問いかけの反転形式としての「QOL+」
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(2) デザイン学研究特集号 Vol.26-1 No.99. 建築においてヒューマニズムのあり方を指し示したアルド・ファン・アイク (1918-1999)は、オランダ第3の都市、デン・ハーグの運河沿いに、ささや かな教会建築(ローマン・カトリック教会、1964-69)を遺している(図4) 。 教会堂の内部は周辺の都市風景からは完全に閉ざされており、特徴的な円筒 形をした天窓から差し込む自然光を除いて、外部環境はきわめて抑制的に取 り入れられる。エントランスを入り、南北に配された会堂と多目的室との間に 図4 ローマン・カトリック教会(筆者撮影) 運河側からの外観(西立面). は、聖遺物を収めた、天窓と同じ円筒形の小礼拝室が東西方向に並ぶ(図5) 。 これらを左右に礼拝しながら聖壇の背後を横切るように東へ進むと、突き当 りの壁に十字架の架かる祭壇へとたどり着く。この教会堂では、集い、とど まって祈る空間と、一人、歩を進めながら祈る空間という、対照的な2つの 空間が直交した軸をもつように構成されている注2)。それらは同じ形態の天 窓をもつ空間でありながら、前者では低く薄暗い天井にまで空が引き寄せら れ、後者ではとりわけ高い天井から降り注ぐ光が、小礼拝室の連なった通路 を照らし出す(図6)。この高く明るい通路は、運河沿いの敷地の高低差に 合わせて設けられた段差の屈曲によって、足元を確かめながら右へ左へと蛇 行する東方への道行きを生み出している。ほんの数分に過ぎない経験である が、それは聖地への巡礼にも似た、濃密で深い信仰への自問を湧き起こさず. 図5 ローマン・カトリック教会 平面図 (図面右が北,図面上側矢印がエント ランス) 出典: Ligtlijn,V.( ed. ) ,“ Aldo van Eyck Works” , Birkhäuser, 1999, p. 128 注2)古典的なラテン十字形平面の大聖堂であれば,もっ とも天井の高い身廊の中央を西正面から東奥の聖壇. にはいない。この空間もまた、独自のしかたで、わたしが〈いま・ここ〉に いる意味を静かに教えてくれる。 スケールも機能も異なる2つの建築作品において見出された、このような 生の実感こそが、建築によってもたらされる QOL の本質といえるであろう。 なぜなら両作品とも、自己が自己を取り戻し、世界との結びつきを再認識で. まで通路が貫き,東西方向の主軸を形成し,これに. きる空間が周到にデザインされており、そこに実際に立ち会うことで、われ. 直交する翼廊が南北軸を形成するのが基本的な空間. われは各々の生の意味を見つめ直す機会を得るからである。. 構成であるのに対し,ファン・アイクによるこの教 会堂では,ほんらい身廊となるべき会堂は天井高が 抑えられ南北軸に沿う一方,入り口から通じるいわ ば巡礼路ともいえる空間が高さと明るさにおいて際 立ち,教会の主軸たる東方への軸性をもつ.こうし た軸構成の組み換えを,たんに敷地の形状や規模の 相違,あるいは古典様式からの脱却という近代建築. 2.建築における「内部と外部」という問題 そこで、あらためて建築デザインというものの特質を見直しておきたい。 あえて身も蓋もない定義をすることが許されるならば、それは畢竟、内部と. の信条のみに求めるのは表層的な解釈に過ぎるであ. 外部を区分しつづける営為であると言い尽くすことができるかもしれない。. ろう.建築家は,古典的な教会堂建築の構成原理を. ただし、外部とは必ずしも風雨にさらされた領域、内部とは必ずしも室とし. あえて換骨奪胎することで,集団(ミサ)だけでは なく,個々人がそれぞれに信仰を自問しつつ祈るた. て囲まれた領域を指すとは限らない。たしかに、手付かずの自然環境を外部. めの場所を中心に再構成するという,祈りの空間に. とするならば、それらの過酷な条件から身を守るために設えられたシェル. 対する革新的で周到な企てを目論んでいるのである.. ターは内部を生み出している(建築の起源をこうした庇護性に求める説は多 い)。しかし、そうした自然環境から人工的に隔離された構築物を都市と呼 び、都市が備える広場や道路などを外部として、学校や図書館などという内 部がつくられることもあるし、さらにいえば、そうした学校や図書館など、 機能や性質の異なる諸領域が複合した建物においても、エントランスホール や廊下という共用部分を外部とみて、教室や閲覧室を内部とみなすことがで きるだろう。さらには教室や閲覧室においてさえ、ワークスペースやキャレ ルといった内部が生じることがある。あるいは全く逆の視点にたてば、大草 原に立つ一本の大樹がもたらす心地よい日陰もまた、自然環境とはいえ、ひ とつの内部空間といえるかもしれない。いずれにせよ、内部と外部とは、あ らゆる領域において入れ子のように何重にも生成する。いわば空間や領域に 意味の差異がもたらされるとき、その区別をもっとも端的に言い表す対概念. 図6 ローマン・カトリック教会(筆者撮影) エントランスより東をみる. として、一方が内部、他方が外部とされるのである。こうした重層的な区別 に関して、アルド・ファン・アイクは次のように述べる。. 41.
