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高大成さんへのインタビュー記録
―藤永 壯/高 正子/伊地知紀子/鄭 雅英/皇甫佳英 高村竜平/村上尚子/福本 拓/高 誠晩
A Survey of the Life Histories of Resident Koreans in Japan from Jeju Island in the Immediate Postwar Period(16) − Part Ⅰ−
− An Interview with Ko Daesung −
FUJINAGA Takeshi, KO Jeongja, IJICHI Noriko, CHUNG Ahyoung HWANGBO Kayoung, TAKAMURA Ryohei, MURAKAMI Naoko
FUKUMOTO Taku, KOH Sungman
平成28年 3 月 4 日 原稿受理
本稿は,在日の済州島出身者の方に,解放直後の生活体験を伺うインタビュー調査の第 16 回報告である。この調査の目的や方法などは,「解放直後・在日済州島出身者の生活史調 査(1・上)」『大阪産業大学論集 人文科学編』第 102 号(2000 年 10 月)に掲載しているので,
ご参照いただきたい。
今回の記録は,神戸市在住の高大成さんのお話をまとめたものである。高大成さんは 1937 年,済州島南元面為美里(現・済州特別自治道西帰浦市南元邑新興里)のお生まれで ある。
インタビューは 2008 年 9 月 14 日,神戸市長田区の新長田勤労市民センター会議室で,妻・
鄭義子さんの同席のもと,藤永壯・高正子・伊地知紀子・高村竜平・村上尚子の 5 名が聞き 手となって実施した。テープから起こした原稿は伊地知が中心となって編集し,参考地図の 作成は福本が,用語解説は鄭雅英が,最終チェックは藤永が担当した。
以下,本稿の凡例的事項を箇条書きにしておく。
⑴ 本文中,文脈からの推測が難しくて誤解が発生しそうな場合や,補助的な解説が必要な 場合は,[ ]で説明を挿入した。
⑵ とくに重要な歴史用語などには初出の際*を付し,本文の終わりに解説を載せた。以前
の報告でとりあげた用語を再掲した場合は「(再掲)」と記した。
⑶ 朝鮮語で語られた言葉は,一般的な単語や地名などは漢字やカタカナ,あるいは日本語 の翻訳語で,また特殊な単語についてはハングルで表記し,発音を日本語のルビで示し た。
⑷ インタビューの際に生じたインタビュアー側の笑いや驚きなどの反応については,〈 〉 で挿入した。
⑸ 話者が語った日本語・朝鮮語は,話者の発音どおりに表記することを基本としたため,
いわゆる「標準語」とは異なる場合がある。
なお本稿は言うまでもなく,高大成さんの証言からとくに重要と思われる箇所を中心に抜 粋,編集したものである。できるだけ客観性に配慮しつつ証言を再現しようと努めたが,編 集の手が入っている以上,叙述に編者の主観が反映されている可能性は排除できない。本稿 の内容に関する責任は全面的に編者にあることを,あらかじめおことわりしておく。
解放前,日本に行った父,済州島で暮らす母子
《機関長だった父》
― ―生年月日を教えてください。
高 :[昭和]12 年[1937 年]生まれ。5 月 24 日。ま,陰暦はみんなそうなっているんですけど,
こっち来てね,新暦は 7 月くらいになるん違います?[新暦では 7 月 2 日。]
― ―為ウィ美ミ里リのご出身だと息子さんから伺ったのですけど,お生まれになったのは済チェジュ州です か?
高:はい,済チェジュ州です。
――日本に来られたのは,そしたら解放後が初めてですか?
高:昭和 31 年[1956 年]。
――それまでは,済チェジュ州にずっと……。
高:ええ,済チェジュ州にずっとおりました。
――それまでは一度も日本に行かれたことはなかったんですか?
高 :はい,なかったです。僕のお父さんが昔は日本に住んでね。仕事で,中国本土に上海,
図 1 本稿関係地図
香港,大連,軍需物資積んで,積んどったからね。
――軍需物資ですか?
高:はい,船で,はい,あのー,機関長しとったからね〈一同:驚き〉。
――その船はどこから出る船だったんですか?
高:あ,日本からですよ。それ軍需物資だから,その時分。
――日本でそういう機関長になられたんですか?
高 :ええ,日本で。免許証ちゃんと見せてくれたからね。長崎かどこかの免許証ありまし たよ。
――あまり,家うちにはいらっしゃらなかったですか?
高 :うん,済チェ州ジュ島ドは来てなかった。日本にばかり住んで,終戦になってから帰ってきてい ました。僕生まれたら,おらへんかったからね。
――そしたら,何人兄弟になられるんですか?
高:あ,僕ひとりだけですわ。
――為ウィ美ミ里リではおオ母さんとおふたりで?モ ニ 高:ええ。
――おオ母さんは,あの,畑かなんかされたんですか?モ ニ 高:はい,そう,そうです。
――何をつくってましたっけ?
高:麦と粟と,サツマイモ,済チェ州ジュ島ドは米はないねん,少ないから……。
――海にも入ったでしょう,おオ母さんは。モ ニ
高 :はい,おオ母さんは海女さん,しとってくれたからね。それで僕も助かりましたけど,モ ニ 何もするものないからね。
――おオ母さんと一緒に日本に行くということはなかったのですか?モ ニ
高 :はい,なかったですね。僕,小っちゃい時分,僕のお祖父ちゃんの前で,あのー,日 本来るつもりで。あの,区長まではないけど,班長までのハンコはあったけどね。それ から,日本はものすごい爆撃を受けているわ,なんやかんやいって,「行ったらあかん」
と区長が止めたん違うかな。ま,「船もない」言うて。僕,小っちゃい時分,横で僕の 母親がものすごい泣きながらね,行かれへんかったから。それをせっかく班長までのハ
ンコを押したやつを破りながら,「行かれへんかったから」と泣きながらね。
――渡航証明書* 1ですね。
高:ええ,こっち来る。英語で言ったらパスポートですね。
― ―日本に行ったり来たりしている人は,村にわりといはった[いらっしゃった]んです か?
