地方分権時代における住民参画の新たな動向
著者 伊藤 敏安
雑誌名 同志社社会学研究
号 1
ページ 39‑50
発行年 1997‑03‑31
権利 同志社社会学研究学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011920
地方分権時代 における住民参画の新たな動向
伊藤 敏安
ITO Toshiyasu
は じめに
第 3次臨時行政改革推進審議会は、1993年10月の 最終答 申において、「官主導か ら民 自律への規制緩 和」 と 「国か ら地方への地方分権」 とい う2つの柱 を打 ち出 した。これをうけて1995年 7月に地方分権 推進法が制定 されるなど、その後、地方分権 に関す る議論がかつてないほどの高 まりをみせている。
国の地方分権推進委員会は、地方分権 を明治維新 と戦後改革につ ぐ 「第三の改革」 とも呼んでいる。
また、1996年11月に発足 した第 2次橋本内閣は、経 済構造改革、財政構造改革、社会保障改革などの改 革 に 「身を燃やす」 ことを宣言 したが、そのなかで 地方分権の問題は、行政改革の一環 として6つの改 革の筆頭に据えられている。
わが国では戦後、 日本国憲法において地方 自治の 基本原則が定め られ、それまで認め られていなかっ た地方 自治への門戸が開かれることとなった。 しか し、高度経済成長の過程 においてふたたび中央集権 型システムへの揺れ戻 しがあ り、その状態が今 日ま で継続 されて きたのが実情である。この間、地方分 権 に関す る議論が何度か持 ち上が ったことがある が、いずれ も法制化などのかたちで結実することは ほぼ皆無 といってよかった。 このため、今 日のよう な機運の高まりは大いに注 目すべ きことといえる。
とはい うものの、地方分権 に関するこれまでの主 要な議論 を追ってみると、国の行財政改革や中央省 庁の再編 に関する問題のコロラリーとして提示 され てお り、住民 自治 とい うより団体 自治のための地方
分権 という性格があったことは否めない。
しか し最近になって、住民投票や自発的なオンブ スマ ンの設置などの興味深い動 きが各地で活発化 し ている。 これ らは、原発立地、米軍基地問題、公務 員汚職 といった時事的問題に対する単発的な意味で の反応 とい う面 も多少はあろうが、「上か らの地方 分権」の風潮 を胡散臭 く感 じは じめた住民 自身によ る問題提起であ り、 さらにいえば地方分権に対する 住民の主体的なかかわ りのあらわれ とみることもで
きるのではないか。
そこで本稿では、戦後か ら最近に至る地方分権の 流れを追いなが ら、住民参画のあ り方を考えてみる
ことにしたい1。
1.戦後復興期 における地方分権化 と中央集権 化の相克
地方 自治法の制定 とシャウプ勧告
1947年4月に地方自治法、同年5月に日本国憲法 が制定 され、地方 自治体の組織 ・運営 に関する事項 は 「地方 自治の本旨」に基づいて法律で定めること が明記 された。これにより、知事の公選制 と市町村 長の直接選挙制が導入 され、都道府県 ・市町村は、
それまでのように国の出先機関ではな く、完全 自治 体 として位置づけられることとなった。地方 自治法 の制定 に伴い、警察権 と教育権の地方への移譲が進 め られ、住民の直接請求制度の導入なども認め られ た。
しか し、地方 自治法で当初は固有の自治事務が明
同志社社会学研究 NO.1,1997
記 され、国の直接の監督権は受けないこととされて いたにもかかわらず、その翌年、中央省庁の圧力に よって 「法律又はこれに基づ く政令に特別の走があ るときは、この限 りでない
」
(第 2条第 3項) との 但 し書 きが加えられた。これをきっかけに、機関委 任事務の拡大をは じめ、中央省庁の介在が強 まることとなった。
また、1949年のシャウプ勧告をうけて、国の地方 行財政調査委員会議 (いわゆる神戸委員会)は、行 政責任の明確化原則や市町村優先主義原則 を基調 に、機関委任事務の原則廃止、国立大学の地方移管、
市町村合併の促進などを内容 とする行財政改革を勧 告 した。 しか し、中央省庁の抵抗でほとんど具体化 せず、シャウプ勧告に基づいて1950年 に創設 された 地方財政平衡交付金制度について も、1954年に現行 の地方交付税制度に改められ、地方による国への依 存体質をかえって強める結果 となった。
なお、住民参画 という論点か らは町内会 ・部落会 の問題 も重要である。町内会 ・部落会は、1940年の 内務省訓令に基づいて行政の末端に組織化 され、 さ らに大政翼賛会の下部組織 に組み込 まれていたが、
1947年1月、連合国総司令部の命令により政令 によ って解散 させ られた。
にもかかわらず、戦後の混乱 と窮乏 と不安のなか で、町内会 ・部落会は、その本来の機能である近隣 の相互扶助 と治安維持 を担ってきたことから、1952 年の講和条約締結 による解散命令の失効 を待 たず
に、多数の町内会 ・部落会が実質的な活動 を再開 し ていたといわれる。 しか も後述の大規模な市町村合 併 に伴い、市町村 自体が広域化 した行政 と住民 とを 媒介する手段 として町内会 ・部落会を利用 しようと してきた。町内会 ・部落会のこのような位置づけは、
その後現在 に至る 「住民 自治」の原型 ともなってい る2。
市町村財政の悪化 と再集権化
地方警察制度や義務教育制度の導入に伴 って財政
難 に陥 っていた市町村 を救 うことを目的 として、
1953年に町村合併促進法が施行 された。これにより 4年1 , あった市町村数は、同法施 195 0月時点に10520
行時の193 05年1月に9,688、同法が失効 した15年 96 9 月には3,7に減少 し、向こう95 3か年で市町村数を3 分の 1にするという当初の目標はほぼ達成 された。
蓮見音彦 (1980)によれば、このように短期間の うちに市町村合併が進められたことによって、市町 村が完全 自治体ではなかったことが逆に明 らかにさ れたとしている。
1955年 には地方財政再建特別措置法が制定 され、
市町村財政に対する国の介入が一段 と増大 した。 ま た、1953年には第1次地方制度調査会が設置 された が、その答申をうけたかたちで1954年に自治体警察 制度が廃止 され、1956年には教育委員公選制が廃止
された。
これらの制度変更の結果、シャウプ勧告で提示 さ れた市町村への事務の再配分 といった視点は大幅に 後退 し、その代わ りに市町村の行財政の合理化に関 する議論が前面 に押 し出されるなど、戦後開かれた 地方分権への門戸は、1950年代半ばまでにかな り狭 められることとなった。
2.
