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Title
行進踊りと日本語混じりの歌 : ミクロネシアの民俗芸能
に見る日本の植民地教育の影響に関する歴史的研究
Author(s)
小西, 潤子
Citation
静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇. 35, p. 97-111
Issue Date
2004-03
URL
http://doi.org/10.14945/00003644
Version
publisher
Rights
行進踊 りと日本語混 じりの歌
クロネシア
1の民俗芸能に見る日本の植民地教育の影響に関する歴史的研究―
Marching dance and Micronesian-Japanese songs:
The
historical
studyof
the Micronesian performingarts
influencedby
theJapanese
colonial
education小 西 潤 子 Junko KoNISHI (平成 15年10月 1日受理) は じめ に 1914-1945年 の両大戦間、日本が統治支配 した ミクロネシア (旧南洋群島
)に
おいて、島民 に唱歌教 育 (現教科名でいう音楽)が
なされる際、当時「 内地」2で用いられていた教材がほぼそのまま用いられ た ことが、筆者 によるこれまでの調査か ら推察 されている (小西 1996:162)3。 また、多 くの日本人 と の接触や 日本の流行歌の レコー ドなどが もた らされた結果、かつて各島で伝承 されていたものと様式 が異 なる日本語混 じりの歌が生 み出 され、 それが行進踊 りに も取 り入れ られるよ うにな った (山口 1993:153-155;小 西 20o3)。 しか し、当時の唱歌教育が どのようなかたちで行進踊 りに影響を及ぼ し たかについては、まだ解明 されていない。また、その後の芸能において、当時の影響がどのようなか たちで残存 しているか といった変化については、パ ラオとヤップに関する若干の考察以外は行われて いない (山口 1993;小西 2003)。 音楽教育史を振 り返 ると、1900年代半ばか ら戦前 までは、 さまざまな改革が推進 された大転換期 に あた り、今 日に至 るまでの制度的な基礎を築いた時期で もあった(河口 1991:269)。 本稿ではまず、そ うした唱歌教育の動向のなかで、特に ミクロネシアの民俗芸能に与えた影響が大 きか ったと考えられ る、1.唱歌教材選定、2.総合音楽教育 と唱歌遊戯、3.学校行事 との連携 に注 目して整理す る。次に、両 大戦間の ミクロネ シアにおける芸能 とそれをとりま く脈絡について整理する。 その上で、 日本の唱歌 教育が ミクロネシアの民俗芸能に与えた影響について考察するとともに、戦後か ら2000年代 に至 るそ の後の変化を地域 ごとに垣間見ることで、芸能がローカル化するプロセスを明 らかにするものである。I
日本の音楽教育の動向 (1910-1940年代)1.唱
歌教材選定 ミクロネ シアにおける日本の音楽教育で用いられた教材のうち、最 も主要なものは『尋常小学唱歌』 (1911-1914)で あった。 ここでは、内地 における唱歌教材選定について『尋常小学唱歌』成立前史か ヽ ヽ ヽ一
ら1920年代 まで と1930年代か ら1945年までとに分 けて、 ミクロネ シアの状況 も多少加味 しつつまとめ る。
1.1
文部省唱歌 と童謡の成立 まで (-1920年代) 1872年の学制頒布後、わが国では じめて出版 された音楽の教科書は、音楽取調掛編『小学唱歌集』 (1881)で ある。 ここに掲載 された唱歌は、アメ リカの音楽教材を もとに したスコッ トラン ド、アイル ラン ド、 アメ リカの旋律に、原詩 とは無関係な文語の歌詞を組み合わせた ものであった。 これに対 し て、20世紀初頭 にはいわゆる「唱歌調」の歌が創作 されるようになった。 この音階構造は、西洋音階構 成音の うち第四音 と第七音を抜 いた「 ヨナ抜 き音階」か らなっている。 また、拍節構造は付点8分 音符 と16分音符などを組み合わせた「 ピョンコぶ し」の リズムを用 いた4分の2拍 子 または4分の4拍子を典 型 とし、4小節単位のまとまり3つ か 4つ で1曲を構成するものである。 このよ うな音楽に国語読本中 の国語の歌詞がつけられた ものが、文部省編の『尋常小学読本唱歌』 (1911)で あった (小島 1982)。 その翌年の19H年
か ら1914年にかけて、『尋常小学読本唱歌』に掲載 された全27曲に加えて、各学年 ごとに20曲 (第5、 6学年は19曲)を
配当 した『尋常小学唱歌』が刊行 された。 これ らの歌はすべて 日 本人 による新作であったが、作詞作曲者名が明記 されずに「文部省唱歌」と呼ばれた。なかには、《日 の丸の旗》(高野辰之作詞、岡野定一作曲)、 《富士山》《雪》(林柳波作詞、井上武士作曲)《かたつむ り》など、その後 も教科書 に残 り、戦後には共通教材 となった もの も多 い。一方、1910年代末か ら「 童 謡運動」の影響 によって 《赤 い靴》(野口雨情作詞、本居長世作曲)、 《靴が鳴 る》(清水かつ ら作詞、弘 田竜太郎作曲)な
ど、「 日本の子 どもの心情に適 した」童謡が創作 された (本多 2000)。 以上のように、1914年の海軍による ミクロネシア統治支配開始か ら、1922年の南洋庁設置 と公学校官 制発布 に至 る期間、内地では現在 まで歌 い継がれている唱歌や童謡が、唱歌教育用教材 として整備 さ れていたのであった。 そ して、 これ らの教材は、そのまま ミクロネシアの子 どもたちに も使用 された のである。1.2
