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<研究ノート>一九三七年における棚橋小虎と社会大 衆党

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(1)

衆党

著者 中島 さくら

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 72

ページ 50‑76

発行年 2009‑09‑30

URL http://doi.org/10.15002/00011584

(2)

一九三七年は第二○回衆議院議員選挙のあった年であり、七月に日中戦争が勃発し国内が一気に戦時体制へと変貌した年であった。その年を自らの新たなスタート期として定め、政治活動を展開していった棚橋小虎という政治家がいた。棚橋は黎明期に活躍した労働運動家であるが、その年は社会大衆党(以下、社大党と略す)に属していた。棚橋はこの一年をどのように送ったのか、また時勢によって社会大衆党が変貌していく中で、どのような心境を抱いたのか。以上のような点に留意して、一九三七年における、棚橋小虎と社会大衆党の動向を明らかにしていきたい。 法政史学第七十二号

研究ノート

九三七年における棚橋小虎と社会大衆党

はじめに この点に関して棚橋小虎個人を扱った先行研究は見あたらない。社大党の革新政策について扱った研究には有馬学「日中戦争と社会大衆党’一九三○年代における「運動」

と「統合』(一〈。」がある・この研究では、社入党の「革新

政策」の正当化の論理が解明されている。しかし、社大党の日中戦争直後の具体的な政策に関しては言及されているものは少ない。本論文は、社大党の一九三七年の総選挙に関しては高橋

彦博氏の「社会大衆党の仇梛」に、社大党における幹部の

位置づけに関しては成田喜一郎氏の「社会大衆党における

「新党遮鯲芒に依拠し、日中戦争勃発直後の社大党の具

体的政策に関しては中村勝範氏の「民主社会主義の系譜l(4)社〈君大衆党史」にそれぞれ依拠するところが多い。しか

中島さくら

五○

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1選挙戦とその結果最初に棚橋小虎の略歴を述べておこう。棚橋小虎は一八八九年、長野県北深志町徒士町(現、松本市)に生まれた黎明期の労働運動家である。棚橋は、旧制松本中学校を卒業後、長野県東筑摩郡(現松本市)の和田小学校において代用教員を勤めたのち、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業した。そして、この学生時代に、麻生久、山名義鶴等と共に、H本初の学生による革新運動グループを形成した。彼らは吉野作造らの黎明会、東大新人会の組織化にかかわり、労働団体友愛会を改革してそのリーダーシップを握り、無産党組織の有力な一角をなした。こうして棚橋は労働運動に身を投じ、麻生久等と共に普選の実施と同時に政界への進出を活動の主軸とする し、これら従来の研究は棚橋小虎の動向に関しては一一一一口及していないのである。

本稿においては、考察にあたって「棚橋小虎乢祇」、「棚 橋小虎同筆鳳榔」、「林虎雄L劃」、内務省警保同保安課 「特高外事比樅』、信濃毎日新聞、さらに社会大衆新聞を

利用して当該期を再構成する。

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) 棚橋小虎と第二○回総選挙 4つになっていた。そして、一九一四年、病気療養を機に淡路洲本に転居するが、一九二七年に河上丈太郎らとH本労農党を組織し、以後n本大衆党、全国大衆党、社会大衆党などに参加した。戦時中は東亜連盟に入り、大政翼賛会への接近を試みるが実現せず、戦後、社会党から衆議院議員となったが、一時公職追放の身となった。一九五○年から参議院議員を二期務め、社会党が分裂すると民社党に属(9)した。引退後、一九七一二年に八十四歳で死去している。一九一一三年に合法無産政党の社会大衆党が結成され、棚橋は同党に属したが、淡路での十年以上にわたる生活を送る中で、政界進出を視野に入れていた棚橋は、「この地に(、)いても発展の可能性はない。」と考え、一九一一エハ年十一月に郷里の松本に戻った。その直後の一九一一一七年二月一一Ⅱ、林銑十郎内閣が成立するが、同年一一一月三十一日、予算成立後に抜き打ち解散を行い、同年四月三十Ⅱに総選挙が行われることとなった。社大党は前年、一九三六年の総選挙において十八名の当選者を出し、約五十二万票を獲得していた。敗戦後の社会民主主義政党は、「三割の壁」をどうしても越えることができない状態が続いていた。それと比較して、天皇制国家体制の状況で、議席数・得票数ともに全体の一割に到達してい

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た戦前の社会民主主義政党・社会大衆党の成果は、大いに(u)注目されるべきものであった。この総選挙において、棚橋は帰郷直後であったが、このとき躍進を遂げていた社大党員として、長野県の第四選挙区から立候補した。長野県は県下を四つの選挙区に分けており、棚橋の立候補した第四区は、松本市・東筑摩郡・西筑摩郡・南安曇郡・北安曇郡から成り立っていた。しかし、棚橋にとってこの総選挙は予期していながらも、数十年間の空白の後に戻ってきた郷里での選挙であり、無謀な挑戦であるように思われた。特に、選挙母体の組織と地盤のないことは大きな問題であり、まずは選挙活動母体の組(、)織づくりから取り組んでいくこととなった。選挙活動の協力者には、青年団幹部で選挙事務長を務めた百瀬嘉郎や、県議の林虎雄がいた。さらに、地盤のなかった棚橋を全選挙区にわたって支持したのが、故・畔田明代議士のおもだった支持者であった。畔川明は、一九三六年の総選挙で、長野県第四区において中立候補ながら一(田)位当選するも、M年十二月に死去した代議士であった。棚橋らは、解散当日の一九一一一七年一一一月一一一十一日に、畔田派の有力者を捉えるとの方針を立てており、迅速な対応をして(u)いた。 法政史学第七十二号

さらに、東筑摩郡においては、社大党長野県支部連合の青年団幹部・和田小学校での代用教員時代の関係者・少年時代の生い立ちの地の人々、南安曇郡においては農民・旧

党の関係者の支持が得られて乢池・これに対し、西筑摩 郡・北安曇郡では伸び悩L池・

第四区の議員定数は一一一であったが、候補者は棚橋を含めて五名となった。棚橋の対立候補は、植原悦次郎(立憲政友会)・百瀬渡(立憲民政党)・内山竹一郎(立憲民政党)・(Ⅳ)田中耕(立憲養正会)であった。既成政党である政友へ万と民政党の植原と百瀬は、経歴や経験などからも当選は確実視され、実質的には残る一つの議席を三名で争うかたちと(旧)なっていた。そして選挙戦の展開の中で、いち早く戦線を拡大していた棚橋と、養正会・田中との新興勢力の一騎打ちとなるだ

ろうと予想されて乢越。特に棚橋は、既成政党など各方面

から一目置かれる存在となっていた。定まった地盤のない棚橋であったが、多年社会運動で売り込んだことや言論戦(別)が奮ったこともあり、各地で人気を集めていった。さらに、棚橋が力をつけていった要因として、東筑摩郡の青年層に人気のある百瀬嘉郎が選挙事務長になったこと、中学時代の同窓(インテリ層)が支持していたこと、初めての

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グラフ1 第20回総選挙長野県第リリ区得螺数(地域別)

’九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島)

霊面面零薮1

020004000600080001000012000140001600018000

候補者

植原(政友)

百瀬(民政)

田中(養正)

棚橋(社大)

内山(民政)