高度経済成長時代 における中央集権化の 進展揺れ動いた都道府県制度
1950年に国土政策の基幹法 となる国土総合開発法 が制定 された。同法は、「国土の自然的条件 を考慮 して、経済、社会、文化等に関する施策の総合的見 地か ら、国土を総合的に利用 し、開発 し、及び保全 し、並びに産業立地の適正化を図 り、あわせて社会 福祉の向上に資する」ことを目的とするもので、具 体的には全国21か所の特定地域 において電源開発、
食棲増産、奥地未利用林の開発 などの資源開発が進 められた。
これらの特定地域における計画の推進にあたって
は、それぞれの地方 自治体の主導性がかな り認め ら れていた半面、財政面の裏づけが十分でなかったこ とか ら、地方による中央への依存 を逆 に早める結果 となったとい う見方 もされている3。
r経済白書 Jで 「もはや戦後ではない」 といわれた 1950年代半ばになると、全国各地で道路網整備、工 業開発、水資源開発、治山 ・治水事業などの広域的 かつ大規模 な地域開発が さらに活発化 して きた。 こ のような大規模開発 を進めるうえで都道府県境や都 道府県の割拠主義的な姿勢が支障になって きたこと に加 え、導入 されてまもない公選制知事 に対する中 央省庁の不信感 も手伝 って、この時期 を前後 に都道 府県制度の廃止に関する議論が増 えてきた。
1954年 には全 国市 長会や全 国市議 会議長会が、
1955年には関西経済連合会がそれぞれ都道府県制の 廃止 と道州制構想 を打 ち出 した。 1957年の第 4次地 方制度調査会では、全国を 7ブロック程度 に分けた 官選の長 による 「地方制案」 と 「都道府県の広域統 合案」が採決 され、1票差で 「地方制案」が多数意 見 として答 申された。 1963年の臨時行政調査会専門 部会 において も 「地方庁構想」が提示 された。 この 間、1956年には政令指定都市制度が創設 されている。
1960年代 に入ると、近畿圏整備法 (1963年)や中 部圏開発整備法 (1966年)の制定 を機会 に、大阪 ・ 奈良 ・和歌山の "阪奈和"合併構想や愛知 ・三重 ・ 岐阜 3県の合併構想が浮上 した。1965年の第10次地 方制度調査会は、府県合併 に関する答 申を行 った。
これをうけて翌年の第 51国会に 「都道府県合併特例 法案」が提 出 され、その後再提 出を含めて 3か年に わたって審議 されたが、 1968年の第 58国会で結局廃 案 となった。
大規模開発の推進 と中央集権化
池田内閣の もとで 1960年 に打 ち出 された所得倍増 計画 を契機 に、工業開発 ・地域開発が一段 と加速 さ れた。 国土総合 開発 法 の理念 を具体化す るため、
1962年には 「全国総合開発計画」が閣議決定 された.
同計画では 「地域間の均衡ある発展」 をめ ざして、
拠点開発方式がかかげられた。
これ らの広域的な大規模開発 を円滑 に促進するた め、国では 「地方庁構想」 とも絡めなが ら、 1963年 に地方農政局を新設 し、地方建設局や地方通商産業 局 を増強 した。 また、 1964年には法改正により一般 国道 と一級河川の管理 を知事か ら建設大臣に引 き上 げた。 1965年には各地方ブロ ックにおいて国 ・地方 間の連絡 ・協議 を行 うため、地方行政連絡会議が設 置 され、現在に引 き継がれている。
他方、財政投融資資金 を原資に大規模 な基盤整備 を推進するため、日本道路公団 (1956年)、水資源開 発公団 (1962年)、 日本住宅公団 (1963年)、 日本鉄 道建設公団 (1964年) といった特殊法人が中央省庁 の監督の もとで相次いで設立 された。
このように中央省庁 による直轄事業体制が進め ら れるなかで、地方の側で も、首長選挙で 「中央に直 結 した地方 自治」 をうたった り、地域指定 を獲得す るために革新系市長が無所属に移った り、陳情活動 が大規模 化す るな ど、中央志 向 を強めてい った。
1兆2年に創設 された新産業都市の指定 にあたっては、
道府県や市町村の陳情活動が繰 り広げ られ、「世紀 の陳情合戦」 とまでいわれた。
新藤宗幸 (1996)は、 19甜年代 に中央省庁 による 直轄事業体制が強化 された状況 を 「新中央集権体制」
と呼んでいる。そ して、地方分権 を含めた現在進行 中の行政改革が対象 とすべ きは、その ような
「 細
年 代体制」の改革にあるとしている。1969年 には 「新全国総合開発計画」が閣議決定 さ れ、「豊かな環境 の創造」 とい う基本的 目標 の もと で、過疎 ・過密や地域格差 を解消するため、大規模 プロジェク トの推進によって国土利用の偏在 を是正 するとい う開発方式が提示 された。
また、急激 な都市化の進展などに伴い、市町村の 範域 を越 える問題が増 大 して きた こ とな どか ら、
「新全国総合開発計画
」
の策定 と前後 して、 自治省 による広域市町村圏や建設省 による地方生活圏が導同志社社会学研究 NO.I,1997
入 された。 この うち広域市町村圏は、人口規模がお おむね 10万人以上であ り、住民の 日常生活がそのな かで充足 されるような都市 と農山漁村地域 を一体 と した圏域 について、圏域内の市町村が共同 して振興 整備 をす るために 1969年度 に導入 された。 1977年度 か らは、人口規模がおお むね 40万 人以上で、地理 的 ・歴史的 ・行政的に一体的な圏域 を形成 している 大都市周辺地域 について大都市周辺地域広域行政圏 の設定が進め られている (1990年度か ら両者 を総称
して広域行政圏 と呼ばれている)。