高 :うんー,それはちょっと難しかったん違うかな。小さい時分だから分からないけどね。
ただ軍人は,その戦争の前はね,ようさん[ぎょうさん]徴兵にも来たし,いろんな。こっ ち来たら供コンチュル出言うて,連れてきて仕事さすし,ナニしたみたいやけどね。
《為美里での日々》
――小学校には行かれ……?
高:ええ,小学校は,僕は国民学校。
――南ナムウォン元国民学校ですか?
高 :いえいえ,南ナムウォン元国民学校,違います。ものすごい古い学校ですわ。僕のお父さんは,
南ナムウォン
元 国民学校。南[済州郡]ではそれ,一時期普通学校[と呼ばれていた]かな,そ の次が[名前が変わって] 南ナムウォン元 国民学校だね。ものすごい古いですよ。僕は為ウィ美ミ里リに 国民学校* 2できたから。僕はそこで 6 年生まで卒業して,だから,済みましたけどね。
――日本の敗戦のとき,何年生ということになりますか?
高:えーと,2 年生に上がった時分ですね。
―― 1 年生のときとかは日本語を教えられているわけですね。
高 :あ,それは韓国語,朝鮮語しゃべったら,バチンとほっぺたを殴るし,したけどね。ま,
その時分はね。
――日本人の先生は……?
高 :え,校長先生は日本人でした。普通の先生はくにの人たちかな,済チ ェ ジ ュ ド州島の出身もおっ たし。
――何人くらいのクラスですか?
高:多かったからね,おおかた 40 人以上でしたよね。
――40 人 2 クラス?
高:2 クラスかな? 大きい[学校]でしたよ。
――女の子たちはそんなに多くないですね?
高 :見たらね,金持ち。女は学校行くもん違うと言ゆったからね。僕も学歴ないです。なか なか理解してくれへんかったね,親たちがね。ただ女はとにかく仕事。済チェ州ジュ島ドは海女さ ん,海女せんかったら嫁もらわんかったと,その時代はね。
――じゃ,女の子たちは小っちゃいころから海女?
高:そうですね。
――おオ母さんも為モ ニ ウィ美ミ里リですか?
高 :え,為ウィ美ミ里リです。ここ[神戸市長田区]やったら,東尻池,西尻池みたいね,1 区,
2 区ありますわ。僕の母親は 2 区やし,僕は 1 区,親は 2 区やしね。
――なんか戦時中に苦労されたとか,そういう話は?
高 :言ったらきりがないですわ。おたくの親たちもみんな苦労したと思いますよ,僕だけ の苦労と違って。食べ物はないし。その時分は小学校 1 年,2 年の時分,山行ってワラビ 取ったらね,途中で,軍隊に食べろと取ってあげたしね……。
――誰にあげるんですか?
高 :警察とか,日本の警察とか。ほんでね,その時分は日本来るつもりで,写真なんか,
証明写真貼らなあかん[貼らなくてはならない]からね。その写真,朝鮮の服着られへん。
とにかく,モンペ,モンペか,日本のこんな普通の服着て,せえへんかったらね[しな かったらね]。西ソ ギ ポ帰浦[に行かなければ],写真しかない[撮影するところがない]からね。
新シンジャンノ
作路* 3[と]言ゆって,今,高速道路で。そこで警備たちが,巡査がちゃんと立ってね,「何 しに行くの」言ゆって。こんなこんなんで言ゆったら,「あかん」言ゆって,「モンペ穿いてこ い」と言いって。それ小さい時分,それひとつ覚えていますよ。一緒に西ソ ギ ポ帰浦まで行くの に。そういう時代もありましたよ。
――お母さんの服装?
高 :うん,モンペ穿かんかったら,いかんと。そういう時代もありました。僕,それ記憶 があります。ちょうど,僕が学校入る前かなー,入った間なし[入学後すぐ]かな。と にかくこっち来るつもりで。自分 7 歳やからな,お母さんがそうしたん違います?
――村にはどれくらい日本人がいました?
高:分かりません。ま,たいぶ[大分]おったん違いますかな,軍隊はね。
解放を迎えて
《日本兵とアメリカ兵》
――終戦のころには,かなり日本の軍人がいたのでは?
高 :終戦直後はね,うちがちょうど新シンジャン作路ノ,今,高速道路の横に家があったからね。あ のー,そこのお祖母ちゃんところで,僕,お母さんと住んどったからね。[軍人が]一 晩歩くのを見ましたよ。あの,終戦になったからね。くにへ帰るのに。そうやから,タ ンクありますね,戦車ね,それも小っちゃい。今と比べたら半分くらいやけど,それ乗っ て。みんな軍需物資積んでいる自動車か何かと歩いて。タンク乗っている人は,自分は 小っちゃいし分からないけど,済チェ州ジュ市シまで行ったことは言ゆってましたよ。
――それだけの大勢の軍人を見たのはそのときは初めて?