(3) 42. 特集:「QOL+(プラス)」を考える. 住宅や都市について、それがたくさんの場所の集まりと言えるなら、人がある現 実の場所を出るとき、それは必ず同時に他の場所へ入るということでもある。… (中略)…出るこということは入ることを意味するのだ 。注3). われわれはそこが住まいであろうと、街路であろうと、草原であろうと、 必ず何らかの意味を帯びた場所に「入って」いる。いわく、 「朝に住居から 出ることが、愉快なドライブのために街路へと入ることかもしれない」注4)。 この言葉に従えば、究極的な意味での外部とは、われわれにとってはつね に〈彼方〉へと退いてゆく領域であり、不可知の広がりということになるだ ろう。たとえ、まだ人手の入らない自然環境であっても、それがわれわれに よって名付けられ、定位された途端、 〈こちら側〉に引き寄せられることに なる。三方を山々で包囲された山紫水明の地は、そこに宮殿が造営され、条 坊がひかれる以前から、それらの山々が東山、北山、西山と方位付けられた 段階ですでに都としての構造と内部性を予備している。かつて国見とよばれ た選地儀礼によって、神性を宿した為政者は、得体の知れぬ外部から民が集 い住まうべき空間を聖別し、寿ぐことで、われわれの帰属すべき領域を他か ら分節し、内部化したのである注5)。こうした消息は、 「鬼は外、福は内」と いうあの掛け声を例に出せば直ちに了解されるであろう。われわれはつねに、 「福」の宿る「内」を求め、清め、そしてここに住まう。一方、住まうべき 図7 煉瓦造の田園住宅(図面周囲は額縁) 出典:Riley, T. and Bergdoll, B.(ed.) “ , Mies in Berlin” , The Museum of Modern Art, New York, 2001, p. 195 注3) Ligtlijn,V.and Strauven F.( ed. ) ,“ Aldo van Eyck. 内部を整えることでわれわれはさしあたりの外部を措定してはいるものの、 そこもまたいずれ内部化され、意味づけられることから逃れ得ない。それは いわば無限の循環であり、まさに「出る」ことは直ちに「入る」ことを意味 するのである。そして「鬼」はどこまでも外部へと追い立てられてゆく。 このような経緯のゆえに、建築家たちが敷地を訪れ、自らの構想する建物. Writings Volume 1: The Child , the City, the Artist ──. を構想するとき、あるいは、図面を引くにあたって真っ白な製図用紙を前に. Publushers, 2006, p. 56. するとき、かれらはまるではるかな宇宙の果てを見定めたり、夢中夢や劇中. An essay on architecture The in-between realm” , SUN. 注4)Ligtlijn,V. and Strauven F(ed.)注3)前掲書,p. 116. 注5)C.ノルベルグ=シュルツによれば,古代ローマの 都市は,世界の軸とされる南北のカルドーと,太陽 の進路を表す東西のデクマヌスとによって四分割さ れ,2軸が交差する中心は, 「世界」を意味するム ンドゥスと呼ばれる竪穴により地下界の霊力と接触 することで,土地の聖化がなされたという.こうし た東西南北の四方位による場所の秩序付けや構造化 は,本文で取り上げている京都における四神相応や 風水思想にも符合するように,世界の多くの都市に, 共通した理念的構造として見出すことができる. ( Norberg-Schluz, Ch.,“Meaning in Western Archi-. , Rizzoli, 1993, pp. 42-44) tecture”. 注6)1910年にベルリンで出版された, 『ヴァスムート・ ポートフォリオ』と呼ばれる作品集.この作品集か らミースが受けた影響については,以下の文献に詳 しい.