啓蒙思想」とも評されるところに注目し、その保守性の起源に焦点を当てていきたい。更に、有機体説の受容

が森の思想的特質に対して如何なる影響を及ぼしていたかを探って行く。こうした試みによってこそ、単なる「合理主義」ではなく、実践的な社会学的理念に迫ることができよう。

 アメリカに滞在している間に生まれた「開化」思想の形成を考察するに当たって、先ず注目すべきは、日本という国

家の文明的位置付け、及び当時の発展に関する叙述であろう。実際、森は、アメリカ下院の依頼を受け、日本の事情を紹介する論文を書いた。その内容は、ランマンの

“T he J ap an es e in A m er ic a”

において次のように繰り返されている。

「教養のある人々の間では、一八五二年[まま]に来日したペリー艦隊長官の船において、キリスト教、文明開化、

及び平等と政治的自由への愛着の種が運ばれてきたという考えが盛んである。その種はそのときから芽生え、今まで成長してきているのである

。」 27

このように、森がアメリカとの交流を非常に肯定的に考えていたことが分かる。しかし、「キリスト教、文明開化、及  (九七八)

(18)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四〇九同志社法学 五九巻二号 び平等と政治的な自由」への関心の他に、森が商業にも深い関心を持っていたことを強調すべきである

と交っていたが、アメリカとの際にによって全面的な開化が可能陥闇日か略してみれば、暗は本つ信ういてと迷や知無 。概を図意の森 28

なった。啓蒙思想とよく結びつけられる「自由」や「平等」は当然のごとく出てくるが、注目すべきは、「商業」という営みに対する大いなる期待である。しかも、国民の教育と道徳的「上昇」は、日本の商業的進出との関係において強

調されている。

「日本人が旧弊を放棄し始めた頃から、商業は益々発展し、現在の政府の政策は、世界の国々との交際をできる限り高めることである。国民の大いなる無知は商業の発展を妨害していた。しかし、今前途は開かれており、現在唯

一必要なのは前方に進む断固たる国民の決意である。我々の偉大な課題は国民の教育と涵養である

。」 29

 続いて、日本の国内情勢にかかわる著作を挙げれば、一八七三年(明治六年)に出版された

“E du ca tio n in J ap an ”

の緒論がある

うかのない潮流として描れよているが、「キリスト明め文、「。この著作によれば文止明開化」の進歩は、教 30

31

の影響は、依然として、非常に肯定的に提示されている。事実、宗教は森の文明開化論において、極めて重要な地位を

占めている。結局、「商業」という側面と共に、極めて重要な意義を持っているのは、人間の内面にかかわる精神性である。実際、その関連において、信仰の自由は、森の「第一の関心」として提示されている

32

 ところで、森のキリスト教に対する見解について、様々な学者がかなり徹底的に議論してきたが、森がブロクトンを

去って以来、ハリスの影響がどの程度続いたかを見極めるのは、依然として、甚だ困難のようである。森が再び渡米し

 (九七九)

(19)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一〇同志社法学 五九巻二号

た際、日本人の留学生をハリスに預けたことはよく知られているが、森自身が滅多にブロクトンに行かなかったこと、

しかも、行った場合でも長くは滞在しなかったことを考慮すれば、森とハリスとの関係は以前ほど深くなかったと言えるであろう。最近の研究は、この問題を検討し尽くしていると思われるが、ブロクトンに居続けていた長沢の日記を見

れば、森が変わりなくコロニーに歓迎され、ハリスの教義を聞いて感動したという記述もある。又、吉田清成の渡米する前の手紙において、オリファントのことに触れ、「ブロクトン仲間異事なし」とも明確に述べている

33

 従って、森のブロクトンとの関係が未だに続いていたということは明確だが、その影響が私的な範囲を超えて、政治

あるいは教育にまで及んでいたとは思われない。事実、森は、教育と宗教の関わりを完全に切り離していたのである。

R eli gio us F re ed om in J ap an

において、森は教育が司るべき範囲を、「普遍的な教義」に限定し、あらゆる階級の無差別 的待遇を主張していた

34

 上述のごとき信仰の自由に関する主張を考察すると、森が宗教の衰退を歓迎していたとは言えないが、それにもかかわらず、少なくとも公的には、近代的科学及び技術に優先的な地位を与えていたのである。ともあれ、このように見る

