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東洋法学第 59 巻第 3 号 (2016 年 3 月 ) 269 論説 処分性拡大に関する法理 髙木英行 第一章 はじめに 取消訴訟 ( を含む抗告訴訟 ) には 処分性 という訴訟要件がある 処分性とは ひと言で言えば 取消訴訟対象適格性 を問う解釈問題である 具体的に言えば 原告市民が裁判判決

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著者

?木 英行

雑誌名

東洋法学

59

3

ページ

122-35

発行年

2016-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007721/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

(2)

《 論  説 》

処分性拡大に関する法理

髙木 英行

第一章 はじめに  取消訴訟(を含む抗告訴訟)には、「処分性」という訴訟要件がある。処分 性とは、ひと言で言えば、「取消訴訟対象適格性」を問う解釈問題である。具 体的に言えば、原告市民が裁判判決による取消しを求めて争っている《行政活 動》が、行政事件訴訟法(以下「行訴法」) 3 条 2 項でいうところの、「行政庁 の処分その他公権力の行使に当たる行為」に該当するか否かを問う解釈問題と いうことになる。  伝統的に裁判所は、処分性の有無につき、「公権力の主体たる国または公共 団体が行う行為のうち、その行為によって、直接国民の権利義務を形成しまた はその範囲を確定することが法律上認められているもの」(最判昭和39年10月 29日:民集18巻 8 号1809頁。以下この判決を「39年最判」と言及する)である か否かを基準に判断してきた。  ここで念頭に置かれている「行為」とは、行政法総論で言う「行政行為(行 政処分)」のことである。裁判所は、従来、この「処分性公式」(処分性のある 行政活動=行政行為)を厳格に解釈・適用することによって、行政行為に該当 しない行政活動に関する取消訴訟を〈不適法却下〉する傾向にあった( 1 ) 。もっ とも、平成16年行訴法改正前後から、最高裁は、従来であれば処分性を認めて こなかったような行政活動に関しても、柔軟に処分性を認める判断を相次いで 下してきている( 2 ) 。  これらの「処分性拡大判例」を挙げると、ⓐ二項道路一括指定事件(最判平

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成14年 1 月17日 : 民集56巻 1 号 1 頁)( 3 ) 、ⓑ労災就学援護費不支給決定事件(最 判平成15年 9 月 4 日 : 判時1841号89頁)( 4 ) 、ⓒ登録免許税拒否通知事件(最判 平成17年 4 月14日 : 民集59巻 3 号491頁)( 5 ) 、ⓓ食品衛生法違反通知事件(最判 平成16年 4 月26日 : 民集58巻 4 号989頁)( 6 )、ⓔ病院開設中止勧告事件(最判平 成17年 7 月15日 : 民集59巻 6 号1661頁)、ⓕ病院病床数削減勧告事件(最判平 成17年10月25日 : 判時1920号32頁)( 7 ) 、ⓖ土地区画整理事業計画決定事件(最 判平成20年 9 月10日 : 民集62巻 8 号2029頁)( 8 ) 、ⓗ保育所廃止条例事件(最判 平成21年11月26日 : 民集63巻 9 号2124頁)( 9 ) 、ⓘ有害物質使用特定施設廃止通 知事件(最判平成24年 2 月 3 日:民集66巻 2 号148頁)(10) である(以下各最判に ついて「ⓐ最判」といった形で略称する)。  筆者は、これまで、《典型的な行政行為には当たらないにもかかわらず処分 性を肯定した》という結論部分を除いては、必ずしも明確な論理一貫性の認め られえない、これらの処分性拡大判例の内容(11) に関して、いかなる見地に立脚 すれば、それなりに整合的に理解することができるのか、換言するならば、処 分性拡大判例の「判例法理(判例理論)」とはいったいどんなものであるのか という問題意識から(12) 、一連の帰納的な研究をおこなってきた。  それとともに筆者は、処分性拡大に伴って生じる「副作用」問題に関して、 どのように対応すべきであるのかという問題意識からの研究もおこなってき た(13) 。ここで言う「副作用」問題とは、処分性の拡大に伴って、「取消訴訟の 排他的管轄」(行訴法 3 条)や「取消訴訟の出訴期間」(同14条)――ないし 「行政行為の公定力並びに不可争力」(14) ――などの、行政処分(行政行為)に法 制度上随伴している《縛り》の適用も、(素直に解釈すれば)拡大することと なる。そしてこの結果として、原告市民に対し「不測の不利益」が生じうるの ではないかといった問題である(15) 。  この処分性拡大に伴う「副作用」問題に関しては、処分性拡大判例以前の学 説、すなわち従来からの「処分性拡大論(形式的行政処分論等)」の問題点と しても、指摘されてきたところではある(16) 。けれどもそれは、あくまでも、処 分性を厳格に解釈する所与の判例動向の下で、仮に処分性拡大論が"認められ

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ることになったら"と想定した場合の、「潜在的な」問題点として議論されて いたにとどまる(17) 。  しかしながら今日、処分性拡大判例動向を受けて、この副作用問題が「顕在 化」することとなってしまった。それゆえ現在、学説上、処分性拡大判例動向 への賛否を越えて、喫緊の問題として、この副作用問題への対応策の提示が求 められているものといえよう。  以上の処分性拡大問題に関する一連の研究――処分性拡大判例の「判例法 理」をどう理解するか、また処分性拡大判例に伴う「副作用」問題にどう対応 するか――の結果、「私見」として、以下 3 つの「規範命題(法理)」を提示す るに至った。以下便宜上、本稿では、これらの法理に関しては、処分性拡大に 関する「第一法理」、「第二法理」、「第三法理」という表現でもって、言及する こととしよう。  【第一法理】処分性拡大判例は、39年最判の「処分性公式」、とりわけ係争行 政活動につき、(行政行為であるために求められる)「直接国民の権利義務を形 成しまたはその範囲を確定する」要件(以下「法的効果」要件と言及する)を あくまでも踏襲した上で、処分性を「拡大解釈」している。したがってその限 りで、処分性拡大判例は、「行政行為」概念の'枠内で'処分性を拡大解釈し ているものと言える(そしてこのことから、「行政行為」概念の再構成――主 観的構成と客観的構成――という行政法総論(行政行為論)に関わる理論的課 題が出てくるのであるが、この課題に関しては解釈論的考察を主とする本稿で は取り扱わない(18) )。  以上のことを裏返せば、処分性拡大判例は、以前から有力説が強く主張して きた、係争行政活動によって市民に対し「事実上の」不利益的な効果が生じて いるということのみをもって処分性が肯定されるべきとする「処分性拡大論」、 具体的には「形式的行政処分」論までは採用していないということになる(19) 。  【第二法理】処分性拡大判例は、「処分性公式」を維持しながらも、係争行政 活動の根拠となった法令規定の解釈のみからではその判断が難しい場合におい ては、根拠法令または関係法令の中に見出されうる《当該活動に後続する行政4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

