唐津海軍炭坑の設定とその経営
自 次 1 はじめに 2 藩営炭坑の兵部省への移管 3 坑区と予備炭山 4 請負採掘制 5 明治14年の改革と石炭買上価格 補 論 上 荷 船 輸 送 6 改革後の経営 7 おわりに 1 .はじめに 幕末から明治前期にかけて,筑豊炭田の近代 化,即ち蒸気櫛箆,蒸気捧揚の導入と積出港ま での鉄道敷設を主とする機械化が進展するまで, 漕津炭田はわが国のお炭醸業において,坑区面 積,出炭高,炭坑数等あらゆる面で筑豊を凌駕 してトップの投置にあった。この時期の唐津炭 田については網谷三喜男教授のすぐれた分析が ある。隅谷教授は主として「梶山村庄屋記録j, 「鉱山志料調j,i
鉱山沿革調j, から詳細に生産構造を分析し,唐津炭田の主導 性と後退の原因を明らかにされた1)。明治前期 (1) 隅谷三喜男f日本石炭産業分析j (岩波書鹿,昭和 43年) 隅谷教授は炭田を次のように区分される。東松浦 郡,西松浦郡(現,佐賀県入北松浦郡(現,長崎県) を松浦炭田とし,そのうち東松浦郡のみを鹿津炭田 とする。この区分の規準は不明である。本稿では地東
上 ム ザ疋
四 日 出 旦 の向炭田の史的分析はこれによって尽きている ように思われるが,なお幾つかの間題が残され ている。その一つが海軍炭坑である。隅谷教授 は海軍炭坑について「幕末,維新期に優位を占 めた東松浦=唐津炭田がむしろ停滞的であるの は,この地方の炭田の大半が海軍予備炭田に編 入されたためといわねばならないj とし,吉原 政道の論を引き,i
唐津炭山区ニ於テハーニケ村 ヲ除クノ外尽ク海軍予備炭田ト定マリ居ノレガ為 メ……正則ノ関採方ヲナサ、ノレガ故所謂狸堀ト ブノレ堀方トナリ j坑業の停滞を招いたとされ る九しかしそれ以上論及されていない。 明治20年頃の海軍炭坑について,当時細川雄 二部は,同坑は唐津炭田中において,坑数,出 炭高とも約40%,九州、│においても官営三池炭鉱 を除けば,坑数で約10%,出炭高で7 %を占め, 大きな比重を有していると推測している。そし て唐津炭田を考察する場合,海軍炭坑を除外す ることは出来ないにもかかわらず,統計年鑑や 鉱山局調査にまったく関係しておらず,その実 さえ明らかになっていないと指摘する九 海輩炭鉱はいうまでもなく海軍省管轄下の官 質 学 上 の 区 分 に よ り , 東 松 浦 郡 , 小 域 郡 , 藤 津 郡 (現,佐賀県)を唐津炭田とし,西松浦郡,北松鴻 郡は佐世保炭田とする。但し,西松浦郡は行政史の 観点、から便宜的に唐津炭田に含めることがある。 (2 ) 隅谷前掲書 142頁。 (3 ) 細川雄二郎「九州鉄道ノ石炭ニ於ケル関係J
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日 本鉱業会誌i
第41号 明 治21年7月)。 -81-経 済 学 研 究 営鉱山である。官業が日本の近代北過程に果し た役割については,既に多くの秀れた業績があ る。しかし蔚津海軍炭坑については何ら究明さ れていない。本稿は向坑の実態、を主として海軍 省の史料によって窺おうとするものである。 なお,同坑について年表的に概観しておくと 次のようになる。 明治
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年(18
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) 1
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月5H
鹿児向藩より兵 部省に移管する。5
年(18
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月5D