園松本市■東筑摩ロ西筑摩ロ南安迅■北安曇 参考信濃毎日新聞一九三七年五月二日、夕刊、-面により作成。

無産政党候補であったことがあげら払秘。このように、各

方面から注目されていた棚橋は、養正会の田中を一歩リードしており、選挙後も開票までは棚橋優勢と考えられて(犯)いた。しかし、ふたを開けてみると当選したのは植原・百瀬・(出)田中であり、棚橋は次点で落選してしまった(グラフ|、参照)。実は、この背景には、上塙場で棚橋陣営に大打撃を与える出来事があったのである。和田小学校で教員を勤めたこともあり、教育界に大きな支持のあった棚橋だが、養正会派によって、棚橋が共産主義者であると悪宣伝され(型)たため、教育界からの支持を失ってしまったのである。惜敗であった選挙結果から見て、この出来事が無ければ結果は変わっていたのではないかと考えられる。選挙後、社大党長野県支部連合会の拡大執行委員会において、第四区の選挙結果について議論がなされ、選挙基盤が弱体であるにもかかわらず候補を決めたことについて指

摘があ久越・しかし、「第四区の失敗は失敗であるが、党 拡大の為には効果もあった」という意見も挙げら仏越・先

述の悪宣伝の点も考慮して、短い選挙活動期間において次点落選であった棚橋は、健闘したと一一一一口えるだろう。地盤の弱い棚橋が、これだけ善戦できた背景には、第四

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尿癒蒄覇厩覇癖読蔑霧一一一~ ̄T ̄ ̄--■’

菫二三~■■

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(6)

グラフ2衆議院党派別議席数(1936.1937年)

法政史学第七十二号

。Ⅱ付和会□l玉l氏l可IMilU床

936丘

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参考山室建徳「社会大衆党論」(近代日本イリ|究会「年報・近代「1本研究一五一昭和期の社会運 動」山)||出版社、一ノL八三年)一八頁に所載の「衆議院党派別議席数」の表により作成。

(註)参考にした、上記「社会大衆党論」の「衆議院党派別議席数」では、一九三七年の社大党 の議席数は「三六」となっている。これは、同年の総選挙で栃木県第一区で当選した石山寅 吉が選挙直後に死去し、当初の獲得議席数の三七議席より-議席減っているためである。

区において既成政党への棄権率が高かったこと、民政党が

候補者を二名出したため、票割れになったことがあっ(池・

このことは、この総選挙において、既成政党に対する国民の不信により、新興勢力の進出が可能になったことを物語っている。その一方、棚橋は無産政党候補として、労働者階級から大きな支持を得ていたとは言い難かった。南安曇郡では農民層から支持を受けていたようであるが、第四区全体を考えると、その傾向は薄かった。労働者の組織がなく、昭和初頭の経済恐慌で荒廃した農村であったが、大体は階級意識に目覚めず、主として専ら一部知識階級の支持がもたら(犯)した善戦であったのである。社大党全体としては、全国六十二選挙区において、六十(”)六名の候補者のうち三十七名の当選者を出している。最高点で当選した者は十九名おり、さらに東京第六区の鈴木文

治は全国最高点であっ(趣。供託金を没収された者は一名、

(、)落選者にしても次点落選者は八名に上り、相当の善戦であったことがうかがえる。この総選挙は社大党に予想以上の成果をもたらした。一九三六、一一一七年の社大党の「大躍進」は、戦前の社会民主主義政党が到達した「最高の地(犯)占些と位置付けられている。社大党が獲得した議席数とし 五四

(7)

2棚橋派の選挙違反事件選挙は一段落したが、棚橋の周囲は落ち着かなかった。選挙直後に、棚橋派の幹部が選挙違反被疑者として多数検挙されたのだった。五月二日の正午までに、十五名が買収

饗応の嫌疑で取り調べを受けf脚、県議の林虎雄が留置関

係者の釈放を求めるなど奔走し、取り調べ終了後に逐次帰(弧)宅が許された。しかし、五月四日に幹部二名が松本刑務所

に起訴前の強制収容を包泄、五月六日、さらに数名が検挙

(妬)され強制収容となった。最終的に、選挙事務長を務めていた百瀬嘉郎等六名の幹部が公判に付され、禁固刑や懲金刑

の判決を下されに脚、百瀬は後に執行猶予となった・当

(犯)

時、選挙違反は珍しいことではなく、違反者が検挙されることも多々あり、社大党全体でも、この選挙において各派の関係者に違反者を大勢出している。

治安当局の厳秘資料には「社会党関係選挙違臓」が列挙

されている。要約すると次のようになる(「特高月報」一九三七年七月分)。 ては全体の一割弱であり、既成政党には遠く及ばないが、この選挙において第三党としての地位を確立したことには大きな意味があるだろう(グラフ|「参照)。

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) 東京第一区候補者河野密派一件東京第一一一区候補者浅沼稲次郎派三件東京第五区候補者三輪寿壮派三件東京第五Ⅸ候補者麻生久派三件東京第六区候補者鈴木文治派二件東京第七区候補者中村高一派九件神奈川県第一区候補者岡崎憲派四件神奈川県第二区候補者片山哲派四件埼玉県第一区候補者松永義雄派一件群馬県第一区候補者須永好派五件栃木県第一区候補者石山寅吉派八件岐阜県第一一一Ⅸ候補者加藤錬造派十二件愛媛県第二区候補者林田哲雄派(落選)八件この選挙違反記録では、検挙は関東地方において多く、棚橋派の選挙違反の一件は記録されていない。資料は一九三七年六月一一十日発行であるので、棚橋派の一件が記録されていないのは単なる調査漏れの可能性もあるが、関東地方以外の地域の調査は手薄であったとも考えられる。そうであるとしても、治安当局が無産政党の動向を厳しく監視していたのは、事実である。それを示す、社大党本部から地方組織への、以下のような通達がある。

五五

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過ぐる総選挙並に今回の市町村会選挙戦に於て、当局が採り来りたる選挙取締並に違反摘発は、その度を越へ故意に犯罪を構成せんとする意図露骨なるものありとの批難があります。為めに我党候補者或は、選挙委員中に於てもその疑ひを受けしもの少しとせず、依って党本部は速やかにその実情を調査の上、これが対策並に当局への抗議を起さんとして居ります。依って各府県連合会並に支部に於ては、此際至急該問題に対する詳細なる具体的調査資料を送られたく、右至急通達します。(「書記局通達第二号」社会大衆党本部書記

局、一九三七年五月一一払肥)

これを要約すると、一九一一一七年の総選挙や市町村会選挙において、治安当局の取り締まりが度を超しているため、社大党関係者も多数、疑いをかけられている。治安当局への抗議をなすため、具体的調査資料を急送せよ、ということになる。ここから、社大党は、治安当局による厳しい取り締まりを受けていたことがわかる。社大党はここへきて急速に発展したがために、風当たりが強くなったのである。社大党がとるに足りない弱小党派である間は、治安当局も甘く見過ごす傾向があるが、国政レベルで第三党、大都市で第二党、時には第一党と成長すると社大党を見る目 法政史学第七十二号

は厳しくなる。もちろん、岡田啓介内閣以降の選挙粛正により、厳しく取り締まられたのは社大党だけではなく、全国的な傾向であったが、社大党の躍進、選挙戦の健闘も相(u)侯って、棚橋等も厳しい監視下に置かれたのである。また、社大党全体で候補者自身の違反は、大阪第四区より立候補し、最高点を以て当選した川村保太郎のみに止(蛆)まっている。この北同景には、社大党が既成政党の買収行為を批判し、選挙粛正の徹底を主張し続けてきたことがあり、それが候補者自身の選挙活動に反映されていたのではないだろうか。棚橋派の事件の場合も、棚橋自身が関わっていたという事実はない。しかし、選挙事務長という、選挙の中枢となるポストの、百瀬嘉郎が検挙されていることを考えると、棚橋自身もこの事実を把握していたか、事件に関与していたのではないかと推測できる。また、こまめに日記を記してきた棚橋であるが、一九三七年四月一二日~同年五月二十二日における期間の日記が欠落している。この期間はちょうど第二十回総選挙の選挙活動期間にあたり、その部分だけ欠落しているのは不自然である。これに関しては、一九四五年七月一一一十一日の棚橋の日記に「昭和十二年総選挙の