軍国主義の台頭 と戦時期 まで (1930-1945) 1930年代前後 には、ラジオや レコー ドのマスメディアの発達 に伴 う流行歌 (民謡調小唄)の 大衆への 浸透 による唱歌教育への影響を懸念 し、音楽教育界では唱歌教授改革や教材批判の声 もあが るように なった。 こうした動 きは、直接的ではないが1932年の『新訂尋常小学唱歌』編纂の推進力 と条件を与え た。すなわち、歌詞の面で国語読本 と関連づけ、音楽面で優雅な旋律や日本的な性格の ものを導入 し た国民音楽を創造することで、流行歌の大衆 と子 どもたちへの浸透を防止す るという方針の もとで、 作業が進 め られた (河口 1991:270-272)。 実際の改訂 としては、時代的に古 くなった歌を削 り、各学 年 ごとに10曲ほどの新曲を加えた ものであった (本多 2000)。 ただ、 ミクロネシアの唱歌教育現場で、 この改訂方針が どの程度生かされたのかは不明である。 それ以上 に現地での唱歌教材選定 に大 きく影響を与えたのは、1931年の慮溝橋事件 と翌年の満州事 変をきっかけとする軍部 による植民地政策の推進 とナショナ リズムと軍国主義への傾倒であ った。文 部省は、1932年「『時勢 に適 した』唱歌教育の使命を果たすために、『国歌の栄光、国歌の偉人』という 教材選定の視点」という諮問案を示 した (河口 前掲書:272-274)。 以後、1941年の国民学校令公布によ る唱歌か ら「芸能科音楽」への教科名称変更 に至 っては、音楽教育は「徳性の滋養」や「 国民的情操 の醇化」の目的手段 とされていった (河口 前掲書:80)。 また、国民全体 に軍歌が浸透 していった。 ミクロネ シアで も、次第 に内地 と同 じような状況へ と移行 していった。ただ し、戦時色が顕著 にみられ るよ うにな ったのは、1938年頃か らであった。南洋庁は、統治下 ミクロネ シアの歴史、行政、教 育、産業 など、「最近の事情を広 く紹介する為 に」『南洋群島概観』を発行 していた。 その1937年改訂 版は全150ペー ジか らな り、短い序に続 く表紙 とびらには「北島南洋庁長官 と南洋庁々舎」の写真が掲 載 されている (南洋庁 1937)。 ところが、1938年1月発行の同書 には、『皇国南方経綸 ノ黎明』という副 題がつ けられ、「 今次事変の戦果を全収す るには単 に大陸工作 にのみ膠着せず国力を南方 に指南 し我が 経済圏の拡大 に遇新するの覚悟 と用意 とを要す…」 と始 まる序文 に続 き、戦闘機 と軍艦の写真および 「南方最前線 に活躍する海の有志 ダイバー」の写真が掲載 され、全97ペー ジの ものへと変化圧縮 されて いるのである (南洋庁 1938)。 このように、 ミクロネシアにおける日本の軍事支配は、中国大陸や朝鮮半島、東南 アジアにおける それ と時期的 にも規模的に も異な っていた。また、当時朝鮮や満州ではその「郷土にふさわ しい教科 書」4が編纂 されたのに対 して (朝鮮総督府 1926;磯田他 20005)点 で も違 いがあった。
2.総
合音楽教育 と唱歌遊戯2.1
唱歌科の場合 この時期の 日本の音楽教育において唱歌教材選定 とともに見逃せないのが、それに先立つ1910年代 末か ら西洋諸国で開発 された新 しい音楽教育法か らの影響である。すなわち、1910年代末か ら1920年 代 にかけて、 ドイッではL.ケ
ステ ンベルクが、音楽のとらえ方 と認識の発達論に基づき、幼児の音楽 教育 における リズム体操、音楽的遊 びや輪舞の導入などを主張 した。 また、「音楽の要素を遊 び、踊 り、 図画、体操 に応用すること」が子 どもの音楽的形成を発展 させ る方法の1つだと提唱 した (河口1991: 232-233)。 一方、アメ リカで も同 じ頃、S.コ
ールマ ンが踊 りと音楽の密接な関連の もとで リズム訓練 がなされる必要性を説 き (河口 前掲書:250)、 スイスでは聴覚 と筋肉の動 きに注 目したE。 ジャック=
ダル クローズが、1920年リトミック教育方法を考案 した (河口 前掲書:38-41)。 このよ うに、理論的 背景 は異なるものの、身体動作 と融合 させ ることで音楽の学習能力を高 める効果があるとい う実践理 論が、同時多発的に生み出 されたのである。 日本の音楽教育 にも、明 らかにこれ らの影響が顕れてい く。 その一例 として着 目したいのは、1927 年 に刊行が始 まった『音楽界』の記事である。毎号、教育音楽や唱歌指導法を論 じている東京府豊島 師範学校教諭の山本正夫が、西欧諸国 における小学校唱歌教授の4つ の趨勢 としてあげた 1つ6に「総 合的音楽教育」があ り、前述の ジャック=ダ
ルクローズの名前を紹介 したうえで、「音楽体操、音楽遊 戯、音楽舞踊を研究 して、あの態度あの精神で、全科 目を取 り扱ふがよい。各科の総合教授的取 り扱 いの理想的快挙は小学校における唱歌劇が最上である」 と述べている (山本 1927:48-51)。 また、山 本は同雑誌の翌年5月号 における「五月の唱歌教授」では、尋常一学年か ら六学年 までの (五月のみな らず)年
間教授法を具体的 にあげてお り、三学年の「 中程か ら次のごとき意味合ひを以て指導する」も ののなかに「総合的教育」(他の教科 と連合総合 させ る)と「全身的教育」(身体的に歌謡記憶 させ る) をあlガ、六学年 まで継続的・ 発展的に取 り入れている (山本 1928:50-56)。 こうした新 しい教授法は、『音楽界』では同時に掲載 された「 姉妹芸術」に関する記事 によって も支 援 されている。すなわち、 日本童謡表情会・ 東洋童話協会主幹の杉山忠平 による「童謡の振付につ き て」(杉山 1928a)、「児童舞踊の研究」(同 1928b)な どの舞踊理論解説や、唱歌劇研究会作「唱歌劇 『金の斧』」(『音楽界』1928,2-8)の 台本、唱歌遊戯確信連盟遊戯研究主任 0谷 島伸作伎 による具体的 な遊戯法をあげた「本月の遊戯」(谷島 1928)な どである。 こうした実践理論が唱歌教育者 の日にと ま り、指導法の確立 と教材開発の一助 となったのである。2.2
体操科の場合 一方、唱歌遊戯指導やその理論化は、体操科で も行われていた。 日本体育会体操学校教官の赤間雅 彦は、1927年出版の理論実践書 における序文で、近来体操科 に導入 された唱歌遊戯の教育的効果 につ いて、「優美 と閑雅な容態を作 り、快活且つ高尚な情操陶冶をする為には教授上必要な ことで、特 に幼 児の体育並 びに女子の体育運動教材 として鋏 くべか らざるものとなった ことは真 に欣快 とす る」 と述 べている (赤間 1927:1)。 また赤間は、その教育的価値の6つの観点 (「音楽」、「興味」、「訓練」、「生 理解剖」、「進化論」、「美学」)を