兵部省廃省、により海 軍省会計局に属し,時津海軍出張所と称す08
年(18
7
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月1
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日 長崎湖東出張所iこ様 し,何年5月3口唐津石炭問所と改麻す。 14iド (18
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月13U
主船局に属す。1
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年(18
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) 3
月1
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口 1富津石炭!日所仮章程 を定め,1
6
年2凡打自主義粧を仮定す。1
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年(18
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月1
日 に践す。1
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年(18
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月2
9
什 艦政局に属す。 間年6
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3
日 唐津,石炭別所符制を定め,横 須賀鎮守時に属す。2
2
年(18
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月1
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口 第二局に属す。2
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3
年(18
9
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月2
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け 時 滞:(:::i1
実用所廃止1)。 2 .藩営炭坑の兵部省への移管 幕末庶津炭田においては,鹿児島藩を始めと して各藷が藩営炭坑を経常した日この事実関係 は米確定の点が多い。とりあえずf
相知町史j によってその概略を示すと次の通りである。 薩摩111 三井令輔が売Lll掛となったのが元治 元年八月五日であるから,恐らくその頃に開 始されたのであろう。!喪主t~ 滞からは藤間源助 (11) 海軍系統 4 民~'!i!1r
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沿革 ([i明治百年史叢書は44 巻 原 書 房 昭 和50年)および{海軍制度的,lfd巻 (!i:iU:.,ln巻 昭 和46'"ド)。 82 第 S9巻 第3・4サ を棟梁として推薦し,藤田平内,藤出令)誌の 世話で駿木町の舟木谷に開坑した。後には ~-ß; 佐伝次郎も加わっている。藤摩藩詰所には藩 土地之上次郎太・波江野休;右衛門を派遣して 管理に当らせた。棺失n
村内でiま平tLLl-.の桃の 内と, 111芋谷(棟梁有木浅六)の持j坑が慶応、 年間に開カ亙れている。長部出の鹿児岩も rr~ じ 頃かと忠、われる。(中略) 肥 後111 平山下武蔵谷 議摩111よりやや後れ て関坑しているが,慶応二年(一八六六)九 月十九日に掛庄屋倒崎九郎らが,地方役所へ 提出したf