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行為4 4》や《当該活動と類似する行政行為4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4》との(時間的ないし観念的)関連性 を考慮するとともに、当該活動をめぐって求められる、《実効的な権利救済0 0 0 0 0 0 0 0》 や《実効的な紛争解決0 0 0 0 0 0 0 0》のあり方をも考慮して、当該活動に係る処分性の有無 を判断している(20)  したがってこの点で、処分性拡大判例は、「原告適格公式」――「法律上の 利益」(法律上保護された利益)の有無(21) ――を維持しながらも、根拠法令以 外の関連法令の規定ぶり(新潟空港事件、最判平成元年 2 月17日:民集43巻 2 号56頁)や、被侵害利益の性質等(もんじゅ事件、最判平成 4 年 9 月22日 : 民 集46巻 6 号571頁)をも考慮して、原告適格の有無を判断してきた「原告適格 拡大判例」なり、またそれらを「考慮事項」として立法化した平成16年行訴法 改正の内容(行訴法 9 条 2 項)なりとも共通するものがある。  【第三法理】「仕組み解釈」(22) なる解釈手法――その解釈手法上の特徴をどの ように理解するのかはさておき――を通じて、処分性が"拡大解釈"されるこ との是非はともかくしても、それによって市民に「不測の不利益」が生じると いうことは、【法律による行政】という行政法原理の「核心的部分(予測可能 性の保護の要請)」に抵触する事態――市民が法律を信頼して行動したあま り、訴えを却下されてしまうという極めて不条理な事態――である(23) 。  したがって、このような裁判所による「不意打ち」的なかたちで、処分性が "拡大解釈"されるのであるならば、少なくとも、「法律による行政」という行 政法原理からの対応的要請(すなわち予測可能性の保護の要請)として、その 拡大と「反比例」して、「取消訴訟の排他的管轄」(行訴法 3 条、公定力)な り、「取消訴訟の出訴期間」(行訴法14条、不可争力)なりが、"縮小解釈"さ れねばならないという、【均衡解釈】の必要性が規範的に演繹できるはずであ る(24) (なお筆者は、この種の「縮小解釈」といった"動態的な"解釈論を理論 的に裏付けるため、排他的管轄や出訴期間に係る制度的効果(公定力・不可争 力)を「遮断効」として【規格化】して論じていく可能性を模索しているが、 本稿ではこの点については考察しない(25) )。  もっとも、こういった「均衡解釈」の具体的内容がどのようなものであるべ

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きか、具体的には〈縮小解釈〉がどのようなかたちをとるもので、またこの縮 小解釈を前提とした上での副作用解消策に関してもいかなるかたちをとるべき なのかに関しては、典型的な係争場面に応じてきめ細やかに考えるべきであ る。とはいえこの点に関しては、前稿で「場合分け」をしながら詳しく論じて いることなので、ここで改めては述べない。  ただし最大公約数的に言えることは、原告市民が根拠法律を合理的に信頼し て、あるタイミングで出された「行為形式」を対象に、または、ある「訴訟類 型」(当事者訴訟や民事訴訟)を選択して、訴訟を提起し、かつ、その訴訟に 基づいて本案判決を受けたいと望んでいるのであれば、その選択をできる限り 尊重する解決策を導くべきということである(26) 。その限りで、「副作用」問題 に対処するに当たっては、行政法の原理原則たる「法律による行政」ととも に、民事訴訟法の原理原則たる「処分権主義」(民事訴訟法246条)(27) について も、最大限尊重されるべきということになる。  以上 3 つの法理を挙げてきたが、これらはあくまでも筆者の「仮説」にすぎ ない。そこで本稿がこれから取り組もうとすることは、最近の判例学説の展開 を踏まえながら、これらの仮説を「検証」し、補足・修正等すべき点が見つか れば、そうしていこうという学問的作業である(28) 。 第二章 第一法理の検証作業  本章では、第一節で、処分性公式と処分性拡大判例との関係をめぐる学説の 議論の到達水準を確認するとともに、第二節から第四節で、この到達水準の 「最先端」と思われる学説の議論展開を考察していく。第五節では、これらの 考察結果を踏まえて、第一法理の検証作業を行う。 第一節 概説 一.「形式的行政処分」論の採用?  処分性拡大判例の中でも、(行政行為としての)「法的効果」要件に言及する ことなく処分性を肯定したⓔⓕ最判(29) について、学説上、「形式的行政処分」

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論を採用したものとの理解が有力になってきている(30) 。例えば塩野宏氏(31) は、 ⓔⓕ最判につき、最高裁が「勧告の法的性質について行政指導」と「明言」す るにもかかわらず、処分性を肯定した点で、「従来の定式からは明確に外れ る」ほか、「『相当程度の確実さ』をもって後の行政過程で不利益(保険医療機 関指定を受けられない)をこうむる」としており、他の処分性拡大判例(ⓖ最 判)でも見られる「原告の法的地位、いいかえれば勧告の法的効果には触れて いない」として、その《特異性》を指摘する。その上でⓔⓕ最判が、「当該事 件処理の特殊性に対応した事例的な意味以上のものではない。」と論評する。  藤田宙靖氏(32) も、ⓔⓕ最判は、「必ずしも、行政機関の行う行為の法的拘束 力ではなく、事実上の効果が私人に及ぼす影響を問題としているのであって、 少なくともその限りにおいて、先に見た従来の最高裁判例の考え方とは異なる ものを有すること、そしてまた、少なくとも結果的には、先に見た『形式的行 政処分』の存在を認めることとなるものであることは、否定できない。」と指 摘する。また藤田氏(33) は、ⓔⓕ最判が「『従来の公式』自体を否定するもので はなく、ただ、それは原則にとどまるのであって、あらゆる場合に例外を許さ ない金科玉条としての性質を持つものではない」と指摘する。前後の文脈も含 め素直に読めば、ⓔⓕ最判が処分性公式の枠外で処分性を肯定したと理解して いるように読める記述である。 二.「処分性公式」の踏襲?  他方で学説上、ⓔⓕ最判以外の、「法的効果」要件を明示ないし示唆して処 分性を肯定した他の処分性拡大判例に関しては、処分性公式を踏襲したものと の理解が一般化しつつある。例えば塩野宏氏(34) は、判例が「処分性拡大の方向 を示している」としつつも、「それは、従来の定式自体を改めるのではなく、 基本的にはそれを前提とした上で、具体的な法的仕組みの解釈からして、そこ からの偏差を正当化するという試みとして概括することができる。」と指摘す る。  曽和俊文氏(35) も、「古典的アプローチ[髙木注:本稿で言う「処分性公式」] の背景にあった見解は修正されつつあるとはいえ、最高裁は、今日もなお、ⓐ

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公権力性、ⓑ国民の権利義務への直接的(具体的)規律性という 2 つの要素を 軸に『行政処分』性を判断する古典的アプローチを、基本的には、なお維持し ている」と指摘する(36) 。さらに高橋滋氏(37) も、処分性拡大判例につき「柔軟な 解釈方法を採用しつつも、あくまでも法令の解釈を通じて処分性を肯定するに 十分な法的効果の存在を認定したもの」として、「『行政行為』=『処分』とい う学問的な概念の純粋さは保たれない」と指摘しながらも、「『行政庁により公 権力の行使として行われる国民の権利義務の範囲を具体的に確定する行為』と いう基準の統一性は保たれている。」という。  加えて藤田宙靖氏(38) も、「最高裁判例は、昭和3ママ8年以来今日に至るまで、基 本的な理論枠組みとしての『従来の公式』を捨ててはいない」との立場に立つ し、またⓘ最判の調査官解説、中山雅之氏(39) も、処分性公式が「当審の確立し た判例」と指摘するとともに、処分性拡大判例が「国民の権利利益の実効的な 救済を図るという観点から、当該行為に関連する実定法規を実質的に解釈した 上、上記の一般的な判断基準を柔軟に適用したものであって、その基準自体を 変更するものではない」と述べている。  かくして、全体的に見れば、処分性公式との関連での処分性拡大判例に関す る理解をめぐる議論は、以上のような《ⓔⓕ最判を除いては処分性公式を踏襲 している》というかたちに《収斂》しつつあるように見受けられる。もっとも 学説上、法的効果を示唆せずに処分性を拡大したⓔⓕ最判と、直近の処分性拡 大判例たるⓘ最判とを素材として、なお議論が深められてきているので、以下 引き続き検討していこう。 第二節 ⓘ最判 一.39年最判の明示的引用  近時、39年最判と処分性拡大判例との関連につき、注目すべき見解を示すの が興津征雄氏である(40)。同氏はⓘ最判につき、「近年の処分性判例を意識した 判示を含むことは確かだとしても、法的に特に目新しい考え方を示したとは思 われない。」(41) と理解する評釈(42) の中で、以下の議論を展開する。