富岡義人「連載 生誕150年 フランク・ロ イド・ライトの今日的意義 第1章 ヴァスムート・ ポートフォリオ ── 近代建築に自由をもたらした本」 『近代建築』2017年6月号,近代建築社,pp. 50-53. 劇を構想したりすることにも似た、途方もない問いに囚われることすらある。 際限なく広がる世界のなかで、どこまでがかれらの関わるべき内部である のか。あるいは、どこから先を外部として不可知のままにしておいてよいの か。自然環境が取り巻き、あるいは都市社会の恩恵を享受する以上、敷地境 界内だけで建築が自足することは不可能であり、また、物理的な用紙サイズ の限界はあっても、描ききれない紙幅の周囲には、文字通り地続きの世界が 広がっている。たとえばおよそ1世紀前、近代建築を牽引したドイツの建築 家ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)は、自らの構想する住宅案 ( 「煉瓦造の田園住宅」1924)にあえて屋内外、室内外の厳密な区別を設けず、 閉じた空間を徹底的に解体した。ヨーロッパで出版されたフランク・ロイド・ ライト(1867-1959)の作品集注6)に衝撃を受けた若きミースがその手法を さらに徹底し、計画案として発表した作品であり、のちに近代建築特有の 空間構成と評される「流動する空間(flowing space) 」の嚆矢である(図7) 。. 注7)また,ある現代建築家は,建築図面を描くにあた. 注目されるのは、諸室の流動化にとどまらず住宅図面じたいもまた、用紙か. り,まずはじめに用紙全面にわたって9H の超硬質. らはみ出させるという表現が用いられていることである。紙面に描かれた自. を施すのだという.この作業もまた,白紙という見. らの建築空間における内部、外部のみならず、描かれえぬ外的環境に対して. の鉛筆を使い,肉眼に見えるか見えないかの下塗り 知らぬ外部をみずからの手の届く範囲へと取り込も うとする,内部化の儀式と見なすことができるだろ う.(朽木順綱「紙の上に刻まれた「筆蝕」── ド ローイングという「もうひとつの建築」」『紙の上 の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s 展図 録』文化庁,2017,p. 54). も、際限のない接続が試みられている注7)。 建築デザインにまつわるこのような果てしなさを、優れた映像作品で表現し たのが、20世紀後半を代表する建築家、プロダクトデザイナー、そしてすぐ れた映像作家でもあった、イームズ夫妻(夫チャールズ、1907-1978、妻レ.
(4) デザイン学研究特集号 Vol.26-1 No.99. イ、1912-1988)である。かれらは「パワーズ・オブ・テン」 (1977)という 短編映画を制作し、10の冪乗の単位で増減するスケールの世界において見渡 される風景を、当時の望遠鏡でも顕微鏡でも到達することのできない広大な宇 宙空間や微細な原子の構造として描いてみせた(図8) 。心地よく晴れ渡った シカゴの湖畔でピクニックを楽しむ家族の空間が最初の内部空間であるとすれ ば、そこから遥かに拡大してゆく宇宙の最深部から、あるいは反対に人間の皮 膚細胞からさらに極小の素粒子の集まりまで、内部空間の広がりは無限大と無 限小を自在に往還する。そこには、われわれがこの世界のどこまで手を伸ば し、われわれの居所として見定めようとしているのか、その飽くなき探索と同 時に、裏を返せば、領域の大小にかかわらず、われわれの見知らぬ外部とは、 極大にも極小にも待ち受けるものだということが示唆されてもいる。. 3.内部と外部を区分することへの惑い ところで、建築を志す学生たちが、設計課題への取り組みを通して絶えず 問われ続けることになるのもまた、かれらが図面に引く線の一本一本が、つ ねにこうした内部と外部の区分から免れることがないという有責性であると いえるだろう。それはときに「敷居を下げる」ような気安さ、あるいはとき に「塀の中」のような重みを伴って、往々にして人間の善悪や美醜などの根 源的な価値判断へと接続される。