と、森の開化思想における近代的内面性に対する関心、及び技術の発展を軸に据えた勧業主義といった要素の両立が明らかであろう。しかも、社会組織の合理化という要素も多少指摘できる。しかし、この時点での精神性、技術、商業、

ないし組織という領域における「開化」を実践的に促進する第一の手段として注目を要するのは、教育である。  (九八〇)

(20)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一一同志社法学 五九巻二号 教育による「技術」と「道徳」の発達

 教育の開化との関わり合いについて、森は、ホーラス・マンの言葉を借りて、成熟した人間及び社会における高等な

教育の不可欠性を強調している。しかも、更に重要な関連は、安定した政治が教育の充実と結びつけられているところである

教治っていた。例えば、政体掛制の進歩に関しても、かに化育うなれば、森の「開」。の全ては、基本的に教言 35

育の不可欠な役割が強調されている。共和国としてのアメリカの政治体制について、森は、次のように述べている。

「繁栄と幸福の共和国の永遠な統治は、国民の道徳性と教養によってのみ保証されている

。」 36

つまり、教育は、優れた政治体制の道徳的な条件を満たす不可欠な手段であると同時に、産業や工業が必要とする科学的・技術的な知識の導入を可能にするものである

て教し識意をとこるす係関く深が育、もてし関に政法は森、もかし。 37

いた。

“L ife a nd R es ou rc es in A m er ic a”

は、アメリカの法律学校及びアメリカにおける法律と政治の関わり合いに関する考察にあてられている。それによれば、良い法政が成り立つための必須の条件は、社会の運動、政治体制、歴史に対 する深い理解と適切な教育にある、とされている

。ての道の予備的段階とし、見逃してはならない 文へ臣大部の育年うまでもなく、この教に。対する強い関心は、後言 38

 ところで、森の教育論において、最後に注目すべきは、女性の教育に関する考察である。当時の森の著作において、女子教育を促す箇所が、数多く見受けられる。事実、子供を育てる役割を担っている女性には、非常に重要な責任があ

 (九八一)

(21)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一二同志社法学 五九巻二号

ると森は見なしていた。しかも、岩倉使節団が出発する前に発行された明治天皇のアメリカ人への挨拶となる文章にお

いても、(アメリカに着いてから演説の中で朗読されることになっていたが)、「女性の文化」に関するところは、驚くほど進歩的な思想を示している

所る影響が表れていよ森うだ。女子教育のの、なは定的な証拠はい。が、その文章に決 39

以に関するところの論理は、森の考えと同じである。又、森は、岩倉使節団に数名の日本女性を同行させ、

V as sa r

C oll eg e

への入学をも手配している

40

 森の文明開化に関する論述の要点を総括すると、人間社会の進歩は、必然かつ不可避な運命として捉えられており、

しかも、「文明の前進」を促すのは、単なる「理性」ではなく、蒸気やガスなどの応用による殖産興業、信仰の自由を許す政治体制、及び国民の高等な知性、道徳性を養成する教育制度の確立であるということになる

41

「文明開化論」の内在的保守性

 アメリカ滞在中の岩倉使節団が条約改正の交渉に努めていた時点で、森がアメリカに肩入れしすぎるというイメージが完全にできあがっていた。使節団の中で殊に厳しい評価をしていたのは、木戸孝允であった

。又、家録奉還を巡って 42

の吉田との衝突は、森がアメリカを自国よりも重視し、自国の利害を軽視しているというイメージを益々定着させてしまったのである。こうして、西洋かぶれの啓蒙思想家という解釈が生じたのであろう。

 森の進歩主義が実に過激なものであったことは確かである。その好例は、所謂「国語廃止論」であろう。彼は中国の  (九八二)

(22)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一三同志社法学 五九巻二号 文化的遺産、とりわけその伝統が日本語に及ぼした影響に対して、かなり批判的な態度を取っていた。例えば、次の極めて大胆な意見が記録に残されている。