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 39年最判以降、最高裁は、原告適格の判断の場合とは異なって、「処分性に 関する定義や定式を示さないのが通例であるし、昭和39年最判を先例として引 用することもなかった」こと、「もちろん、今日でもなお昭和39年最判の定式 に類似する表現が用いられることもあるが、この定式が判例としての一般的な 通用力を持っているとまではいえるかどうかには、留保が必要である。」こと を踏まえ、「最高裁は、むしろ、一般的な判断基準に固執するのではなく、事 案の前提となっている法令の仕組みの分析から導き出された諸要素を、一定の メルクマールに従って合目的的に考量し、処分性の有無を判定してきた」との 仮説を提示するとともに、「昭和39年最判の定式に拘る理由はない」と主張す る(43) 。  もっとも、ⓘ最判に関しては、現に39年最判を明示的に引用して処分性を肯 定したわけだが、この点に関し興津氏は、「管見の限りでは、昭和39年最判が 処分性に関する先例として法廷意見に引用されたのは、本判決が初めてではな いか」(44) として、「処分性に関する判例の態度としては異例」(45) と指摘するとと もに、「問題となっている行為の類型・性質はもとよりのこと、問われている 論点も、処分性肯否の結論ですらも、本判決とは大きく隔たっている。」39年 最判(46) を引用したことにつき、次のように批判する。  「単に処分性に関するリーディングケースとして、その趣旨に依拠するとい う意味で引用したのかもしれないが、そうだとしても、なぜ、先例を引用しな いこれまでの処分性判例の傾向に反して、本判決が突如として昭和39年最判を 持ち出したのかは説明がつかない。しかも、本判決は、『……判決……等0参 照』という引用の仕方をしており、『等』の中に他のどの判決が含まれるのか も、明らかにしていない。きわめて粗雑かつ不親切な引用の仕方である。」(傍 点は原文による)(47)  とはいえ興津氏は、引用意図不明としながらも、「この引用に何かしら意味 があるとすれば、最高裁としては、昭和39年最判の定式を明示していないとし ても、基本的な考え方(趣旨)は踏襲しており、 2 項通知は昭和39年最判の定 式のもとでも処分性を認められえたであろうことを示そうとしたのかもしれな

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い」(48) として、ⓘ最判に関しては(処分性公式が踏襲されているわけではない と興津氏が理解するところの)近時の処分性拡大判例の一環としてではなく、 むしろ処分性拡大判例以前からみられる、処分性を肯定する先行判例群――例 えば輸入禁制品該当通知事件(昭和54年12月25日:民集33巻 7 号753頁)等 ――の一環として、その特色を見出すべき旨主張する(49) 。  また人見剛氏(50) も、39年最判の処分性公式に関して、「実は、この定式は、 最高裁の判例において定着したものとはいえない」(51) 、それ「にもかかわら ず、抗告訴訟は主に実体法・作用法上の行政行為を対象とするものであるとす る学説上の通念を基礎に、この定式は各種の教科書で判例法理として言及さ れ、他にこれに代わる手頃な一般的な定式がないこともあり、法科大学院生の 中では『処分性』判定の基準として広く用いられるようになっているようであ る。」と指摘し、興津説と親和的な指摘をしている。 二.最高裁からのメッセージ  興津・人見両説のうち、処分性拡大判例が処分性公式を踏襲しているか否か という一般的な問題の当否に関しては、本章第三節・第四節を踏まえて、改め て検討したい。以下では、興津説が提起する、ⓘ最判における《39年最判の明 示的引用》の問題に的を絞って検討を進めよう。  思うに、興津氏が着目するように、ⓘ最判において最高裁があえて39年最判 を明示的に引用したということには、それ相応のメッセージが込められている ものと理解するのが妥当であろう。もっともこの「メッセージ」を学説として どう読み解くのかが問題であり、興津氏として、上に挙げたような 1 つの読み 解き方を提示しているわけであるが、次のような《別の》読み解き方も出てく るのではないか。  すなわち最高裁が、学説状況、具体的にはⓔⓕ最判を受け学説上処分性拡大 判例が処分性公式を逸脱しているとの理解も有力に唱えられるようになってき ている状況(52)を十分に踏まえているとする。そうであるとするならば、ⓘ最判 における「異例」な《39年最判の明示的引用》が意味することとは、その種の 「有力説」が最高裁の判例法理に沿うものではない旨を示唆するためのメッ

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セージなのではないだろうか(53) 。  また興津説では、ⓘ最判の判例引用における「等」の記載に関して、批判が 投げかけられている。しかしこれはさほど深い意味があるわけではなく、単に 39年最判と同種の先例的意義を持つ判例、例えば39年最判でも明示的に引用さ れている、最判昭和30年 2 月24日(民集 9 巻 2 号217頁)(54) を並べて記載するの は冗長になるので、それらを「等」の中に含ましめることを意図した、純粋に 技術的な表現ではないだろうか(55) 。「きわめて粗雑かつ不親切な引用の仕方」 として批判される筋合いの問題であるのか、筆者には疑問がある。 第三節 ⓔⓕ最判  先に論じたように、ⓔⓕ最判に関しては、処分性公式を逸脱した(裏返せば 形式的行政処分論を採用した)との理解が有力であるところ、それとは逆に、 ⓔⓕ最判も処分性拡大判例の中に位置づけられうるとの見解も、最近になって 強く主張されてきている。例えば中川丈久氏(56) は、ⓔⓕ最判について、「行政 指導として立法されたはずの勧告はもはや、医療施設の開設中止義務を課す行 為と化していると解さざるを得ないとした」こと、また「判旨は、"行政指導 でありながら、処分でもある"というのではなく、既に処分に変質してしまっ た旨を述べている」として、処分性公式の枠内での処分性拡大であることを示 唆している(57) 。  さらに中川氏(58) は、ⓔⓕ最判(ⓓ・ⓑ各最判もだが)につき、「行政処分の 定義を拡大したり変更したりするものではない」、むしろ勧告に「処分性を認 めなければ、およそ実効的な権利利益救済が得られないという切羽詰まった特 殊な事情」のもと、最高裁が「行政処分の定義は従来通りに維持したまま、行 政処分の定義にあてはまるように個別法を再解釈0 0 0したうえで、処分性を肯定す る結論を導いた」(傍点は原文による)と理解する(59) 。  また大橋洋一氏(60)も、ⓔⓕ最判につき、「勧告が法定の行政指導として立法 された点に着目して、法定の命令措置と読み替えて、処分の法的仕組みとして 説明する」解釈を取ったと理解する。その上で大橋氏は、「この解釈に立つの