広域行政圏の市町村 は、共同 して振興整備計画 を 策定することとされているが、この計画 に記載 され ていない事業については地方債の発行が認め られな いなど、国が地方を統制す るための手段 ともなって いる。
道州制論の再燃
19W年代末 になって、「都道府県合併特例法案」の 廃案 を機会 に都道府県の合併や連合に関す る議論が 一段落 した ことに加 え、「新仝総」 を推進す るため に都道府県境 を越 えた広域的な仕組みづ くりが必要 との観点か ら、都道府県制度の廃止 と道州制の導入 に関する議論が再燃 してきた。
1968年 には、全国知事会が反対す るなか、全国市 長会は 「現行府県制度は将来 これを廃止 し、別途広 域行政機 関 と して再編成す るよ う根本 的 に検討す る」 との要望 をまとめた。 1969年 には関西経済連合 会が 「地方制度の根本改革に関する答申」 を発表 し、
日本商工会議所は 「廃県置州」 を唱えた。
しか し、「屋上屋 を架す る」 などの反対意見が強 かったうえ、全国をい くつの州 に分けるか、 どの府 県 をどの州 に含めるか といった地域割 りの議論 にと どま りがちであったこともあって、道州制 に関する 議論は1970年代 に入って終息 した。
3.
安定経済移行期におけるつかの間の地方の 時代政権交替 なき政策転換
1960年代のわが国は、ほ とんどの年次 を通 じて実 質経済成長率が2桁台 とい うきわめて高水準の成長 を続 けて きたが、 1971年のニ クソン ・シ ョックを契 機 に成長率 は 1桁台 に落ち着いた。高度経済成長の ピークアウ トとともに、 1960年代後半か ら各地で過 疎 ・過密問題や公害問題、 自然環境 の破壊問題 など が顕在化 し、住民運動 ・市民運動が活発 となった。
このような動 きに符合 して、 とくに 1970年前後か ら 各地でいわゆる革新系の知事や市長が多 く誕生 して いる。
これ らの先駆的 自治体の もとでは、対話集会の開 催や委員会の設置 な どによる住民参加 の促 進、保 健 ・医療 ・福祉の充実、環境や景観 に関する条例や 要綱の制定 などが実験的に進め られた。 この ような 試みは、た とえば各地 における環境保護条例の制定 などを後追いす るかたちで国が 自然環境保全法 を制 定 した り(1972年)、ほとんどの都道府県で高齢者医 療の無料化が導入 されたのをうけて国 も制度化 に踏 み切 る (1973年)など、法制化や国の政策 に大 きな 影響 を与 えた ことか ら、 「政権交替 な き政策転換」
といわれている。
国 または国の審議会などにおいて も、この時期か ら住民意識のあ り方 に関係 した議論が散見 されるよ うになって きた。た とえば1970年 に第14次地方制度 調査会が大都市制度 に関する答 申のなかで コミュニ テ ィ形成の必 要性 を説 いたの を うけて、 自治省 は
「コ ミュニ テ ィ構想」 を発表 し、翌年度 か らモ デ ル ・コミュニテ ィ地区に対する支援措置などの施策 を開始 した。
また、 1976年の第 16次地方制度調査会は、住民の 自治意識の向上方策 に関する答 申を行 った。そのな かでは、住民投票にふ さわ しい事項 として、1)市 町村合併、 2)首長 と議会の意見が対立 していると
くに重要 な事項、 3)特定 の重要な施策や事業 を実 施す るために住民 に特別 の負担 をかけるおそれのあ
る事項、 とい う3点が例示 された。
つかの間の地方の時代
1978年 には、埼玉 ・神奈川 ・広島 3県の知事が提 唱 して 「地方 の時代 シ ンポ ジウム」 が 開催 された。
「地方の時代」 とい う表現 は、その後 しば ら くのあ いだ流行語 ともなった。
このシ ンポジウムをきっかけ とす る具体的 な成果 は、都道府県知事 に委任 された事務 の市 町村- の再 委任 、都道府県職員 と市 町村職員の人事交流の促 進 な どに限 られる といわれている。 しか も神奈川県 と 広 島県では、国か ら都道府県への権限移譲 に先駆 け て県か ら市 町村へ の権 限移譲 を進め よ うと したが、
市町村の受入準備が整 っていなかったため に実際 に はほ とん ど進 まなかった 4。に もかかわ らず、「地方 の時代 シ ンポ ジウム
」
が今 日の地方分権改革 に関す る議論 に先鞭 をつけたことは評価 されて よいであろう。
なお、1970年代半 ばに東京 圏への流入人口が底 を 迎 え、地方圏への産業立地 とも相 まってほ とん どの 道府県で人口の増加がみ られた。 これ らの ことか ら、
矢 田俊文 (1991)は、 この時期 を地域格差が拡大 し た 2つの時代 、つ ま り大都市 圏 ・太平洋ベル ト地帯 に人口や産業が集 中 した高度成長期 と東京一極集中 が加速 された80年代後半の産業調整期 には さまれた
「つかの間の "地方の時代""地域格差縮小 の時代
' ' 」
と呼んでいる。
この よ うな時代背景 の もとで、「第三次全 国総合 開発計画」が1977年 に閣議決定 された。同計画では、
開発 志 向型 の 「新仝 総
」
に対 す る反動 もあ って、「人 間居住 の総 合 的環境 の整備」 を基本 的 目標 に、
大都市へ の人口 ・産業の集中を抑制 しなが ら地方の 均衡ある発展 を図るため定住圏構想が提示 された。
ただ、 「三全総」 については、生活 や 自然環境 が 重視 された半面、定住 圏構想 の設定 によって市 町村
が除外 されるかたち となったこと、 また、それ まで 手つかずであった農山漁村地域 まで工業化 ・都市化 を進め ようとす る全面 開発志向がみ られること、 と いった問題点が指摘 されている5。
4.
