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この3 大地域に共通することとして 1 太平洋側の海側 川沿いに分布していること 2 昔から水害の常襲地帯であったことが一つの特徴として挙げられます 白髭 ( 鬚 髯 ) 神社の由来については 様々な諸説があり はくら こうらいじん 朝鮮半島から移住した白羅など高麗人が川を遡り山間部に入ったとする説

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国土交通省中部地方整備局 静岡河川事務所 安倍川沿いにある白髭神社(静岡市葵区中平)と猿田彦(同市葵区有東木)

『土地の守護神か?』

安倍川流域に多い白髭さん

・ 昔から、それぞれの集落に祀られた神々は、集落に住む人々の生活と深い関わりをもった神でした。 当事務所が管轄する静岡市を流れる安倍川流域には、多くの「白髭神社」が祀られ、その多くは安倍川及び 藁科川の川沿いに鎮座しています。なぜ、このように多くの白髭神社を祀り、特異性を持ち建てられてきた のでしょうか? 今回、安倍川・藁科川を管理する河川管理者の立場から探ってみたいと思います。 「白髭(鬚・髯)神社」は全国に多数あり、どのように分布し ているかは、調査の年代や調査方法、調査者によって違いがあり ますが、ここでは、国税庁のホームページ「法人番号公表リス ト」のデータを掲げます。 現在、全国各地に268社(※1)の白髭(鬚・髯)神社があり、 総本社は滋賀県の琵琶湖西岸の明神埼に鎮座する白鬚神社です。 県別にその内訳を見ますと、特に多いのが静岡県(64社)、岐阜 県(64社)、埼玉県(27社)となっており、ことに静岡市を流れ る安倍川流域には41社が祀られています。

■全国の白髭(鬚・髯)神社数

わらしながわ あ べ かわ しらひげ <平成28年12月現在> 都道府県 白髭(鬚・髯)神社 の鎮座数 1 静岡県 64 (41) 1 岐阜県 64 3 埼玉県 27 4 東京都 10 5 京都府 9 合計 268 (  )書きは安倍川流域の鎮座数を示す ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ みょうじんざき

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表ー1 全国及び静岡市にある白髭(鬚・髯)神社の鎮座数

<平成28年12月調査> この3大地域に共通することとして、①太平洋側の海側・川沿いに分布していること、②昔から水害の常襲地 帯であったことが一つの特徴として挙げられます。白髭(鬚・髯)神社の由来については、様々な諸説があり、 朝鮮半島から移住した白羅など高麗人が川を遡り山間部に入ったとする説、「水の神」や「農耕の神」として 白ひげの神を説くものなど、多くの謎に包まれています。 出典 国税庁ホームページ掲載の「法人番号公表リスト」より、筆者 が独自に整理したもの。これは、国税庁に登録がある法人化さ れたものの集計であり、全国には法人化されていない白髭神社も 多数存在する。(※1)

■「ひげ」の違い

・ 「白ひげ神社」の「ひげ」の文字には、 「白髭」「白鬚」「白髯」の三つの文字が使 われています。「白髭神社」が164社で全体 の61%、「白鬚神社」が98社で全体の37%、 「白髯神社」が6社で全体の2%となってい ます。また、「髭」「鬚」「髯」には、それ ぞれひげの位置の違いがあり、髭(口ひげ)、 鬚(あごひげ)、髯(ほおひげ)を現し、そ の違いは定かではありませんが、関東では 「白髭」、関西は「白鬚」が多いと云われて います。下にあるのは、高羅神社(埼玉県日 高市)に祀られている高麗若光像です。明治 以降は高麗神社と称されるになりましたが、 かつては、「白髭大明神」とも称されていた ようです。 NO 地域ブロック 県名 白髭神社 白鬚神社 白髯神社 合計 1 北海道 北海道 0 0 0 0 2 青森県 1 0 0 1 3 岩手県 1 0 0 1 4 宮城県 0 3 0 3 5 秋田県 0 0 0 0 6 山形県 3 3 0 6 7 福島県 2 3 0 5 8 茨城県 1 0 0 1 9 栃木県 2 2 0 4 10 群馬県 2 1 1 4 11 埼玉県 10 17 0 27 12 千葉県 1 0 0 1 13 東京都 7 3 0 10 14 神奈川県 4 0 0 4 15 新潟県 0 0 1 1 16 富山県 0 0 0 0 17 石川県 2 3 0 5 18 福井県 0 3 1 4 19 山梨県 2 1 1 4 20 長野県 3 2 1 6 21 岐阜県 33 31 0 64 22 静岡県 61 3 0 64 23 愛知県 3 0 0 3 24 三重県 1 0 0 1 25 滋賀県 0 4 0 4 26 京都府 6 3 0 9 27 大阪府 0 0 0 0 28 兵庫県 3 1 0 4 29 奈良県 3 0 0 3 30 和歌山県 0 1 0 1 31 鳥取県 0 1 0 1 32 島根県 1 0 0 1 33 岡山県 0 0 0 0 34 広島県 2 1 0 3 35 山口県 0 0 0 0 36 徳島県 0 0 0 0 37 香川県 0 1 0 1 38 愛媛県 0 1 0 1 39 高知県 2 0 0 2 40 福岡県 1 4 0 5 41 佐賀県 3 3 0 6 42 長崎県 2 0 1 3 43 熊本県 0 0 0 0 44 大分県 1 2 0 3 45 宮崎県 1 1 0 2 46 鹿児島県 0 0 0 0 47 沖縄県 0 0 0 0 小計 164 98 6 268 九州 沖縄 東北 関東 中部 関西 中国 こまじんじゃ 県名 県名 白髭神社 白鬚神社 白髯神社 合計 葵区 40 0 0 40 (安倍川流域) 40 0 0 40 駿河区 2 0 0 2 (安倍川流域) 1 0 0 1 清水区 15 0 0 15 - - - - - 市域全域 57 0 0 57 (安倍川流域) 41 0 0 41 静岡市 (安倍川流域) はくら こうらいじん こまのじゃっこうぞう