あえて極言すれば、建築をデザインするこ とは、この点において倫理的思考の具現化とも定義できるだろうか。なるほ ど建築が、デザインの諸分野のなかでも哲学思想へと傾斜しやすい特質を もっているのは、こうした理由によるのかもしれない注8)。たとえば毎年デ ザイン系大学の卒業研究として制作される作品を見渡してみると、なぜか建 築系の作品において際立って、「こじらせた」傾向のものが多い。たとえば ひとつの試みとして、毎年度の全国の大学の建築系学科における卒業制作を 図8 パワーズ・オブ・テンより(キャプ チャ画像) 出典:DVD『EAMES FILMS チャールズ &レイ・イームズの映像世界』アス ミック,2001 注8)西洋哲学が古代ギリシア哲学をいまなおその淵源と しているように,建築もまた,古代ギリシア建築の 規範性や様式性をいまなお参照しており(規範から の逸脱という現代建築の傾向もまた,逆説的な参照 といえる) ,ともに深い歴史的ルーツを共有している といえる.また,ザハ・ハディドやフランク・ゲー リーらの建築家に共通する,非線形で複雑に入り組 んだ建築造形を意味する「デコンストラクティヴィ ズム」という総称が,哲学の脱構築(デコンストラ クション)になぞらえて言及されることもある.な お,近年出版された,哲学の分野から建築を論じた 著作としては『ハイデッガーの建築論 ── 建てる・ 住まう・考える』 (中村貴志訳,中央公論美術出版, 2008) 『哲学者の語る建築 ─ ハイデガー,オルテガ, ペゲラー,アドルノ』 (伊藤哲夫,水田一征訳,中 央公論美術出版,2008) 『建築の哲学 ── 身体と空 間の探求』 (四日谷敬子,世界思想社,2004)など があり,一方,建築学の分野から哲学に言及する 著作としては『Any:建築と哲学をめぐるセッショ. ン 1991∼2008』 (磯崎新,浅田彰編,鹿島出版会, 2010)などがある.また,建築家と哲学者の対談と して『les objets singuliers ── 建築と哲学 ジャン・. ボードリヤール,ジャン・ヌーヴェル』 (塚原史訳, 鹿島出版会,2005)などがある.このように,両分 野ともに,その関わり合いに言及する論考は数多い.. 集成した『全国大学建築系学科卒業設計優秀作品集 卒業制作2018』(『近 代建築』2018年6月号別冊)の掲載作品タイトルを一瞥してみれば、2018 年度では「音楽の譜面から考える空間構成」や「“私”をみつけるための場 所」「死者と自然と生きる都市」「純物質空間における知の固定化」などがた ちどころに目にとまる。無論、こうした傾向はこの年度に限ったものではな い。人間の生死を扱うテーマや、詩作や音楽といった非造形の芸術分野への 参照、敷地条件や力学的構造を無視した想像上の風景描写など、作品が素朴 な設計図であるなどとうっかり予断していると、ものの見事に裏切られるよ うな、人間(あるいは制作者自身)の内面へのナイーブな問いかけ、思春期 の青年たちのごとき赤裸々な自問自答に当惑させられることになる。ややも するとわれわれは、かれらの純粋でラディカルな問いへの同調感度を失いが ちであり、ときにその非現実性や未完結性を安易に批評しがちである。しか し、年度ごとに同じような批評があらゆる場面で何度も繰り返されているに もかかわらず、幾年経って作者が変わろうとも、同様のテーマが繰り返され るからには、やはりそこには何らかの本質的理由があるに違いない。 かれらの作品が打ち明けるのは、いわば倫理的、価値論的な次元での「内 部と外部を区分する」ことの困難さであり、それを無神経に遂行している(と 見える)設計実務者たち、あるいは迷わず遂行せよと駆り立てる(ように聞 こえる)教員たちへの、異議申立てなのではないだろうか。このとき設計実 務者や教員たちは、さながらかれらの外部にいる「鬼」であろうか。かれら は建築という名のもとで何らかの厳然たる区別や裁定を下すことに対して、自. 43.