書類を処分土秘・」という記述があるため、この時に選挙

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期間の日記を処分した可能性が高い。戦時中、棚橋は社会主義者といわれ、特高や憲兵等の権力機関から風当たりが強かった。そのために、自分に不利になるものは処分し、監視のUを掻い潜ろうとしたのかもしれない。そう考えると、棚橋がこの選挙違反事件を把握していたために、その証拠となる日記を処分した可能性があるが、真相は究明できなかった。以上、棚橋小虎の第二○N総選挙における動向について概観してきた。棚橋は、瀧進を遂げていた社大党から立候補した。結果は次点落選であったが、新天地においての選挙戦ということを考えれば、健闘することができたと言える。選挙違反事件が発覚してしまったが、棚橋にとっては、将来に期待の持てる第一歩を踏み出せた。また、社大党は第三党としての地位を確立したが、官憲などからの風当たりはますます強くなっていったと言える。

1麻生久の『陸軍パンフレット」支持一九一一二年の満州事変以降、日本の軍国主義化はますますその速度をはやめ、本来社会主義政党である社大党も急速に右へ右へと展開していった。社大党の急速な右旋回は

’九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) 二社会大衆党の右傾化 幹部の独走によるものであるが、この進行を党員たちはどのように受け止めていたのだろうか。また、一九三七年の段階においては、日中戦争の勃発に積極的に対応するべく党の方向転換を決定づけている。この党の方針に対して、党員たちに異議はなかったのだろうか。本章では、社大党右傾化の動向と、一九三七年における棚橋の社大党右傾化に対する見解を明らかにしたい。一九三四年十月に、陸軍省新聞班から発行されたパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」(以下「陸軍パンフレット」と省略)は、陸軍の政治・経済への関与の意向を示すものとして、議論をまきおこした。その内容は、国民生活の安定と国防国家の建設とは調和すべきものとし、そのための全体主義的統制経済を提唱したものであった。政友会・民政党などは、これに強い反発を示した。ところが、社大党書記長麻生久は同文書の社会主義的傾向を評価する立場を示していた。当時の社大党は、軍国主義という情勢の中、唯一の合法無産政党としてその活動を制限されつつあり、党勢は伸び悩んでいるというのが現状であった。この様な状況の中、麻生は『陸軍パンフレット」に対して社会主義的傾向を見出し、この軍の傾向に便乗して党(必)勢の活路を見出そうとしていたのであった。

五七

(10)

この様な状況のとき、「民主社会主義の系譜’十九l社会大衆党史」(「革新」通号七十一号、民社党本部教宣局)

の中で中村勝範氏は、「党の指導者のとるべき趣」は三つ

あるとしている。要約すると以下のようになる。『具体的な運動を展開せず、なりゆきにまかせる。この場合、結果としては次の二つに細分化され

る。

(イ)従来の主張は放棄して、なりゆきにまかせ無為に過ごすもの。信念の風化。(ロ)自己の信念は内なるものとして堅持するが、時勢に抗って信念を行動化させることはしない。この二点は最終的に、具体的な運動を展開しないため、外にあらわれる面は無為として同じである。一一、主義主張を時勢に抗って守り続ける。この場合、結果的に党勢は現状維持すら困難となり、自滅してゆく。三、現状維持を打開させるために、利用できるものは利用する。この場合、政党の指導者は政党を生かすために現実に妥協しなくてはならない。このように考えた場合、麻生は『陸軍パンフレット』の 法政史学第七十二号

中に社会大衆党の主張と相通ずるものがあると解釈し、潮流に妥協した第一この道をとったと一一一一口える。この麻生の行動に対し、石濱知行は「改造」(一九三一

年十一月号)「国防パンフレット胤馳」において、鋭い批

判を展開している。それは、「陸雨パンフレット」が農村漁村を救済することを提唱し、国民大衆の貧困を是正しなくてはならぬと一一一一口うのは、それ日体の目的のために主張されるのではなく、国防と結びつけられるときのみ問題となるのである、という指摘である。麻生はこの「陸軍パンフレット」の内容を、軍の社会主義的傾向と評価したが、石濱は、やはり社大党と「陸軍パンフレット』とは、本質において全く異なるということを明示している。では、棚橋は「陸軍パンフレット」に対する麻生の積極的評価をどのように考えていたのであろうか。棚橋は、パンフレットの記述は、資本主義の無制限の発展と恐意のためにいわゆる無産階級との対立を激成して階級的分散を不可避ならしめ、これが社会悪の根源をなしているといい、この弊を除去して産業経済の発展が無産階級の福祉を増進する国家社会主義の体制下において初めて両者の調和がなりたつとする思想に立つ点では、一応理解できなくはないが、今、軍部が強力に椎 五八

(11)

し進めている軍部独裁がはたして何を目指しているかを考えるならば、このパンフレットをそのまま鵜飲みにして支持することははなはだしく楽観すぎると一一一一口わ(灯)なければならない。と考えたのであった。さらに、日記には大要次のように記している。しかし翻って考えればこのパンフレットに反対すればたちまち軍部の弾圧の下に鎧袖一触、組織は共産党や全協の轍を踏んで吹き飛んだであろう。また労働総同盟のように「罷業独立宜一一一一m」を発し銃後の生産力増強を運動方針に盛り込み当らず、触らず合法的存在の余地を残して生き残ろうとしても、戦争の進行は自由の競後のひとかけらも残すことを許さなかったのを見れば、麻生のようにいち早く軍部の方針を支持して、行ける所までこれと側調し、協力体制を採りながら、あわよくばそれを利用して臨機発展の策を識ずることも、その時代としてはやむを得ない一つの方策であっ

たのかもし札鮒・

前半では、麻生の「陸軍パンフレット』支持に対して、やや否定的な考えが示されているが、後半では先に紹介した第三の道をとったことを肯定しているように読み取れ

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) る。つまり、麻生が政党を生かすために現実に妥協しなくてはならなかったことを理解し、客観的に見直しているのである。おそらく、前半の見解は棚橋が『陸軍パンフレット』問題の起った臓後に示したものであり、後半の見解は途中「その時代」と表現していることから、後年に記したものであろう。つまり、一九三四年の時点での棚橋の「陸軍パンフレット」支持に対して冷ややかであったと言える。また棚橋は、一九三四年は淡路に隠遁しており、党活動にはほとんど参加していなかったようだが、一人の社会主義者が「陸軍パンフレット』支持論に地力において静かに反発していたのだと考えたい。このとき社会大衆党には、三つの思想的潮流があったとされている。それは「昭和十年社会運動年報」(新洋社、一九一一一五年二月発行)において次のように分類されている。

「麻生久を中心として亀井負一郎、川所輝明、平野学、浅沼稲次郎、松本淳三らの旧日労党系lこの派は多分に国家社会主義的態度を持しているように見える。このことは陸軍パンフレットに対する支持意見が麻生、田所より吐露されたことによっても明瞭に観取される。

五九

(12)