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図ー1 全国的に多い白髭神社の3大地域とそのルーツ (ここからは、一番多い文字「白髭神社」を使います) 白髭神社は、7世紀前後に大陸の先進的な技術を もたらした朝鮮半島からの渡来人が信仰した神と言われて おり(※2)、安倍川流域に白髭神社が多いということは、渡来人が安倍川を遡って住みついたと考えられます。 古代、河川は言うまでもなく交通路として重要な役割を果たしていました。そのため、渡来人の足跡は得てし て川沿いや海沿いに特に多いものです。それを出羽弘明氏はこう記しています。「古代には海人族(秦氏と思わ れる)が朝鮮半島から若狭に渡来し琵琶湖を渡り、尾張や伊勢に進出し、・・・・・・太平洋岸を東上する過程 で、木曽川、矢作川、天竜川、大井川、安倍川、富士川、相模川などの上流にも入植をしたので、それらの地方 には渡来系の神社や 地名が多く残っている(※3)」と。渡来人はやがて関東地方にも入り、利根川を遡り各地に 住みついたようでした。古代の利根川流域は現在のように太平洋へ直接流れるのではなく、埼玉県北部で南に大 きく折れ曲がり、場所によっては入間川・荒川・江戸川・中川・隅田川などの別名を持ちますが、最終的には東 京湾に流れ込む大河川でした。古来、利根川流域はたびたび氾濫を起こしましたが、災厄ばかりでなく武蔵国で は交通・運輸の大動脈であり、多摩川流域とともに武蔵国の先進地域を形成していました。それに大きく貢献し たのが渡来人や渡来文化なのですが、それらの川を遡って渡来人が東京や埼玉などに住みついたようです。 <出典:半月城通信より> 木曽三川 安倍川 荒川 本社(滋賀県)

■白髭神社のルーツは?

でわ ひろあき きそがわ やはぎがわ てんりゅうがわ おおいがわ あべかわ ふじがわ さがみがわ とねがわ いるまがわ あらかわ えどがわ なかがわ すみだがわ たまがわ あまぞく はたうじ

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■安倍川流域は白髭さんのオンパレード

・ 安倍川流域には「白髭さん」と呼ばれる「白髭神社」が圧倒的に多く、その祭神は静岡市街地と安倍川本 流筋は「武内宿祢と猿田彦命」、藁科川筋は「猿田彦命」、中・西河内川流域が相半ばといった形で分布し ています。また、安倍川に合流する藁科川沿いにある白髭神社は、いずれも集落の出入り口や中心部高台に 鎮座し、社殿や鳥居は川や沢に向かって建立されています。 白髭神社は朝鮮渡来の神だという説がありますが、これは、安倍・藁科川流域に朝鮮渡来の秦氏が古くか ら居住し、養蚕や機織りなどの高度な技術を伝えていたからだと云われており、静岡市に「服織」「賤機」 「麻機」といった地名があるのは、そのことに関連しています。

図-2

安倍川水系の白髭神社の分布図

(※4) あさはた はとり しずはた なか にしこうちがわ たけのうちすくね さるたひこのみこと

<平成10年3月現在>

※「下島」「上足洗」は安倍川流域 ではないものとして整理 入島● 相淵● 中沢● ●横山 ●平野 中平● ●有東木 手越原● ●下島 ●上足洗 ● 籠上 ● 新伝馬 ●● 松富与一 ●野田平 ● 俵峰 ●油島 吉津● 口坂本● ●口仙俣 大間● 崩野● ●諸子沢 ●日向 ●寺島 ●相俣 ●黒俣 小布杉 ● ●落合桂山 松野● 油山● 中之郷● 千代● ●大沢 ●腰越 落合平瀬● ●油野 ●上落合