「今の事情では、海外で通用しない我が乏しい言語は、とりわけ蒸気や電気が我が国に浸透してくるのに従って、

英語という言語に負ける運命を抱いている。(中略)国法も日本語で保存することさえできない。全ての条件を考えると、国語の廃止という結論に至る

。」 43

このように、森は、改革に対する非常に大胆積極的な姿勢を鮮明に示していた。当時の西洋においても、これほど徹底

した社会改革の意思を持つ人物は、極めて少なかったのではないだろうか

44

 しかしながら、森が西洋型の急進派分子ではなかったことも確かである。彼の発言及び活動を裏付けているのは、極めて保守的な見解である。西洋型急進派のごとく全社会の徹底的改革を即時に促進させようという考えはまずなかっ

た。実際、森自身に言わせるならば、彼は常に極めて慎重な態度で、漸進的な改革を促進せんとしていた。

 思想の系譜で言うと、森を西洋の啓蒙運動が生み出した急進派の一派として位置づけることは無理である。そういっ

た政治理論は、不可侵の自然権に基づいた「自由」を提示し、その自由の即座の実行を求め、又、それを防害する政治体制の打倒を要求していた。極端に言えば、「自由」の実行を否定すること自体は、急進派にとっては、自然権を否定

するに等しかったのである。実のところ、森は自然権を認めるとしても、政治体制の革新によって、自由を即座に大衆

 (九八三)

(23)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一四同志社法学 五九巻二号

に与えることを承認してはいなかった。むしろ当時の西洋における保守派と同様に、森はまず国民の道徳的実態を把握

し、政治的な自由が積極的に生かされるか否かを問うたのである。森は当時の日本社会において西洋型の代議政体を直ちに設けるべきこと、あるいは、日本人が既に政治的な自由を積極的に実行する資格を持っているなどということは主

張してはいなかった。結局、森にとってみれば、日本は未だに比較的未開であり、徹底した「開化」政策を必要としていたのである。しかしながら、極めて過激な改革が必要であったにしても、それがそのまま代議政体の設立、あるいは

国民に絶対的な自由を与えるということを意味していたわけではなかったのである

45

 以上の背景を念頭に置きながら、「国語廃止論」を再考すると、「西洋かぶれ」と多分に異なったイメージが浮かんでくるであろう。つまり、「国語廃止論」という政策を主張したのは、西洋を真似しようとしたのではなく、単に国民の

教育による開化をより効率的にせんとする狙いを反映していたのである。換言すれば、「国語廃止論」は、国民に政治的自由の「資格」を与えるための便宜上の手段に過ぎなかったのである。結局のところ、森は、過激で自由主義的な政

治改革ではなく、過激な改革手段を強調していたに過ぎないのである。

 当時の著作を注意深く考察すると、西洋かぶれ、あるいは欧化主義者というイメージに反する例は、他にも数多く現われている。その最たる例は、

L ife a nd R es ou rc es in A m er ic a

におけるアメリカの政治体制に対する批判であろう。実際、

森はアメリカの政治体制のみならず、その日本における応用の可能性についてかなり懐疑的である。代議政体の導入を唱えていた自由主義者ないし民主主義者にとってみれば、「自由の乱用によって生じられる弊」という発言は、極度に

反動的と聞こえたであろう

フがランス啓蒙主義生にんだルソー型の自義特主の。しかも、国民自、由に対する懐疑は由 46  (九八四)

(24)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一五同志社法学 五九巻二号 に反している。啓蒙思想の中心的な信条としての「自由」にこのように疑問を付すのは、通常の啓蒙思想に距離をおいた立場を示している。その他、森はアメリカにおける投票権の拡大に対して反対の意を表し、又、アメリカを日本の政

治的模範として全面的に受け入れようとはしないのである。

 続いて、アメリカの選挙制度に関しても、極めて厳しい批判がなされている。

「自己中心で図々しい政治家にとって、投票者の人数が増えることが自らの利益と深く結びついているため、彼らは人権という概念をただ唱えつつ、全ての人が投票できるように選挙改革の法案を確保することができた。これは、

疑いもなく、全く悪質な展開であり、その弊害は毎日のように現れている

。」 47

このような発言を考察すれば、森は、疑いもなく、民主的な政治を非難していると言えよう。故に、彼の立場を通常の「自由主義」、あるいは極端な「欧化主義」と捉えることはできない。ここでは「開化」の実践的な限界を提示している