高 :はい,初めてです。そうやから,日本の軍隊が夜中行くのがね,今僕は思い出すのは。
夜中も,その道路ひとつだけやから,夜中歩いているのを知ってましたよ。だから,後 で終戦やと言ゆって。えー,思って,勝ってる勝ってる言ゆって,終戦や言ゆってるから。
――それまでは終戦は知らなかったのですか?
高 :え,知らなかったです。見たらアメリカの戦闘機がね,ガーッときてね,発射してね。
僕の知っとる人もふたり死んでましたよ。
――それは為ウィ美ミ里リで,ですか。人が亡くなったのは?
高:僕,見ましたよ。
――そういう爆撃は何回もありましたか?
高 :僕は 2 回ほどあったと思います。あのー,爆弾は撃ってません。軍隊にナニするつも りで,機関銃みたいな,撃ってきて,ジェット機が来てパーと……。後で,駐屯する軍 隊が来て,銃当たったとこ調べて,ナニしたけどね。それは覚えています。小学校の時分。
――アメリカ人に撃たれたんですか?
高 :そうです。アメリカの戦闘機が来てね。ふたりか,ひとりは亡くなりました。小学校 の僕より先輩やけど。
――子供が撃たれたんですか?
高 :僕の先輩の人がね。ふたりかひとりが亡くなりました。僕は 1 年で,2 年か 3 年,4 年生かな,そんな人が亡くなりました。
――それは学校かどこか……?
高 :学校の帰りし[帰る途中]だったのかな,昼,爆撃しましたよ。あ,爆弾と違って,
飛行機が来てね。パーと。もうびっくり。
――解放になったということは,日本の軍隊が帰るのを見て分かったのですか?
高 :僕はそう思わなかったです。なんで行っているのかな,ひと晩中なんでやろうなと。僕,
小っちゃい時分やから,分からへんねんね。後でみんなみたら,解放したと言って,えー と思って。小っちゃい時分やから。小学校 2 年上がった時分やからね。
――どうやって,誰から聞いて? 大人から聞いたんですか?
高 :え,大人から聞いて,学校に集まってね。終戦になった,言って。そんな言うからね,
えー,思って。あ,戦争は終わった,言ゆって。
――校長先生とかも,そのあとは全然いなくなったんですか?
高 :その前までは日本の校長先生だったんやけど,[解放後は]われわれの国の人,校長 先生でした。下は,先生はみんな,われわれの国の人だったからね。
――そのあたりで生活が変わったとかという印象はあります?
高 :そりゃ,同じでした,結局。そうやから,アメリカの駆逐艦も村のところに来て,み
んな泊めてね。そうやから,夜中,敵が来るか思って,いつもパーと,白い発射機が[サー チライトのことか?]いつもパーっと,村の全体を守ってくれましたよ。それは,あのー,
その時分ね,終戦になったからね。
10 月かね,日本が魚雷[機雷?]をいろんなとこでばらいまいてましたよ。日本の 魚雷を,日本の魚雷を拾いにきた船がね,だいぶ来て,打ち上げられたんですよ。それを,
アメリカの軍隊が来て守ってくれてね。そうやから,これ失礼やけど,カンパンなんかね,
日本の兵隊さん,海軍の兵隊さんが食べているのを,子どもが「ちょうだい」言ゆったら,
日本語上手な,先生みたいやったけど,[その]村の人が「それちょっと子どもにひと つやったらどないや」言ゆって,「いや,われわれにも食べ物がないから,できません」と。
くれ,言ゆってもくれませんでした。
――それは日本の兵隊が?
高:ええ,魚雷をばらまいたから。アメリカが[機雷引き上げの]許可下りたん違います?
あんたら,ばらまいたから引き上げと。
――解放後ですね。
高:うん。
――日本の魚雷というか機雷,それを日本の海軍に回収させて,アメリカ軍が?
高:え,みんな目の前で,そんなしてましたよ,目の前で。台風が来て,大きい船でした。
――爆発して?
高 :いいえ,爆発しませんでした。とにかく[台風で]打ち上げられて,半分ばーと割れ てしもてね[割れてしまってね]。
――日本の船?
高 :ええ,日本の船。魚雷,日本人がみんな敵が来ると思ってばらまいたん違います?
僕の半分くらいの,大きいやつ,みんな拾ってずらっと並んでましたよ。魚雷や言ゆって,
浜に打ち上げ[られ]て。そうやから,それは信管みんな取って。うん,それ分からな いけど,小っちゃい時分やから。
――そういう作業をしているときに,アメリカ人はいたんです?
高:ええ,アメリカ人はおった。
― ―そういうアメリカ人とか,日本の兵士たちは南ナムウォン元の村,為ウィ美ミ里リの村のなかに宿舎とか あったんですか?
高 :ないですよ。船でみんな行きましたよ。作業して,[台風で]その船つぶれたから。
そのつぶれた船,台風で浜に打ち上げたから,自分ところの船へ行くのを見ましたよ。
そこで兵隊さんが泳ぎで[海岸へ]みんな来とったからね。見たら向こうからカンパン,
あの,食べるもの,おいしそうに食べているから。ありゃ,欲しいわね,何もない時だ からね。くれと言ゆっても,くれへんかった。それ覚えています。それは,「自分ら食べ るものないから,子どもたちにやるものないですわ」言ゆって。その村の人が日本語でしゃ べっても,くれへんでした。それ覚えています。それは,覚えている。
――逆に村の人たちに食糧を提供させたことはなかったのですか?
高:それはなかった。さっそくアメリカの軍人がみんな連れて帰っていましたよ。
――終戦になって学校で,勉強する内容が変わった,先生が変わったとか?