●:

猿田彦

●:

武内宿祢

● 長熊 横沢 ● ●長妻田 ●奥池ケ谷 ●谷津 ようさん はたお

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安倍川 白髭神社(静岡市葵区籠上) 中河内川 白髭神社(静岡市葵区落合桂山) 安倍川 白髭神社(静岡市葵区千代) 藁科川 白髭神社(静岡市葵区日向) 藁科川 白髭神社にある雷石(静岡市葵区相俣) 中河内川 白髭神社(静岡市葵区油野) 安倍川 白髭神社(静岡市葵区平野) 安倍川 白髭神社(静岡市葵区有東木)

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・ 安倍川流域に建立された白髭神社の創建年については不明なも のが多いようですが、「静岡市神社名鑑」(※5)に、その一部が 紹介されています。これを見ますと、特に江戸中期から江戸末期 までの期間に集中して創(再)建されていることが分かります。 この点で思い当たることとして、安倍川流域において、古代より 古へ、水害や土砂災害が頻発し、特に人的な被害を含めた大災害 に見舞われていることです。すなわち、宝永4年(1707)の大 地震、文政11年(1828)や安政2年(1855)の安倍・藁科川 の大洪水です。ことに、宝永4年時には、マグニチュード8.4の 大地震で、安倍川源流部で約1億2,000万m3の大崩壊が発生し、 大量の土砂が5km下流の赤水の滝まで一気に流下し、三河内川 をせき止め、新田地先に大池を造りました。また、文政11年の時 には、大雨による洪水で安倍・藁科川の堤防が至る所で決壊し、 流出家屋が多く、死者が多数発生した他、負傷者2,000人以上だ ったと伝えられています。 なぜ、この時期に白髭神社の創(再)建が多いのかという疑問に対する一つの理由として、甚大な水害や 土砂災害が多く発生したため、災厄から人命や土地や家屋・田畑を護ってくれる神として、猿田彦命を積極的 に勧請して祀ったものと考えられます。

■安倍川流域の災害史と白髭神社建立の関係

※江戸時代の年代区分を以下のように設定。 【江戸初期】慶長8年(1603)~慶安4年(1651) 【江戸前期】承応元年(1652)~寛文12年(1672) 【江戸中期】延宝元年(1673)~天明8年(1788) 【江戸後期】寛政元年(1789)~天保13年(1843) 【江戸末期】弘化元年(1844)~慶応4年(1868)

表-2

安倍川流域に建立されている「白髭神社」の創(再)建時期

日本3大崩れの一つである大谷崩 1707年の宝永地震で大崩壊 みこうちがわ しんでん おおやくずれ NO 河川名 白髭神社の住所 創建 再建 1 安倍川 静岡市駿河区手越原 1558年(永禄元年) 1742年(寛保2年) 2 安倍川 静岡市葵区千代 不詳 1824年(文政7年) 3 安倍川 静岡市葵区籠上 不詳 1812年(文化9年) 4 安倍川 静岡市葵区新伝馬 不詳 1846年(弘化3年) 5 安倍川 静岡市葵区松富 不詳 1597年(慶長2年) 6 安倍川 静岡市葵区与一 1776年(明和3年) - 7 安倍川 静岡市葵区中ノ郷 不詳 - 8 安倍川 静岡市葵区油山 不詳 - 9 安倍川 静岡市葵区松野 不詳 1646年(正保2年) 10 安倍川 静岡市葵区野田平 不詳 1737年(元文2年) 11 安倍川 静岡市葵区俵峰 不詳 1751年(宝暦元年) 12 安倍川 静岡市葵区油島 不詳 1674年(延宝2年) 13 安倍川 静岡市葵区中沢 不詳 1832年(天保3年) 14 安倍川 静岡市葵区相淵 1697年(元祿10年) - 15 安倍川 静岡市葵区横山 956年(天歴10年) - 16 安倍川 静岡市葵区平野 1244年(寛元2.3年) 1755年(宝暦4年) 17 安倍川 静岡市葵区中平 1570年(元亀年間) - 18 安倍川 静岡市葵区有東木 不詳 1726年(享保11年) 19 安倍川 静岡市葵区入島 1234年(天福2年) - 20 中河内川 静岡市葵区落合桂山 不詳 1828年(文政11年) NO 河川名 白髭神社の住所 創建 再建 21 中河内川 静岡市葵区落合平瀬 不詳 1795年(寛政6年) 22 中河内川 静岡市葵区腰越 不詳 1593年(文禄2年) 23 中河内川 静岡市葵区大沢 不詳 1677年(延宝5年) 24 中河内川 静岡市葵区横沢 不詳 1719年(享保3年) 25 中河内川 静岡市葵区長熊 不詳 1746年(延享3年) 26 中河内川 静岡市葵区奥池ヶ谷 1570年(元亀年間) - 27 中河内川 静岡市葵区長妻田 不詳 1751年(宝暦元年) 28 中河内川 静岡市葵区油野 不詳 1777年(安永6年) 29 中河内川 静岡市葵区上落合 不詳 1708年(宝永5年) 30 中河内川 静岡市葵区口仙俣 1627年(寛永4年) 1734年(享保19年) 31 中河内川 静岡市葵区口坂本 不詳 不詳 32 藁科川 静岡市葵区吉津 不詳 1858年(安政5年) 33 藁科川 静岡市葵区谷津 不詳 1848年(嘉永元年) 34 藁科川 静岡市葵区小布杉 不詳 - 35 藁科川 静岡市葵区寺島 1762(宝暦12年) - 36 藁科川 静岡市葵区黒俣 不詳 - 37 藁科川 静岡市葵区相俣 不詳 1762年(宝暦11年) 38 藁科川 静岡市葵区日向 不詳 1532年(天文元年) 39 藁科川 静岡市葵区諸子沢 不詳 1792年(寛政4年) 40 藁科川 静岡市葵区崩野 1469(文明9年) 1817年(文化14年) 41 藁科川 静岡市葵区大間 不詳 1844年(天保15年) 出典 『静岡市神社名鑑』 1998 静岡県神社庁静岡支部設立50周年記念(静岡県神社庁静岡支部)    『安倍川流域の文化を探る』 平成14年1月 静岡市立大河内中学校 かんじょう