二、安部磯雄を中心とする片山哲、松岡駒吉、西尾末広らの旧社民系lこの派は社会民主主義的。また労働組合主義的態度を持し旧社民党の伝統を死守している。

一二、鈴木茂|二郎、吉川守国らを中心とする岡田宗司、小堀甚二、磯崎真助らの旧労農派lこの派は理論的には山川均の共同戦線党、合法共産主義を奉じ(⑲)ている。以上のように分けられるが、旧社民党系の属する労働団体は労働組合主義に偏重し党活動には積極的ではないため、結果的に党の主力は麻生派、つまり旧日労党系によって握られていたのである。麻生の「陸軍パンフレット」に対する支持論は、先に紹介した反対意見があったように、すぐに党内で受け入れられたわけではなかった。しかし、当時の社大党は低迷していたために、麻生の代わりに党を背負って立つという者もなく、自然に黙認の形となっていたようである。麻生の「ファッショ的傾向」に対し、反対の態度を強く示したのは旧労農党系であった。とくに、一九三六年の第十九回総選挙時には、彼らは「ファシズムか民主政治か」という評価基軸を据えて選挙活動にのぞみ、自党候補の麻 法政史学第七十二号

2社会大衆党の戦争協力第二○回総選挙は、一一一十七名の社大党議員以外にも社会主義者の議員を生み出した。他方、既成政党の民政党は減少し、政友会は微増となったが、両者とも林内閣の与党ではなかった。林内閣の与党もいうべき昭和会は、三名減の十八名、準 六○

生の選挙運動を拒絶したので九測・式」らに、党外にあって

「ファシズムと軍事予算反対」を叫んでいた加藤勘十の応(皿)援を-)たのであった。しかし社大党はこれらの反ファシズム諸勢力を「分裂主義者」として批判し、その結果、旧労農党系は離脱に至っている。以上の事態を成田喜一郎氏は「社会大衆党における「新党運動」」において、一九三六、一一一七年に至るまでの社大党の歴史は旧日労党系と旧労農党系の党内抗争の歴史として論じている。そしてその間、旧社民党系は労働組合運動に重占似ておくことによって、社大党指導部内の麻生派の独走を許し、またそれを補完するという役割を果たしていたと位置づけている。以上のように、麻生の「陸軍パンフレット」支持を契機に麻生のリードする社大党は確かに右旋回していった。

(13)

与党と目されていた国民同盟は、増減なしで十一名であった。林内閣の解散は墓穴を掘った結果となり、同年五月三十一日に林内閣は総辞職となった。代わって同年六月四日に、近衛文麿内閣が成立した。社大党は近衛内閣が民政・政友両党より入閣を求め、国民同盟・旧昭和会・東方会をも抱き込むものであったため、「唯一の野党・唯一の革新勢力」としての立場をとり、「この政権の崩壊こそ庶政一新への道である。近衛内閣に

よって政治戦線は明確に革新、現状維擬」に二分されたと

断定したのだった。しかし、同年七月、盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発すると、日本国内では戦争遂行のための「東亜新秩序」建設、総力戦体制の構築を基本とするファッショ的スローガンが盛んに宣伝されるようになった。国家興亡の戦争になると、社会主義政党及び労働組合は従来の反政府・反国家の姿勢から戦争協力へ転換せざるを得なくなる。国の独立が確保されて初めて、無産階級の独立が可能だからである。社大党も唯一の野党・唯一の革新を誇示できなくなったのである。七月七日に盧構橋事件が起こり、十一日には各政党の代表者が首相官邸に招致され、戦争協力を求められている。

’九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) 社大党からは委員長の安部磯雄が出席し、挙国一致を了承した。翌十二日、社大党本部中央執行委員会において、安部の報告は了承されている。十三日には、同党各級議員に(記)対して「北支問題に就いて全党員の自重を要望す」という内容の指令を発している。これをもって、社会大衆党は挙国一致の姿勢をとっていくことを明確にし、党員にもその意思表示を促したということである。日中戦争を契機に社大党の戦争協力は着実に進められていくのだが、それでも棚橋は党の指導に対し不満を持ち、「社大の指導精神といふものも物足らない。党員は悩んで居る。それは戦争を排撃もせず左ればと言って積極的に支

持もできないその不徹底さから舩秘」と同年十月十四日の

日記に記している。さらに、十月十七日には麻生と話し、

「戦争に対する党の協力的態度を宣明するし蝿」があると

麻生が認めていたことをⅡ記に記している。では、社会大衆党の戦争協力的態度とは、どのようなものであったのだろうか。党の中央執行委員会は先の「北支問題に就いて特に全党員の自重を要望す」においては、「我党の態度」を次のように示している。党は更に所定の方針たる「広義国防」の見地に立ち、真の挙国一致を要求する。現代日本の資本主義的機構

一ハー

(14)

の下に於いては、一度国際間に紛争を惹起すれば、一般勤労階級は必然的に挙国一致を要求されるが、一方資本家階級は挙国一致の偽装の下に軍労工業による利潤を融合する、か、る経済機構は返って結局挙国一致(死)を破壊するものである。要約すると、社大党は真の挙国一致を求めるが、現代の日本の資本主義的機構の下で戦争が起きると、資本家階級は挙国一致の偽装の下に利潤を得ることとなり、真の挙国一致が成されない、ということである。これをふまえて社入党は、戦争の遂行が資本主義変革を必然化させるという

諭班を導入して、社会民主主義者にとっての戦争協力を正

当化させようとした。また、麻生は、この戦争が同家改革の契機となるものであって、戦いに勝つためには挙国一致が必要であり、挙国一致のためには国内の改革を避けることができない、つまり国内改革の上にのみ戦争の完全なる

勝利が吐秘という考えを示していた。このように、安部・

麻生らの考えは戦争に対し挙国一致の姿勢で臨むべきであるというものであった。党中央において、積極的にこの方針に反対する者はいなかったが、地方においては中央と異なる情勢もあったようである。例えば、反戦主義的な福岡・熊本県連合会や、左 法政史学第七十二号上ハー一

翼的な岡山・広島県連〈口会が挙げら払澱・党中央と-」て

は、これらの地方情勢が気がかりであったために、同年七月十四日に中央委員を派遣し、党中央の方針に反する行動のないように事前に、手を打っていた。また、党首脳部は事変発生後、しばしば会議を開き、事変に対し軽挙妄動をしないよう下部組織に伝達すると共に、もしも党本部の方針に反する態度をとるものがあれば、いずれも断固除名す(釦)ることを決定した。さらに、党組織統制強化のため、班・支部・支部連合の確立を推進し、政府並びに地方門u治体の時局対策に、積極的に参加し協力することを促した。さらに、党中央は党内の人民戦線的傾向が高まる状況を危倶し(皿)て、「反党的分子に対,しては断固たる処置をとる」との警告を発したのである。このように社大党中央は事変の発生直後から迅速に反応し、挙国一致体制に向けた党内椅理を徹底させていた。では、棚橋の言う「不徹底さ」とは何なのだろうか。これについて、社大党の事変後の戦争協力的政策の面から検討していきたい。社大党が挙国一致の姿勢を内外に示すために行った政策として、まず、応召家族の救援活動があげられる。それは同年七月一一十Hに「出征兵士歓迎並に家族救済に関す

(15)