(5) 44. 特集:「QOL+(プラス)」を考える. らも「鬼」に与してしまうような何らかの疚しさ、割り切れなさを感じ、その 惑いを素直に吐露しているように思えるのである。もっとも、その手法そのも のが〈内向き〉であるという誹りを免れないということもまた然りではあるが。 そこで再び、あのイームズの短編映画を思い返してみたい。グーグル・ アースやコンピュータ・グラフィックスなどがまだない時代に、「パワーズ・ オブ・テン」は人間のスケールを遥かに超え、地球を飛び出し、銀河からも 離れてゆく映像をつなぎ合わせ、ついには10の24乗メートル(1億光年)四 方というとてつもなく広大なスケールを漆黒の闇として画面全体に映し出 す。ナレーションが教えるのは、むしろこの風景こそが宇宙の大部分の姿な のであり、この空虚さこそが普通なのだということ、そして、近しいものに 満ちたわれわれの世界の方こそ、例外的だということである。そして映像 はふたたび尺度を縮めはじめ、湖畔のピクニックの風景へと帰還する。「パ ワーズ・オブ・テン」の白眉は、この帰還の過程にある。それは、慣れ親し んだ日常へ戻る安心感、などといった感傷的な理由からではなく、日常世界 を例外的なものとしてあえてよそよそしく捉え、見慣れた世界が限りなく拡 張された果てに、視点が反転するという、外側からの問いの構造のゆえであ る。〈わたし〉を中心とした内側からの視点が限界を迎え、見知らぬ外側か らの反作用のような視点に取って代わられる。まるで脱出速度を失ったロ ケットが、地表に向かって加速度的に落下してゆくかのように、一気に引き 戻される逆回し映像のなかで、われわれが築き上げた内部とは、どれほどま でに安定したものなのか、それはむしろ例外的で不安定なものであり、良く も悪くも奇跡的に保たれている(とわれわれが信じている)に過ぎないので はないかということを思い知らされる。そして帰還を果たすと、ただちに今 度は微小な世界への旅が開始され、人間の細胞組織から遺伝子、分子、原子 を経て、原子核や陽子、中性子が捉えられ、最後には10のマイナス16乗メー トル、視覚化することのできない素粒子の世界の暗闇に至って映像は閉じら れる。ここもまた、もはやわれわれの住む内部ではない。否、むろん人間の 皮膚の中、細胞の中であるから、論理的には内部であるはずなのだが、すで に極大世界の限りない闇から帰還したわれわれにとっては、この極小世界の 闇もまた、内側を突き抜けて裏側へと反転してしまった、もうひとつのよそ よそしい外側のように見えるのである。あえて非論理的に言えば、われわれ の内部にもまた、外部が包含されているということである。 もちろんこの映像作品の解釈として、日常生活のかけがえなさを教喩する表 現であると穏便に受け止めることも可能ではある。しかし、映像の最後が闇で あり、この先はまだ謎であるというナレーションを残してエンドクレジットを 迎えることから鑑みれば、むしろ、われわれが内部だと信じて住み込んでいる 世界への疑念や惑い、足元の定まらない漂流感への挑発とみることもできる。. 4.問いの反転 ── 外部からの視点 学生たちの作品に垣間見える、内部と外部を区分することへの逡巡も、 イームズの映像作品の鑑賞後に胸にのこる宙吊り感も、同類の感覚なのでは ないだろうか。それは、建築のデザインが生み出そうとしている内部に安穏 と住み着いているわれわれ、あるいは〈いま・ここ〉にいる〈わたし〉への 審問である。むろん、かれやかの女、その複数形もまた、この内部には権利 上は存在する。しかし、何らかの手立てによって区分された内部に共存す るものであるかぎり、かれらもまた、〈われわれ〉という同類性、同質性に.