地方自立への動き行革 と緊縮財政
1971年のニ クソン ・シ ョックに続 いて1973年 には 第 1次石油 シ ョックが起 こ り、わが国の経済 は低成 長時代 に移行 した。税収 の大幅停滞 に伴 い、1975年 の補正予算 において大規模 な特例債 、いわゆる赤字 国債が発行 された。 また、1978年の第 2次石油 シ ョ
ックによって税収が さらに落 ち込 んだため、1980年 度の予算編成か らいわゆる 「ゼ ロ ・シー リング」 の 考 え方が導入 された。1981年 には鈴木内閣による財 政非常事態宣言 をうけて第 2次 臨時行政調査会 (土 光臨調)が設置 され、1983年 には中曽根 内閣の もと で第 1次臨時行政改革推進審議会が設置 された。
こういった行 革の動 きに対応 して、1979年の第17 次地方制度調査会か ら1988年 の第21次調査会 まで連 続 して、地方行財政制度のあ り方 に関す る議論が行 われている。
第 2次 臨調 な らびに第 1次行 革審の答 申に基づい て、 「増 税 な き財 政 再建
」
を旗 印 に国鉄 ・電 電 公 社 ・専売公社 の民営化 な どが進め られ る とともに、国か ら地方への移転支出の削減 と地方の経費抑制 を 図るため、地方 自治体職員の給与の抑制 と減員 に対 す る指 導 や 国庫 補助 負担 金 の削減 な どが進 め られ た。
1985年 には、 自治事務次官か ら都道府県知事 に対 して、 「地方公 共団体 の行政改革推進の方針 (地方 行 革大綱) の策定 について」 とい う通知が出 され、
都道府県のみ な らず市町村 も含め、行政改革 に取 り 組 むこととなった。 この 「大綱」 は、国か ら地方へ の権限移譲 に一歩先 ん じて都道府県か ら市 町村への 権限移譲が進む きっかけ ともなった。
同志社社会学研究 NO.1,1997
また、生活保護、母子保健衛生、失業対策 といっ た国庫 による補助 ・負担率が高率 になっていた補助 負担金 については、1985年度予算か ら率の 1割削減 が行われるようになった。国庫補助負担金の削減 は、
当初 は単年度のみの緊急措置 とされていたが、結局 1988年度 まで継 続 され 、 その後 の法 改 正 に伴 い 、 1989年度 か らは削減 された ままの状態が ほぼ恒常化
されている。
自立 を余儀な くされた地方
この ように して地方 は行財政運営 において厳 しい 状況 を強い られることとなった ものの、一方では地 域 の 自立 に向けて積極 的に取 り組 む事例 もみ られる
ようになって きた。
その代表的事例 は、平松守彦 ・大分県知事の呼び かけで1979年か ら始め られた 「-村一品運動
」
であ る。その後 、細川護照 ・熊本県知事 (当時)の提唱 で19糾年度か ら 「熊本 日本一づ くり運動」が始め ら れるな ど、1980年代 に入 る と、各地で特 産品振興や 観光活性化 などの取組が さらに活発化 して きた。地方が財政的 には窮状 にあ りなが らも、知恵 と工 夫 しだいでは活路 も開け うることが明 らか に された 当時の状況 について、平松知事 は 「地方試練の時代」、
細川知事 は 「地方反乱の時代」 と表現 したことがあ る。
この ようななかで1988年度 に竹下内閣の もとで打 ち出 され たのが 「自 ら考 え 自ら行 う地域づ く り事 業」、いわゆる 「ふ る さと創生 1億円事業」である。
この事業 については 「ば らまき」 とい う批判的見方 もあったにせ よ、い ままでみて きた ような時代背景 を考慮すれば、出 されるべ くして出 された施策 とも い えよう。 「ふ る さと創生事業」 について、坂 田期 雄 (1996)は次の ような評価 をすべ きとしている。
1)主体 的 な地域づ くりに対す る市 町村職員の意 識変革 を もた らす と同時 に、 アイデア募集 など
を通 じて住民 の参加意識が高 まったこと。 また、
マス コ ミで取 りあげ られ る機会 も多 く、住民 自
治のあ り方 に関す る人々の関心 を喚起 したこと。
2)「ふ る さと創生事業
」
の導 入 にあわせ て、地域 総合整備事業債 の財源 を確保す る とともに、そ の元利 償還金の 3-5割程度 を地方交付税で ま か な うな ど、市町村 の取組 を財政的 に支援 す る 制度が整備 された こ と。 この ような起債 と地方 交付税の組み合わせ による財政的支援 は、「ふ る さと創生事業」 を継承 した現行 の 「ふ る さとづ くり事業」、 自治省の 「リーデ ィングプロジェク ト推進事業」、広域市町村圏による 「ふ る さと市 町村 圏基金」 の設置 といった多 くの事業 に展 開 され、市 町村 による多様 で 自発 的 な取組 を促 し たこと。3)国庫 補助負担 金 か らひ もつ きで ない地方交付 税-の切 り替 え とも相 まって、地方財政 におけ る普通建設事業の構成 をみ ると、1987年度以降、
地方の 自主性が活 かせ る地方単独事業 の割合が 国庫補助事業 を上 回 って拡大 している こと。 国 の財政逼迫 を背景 に して、 と くに 「ふ る さと創 生事業
」
を契機 に 「財政面 で地方分権化がか なり大 き く進んだ」 といえること。