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・ 安倍川流域に建立されている白髭神社の多くは、安倍川、藁科川、中河内川などの川沿いに鎮座しています が、中でも、下流部に位置する「下島」「上足洗」「籠上」「新伝馬」「松富」などの白髭神社は、現在の安 倍川と離れた場所に鎮座しています。これは、昔、安倍川の流路が、もっと東側の賤機山付近を流れていたこ とに起因していると考えられます。この流れを変えたのが1607年頃で、徳川家康公は、駿府城や駿府の町を 安倍川の洪水から守るため、薩摩土手を築造(※諸説有り)し、自由気ままに流れていた安倍川の流れを西側 に変える大改修を行いました。

■川沿いに多く建立されている白髭神社と河川流路の変遷

●下島 ●手越原 ●籠上 千代● ●上足洗 吉津● ●谷津 小布杉● ●新伝馬 駿府城 安倍川河口から上流を望む 籠上● ●新伝馬 駿府城 安倍川10K付近から下流を望む 安倍川 白髭神社(静岡市葵区新伝馬) しもじま かみあしあらい かごうえ しんてんま まつとみ しずはたやま さつまどて

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・ 今から162年前の安政東海地震(1854年)の時、「津波が浜川を遡上し、下島地区の白髭神社(静岡市 駿河区下島)付近まで海水が来たので、森のスギやヒノキの木が枯死した」という記録が『大里村誌』に残さ れています。 平成23年(2011)5月31日の静岡新聞、『歴史津波に学ぶ10』では、次のように掲載されています。 「白髭神社(下島)は現在、海からの直線距離約450メートルにある。海抜は約4メートル。下島や西島の 集落を襲った津波は、高さ約4.5メートルと推測される。海沿いの砂丘は乗り越えることはなく、川を遡上し て内陸部に浸入したとみられる」 神社の近くに住む主婦(61)は「高祖父が神社の木に登り、津波の襲来を大声でみんなに知らせたと聞い ている」と話す。神社の責任総代・望月光夫さん(85)は「津波の漂流物が神社のクスノキの上方に引っか かったという言い伝えもある。鳥居の倍の高さだったそうだ」と話す。その上で、「その割に大きな被害記録 はない。気をつけるに越したことはない-という先人 の戒めなのかもしれない」と気を引き締める。 西岩寺(静岡市駿河区下島)60年ぶりの薬師如 来像開帳に合わせて地域の歴史をまとめた「おや くっさん平成開帳記(1996年)には、安政年間の 大津波で「(下島の)北方石田あたりまで冠水した。 田んぼはさながら海辺のようだった」という記述も ある。

■口碑で伝承される歴史津波と白髭神社

にしじま はまかわ あんせいとうかいじしん おおざと 白髭神社(下島)と境内のクスノキ

津波避難マップ(静岡市発行)