のである。以上の引用の続きを見れば、森の本来の意図が明確になってくる。即ち、「国民の道徳と教育が充実してい

なければ、繁栄、幸福、及び、安定のある共和国は確保されない

はけに否定しているわでて極なく、民主化の前め重、いるあでけわういとるて要し示提を件条保留なに ま全いう箇所である。つり」、民主化の可能性を完と 48

49

 以上のアメリカ代議政体に関する見解は、森の政治思想が、如何に極端な意味における自由主義あるいは保守主義と

は異なるものであったかを明確に示している。これは一見、矛盾しているように見えるが、決してそうではない。「信

 (九八五)

(25)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一六同志社法学 五九巻二号

仰の自由」等に関する論述は、彼の政治思想的理念が根本的にはリベラルなものであったことを証拠立てているが、前

述したように、森が改革に積極的、情熱的であるということは、必ずしも(例えば、ルソー型)自由主義との結びつきを意味するわけではない。つまり、森はリベラルな理念を理想としては保持しつつも、アメリカにおける「自由の乱用」

を教訓として、日本の政治改革を拙速に進めるよりも、慎重かつ漸進主義的に改革を進めることを目指していたものである

50

 上述の通り、森は滞米中の出版において自らの政治的見解を比較的に明瞭な形で提示した。概して言えば、その焦点

は、根本的に実践的なものであった。つまり、彼は文明開化の崇高な側面を把握していたにもかかわらず、そういう理念を直ちに実行することはできないと考えていたようである。この理想と実践の両立を見事に表しているのは次の箇所

である。

「元来空想意義なき説を奉信し、民には総て知らしむへからすと云へるか如き奇怪なる薫陶を受けたる者にして、人権或は本心の自由の説の如きを聞かは唖然として畏るへきを感せん。其れ然り当今の勢我政府と雖、遽かに此新

思想を実際に適用するを得さることあるへし。是を以て新思想の光明に敵せる偏見無学の勢力は力めて之を打破し、政府をして実際に適用せしむるの先鋒たるは是目下の急務なりとす 

。」 51

この発言の論理は次の路線に沿っている。人権と良心の自由を実現するのが理屈上「可能」だとしても、それを無事に

実現するのにはまず、国民の無知を克服しなければならない。しかも、人権と良心の自由を政治的に実施するに当たっ  (九八六)

(26)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一七同志社法学 五九巻二号 て、人民を無知なままに留めようとする反対派の影響に勝たなければならない。もしもこういった反動的な勢力に勝つことができなければ、人権と良心の自由を政治的に実現することは不可能となる。こうして森は文明開化の理想を抱え

ながら、現実的な束縛を認めていた。これは文明開化の廃棄を意味するのでなく、極めて実践的な把握を示している。

 森は、政治改革(つまり、全社会の改革)を促進するに当たっての現実的な条件に対して甚だ鋭い意識を持っていた。重視されている条件の一つは、人の納得を得て改革を実行するということである。政府が権威を持って政策を強制的に

実施することができるとはいえ、森はむやみに反発や反乱を引き起こすことを恐れ、又、その可能性を避けるために、充分気を配っていた。勿論、猛烈に反対されている政策を仕方なく実施しなければならないという時には、彼は少しも

妥協しなかった。秩禄買い上げを巡って吉田と衝突した事件こそは、こういった複雑な態度を象徴している。森は政府の秩禄買い上げの政策が反乱を招くと予想し、警戒をした。それが通じなかったら、彼は最も強力かつ過激な手段を選

ぶ。言ってみれば、森の究極の目的は、極めて保守的であったが、手段は、場合によって実に過激であった。

 明治五年の

“R eli gio us F re ed om in J ap an ”

において、

pr og re ss

に関する論述が目立っている。森は、同論において堂々 と

“ P ro gr es s w ith ou t r ev olu tio n is im po ss ib le .”