奉伺口上党jの中に, f"御料平山下 村の内杷後様御仕組I
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につき…jと記してい るから,出坑が慶応二二年以前であることは総 かである。肥後議士横問卯内, 71<.1H援三郎, 角間沢二郎,戸上八郎らが出役し,棟梁は宗 国信左衛門(信平)であった。(中略) 筑後山 久留米山・有馬I11ともいう。慶応例 年一月十九H
有路蒋士野添大八が石炭方につ き,梶山庄屋に依頼に米ている。(中略)棟梁 は松村文平で,平山下村の口一サイに開坑し た。:
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炭は佐里の;岩小限;上場に運んで舟積み している。(中略) 佐賀御子山 (中略) も牟悶音s
(坊中) ;こ御子山があったことが分かる1)。 以 上 の ご と し1
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6
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予年代学ばから鹿児島藩を始 めとして各議は相次いで唐津炭田に炭坑を経営 した。この地域は元来持津藩領であったが,水 野忠、邦が文化1
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年(18
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)
浜松へ転封されると ともに上知されて幕領となった4
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ケ 村 の 部 で . その後文政2
年(
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1
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)
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ケ村,天保2
年(18
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1) には残り3
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ケ村が唐津藩部りとなった。即ち, 幕領であって唐津藩支配の,佐賀蒋館と接する ( 1 )相知町史~ t二巻 (11行手1142句:.)578~-5郎氏。唐津海軍炭坑の設定とその経営 褒1 元治元年薩摩藩購入軍藤高船 平 運 丸 蒸気 内主主 鉄 製 拐 蝶 丸 蒸気 外車 鉄 製 期 鳳 丸 蒸気 内車 鉄製 乾 行 丸 蒸気 木製 豊 瑞 丸 蒸気 鉄 製 注)
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鐘藩海軍史j中巻 785頁。 帯状の地域であった。 唐津藩の目まぐるしい領主交代と所鎮の変化 は器財政の困難を招いた。とりわけ水野氏の後 に入部した小笠原氏は,入部前から莫大な借財 があり,その後も財政難に苦しんだへそのため 向藩は種々の政策を行ったが,元治元年(1864) 8月 5日,三井令輔を石炭御子山掛兼売山掛に 任命して石炭による財政改善策を推進した。彼 は御手山開発とともに,イ也藩の資金により幕領 内の炭坑開発を行った九 各蕃が競って炭坑経営を行ったのは,窟津藩 を例外として,いうまでもなく蒸気船の燃料確 保のためであった。i