肛他」の指令を各府県支部連合会に発送したことから始ま

る。この指令は、党員は出征者をねんごろに送ること、出征者の家族に困窮者がいたら救援の努力を払うこと、といった内容のものである。さらに、社大党は七月二十七日

に、「出征兵士家族生活国家補償法制度に関する決議穀」

を特別議会に提案している。この制度は入営または出征兵士のいる一家族に対し、月額五十円を支給するというもので、不成立に終わったが、実現されていれば挙国一致を逆手にとって国民の平等化の一歩となったかもしれない。また、八月十九日に地方党員に対して発せられた「応召兵士農家家族救援について」は以下のような内容の指令であった。

農業生産力の減退の防止のためには、(イ)応召農家々族に対しては部落中心の共同耕作共同経営を行ひ欠如せる労働力の補給を行うこと。(ロ)一般的救援活動と相俟って応丹農家の肥料及飼料を産業組合を通じて無償配給なさしむることo(ハ)応召農家の電気料は無料となさしむること。(東京市に於ては東電と交渉し実施

’九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) しつ、あり)(“}j(二)応召農家の農舎費は免除せしむること’こちらも実際に実現されていたならば、農民の生活の向上につながっていただろうが、全面的に行われる可能性はなかったのである。政策の部分的な成果としては、東京市会において「窮乏出動兵士家族救済員会」の設潰を、平野学の名をもって提(妬)隅し、実現三」せたことが指摘できる。これによって、出動兵士家族のガス・電気料金・水道その他の免除が実現した。また、第七十一回特別議会において、逓相・陸相・海相に対し出動家族のラジオ無料聴取を要請し、これまた実(妬)現式」せている。|力、社大党栃木県連〈口会は、県知事に「出征兵士家族の国庫補助の充実」などの銃後運動の緊急(師)具体策を要請したが、何等の成果jb得られなかった。以上のように、応召家族の救援活動は積極的に運動しているものの、実を結んだものは一部であり、特に地方では要求を実現させることは難しかったようである。その他に、挙国一致体制作りの動きとして、社大党は党内の一一一一口論統制を行っている。八月十一日に社大党中央執行委員会より発せられた「事変下に於ける我党の運動につ(船)いて」という指令には、党本部と共に統制統一ある行動を

一ハ’一一

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とること、言論集会について「時局批判の演説会は当分遠慮ざれ度し」と命じていた。さらに、同日の「全国遊説中

止並に連絡統制に関する通騨」では予定されていた遊説演

説を、時局の重大性に鑑み中止するとした。このような姿勢からも社大党の挙国一致体制への積極的参加が見られ

る。次に、社大党の議会における予算委員会での動向を見てみたい。予算委員である片山哲らは、盧溝橋事件後、第一次・第二次と追加予算案が提案されるのに対して、政府の

戦争不拡大方針への希望を示しながらも賛成し池・さらに

第七十一一回帝国議会においては、政府が不拡大方針を変更(刀)して拡充した戦時体制臨時軍事費にも賛成した。こうして、社大党は予算審議の上でも戦争協力の姿勢を積極的に示していた。このように、社大党は日中戦争開始とともに、近衛内閣の挙国一致方針に一分の隙もないほど、協力する姿勢を示してきたのである。先に述べた銃後運動でも、地方に対する挙党一致体制の推進は徹底していたと言って良いだろう。そう考えると、棚橋の言う社大党の「不徹底さ」を政策・党内統制面から考えるのは難しいと思われる。では、思想の表れ方の面ではどうか。先にも述べたよう 法政史学第七十二号

に、軍部が大きな力を掌握していた一九三七年、ひとたび戦争が始まってしまえば軍国主義の気運はますます高まり、必然的に反戦を唱えられない時局となった。従来、社会主義者は帝国主義の戦争に反対であった。しかし、この日中戦争に異議を唱え、政府の方針に逆らいながら、組織の実態を維持し得た団体は存在しない。社大党もこぞって挙国一致の態度に変貌したのだった。社大党の幹部たちは挙国一致を通じ社会主義化をなし得ると唱え、挙国一致論を正当化していた。しかし、党内には対応の異なるものもいた。例えば、委員長の安部磯雄や片山哲の態度は冷静であった。安部は同年九月二十二日に各党の代表と共に、東京中央放送局より国民精神総動員運動について放送し、社大党の政府支持を宣言した。その具体的な内容は次の四点

である。一、軍人の留守家族の生活の安定のために力をいれる

こと。二、事変の進展に伴う財政上の支出は公債ではなく、増税にすること。三、われわれの生活様式の改善を徹底的に行い、日常生活における浪費を少なくすること(節約、衣服の簡素化など)。

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四、中国の国民政府と戦火を交えているが、支那人全部を憎んでいるのではなく、「支那人というものの将来は東洋民族として吾々国民は提携して行か(わ)ねばならぬ」ということ。これを要するに、安部の放送は、戦争賛美の言葉や神がかり的な思想もなく、国民としての義務を冷静に説いたものであった。また片山は「銃後の社会立法」(「文藝春秋」一九三七年十一月、事変増刊号)の中で、銃後を獲るという観念に二つの見方がある。一つは出征将兵の家族の生活を窮乏せしめないようにしたいということであり、一つはこの意味を更に拡張して国民一般の生活力を充実し以て長期戦にも耐え得る準備を(刀)なすことが必要だという見方とである。と述べている。そして、出征兵士の家族の生活安定を計るためには巨額な費川を伴うため、その予算がなるべくかからない方法として、国民生活安定を目標とする社会立法を制定することと、勤労者保護政策の確立を提案している。この片山の主張から、自党の勤労者保護の立党の精神を貫徹しようとした姿勢が見られる。つまり、片山も安部も、戦争に直面しながらも、民衆の

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) 生活擁護を、ぎりぎりのところで主張しており、従来の主張をかなぐり捨てて戦争に没入するということはなかったのである。一方、同年八月に皇軍慰問の派遣団として満州を視察した野溝勝は、満州から帰国して二カ月後に、「社会大衆新聞」(’九三七年十一月十五H、一面)に「精神総動員運動」という短文を書いた。その内容は皇室を中心とした日本民族発展の為めに、無き者は労働と肉体を提供するから、有る者、富める者は一切の財産を国家に奉還するという皇室即国家に帰一せしめるところの精神総動員運動をここに提唱するものである。というものであった。ここで注目したいのは、野溝が元は日本共産党と結びついていた労農党の党員であったこと、また、敗戦後は日本社会党に参加し、左派の有力な一員であったということだ。十年前の左翼、そして十年後にも左翼にかわる人物が、その間の戦時体制の中では皇室中心の挙国一致論者となり得たのだった。野溝は時流に巧みに便乗した一人と一一一一口えよう。また、麻生はマルクス主義を断ち切れずにいた。一九三一年の満州事変勃発当時、麻生は「帝国主義戦争反対」を

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唱え、かなりマルクス主義的な立場からの反戦論者であ(汎)った。ところが、先述の通り、一九一二四年に「陸軍パンフレット」が発表されると、軍部の動向の中に社会主義的傾向があるとしてこれを評価するようになった。つまり、ここに麻生の思想の転換が見られる。彼は時流を利用して自らが生き残る道を選んだわけである。ただ、この期に及んでも麻生は、従来等閑視してきた国家・民族の問題をマルクス主義的に合理化しようとし、戦争と資本主義の崩壊の必然性を説くことに必死であったのである。麻生は時流を利用しつつも、過去を潔く断ち切れないジレンマに陥っていた。このように、挙党一致・挙国一致を唱える社入党の中でもその反応は一様ではなかった。このようなことから考えると、棚橋自身も時流に乗りきれず、迷走していたのかもしれない。棚橋は表に出さなかったものの、盧溝橋事件勃発後、軍部官僚の独裁政治・帝N主義的侵略戦争へ抵抗姿勢を、一貫して持っていた様(だ)であった。また、一九一一一七年十月十四ⅡのⅡ記には、「〈7次、日支事変の意義に付て明確に把握が出来か、って(市)居る」とも記されており、これによればそれまでの間棚橋は戦争に疑問を持っていたものと思われる。 法政史学第七十二号