さらに以上の点 に加 え、 こ うした国の動 きに前後 し、あるいは国の施策 に対応 しなが ら、都道府県の 側で も、市 町村 の主体的な取組 を支援す る仕組み を 充実 して きたことも評価 されて よい と思われ 6。
なお、1987年 に閣議決定 された 「第四次全国総合 開発計画」 では、東京一極集中 を是正 し、定住 と交 流 による地域活性化 な どを図 るため、 「多極分散 型 国土形成
」
を基本的 目標 とす る交流 ネ ッ トワー ク構 想が提示 された。多様 な地域づ くり活動の展開
この ように して地域 の創意工夫が求め られるよう になったが、これに伴 い、地域 間の競争 も激 しくな って きた。新藤宗幸 (1996) によれば、「80年代か ら 今 日にか けて顕著 になってい る事態」 は、"目を覚 ま している自治体" と "居眠 りしている自治体''と
の間で政策や行政サービスの格差が拡大 しているこ とであるとい う。
1980年前後か ら、革新系の首長は しだいに減少 し、
保守地盤 を中心 に幅広い有権者か ら支持 される首長 が増 えて きた。新藤宗幸 (1996)は、 この ような
「オール与党化」 に伴 い、地域 における政党の影響 力が低下 したぶんだけ、「首長 ならびにその補助機 構である職員機構の資質が、 自治体の行政 ・政策の 水準 を決める時代 に入ったとみることもで きる」 と
している。
ところで、開場寿- (1983)や会田彰 (1983)は、
1970年代 に活発であった住民運動や革新 自治体の活 動が1980年代 に入 って しだいに衰微 してい く状況 を みて、 これ らの活動が 「草 の根 (グラスルー ト
) 」
ではな く 「草の頂点 (グラス トップ
) 」
に終わるか もしれないとい う危倶 を表明 していた。1980年代初頭 と1990年前後の状況 を比較 してみる と、新藤宗幸が指摘 しているように、確かに一方で は首長や職員の資質が一層重要になっている面 もあ ろ う。 しか し、その一方では坂 田期雄 (1996)が
「ふ るさと創生事業」 による波及効果 を評価 してい るように、住民の主体的な地域づ くりへの機運が高 まっていることも事実である。
私は、中国地方 をフィール ドとする研究機関のス タッフとして、地域の産業 ・経済などに関する調査 研究に携 わって きたが、 とくに 1990年代 に入って中 国地方のみならず全国各地で地域づ くり活動が非常 に盛んになってきたことを身近に実感 している。
とりわけ中国地方の場合、過疎化 ・高齢化が進展 し、地域経済 も全般 に沈滞気味であることもあって、
「過疎 を逆手 に とる会」 に代表 される地域づ くり活 動が きわめて活発 である
(
「過疎 を逆手 に とる会」の設立は 1982年であ り、全国的にみて も最 も初期の 部類 に属する)。 この種の活動のなかには、た とえ ば鳥取県で全県的に進め られている 「ジゲおこし事 業」のように行政の関与がみ られるものか ら、親睦 を図る程度の もの まで実 に多様 な ものが含 まれる。
また、地方 自治体の首長の個性 に多 くを負っている とみ られるケースもよくみかけることがで きる。
これ らの活動の詳細 については、いずれ稿 をあ ら ためて検討 しなければならないが、それはともか く として、 1990年代以降の とくに自発的な地域づ くり 活動は、従来の住民運動 とは どこか様相 を異 に し、
住民 自身の側で行政 をも巻 き込みなが ら地域の政策 形成に積極的に寄与 しようとする動 きない しは兆 し がみ られることは注 目すべ きと思われる。
5.
新たな地方の時代のはじまり国 と地方の関係の見直 し
1980年代末か ら現在 にかけて、地方分権 に向けて 急速 な進展がみ られた。 1988年 5月の第 21次地方制 度調査会答 申、 1989年12月の第 2次臨時行政改革推 進審議会答 申、あるいは1991年7月の第3次臨時行 政改革推進審議会第 1次答申において、それぞれ国 と地方の機能分担 をふ まえなが ら国か ら地方への権 限移譲 を進めることが答 申された。第3次臨調第3 次答申 (1992年6月)では、「地方分権特例制度 (パ
イロッ ト自治体制度 )」の導入が提案 された。
民間の側で も、 1993年 1月に政治改革推進協議会 (いわゆる民 間政治臨調)が 「地方分権 に関する緊 急提言」、2月に経団連が 「21世紀 に向けた行政改 革 に関す る基本 的考 え」、 4月 に同 じく経 団連が
「東京一極集中の是正 に関す る経団連見解
」
を発表 し、地方分権の意義を訴えた。連邦制 ・道州制
1980年代 末か ら1990年代初頭 にかけて、長野士 郎 ・岡山県知事 (当時)をは じめ、恒松利治 ・前島 根県知事、 日本青年会議所、(社)行革国民会議 など により、立法 ・司法 ・行政の 3権 を担 う地方が国を 構成するとい う連邦制構想が提示 された。
また、中部経済連合会 「望 ましい国 と地方のあ り 方
」
(1989年10月)、西 日本経済協議会 (中部以西の同志社社会学研究 NO.1,1997
経済団体で構成)「新 しい 日本の創造 一西 日本か ら の提言 -
」
(19卯年10月)、中国経済連合会 「多極分 散型国土実現への提言」