護摩藩が炭坑経営を開始し たのは元治元年(1864) と推測されているが, この年同藩は表1のごとく蒸気船を一挙に 5隻 購入し,幕府に次ぐ列藩中最多の蒸気船所有藩 ( 2 ) 近持清津藩の概略については『佐賀県史』中巻(昭 和43年)参賠。 (3 ) 植村平八部『幕末に於ける庸沖藩の研究j(畠山書 忠 昭 和8年)91頁。唐津藩の売山掛は,唐津藩支 配の幕領の炭坑を各藩に売ったのであって,自蕃の 炭坑を売ったのではない。網谷前掲書(32,33貰) には誤解がある。唐津藩の御子山経営については, 長野選「農津藩の石炭御手山経営に関する若干の考 察J
(W佐賀大学経済論集j19議1号 1986年), i唐 津藷御子石炭山の分析 梶山村押JlI御手石炭山につ いて…J(
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エネルギ一史研究j15号 1991年)参照。 (り これより先,薩摩藩は薩英戦争により蒸気商船3 隻を失い,安行丸 l隻を所有するだけとなってい た。n
薩藩海軍史J
中巻 f明治百年史叢書j 785頁。) 尚,元治元年紫本藩も万里丸(蒸気内車, 600噸) を,久留米藩も雄飛丸(蒸気内車, 250轍)を仏英か らそれぞれ購入している(勝海舟『海軍援史j,W明 治百年史叢書j 449, 451頁)。 83 750噸 146噸カ274噸 慶応2年売却 461噸 慶応、4年自焚 164噸 大砲6門 となった九この蒸気船の石炭使用量は一昼夜 につき,乾行丸25,000斤,胡蝶丸5,000斤,平運 丸40,000斤,豊瑞丸35,000斤,期鳳丸3,000斤, 安行丸25,000斤でヘ当時の蒸気船がおおよそ 帆前7分,蒸気 3分で平常連行を杭前に依存し ていたとはいえ,かなりの石炭を必要としたの である。同藩は慶応元年(1865)にも開問丸外 3隻,さらに向3年には春日丸を購入し,軍備 の補強と輸送力の増強に努めた九しかし財政 窮追から売却したり,自焚したりで,明治元年 調査の際の所有船舶は,軍艦乾行丸,春日丸, 運送蒸気船平運丸,豊瑞丸,三邦丸,運送帆前 船立田丸の 6隻であった7)。 明治 2年(1869)五稜郭が開城し,榎本武揚 等が降服すると, j護摩藩主島津忠義は6月 5日 に新政府に対し,I
当藩従来所持之軍艦春日丸, 乾行丸護て奉献仕候J
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と軍艦献納を申出た。こ の願は「海軍御規則取調中に付,追て何分之御 沙汰可有之{[笑と保留されたが, 9月海軍操練 所が東京築地に設置されると,これが始めて許 可されることになった。そして兵部省と民部省 の間で種々折衝の後,翌3年「其藩軍艦之内, 日艦之義は乗組員共,乾行艦之義は艦之巴, ( 5)r
羅藩海軍史j中巻 842, 843頁。 ( 6)r
海軍歴史j448頁。但し,この中には他藩からの 委托購入船桜島丸のごときも含んでいる。 ( 7) W薩藩海軍史j下巻 206頁。 (8 ) 同上 996頁。 (9 ) 同上 997頁。経 済 学 研 究 第 59巻 第 3・4号 表2 明治 4年 (1871) 当時海軍所属船舶 艦 名 鑑 種 船 形 排 水 量 竣工年(製造所) 備 考 観 光 丸 軍 艦 蒸気外車 略頭 1850年(麓) 1868年幕府上納, 1876年除籍 富 士 山 艦 同 間 同 1000 1864 (米) 向上, 1889年除籍 摂 津 艦 同 同 一 920 (米) 1868年外国人より購入, 1886年除籍 東(甲鉄)艦 同 同 一 1358 1864 ({ム) 1869年米間より購入, 1888年除籍 千代田型艦 同 同 138 1866(石川島) 1869年函館役にて収容, 1888年除籍 