1社会大衆党第六回全国大会前章では、日中戦争開始以降の社大党の動向を概観してきたが、本章では一九三七年十一月十五日に開催された社会大衆党第六回全国大会と、社大党が派遣した皇軍慰問団の北支視察について紹介し、その意味を考えたい。 党の政策や統制の面から言えば社大党は完全に戦争を支持していたと言えるだろう。しかし、社大党がいくら挙国一致と国家革新に繋がりを持たせても、棚橋が党の指導に疑問を持ち、積極的に戦争を支持出来ぬ不徹底さを嘆いていたのは、自身や党員たちの中にある社会主義者としての信念を捨て切れなかったためと思われる。以上、麻生の「陸軍パンフレット」支持に表れているように、右傾化してきた社大党は、Ⅱ中戦争の勃発に伴い、いっそう挙国一致の姿勢を顕著に示した。しかし、その姿勢の示し方は、党員によって様々であった。棚橋のように、思想の転換に悩み、積極的に戦争を支持できないと考えていた党員もいたことは、棚橋の日記からわかる。とはいうものの、自らの思想を貫き通すことは刷難な時勢であったのである。

三方向転換 一ハーハ

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前章において、麻生が「戦争に対する党の協力的態度を宣明する必要」があると述べていたことを紹介したが、それは一九三七年十一月十五日の社会大衆党第六回全国大会に示されることとなった。この大会で社大党は、「支那事変」を「支那の植民地化、共産化を絶滅することによって、支那に固有の歴史と民族性に基く自主的民族国家を建設せしめ、H満支三国を枢軸とする極東新平和機構を建設し、人類文化の発展に貢献せ(万)んとする日本民族の聖戦である」と幸趣味付け、侵略戦争を賛美したのであった。また、「戦争体制の健実化」、「国民経済の計画化」、「挙国一致の積極化」という「戦時政策の

三鳳躯」を掲げ、従来の「階級運動」から「国民運動」へ

くわ〉の「発展」を説いた。そして新綱領として「我党は剛体の本義に基きⅡ本国民の進歩発達をMり以て人類文化の向上を期す。「党は勤労大衆を代表して資本主義を改革し以て産

業の計画化と国民生活の安定を肌池・

が可決された。ここに、社大党が従来の階級主義を捨てて国民主義的立場に立つことを明らかにしたのであった。この大会は、社大党が時代の異端児になることなく、進

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) んで時局の一端を担うことを党員に再確認させ、また日本国民にそのように印象づけることを目的とした機会であった。提出された各議案は異議なく可決されていったが、満場一致の拍手にもかかわらず、すっきりしない雰囲気があり、出席党員の心のわだかまりが表れていた。この大会に出席した棚橋の日記からも、その様子が読み取れる。今年の大会は綱領を改正してファッショ的になり、凡てが例年の大会と異なる。僕自身相当に事情に通じて居る者さへ怪訶に堪えない思う位だから、一般党員は大分様子が違ったであろう。然し大した議論も無く、

案は迅速に捌かれて征似・

という大会当日の日記の記述である。時の流れが抗しがたい勢いであることは、誰のⅡにも明らかであるが、流れに抗してこその無産政党ではないか。このような時流の中でこそ、自分たちの存在意義を示すべきではないかと不満を募らせた社大党員がいたことを示唆する記述である。このように、党員たちの不満が残る巾での、党の方向転換といえる大会であった。

2北支への皇軍慰問社会大衆党第六回全国大会では「皇軍将士に対する感謝

六七

(20)

決議」が可決された。「一衣帯水の祖国に在って悠々生業にいそしみ、国防の固きに安んじ得る我等銃後の国民は誠に感謝の念を禁ずる能わず、頼もしきわが皇軍将士の労苦

に対し心からなる敬意乙灘」したいとして、感謝決議をな

したのであった。これに対しても反対のしょうがなく、満場一致で決定となったが、すでに十年以上にわたる無産政党の理念になじまないことを表に出す者もあったようだ。これとともに、同大会は前線にある将士を慰問することも決定した。この決定にしたがい、感謝決議文をたずさえ戦線を慰問することは、社大党独自でできることである。時局担当者を自負する社大党は、社大党だけでできることはただちに実行したのであった。慰問団は満州・上海・北支の三方面の班に分かれ、第一陣の満州班は一九一一一七年十一月二十四日、上海班は十一月

二十八日、北支班は十一月一一一十日に出発し湖・各班の構成

員と動きは以下の通りである。満州班は麻生書記長、田原春次の二名で、零下四十度に及ぶ北満に将士を慰問し、大会において採択された感謝決議文を、植田謙吉関東軍司令官に手交した。次に上海班は、片山哲を団長とし、他七名と衆議院から派遣される同党代議士冨吉榮二を伴い、上海において松井石根最高軍司 法政史学第七十二号

令官に感謝決議文を手交した。そして北支班は河上丈太郎を団長とし、田万清臣、河野密、西尾末広、棚橋小虎等九名と、衆議院慰問団の浅沼稲次郎等三名を加えて天津にて寺内寿一最高軍司令官に感謝決議文を贈った。三方面への慰問団を送り出すにあたり、社大党はこれこそ時報を分担しようとするわが党の姿であるということを四囲に知らしめるために、盛大な壮行のデモンストレーションを工夫したのだった。慰問団出発に際しては、党員並びに友誼諸団体を動員し大々的に歓送した。棚橋の日記にも、地元の松本を発つ際に、「党員参集、急に長旗を作

り襟をつけて見送ることとなり大騒ぎをf秘」とあり、さ

らに党員や青年団など五十名ほどが集まり、「万歳の声に送られて出発」したと書かれている。「社会大衆新聞」二九一一一七年十二月十五日、|面)には慰問団出発の際、「輝ける我党本部旗を中心に、堂々東京駅の構内を圧するの観を呈し、送るもの、送らる、もの共に我党万歳を高唱」したとあるが、棚橋の松本での壮行会とほぼ同様のかたちであったことがわかる。このことから、「慰問団出発に際し本部に於いては派遣代表の壮行を全国に徹底せしむるために、各支部連合会、中央委員、全国委員、支持団体に対し通達を発し、通路関係方面に対しては歓送すべき指示を 六八

(21)

L趣」ことが、しっかりと実行されていたと一一一一口えるだる

》7oまた、慰問団として派遣された者は、揃いのカーキ服に巻ゲートル、軍靴といういでたちで、全国の党員大衆より託された慰問の金品を入れたリュックサックを背負って出(師)発した。棚橋の日記にも「兵隊の外套・靴・リュックサッ(閉)ク・雑嚢等を買う」と記されているが、慰問川で神-,から乗船する際に「河合義一満が武装いかめしく自動車に乗って居る。」「皆は早やゲートルをつけ、戦地に出掛ける装束だ。」としているのに対して、棚橋は「俺は中折帽でゲートルもつけていないし党のき章もないがそんな処も又面(的)白い」と自らの異端ぶりをも記している。棚橋の様な者もいたが大体は規定の服装で出発したようである。このように熱意を込めて送り、送られる者も戦時色に身を包んで戦線に渡って行ったのは、社大党の転換を内外に知らしめるためであった。では、ここからは棚橋らの北支班に焦点を当てて、その動向を明らかにしていきたい。なお、「棚橋小虎日記」の「北支那派遣軍慰問旅行記」と、「棚橋小虎自筆原稿」の北支視察論説をもとに述べていく。北支班は、一九一一一七年十一一月二日に神戸港を発し同七日