津波避難マップによる浸水想定区域」に関する情報は、「南海トラフ巨大地震の被害想定(第二次報告)」(平成24年8月29日 内閣府公表)、「静岡県第4次地震被害想定(第一次報告)」(平成25年6月27日公表)、「静岡県第3次地震被害想定(安 政・東海地震)」(平成13年5月30日公表)を重ね合わせ、現時点で想定しうる最大クラスのものとしています。 しもじま せいがんじ

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■川沿いに創建。災害を受け、場所を変えて再建された白髭神社

現在の白髭神社(横山) 現在の白髭神社(平野) ・ 安倍川中流域の大河内地区に、956年(天歴10年)に建立された「横山」の白髭神社、1244年(寛元2, 3年)に建立された「平野」の白髭神社が鎮座しています。『大河内村誌』によれば、元々は、安倍川の川原 (雑木林)付近に創建されたという記載があり、何れの地区も「元宮」という地名から、その経緯を伺い知る ことができます。また、横山の白髭神社について「この神社は初め字元宮に建てられたものであるが、天保元 年(1644)、8月大暴風による出水のため社地が流出したため現在の位置に移したものであり、明治42年7 月15日大河内村横山村社へ合祀した」と記述。また、仲野六左右衛門記録中に「延喜年中(901~923) 建立した白髭神社は、安倍郡横山字元宮と申すところに鎮座奉し横山村蕨野村氏子中と棟札にあった。」とあ ります。

図-3

安倍川中流域の流域図

(※6) 創建 創建 災害後を受け高台に再建 災害を受け高台に再建 もとみや ごうし わらびの おおこうち ひらの よこやま むなふだ

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・ 安倍川は日本屈指の急流河川ですが、昔は材木を筏に組んで 上流から下流の静岡市街地に流し、川舟で安倍奥まで荷物を運 び上げるなど、安倍川舟運は重要な動脈として役割を果たして きました。 『大河内村誌』によると、安倍川を利用した舟運が始められ たのは明治11年(1878)頃で、遠州の船頭である健次郎とい う者が舟を通したとされており、また、『梅ヶ島村誌』には、 明治10年(1877)頃、甲州の人が牛妻を起点とした通船を 試み、運搬業を始めたとあります。そして、明治26年(1893) に、籠上・牛妻間の道路が開通すると、貨物が急増し、それに対応するために2つの舟運会社が設立されまし た。舟運コースは二つあり、一つは牛妻から梅ヶ島(入島)間の大河内方面で、輸送には牛妻運送合資会社が あたり、もう一つは牛妻から上落合間の中河内(玉川)方面で、輸送には中河内通船合資会社があたりました。 安倍川舟運は、明治から昭和初期まで続けられましたが、交通安全、航海安全などの御利益があると言われ ている猿田彦命や武内宿祢を祭神とする白髭神社が、そういった起点となる場所に建立されていることも、何 か因縁深いものを感じます。

■河川舟運の起点となる場所に建立されている白髭神社

平野 松野 郷島 牛妻 横山 蕨野 油島 俵沢 湯の森 渡本 上渡 下村 中平 関ガ沢 入島 梅ヶ島温泉 有東木 新田 草木 大の木 落合 桂山 相淵 油野 上落合 足久保奥組 足久保口組 柿島 安倍川流域図 森腰 長熊 長妻田 舟運に使われていた舟(大正元年10月撮影) 書籍「安倍川と安倍街道」より転載 入島 安倍川沿いの小高い山の中腹に 入島の白髭神社が祀られており、 そこから入島の荷揚場を望むこ とができる。 かつて安倍川最上流部にあった入島の荷揚場

【入島地区】

荷揚場 梅ヶ島高齢者生活 福祉センター

図ー4

安倍川舟運の経路図

大河内コース(牛妻~入島間) 片道22キロ 中河内コース(牛妻~上落合間) 片道22キロ 大河 内コー ス 中河 内コース うめがしま かごうえ うしづま かみおちあい なかごうち 白髭神社 (入島) 白髭神社 (上落合) 水神様(牛妻) しゅううん にゅうじま

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【上落合地区】

中河内通船合資会社社長の長島庄太郎邸(上落合) 荷揚場 かつて中河内川最上流部にあった上落合の荷揚場 中河内川沿いに上落合の白髭神社が祀られている 白髭神社(上落合)の拝殿に飾られている「バラ流し」の絵図 安倍鉄道の牛妻駅付近に集められたバラ流し(散流)の木材 大正10年撮影 (写真:山梨竜平)

バラ流しとは?