春 日 艦 間 向 一 1269 1863 (英) 1870年薩摩藩献納, 1894年験籍 龍 穣 艦 同 間 2530 1869 (英) 1870年熊本藩献納, 1893年齢籍 第一丁卯艦 伺 同 螺 旋 125 1867 (英) 1870年山口藩献納, 1875年破壊 第二了郭艦 同 再 開 125 1867 (英〉 再上, 1875年沈没 司 進 艦 同 同 一 1468 1869 (欝) 1870年佐賀藩献納, 1892年除籍 乾 行 雄 同 同 一 522 1859 (英) 1870年薩磨蕃献納, 1881年除籍 震 揚 艦 同 同 一 245 1870 (英) 1871年山口藩献納, 1876年沈没 孟 春 艦 同 伺 内 車 357 1867 (英) 1871年佐賀藩献納, 1887年除籍 鳳 期 艦 i司 同 一 316 1868 (英〉 1871年山口藩献納, 1899年黙籍 筑 波 艦 同 同 一 1978 1851(英領) 1871年英人より購入, 1905年除籍 立 象 丸 運送船 1868年収容, 1876年除籍 飛 隼 丸 同 蒸 気 一 200 向上, 1871年除籍 飛 龍 丸 同 同 1700石 1864 (米) 同上,河上 快 嵐 丸 同 帆 前 一 ( 米 ) 収容年不明, 1881年除籍 大 阪 丸 開 蒸 気 一 440 1866 (英) 1869年英人より購入, 1875年沈没 行 速 丸 同 1860 (清) 1870年間藩献綿, 1871年総籍 肇 敏 艦 練習艦 帆 前 885 一 ( 英 ) 1871年英人より購入, 1886年除籍 東 京 丸 運 送 船 1400 1854 (米) 向上, 1872年沈没 注)広瀬彦太編『近世帝国海軍史要j (丸善,昭和13年),勝海舟『海軍歴史j1船 譜
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羅藩海軍史j下, より作成。 献納被f
印付たのであった。この時,熊本,山 口,佐賀各藩からも相次いで献納され,明治4 (1871)新政府の海軍所属の船舶は表 2のご とく,軍艦15隻,練習艦1隻,運送船7隻,う ち石炭使用の蒸気船17隻にのぼっている。 兵部省はこれら蒸気船の:燃料確保のため,唐 津藩や佐賀藩に石炭積廻方を要請した。しかし これに対し,例えば唐津藩はこの石炭「代金ヲ 以,御軍費上納ニ充候様仕度jIl)しと,軍費上納 (10) 同上 1009真。乾行艦は明治3年 6月13日,春日 鑑は11月258に献納を完了したという{向上, 1012 頁, 1024貰。) (11) 1膚津藩ヨリ海軍費上納代トシテ石炭献納ノ伺」 (1明治三三年公文類纂j第十二)。尚, 1公文類纂jは 防簡研究所図書館所蔵である。 に立替えようとしたりJ
風帆船御買上御貸渡被 下置候ハ、大切ニ運用仕,定価ニテ相納可申奉 存候jl2)と運送船を要求したりした。このためで あろう。兵部省は4年2月,権大録井後清之, 加瀬田新左衛門の2人を唐津に出張せしめ,お 炭の直接買付けと調査に当らせている。 其藩管轄之石炭御用ニ付,逐々御買上可相成 候,就テハ右総テ為取調,左之面々出張候条, 於其藩モ掛リノ者差出シ,諸事無差支様可取 計綬,此旨相違候也 兵 部 権 大 録 井 後 清 之 加瀬田新左衛門 (12) 1石炭御買上ノ件云々唐津藩出願J