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であれば、勧告はもはや行政指導ではないのであるから、行政指導であること に言及した判示は不要であった。」と指摘するとともに、「本件に関しては、法 的効果をもたない行政活動について処分性を認めたといった整理は適切ではな く、むしろ事例の特殊性に着目して、権限濫用が問われた裁判例として捉える べき性格のものである。したがって、その射程は狭い。」と指摘する。  かくして中川・大橋両説は、ⓔⓕ最判につき、《行政指導が行政処分に変容 した》との認識に立った上で、かつ、その認識を前提に処分性公式が当てはめ られて判断されているとの理解に立っている(61) 。そこで、この理解の当否を考 えるに当たって、次節では、最高裁裁判官としてⓕ最判にも関わった藤田宙靖 氏の一連の指摘を見ていこう。 第四節 藤田宙靖氏の諸見解 一.ⓔⓕ最判再論  例えば藤田宙靖氏(62) は、比較的最近の座談会形式の議論の中で、ⓔⓕ最判が 処分性公式を踏襲しているのかどうかとの趣旨の中川丈久氏からの質問に対し て、ⓔⓕ最判が「処分についての概念を変えたのではなくて、また勧告の性質 についての理解を変えたのではなくて、定式のほうをその適用を含めて何とか 修正しなければということ、結局そっちをとった」との理解を示している。  またこの点、ⓕ最判に付せられた藤田宙靖裁判官補足意見(63) に関しても同趣 旨であり、ただ同「意見は『この事件で従来の定式を適用すべきでない』と 言っているのですが、あれはちょっと舌足らずで、正確には、『機械的に適用 すべきではない』という趣旨だったのですけれども、そこでちょっと誤解とい うか、混乱を招いたのかもしれません。」とも指摘し、ⓔⓕ最判が処分性公式 を逸脱したとの学説の理解に対しては距離を置く立場をとる。  同じく中川氏からの「処分の定義自体が全く変えられたということではなく て、条文を機械的に判定するわけではない。現実の法運用のされ方を見ながら 判定するというわけですね。」との問いかけに対しても、藤田氏は、「そういう ことです。いまの最高裁判決の処分性に関する判決は、大体そういう前提です

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よね。」と回答している。  座談会という意見表明形式からくる限界はあるのかもしれないが、以上のや り取りを見ていると、藤田氏は、ⓔⓕ最判に関して、他の処分性拡大判例同 様、処分性公式の枠内で理解しようとする姿勢が読み取れうる(64) 二.処分性拡大に係る理論的問題  他方で藤田氏(65) は、その教科書のなかで、「近時の最高裁判例が、いずれ も、『従来の公式』の厳格な適用をしたのでは、実効性のある国民の権利救済 を図ることはできないという問題意識から、何らかの方策を講じる試みを行っ たものであることは、疑いを入れない。」と理解しつつ、「最高裁が、従来の考 え方からすれば単なる『事実上の効果』に過ぎないとされるであろう効果を、 何らかの形で『法的効果』として説明するという、理論的にはいささか苦しい 解決をしていることは否定できまい。」とも指摘している。  そしてこの点につき藤田氏(66) は、「『連続性』及び『漸次の変化』によって判 例の成長を図って行くべきであるという法解釈方法論の立場(…)に立つなら ば、近時の最高裁判例の展開に、基本的に異を唱える理由は無い」としつつ も、「『従来の公式』の基本的枠組みによりながら、『漸次』にではあれその適 用の在り方を変えて行くにつき、何故、如何なる意味においてそれが可能なの かについての理論的説明は、やはり試みられなければなるまい。」との問題提 起をしている(67) 。  中川・大橋両説では、《行政指導が行政処分に変容したから》との、ある種 の割り切った論理で正当化されていた点であるが、上記の藤田説を踏まえるな らば、ここで言う《行政指導が行政処分に変容した》とは ʻ 法的にいったいど のようなことを意味するのか ʼ という点を含め、さらなる理論的考察の必要性 を感じる。 三.判例変更の実際  加えて藤田氏は、処分性拡大判例に特定された文脈ではないが、その講演の なかで、「いわゆる『判例変更』がされないままに、事実上、最高裁が以前し た判断と異なった判断がなされているように見えるケースがしばしばある」こ

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と(68) 、また「最高裁は、『法理』を変更することなしに、実質上従来の考え方 を変えるようなことを、極めてしばしばや」ること(69) を指摘したうえで、「判 決文に記された文言の形式的な解読にこだわっていたのでは、思わぬ足をすく われることにもなりかねない」(70)と指摘する。  また藤田氏は、「『判例変更』がされた事件よりもむしろ、『…は、当審裁判 所の判例とするところである』等として積極的に先例が引用されている事件の 方こそが、最高裁が何故そのように言ったのかを詳細に分析する価値がある」 とも指摘する(71) 。ⓘ最判における39年最判の明示的引用の意図を推測するに当 たっても、考慮すべき指摘であると言えよう。 第五節 若干の検討  結論から先に言えば、筆者は、現段階では、ⓔⓕ最判を含め、処分性拡大判 例は処分性公式を踏襲しているものと理解すべきではないか、そしてその限り では、私見の「第一法理」はそのまま維持しうるのではないかと考えている(72) 。 そこでこの結論に至る理由付けであるが、「処分性」と同じく、行政訴訟(抗 告訴訟)の《中核的な》訴訟要件問題である「原告適格」に係る裁判所の判断 スタンスとの整合性の観点が重要になってくるのではないかと考えている。  ひるがえって、新潟空港事件(最判平成元年 2 月17日:民集43巻 2 号56頁) やもんじゅ事件(最判平成 4 年 9 月22日:民集46巻 6 号571頁)、またこれらを 受けての平成16年行訴法改正( 9 条 2 項の追加)、さらには小田急事件(最判 平成17年12月 7 日:民集59巻10号2645頁)など、一連の原告適格を拡大解釈し ようとする判例や立法の動きをみるならば、原告適格拡大判例は、「原告適格 公式」、すなわち「法律上の利益」(法律上保護された利益)説の枠内で原告適 格を肯定しているとみざるをえない(小田急事件の町田顯長官補足意見も参 照(73) )。  言い換えれば、原告適格拡大判例を通じて、「事実上の利益」説なり「法律 上保護に値する4 4 4 4 4 4利益」説なり、従来の原告適格「公式」を逸脱して原告適格が 肯定されているという論理は見受けられない。現にこういった原告適格に関わ

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る拡大判例の動向があるにもかかわらず、同じく《中核的な》訴訟要件問題で ある処分性に関わる拡大判例の動向においては、全く正反対の論理が採用され ている、すなわち処分性「公式」を離れて事実上の効果のみでもって処分性が 肯定されている――つまりは「形式的行政処分」論が採用されている――と理 解するのは、判例法理の理解のあり方として不自然ではないだろうか。  もちろん、処分性拡大判例の中でも、表面上「法的効果」に関して全く言及 していないⓔⓕ最判の「特異性」の問題は依然として残る。したがって今後と も、この特異性の理解をめぐって、学説上議論が燻ぶり続けることにはなるで あろう。しかしこの特異性なるものは、畢竟、処分性拡大判例の全般的な理解 という目的からすれば、それほど重視すべき問題であるのだろうか。  処分性拡大判例理解をめぐって、行政法解釈学の見地から重要なことは、判 決理由中の微妙な表現から処分性公式の踏襲の有無を探ることではなく(74) 、む しろ処分性拡大判例が共通して採用している「解釈手法」をどのように理解す べきであるのかといった点ではないか。またそうすることで、処分性の有無に 関する裁判所の判断の予測可能性を高める試みが求められているといえよう。 そこで次章では、第二法理の検証作業との兼ね合いをも含め、処分性拡大判例 の「解釈手法」の分析に移っていきたい。 第三章 第二法理の検証作業  前章では、私見の処分性拡大に関する「第一法理」が引き続き妥当するとの 前提に立ちつつも、さしあたり現時点での処分性拡大判例の展開状況の下で、 その判例法理を内在的に理解するに当たっては、ⓔⓕ最判の「特異性」に引き ずられることなく、処分性拡大判例に共通した「解釈手法」を分析し、裁判所 の判断スタンスを可及的に明確化していくことが重要なのではないかとの結論 に至った。  そこでこの結論を踏まえて、以下本章第一節では、処分性拡大判例の「分類 論」からその解釈手法の共通の特徴を探る議論を検討する。つぎに第二節で は、処分性拡大判例の論理の中でも、「実効的な権利救済」などを挙げて議論