高 :あ,そうです。先生はほとんど同じ先生でしたけどね。急に,自分の国また,勉強を 出直した,一から。それからものすごいこたえたけどね。自分の国のことやから覚える のが早かったけど,それはね。
――先生は同じで,内容がハングルになった?
高 :え,ハングルの勉強,歴史の勉強やいろいろ。日本の名前で読んだものも,とにかく ハングル文字で,아ア야ヤ어オ여ヨ,言ゆってね,教えて。「勉強せんかったらあかん」言ゆって,
先生が言ゆってくれたからね。
――教科書とか,そういうものはなしで?
高 :あと,みんな,あれはどこから来たかね。僕はね,教科書みんなくれましたよ。そう やから,あとから 4 年 3 年なったら,5 年 6 年までだんだん歴史なんか教えてくれたし。
ま,これ日本は,アジアでは日本はいろんな面で,人間がナニやし,いろいろな勉強が 一番やし。なんやかんや言ゆうても,西欧ではイギリスがなんや言ゆうて,先生が 6 年生に 教えてくれましたよ。言葉遣いでも言ゆってくれましたよ。
《父の帰郷》
――お父さんは,いつごろ帰ってこられました?
高 :終戦なって,そのあくる年ですかね。もう死んだといううわさがあったのにね。大連 に行ったし。そやから病院で入院して,歯も,爆弾を受け,魚雷を受けてね。爆弾を受 けて,日本で治して,金があったから。88 トンですかね,そんな名前書いて,大きい 船の貨物船ですわ。小さい村やから。あとは,朝鮮戦争になったから。
――その船に乗って戻ってこられたんですか?
高:そうです。
―― ひとりですか? 他に?
高 :いえ,他に船員たちがおったから。うちのお父さんは機関長やし,船長でもあるから。
いろんな物資を積んで,帰りしな,終戦になったから,帰る人は,釜プ山サンあたり寄って,
降ろして,済チェ州ジュ島ド来て。そういう,ありましたよ。それは話してましたよ〈一同:驚き〉。
――お父さん,なんか持って帰ったもの? 日本から。
高 :それは船だけですわ,うちの親父は。「自分の船や」言ゆって,船長もみんな自分が何 や言ゆって,そういうのを話して。
――しばらくはその船で? 済チェ州ジュ島ドと……。
高 :済チェ州ジュ島ドと釜プ山サンと行ったり来たり。陸地[朝鮮半島本土]はイモがないから,サツマイ モを積んでいって。
― ―サツマイモを済チェジュ州島ドから積んでいって,持ってくるのはどんなものを持ってくるので すか?
高:いろんな,あのー,米なんか持ってきましたよ。交換して持ってきて……。
――日本に行ったり来たりはなかったんですか?
高 :なかったです。それはできへんかった。あの時分,そんなできへん。日本語しゃべっ てもあかん。そうやから,うちの親父は困ったらしいですわ。日本で勉強して,日本の ナニしたらね,その時分ものすごいえらい目に遭おうたらしいけどね……。それでも,ど
うにかして住んどったけど。
――先ほど,お父さん,爆撃を受けられたと言いましたが,どこで?
高 :あれはね,中国本土,違います? 中国本土で爆撃を受けたか,魚雷を受けたか。と にかく「船はつぶれて,自分生き残った」言ゆってね,そんな話してました。「歯も入れた」
言ゆうて,病院で。
――済チェジュ州に戻って来られた時の船は全く別の船?
高:あ,別の船。それは日本の政府で入手したん違います? あのー,軍隊物資だから。
――その船はお父さんの船として?
高:あ,終戦になってからこっち[日本]で買こうていったん違います? 終戦なってから。
― ―そうすると,帰ってきた時と,先ほど釜プ山サンと商売で行ったり来たりされた船は,違う 船?
高:同じ船。船は同じ。
――戦前の仕事のやつは?
高:全然違います。
――お父さんにほとんど会ったことがないですよね。
高 :ええ,大きい船。小っちゃい村の港に入ったからね。その村の人がものすごい応援し てくれましたけどね。
――お父さんの釜プ山サンに行ったりした仕事は,どなたが手伝っていたのですか?
高:船長,船員さんたちがみんな来たからね。
――それはどういう人,村の人?
高 :いや,村の人違いました。みんな陸地の人でした。ひとりだけ同じ済チェ州ジュ島ドの出身や 言ゆって,小っちゃい自分には分からないけどね。とにかくイモ積んで釜プ山サン行ったり来た りしとったからね。
――そういう人たちは特に為ウ ィ ミ リ美里の人たちではなかった?
高:なかったですわ。
――お父さんのお名前なんておっしゃるのですか?
高:高,とく,徳島の徳,珍,高コ徳トク珍チン。
――何年生まれですか?
高 :何年生まれかな……。
鄭 義子(夫人):私たちが結婚するときに,50 歳くらいで亡くなった言ゆうから,逆算した らいいん違う?
高 :そうやな。結婚した時分亡くなったから。ちょうど,結婚する 1 カ月前かな,亡くなっ たから。
鄭:その時に 50 歳。
高:50 歳や,50。
――何年にご結婚ですか?
鄭:1963 年,昭和 38 年に結婚した。
――数えですか?