あげ、女子の容姿形成をその うちの「美学」に含めている (前掲書 : 23-29)。 このように体操科 において、唱歌遊戯が幼児 と女子の容姿形成 と情操教育 に不可欠 と見なされてい た ことは注 目に値す る。一方、赤間のい う美学 とは、「音楽に伴ふ リズ ミカル運動は演者 に快感を与 え、運動美 0表情美の観念を高め、審美的情操の陶冶をなす」(前掲書 :29)も のである。 そ こでは、 唱歌は付随的 に位置づけられてお り、山本 らが提唱 した唱歌科の総合教育 とは目標にずれがあった こ とを指摘 しておきたい。 さらに、三浦 ヒロは、学校体育界における急激なダンスの流行 と、それへの芸術舞踊家の進出を歓 迎 しつつ も、 それ らのダンスやその型が必ず しも教育 目的にはそ ぐわないと述べている。 そ して、理 想的な体育材料 と指導者の力量育成、正 しい目的の遂行のために、指導法 と素材研究が必要だ と主張 している (三浦 1931)。 なお三浦は、その著書では唱歌遊戯ではな く「 行進遊戯」 という語を用 いて いる。 それは、体育 ダンスと同義語であ り、「 わが国学校体育材料の一種であ りま して、特 に女子の体 育材料 として、採用 されている」ものをさし、特に行進を主 とする材料ではないとする。すなわち、三 浦の考える行進踊 りは、前述の唱歌遊戯を含む ものと解釈できるが、前述の赤間による著作 の「 実際 篇」では、行進遊戯を構成する素材 として「 スプ リング・ ダンス」「 ジムナステツク・ダンス」など西 洋か ら導入 された ものや、「 渦巻行進」など行進の型 に関するものが扱われている(赤間 前掲書)8。 ま た、東京府立第六高等女学校教諭戸ロハルは、『唱歌遊戯』と題する自著のは じがきで、そ こに世間で いう「童謡遊戯」 も含む ものとしている (戸口 1927)。 このように、当時は学校教育 における行進や ダンスの概念や指導 目的、またその音楽が唱歌か童謡であるかといった点で、用語法が混乱 していた。 以下では、 これ らを包括す る用語 として、唱歌遊戯を使用する。 さて、ここで再 び強調 しておきたいのは、唱歌遊戯は当初か ら唱歌科 と体育科の境界領域 にあ り、そ れぞれの指導 目標 にずれがあった ことである。 この傾向は、現在 にまで継続 して見 られる。すなわち 保健体育教育では、第102学
年の基本運動の1つとして「表現 リズム遊 び」があげられ、「歌や運動を 伴 う伝承遊 び、 自然の中での運動及び簡単なフォークダンスを加えて指導することができる」 と「 内 容の取扱 い」に示 されている (文部省 1999a:7)。 一方、音楽教育では、第1・2学年の日標の1つとし て「音楽に合わせて自ら体を動かす ことを喜び、 また音楽の快 い リズムに体全体で反応 して音楽を楽 しむ傾向が強 く見 られる」ことか ら、「 リズムに重点をおいた活動」をとお して基礎的な表現の能力を 育て、音楽表現の楽 しさに気付 くようにする」ことが掲 げられている(文部省 1999b:21-22)。 今後は、 学校教育法施行規則改正 によって2002年 か ら加わ った総合的な学習の時間な どを有益 に用 いること で、 この分立 を調整するこ とが望 まれる。 一方、 日本統治以前か ら歌 と踊 りとが一体化 された芸能が継承 されて きた ミクロネ シアでは、唱歌 遊戯は ごく自然な ものとして受容 されたのであった。ただ し、人々の記憶に刻 まれたのは教科 として の唱歌科や体操科の指導項 目としての唱歌遊戯 というよりは、運動会や学芸会の演 日としてであった (1993年、Manggurほ かによる)。3.学
校行事 と唱歌遊戯 三浦 は、文部省による唱歌遊戯材料の体操科への導入に際 して、「運動会の景気をよ くする材料であ れ と、望んだ ものではないことを信 じ」 るが、各地の学校では「不断の体育材料 として之を採 ること よ りは、運動会、又 は学芸会の特殊材料 として之を課 し、又たとってゐるところが多 い」 と述べ、そ の結果 これが「体育的見地」を離れて、「観衆本意」の「美的材料」と化 していると嘆いている (三浦 1931:12-13)。 しか し、「 見世物化」の傾向は唱歌遊戯に限 られた ものではなか った。 そ もそ も、当時 は運動会や学芸会その もののが、「村のマツリ」 として機能 していたのである。 1886年の「ノjヽ学校令」公布以来、尋常小学校 と高等小学校で実施開始 された運動会の当初の目的は、 学童の身体能力を「欧米人並 に改造」することであった。そのため、子 ども達が競技場 まで隊列を組 んで歩 く「 行軍」が重視 され、体操種 目を中心 に軍事教練的種 日、競争的種 日、遊戯競争的種目が行 われた。 それに対 して、盛装 した見物人が村をあげて押 し寄せ、宴を張 って観覧 していたのである。 1900年代 に入 ると、種 目にダンスが加わ り、他の種 目が削減 された。 さらに、就学児童数が増えた1910 年代 には各学校 の単独運動会が増え、 オルガ ン伴奏による唱歌遊戯が登場す るよ うにな った (平田 1999;吉見 1999;ノjヽ西 2002)。 このような中で、1930年 代 までに運動会の村祭 り的性格はますます加 速 されていったのである。'
三浦 のような指導者の意思 とは裏腹に、運動会や学芸会など学校行事は、唱歌科 と体操科で分立 さ れていた唱歌遊戯を結合する場を供給 したともいえる。 ミクロネシアにおいて も、 こうした学校行事 は歓迎 された。踊 りのパ フォーマ ンスを村の祭礼で行なっていた ミクロネシアの人々にとって、観衆 本意の学校行事は違和感な く受容 されたのであった。 また、 ミクロネシアの子 どもたちは、 しば しば 内地か らの訪間客 に披露す るために、伝統的な踊 りとともに唱歌遊戯を行 った。 こうしたパ フォーマ ンスも、元来村長の命令で踊 りが行われていたヤ ップ(ノj、西 2000)な どでは、自然 に受 け入れ られた。 学校行事でのパ フォーマ ンスは、 日本時代制限 された伝統的な村でのパ フォニマ ンスにとって代わる もの となった下方で、政治的にも利用 されたのである。では次に、 この時代 ミクロネ シアで盛んに行 われた踊 りや歌 について論 じる。 Ⅱ 日本統治時代の ミクロネシアにおける芸能 前述 のように、 日本統治下の ミクロネシアでは学校行事 というそれ以前 とは異なる脈絡の もとで踊 りのパ フォーマ ンスが行われるようにな った。そのことで、上演 される踊 りや歌の ジャンルにも変化 が生 じた。すなわち、不道徳 と見なされた性的表現を含む演 日に代わって、公式訪問客向けの ジャシ ルヘ と傾倒 していったのである。なかで も、次に述べる「行進踊 り」は、唱歌遊戯 とともに頻繁に上 演 された。1.行
進踊 りと日本の植民地教育1.1
行進踊 りの成立 と概要 ミクロネ シア各地には、行進踊 りが民俗芸能の ジャンルとして継承 されている。マ トマ トン (パラ オ)、 マース (ヤ ップ、チューク)、 レープ (ポー ンペイ)な
ど、島によって多少異なるジャンル名で 呼ばれるが、行進のような手足の動作を基本 とし、開始部や区切れの部分で、「 レップ、ライ、レップ、 ライ・・・」(パラオ)や