(6) デザイン学研究特集号 Vol.26-1 No.99. よって最終的には回収されることになろう。こうして複数化した自己が展開 され、世界との結びつきが次々と打ち立てられ、世界が一人称的な内部とし て充足されてしまうとき、かれやかの女、あるいは彼方と呼称される他者や 異邦人、外部ははたして許容されるのであろうか 注9)。 「鬼」を追放すること で獲得したわれわれの「福」には、ほんとうに何の翳りもないであろうか。 であるならば、ルイス・カーンのソーク生物学研究所も、アルド・ファ ン・アイクのローマン・カトリック教会も、先述したような内部感覚の充実、 生の実感という、 〈わたし〉の側からの素朴な評価だけでは平板に過ぎる。 名作と称えられる建築作品の価値を疑うわけではないが、ここで問いを反転 させ、外部という視点から、新たな評価を加えておくことが妥当であろう。 はたして、ソーク生物学研究所のプラザから望むあまりにも美しい水平線 を、たんなる自然風景ではなく、別の意味として捉えることは可能であろう か。そのひとつの切り口は、この作品がもつ大陸的スケールにある。アメリ カ合衆国にとって西海岸とは、大西洋から太平洋までをひとつの国家が接続 するという、いわゆる西漸運動の到達点として、特別な意味をもつ。開拓者 たちは先住民族を追い立て、原野や森林を切り開き、「アメリカ人」にとっ ての外部をつぎつぎと内部化していった。そしてついに西海岸へと至ったと き、フロンティアという境界線じたいが消滅し、もはや外部は地続きではな くなったのである。そのような全き内部化の象徴として、ソーク生物学研究 所のプラザから西方の太平洋を望むとき、アメリカの歴史とともにこの視線 の先に捉えられてきた、さまざまな外部の残像が浮かび上がる。誰かが居場 所を定めることは、同時に誰かが居場所を追われることにほかならない。プ ラザの水路の先に沈む夕日を眺め、安易な感傷に浸るだけでは、この空間の 奥深さ、壮絶さは計り知れない。 西部開拓を巡るこのような来歴そのものが建築家の念頭にあったかどうか はともかく、バラガンの「空へのファサード」という言葉に衝撃をうけ、構 想を一転させたという経緯に、かれがこのプラザに込めた特異な意図を伺い 知ることができるだろう。一般的にファサードとは、前面道路に向いた建物 の正面のことであり、言うまでもなく人間の眼から見た建物の立ち姿を示し ている。バラガンはこの視点を、「空から」に切り替えるよう促したのであ 図9 ソーク生物学研究所・模型写真(筆 者作成) 海側(写真中央)の建物群は集会施 設など研究所関連施設の計画案(実 現せず) 注9)映画化もされた小説作品『俺俺』 (新潮社,2010年) において,著者の星野智幸は,いわゆるなりすまし 詐欺に着想を得て,一人称的な内部が加速的に膨張 した果ての世界を,荒唐ゆえに虚無的な乾きをとも なった寓話として描き出す.それは,主人公の「俺」 がなりゆきで「オレオレ詐欺」をはたらき,見知ら ぬ他者に対して「俺」を騙ってしまったことを発端 に, 「俺」が無限に増殖した結果,世の中の誰もが 「俺」と化してゆく,という不条理な物語である.し かし,じつはこうした不条理や矛盾,あるいは暴力 性とは,小説のなかの虚構としてだけではなく,本 稿で論じる建築における生の実感,内部の安心とい う安易な価値づけにもまた,潜在しているのではな いかという疑問が浮上する.このとき,一人称を積 み重ねた語としての「俺俺」と「われわれ」との間 の差異はもはや些少な語弊でしかなく,その本質に おいては根を同じくしていることに気付かされる.. る。それは、人間の視点として通常の水平方向を指さず、地に足の着いた高 さにもない、奇抜な設定と言わざるを得ない。その視点は誰にも帰属しな い。それは、飛行機の高度すらはるかに超えた高みから、敷地の内外も、フ ロンティアの内外も相対化し、われわれを問い質す視点とは言えないだろう か。 「パワーズ・オブ・テン」が示した視点の反転と同じように、ソーク生 物学研究所のプラザにおいても、われわれの居場所は外部からの問いによっ て宙吊りにされる。われわれは太平洋を望み、〈いま・ここ〉としての居場 所を見出すと同時に、空という〈彼方〉、絶対的な他者からの俯瞰をも受け 止めている。いやむしろ、空へと開かれたプラザによってわれわれが〈彼 方〉へと投げ出されることではじめて、さしあたりの〈いま・ここ〉を見出 すことができるのかもしれない(図9)。 ところで、ルイス・カーンのデザイン思想を端的に示した図式のひとつ に、学校を併設したある教会堂(ファーストユニテリアン教会、1959-67) の設計に際して描かれたドローイングがある(図10)。単純な同心円で示さ れた図式であるが、最外縁の学校、その内側の廊下(corridor)、そして中心. に疑問符が記された聖域としての会堂が正方形で描かれるとともに、この円. 45.