(1㈱ 年11月)、関経連 「都 道府県連合 に関する提言」
(1991年11月)などでは、それぞれ道州制-の発展を展望 しなが ら、当分のあ いだ都道府県連合制度 を導入す ることが提案 され た。
これ らの提言 をうけ、第 2次臨時行政改革推進審 議会の答申 (1989年12月)では、「都道府県の区域に 立脚する広域的な地域行政主体の形成」 などについ て検討することとされた。同様の考え方は第 3次行 革審最終答 申にも受け継がれている。
地方分権 に関する大綱 と法の制定
以上のような情勢 をふ まえ、 1993年 6月には衆参 両院において 「地方分権の推進 に関する決議」が全 会一致で採択 された。この決議の意義について、地 方 自治制度研究会 (1996)による実務者向け解説書 のなかでは 「地方分権推進 にとってエポ ックメーキ ング
」
という表現が使われている。1993年10月の第 3次行革審最終答 申は、それ まで の臨調 ・行革審の議論の集大成 として地方分権 と規 制緩和の 2つの柱 を打 ち出 した。このなかでは、今 後 1年程度 を目途に地方分権 に関する大綱方針 を策 定 し、これをもとに法律 を制定することが求め られ ている。
同答 申をうけて政府は、1 994年 1月に細川首相 を 本部長 とす る行政改革推進本部 を設置す る ととも に、 2月には 「今後 における行政改革の推進方策に ついて (中期行革大綱
) 」
を閣議決定 した。 5月に は大綱方針のあ り方を具体的に検討するため、推進 本部の もとに専門家を加えた地方分権部会が設置 さ れた。 また、地方分権の推進方法のあ り方 を検討す るため、第 24次地方制度調査会が 4月に発足 し、 ll 月に答申を行 った。そ して 12月、村山内閣の もとで 「地方分権の推進 に関する大綱方針」が閣議決定 され、翌1995年5月
「地方分権推進法
」
が成立、7月か ら施行 された。同法施行 とともに地方分権推進委員会が発足 した。
地方分権推進委員会 は、 1996年 3月に 「中間報 告一分権型社会の創造
-」
をまとめ、同年12月、機 関委任事務の廃止などを骨子 とする第 1次勧告 を橋 本首相 に提 出 した。1997年前半には税財源や補助金 改革などに関する第 2次勧告が提示 される予定であ る。国では、この勧告に基づいて 「地方分権推進計 画」 を策定 し、法律の有効期間である 5年以内に推 進方策を実施することになっている。このような動 きに並行 して地方分権 に関連 した制 度が実現 している。第3次行革審で提案 された 「地 方分権特例剛度 (パイロッ ト自治体制度
) 」
は、 1卵2 年12月に閣議決定 され、翌年 に決定 された実施要領 に基づいて動 き出 した。また、第 2次行革審による 「国と地方の関係等に 関する答 申
」
(1989年12月)で 「地域中核都市」 と「広域連合」の考 え方が提示 されたが、第 23次地方 制度調査会ではそれ らのあ り方 を審議 し、1993年4 月に 「広域連合及び中核市に関する答申」 を行った。
その後 1994年 6月に地方 自治法が一部改正 され、中 核市は1995年4月か ら、広域連合制度は5月か ら施 行 された。
さらに1995年3月には住民発議制度などが盛 り込 まれた 「市町村合併特例法」が改正 され、 4月か ら 施行 されている。
住民参画 を促進する制度改革
ただ、第3次行革審最終答 申 (1993年10月)を含 め、それまでの議論では、住民 自治や住民参加 に関 す る視点がほ とんどな く、「団体 自治 レベルだけの 分権論
」
(加茂利男 1卵5)にとどまっていたとされ る7。実際、それ以前の提言や答 申をみて も、 1989 年12月の第 2次行革審答 申で住民投票制度や直接請 求制度 について言及 され、 1993年 1月の政治改革推 進協議会 (民間政治臨調)による提言で政策投票制 や住民総会について簡単にふれ られている程度である。
また、これまでの地方分権論 と広域行政論はつね に 「ワンセ ッ ト」であ り、広域行政論 も国土計画 と の関連で議論 され、住民の視点がほとんど欠落 して いたとい う指摘 もされている8。
しか し最近になって、全国知事会などか ら構成 さ れる地方6団体 は、「地方分権 の推進 に関す る意見 書
」
(1捌年 9月)において、地方公共団体の行財政 運営の民主化、公正 ・透明化 を図るため、条例制定 手続 に住民投票制度 を導入するとともに、外部監査 制度 を導入することなどを求めている。 これに対応 して、第割次地方制度調査会答 申 (同年11月)では、「住民 による地方公共団体の行政への参加の機会の 拡大を図るとともに、政策形成等 における住民意思 の反映の方策 として、住民発議制度や住民投票制度 等について検討する必要がある」 としている。
市 町村合併手続 きにおける住民発議制度 の導入 も、こういった動 きに対応 した もの といえる。 さら に第25次地方制度調査会は、折か ら "官官接待"や 公務員のカラ出張などの問題が多発 して きたことか ら、1997年2月の答 申において外部監査制度の制度 化 を強 く求めた。 これをうけて国では、外部監査制 度 を義務づけるため、地方 自治法の一部改正 に関す る法案 を準備中である。
6.