’九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) に塘沽へ上陸している。まず天津では、先述の通り寺内最高軍司令官に会見し、恩賜の酒を賜るなど歓迎されて(卯)いる。そして、北支那方面軍司令部から一旦伝部の影山少尉

という人物が北支慰問団の旅に同行し、案内に就乢池・さ

らに慰問団は、天津・北京では、特務機関を訪問して特務機関長に面会し、諸部隊や陸軍病院・兵姑病院を見舞って(皿)いる。その後は通州l張家口l大同l俗岳鎮l原平鎮l太原l陽泉1石家荘と要所を回り、十二月一一十一一一日には再び北京へ至り、二十五日には塘沽を発し帰路についている。北支班の視察地は主に華北の鉄道沿線上、つまり兵姑線であり、華北作戦によって同年十一月九日までに日本軍に占領(卵)された地域であった。しかし、占領したと一一一一口っても、その占領区域は「点と線」に限られ、しかもこれらの連絡線は中国軍及びゲリラの脅威にさらされていた。北支班の視察は占領直後であり、危険と隣り合わせの旅であった。とくに危険であったのは、張家川から石家荘に至るまでの、山西戦線と呼ばれる兵姑線であった。その中の岱岳鎖から原平鎮までは、自動車での移動であったが、中国軍の敗残兵や住民ゲリラが潜んでいるため、移動は日中に限られ、軍の自動車隊は五十’百台程で厳重に武装し、護衛兵

六九

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法政史学第七十二号

(肌)を伴わなければ通り抜けることは不可能な地域であった。共産党の勢力が扶植された地域でもあり、住民には徹底した抗日教育が施されていたため、女・子供にいたるまで手榴弾を持って徹底抗戦し、日本軍も相当苦戦したようであったという。その残党が潜んでいるため、自動車で移動することに不安を覚えた棚橋は、団長の河上らに旅程の変(妬)更を提案している。結局旅程は変更されることはなかったが、道中、棚橋は「彼方の山より機関銃の音盛んに聞こ

ゆ・緊艇櫛」と記し、その緊迫した状況を伝えている。ま

た、棚橋は慰問団の進行中は「幸いにして一回の襲撃も受けなかったが、五口々の前日に出た一隊などは一日に三回も襲撃を受けたとのことであり、途中には砦撃を受けて燃殿された貨物自動車の残骸が幾台も傍に遺棄されて居るのを(卯)見た」と、如何に危険な旅であったかを坊佛とさせる記述も残している。さらに、爆撃の痕や数多くの人馬の死体を目にし、その地域がつい最近まで戦争の第一線であったこと生々しく記録している。棚橋は激戦となったこの山西戦線に対して「我軍の攻撃が酷烈を極めたのは止むを得ざる

自衛上の処置であった思は仏脳」と言っている・無残な光

景を目の当たりにして、白国軍の非人道的な攻撃ぶりに複雑な感情を抱かざるを得ないが、それをことばに出すこと もできないので止むを得なかった行為だと心の中で言い聞かせている様にも思われる。原平鎮では、宿泊施設もないため、兵営において兵士た(”)ちと寝食を共にした慰問団であった。ここは、右記の様な危険な情勢であり、交通も不便で物資も乏しいことから、「兵士等の気分も荒んで」いた様である。この様な巾で、川長の河上が慰問の挨拶を述べると「全将兵が感激して歓声を挙げ拍手を送り」、「夜になると兵士諸莉が訪ねて来て内地の話をし、揮毫を求めたりして夜遅くまで大騒ぎ」であった。さらに、翌日も兵士の希望により、全兵士を集めて内地の情勢を話し、一層の奮闘を期すと激励したとこ

ろ、「将兵等は執れも感激を以て五口等の言葉を受け入れ池」

そうである。この様な記述から、危険な戦地でいつ帰れるかもわからず憂いている兵士たちに、多少なりとも活気をもたらし、士気を鼓舞することができたとすれば、この慰問は有意義なものであったと言える。また、慰問団は先に述べた陸軍病院や兵姑病院の他に野戦病院にも訪れている。兵姑病院・野戦病院は戦時に設けられ、陸軍病院は大都市に平時でも常設されている。野戦病院の患者収容能力は五百名ほどで、患者が過剰とならないうちに後方の兵姑病院へ輸送される仕組みとなってい 七○

(23)

る。棚橋は、なるべく個々の患者と言葉を交えるように努め、兵士がベッドの上に起き上がって感謝の意を示すのに対して、「実に吾々の方で恐縮と感激の念で覚えず目頭の

熱くなるのを覚えたのであ机」と記している。より第一線

に近い野戦病院まで訪れ、一人でも多くの丘〈士を慰問しようとしていたことが伺える。このように、棚橋の記録には慰問団が危険な場所まで赴いて慰問を果たしてきたことが述べられているが、一方で日本軍の占領下にあった北京においては、次のような記述を残している。事変後の北京のホテルでは、客の九割が日本人であったが、棚橋は「此処に宿る日本人の無作法、無節制ざは、決して東洋の盟主たる日本人に相応した態度ではない。支那人欧米人間に於ける日本及び日本人に対する

反感は、こんな所にも胚胎して胤秘」と日本人を客観的に

見て、その愚かさを憂いている。ここから、戦争の禍根は日本人にもあるというような冷静な見解が垣間見える。その他に、この旅では、大同や石家荘において特務機関(叩)を訪問し、特務機関長と会見している。大同では巫日北自治(肌)政府に至り、石家荘でも自治政府の首脳部と会見して(脳)いる。慰問団はこの旅で軍部や自治政府の吉同官に会見を拒否されることもなく、むしろ軍部からの全面的な協力を得

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党〈中島) て慰問・視察を終えることができたのである。このように社大党独自の皇軍慰問は、社大党の戦争協力姿勢を全面的に示すイベントとなった。社大党は、実質的にはすでに軍部・政府にとって無害な政党に変化していたと言えるQしかし一方で、右翼は社大党の転換を「一時的擬装転向」であるとし、社大党を排撃したのだった。それは、「特高月報』(一九三七年十一一月分)の次の記述に見ることができる。今回の転換は社大自身の本意に基くものではなく、時局柄止むを得ず為したもので斯くせざれば将来生命な(川)しと見て此の挙に出たものである。この右翼の指摘は注目すべきもので、時局がここまで軍国主義化してこなかったならば、社大党は挙国一致、和衷協同の線まで変化しなかったであろう。このような、党に関する非難・中傷をできる限り避けたいという意図が、慰問団を派遣する一つの理由であったとも言えるだろう。社大党の方向転換は皇軍慰問というかたちであらわされた。この機会に、棚橋をはじめ社大党の慰問団員たちが、実際に戦地に赴き現状を見聞できたことは、政治家として価値のあることであっただろう。これを経験し、各々が実