高 :数え。大正 13 年かな,3 年かね[大正 13 年= 1924 年生まれか?]。50 歳で亡くなっ たからね。お祖父ちゃんが 60 歳で亡くなったし。僕がこの家の,僕は今,本家やし,
長男やし。そうやから僕が一番長生きしてる言ゆうて,いとこさんたちがみんな,「自分 たちも同じ歳やけど,こんなに長生きしてよかった」言ゆって,去年行ったら感激してく れましたけどね。いとこたちみんな,墓任してくれてる[任せている]からね。僕もつ らいですわ。僕も長男やし,本家やし。こっちも家内やけど,家内[のおかげ]で生活,
今まで立てたし。登録つくるのも何しても,みんな家内のおかげです。いや,嘘違って,
ほんま。[家内は]目の前で褒められる思ってるけど,僕は本当に恩返しできへんわ,家内,
いやお母さんにも。言ゆったら,子供も 3 人ちゃんと大きくさしてくれたし。僕も兄弟 ないし,僕ひとりだけです。
為美里での 4・3
《村が燃やされる》
――解放後に学校,またずっと続けていった時,夜学とかはなかったですか?
高 :夜学はなかったけど,あのー,済チェ州ジュ島ド 4サ・サ3ム事サ件コンの時分,僕がちょうど 11 歳か 12 歳 の時分やね。ほんまに,村が全滅ですわ。山から来て,みな家 1 軒 2 軒,火つける。1 軒 1 軒,燃やさして,もう家ないですわ* 4。
――為ウ ィ ミ リ美里全体が?
高:ええ,全体ですわ。学校も,もう火つけてしまって。立派な学校やのに。
――ご自宅もその時に?
高 :ええ,昔の茅[葺き]の家やけど。小っちゃい家やけどね。それもみんな燃やさして[燃 やされて]しまってね。村のナニした[抵抗した?]人は刺し殺すしね。はじめは北か ら来たか,何か工作員たちが夜中来てね,名前を書きますわ。入ってね。何でやろうな と思ったが,それが 4サ・サ3ム事サ件コンやな* 5。
そんで,はじめはよかった,その人たちも。村の駐在,警察なんかもう,自分の兄弟 もみんな殺された。しまいは警察も韓国の政府でも,これあかんわ言ゆうて。軍隊が来た ら,警察がだんだん強くなってね。山に逃げた人,あんな小っちゃい島なのに,逃げた 人捕まってきてね,目の前で僕も 1 回見ました。ほんで小っちゃい村でもね,石拾って きて,今の大阪城みたいに[石垣を]たかーく建ててね* 6。
― ―そういう中,村がそういう雰囲気がおかしくなってきたなと感じたのは,その名前を 書いてもらいにまわった時?
高 :そうそう,それはおかしいと思たね。夜中ですわ。何するに,夜中来てね,後で聞い たらそれが結局,何と言うかな。中国の言葉,日本の言葉で言ゆったら……。
――その時,何て言いましたか? 向こうでは。
高 :暴ポク徒ト* 7。暴ポク徒ト言うから。あと,しまいにはね,静かになってからね,暴ポク徒ト,暴ポク徒ト言うから,
暴ポク
徒トが何やろうなと思って。去年 NHK でも出ましたけど,暴力みたい,村に入って食 料なんか,みんな持っていかれるし,一般の人も殺されるし……。
――名前を聞きに来た人は知っている人ですか?
高:いえ,全然知らない人ですわ。村の人と違います。
――山から下りてきた人?
高 :ええ,後でだんだん強つよなってから,山[に入った活動家]がよさん[ぎょうさん]あ るから。見たらね,夜中ね,火みたいのを,こんな立てて[たいまつのことか?]。わ れわれは,こんなんや言ゆって。怖いな,思いましたよ。
――それは何か書いてますか?
高 :いえ,書いてません。火つけてね。
だから夜中することないね。堂々としたら,してもいいけどね。夜に……。
――それは為ウィ美ミ里リのどこのあたりですか? 学校のあたりとか?
高:学校ではないです。山の,小っちゃい山があるからね。上,上がって。
――何ていうオルム* 8か,名前分かります?
高:세セ어オ ル ム름,마マ어オ ル ム름,言ゆうてね。
――火を持っている人が何人くらいいるか分かります?
高:夜中やから。自分たちはこんなんや言ゆって,したからね。
――村から若い人たちが,山に行っている人は?
高 :それはなかったけど。その時小っちゃい時分だから,若い人はちょっとナニ,話しし たん違います? 後でだんだんしたら,山からちょっと弱くなったからね。村に入った 人は軍隊が来て,ちょっと何かした人は捕まって。軍隊がね,ちょっと大きくナニした 人は,ふたりか 3 人か,3 人が射殺した[射殺された]と違います? だいぶ死にました。
あちらも来て村を襲撃して一般人も殺されるし。ま,はじめはものすごく強かった。こっ ちやったら長田警察みたいに警察入ってね。みんな殺されるし。
――南ナムウォン元支署ですか?
高:ええ,南ナムウォン元警察署,為ウィ美ミ里リ警察です。南ナムウォン元にはふたりか 3 人,死んだん違います?
――その前に学校に,国民学校に集合させられたり,何か集会したり?
高 :それは,学校ではしてないけど,駐在所に빨パル찌チ[パルチザン]らを捕まって[捕まえ て]きて,山から捕まってきて。軍隊が行ってね,捕まってきて,こんなこんなや言ゆって。
1 回だけは目の前でナニ[殺害?]したやつを見たけどね。そのあとはだんだん弱くなっ て,みんな捕まってきてね。そのときの法律がちょっとあの,今からしたら違うでしょ うけど,刑務所行きですね。僕も知っている人,ふたりおりましたよ,その村と違った 村の人がね。
――それは捕まって連れて行かれて?
高 :ええ,その人たち,生きているん違いますかな? 年が今 80 歳,85 歳になっている からね。
――先ほど村に火をつけたというのは山から来た人?
高:そうです。
――警察とか軍隊ではなくて?