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する部分に着目し、その解釈手法としての特徴を検討していく。同じく第三節 では、処分性拡大判例の論理の中でも、《実定法の参照の仕方》に着目し、そ の解釈手法としての特徴を検討する。以上の学説展開に関する考察結果を踏ま えて、第四節では、私見の処分性拡大に関する「第二法理」の検証作業をして いく。  なお、処分性の解釈手法をめぐる議論の中でも、処分性要件を大括りに「公 権力性」と「法的効果」とに分けて論じていくか、それとも「外部性」や「具 体性」といったより細かな要件に分割しながら論じていくかなどの議論もあ る(75) 。いわば「処分性公式」そのものの定義ないし内容に関して、「要件」論 として可及的に明確化しようとの問題意識――39年最判の言う「公権力の主体 たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によって、直接国民の権利 義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」と は、一体どんな「要件」群として整理できるのかという問題意識――に立った 議論(以下「処分性要件論」)である。  本稿は、こういった処分性要件論の重要性に関して、必ずしも否定するもの ではないが、以下ではこの議論には正面から立ち入らない(本稿では、さしあ たり39年最判の「直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定するこ と」を「法的効果」要件と理解し、これに着目して議論を進めてきている)。 むしろ、39年最判の処分性公式の内容がどのような要件として表現・整理され るのであれ、この種の要件認定がいかなる解釈手法に基づきなされているのか という観点から考察することが重要なのではないのか、という問題意識に立っ て議論を進めていく。 第一節 処分性拡大判例の分類論  処分性拡大判例の分類論に関しては、従来から橋本博之氏が、「訴訟類型配 分型の解釈論」と「成熟性判定型の解釈論」という分類論を提起してきた(76) また近時においても、この橋本「仕組み解釈」二分類論を踏まえて議論を展開 する向きがある(77) 。しかし他方で、別角度から分類論を試みる向きもある。例

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えば趙元済氏(78) は、「処分性拡大は、訴訟選択の合目的性検討の結果などとし て取消訴訟の有効・適切性を是認する判断過程と、かつ争訟開始のタイミング の適否については行政庁の複数の行為の中で先行行為がなされた時点をタイム リな争訟開始とする判断過程がパラレルして複合的・重畳的に行われる」(79) の理解に立った上で、処分性拡大判例に関して、「連続複数行為の一体不可分 の行政過程型」(ⓔ・ⓕ・ⓖ・ⓓ・ⓘの各最判)と、「抽象的規範のみで行政目 的達成の法規完結型」(ⓗ最判)とに大きく分けて議論を展開する(80) 。  また中川丈久氏(81) は、処分性の判定に当たっては、行訴法の「立法経緯に由 来する行為形式アプローチ」と、「行政過程への裁判的介入の最適なタイミン グを図る裁判救済アプローチ」とがあるとした上で、「処分性の拡大傾向が見 られると形容される」ときとは、「前者よりも後者が強調され、両アプローチ 間でずれがあるように見えるとき」のことであるという。このような観点に 立った上で、処分性拡大判例を、「それぞれの事案(コンテクスト)」に沿って 分析し、以下 2 つの類型を見出す。  まずⓓ・ⓖ・ⓔ・ⓕの各最判に関して、「譬えていえば、個別行政法に"バ グ"が発見されたので、裁判所が"修正パッチ"を当てていると形容できそう な作業」をしていると指摘する。「すなわち、法効果を持たないものとして立 法されたはずの行為であるが、元々の法令の欠陥や、法執行を担当する行政機 関が事実上作り出した新たな法環境にかんがみると、現在ではもはや、行政処 分へと位置付けを変えるべきであるという決断を、司法があえて行うものであ る。裁判所が、個別行政法のメンテナンスを行いその改訂版――いわば Ver. 2 ――の姿を提示しているのである。」  そしてこれらの「行為形式アプローチに忠実な側面を持つ」「Ver. 2 タイプ の判決が処分性を認めた場合、まさに通常の行政処分と同様、出訴期間のほ か、行政手続法や行政不服審査法の対象にすることを含意している」とする一 方、「それでは困るというのであれば、ボールは既に、立法過程(議会と行政) に投げられていることに注意すべき」と指摘し、「Ver. 2 タイプの判決は、司 法と議会・行政との間のいわゆる動態的権力分立の現れ」と評価する。

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 他方で中川氏は、「Ver. 2 タイプの判決」のほかに、「数は少ないものの、 まったく別の発想に立って処分性を認める」処分性拡大判例として、ⓗ最判を 挙げる(82) 。この「趣旨は、"条例でありながら、処分でもある"というもの で」、「廃止条例の制定に当たって行政手続法を適用したり、条例を出訴期間の 対象にしたりすることまでは含意していない」ことから、「行為形式アプロー チは相当に後退している」と理解する。  その上で「本件を当事者訴訟で考えると、市を被告として、(既に廃止され た)市立保育所に引き続き在園する権利の確認という、現在の法律関係の訴え として構成することもあり得たはず」とし、「判旨は、抗告訴訟としての条例 取消訴訟か、当事者訴訟としての権利確認訴訟かの峻別に意味があるとは考え ていない」との指摘を導き出す。また判旨では、本件の争わせ方として「取消 訴訟制度を"借りる"」ことが有効との趣旨の議論がなされており、これは 「形式的行政処分論に属する一部学説と似た発想」が見られるとも言う。  さらに中川氏は、抗告訴訟と当事者訴訟が「融合」している判例として、以 上のⓗ最判とともに、「還付請求の当事者訴訟も、当該通知の取消訴訟も」提 起可としたⓒ最判も挙げ、「抗告訴訟と当事者訴訟の間に本質的な違いはな く、当事者訴訟の具体例を考えると両者の融合的理解はむしろ必至であるこ と(…)に照らすと、前記二判決は、Ver. 2 タイプの判決よりもさらに踏み込 んで、よりよい行政訴訟像を判例的に創造しようとする最高裁の姿である」と 指摘する。  このように中川説は、権力分立という「憲法」レベルでの抽象的な認識問題 と、処分性拡大に伴う副作用問題という「行政法」レベルでの具体的な解釈問 題とを、「分類論」を通じて接続する論理を提供している点で、極めて興味深 いものである。もっとも、ⓒ最判とⓗ最判に関する中川説の理解には、前稿で も若干指摘しておいたが(83) 、それぞれ疑問の余地がある。  というのも、ⓒ最判は、登録免許税が自動確定方式を採用していることや還 付請求手続の排他性の有無といった、税務行政に係る特殊な制度事情をも踏ま えて(仕組み)解釈された結果として、民事訴訟も取消訴訟もどちらも提起可