と述べていると同時に

pr ec pr og re ss n tio au

し調強をきるいべう伴に、て 52

るがえる法律制度、及び国民自をらの力で自分の権利を守抑者防力体的に言えば、その予的措置とは、人権を犯す暴具 。 53

道徳感を養成する教育制度の設置であった。但し、次の箇所が示しているように、法律的な措置よりも、むしろ国民における道徳の涵養を重視していた。

 (九八七)

(27)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一八同志社法学 五九巻二号

「夫れ人の権利を承認保護する所の法律を制定すること、及教育の制度を完成し、人民の品位を高向にし、完全な

る法文の力を籍らすして、道徳上の力に依り充分に其固有の権利を保護するに至らしむるは、文明進歩上最慎重を要する所とす。成文律は充分に信仰の自由を保護せさるへからす

。」 54

つまり、道徳に裏づけられていない机上の空論的法律は、そもそも「無味乾燥」なものとして非難されている。従って、

長期的な成果を上げる社会改革をなすには、何よりもまず社会における道徳的な基盤が必要であり、あくまでもそれを基にして改革を実行しなければならないというわけである。この点において、森の開化論が欧米の絶対的な精神を根拠

にしていたわけではなかったことが明らかであろう。彼はあくまでも人間社会の事実上の進歩を促そうとしていたのである。言ってみれば、森の開化には、厳格的な条件が有り、その条件とは、国民の教育による道徳の発展に他ならない。

 以上の「進歩の条件」に関する論述からは、当時の森に対する非難が如何に的外れであったかが理解されよう。更に

皮肉なことに、森の若者の過剰な情熱や無鉄砲さに対する非難は、人が彼に述べたことであった。

「我々が解決しなければならない困難な問題の一つは、熱意に溢れている青年世代を押さえることである。[それを巧みにすれば]彼らの僅かの知識は危険なものとならず、成熟した形で国防のための有力な武器となり、我が国の

大いなる前進に良い影響を与える。この問題に関して海外より賢明な忠告を求める必要がある

。」 55

森が当時既に自分の言動の過激さを反省していたか否かは不明だが、熱心さが過ぎるあまりの知識乱用は、充分承認し  (九八八)

(28)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四一九同志社法学 五九巻二号 ていたようである。

 しかも、「海外より賢明な忠告を承けるべき」という意識は、森自身がアメリカの政治家ないし知識人の意見を度々尋ねたり、頼りにしたりしていたことに示されている。国務長官フィッシュやランマンは外交関係の仕事に協力し、ま

た、ヘンリーのごとき人物は学問的な面において不可欠な顧問の役割を担っていた。そして、身の回りにいる人の他に、森は遠い欧州の学者の著作などを熱心に参考としていた。木村匡によると、

「先生が甚学を好む故に代理公使館に在るや。諸書を渉猟し。特に文学倫理の書を研究せり。スペンサー氏哲学ジ

ョンスチュワードミル理財学の如きは。[中略]先生は好んて書を読めり。好んて学識のある人に交はれり。而してアメリカに於ける文物制度の表裏を通して観察せんことを勉めたり

56

以上の指摘との関係において重要な意義を持っているのは、

“L ife a nd R es ou rc es in A m er ic a”

である。この著作はただ アメリカの実態をそのまま伝えるために書かれたのでなく、開化の先進国アメリカを批判的に考察する試みである

。森 57

の批判的な態度は、偏見を示していると思われるかも知れないが、実のところ、それは、却って、偏見をなくそうとする姿勢を示してもいた。実際、森はアメリカを崇拝せんとする傾向を否定し、「日本における愛国者を徳の高い社会進

歩及び人間幸福の道」に誘おうとしていたのである

なでとこたいでん及まわに方りあの会社間がかなるはで」義主遍普「なる単はれそ、し但。人的普、くなはでのもた遍 い、点視の森しばれ見て、うはは自国ある。特定の外国に限られこ 58

く、より微妙な態度を含蓄したものである。言うなれば、森の問題意識は、当時の日本の進歩に対する心構えにあった

 (九八九)

(29)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四二〇同志社法学 五九巻二号

のだが、別な側面においては、彼は国や時代にとらわれることなく、各国の固有の歴史及び発展過程を鋭く観察してい

たのである。少なくとも、そういった領域を探ろうとし始めていたと言ってよかろう。

 実際、明治六年に至るまでには、森の「開化思想」の根本的枠組みは既に整っていたのである。その思想が、単なる西洋主義やフランス型啓蒙主義ではなく、進歩的意識に現実感覚に基づく保守的志向を裏打ちした、独特の「文明開化

論」であったことは明白である。

 しかも、ここで注目すべきは、後に「国家主義」と誤解される要素が既に森の思想に内在していたことであろう。つまり、以上に指摘してきたように、森は既に滞米中の時点で、西洋的な代議政体の即時導入を否定し、又、「吉田事件」