「 ワン、 トゥー、 ヮン、 トゥー」(ヤ ップ)な
ど、1英 語起源の掛声を伴 うもので ある。元来 は無伴奏の踊 り手 自身の歌唱が音楽 として用いられたが、ハーモニカによるその旋律演奏や伴奏つ きのポ ップ調歌唱のカセ ッ ト録音 に合わせて行 う場合 もある。掛声や行進 の動作 は もちろ ん、その歌 も伝統的な踊 りの ものとは様式的に全 く異なっていることか ら、行進踊 りは明 らかに日本 を含む諸外国の影響 によって成立 した ものと考え られ る。 また、各地の人々 もこれが外来の ものであ ると認 めている。 ただ し、その起源は明 らかではない。パ ラオやヤ ップなど、特 に1930年代以降行進踊 りが盛んにな った西 ミクロネ シアでは、 日本統治時代に外国の軍事教練を見たチューク島民が、最初にこの様式の 踊 りを伝えたという説が有力である。 ほかにも、ポー ンペイ起源やハ ワイ起源9とする少数の意見 も聞 かれる。 チュークに関する文献では、当地 に1912∼ 1920年頃在住 した宣教師ボー リッヒが「 近年取 り 入れ られた踊 り」としてマースに触れているが、その実態 に関 しては何 も記 していない(Bollig 1927: 182)1°。 一方、 ポー ンペイ起源説は、1970年代後半 に現地 フィール ドヮー クを行 ったベイ リーが聞 き取 り調 査か らも支持 を得ている。 それによれば、マー シャル経由でポー ンペイに入港 した捕鯨船員の足踏 み が もとにな ったというn(Bailey 1978:194-198)。 であれば、その起源は北太平洋で捕鯨が盛んになっ た1830年代 まで遡 ることになる。 しか し、ベイ リー も論 じているように、たとえそこにルーッが求 め られよ うとも、その後 さまざまな出身地か らのポー ンペイヘの移住者 (西洋人やニューギニアの労働 者、他の ミクロネシア人
)の
所作が加わ りなが ら、次第に行進踊 りの型が定 まっていった と考え られ る12(ibid。 )。 以上 のよ うに、西へ行 くほど伝承開始の年代が新 しくなるとともに情報が不確定 にな ることか ら、 行進踊 りは ミクロネシア東部か ら西部へと知れ渡 ったと推察 される。ただ、ここで注 目すべきことは、 日本時代 には日本語混 じりの唱歌調の歌が行進踊 りに用 いられ るよ うにな った ことである。つま り、 1920年代初頭 までにその原型が出来上が っていたであろう行進踊 りに、明 らかに日本の植民地教育 の 影響が見 られるよ うになったのである。 これは、1930年代の西 ミクロネシアで起 こったと考え られ る。1.2
アンガウルの強制労働 と行進踊 りの西 ミクロネシアヘの普及 先 に述べたよ うに、ヤ ップやパ ラオではチューク島民が行進踊 りの (少な くとも)伝
播 に大 きく関 わ った といわれる。 その根拠 として持 ち出されるのが、 アンガウルでの踊 り競演である。 日本統治時 代、 ミクロネ シアの青年はパ ラオ離島のアンガウルにおける燐鉱石採掘労働のため、当地 に半年か ら 一年間の滞在することが義務づけられていたも そこでは、出身地 ごとに厳 しい労働が割 り当て られた が、月夜の晩には歌や踊 りが娯楽 として行われ、グループ間での競演 も行われた。その ときに、チュー ク出身者の グループが行進踊 りを披露 したといわれるのである (1985年、Mangabchanに よる)。 ミク ロネシアでは母語が島ごとに異なるため、共通語 としての日本語 によるコミュニケー ションが行われ た。演 日の詳細は不明であるが、 この状況下で日本語や唱歌の音楽語法を取 り入れた歌 と行進踊 りが 結 びつ いていった可能性は高 い13。′
なお、 日本統治時代 に トラック支庁がおかれたチュークのDublon(夏島
)出
身者 Lukas Methenug(1926年生
)は
、南洋庁視察が来たときに行進踊 りを披露 した ことを覚えている “。踊 りが上手 いと支 庁か ら褒美が もらえたため、各村が競 い合 い、夜 には集 まって練習 した。最初 は男性が踊 っていたが 女性 も参加す るようにな り、村 ごとに ピンクや赤の タスキをつけたユニフォームを着て、頭 には花飾 りをつ けて踊 った。 このよ うな衣裳への多大な出費についてはBolHgも
記 してお り (Bonig 1927: 200)、 1920年代初頭 までにチュークで慣習化 されていたと考え られ る。 また、伝統的な踊 りでは男女 が混舞 しなか ったが、行進踊 りでは男女が混舞す ることもあ った。 ハーモニカ伴奏で踊 る場合 も、ハーモニカ演奏は男 も女いずれがおこなってもよかったとされる。 さらに、Methenugは行進踊 りを伴 う日本語の歌 を記憶 していたが、 これがいつ頃チュークで踊 られたかについては正確な情報は得 られ なか った5。 次 に、その日本語ない しは日本語混 じりの歌の成立事情へと考察を進めたい。
2.日
本語 (混じり)の
歌の成立 1930年代 ミクロネ シア各地に、 日本語混 じりの歌が流布 していた。その成立の背景 には、 日本の教 育の普及 と、 日本人および異なる島出身の ミクロネシア人による接触機会の増加があった。 まず、 ミ クロネ シアにおける日本の植民地教育の実態について述べる。2.1
日本植民地教育 と唱歌 ミクロネ シアでの日本の教育は、1914年の海軍による占領 とともに始まった。当初は、海軍将卒が 「 余力を以 って島民児童 に国語 〔日本語〕、算術、唱歌を授 け」たが、1915年にはサイパ ン、パ ラオ、ヤ ップ、 トラック 〔チューク〕、ポナペ 〔ポー ンペイ〕、ヤルー トの6箇所に、4年
制の島民向けJヽ学校が 設置 され、前記の教科 に加えて修身、歴史、地理、理科t図
画、体操、裁縫、農業、手工が教授 され た。1918年には、これが3年制の「 島民学校」に改め られ、地域 によって2年制の補習科が設置 された。 1921年の南洋庁設置後は、すでに17校に達 していた島民学校は公学校 と改称 され、南洋庁の支庁があ った上記6箇所 に2年間の補習科が設置 された16。 公学校入学 は強制ではなか ったが、学用品の支給や 地域 によっては食糧、衣糧が配給 され、また遠隔地の児童のために寄宿舎が設 けられるなどの配慮が なされた。教科は、修身、国語、算術、図画、唱歌、体操、手工、農業 (男子)、 家事 (女子)の