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との判断に至ったにすぎないように思われる。その意味で、処分性拡大判例と して、どこまで広い射程を持った判例であるのか疑問がある。またⓗ最判も、 当事者訴訟と取消訴訟とが比較されて論じられていることは確かであるが、こ のことから直ちに、両訴訟類型とも併用可(裏返せば取消訴訟の排他的管轄は 生じないこと)を最高裁が認めたとの結論を導き出す(84) のは、論理の飛躍があ るのではないだろうか(85) 。  これらのことからすると、ⓒ・ⓗ最判いずれもが中川氏の念頭におく「融 合」タイプに該当する判例であると言えるのか、またそもそも「Ver. 2 タイ プ」と「融合」タイプという二分論そのものがどこまで有効性・妥当性を持ち うるのかに関しては、さらなる検証の必要があろう。なおこの検証の一環とし て、中川二分論と副作用問題との関連が挙げられるわけであるが、この点に関 しては、本稿後に検討する。 第二節 実効的な権利救済?  比較的最近の処分性拡大判例(ⓖ・ⓗ・ⓘ各最判)では、「実効的な権利救 済」なりそれに類する議論が重視されており、この種の議論をいかに理解すべ きかについて、学説でも広く論じられてきている。例えば岡田正則氏(86) は、 「実体法上の『行政行為』概念を基準として」処分性を判定すると、「その対象 があまりにも狭小になってしまう。」、「そこで救済法の視点から、『行政行為』 に該当しない行政活動であっても、抗告訴訟を通じた救済が適切だと位置付け られるものについては、行政処分に該当するとみなして、その対象を拡大する ことが必要になる。」という(87) 。そして「最高裁が『実効的な権利救済』に言 及する理由」をこの必要性の文脈で理解する(88) 。  また櫻井敬子氏(89) は、ⓖ最判について、昭和41年最判(いわゆる「青写真」 判決)(90) と「最高裁のロジックは見事に反転しており、『君子豹変す』とはまさ にこういうこと」とした上で、実効的な権利救済論は、「理屈の弱さを補って いる」と、批判的な文脈で議論をしている。  ⓖ・ⓗ両最判の論理を比較しながら論ずる学説もある。例えば橋本博之氏(91)

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は、ⓗ最判との比較で、ⓖ最判でも「係争行為の根拠法令の仕組みの解明を踏 まえた紛争の成熟性の判定と同時に、当該行為につき処分性を認めて抗告訴訟 という救済ルートを用いた場合の(それ以外の救済ルートを用いた場合との対 比における)紛争解決のための手続的便宜を明らかにする、という 2 段構えの 解釈方法が採られていた。」と指摘する。  他方で高橋滋氏(92) は、ⓗ最判が「『実効的な権利救済』という観点から処分 性を肯定する論拠としている」との理解に立った上で、ⓖ最判の事案にいう 「『実効的な権利救済』(訴訟の提起そのものが不可能となるか否かの問題であ る)とは状況が異なる(判決後の後始末をいかにするかの問題である)。」の に、「『実効的権利救済』の問題として捉えることは、『実効的救済』の視点を 拡散させ、曖昧なものとするおそれがある」と批判する(93) 。  橋本説では、ⓗ最判を起点に「紛争解決の合理性」(94) でもってⓖ・ⓗ両最判 を一括して説明しようとするのに対して、高橋説は、ⓖ最判を起点に「実効的 な権利救済」でもってⓖ・ⓗ両最判を一括して(かつ批判的に)説明しようと する。どちらの立場であれ、このような一括論がどこまで妥当であるのか検証 する必要があろう。  加えて興津征雄氏(95) は、ⓘ最判をめぐる評釈の中で、近時の最高裁がとる 「実効的権利救済」の「観点」が、「理論的に導出された処分性肯定の結論を補 強したり、処分性否定の結論をとっても(他の救済手段が存在するがゆえに) 権利救済において問題がないことを追試的に検証したりする機能を果たす。」 と指摘する。しかし実効的な権利救済論が、(仮にⓘ最判に関してはそうであ ると言えるにしても)一般論として「補強」なり「追試」なりといった意義し か持たないのか検討する必要がある。 第三節 実定法の参照の仕方  処分性拡大判例の解釈論として、処分性公式がどのような要件を前提として いるのかに関しての議論(処分性要件論)はさておくとして、最高裁がそう いった要件適合性について、実定法をどのように参照しつつ肯定判断を行って

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いるか、その解釈手法が問題となりうる。この点に関しても、橋本博之氏が、 「仕組み解釈」論の提示というかたちで先鞭をつけてきた(96) 。  橋本説は、「『仕組み解釈』という『ものの見方』に着目し、『行政法令の解 釈方法論』として理論的に定位した上で、『仕組み解釈』の方法という分析軸 から、行政法の領域における裁判実務・判例法理と学説との間にある解釈方 法・思考方法の異同を探求する」ことを目的とするとともに(97) 、憲法的価値や 行政法の基本原理(法律による行政等)を正しく反映した《良き仕組み解釈》 か、それともそうではない「悪しき仕組み解釈」かの区別を重視することに よって、判例に対する学説側からの批判的視角を明らかにしてきた(98) 。  裏返せば、橋本説では、各処分性拡大判例(それに対する賛否はさておくと して)が共通して採用している解釈手法を《一般的な命題》として明らかにす るということは、主たる目的とはされていない。もっとも、「成熟性判定型」 と「訴訟類型配分型」との二分論にも見られるように、橋本説においても、処 分性拡大判例の特質が個々の判例ごとに緻密に分析されてはいる。  しかしながら、処分性拡大判例がどちらのタイプに該当することになるのか (あるいはどちらのタイプにも一部分該当するのか)、またそのタイプの解釈論 として――さらに橋本氏が考えるところの《良き仕組み解釈》の観点からして ――どこまで妥当であるのかといった点に関しては精密に議論されている一 方、実定法の参照の仕方をめぐる裁判所の判断の「法則性」を探求するという 問題意識からすれば、やや曖昧な点があるようにも思われる。  他方で下井康史氏(99) は、処分性公式につき、「①法的効果性(規律性)」、「② 個別具体性(直接具体性・終局性・成熟性)」、「③外部性(対外性)」、「④(公) 権力性」の 4 要件を挙げた上で、「かつての最高裁では、これら 4 要件をすべ て満たしたものだけを処分とするのが主流であったのに対し、近時の最高裁 は、それらのいずれかが欠けていても処分性を肯定する傾向にある」と指摘す る(100)  その上で下井氏は、「近時の学説では、処分性判断のステージを、紛争の成 熟性(即時確定の利益の有無、広義の訴えの利益)の局面と、かかる成熟性が

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肯定された場合における、抗告訴訟と民事訴訟・当事者訴訟との守備範囲の確 定という局面とに分ける分析手法が有力だが、上記①~③は前者の局面におい て、④は後者のそれにおいて、それぞれ考慮される要素と位置づけられる。」 と指摘し、それぞれの要件ごとに処分性判例を分析している。  処分性要件論と橋本「仕組み解釈」二分論とを接続しつつ、処分性拡大判例 の解釈手法の「法則性」を探る試みと言えよう。しかし下井説では、処分性拡 大判例の解釈手法において、実定法がどのような手法でもって参照されている のか、その特徴に関してまでは議論されていないように思われる。  これに対し榊原秀訓氏(101) は、「処分性の拡大は、従来の定義の基本を維持し つつ、要件の『緩和的解釈』の方向と、権利救済を重視した、要件の『追加的 解釈』の方向の、関連しつつも若干異なる 2 つの方向がある」との一般論に言 及する。その上でⓔⓕ最判を例に挙げ、「医療法上の勧告の処分性を認める際 に、勧告拒否の法的影響ではなく、『相当程度の確実さ』をもつ実務上の取扱 いを重視して処分性を拡大する要件の『緩和的解釈』の方向と、勧告を争えな いとすると、保険医療機関の指定を受けうるかについて高いリスクを負うこと になることを重視して処分性を拡大する要件の『追加的解釈』の方向の相違で ある。」と指摘する。  また榊原氏は、「追加的解釈」に関しては、行政処分の定義の中に「実効的 な権利救済」の基準を取り込むものであり、「形式的行政処分論における権利 救済の趣旨を処分性の定義に取り込むもの」として、その解釈手法としての特 徴を指摘する(102) 。しかし他方で、「緩和的解釈」がどのような内容を持つもの であるのかに関しては、具体的に論及されていないように思われる。  総じて、処分性拡大判例の解釈手法の分析に関しては、学説上顕著な深まり が認められない一方で、原告適格拡大判例(行訴法 9 条 2 項も参照)と処分性 拡大判例との間での解釈手法面における共通性については、早くから指摘され ているところである(103)。最近でも大久保規子氏(104)が、「当該法令の趣旨・目的 や被侵害利益等を考慮して判断するという枠組み」は、「必ずしも原告適格だ けではなくて、処分性を判断する際にも用いられている」と指摘する。しかし