・川の流れに木材を投げ込み、流水によって 下流部まで流し送る作業を言う。 ・中河内川や藁科川のように支流は水流が少な いため古くから菅流(バラ流し)が行われて きた。上落合のバラ流しの絵図を見ると、川 をいったん堰き止め、堰を撤去した水の勢い で、一気に流す様子が描かれている。 ←安倍川

図-5

安倍川舟運の経路図

中河内川沿いの小高い場所に上落合の白髭神社が祀ら れており、その付近には、かつて上落合の荷揚場や バラ流しが行われていた場所がある。

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【白髭神社(有東木)の神楽】

駿河神楽の一つで、春秋の二度、白髭神社の祭礼として松竹梅の舞、火の舞など16演目が奉納されます。 [静岡市指定無形民俗文化財]平成28年10月8日撮影

■白髭神社例大祭と神楽

【白髭神社(平野)閏年例大祭】

【有東木の大杉】

【トピックス】 神社に杉の木が多いのはなぜ?

・ 杉の木は神社では多くみられる木の一種です。空に向かってまっすぐ伸びていく姿から、神様に一番近い 木と考えられています。そして古来から、神様は天界から地上の移動に杉の木を利用していると考えられて います。杉の木なくしては神様が地上を行き来できないことから、神木として扱われることが多いと云われ ています。 ・ 例祭をはじめ、村から安倍川河川敷まで、住民による渡御行列・舞、神楽が行われます。 4年に1度の閏年に開催される例大祭 平成28年10月21日撮影 とぎょぎょうれつ お神輿を先導する猿田彦 うとうぎ ひらの

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・ 安倍川は急流で、流域は大地溝帯に属しているため、地殻がもろく崩れやすいため、土砂の堆積作用が 激しく河床が上昇して天井川となり、過去幾度となく水害に苦しめられてきました。普段おとなしい安倍 川も梅雨期から台風の頃になると、激流が流れ下り、沿川の住民を震え上がらせていたため、住民たちは 自衛のために盛土をして屋敷を高くし小高い堤防を周囲に築いたり、霞堤という独特の堤防も住民の協力 で築いたと云われています。しかし、それでも毎年水害に襲われ、田畑が流出したため、人々は、人間の 無力を嘆いて神仏に祈り、その加護により水害から免れようと真剣に考え、川除地蔵や水神様を村中総出 で祀り、水難防止と併せて、五穀豊穣を祈願しました。 それ以降も水害に毎年襲われたため、人々の地蔵信仰はますます盛んになっていき、何か不安があると 地蔵尊に祈願するというように地蔵尊は氏神と共に村人の守護神となっていきました。安倍川の水難を恐 れ、水害から守ってもらう地域住民の願いが地蔵信仰に込められ、今に伝えています。 ・ これらの川除け地蔵尊には焼津市小川海蔵寺の地蔵尊の分神が多く見られます。小川の「地蔵尊由緒」 には次のように書かれています。 「御本尊地蔵尊菩薩は明応9年(1500年)約500年前焼津港城之腰海中から漁夫の網によって出現当 山に寄せられ奉安せられたもので・・・・・・・・・・・・・・有名であります。特に水に因みの地蔵尊 として信仰各位のため河川の川除、水防、五穀成就、漁業関係者のため海上安全のご祈祷修行も行ってい ます。奉安の日を御縁日として毎年7月23日、24日の両日大法要を行っています。」(※6)

■安倍川流域の川除け地蔵尊(水神様)

焼津市小川の地蔵尊(平成28年10月22日撮影) こがわかいぞうじ だいちこうたい かすみてい

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図-6 安倍川水系の川除け(小川)地蔵・水神様の分布図

(※4) 【出典】 (※1) 国税庁ホームページより(法人番号公表リスト) (※2) 白髭神社のケヤキ (※3) 出羽弘明『新羅の神々と古代日本』同成社,2004 (※4) 静岡市歴史民俗研究会 望月茂氏作図 (※5) 『静岡市神社名鑑』 1998 静岡県神社庁静岡支部設立50周年記念 (※6) 『安倍川とくらし』 1979 海野 実 (※7) 『安倍川流域の文化を探る』 平成14年1月 静岡市立大河内中学校 (※8) 日本地名語源辞典 1991 山下重吉 (※9) 『安八町 歴史と地名をたずねて』 1996 安八ニューリゾート検討委員会

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安倍川・曙橋の袂にある水神様(静岡市葵区牛妻) 水道町の川除地蔵堂と説明看板 福田ヶ谷の川除地蔵堂と説明看板(新) 羽鳥の川除地蔵(静岡市葵区羽鳥) 俵沢の水神様(静岡市葵区俵沢) 弥勒の水神社(静岡市葵区弥勒) 藁科川左岸1.8K 安倍川右岸22K たもと