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以上の考察から、次のようなことが判明した。第二○回総選挙において善戦した棚橋は、次点落選に終わったが、将来に期待の持てる結果を得たといえよう。その一方、選挙粛正や社大党の躍進による外部からの圧力の中、棚橋派の選挙違反が発覚した。棚橋の選挙期間中のⅡ記欠落のため、その真相に迫ることはできなかったが、おそらく棚橋本人に何らかの意図があって日記は処分されたものと思われる。棚橋は、一九三七年の松本への帰郷を、自らの社会運動の新たなスタートとしていたが、代議士への展望も開けたのではないだろうか。日中戦争が開始されると、社大党は挙国一致を唱え徹底的に党内を統制し、銃後の運動などに積極的に取り組んだ。しかし棚橋は、そうした社大党に不満を持っていた。棚橋は、党の指導精神の不徹底さを嘆いていたが、党の指導や政策は徹底的に行われていたため、それよりもその不 際のところどういった見解を持ったか史料上は確認できないが、民衆の中から徴集された兵士たちの置かれている現状を把握し見識を広げることができたのではないだろうか。 法政史学第七十二号

おわりに 満は戦争を支持する立場に転向することへの抵抗の表れであったのではないか、と筆者は考える。社大党は、第六回全国大会において新綱領を可決し、戦争協力に向けての方向転換を内外に明示すると、さらに独自の皇軍慰問団を派遣して時局担当者であることをアピールした。慰問は派遣団員たちが危険な戦地にまで赴いて、その実情を体験し、荒んでいた兵士たちに活気を与えた。このようなことから、有意義な慰問となったのではないだろうか。そして、棚橋の北支視察期間の日記と、『棚橋小虎自筆原稿」の北支視察の論説からは、ある傾向を見ることができた。つまり、両文書とも、戦争を賛美するような表現はあまりなく、見聞したことを淡々と羅列しているような文書であった。むしろ、日本人の非行を批判するほどの冷静さがあった。この時点においても、棚橋は積極的に戦争支持の確信が持てなかったのかもしれない。しかし、その一方、棚橋が慰問団に参加したということは、彼も時局に巧みに便乗していこうと必死であったのだと思われる。一九三七年において社大党に属した棚橋は、戦争に疑問を感じながら時局の波にのまれていった。しかし、それは棚橋だけでなく社大党の多くの党員が辿った道であった。

(25)

本論文は、棚橋小虎の一九三七年の動向と社大党右傾化 に対する反応を明らかにすることができた。また、棚橋小 虎という人物を通して、社大党の蹄進と党の方向転換に対

する党員の葛藤を見ることができたと考える。

(1)有馬学「日中戦争と社会大衆党’一九三○年代における「運動」と「統合」(二)」(「史淵」九州大学文学部、一九九一一年)六五’八五頁。(2)高橋彦博「社会大衆党の分析」(増島宏、高橋彦博、大野節子「無産政党の研究l戦前Ⅱ本の社会民主主義l」法政大学出版局、一九六九年)は「軍部ファシズムへの迎合を」砿視するが、小泉洋「社会大衆党の同家社会主義画一化と小市民」(史学研究会「史林」七一一一巻、第三号、一九九○年)は、市民層の拡大支持を重視している。一般的には、無産政治戦線の統一、候補者の選挙民への浸透、主張の穏健化、ファシズム傾向への民衆の反発、選挙粛正、既成政党の不人気等が得票増の原因として指摘されている。この点に関して本論文では、選挙粛正、既成政党の不人気を重要な原因として扱っていく。(3)成田喜一郎「社会大衆党における「新党運動」」(歴史科学協議会編「歴史評論」三四二号、校倉書房、一九七八年)一六’三○頁。

一九三七年における棚橋小虎と社会大衆党(中島) (4)中村勝範「民主社会主義の系譜一○’六七l社会大衆党史」(民社党本部教宣局編「革新」通号六一一T一二八号、民社党本部教宣局、一九七五年’一九八一年)。(5)法政大学大原社会問題研究所所蔵「棚橋小虎Ⅱ記IlGl二、昭和一二(一九三七)年K月二’三日’一一一一(一九三八)年五月二十七Ⅱ」、「棚橋小虎Ⅱ記IIGl---、昭和十二年十一月一一十九日’十二年十二月一一一十一Ⅱ華北旅行」。なお、本稿において史料を引用する際には、Ⅲ漢字は現代のものに改め、仮名は平仮名に統一し、適宜句読点を付した。(6)法政大学大原社会問題研究所所蔵「棚橋小虎n筆原稿Ⅱ’一九、一九一一一七’一九一一一八年頃、論説「抗日戦線」「兵たん線」「人同太原間」「蠣馬のために」「大原」「陽泉」「塘沽」「北京」「通州」「居廠関」「察南蒙古の風物」「大同」「野戦病院」」。なお、法政大学大原社会問題研究所の「棚橋小虎関係文書」ホームページには、「棚橋小虎自筆原稿Ⅱ’一九」の論説の一つが「大同大原間」と記されているが、正しくは「大同太原間」である。(7)国立国会図書館憲政資料室所蔵「林虎雄文書」。(8)内務省警保局保安課「特高外事月報」(以下、「特高Ⅱ報」と略)。(9)棚橋小虎「小虎が駆ける」(毎日新聞社、一九九九年)

(26)

一一一六○’三七四頁。(皿)同右、三二四頁。(、)註(2)前掲「社会大衆党の分析」四三九頁。(、)註(9)前掲書、三二九頁。(B)何右。(u)註(5)前掲「棚橋小虎日記IlGI二」昭和十二年十二月三十一日条。(■)註(9)前掲書、三一一一○頁。(肥)同右。(Ⅳ)信濃毎日新聞一九一一一七年四月二十二Ⅱ。(旧)註(9)前掲書、一一一三○頁。(旧)信濃毎日新聞一九三七年囚月十四日、夕刊、一面。(別)同右、一九三七年四月二十日、夕刊、一面。(Ⅲ)同右、一九三七年川Ⅱ十四Ⅲ、一曲。(皿)同右、一九三七年五月一日、夕刊、一面。(昭)向右、一九三七年五月二H、夕刊、一面。(皿)註(9)前掲書、一一一三○’三一一一一頁。(妬)「社会大衆党長野県支部連合会第二回拡大執行委員会記録」一九三七年(前掲、「林虎雄文書」マイクロフィルム、R’五)。(肥)同右。(〃)信濃毎日新聞一九三七年五月二日、夕刊、一面。(肥)棚橋小虎追悼集刊行会編「追想棚橋小虎」(棚橋小虎追悼集刊行会、一九七囚年)二○頁。 法政史学第七十二号

(別)註(8)前掲「特高〃報」(一九三七年五月分)七七’八三頁。(別)同石。(皿)何右。(犯)註(2)前掲「社会大衆党の分析」囚三九頁。(釦)信濃毎日新聞一九三七年五月三日、二面。(弧)何右、一九三七年五月一一一日、夕刊、七面。(妬)同右、一九三七年五月六日、七面。(稲)同右、一九三七年五月七Ⅱ、夕刊、七面。(Ⅳ)同右、一九三七年六月八Ⅲ、七面.(胡)註(肥)前掲書、二○頁。(胡)註(8)前掲「特高月報」(一九三七年五月分)八四’八七頁。(仰)何石、八三’八四頁。(u)註(肥)前掲書、二○頁。(蛆)註(8)前掲「特高月報」(一九一一一七年六月分)八六’八八頁。(卿)註(5)前掲「棚橋小虎日記IlGl-」昭和二十年三月一一一十日’二十年十月十七n」昭和二十年七Ⅱ一一一十一円条。(“)麻生久伝記刊行委員会編「麻生久伝」(麻生久伝記刊行委員会、一九五八年)川五六頁。(妬)註(4)前掲「民主社会主義の系譜一九l社会大衆党史」(『革新」通号七一号、’九七六年)一九二頁。 七四

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