(1明治四年公 文類纂j第三十五)。 -84-麿津海軍炭坑の設定とその経営 兵部省 唐津藩13) 井後および加課長田両名はこの出張調査の結果, 次のごとく太政官宛に海軍炭坑の設置を葉請し た。これには日付はないが, 5月13日付で招書 を差出しているところから推測して,おそらく 5月中のものであろう。 石炭輪出之儀ハ海軍ニ於テ緊要之急務,航海 ニ於テ必用之良品片時モ関乏無之様致度,然 lレニ近来郷軍艦ノ¥勿論,運護蒸気ニ至ノレ迄, 其脊用之節ノ¥商佑之子ヲ経過致シ,焦眉之急 ニ嬬へ繰様ニテハ, '入費ノ¥申迄モ無締産,追々 御盛大之御時節,予備非常之蓄積も相成兼候 様成行,芳以全チ1'1之石炭質素試験候処,肥前 丹 、jヲ以最上品ニ省之,依テ今般車省官員向名 出張,夫々山域点検之上,百組別紙ニ相認候 分ハ,良田山樹ニ妨害無之,民其藩県ニテモ 未タ開発モ無之,主テ経使ニ有之{展開,当省 管轄被{印付,御用炭塘開発候様仕度,就テハ 各藩県ね御布令差支無之様御遼シ有之度,此 段別紙相添申出仕Vト也14) 井後,加瀬田両名が兵部省管轄御用炭i賓とすべ き地域とした別紙を整理すると表3の通りであ る1九これによると,兵部省が海軍炭坑として鴎 込もうとした地域は,肥前松浦郡内の当時未開 発のすべて〈現症の佐賀県東松浦郡,西松諸君
s
, 長崎県北松浦郡)にわたる広大な地域であった。 とりわけその主践は平戸藷管下の松浦郡(現在, 長崎県北松浦郡),却ち佐世保炭田に霞かれてい た。しかしこの持太政官は「鉱山之犠ノ¥於工部 (13) i石炭翻翼よノ件唐津謙へ達J
(i明治四年公文類 纂J
第三十蕊)。 (14) iH巴前国炭蟻開発ノ件弁官へ上申J
(向上)。 (15) 同じ明治4年5丹,兵部省は弁官宛に北海道岩内 炭坑についても f石炭堀出候方,当省へ管轄被仰付 度,急御決議被下様様j願出ている(向上)。 (16) 注14引用史料鮎紙。 省規則取調中に付,難被及御汰沙候事jl6)と工部 省が民坑条規(後の日本坑法)編成中である1九 ことを理由としてこれを許可しなかった。 兵部省は, 4年(1871) 2月には唐津藩から 200万斤, 7月には厳原藩から 500万斤の石炭を 購入したが,前掲史料のごとく藩や商人の予を 媒介せずに石炭を安定的に確保するため直轄炭 坑の獲得を念願した。そのため,太政官の不許 可に対し,未開発地域の広範な盟込みという方 針を変更し,既開発炭坑の限定的獲得にのりだ した。鹿児島藩御手山の取得要請がそれである。 去月廿七日前之御掛合脊之候平戸,岩津碍県 下石炭山之義,郎平戸県管下大瀬山弁唐津照 ーテ鹿児島県手出等御省御受是迄ノ ニテ堀方被成度趣致本知候,先ツ当分之処是 迄之遇ニテ御省於テ堀方不苦候,尤追テ当省 規則相立候際ニヨさリ候ハ¥尚可及御掛合候, リ至急之趣ニ付,此段及御答{設也 辛未八月十九日 工部省 兵部省締中18) これによると, 7月27日付で兵部省は強く鹿克 島藩子山の取得を要請し,工部省は4年 (1871) 8丹19日暫定的に許可を与え,ここに海軍炭坑 が設定創置されたのである。この時工部省から 「平戸県管下主山名有之候得共,鹿児島県子山 山名御申越有之度候j と場所の特定を求 められた兵部省は,表4のごとく返答した。日 本坑法蔀で鉱区概念はなく,山名観念も未成熟 であり,炭坑の特定が困難であったことが看取 できる。 85ー (17) 明治3年間10丹20日に工部省が館置され,鉱山の ことを統轄することとなり,民坑条理編成事業が開 始された(石村静助f鉱業権の研究j頚草書房 1960 年, 47頁, 72頁)。 (18)i唐搾王子四石炭山引諜ノ件工部省筈J
(1明治四年公 文類纂j二十八)。経 済 学 研 究 第 59巻 第 3・4号 表3 兵部省管轄要望石炭山 藩 践 郡 国I村 ,子ょ今一 欝 所 厳 原 器 松 浦 郡 了 切 村 字タピノキセ 1ケ所 正J_L玉J 屋 キす 字西峠山入口・野口浦・ククリ岩 3ケ所 正J_L三i 屋 村 字木場より権現社前)11~畑迄 円 浪 瀬 村 宇田原下 円 上 手 山 村 字夫容谷 lケ所 上 平 山 村 字不動坂より庄屋役所田原下辺迄 円 下 平 山 村 字五了坂より庄屋役所田原ド辺迄 円 唐 津 藩 松 浦 郡 押 )11 村 字黒牟田・竹之谷・加茂之谷 