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ここで問われるのは、処分性拡大判例において「当該法令の趣旨・目的や被侵 害利益等を考慮して判断するという枠組み」が具体的にどのようなものとして 一般的に命題化しうるものなのか、原告適格論との異同を踏まえつつ、明らか にすることであろう。  この点橋本博之氏(105) は、「近時の判例・裁判例において処分性の有無が論じ られる場合、あらかじめ行政処分の定義ないし判定基準を掲げたうえで、それ を当てはめて結論を導くというロジックをとらないものが多い」、「原告適格に 関する判例が、文字どおり判で押した4 4 4 4 4ように行訴法 9 条 1 項の解釈を提示し、 それを起点に具体的当てはめを展開するというパターンを有しているのと、対 照的」(傍点は原文のママ)と指摘するわけだが、この指摘をも踏まえて、処 分性拡大判例と原告適格拡大判例とで、どのような解釈手法上の異同があるの か、まさにその「ロジック」に関して突っ込んで検討する必要があろう。 第四節 若干の検討 一.原告適格論との比較  処分性拡大判例が処分性公式の枠内で処分性を肯定している(裏返せば形式 的行政処分論までは採用していない)という前章の考察結果、その限りで私見 の処分性拡大に関する「第一法理」を踏まえると、同じく原告適格公式の枠内 で原告適格を肯定してきた原告適格拡大判例(裏返せば法律上保護に値する利 益説までは採用していない)における「考慮事項(行訴法 9 条 2 項)」と比較 して、処分性拡大判例における「考慮事項」とは何であるのかという問題設定 をすることが重要となってこよう(106) 。  この点、学説では、処分性がいかなる要件に当てはめられて認められている (あるいは認められていないのか)という処分性要件論に議論が集中してお り、実定法をどのような仕方で参照して処分性が肯定されているのかという点 からの議論があまりみられない。また原告適格拡大判例の解釈手法との比較検 討も、端緒的な指摘段階で止まっており、それ以降の議論の進展がみられな い。

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 先にも紹介したが、中山雅之氏は、処分性拡大判例が「国民の権利利益の実 効的な救済を図るという観点から、当該行為に関連する実定法規を実質的に解4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 釈4した上、上記の一般的な判断基準を柔軟に解釈したものであって、その基準 自体を変更するものではない」と(傍点は髙木による)指摘している(107)。筆 者には、傍点部分の「当該行為に関連する実定法規を実質的に解釈」する手法 というのが、具体的にどのような解釈手法であるのか(108) 、原告適格拡大判例 の解釈手法とも絡めながら、学説として解明し、一般的な命題として提示する ことが求められているのではないかと思われる。 二.関連法律参照論法  ひるがえって筆者は、処分性拡大判例を研究していく中で、処分性を認める か否かに当たって、裁判所が他の実定法上《類似する行政行為》との関係にお いて(紛争の形態変換があるか否かを)解釈(連合的解釈)している、あるい は、実定法上《後続する行政行為》との関係において(紛争の早期成熟がある か否かを)解釈(連辞的解釈)していることを指摘してきた(109) 。  言い換えれば、処分性拡大判例は、単に係争行為のみに着目してその性質を 議論(要件当てはめ論)しているだけではなく、そうした性質をめぐる議論を するに当たって、実定法(個別行政法)上関連する4 4 4 4――もっと噛み砕いて言え ば、とっかかりになりそうな――「行政行為」について、明示的にであれ黙示 的にであれ、絶えず参照しているのである。その限りで、訴訟要件に関して 「制定法準拠主義」(110) の枠組みに立ちつつも、制定法の枠組みを根拠法規の条 文から関連法律の条文にまで広く取りつつ、実質的に柔軟化しようとする、原 告適格拡大判例類似の解釈手法が採用されていると言えよう。  そこで、上に挙げた二種の解釈手法に応じて処分性拡大判例を分類すると、 さしあたり以下のように整理することができるようになる(111) 。すなわち「連 合的解釈」に関しては、ⓐ最判【二項道路一括指定⇔二項道路個別指定】、ⓑ 最判【労災就学援護費不支給決定⇔労災保険給付拒否決定】、ⓗ最判【保育所 廃止条例⇔保育実施解除処分】(112) が採用している。また「連辞的解釈」に関し ては、ⓖ最判【土地区画整理事業計画決定←換地処分】、ⓔⓕ最判【病院開設

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中止勧告ないし病院病床数削減勧告←保険医療機関指定拒否処分】、ⓓ最判 【食品衛生法違反通知←輸入不許可処分】、ⓘ最判【有害物質使用特定施設廃止 通知←土壌汚染調査報告命令】(113) が採用している。  複数の行為形式間の時間的継起を念頭に置いて処分性の有無を判断する「連 辞的解釈」に関しては、(そのネーミングはともかくとして)これまでの学説 でも意識されてきた解釈手法であるので、とくに目新しいものではない。他方 で、複数の行為形式間の観念的連合を念頭に置いて処分性の有無を判断する 「連合的解釈」に関しては、個別評釈レベルでの断片的な示唆は見受けられる ものの(114) 、《一般的な解釈手法》として認知されているとまでは言い難い(115) 。 ともあれ、原告適格に関して、考慮事項として関連法律参照論が挙げられてき たわけであるが、これに相当する処分性に関する考慮事項としての関連法律参 照論に関しては、大まかに以上の 2 つの解釈手法(連辞的解釈・連合的解釈) に整理できるのではないか、というのが筆者の「見立て」である。 三.背理法的論法  つぎに、最近の処分性拡大判例にみられる「実効的な権利救済」論の特徴に ついて、どう理解するかである。一般に「実効的な権利救済」論に関しては、 行政訴訟においてとりわけ強く関心が寄せられてきた要請である(116) 。そして、 先の高橋説では、ⓖ・ⓗ両最判を一括して、「実効的な権利救済」論の枠組み に括り、その論理一貫性の無さを批判している(117) 。しかしこれに関しては、 疑問の余地がある。  というのも、ⓗ最判で議論されている内容は、「実効的な権利救済」論では なく、むしろ民事訴訟法学の分野において重要な原理的要請と目されている 「実効的な紛争解決」(118) 論に関わることであろう(もちろんⓖ最判とⓗ最判と の実質的な違いについては、先の通り高橋氏も前提論としては認識している)。 同じことは、橋本説のように、「実効的な紛争解決」(ならぬ「紛争解決の合理 性」(119))でもって、ⓖ・ⓗ両最判を論じることにも裏返して当てはまるように 思う。  したがって、ⓖ最判(ⓘ最判も)の「実効的な権利救済」論と、ⓗ最判の