によって、一種の伝統保護主義的な意識をも明確に示していた。これらの点が「欧化主義者」としての森像に埋もれているため、もともとの一貫性が見失われているとも言えるであろう。しかも、「国語廃止論」に見られたような改革が

挫折し、より慎重な漸進主義的志向が表明されると、今度は森における「転向」が問題とされることになるのである。

明六社時代の「文明開化論」

 明治六年三月下旬に森はアメリカを去った。アメリカ滞在中の努力によって、日米関係の好意的相互理解は、大いに

進展したといえる。しかし、その一方で、日本政府にとって見れば、森のあいかわらずの無責任さ、及び無鉄砲な振る舞いなどは正に許し難いものであった

は在、アメリカ駐中ての行いが功をたいし治。従って、政的お出世という点に奏 59  (九九〇)

(30)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四二一同志社法学 五九巻二号 とは言えない。勇敢さは、凡そ誰も疑わなかったであろうが、性格上の欠点(主に謹みを欠くという点)は、依然改善せねばならない課題であった。彼は自分の意見に対して強烈な自信を抱き、自らの行動を正当化できると考えていたよ

うである。こうして見ると、「西洋的な」行動形式を見出すことができようが、実のところ、そうした行動は、むしろ、造士館時代の教育、言わば、志士の精神を表わしているのである。いずれにせよ、当時の政府における森の批判者は、

主に彼を西洋主義者として捉えた上で、危険視していたのである

60

 日本へ帰る途中、森は英国に寄り、当時の思想界に大きな影響を与えていたハーバート・スペンサーと出会った。この面会はスペンサー自身にかなり深い印象を残したようで、彼の日記においても森の訪問及びその時の依頼に対する

「忠告」の内容が記録されている。スペンサーの伝記を編集したダンカンは、その折りのできごとを次のように再現している。

「この頃彼は、日本の駐米代理公使森有礼と親しくなった。スペンサーは、次のように語った。﹃彼は、私を訪ねて

きて、日本の諸制度の再組織について私の意見を求めた。私は、保守的な忠告を与え、日本人は最後には彼等の進

歩に余り先じない形態に立ち戻るであろうから、それから大幅に外れるような努力をすべきではないと主張した﹄と 

61

残念ながら、スペンサーが森に如何なる印象を与えたかという点については、明確な資料が残されていない。それ故に、

推測に過ぎないが、その「保守的な忠告」は、少なくとも森の改革観を一層「漸進的」なものに仕立て上げたと考えら

 (九九一)

(31)

森有礼と近代日本の啓蒙主義四二二同志社法学 五九巻二号

れる。一つの具体的な例は、アメリカに滞在していた間に唱えていた「国語廃止論」であろう。帰国してから、「国語

廃止論」を肯定するような資料がないため、彼が結局その「愚作」を放棄したと結論しても差し支えが無かろう。概して言えば、帰国後の森には、以前よりも一層慎重な態度が示されている。

 ようやく帰国した森だったが、本人もある程度予期していた通り、国内政治、殊に政府の国内機関には足場を得るこ

とができなかった。この状態は、明治十八年まで続いた。二年後、森は外交分野に復活できたが、最も深い関心を持っていた国内改革に役人としてかかわることは、不可能であった。帰国後暫く政界から追放されたことは、森に対する罰

だと考えてよかろう。森自身もそれを痛感し、ワシントン時代の振る舞いをある程度反省していた。しかしながら、森は殊に日本社会の徹底的な改革を促すという意味で国内政治を諦めず、本来の目的をどうにか追求しようとした。皮肉

なことに、任務を受けないことによって森は余裕を持って自由に活動する貴重な機会を得たのである。

明六社の創設

 東京の新宅に移った後、森は横山孫一郎と面会し、海外に見られるような学者団体の創設について相談した。横山の

紹介を通じて洋学の秀才西村茂樹の援助を得たと言われている。やがて福沢諭吉を含む十人の有力者を中心にした明六社が成立した。明六社の規定によって理事会の選挙や新しい会員の入会などといった事務的なことのみならず、毎月の

一日及び十六日に例会を開くこと、又、その例会での発表を機関誌で刊行することが定められた。福沢を第一理事にする考えもあったが、彼は結局それを断わり、故に森が第一理事となった。  (九九二)

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