3ケ所 坪ιム 山 村 字岸山坊中・牟間部坊中・佐農村迄 一 円 長 崎 県 松 浦 郡 よーす』 福 村 字歳之宮大明神・{表返免・ランギ・浦之田免・横 岩.1曹波栄字石之上 6ケ所 平 戸 藩 下 松 浦 郡 鍋 口 村 lケ所 鏑 口 村 字平越水・岩井崎・煩ケ下 3ケ所 浅 自 村 字比平山・大山 2ケ所 土 展 キす 一 円 調 )11 ネす 字リウガンジ坂より松山田村迄 円 て JCと、 佐 干す 字柏之木・庄野・白浜大谷 3ケ所 iI 迎 村 字獅子町上下山谷 lケ所 大 野 村 一 円 前 加 瀬 村 円 深 江 村 下 円 深 紅 村 下 字取内山 1ケ所 τ JQ士ρr 方 村 字真竹谷 lケ所 大 瀬 ネす 一 円 τE士1r 之 浦 円 1 1長 津 浦 字飯盛議下 円 本 目 子市 浦 山口掛リ門前村 一 円 浜 之 竹 村 円 キ 自 子申 浦 山口掛リ字日之大谷 一 円 日 サム 村 円 福 井 村 円 折 尾 瀬 村 字西之岳マジメ谷 円 佐 賀 藷 杵 嶋 郡 字多久関谷 一 円 小 城 藩 松 浦 郡 字山代郷西分東分迄 円 注)i肥前関石炭山取調書
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(i明治四年公文類纂j第三十五)より。郡名,村名は原文のママ。 表4 最初の海軍炭坑山名(明治 4年 8月22日) 県 郡 村 出 名 藤 原 県 上 松 浦 郡 本 山 村 船木谷ヨ1)蜂之須迄 小屋之谷ヨリ上戸獄裏表 西締山ヨリ山芋谷迄 正J_L三jF 屋 村 七曲リ道下ヨリ惣ナギ笹之谷迄 獅子駒岩ヨリ小屋之谷迄 大手口城之道ヨリ宇津棒木迄 浪 謀長 本す 答ケ御堂一円立花迄 上 平 山 村 熊本県手山之外村山之分一円 平 戸 県 下 松 浦 郡 大 瀬 トf右一円 詮 1)i明治四年公文類纂j二十八より。 注2)県名は原文のママ。厳原果分は[凡而鹿克島県手出j。 -86-麿津海軍炭坑の設定とその経営 表4が当初の海軍炭坑である。鹿児島藩子山 はすべて兵部省管轄下に入ったと思われるの で1ヘ問藩の炭坑の全体をも示している。大瀬村 は鹿児s島藩子山ではなかったが,同藩が採掘を 計画し,種々調査していた地域であった20)。 3 .坑区と予備炭山 鹿児島藩手山を中心として創設された兵部省 産轄炭坑を管理するため,明治4年 (1871) 10 月5自に農津海軍出張所が設置される。 部省が路止され,陸箪省および海軍省が置かれ ると,同出張所は潟軍省会計局の管轄となり, さらに 8年(1875) 3月長崎出張所の下に移さ れ,蔚津石炭用所と改称されたことは先述の通 りである。しかしこの間のみならず,この後も
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年まで「該用所ノ義,是迄章程様ノモノ一切 無之,従前一時何済ノモノ将慣例等ニ拠リ処分 致シ来リ候Jllといわれるごとしすべて“慣例" によって経営された。しかしかかる経営は,炭 坑開発の進展と明治6年(1873) の日本坑法の 制定によって種々の問題を生じた。このため, 窟津石炭用所は8年8月218,長崎出張所宛に 次の4点について指令を仰いでいる。 第壱条 一,当所石炭山之義ノ¥鹿児島藩ヨリ献山ノ後 借区ノ券モ無之,又別段政府ヨリ海軍官用坑 トシテ御渡棺成候公書モ無之,尤明治六年第 (19) この持までに議本藩手山も鹿克島藩が叡得して いる。この譲渡は「一昨未六月肥後表御改革之趣ニ 而 … … 鹿 児 島 藩 御 方 江 御 引 譲 相 成J
(1横山一件書 官j中{炭鉱手続御届J)とあり,明治4年6月であ った。尚, i横山一件書留j は佐賀県立図書館所蔵 佐賀県明治行政資料の中の史料である。 (20)i大瀬山興廃処分ノ義ニ付主申J