高 :え,ないです。軍隊は後ですわ。その人たちとナニした人は,軍隊が来て,これや 言ゆってね。
――自宅が燃やされたのは何年何月ごろですか?
高 :あれはね,12 月かな,冬ですわ。とにかく家住まれへん,その年は。とにかく海の そばにある,トンネルみたいにできた,岩に,その中ばっかり。そう,洞窟ですわ。ずっ と住みました。1 年くらい住んだかな,1 年近く。
――家を燃やされる前から,前までは,家に住んで?
高 :住んだけど,うるさかったもんね。とにかく山からしょっちゅう来てましたよ。その あと,だんだんしたら[しばらく経ったら],家,朝早よ,見に来てな,あれ何やろう な[と]見たら,近所が燃えとる。「あれ,なんでやろ,なんでやろ」。火持ってきて,
みんな,家の,隣の人が「逃げろー,逃げろ」と。あれ 11 月か 12 月ですわ。そうやか ら,その時分ありましたよ。それから家なんか住まれへん。そのあと,だんだんしたら,
村に,今,大阪城みたいに高い塀つくってね。新シンジャン作路ノ,高速道路ひとつだけやったな。
そこに門つけて住んでましたけどね。
《石垣のなかで暮らす》
――その作業はされましたか?
高:え,僕も 12 歳やからね,できる言ゆって。石なんか拾ってこい言われて。
――為ウィ美ミ里リは? 為ウィ美ミ里リも一緒に?
高:それはもう村が全体,晩 5 時まわったら外へ出ない。
――見張りなんかさせられましたか?
高:見張りは 13 歳時分,ちょっとさし[させられ]ましたね。
――夜に見張りなんか?
高:ええ,ありましたよ。
――その石垣,石を積んだ中に,その中ではテントじゃないけど,家は?
高:小っちゃい部屋。家建てて,みんなちょこちょこ住んどったからね。
――そのころお父さんは,どんな感じ?
高 :釜プ山サンにずっと住みましたよ。僕は,「お祖父ちゃん[が],本家やし,長男やし,お祖 父ちゃん守れ」言ゆって[と言われて],ほったらかしたからね。辛かったですわ。お祖 父ちゃんとお祖母ちゃん,守るのはね。いとこたちも,ようさん[ぎょうさん]おった けどね。いとこの一番下のおじさんがね,養子行ってしまったからね。学校の先生やっ たからね。師範学校* 9出てなかったからね。学校の先生やったけど,小学校を出てすぐ,
軍隊に行ったけど。師範学校か,師範学校出てたら,軍隊に行ってないけど……。
――石垣の中での生活って,どういう生活?
高 :話にならんですわ。[朝]6 時になったら,西から自動車が来てるの見たら,軍隊で すやろ,ドア開けて,向こうは。東に門があったら東の人が門を開けてくれるし。2 年,
3 年くらいなったかな,その中で。
――昼間は外に出て,畑仕事やったり?
高 :そうそう,6 時までは絶対入らなかったら[夕方 6 時までには城壁の中に入っていな
ければならなかった]。それ 1 年くらい頑張ったけど,農業,農作業やからね。遅くなっ た人も顔を見てな,同じ村の人やから入れてくれたけどね。
――何か証明書とか必要なんですか?
高 :ええ,ありましたよ,通トン行ヘンチュン証言ゆってね。通トンヘン行チュン証なかったら村に帰ることもできへんかっ たもん。僕も持っていました。12 歳かな,それくらいから持った。
― ―それは,だから海岸の洞窟で……家を燃やされてから海岸の洞窟で 1 年住まれたあと に,戻ってきてその城壁の中で?
高 :ま,行ったり来たりしたけど,家建ててね。自分で,茅葺きの家建てて,もう 1 回建 てて住みましたよ。ま,村の人たちはみんな協力してくれてね。
――家を燃やされたのは昼でしたか,夜でしたか?
高:朝です,朝一番。
― ―あの 4サ・サ3ムが起こる前に解放になって,新しい国をつくろうと,そういう動きが当然 あるわけで,だから為ウィ美ミ里リでいろいろな動きとか,なんかご記憶に残っていることはあ りませんか?
高 :ないですけどね。小っちゃい村やからね。その時分は小っちゃいから,分かりません。
11 歳やからね,大人が何したか分からないけどね。後で軍隊が来て,11 歳時分かな?
軍隊がだんだん強くなって,したらね[するとね],ちょっとナニした[疑われた]人 はみんな呼んで,これして。上のナニした人は,ふたりかな,知っている人が処刑され た,言ゆって,聞きましたよ。
――それはなんで処刑されたか?
高:その,その[武装隊に]協力した,言ゆって。
― ―選挙* 10の時,為ウィ美ミ里リはどうされたんですかね。5 月に選挙が,48 年 5 月に選挙があっ たと思いますが?
高:その時分は選挙行きましたよ。学校終わってたし。
――山には行かないで?
高 :ええ,山は,その時分,山は静かになる時分ですわ。こっちは 45 年終戦になりましたよ。
3 年なるからね。
――為ウィ美ミ里リの方で 4・3[事件]ごろに軍隊に殺された人はふたり?
高:ふたりかひとりありましたよ,僕はひとりは完全に分かっています。
――ご親戚ではなくて?
高:親戚ではないです。名前は金何なんという人でした。
――普段何をされてた方ですか?
高 :あの人はね,仕事は農業やけどね,ちょっと頭がえらいさんですわ。その僕が知って いる人は,その僕が知っている人はね。
― ―あのー,小学校の先生とかは,何かそういう活動に加わったとか,そのとき犠牲になっ た先生とか?