9教 科 とされたが、特 に重点をおかれたのは国語、修身、算数であった (南洋庁 1926:93-101)。 1925年には17の公学校 に訓導38名、嘱託9名か らなる計47名の職員が配置 され、全在籍児童数は、本 科が男子1,229名、女子847名の計2,076名、補習科が男子394名、女子127名の計521名の本科補習科合わ せて2,597名であった。 これが1931年になると、公学校数23校、職員数82名 (う ち島民23名)と
な り、 在籍児童数は本科が男子1,349名、女子962名の計2,311名、補習科が400名、女子176名と本科補習科合 わせて2,887名 と増加 した (南洋庁 1931:68-69)。 すなわち、 この5年間に290名の増加 したのである。 ちなみに、島民人口を見 ると、1925年は48,798名、1930年は49,695名 と897名増 にとどまってお り、就 学児童数の増加 は人 口増加以上の ものとなっている。 さて、各島の公学校の唱歌では、『尋常小学唱歌』(1911)お よび『新訂尋常小学唱歌』 (1932)掲 載 の教材が指導 された。たとえば、ヤ ップのコロニア公学校出身者 (在籍期間1933-1936年)は
、《日の 丸》《桃太郎》 《二宮金次郎》《浦島太郎》《富士山》《春が来た》《村祭》など、尋一か ら尋三 までの教 材の うち24曲を記憶 している (1993年、Edmund Falmedに よる)。 1930年頃までに24校設置 された公学 校の うち、 マキ公学校 (ヤ ップ)、 夏島公学校 (チューク)、 ウ村公学校 (ポー ンペイ)な
ど、多 くの 公学校 にはオルガ ンが導入 された(1993年、Philip Manggur他 による)。 指導方法や内容は、当時の内 地の ものに準 じていた。た とえば、マキ公学校では数字譜や五線譜を使 った「 ドレミ」のソル ミゼー ション、頭声 による発声練習、合唱 (おそらく斉唱)が
行われた。 またャ ップでは、男女を問わず 《桃太郎》の唱歌遊戯や唱歌劇の指導が行われ、運動会や学芸会で 父兄親族 に披露 された (1993年、Philip Manggurに よる)。 一方、パ ラオやポー ンペイでは唱歌遊戯は女子を対象 に指導 されたという (2001年、William Tabelual;2003年 、Akio Perardoに よる)。 このよ
うに、唱歌遊戯の導入にあた っては、ャ
,プ
では既述 のよ うな内地 における唱歌科の方針、パ ラオやにおける行進踊 りの発展の仕方 に与えた影響は大 きい。 さらに、1930年代後半 になると、教材 に軍歌 や戦時色を帯 びた内容の ものが取 り入れ られた。 ポー ンペイでは、学芸会に満州事変の劇を したとい う (2003年、Akio Perardoに よる)。
2.2
異文化接触 公学校や補習科卒業後、 ミクロネシアの子 どもたちは日本人家庭や日本企業の使用人 として働 くよ う奨励 された。彼 らの多 くは仕事を通 じて日本語能力を伸ば し、 日本人 と共 に蓄音機を聴 いた り、活 動写真、芝居17、 サ_ヵ
スなどの娯楽を通 じて、内地の流行歌 に親 しんだ (2002年、RaiIIlon Rebenほ か)。 たとえば、Edmund Falmedは パ ラオで上映 された『愛染かつ ら』(松竹映画、1938年)を
観て、そ の主題歌 《旅の夜風》を覚えた (1991年、Edmond Falmedに よる)。 そうした結果、1930年前後 に生 ま れた人々の多 くは島の伝統的な歌を知 らずに成入 した (2000年、Kyar五 Mendelによる)。 彼 らの音楽 的 アイデ ンテ ィティは、 日本の唱歌や流行歌に求め られるのである。 日本人 との接触が最 も密接 に行われた地域の一つが、南洋庁の設置 されたパ ラオであつた。 さまざ まな島出身の ミクロネシア人をは じめ、「琉球人」、「 朝鮮人」Bが移住 していたパ ラオは、「異文化の柑 塙」(山口 1993:153)と いえるほどであった。パ ラオのコロールには、管轄下で唯一の木工徒弟養成 所があ り、一部の優秀な男子生徒が建築技術を学んだ。多 くの日本人が住み日本の物資で溢れていた パ ラオでの多重の接触を通 じて、 ミクロネシアの若者が「南洋島民」 としてのアイデ ンティティを意 識 した ことは想像 に難 くない。そ うしたなかで、 ミクロネ シアの人々が 日本の流行歌の替え歌Юや 日 本語 (混じり)の
歌、またそれ らか らの部分的な借用による歌が創作 されたのである。なかには、《丘 を越えて》替え歌のようにオ リジナル曲 とともに知れ渡 った もの もあれば、それ自体がオ リジナル曲 と見なされた借用による歌 もあった20。 次に、日本語 による歌の例 として、《夜が明け前 に》をあげる。 《夜が明け前 に》(1993年、EttШd Falmedに よる)1.夜
が明け前 に あなたの夢見て 起 きるとみた ら 大変疲れた 2。 どうして も ひどいです 色女の話 昼晩わた くし 寝 ることで きません 3。 あなたのために わた しの体が こんなに痩せた 死ぬか も知れません4.も
しで きるな ら 小鳥 にな って あなたのとこへ ときどき飛んでいく この歌 は、 ア ンガウルでチューク人が創作 したといわれている (1993年、Edmund Falmedに よる)。 「夜があけ前」「起 きるとみた ら」「 どうして も ひどい」など、日本語 として不 自然な表現が含まれて いるものの、これが (片思 いの)恋
愛歌であることは見当がつ く。「色女」とは、当時 ミクロネシアで 「美人」をさす言葉 として広まった ものであり、「 どうして もひどい」 という言 い回 しも、 ミクロネ シ ア人の日本語ではよ く使われる。 なお、《夜が明 け前に》は、1930年代 に小笠原 にも伝播 し、現在では 《夜明け前》 として南洋踊 りの 1曲に も用い られている。のみな らず、 この歌の中のテーマである「夢」「寝 る」「痩せ る」「死ぬ」な どは、 ヤ ップの日本語混 じりの歌などで も使われている。 おそ らくは、 この歌が広ま り、 そ こか らま たた くさんの歌が派生 した と考え られる。 このように、 日本語混 じりの歌は若者たちが集 まって うた った り、行進踊 りに取 り入れることで広 まっていった (2002年、Bartol Kualtelに よる)。 パ ラオは、 それ らが ミクロネシア各地 に伝播する際の発信地の1つであった。それに対 して、多 くの日本語 (混じ り)の
歌の創作 に関わ ったチューク人の故郷では、パ ラオやアンガウルで創作 された歌が持 ち帰 られる ことで広 ま った。 Ⅲ
.