おわりに住民 と行政 との 「協働
」
前節で、最近の地域づ くり活動は、従来の住民運 動 と異なる性格 を帯 びているのではないか とい う問 題意識 を述べた。
その特徴のひとつは、 自発的な地域づ くり活動 と 地方 自治体 とのあいだに一定の 「協働」の契機がみ られることである。1970年代の住民運動は、一般 に 地方 自治体 と対立的な側面が強かったのに比べ、最 近の地域づ くり活動のなかには、地方 自治体の政策 形成 になんらかのかたちで関与 しようとしている事
例が多いようにみ うけられる。行政の側で も、自立 的な政策形成の方途のひとつ としてこれ らの活動 を うまく利用 しようとしているようで もある。
た とえば中国地方には、地域づ くりの活動家 ・実 践者、大学関係者、コンサルタン ト、地方 自治体関 係者などが参加 した横 断的なネ ッ トワークがある。
このネッ トワークによる研究会のなかで提案 された
「道の駅」が建設省の正式事業 に採択 された り、研 究会で議論 された 「地域連携」の考え方が策定中の 新たな全国総合開発計画にも影響 を与えている。
また、環境庁が1996年7月に発表 した 「日本の音 百選」は、長崎市の市民 グループが実施 した 「なが さき ・いい音の風景20選」 とい う活動 を参考にして いる。 この市民 グループ自体、 もともとは長崎市が まちづ くりを担 う人材育成のため に実施 している
「まちづ くり工房 ・長崎伝習所」 とい う事業か ら生 まれた ものである。
自己決定 ・自己兼任原則
このように住民の側か らの主体的な働 きかけの契 機が増大 しつつあるのに対応 し、行政の側で も変化 がみ られる。最近の動 きのなかでは、まず地方分権 推進委員会による 「中間報告
」
(1朔 年 3月)の次のような記述に注 目する必要がある。
「ナシ ョナル ・ミニマムを超える行政サービス は、地域住民のニーズを反映 した地域住民の自主 的な選択 に委ねられるべ きものである。その結果 として地域差が生ずるとして も、それは解消 され るべ き地域間格差ではな く、尊厳なる個性差 と認 識すべ きである」
「地方公共団体はこれまで以上に、その政策形 成過程への地域住民の広範 な参画 を要請 し、行政 と住民 ・関連企業 との連携 ・協力による地域づ く りとくらしづ くりに努め、地域住民の期待 と批判 に鋭敏 かつ誠実 に応答す る責任 を負 うことにな る」
同志社社会学研究 NO.1,1997
「それぞれの地方公共団体が優先 して推進する 政策 にはこれ まで以上 に大 きな差異が生 じること にな り得 るが、それは究極 においては地域住民 自 らによる選択の帰結なのであって、 これを不満 と する地域住民 は批判の矛先 を自らが選出 した地方 議会 と首長に向けなければならない。すなわち地 方 自治の本 旨の実現である」
もうひとつは、新たな国土計画の考 え方である。
国では、これまでの開発志向 とは異なる観点か ら新 たな全国総合開発計画 を策定中であるが、その中間 報告 として 1996年12月、内閣総理大臣の諮問機関で ある国土審議会か ら 「計画部会調査検討報告
」
が発 表 された。そのなかでは計画の推進方式 として 「参 加 と連携」が提示 され、次のような方向が示 されて いる。「21世紀の国土づ くりは、国民の参加 と協力な しには進め られない。 また、国土 を構成する各地 域 において個性的で魅力的な地域づ くりを推進す るためには、地域住民の積極的な参加が基本的に 重要である。近年、防災、環境、文化、福祉 など の多様 な分野 において、住民の参加意欲の高 まり とさまざまなボランティア団体や教育機関、民間 企業などによる地域づ くりに対する自発的な活動 が活発化 してきていることをふ まえ、多様 な主体 の参加 による地域づ くりを全面的に展開 してい く ことが求め られる [一部省略]このような多様 な 主体の参加は、従来の行政では十分 に対応 しきれ なかった分野を補完するのみならず、多様 な要請 に対応するきめ細かいサービスの提供 とその質の 向上を可能 とする」
「"参加 と連携''によ り計画 を推進す るにあた っては、国お よび地域の相互の適切 な役割の遂行 が不可欠である。国は、国家的見地か ら"参加 と 連携" を支援することが基本であ り、また、都道 府県、市町村は、地域的視点か ら地域づ くりへの
多様 な主体の参加 を支援、調整、活用するととも に、地域連携 においては主体的な役割 を担 う」
つ まり、地方分権推進委員会 「中間報告」 ならび に国土審議会 「計画部会調査検討報告
」
のいずれも、地域づ くり過程 において住民 自身による主体的な参 画 を最優先 に位置づけている。そ して、そのような 主体的な地域づ くりの結果は、自らの選択の帰結 と して受け止めるべ きであるとい う自己決定 ・自己責 任の原則が明確 に打 ち出 されている。
地方 自治体の側で も、この ような考え方に積極的 に対応 しようとする姿勢がみ られるようになってい る9。ただ、このような国 ・中央の論理 には、 とくに 次の点で気 をつけてお く必要があると思われる。
第1に、国 ・中央 による論理展開の背後 には、過 疎地や島 しょ部のような条件不利地域 における 「ナ ショナル ・ミニマム」の問題 を等閑視 したまま、責 任 をそれぞれの地域 に押 しつけようとするおそれが あることにも注意 しなくてはならない。
中国地方の条件不利地域 においては地域づ くり活 動が全般 に活発であるが、そこには、基本的な生活 条件の整備が不足 したままで現状 を放置すれば、地 域社会がいずれ消滅 して しまうとい う危機意識の も とで、地域づ くり-のまさしく直接的な参画 を余儀 な くされているとい う追いつめ られた状況 をうかが うこともで きる。地方分権が進め られるなかで、こ れ らの条件不利地域 をいかに して支えるかは、別途 検討 しな くてはならない重要な問題である10。
第 2に、第 1点 とも関連 していることであるが、
国土審議会 「計画部会調査検討報告」 にみ られるよ うに、行政の側では自発的な地域づ くり活動 を 「従 来の行政では十分に対応 しきれなかった分野を補完 する
」
といったとらえ方 を していることである。 こ の側面が過度に強調 されることがないか どうかにつ いても気 をつけておかな くてはならない。主体的な 「個
」
の確立それはともか く、住民の側で も自発的な地域づ く り活動 を通 じて、地域の政策形成過程への主体的な かかわ り方 をしだいに学習 しつつあるとみ られるこ とは期待 してよいのではないか。たとえば1996年の 新潟県巻町や沖縄県における住民投票、最近の各地 におけるオンブズマ ン活動などは、そのような学習 効果の具体的なあらわれ とみることもで きよう。
長谷川公一は、今後の社会運動 を変えてい く 「武 器」 として、情報公開制度、株主代表訴訟および住 民投票の3つをあげているが11、そのような条件整備
もようや く本格的に進め られようとしている。
旧内務省時代か ら地方 自治の問題に深 く携 わって きた長野士郎 ・前岡山県知事が よくい うとお り、地 方分権は、結局の ところ 「人間と社会のあ り方の問 題」である12。地方分権 を主体的に受け止めるために は、自らの地域の問題 を自ら考え自ら行動すること がで きる強い 「個」が確立 されていなければならな い。
A.