高 :為ウィ美ミ里リはなかったですわ。僕のおじさんもね,先生をしてる時分でも,為ウィ美ミ里リ違って
[為美里ではなく]為ウィ美ミ里リの上の,嶺ヨンチュン村,言うてね,それも大きい村ですよ。終戦になっ てから学校の先生したけど,そこはほとんどアカが多かったけど,先生たちは亡くなっ た人はおりませんでした。それだけ僕のおじさんが,そのあとガチャガチャなったけど,
済チェ
州ジュ
市,それも山近くの村やけど異動して,そこで先生してました。あとで聞いたら校 長先生までした[と]言ゆってね。
僕がこっち来て,校長先生やいうから,「おじさん,そんな校長先生までしました」
言ゆったら,「ありがとう」言ゆって。「お前は日本に行ってええように住んでいるから」。「そ の時その時,働きして腹いっぱい飯は食ってます」言ゆって。日本語ばかり,しゃべらな いけど。その時分は手紙で日本語で書いたら日本語で返事が来て。日本の国民学校出た からね。
― ― 4サ・サ3ムが起こる前は,戦前からの続きで食べ物とかなかったけど,平穏な暮らしは続 いていたということですね。特に村が騒がしくなったとか,そういうことはなくてね。
学校の先生がたとえば 4サ・サ3ム事サ件コンとか独立の話とかすることは?
高 :そんな教えてくれませんでしたね,4サ・サ3ム事サ件コンなんやかんや,先生たちは何も教えて くれませんでした。
――先生のなかに金キムピョンジン坪珍* 11先生という人はいらっしゃいませんでしたか?
高 :あー,名前はそんな覚えてません。みんな忘れました。自分の担任の先生も全じぇんじぇん然誰やっ たかな忘れましたよ。それは理解してください。
――ご家族やご親戚のなかで,4・3 の時に行方不明になった方は?
高:おりません。僕のおじさんも,お祖父ちゃんも誰もおりません。
― ―それだけ為ウィ美ミ里リで家とか燃やされたり,犠牲が大きかったので,そのとき日本に逃げ るとか日本に渡った人とかはいませんか?
高 :おりましたけどね,だいぶおりましたよ。それでだんだん山に勢力が弱くなっている から,逃げて来た人,よさん[ぎょうさん]おりますわ。
――ご親戚はおりません?
高:親戚はおりません。誰もおりません。僕だけですわ。
――西ソブクチョンニョンダン
北青年団* 12,西北青年団はご存じないですか?
高 :存じないです。ね,聞き初めですわ。
その時分考えてみたら,小っちゃい時分やけど。あーこれ生きられるかなと思っただ けですわ。僕の親は釜プ山サンずっと住んどったからね。ま,釜プ山サン行って一緒に住みたいな,
お祖父ちゃん,ほったらかして,行きたいな思ってね。やっとお祖父さん亡くなったか らね。
(以下,次号)
【用語解説】
*1 渡航証明書(再掲)
植民地期,朝鮮人の日本への渡航は基本的に制限されていた。1919 年 4 月に警務総監 部令第 3 号「朝鮮人の旅行取締に関する件」が制定され,朝鮮外に旅行しようとする朝鮮 人は,居住地の警察署または駐在所に旅行先と旅行目的を届け出て「旅行証明書」の発給 を受け,最終出発地(多くは釜山水上署)で警察に提示することを義務づける制度が始まっ た。この制度は朝鮮人側の反発によって,22 年 12 月に廃止されたが,翌 23 年 9 月の関
東大震災を契機に渡航は厳重に制限され,同年 12 月頃の渡航緩和にともない「渡航証明書」
の発給を受けた者の渡航が認められるようになった。24 年 6 月には渡航制限が見直され,
「渡航証明書」の発給は必ずしも必要ではなくなったようだが,27 年 7 月の警務局長通牒 によって,再び居住地警察署が発給した「渡航証明書」(あるいは釜山水上署などへの「紹 介状」など)を朝鮮側出発地で提示して,渡日が認められる制度に改められた。
*2 為美里国民学校
植民地時代の 1939 年 6 月に為美公立小学校として開設,現在は為美初等学校。高大成 さんのお父さんが通った南元国民学校は,1924 年に西中公立普通学校として設立されて いる。現・南元初等学校。
*3 新作路(再掲)
新たに作られた幹線道路のこと。植民地期の済州島では,1917 年に島民の負担で一周 道路を完成させ,1932 年には済州・西帰浦直通の縦断道路が造られた。
*4 為美里襲撃
1948 年 11 月 28 日早暁,遊撃隊(パルチザン)は南元面の南元里と為美里の 2 カ所を 同時に襲撃し,両警察署を攻撃したほか南元・為美両集落の民家 250 棟を燃やした。双方 で住民 50 余名が死亡,住民 70 名と警官 3 名が負傷し,遊撃隊員も戦闘により 30 名が射 殺された。為美里の犠牲者は 30 数名と推定されている(『済民日報』四・三取材班〔文純 実訳〕『済州島四三事件』第 4 巻(上),新幹社,111 ページ)。
*5 地下間接選挙(再掲,改稿)
1948 年 5 月 10 日の南朝鮮での選挙(北済州郡の 2 選挙区では不成立であったが)を通 じて制憲国会が開かれ,南朝鮮のみでの政府樹立が確実となる中,北朝鮮でも政府樹立に 向けての選挙実施が決定された。新たな政府は統一政府でなければならないという立場か ら,この選挙は全朝鮮で行うものとされ,南朝鮮で秘密裏に実施された地下選挙では,南 朝鮮人民代表者大会(8 月 21 ~ 26 日に海州で開催)に出席する 1,080 名を選出した。