各島における変容 (1945-2003) 行進踊 りと日本語 (混じり)の
歌の ミクロネ シア各地への伝播 は、既述のア ンガウルでの強制労働 をは じめ、大 きな町のあった島などへの一時滞在、 コロールの木工徒弟養成所での養成期間を終了 し てそれぞれの村 に戻 った者 によって行われた。大抵、島外へ出かけたのは男性であったため、まず島 の男性の間に広 まり、女性、子 どもへと普及 していった。 しか し、その後の変容は島 ごとに大 きな違 いをみせ ることになった。1.パ
ラオ 山口によれば、1965-1966年 のパ ラオにおける行進踊 りは、①男女の混舞、②縦列ないし横列隊形、 ③激 しい身体の動きを伴 う、④長時間のパフォーマンス、⑤ リーダーの掛声は「 レップ、ライ」、⑥足 を蹴 り上げた瞬間に拍がカウントされる、⑦メ ドレーで新旧の日本語混 じりの歌がうたわれる、③歌 にふ さわ しい振 り付 けか らなる、⑨ハーモニカによる伴奏 もあったと述べている (山口 1993:153-154)。 これと筆者による2002年の調査結果2を比較すると、 この約40年間に②の隊形および⑥の拍節 感には大きな変化が見 られないものの、残 りの7項目については多少なりとも変化が見 られた。 その詳細については、別稿で分析 したとおりであるが (小西 2003)、 ここでとりわけ注目したいの は、①男女の混舞か ら女性のみの踊 りへと変化 し、その結果、③激 しい動作を伴 うものから、優美な ものとなったことである。女性が行進踊 りの担い手 となった理由の一つには、パ ラオでこの振 り付 け や指導の中核を担 う Riosang Salvador(1937年 生まれ)が
、この踊 りによって女性の優美 さを表現 し たいと考えたことであるη。 日本統治時代、まだ幼少であった Salvadorが島の女子児童生徒による 唱歌遊戯の優美さに感動 し、指導者 となってか らこれを積極的に行進踊 りの振 り付けに導入 したので ある23。 既述のように、日本統治時代のパ ラオでは、唱歌遊戯が女子のみに指導されていた。Salvadorが戦 後になって行進踊 りに求めた女性の美の表現は、かつて日本の植民地教育の中で体操科によって示 さ れた指導方針 と合致 している。その一方で、母系社会パラオでは伝統的な踊 りは社会的地位の高い女 性 (あるいはその代理)が
その富と優美さを披露する機会で もあった (2002年、Riosang Salvadorに よる)。 その意味で、Riosang Salvadorの 創作手法は日本統治時代の教育によってもたらされた美意 識のみならず、パ ラオの伝統的美の表現を継承するものだともいえるのである。 また、パ ラオでは2000年代に入 ってか らも日本語や日本の音楽様式を取 り入れた歌は、人気を誇 っ ている。 この状況は、ミクロネシアの他の地域では見 られないほど特異である。たとえば、FMラ
ジオ 局を個人開設するAlfonso N.Diazは、日本の歌謡曲のLPレ
コー ドをデジタル化 し、1,000曲記憶で きる Instant Replayを 使 って無人状態でも放送可能な設備を整えている。音楽メディアの主流がラ ジオとカセットテープであり、テレビやCDな
どは限 られた家庭にしかないパラオでは、DiazのFM放
送が若い世代にまで日本の歌謡曲を普及させるために果たす役割は大きい (2002年、Alfonso N.Diaz による)。 ミニージシャンたちも、 しばしば日本の流行歌の音楽様式を取 り入れることに肯定的な意見を述べ る。 ミュージシャンであリコミュニティ・カレッジで教鞭をとる Howard Chalesは 、日本の音楽がパラオに影響 し続 けていることの要因 として、
1)NHK一
TVで
の歌番組、2)カ
ラオケのよ うな日本か らのメディアが戦後 も継続的に入 っていることに加え、3)地
元音楽家が積極的に日本の流行歌の音楽 様式を取 り入れ ることをあげる (2002年、Howard Chalesに よる)。 これは、音楽市場が限 られている パ ラオにおいて、 日本語世代の年長者を ターゲ ットに加えるための ミュージシャンたちの戦略で もあ る。結果的に、戦後 も若 い世代か ら年長者 まで、日本の音楽様式か らの影響を継続 しているのである。2.ヤ
ップ 上述のよ うに、パ ラオでは行進踊 りの担 い手が女性申心へと変化 したが、1990年代末 までのヤ ップ では、その担 い手は もっば ら男女の小中学生であった24。 また、伝統的な村での祭礼 よりも、卒業式な どの学校行事で踊 られる例が多か った。 ヤ ップにおける伝統的な踊 りの場合、男女の混舞は禁忌 とさ れている。 また、かつては男性 と女性の調理器具や食事場所 も厳格に区別 され るなど、生活習慣上 も 性 による行動規制や役割分担 も明確であった。そのよ うななかで、行進踊 りで男女の小中学生の参加 が例外的に認 め られていたのは、年齢階梯上未成年者 とされるか らである。 また、学校行事 との連携 は、 日本統治時代 と同様 に教育上の理由にもよった。教育現場では、伝統文化の指導 を取 り入れたい 意向があるが、伝統的な踊 りの場合などは学校側の判断で勝手に改訂で きないため、不道徳な表現 を 含む場合な どは敬遠 される(1998年、Henry Falan,Gilm.oon,Dominic Fanasogに よる)。 しか し、行 進踊 りの場合 は学校でのパ フォーマ ンスにふ さわ しい表現を取 り入れた り、新たに創作することが容 易なのである。 ヤ ップの行進踊 りは激 しい動 きを伴 うため、活発な児童生徒が担 い手 として望 ま しい の も事実である。 ところで、 ヤ ップでは戦後間 もない1947年、 トミル管区の村長が開催 した踊 りの競技会で唱歌遊戯 調の 《軍艦旗の踊 り》が披露 された。 これを創作 した Philip Manggurは その動機を公学校時代 に習 った 《おててつないで》の唱歌遊戯 に遡 るもの と述べた。男女の混舞が許 されないヤ ップで、男女 の 子 どもたちが手 に手を取 り合 って円を作 りうたい踊 った唱歌遊戯が忘れ られず、 これを ヒン トに考え 出 した とい う。そ して、手を取 り合 った成年男女の踊 り手たちが中央に作 った小 さな円を中心 に、別 の踊 り手たちが6方向に列をなす ことで、全156人で軍艦旗をかたどった。その ときにどのよ うな歌が 用 いられたかは聞 き出せなか ったが、 これを見た観客 は大喜び したという。同時 に、 タブーを犯 したManggurを非難する者 もいた (1992年、Philip Manggurに よる)。 ヤ ップは、 ミクロネ シアの中で も 最 も保守的 といわれ る。 それ以後、 こうした唱歌遊戯調の踊 りが行われることはなか った。
戦後、新 しい日本語の歌 の伝播はほとんどな く、公学校世代の老人たちが古 い流行歌や歌謡曲を楽
しみに聴 く程度である。1990年代末の調査では、若者の関心はアメ リカのポ ピュラー音楽やハ ワイア
ン調のいわゆるマイクロネシアン・ ポップスにあることは顕著であったが、 ごく稀にではあるが、パ ラオ経 由で 日本の流行歌が流入する場合 もあった。たとえば、1980年代 に2人のパ ラオ人 とヤ ップ人1
人か らなるバ ン ド The Waab=Belau Trioが リリースしたカセ ッ トテープの タイ トル曲 《Kasinoma》25
は、《北国の春》の旋律を借用 した曲である。 これが、パ ラオの歌 としてヤ ップの若者 にも親 しまれた
のである。 このように、ヤ ップでは日本の流行歌への関心は過去の ものになっている。