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・大正3年8月29日、台風による連日の豪雨で増水した安 倍川は、朝から降り続いた雨は午後になって一層激しさを 増し、夜に入って暴風雨になりました。電灯は消え、街灯 は強風で飛び、闇の中で急を知らせる警鐘が乱打、深夜に 安西五丁目裏の堤防が決壊し、濁流はたちまち、安西・番 町・寺町・新通りを襲い、未曾有の大水害となりました。 死者行方不明者4名、負傷者78名、家屋全壊62戸、半壊 313戸、床上浸水6,556戸、床下浸水1,707戸。江戸時 代、安倍川には橋が架けられておらず、そのため秋葉山に 参詣する人にとっても、安倍川越えは難所の一つであり、 安西5丁目の川除延命地蔵は、江戸時代の中頃、秋葉神社 へ参詣する旅の途中で倒れたり、安倍川を渡る途中で流さ れて命を落とした人を弔うために祀られ、同時に、安倍川 の度重なる氾濫に苦しめられた地元の人々は、この地蔵に 川除け、水害除けの祈願を行ったと云われています。 安西5丁目 安西4丁目の濁流 この付近は濁流が最初に襲っただけに被害が 大きかった。濁流は滔々と流れ、人々は屋根に這い上がり助けを 求めた。 安西五丁目の川除け延命地蔵尊 100年以上続けられている地蔵尊祭典 (平成28年8月24日撮影) 安西新田、家屋流出の惨状 あんざい ばん 図-7 大正3年の浸水実績図 ちょう てらまち しんとおり

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【横山の川除け地蔵】

・ 大正3年の水害時、安倍川の激流は横山堤を切って 横山部落で浸水被害が発生。それ以降、部落の人たち は水害を防ぎ被害から部落を守るために「川除け地蔵 尊」を祀りました。横山の中央部、村へ入る道の側に 石の地蔵尊が村の歴史を物語っているように建てられ ています。毎年お盆、8月16日には、僧侶によって 「川のせがき」が行われています。 地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ姿が普通 で、現実界、冥界の境に立って冥土行きのものを救う 菩薩とされています。日本では、平安時代後期より盛 んとなり、中世以後、彌陀信仰、浄土信仰と結びつき、 民間の信仰として発展しています。(※7)

【福田ヶ谷・俵沢の川除け地蔵(水神様)】

昭和57年8月洪水 安倍川左岸12.0K付近 福田ヶ谷地先 平成3年9月洪水 安倍川左岸21.5K付近 俵沢地先 平成12年9月洪水(福田ヶ谷地先:左岸12.0k付近) 近年でも、昭和57年8月洪水、平成3年9月洪水で堤防 が欠ける被害が発生しましたが、懸命の水防活動により 堤防決壊を免がれています。こうした状況の中、大災害 まで至っていないのは、昔から各地区に祀られている川 除け地蔵尊が、土地の守護神として護ってくれているか らかも知れません。 福田ヶ谷の 川除け地蔵尊 俵沢の 水神様 21.5K 12.0K 21.0K しゃくじょう ほうじゅ ふくだがや たわらざわ 静岡市葵区横山 撮影:平成28年11月2日 めいかい めいど

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土砂災害防止

・ 岐阜県の地名である「ギ」はアイヌ語で枝をさし、「フ」は川の意 味です。堤防のない時代、土地の低い所を水が流れ、岐かれたり、付 いたりする、そんな枝川のような地形が岐付(※諸説有り)となった 由来と云われています。(※8) ・ 木曽三川(木曽・長良・揖斐川)が流れる濃尾平野は、土地が低い うえ、昔の河川は網目状に複雑に流れていたため、しばしば洪水被害 に遭いました。この地に伝わる古い伝えとして、“四刻八刻十二刻” という言葉がありますが、これは、雨が降り始めてから洪水になるま での時間を表し、揖斐川で四刻(8時間)、長良川で八刻(16時 間)、木曽川では十二刻(24時間)を要するという意味で、この時 間を洪水防御のための1つの目安としていました。 ・ 揖斐川沿川の大垣市は、美味しく綺麗な水が自然に地下から湧き出 し、水と共に発展してきた地域ですが、その一方で地形的特徴から、 「洪水常襲地帯」とも言われ、常に洪水に見舞われ、水に苦しめられ てきた地域でもあります。度々、洪水に襲われていた先祖の人々は、 今から400年前、洪水から人命と財産を守るため、周りの人々と共同 して、自分たちの家の周りに「輪中」と呼ばれる堤防を築きました。 大垣市の地名の由来は、洪水から家屋や集落を守るため、大きな垣 (堤)を築いたことから、「大垣」と名付けられたと云われています。

■木曽三川(揖斐川)の事例

図ー8 400年前の河川流路(江戸時代) 揖斐川 ②水神様 揖斐川左岸41.2Kp (安八町西結地先) ④水神様 揖斐川右岸38.2Kp (大垣市平町地先) ⑤堤防決壊碑 揖斐川右岸34.4Kp (大垣市今福町地先) ⑦堤防決壊碑 杭瀬川左岸6.4Kp (大垣市多芸島地先) 図ー9 大垣市付近の水神様の設置箇所 写真 大垣市万石(H3 河合孝氏撮影) ぎふ わ つ 安八 きそ ながら いびがわ のうびへいや しとき はっとき じゅうにとき わじゅう