済州島での地下選挙は,主として白紙をまわして判を捺すという方法によっており,投 票とは理解せず,ただ山側を支持する署名に参加したという認識をもっている者が大半で あり,また同じ村の住民に頼まれれば断りきれない雰囲気もあったという(前掲『済州島 四 ・ 三事件』第 3 巻,200 ~ 204 頁)。
南朝鮮人民代表者大会には 1,002 名が出席し,南労党系に加えて,権泰錫(民主韓国独 立党),呂運弘(社会民主党),金奎植(民衆同盟)など南朝鮮の協商派も参加した。とく に済州島からは武装隊の指導者であった金達三ほか,姜圭燦,高ジニら 6 名が参加し,8 月 25 日に金達三が済州島パルチザン闘争の成果を報告している。この大会で南朝鮮地域 の代表として 360 名の代議員が選出される一方,北朝鮮地域では 8 月 25 日に選挙が実施 され,99.88%の投票率を得て 212 名が選出された。以上,合計 572 名の代議員によって,
9 月 2 日に朝鮮最高人民会議第 1 次会議が開催され,9 月 9 日に朝鮮民主主義人民共和国 が成立した。
*6 石垣・城壁(再掲)
4・3 事件勃発後,住民には遊撃隊との連絡を遮断する目的で集落の周囲に石垣を積む などの強制労役が義務づけられ,完成後はその護衛の任務を負わさせられた。とくに警察・
右翼などの迫害を避け漢拏山に身を隠したのち「投降」した住民たちは,「暴徒」嫌疑者 として迫害され,しばしば城壁建造やその護衛などの苦役を課せられることになった。
*7 暴徒(再掲)
1947 年の 3・1 節発砲事件後,右翼テロの激化に対抗する武装闘争に備え,社会主義の 影響を受けた青年たちを中心として,漢拏山中に遊撃隊が結成された。済州島の人々は,
当時彼らを「山サのン暴ポ ク徒ト」「山サ ン部プ隊デ」「山サのン人サラム」などと呼んでいた。
*8 오オ름ルム
なだらかな丘の形状をした寄生火山。漢拏山を中心とする火山島である済州島の地形を 特徴づけるものであり,全島で約 360 を数える。
*9 光州師範学校
行政上,済州島は 1946 年 8 月に済州道として独立するまで全羅南道に所属していて,
全羅南道の教員養成機関としては 1938 年に開設された官立光州師範学校があった。植民 地時期,済州島内の中等教育機関は済州農業学校が唯一の存在であり,中等教育を受ける いま一つの代表的な方法は本土にある光州師範学校への進学だった。現在の国立光州教育 大学校の前身の一つである。
*10 南朝鮮単独選挙(再掲)
1948 年 5 月 10 日に実施された朝鮮南部に単独政府を樹立するための代議員選挙。47 年 9 月に第 2 次米ソ共同委員会が決裂した後,アメリカは朝鮮独立問題を国連に上程,臨時 朝鮮委員会が構成され,政府樹立のための選挙を監視することになった。しかし選挙は北 緯 38 度線以南だけで実施され,選出された代議員は憲法制定のため議会を構成(制憲国 会),李承晩が大統領に選ばれ,48 年 8 月 15 日,大韓民国の樹立が宣布された。済州島 では島民が漢拏山に入って選挙をボイコットするなどの手段で抵抗し,3 選挙区中の 2 選 挙区で投票率が 50 パーセントに満たず,選挙は無効となった。再選挙は遊撃隊への弾圧が 峠を越した,翌 49 年 5 月に実施された。
*11 金キムピョン坪珍ジン(1926 ~ 2007)
実業家,教育事業家。済州市回泉洞の出生。10 歳で日本に渡り,ホテル業,遊技業な どの経営で財をなす。1961 年,在日本済州開発協会会長に就任後は済州社会の経済・文 化の発展に尽力する。1964 年に済州島初の本格的な観光ホテルとして済州観光ホテル(現 在のハニークラウン観光ホテル)を建設するなど,済州島の観光インフラの整備に貢献し た。また 1966 年には学校法人済州女子学園の理事長に就任して経営を立て直し,1977 年 には済州新聞社会長に就任(2005 年まで)するなど,女子教育・言論分野の発展にも寄 与した。在日本大韓民国居留民団中央本部副団長,在日韓国人商工連合会会長なども歴任。
*12 西北青年団(再掲)
朝鮮北部地域の社会主義化・親日派処罰政策の進展にともない,南に逃れてきた右翼青 年の反共団体。正式には「西北青年会」だが,済州島では「西北青年団」と呼ぶのが一般 的である。略称は「西ソ青チョン」。1946 年 11 月,朝鮮北部出身者の地域右翼青年団体を統合し て結成。翌 47 年 9 月に結成された大同青年団への参加を巡って分裂,残留派は同年 9 月 に再建大会を開いたが,最終的には 48 年 12 月,李承晩大統領の指示に従い,大韓青年団 の結成に参加して解散した。済州島には 1947 年の 3・1 節発砲事件前後に,警察補助機構 として投入されはじめたが,西青のテロ行為は島民の感情を刺激し,4・3 事件勃発の要 因の一つになったと指摘されている。4・3 事件発生後,蜂起鎮圧のために西青は追加派 遣されたが,この段階では西青の団員としてだけでなく,警察や軍の構成員として赴いた 者も多かった。