3.チ
ューク・チュークでは、行進踊 りは1960年代 まで引き続 き踊 られた。Lukas Methё
nugに
よれば、1963年頃各 島出身 の20人くらいの若 い男性がパ ラオの漁業会社 テ ン0キ ャブに契約労働 に行 った。 その とき、革靴 に白いズボ ン、白いシャツ、桃色のたす きのユニフォームを着用 してパ ラオの人々に行進踊 りを披露した ところ、多 くの観客が集 まり1,000円 (当時)ほどの収益があが ったという26。 2000年代 に入 ってか らは、ポ ップス調の曲にあわせて個々人が事由に身体を動かすディスコ調の踊 り27ゃ 、教会 コ ミュニテ ィによるポ リネシア風の座踊 りが時折行われているが、踊 りの伝統は離島を除いて廃れていった。 日本語を使 った歌 も、1970年代初頭 までは借用や改作 によって、発展的に継承 されていた。 これを 促 したのは、 イテ リブィン iteripuinと い う伝統的な「夜の流 し演奏」であった。イテ リブィンは、 歌や音楽の演奏能力のある者が年齢や男女による制約を受 けず自由に、個人でまたはグループを作 っ て演奏 して歩 くものである。 これは人々に歓迎 され、演奏者にはお金や品物がた くさん与え られ、上 手 いグループや個人 は他の島か らも招聘 され ることもあった。 また、気に入 られた歌は、「紙に書 い て」「 もう一回」 と リクエス トされた。 日本統治時代 にも、イティプィンで技術を磨 いた女性3人組の グループが慰問団に呼ばれ、マンドリンやギター伴奏で日本語の歌を歌 った。知 らない歌の演奏を リ クエス トされた場合 には、それを知 っている人に教えて もらった り、 レコー ドを聞いて練習 したとい う。 イティプィンは、土曜 日の晩など夜通 し行われていたが、キ リス ト教の普及 ととともにや らな く な った (2002年、Raimon Rebenに よる)。 2000年代 に入 ってか らも、 Raimon Rebenの ように日本の歌が好 きで
NHKラ
ジオを聞いているのは ごく少数 の老人 しかいない。若者を中心 に流行 している地元のポ ップスには日本語は含まれていな い。 これは、 アメ リカ教育を受 けた世代が言葉の意味がわか らないために関心を もたないか らだとい う (2002年、Raimon Rebenに よる)。 ただ し、チュークの人々の音楽好 きは ミクロネシア各地の人々が 認 めてお り、チューク出身の ミュー ジシャンが ローカルなポップスに与えている影響はかなり大きい。 とりわ け、 ミクロネシアの秀才が集まるザ ビエル高校出身者の中か らは、地元の島に帰 ってプロの ミ ュー ジシャンとして活躍 している者 もいる(2002年、REV.James Po Croghan,S.J。 )。 まさに、戦前の コロールで木工徒弟養成所が果た した役割をザ ビエル高校が担 っているのである。4.ポ
ーンペイ ポー ンペイでは、2000年代で もさまざまな踊 りのパ フォーマ ンスが盛んで、特にポ リネシア系の踊 りを行 うグループの増加が目立 っている28。 1970年代後半 に設立 されたネッ ト、マタラニ ウム、キチ各 村29のカルチャーセ ンターでの伝統的な踊 りの公演30の ほか、2001年か らはホテルなどでの ショーに出 演 しているグループもあ り、H月
3日のカルチ ャー・ デーには全村の踊 りのグループが参加 している。 また、 ミクロネシア連邦の政府高官に披露するために、他島か ら踊 りのグループが訪問することもあ る。 サウス・パーク・ ホテルのディナー・ ショーに出演 しているキチ村のダンス・ グループの場合、メ ンバーは9歳か ら13歳で構成 される 15人 であ り、1週間に2回、各1時間ほどコ ミュニティ・ セ ンターで 練習を している。 このグループのように、行進踊 りを演 目の一部 とするグループは全体の一部 となっ ている。 踊 りの振 り付 け指導を続 けている Akio Perardo(1926生)は
、 日本統治時代 に 《おててつないで》 《兵隊 さんのために》な どの唱歌 に振 り付 けを した行進踊 りを創作 した。 また、 ドイッ時代の歴史31を 歌詞 にまとめ、 それに行進踊 りを含む8つの ジャンル32の踊 りを組み合わせた踊 りを創作 した。Akio Perardoは、行進踊 りの振 り付 けには激 しい荒波のなかでポールに縄を巻 きつけるような動作を意識 的に取 り入れ るという。 これは、行進踊 りが船乗 りの踊 りだと伝承 されているか らである。 このよう に異なるジャンルの踊 りを組み合わせ ることと、古 い伝承を重視する発想はt一
見矛盾 しているよ う である。 しか し、 さまざまな要素が加わ りなが ら行進踊 りが成立 した歴史を振 り返 るな らば、Akio Perardoのや り方 は伝統 に則 った ものといえる。 さらに、若者のポ リネシアン・ダンスヘの関心 もその延長上 にある ものととらえ られる。
コロニアの町にある
CDシ
ョップ Visual impactの 2階 には、Danny Faiarodoが レコーディングに あたるCD制
作 スタジオ・ユニオ ンサ ウン ドがある。そこでは、ポー ンペイやチュークのCDが
制作販 売 されているが、その中に日本語の歌詞を取 り入れた ものは含まれていない。音楽的に も、 日本の流 行歌の音楽語法 よりは、ハ ワイア ンや レゲエな どか らの影響が顕著である。 ミクロネ シア連邦の首都 所在地であるポー ンペイは、国家の政治経済の中枢を担 い、各地か らの訪問者が もた らすさまざまな ミクロネ シアの文化的要素が入 り込んでいる。 日本統治時代には大 きな町が作 られ、た くさんの日本 人が在住 していた コロニアは、山手通、海岸通、並木通など道路の通称 にその名残がある程度である。 一方、戦後の ミクロネ シア伝統文化復興運動の一環 として、Akio Perardoの ような地元文化の担 い手 が小学校 に伝統的な踊 りを教えに行 った り、 シャカウ飲みの場で異年齢間での交流による歌の学習 も 行われ る。 Ⅳ。 結 語 本稿では、 日本の唱歌教育が ミクロネシアの民俗芸能に与えた影響について考察す るにあた り、 ま ず1910-1940年代 における日本の唱歌教育の動向について、ミクロネシアでの状況 も視野 に入れつつ整 理することか ら始めた。 これにより、当時の教材や指導方針がほぼそのまま ミクロネ シアで適用 され た ことが確認 された。次 に、 こうした教育基盤があった ことによって、植民地下での異文化交流が促 され、唱歌や流行歌の音楽語法に則 った日本語 (混じり)の
歌やそれを伴 う行進踊 りが成立 した こと を明 らかに した。 こうした民俗芸能は、人々の島か ら島への移動 によって伝播 していき、 その後は各 島で ローカルな発展を遂 げたことがわか った。 日本の唱歌教育を受 けた ミクロネシアの人々 も高齢化 し、彼 らがかつて歩んだ軌跡 はとらえに くく な っている。 それは、次世代の人々がアメ リカ信託統治下で育 ったため、教育上の連続性がないか ら そある。そのような状況の中で も、パ ラオのように、脈絡か ら切 り離 されたかたちであるとはいえ過 去の歌や芸能が継承 されている地域 もあれば、かつて日本語 (混じり)の