(7) 46. 特集:「QOL+(プラス)」を考える. 形と正方形の間の部分に、回廊(ambulatory)なる名称が与えられている。 図式は必ずしも実際の建築物の平面図を想定したものではなく、最終的には 全く異なる構成をもつ案が実現された。しかしそれは「その後の全作品を統 べる原型」注10)といわれるように、同時期に設計がなされていたソーク生物 学研究所をはじめ、カーンの空間がもつひとつの特質が示されている。カー 図10 ファーストユニテリアン教会のため の図式 出典:前田忠直『ルイス・カーン研究 ── 建築へのオデュッセイア』鹿島出版 会,1994,p. 138. ンはこう述べる。 回廊は確信していない人のためにあります。 「私はそれについてもう少し考えたい。まだ、教会のなかに入りたくありません」と。 かれはカソリックであるかもしれないし、ユダヤ教徒であるかもしれないし、 あるいはプロテスタントであるかもしれません。 そして、かれは話を聞きたいと感じ取ったとき、ユニテリアン教会へ出かけるに すぎません。 それゆえ、回廊が見出されました 。注11). 回廊は、 「留保の場所、さらに言えば、非決定の場所」注12)とも解説される。 それは、自らの信仰が問われ、神的存在との近さ、あるいは遠さとして、自 らの定位が試される場所である。「確信していない」「もう少し考えたい」と いわれるように、疑問符が付された会堂を謎のままに信じるわけでも、謎の 周囲を取り囲む学校で、目的を定めて学ぶわけでもない。それは矩形でも円 形でもなく、内部でも外部でもない空白地帯である。ソーク生物学研究所の プラザもまた、そのような余白の場所として理解することができるだろう。 奇しくも建物用途が重なるが、ここでファン・アイクのローマン・カト リック教会についても改めて考察しておきたい。先述したように、この教会 には、孤独な祈りを受け止める小さな巡礼路がつくられていた。そこでは、 ささやかなスケールをもち、内向的な空間における、東方への歩みが生み出 されており、その特質はソーク生物学研究所とはことごとく対照的である。 しかし、水平線を望むわけでもなければ、空に開かれるわけでもないが、こ 図11 ローマン・カトリック教会(筆者撮影) 東側の壁際から十字架を背に西を見 る。竣工当時の写真によれば、西側 の壁にもかつては十字架が架けられて いた。 (MacCarter, R.(ed.) “Aldo van Eyck” , Yale University Press, 2015, p. 142). の空間にもやはり、視点の反転が組み込まれていることが読み取れる。 エントランスから東に伸びる通路に沿って、小礼拝室を巡りながら十字架 のもとへとたどり着き、祈りを捧げて振り返ると、数段分ではあれ、上った 高みから見渡されるのは、天窓からの光に照らし出された自らの歩みの道程 である(図11)。小礼拝室のそれぞれは、確かにわたしがかつてそこにいた ということ、その道を辿ったということの痕跡の寄る辺となる。現在は存在 しないが、かつては、つい先ほど入った西側のエントランス側の壁にもま た、いま背にしている十字架と正対するように、もうひとつの十字架が掲げ られていた。いわば、わたしのこの歩みは初めから、眼前の十字架によって 導かれるとともに、背中の十字架によって見守られていたのである。こうし た正逆の視線の交錯によって、まるで長時間露光で捉えられた写真のよう に、かつてのわたしの残像が、わたしのいる〈いま・ここ〉の定位を滲ま. 図12 ローマン・カトリック教会(筆者撮影) 建物南側の会堂から聖壇を北に見 る。小礼拝室の並ぶ明るい通路空間 が聖壇の背後を東西に横切る。 注10)ルイス・カーン著,前田忠直訳『ルイス・カーン建 築論集』鹿島出版会,1992,p. 166脚注. せ、揺り動かす。このようにして、すべての空間がひとつながりになったこ の建物のなかで、小さな巡礼を辿ったわたしは、会堂にとどまり祈る人び と、多目的室に集う人びとと同じように、数分前のわたしを、他者のように 目撃することになる(図12)。このとき、窓もなく閉じられた教会堂の内部 空間は、わたしの内なる風景へと開かれるのである。逆に言えば、わたしが. 注11)ルイス・カーン,前掲書,p. 165(本稿での記述に. 教会堂で得た生の実感は、このようなわたしの揺らぎによってこそもたらさ. 注12)前田忠直,前掲書,p. 139. れたとは言えないだろうか。. 合わせて訳語を一部変更した).