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■長良川と揖斐川に挟まれた“安八町”の事例

・ 西美濃地方のうち、大垣市南部、安八郡、羽島市西部、海部郡北 部にかけて、猿田彦神を祭神とする白髭神社が多く、ことに安八町 は9社が祀らており、しかも、町内の中央部をほぼ縦断的に一筋の 道のように鎮座しています。 ・ 猿田彦命を祀る名神大社4社の由緒で共通するご神徳は、地まつ り(地鎮祭)・方災解除・土地家屋敷の守護に霊験が顕著だとされ ていることであり、今も建物の建設の際に行われる『地鎮祭』には 猿田彦命を祀っています。一方、安八町の白髭神社の多くは、ほぼ 1550年から1650年の100年間に集中して創建されています。 この点で思い当たることは、この頃、当町がたびたび大洪水に見舞 われていることです。すなわち、天正14年(1586)の木曽川大洪 水、また慶安3年(1650)の大洪水です。ことに慶安3年の時には、 大垣市内にも浸水し、4,500人以上の死者があったと言われています。 当町になぜ集中して白髭神社が多いのかという疑問に対する一つの 理由として、古くから水害の多発地帯である当町の災厄から人命や土 地や家屋・田畑を護ってくれる神として、猿田彦命を積極的に勧請し て祀ったものと思われます。(※9)また、町内を縦断的に鎮座してい る箇所は、古くは近くに網目状に流れていた河川が道路や集落付近に あったと思われます。 図-10 安八町の白髪神社分布図 白髭神社(岐阜県安八町大明神) 昭和51年9月12日洪水による浸水状況(安八水害) にしみの あんぱちぐん はしまし あまぐん

揖斐川

牧輪中

みょうじんたいしゃ じちんさい

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・ 白髭神社の3大地域のうち、今回、静岡県(安倍川流域)及び岐阜県(長良川・揖斐川流域)を取り上げ、 「水(川)の神」との関わりから、鎮座された時期や場所について整理してみたところ、近くに水田(稲作) や集落があり、河川に隣接した平野部や上流の鉄砲水や土砂崩れの危険性が多い場所、また、川除・水防、 河川舟運から見た海上安全など、少なからず関連性があることが分かりました。そして、こうした地域は、 現在でも、川沿いや堤防上とその周辺に、白髭神社や水神様などが多く祀られており、その地点の危険性など 古くから土地の守護神となってきたことも分かりました。 民俗学者柳田国男は、『柳田国男全集第8巻』の中の「白髭水」の中で、「白髭様といふ神は、東京でも 向島の堤の上に祭って居るやうに、主として水辺の神でありまして、近江の湖水の岸に於いては、七度まで 此海の田畑であった事を、記録したまふ神と古くから信じられました。 (中略) 大水の出はなに、白い毛を長く垂れた神様が、水の上を下って来られる姿を見たとか、又は山から岩を蹴 りながら、水路を開いて下れたとか謂って、以前は水のほとりに其祭をして居たらしいのであります。」と 述べられていることを重ね合わせますと、先人たちの必死の祈りが伝わってくるようであります。 最後になりますが、本レポートの執筆に当たって、ご助言をいただきました、静岡歴史民俗研究会の望月茂 先生をはじめ、2年間にわたる現地取材で、地域の方々には現地案内や昔からの伝承など、貴重なお話を聞か せていただきました。ご協力をいただきました皆様方に、本紙をもって感謝申し上げます。

■最後に・・・

東京都墨田区東向島に鎮座する白鬚神社は、今から千 年余の昔(天暦5年・西暦951年)、近江国志賀郡境打 颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御 分霊としてお祀りしたことが始まりです。 5月には御幣を神前に供えて祭典が行われた後、隅田 川川岸にて洪水・渇水が起こらないように祭典「ぼんで んまつり」が行われています。

【白鬚神社(東京都墨田区東向島)】

「ぼんでんまつり」(隅田川)

【白鬚神社(滋賀県高島市鵜川)】

琵琶湖大鳥居越しの日の出 (写真提供:高島白鬚神社) 全国にある白鬚神社の総本社。沖島を背景として 琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳 島」とも称されています。創建約2000年の歴史を 誇り、現在の社殿は豊臣秀吉の遺命によって、その 子秀頼が片桐且元を奉行として造営したものです。 毎年、9月5・6日の例大祭には、近郷の人はもと より京阪神をはじめ全国から参拝者が訪れます。 かたぎりかつもと やなぎたくにお ごへい

参照

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