歌や行進踊 りを先駆 けて創 作 していたに もかかわ らず伝承が途絶え、新 しい文化発信基地へ と向いつつあるチュークや、異文化 の要素を取 り入れ続 けているポー ンペイのような地域 もある。 こうした ミクロネシア内部での文化継 承の違 いを どう理解すればよいのであろ うか。 一つ ヒン トとして考え られるのは、パ ラオが他の島に比べて革新的・ 進歩的だ と見なされ ることで ある。進歩的であることと古 いものを継承 していることは、一見矛盾 している。 しか し、パ ラオにお いて行われている伝統の継承は、決 して過去の ものの保存ではな く、未来に向けての発展 につなが る ものなのである。たとえば、 ミュー ジシャンたちは市場拡大のために過去を参照 している例 を思 い起 こせばよい。同 じく、チュークやポー ンペイで も異文化 に目を向けることによって、新たな展開が繰 り広 げ られているのである。行進踊 りや歌の借用、転用など ミクロネシアの民俗芸能の歴史上見 られ る手法 は、人間の音楽的創造性がゼロか ら始 まるのではな く、過去の上 に立つ ものであることをわれ われに再確認 させ るとともに、未来の発展を予見 させ るものなのである。引用文献
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. 1
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1
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よびコスラエを除 くミクロネ シ ア連邦 [ヤ ップ、チューク、ポー ンペイ])を
さす。 また、地域名の表記は通称 として現在最 もよ く 使われる「 パ ラオ」以外 は、現正式名称を用 いることにす る。なお、パ ラオ (2002年8月)、 チュー ク (2002年12月および2003年8月)、 ポー ンペイ (2003年8月 )ノlヽ笠原 (2002年8月および2003年4月) の調査は、文部科学省科学研究費 (課題番号:14651066、 代表:′lヽ西潤子および課題番号:14390043、 代表 :ダ ニエル・ロング)の
助成金による。なお、本文では、引用文中の旧字体は新字体 に変えた。2
ここでは、新領土 (朝鮮、台湾、サハ リン、南洋群島)と
島嶼部1(沖縄や小笠原など)を
除 く 両大戦間の日本の領土を意味する歴史用語 として用いる。3
筆者の聞 き取 り調査 によれば、唱歌教育 には教科書が用い られず、板書や配布 された楽譜を も とに授業が進め られたといわれる(1993年ほか、ヤ ップでの調査による)。 この結果か らミクロネ シア全体の傾向 もほぼ同 じもの と推定 していたが、2002-2003年 のパ ラオ、チューク、ポー ンペイ の調査 によってそれが確認 された。4
朝鮮半島や満州の教科書では、明 らかに当時の「郷土教育」の方法原理が導入 されたといえる。5
前者 は、朝鮮人児童のための教科書、後者 は、在満州 日本人児童向 けの教科書である。6
ほかの 3つ は、「鑑賞的音楽教育」陥1作的音楽教育」「智識的音楽教育」である。7
残 りは、「鑑賞的教育」(鑑賞の習慣をつける)、 陥1作的教育」(自分の歌 として うたふ意味)、「智 識的教育」(理解的に教へる)で
あ り、()内
の指導 目標 は、学年 ごとに発展的な内容 となっている。8「
理論篇」では両者は区別 されていない。9
ハ ワイ起源説に関する推察は、小西 (2003)参 照。10 Lukas Methenug(1926年 生、Dublon[夏 島
]公
学校出身)は
、最初 にチュークで行進踊 りを作 った人物は
Uman島
(冬島)の人であること、日本時代 に創作が開始 されたが、ア ンガウルに行 く以前か らあ った こと、またアンガウルで他島の人々に披露 されたと聞 いているという。 また、 これは軍隊 の行進ではな く、 スペイ ン人宣教師が伝えた英語「 レフ ト、 ライ トJを
取 り入れた ものだ ともい う (2002年、Luc.as Methenugに よる)。 スパイ ン人宣教師が英語を伝えたとは考えにくいが、さまざま な要素が取 り入れ られなが ら行進踊 りが成立 したことを裏付 ける証言 とも受 け取れ る。11
小西 による追調査では、ポー ンペイにおける行進踊 りは、ナチク[Ralik,Marsharll]経 由でマー シャルか らきた外国 (英語圏)の船乗 りの踊 りであり、その証拠 に"Left,right""on style"と い う 外国の言葉が入 っている、 という意見が聞かれた (2003年、Akio Perardoに よる)。12
捕鯨船員の航海中や ミクロネシア上陸後の訓練や踊 り、娯楽 について、今後詳細な調査をする必 要がある。 また、 モデルとなった英語圏の軍事訓練がどのような経過を辿 って行進踊 りのなかに組 み入れ られていったかについて も、 データを もとに考証 していかねばな らない。13
ちなみに、1930年代初頭、小笠原島民がサイパ ンでチューク出身の移民か ら学んだ行進踊 りは、日 本語ではな くチューク語の歌詞 によるものであった (北国 2002参照のこと)。 14 Rai■on Reben(Dublon出 身、1932年生)は、行進踊 り以外に伝統的な踊 りやナウルの踊 りを日本 人の前で踊 った ことを覚えている。後者は、 チューク人がナウルで燐鉱採掘労働 した際 に覚えて き た ものである。15 Lukas Mathenugは、「青 い月の下で
/恋
のささやきに/思
いでなつか しい/バ
ナナの香 り」 とい う行進踊 りで用いた日本語の歌の一部を覚えていた。16 -方
で、内地か らの児童のためにサイパ ン、パ ラオ、 トラックに内地 と同 じ条件 による尋常小学 校が設置 された。 17 Raimon Rebenは、日本兵が1942年頃行 った芝居で「伊那の勘太郎」の歌を覚 えたとい う (2002年 のイ ンタビューによる)。18「
琉球人」「朝鮮人」 には差別的な意味 もあるが、 ここでは ミクロネ シアの人々による歴史的用語 として用 いる。19
た とえば、ヤ ップでは 《肉弾三勇士》(長田幹彦作詞、中山晋平作曲)の
替え歌 《一晩兄貴の うち で寝 る》が創作 された (Konishi 2001:201)。20 Raimon Rebenは 、Satsuo Kinoshitaら の倉1作による歌 として「 もしもあなたは店の ものな らい
くら高 くて も私は買 います」「 もしできるな ら小鳥 になってあなたのとこへ ときどき飛んでいく」と いう歌詞か らなる歌の一部を うたった。 これは、明 らかに次に例示 した 《夜が明け前 に》か らの借 用歌である。Satuo Kinoshitaら はアンガウルを訪問 していないことか ら、この曲は、原曲の 《夜が 明け前 に》がチュークに持ち帰 られた後「創作」 されたと見なせ る。
21
行進踊 りの振 り付 け師・踊 りの指導者 (特に新作)と して名声の高 い Riosang Salvadorへ の聞 き 取 り調査 (2002)に よる。22
母系社会パ ラオでは、伝統的な踊 りは社会的地位の高 い女性 (あるいはその代理)が
その富 と優.
美 さを披露する機会で もあった (2002年、Riosang Salvadorに よる)。23
具体的に唱歌遊戯か ら引用 された動作 としては、たとえば踊 り手が二人一組 とな って行 う握手な どがあげ られる。24
筆者 はヤ ップでの調査を1998年以来行 っていないため、以下の情報はそれ以前 に限定 され る。25 ′bsカゴ″Oza, Manila:MRM Productions, MRMC-1001.
26 1900年前後生 まれの男性が これに参加 した (2002年、Lukas Mathenugに よる)。