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「実効的な紛争解決」論とは、私見の処分性拡大に関する「第二法理」で示し たごとく、それぞれ一応は4 4 4独立の議論として論じられるべき筋合いのものと言 えよう(120) 。それでは、「実効的な権利救済」論であれ、「実効的な紛争解決」 論であれ、これらの議論はどのような意義をもつのだろうか(121)。橋本説にせ よ高橋説にせよ、両論を一括して論じる学説もあり、かつ、それが一定の説得 力をもって論じられてきた以上、両論にはそれ相応の論理的な共通性があるこ とがうかがわれるところである。  さらにこの点中原茂樹氏(122) が、ⓖ最判の「合理的な紛争解決」論とⓗ最判 の「実効的な権利救済」論が考え方として「通じるもの」があると示唆し(123) 、 櫻井敬子=橋本博之(124) が、「訴訟手続的側面に着眼した解釈論」との共通点を 見出すところである。「実効的な権利救済」論と「実効的な紛争解決」論と で、何が異なり、何が同じであるのかを明確に理解する必要があろう。また併 せて興津説において、これら両論に関わって、処分性肯定に至る「補強」的な いし「追試」的な論証と指摘した点に関して改めて考えてみたい。  思うに、この点に関しては、以下に挙げるような、ある種の「思考実験」を 伴う「背理法」のロジック(125) として理解すべきではないだろうか。  (α) 論証すべき命題:処分性を拡大せねば、実効的な権利救済ないし実効 的な紛争解決とならない。  (β) 仮定として、(α)命題の否定:処分性を拡大しなくとも、実効的な権 利救済ないし実効的な紛争解決となる(とする)。  (γ) そうすると、(β)命題と矛盾する事態の発生:後続行政処分を対象 に、あるいは、当事者訴訟を選択し、裁判提起したとしても、事情判 決(行訴法31条)が適用されて原告市民に「泣き寝入り」が生じる (ⓖ最判)、あるいは、判決に第三者効(同32条)がないので被告行政 主体側に「後腐れ」が生じる(ⓗ最判)。そしてこうした事態は、実効 的な権利救済ないし実効的な紛争解決ではない。  (δ)ゆえに、(α)命題が妥当である。

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四.両論法の共通性(間接論証アプローチ)  以上のような形で処分性拡大判例における「実効的な権利救済」論ならびに 「実効的な紛争解決」論は、そのじつ「背理法的論法」として議論されてきた わけなのである。しかしそうであるとすると、つぎに問題となるのは、先に明 らかにした「関連法律参照論法」(連辞的解釈と連合的解釈)と、この「背理 法的論法」(実効的な権利救済または実効的な紛争解決)との関係である。  両論法に共通して言えることは、係争行政活動につき処分性公式(処分性要 件)をそのままあてはめて答えを導き出すという、伝統的な「直接論証アプ ローチ」ではないということである。むしろ関連法律参照論法や背理法的論法 といった「論法」を駆使して、処分性を間接的に論証しようとするアプローチ である。そしてこのような「間接論証アプローチ」を処分性拡大判例が採用し ていることこそが、一見すると処分性公式を逸脱しているかのように見える大 きな原因となっているとともに、処分性拡大に関する解釈手法を理解しがたい ものとしているのではなかろうか。  さらに、ともに間接論証アプローチを構成する、関連法律参照論法と背理法 的論法との法的裏付けについてである。これに関しては、前者は「公権力の行 使」(行訴法 3 条)の延長線上の解釈論として、後者は「法律上の争訟」(裁判 所法 3 条)の一環の解釈論として位置づけられうるのではないか。そしてこう した解釈論を媒介とすることによって、処分性拡大判例の「考慮事項」(関連 法律参照論と実効的な権利救済・実効的な紛争解決論)と、原告適格拡大判例 における「考慮事項」(関連法律参照論と被侵害利益の内容・性質論)とを統 合的に説明する余地が生まれてくるのではないだろうか。 第四章 第三法理の検証作業  私見の処分性拡大に関する「第三法理」に関わる問題、すなわち処分性拡大 に伴う「副作用」問題に関しても、前稿で論じて以降、学説上一定の議論展開 がみられる。この問題に関しては、平成16年行訴法改正の立法過程に、司法制 度改革推進本部「行政訴訟検討会」(126) 委員として関わった水野武夫氏(127) の指摘

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が本質を突いているだろう。水野氏は、処分性の有無をめぐる裁判所の判断が 「極めて不透明」との現状認識を踏まえた上で、「処分の公定力、出訴期間の制 限、取消訴訟中心主義などのこれまでの行政法の『理論』はどうなったのか。 まさに混沌の状況である。」と指摘する。  またそれとともに、「処分性を拡大せよという議論に筆者が検討会で反対し たのは、出訴期間等の制限やいわゆる公定力の議論をそのままにしながらいた ずらに処分性を拡大して事件を行政訴訟に取り込むことは、国民にとって利益 にならないと考えるからである。しかし、いまやその『理論』自体が混沌の状 況にある。」との理解を示している。以下本章では、この「混沌の状況」に関 して、学説を素材に具体的に見ていこう。  第一節では、処分性が拡大しても副作用は生じないと理解する学説、第二節 ではその反対の、副作用が生じてしまうと理解する学説、第三節では、同じく 副作用の発生を前提論としては認めるけれども、しかし解釈論でもってこの副 作用を制限すべきとする学説と、おおまかに学説を 3 つに整理分類したうえ で、それぞれのタイプの学説内容を検討していく。第四節では、以上の学説の 展開状況を批判的に分析しつつ、私見の「第三法理」に関する検証作業を進め ていく。 第一節 副作用否定論 一.形式的行政処分論  形式的行政処分論における副作用否定論に関しては、前稿で詳しく検討して いる(128) 。したがってここでは、同旨の最近の議論を 1 つだけ紹介しておこ う(129) 。例えば曽和俊文氏(130) は、「実体的行政処分」――「私人間では見られな いような典型的な権力的行政行為」(営業停止命令等)――や、「(制度上の) 『形式的行政処分』」――「私人間でも類似の行為が見られる」ものの「法律の 仕組みの中で行政処分とされている行為」(生活保護決定や公民館の使用許可 決定等)――に関しては、「実定法上、行政処分であることが明らかであると 考えられるので、原則として取消訴訟で争うことになり、取消訴訟の排他的管

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轄に服する(したがって『公定力』があると言える)。」とする。  しかし他方で、「法制度上は行政処分であるかどうか明確ではないが、救済 の必要上、法解釈によって取消訴訟とされる」「(法解釈上の)『形式的行政処 分』」(ⓔⓕ最判で言えば勧告)は、「原告の救済の必要から取消訴訟の対象と しただけであるので、取消訴訟の排他的管轄に服すと考える必要はない」と指 摘する。  また曽和氏は、「伝統的な行政法学においては、取消訴訟と当事者訴訟・民 事訴訟とは二者択一的に考えられており、取消訴訟の対象となる行為は、原則 として(無効でない限り)、取消訴訟でしか争えないとされてきた。しかしこ のような取消訴訟の排他性を明文で指示した規定はない。[ⓔ最判]のよう に、行政指導であるが取消訴訟の対象ともなる行為を判例法理で認めるなら ば、改めて取消訴訟の排他性の根拠や妥当範囲が再検討されるべきであろ う。」(131) とも指摘する。  こうした理由付けに関しては、前稿で批判的に検討したので、本稿では検討 を繰り返さない。ここでは、ある行政活動に関して行訴法上の処分と解釈して おきながら、その行訴法上の処分に随伴する出訴期間や排他的管轄の適用に関 しては認めないとする《行訴法の解釈論》――ありていに言えば《救済の便宜 に救済の便宜を重ねる議論》――に関しては、現段階においてもその論証が十 分に成功しているとは思われないという点を指摘しておくに止めておこう(こ の点に関しては、さしあたり本文後に紹介する周氏、春日氏、高橋氏の議論も 参照)。  またこの種の《行訴法の解釈論》が、「半世紀」近くにわたって学説上盛ん に主張され(132) 、かつ、それに対して今日においてもなお根強い批判が展開さ れ続けてきている(133) 経緯を踏まえると、同旨の解釈論を今日においても主張 しようとするに当たっては、それなりの追加の論証が必要となるのではないか との疑問も思い浮かぶ。 二.抗告訴訟と当事者訴訟の相対化論  中川丈久氏が、抗告訴訟と当事者訴訟とを相対化しようとする議論を活発に

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