草奔における勤王思想の形成過程と諸活動 一徳島・竹津寛三郎(新田邦光)の場合一
教科・領域教育専攻 社会系コース 阿部聡美
はじめに
これまでの先行研究の中で、「草奔Jに ついては、政治史的にも経済史的にも様々 な評価がなされたが、特に、政治史的な視 点では、明治政府によって切り捨てられた 存在であるという評価が下されがちであっ た。しかし、社会学的な視点で考察すると、
「草葬」は、近代国家の形成に一役買った 存在と考えることができる。つまり、「草 奔」という政治的思想的立場は、これまで 御法度であった政治的意見を可能にしたと 考えることができ、「草葬」の政治参加は 可能で、あったと再評価できるのではないだ ろうか。以下は、このような向いを解決す るものである。
第 1章
先行研究は、「草葬j といわれる所以を
「出自j と「草葬概念」の 2点に求めてい る。 1つには、浪士、郷土、豪商、学者、
神官等のいわゆる「中間層の出自Jである という点であり、 2つには、「草葬思想を どのように把握し、認識しているかj とい う点である。把握と認識については、「自 己 規 定j、「他者規定」、「研究者による規 定」に類型化して検討することが出来る。
しかし、筆者は、ム先行研究における草葬 規定の検証事例に疑問をもっている。特に、
「他者規定」と「研究者による規定Jの場
指 導 教 官 高 橋 啓
合には、草奔思想、を持ち意見した活動家の みならず、尊王嬢夷運動における激派的な 活動家も含むと考えるからである。このよ うな状況を考慮すると、「他者規定jや「研 究者による規定Jについては、慎重になら ざるを得ない。本章では、阿波出身の竹津 寛三郎(以後竹津と略)が自らを、「出自」
と「自己規定Jにより、「草葬」であると 自己認識していたことを明らかにした。そ して、先行研究に対する問題意識を、竹津 という人物を通して検証している。本研究 のねらいは、①草奔思想とはいかなるもの か、また、②草葬思想の形成過程を明らか にすることの 2点であり、「草奔Jの存在 を再評価することである。
第2章
本章では、竹津が草奔思想を形成した儒 学と平田国学を学び、昌平坂学問所、佐藤 一斎や若山荘吉に師事する過程で一定の思 想的到達点に達したことと、また、学問を 共にすることで、徳島藩士等多くの人々と 交わり、藩主に献策できるほどの政治的識 見を見出したことを述べる。
第3章
藩によって要請された献策書は、安政4 年 (1857) 7月から 19篇提出された。ま ず 献 策 書 に は 、 過 去 約 10年間も国元にい ない藩主に、徳島に帰ることを献策してい
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る。そして、幕府から受けた羽田大森の警 備を断り、代わりに淡路由良を警衛する必 要性を説き、併せて朝廷を守禦することの 重要性と必然性を説いた。また、竹津は、
即戦力としての「農兵jの育成を提案して、
採用さており、文久 3年 (1863)には、現 地に赴いて、「農兵j の育成に尽力した。
次に、「内勅J(文久 2年)の以前の安 政5年 (1858)に、朝廷に勤王の意思を示 す段取りをつけていることは、注目される。
しかし、藩の対応は、時期尚早であるとし て、朝廷・藩主の対面は、実現されなかっ た 。 と は い え 、 藩 主 の 行 動 は 、 安 政5年
(1858)以降に変化した。理由は、斎裕・
茂部父子で「政治的分業jをしたことがあげ られる。「内勅J(文久年間)以降は、幕藩社 会に大きな影響をもたらした。藩政の方向 性は蛇行し始め、これを一般的に、「暖昧 藩」と称していた。また、慶応年間以降は、
本藩よりも、稲田家の方が尊王棲夷運動に 積極的に参加した。
第4章
本稿では、草奔概念を指標にして、竹津 の献策書を和年号でわけで考察した。
竹津は、文久年間以降に、朝廷の動向に かかわる献策をしている。朝廷に対しては、
に っ た
自己の出自が「新田」であり、「草奔」で あることを示した。その契機・要因は、万 延元年 (1860)の桜田門外の変であり、諸 事件に関与した「ー挨徒党」と区別したい という竹津の意図がある。また、朝廷に対 して、自己を「草葬(之)臣jと称し、「一 挨徒党Jでないはことを強調し、説明する 必要があったともいえる。また、内勅は、
天皇が国事について主導権を持つという意 志と明示したものである。
慶応年間において、竹津は神祇官御用掛 に任じられたために、草葬概念を用いるこ とはなかった。竹j撃は、新政府樹立に向け て、古来の制度を復活させることにより、
天皇親政を目指したが、王政復古を実現す るために「祭政一致j を説き、その手始め に神祇官再興を献策したのである。そして、
この慶応年間には、竹津以外にも数名の「草 奔」が起用されてたことがわかった。竹津 は、朝廷の周辺にあって政治上の献策して いたことが考えられる。
第5章
竹津の活動は、尊王思想を掲げて活動を 始めており、平田国学との出会いから、勤 王思想、をより明確に現れたものであろう。
また、「ー挨徒党j との区別化から、草葬 概念を用い、過激な活動家と区別したかっ たのである。草葬思想の形成過程は、図 5
(資料参照)において示した。最後に、先 行研究の「草奔(之)臣Jの評価は、幕府 に重要な発言を行ったという意味付けだけ ではないことを示した。
結語にかえて
最後に、竹津の例のごとく「草葬(之) 臣」は、朝廷、維新政府に登庸された事実 を例示した。竹津を考察した結果、先行研 究の赤報隊等の草奔諸隊は、典型的な草葬 像ではなく、むしろ竹津の方が草奔像に近 いと思われる。この結果、先行研究による 草葬規定にある「草奔思想を形成したのか」
に対してその暖昧さを指摘し、新しい事例 を通して視点を変えた考察ができたものと 考えている。
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