(8) デザイン学研究特集号 Vol.26-1 No.99. 5.結── QOL から QOL+へ. 教会堂の設計に際してアルド・ファン・アイクは次のように述べている。 空間で思慮深くあるためには、ひとの思慮はあてもなくさまよわねばならない。 思慮を持たないことさえ必要です。とりわけ教会堂においては。注13). かれもまたルイス・カーンと同じように、非決定であること、宙吊りのま まであることを意図的にデザインしたのである。このことを別の言説では、 「心地よい惑い」と名付け、次のようにも言う。 わたしが個人的な哲学をもっているかと問われれば、わたしは即座に、否、と 答えます。なぜならものの考え方とはつねに発展し続けるものであり、…(中 略)… 未だ答えられていない神秘をそれ自身のうちにたたえた、心地よい惑い を含む雰囲気をつくりだすものだからです。…(中略)… わたしはそれゆえ、 心のなかの螺旋について述べるのですが、たしかにこのことに関しては、究極的 に明確なことがあります。それは、螺旋の内部が同時に外部でもあるという未決 定なリアリティであり、螺旋はつねにその運動、つまり螺旋自身の連続性による 内へ、外への運動のなかに取り込まれるということです 。注14). ファン・アイクは、内部と外部とを区分するという建築デザインの宿命 を、「内部が同時に外部でもあるという未決定なリアリティ」をもつ螺旋の 図式として読み替える。「もちろん、わたしが考えているのは形として構成 された螺旋ではない」と付言されるように、それは建築形態ではなく、建 築思想として理解されねばならない。内側にも外側にも、限りなく伸びて ゆく螺旋は、極大にも極小にも接続し、つねに半開きで、完結することが ない。それはソーク生物学研究所の眺望にも、ローマン・カトリック教会 の内向性にも重なり、さらには、「パワーズ・オブ・テン」でみた、反転 し、漂流する問いの構造そのものでもある。イームズ夫妻が描いた宇宙や素 粒子を想起させるかのように、ファン・アイクもまた、「われわれが顕微鏡 (microscope)や望遠鏡(telescope)を通じて発見するものは、万華鏡のよう に(kaleidoscopic)心を映し出したものだ」注15)という言葉を残している。わ. 注13)Ligtlijn, V.(ed.) ,“Aldo van Eyck Works” , Birkhäuser, 1999, p. 126. 注14)Ligtlijn,V. and Strauven F.(ed.)注3前掲書,pp. 123-124. 注15)Ligtlijn,V. and Strauven F.(ed.) “ , Aldo van Eyck Writings. Volume 2 : Collected Articles and Other Writings 1947-1998,”SUN Publishers, 2006, p. 206. 注16)古東哲明『他界からのまなざし ── 臨生の思想』 講談社,2005,p. 144.本稿で論じているような「外. 部」や「他者」として,本書では「生」の「向こう 側」にある「死」を取り上げる.これを「絶対的な 外部性」とみて,そこから翻って見出された生がど. のようであるのか,という視点の転換を「臨死」な らぬ「臨生」と定義することで, 「自他の共在」と いう難問にひとつの洞察を示している. 注17)箒木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ──答えの 出ない事態に耐える力』朝日新聞出版,2017.著者 は精神科医の立場から,他者への寛容さを開いてお くための「不確実さや不思議さ,懐疑の中にいられ る能力」について論じる.かれはこれを詩人キーツ のいう「ネガティブ・ケイパビリティ」に重ね,積 極的,能動的な問題解決能力とは対照的に,終末期 医療や依存症治療などの医療のほか,教育や創作に おいて先の見えない「宙吊り状態」を進んで受け入 れ,他者や作品のあるがままに随伴することの重要 性を述べている.. れわれが生きる世界は、万華鏡のようにつねに揺れ動き、多面的であり、わ れわれの絶えざる問いかけと、その都度の仮設的な答えで組み立てられてい るに過ぎないことを、これらの作品は教えている。内部と外部をめぐる問い. を経て、どうやらわれわれは「境界線を引かない円を描くという矛盾」注16) をありのまま引き受け、実践する準備ができたようだ。 建築デザインがもたらす QOL についての考察のなかで見出されたのは、. 内部と外部、われわれと他者とを区分することへの惑いであった。その果て に生じた問いの反転によって、われわれは空間の表裏の間に生じた「答えの 出ない事態に耐える」注17)ための空白地帯へと投げ出される。われわれが〈い ま・ここ〉として定め、かりそめにも住まう場所とは、そのような空白地 帯とつねに、すでに隣り合わせなのである。いわばここに、「建築デザイン がもたらす QOL」と、「QOL がもたらす建築デザイン」とが交錯する。そ れならば、QOL の内と外を反転させることもまた可能だろう。われわれの. QOL とは、どこまでが〈われわれ〉のものであるのか。その描けない境界. 線のうえにたちずさむ寛容さが、QOL への惑いを、やがて「QOL+」とい う「心地よい惑い」へと昇華させるのではないだろうか。. 47.
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