ド・トックヴイルによれば、国家 とい うレ ヴァイサ ンに対抗 して民主政治 を安定 させ る条件 は、地方 自治 と自発的な結社であるとい う。その意 味で、今 日の私たちは、一人ひとりが地方分権 を通 じて主体的な地域づ くりへのかかわ りのあ り方を問 われているといえよう。1980年代 に入 った ころ、間場寿 - (1983)は、
「"地方の時代''の政治の行方が、この作品の出来具 合、つ まり各地の運動や政治的出来事の帰趨 によっ て鋭 く刻印 される側面 に注 目したい
」
との期待感 を 示 したことがあるが、みてきたようにその後の動 き ははかばか しい ものではなかった。 しか し、いまや ふたたび 「新たな地方の時代」の行方をあ らためて 注意深 く見守ってい く必要がある。<註>
1 地 方 分権 の流 れ な どにつ い て は、 関西経 済連 合 会 (l靭1)、水口憲人ほか (1993)、沼田良 (l朔 )、新藤宗 幸 (19%)、坂田期雄 (1㈱ )、伊藤敏安 (1997)などを 参考に整理 している。
2居安正 (1983)は、旧態依然たる町内会 ・部落会の存 続が 「住民の 自治体への参加 を方向づけ、 自治体 自治 のあ り方 と、ひいてはわが国の政治のあ り方 を規定す ることとなった」 としている。
3国土総合開発法については、福士昌寿 (1973)、中道実 (1983)などを参照。
4「地方の時代 シンポジウム」 をめ ぐる動 きやその成果に ついては、坂 田期雄 (1996)、新藤宗幸 (1996)などを 参照。
5中道実 (1983)を参照。
6たとえば中国地方で も、鳥取県市町村振興交付金制度 (創設 1989年度)、住 んで幸せ しまねづ くり事業 (同 1991年度)、岡山県 地域振興事業交付金制度 (同1982 年度)、広島県地域づ くり総合補助金制度 (同1卿 年度)、 山口県離 島 ・過疎地域等活性化対策事業補助 金制度 (1985年度に従前事業 を充実 して名称 を変更)などの事 業が実施中である (中国地方総合研究セ ンター 『中国 地域の経済 と地域開発 1卵7』を参照) .
7加茂利男 (1995)、水口憲人 (1993)などを参照。水口 によれば、地方分権論 には、 1)中央政府のスリム化、
2)地方 自身の決意表明、 3)住民 自治 とい う 3つの 側面があ り、前者 2つを 「団体 自治型」 としている。
8新川達郎 (1993)、遠藤宏一 (ln3)などを参照。
9たとえば宮城県地方分権推進検討委員会が1 995年 3月 に発表 した 『地方分権の推進 に関す る報告書』 で も、
行政サー ビス格差の発生は 「自らの責任で個性や多様 性 を追求 した結果において選択 した もの として受け止 め られるような地域住民の 自治意識の酸成が必要
」
と されている。10私は、中国地方総合研究セ ンターにおいて 「地方分権 と広域的行政のあ り方に関す る調査研究」に取 り組ん でいるが、そのなかで小規模町村の維持のあ り方など を検討中である。
ll1朔 年 9月8日付け日本経済新聞による。
12たとえば l卵7年 1月6日付け 日本経済新聞を参照。
同志社社会学研究 NO.I,1997
<参照文献>
開場寿- 1983「地域社会 と政治」閉場寿一編 『地域政治 の社会学』世界思想社
会田彰 1983「生活意識 と政治意識」 閉場寿一編前掲書 地方 自治制度研究会編 19% 『地方分権推進ハ ン ドブ
ック (改訂版)』ぎょうせい
遠藤宏一 1993「地方分権 ・自治体再編 と税財源配分問 題」 自治体問題研究所 ・水口憲人編 『広域行政 と地方 分権』 自治体研究社
福士昌寿 1973「経済計画 と社会発展」松原治郎編 『社会 開発論』東京大学出版会
蓮見音彦 1980「地方 自治体の構造 と機能」蓮見音彦 ・奥 田道大編 『地域社会論』有斐閣
伊藤敏安 1995「地方分権の推進 と広域 的行政のあ り方」
『リサーチ中国
』
第鶴巻第557号伊藤敏安 1卵7「戦後における地方分権 と広域行政の流れ
」
『リサーチ中国』第鵡巻第571号
居安正 1983「地域組織 と選挙」 閉場寿一編 前掲書 加茂利男 1靭5「地方分権の課題 と現実」遠藤宏一 ・加茂
利男 『地方分権の検証』 自治体研究社 関西経済連合会 1991「関経連四季報」第2 5号
松原治郎 ・山本英治編 1975『住民運動一現代のエスプリ NO9-.3』至文堂
水口憲人 1993 「広域行政 と地方制度改革の課題」 自治 体問題研究所 ・水口憲人編 前掲書
中道実 1983「地域開発 と環境保全」開場寿一編 前掲書 沼田良 l卿 『地方分権改革』公人社
坂田期雄 1㈱ 『地方分権への シナ リオ』 ぎょうせい 新藤宗幸 19% 『地方分権 を考える』日本放送出版協会 新川達郎 1g)3「地方制度改革に関する諸提案の特徴 と実
現の可肘生」自治体問題研究所 ・水口憲人編 前掲書 矢田俊文 1991「日本の地域構造 と西南経済圏」矢 田俊
文 ・今村昭夫編 『西南経済圏分析』 ミネルヴァ書房