(i明治十三年公文 類纂J
前編十四)。 ( 1 ) 前掲『海軍制度沿革c!384頁。 87 -二百五拾九号ノ坑法(注,自本坑法)ハ人民 ヨリ通洞開坑試堀借区等願出許可ヲ得ル者手 瀬市日ニシテ,官坑ノ法関東ニ掲載無之,立 当所ニハ午歳長崎県庶務局ヨリ鹿児島譲へ差 出候別紙写ノ通券状有之候ノミニテ,官坑確 証無之懸念ノ弼ニ様条,猶官用地ニモ地券有 之1r美如ク,政府ヨリノ免許券御渡相成候様致 度候事 第二条 一,甲地ハ官用ノ官坑タリ,乙地ノ¥人民許可 済ノ私坑タリ,甲地ヨリ堀炭乙地ニ歪リ,乙 地ヨリ甲地ニ堀到ラノ¥,公私ノ分界不棺立, 炭坑ノミ異ナリト雄モ,坑炭荷物ニ侠半ノ¥, 其時々鉱山寮ノ測量ヲ可得義ニ候哉,現今右 之憂患有之1r笑条,何分ノ御指令相成度1r美事 第三条 一,長崎県庶務局ヨリ鹿児島藩ω
之免状ハ坑 数ヲ以免許有之,現今ノ処右坑数ハ或ハ廃シ, 或ハ栄へ,且官用ノ境界中へ新開ノ坑モ有之, 右官用地ニ属スル笛処,開坑廃坑通洞等一切 当所限リ関届候i[)可然哉,御指令相成度候事 第四条 一,本坑ヨリ塘出シ満島(注,松浦Jfl
河口〉 迄運炭ノ間ハ下詩人ノ全権ニ付シ候ト雄モ, 猶官炭ト号シ可然哉,或ハ私炭ト号シ可然哉, 官炭ニ11芙得ハ悪炭粉炭ト難モ官有ニ帰シ,下 請人之権利ニ不可付,又ハ其途上其炭ヲ被盗 取売払候半ハ官物ヲ盗取ニ揮シ保哉,或ハ私 物ヲ盗取ニ帰候哉,是ヲ私物ト号セパ下請人 ヨリ税ヲヱ部省ニ可払ノ理アリ,若シ宮炭ト 為セハ何ソ被盗取等ノ変アレハ不覚被盗ノ律 ヲ蒙リ候者可出理ニ候哉,明亮ニ御指示相成 度設事1
s.,何方迄ニε
官炭ト視f
故シ候節ハ,於満島買 炭ノ名称相廃シ,良炭ニ限リ堀賛運賃トシテ経 撰 学 研 究 壱万斤代価拾七円五拾銭相渡候事ニ不致候:;n ハ相成問敷ト存候事2) 参考のため長文を引用したが, 1は海軍炭坑の 法的根拠を明確にすること, 2は官坑と私坑の 坑区が不分明であること, 3は官用地内の炭坑 の管轄権が不分明で、あることを以て,指令を上 したのであった。ただし第 4条についてはこ こでは措く。 この上講を受けて,長崎海輩出張所の秘書官 小森沢長政は次の副書を付して,直ちに同月中 に本省宛に上申した。この副書は,彼の実地検 査に基づくものといい,一謄異体的に当時の海 軍炭坑の状況を示している。 (前略)炭山ノ経界ハ高嶺糊谷ニ海軍用炭之 掲示杭有之候得共,山藁谷中ノ機内ハ間ヨリ 経界標柱モ無之故,響ハー山之中央ヲ半断シ, 山腹上ヲ以市官坑トシ,山腹下ヲ以テ私坑ト 、桃ノ尾ニ 然ノレニ私坑ヨリ斜上堀炭ノ官坑 /実蹟アリ' ニ堀及セシモ難測,直立行ノ坑内ハ検問モ行 届侯得共,儒旬行ノ坑内ハー々検閲モ難整3) (後略) と,現地では官坑の標識は簡単な掲示杭が打た れているだけで,坑区が不明確であることを訴 えた。勿論海東炭坑の範囲を示す絵図簡はあっ たが,それは
f
白線内ノ¥当時海軍ノ管轄ト申市 己ニテ……綿密ノ場所ニ主リ候市ハ白線ヲ鑑ト 致ス訳ニモ難相成!jむ就市ハ反別畝数ハ素ヨリ 不桔分jりという状況であった。また官坑の法的 根拠については 長崎県庶務毘ヨリ鹿児島藩へ坑数ノ免状有之 ノミ……坑法郷発行ノ後,某山ノ炭,某問ノ 炭ハ宮炭トシテ御渡相成候公券モ無之,官山 ( 2) ,唐津表石炭坑櫛処分ノ儀ニ付上申j添付書 (,明治十二年公文類纂J
後編廿ー)。 (3 )同と。 (4) ,膚津石炭山海軍所轄ニ相成度儀ニ付伺J(向上)。 第 59巻 第 3・4号 之名称ハ何ニ由テ起ル汝濫暢不可弁候5) と唐津石炭用所の指摘を補強した。坑数の免状 とは,I
鹿児島県ヨリ献山ノ際,長崎県ヨリ坑口 三十七ケ所ノ免許鑑札九枚相添引渡相成jめっ たものである。 小森沢中秘史はかかる状況を打開するためこ の説書中で次のごとく,海軍炭坑坑区の拡大と 未着手地域を予備炭山とするように上申したむ 肥蔀国松浦郡岩屋村,平山村,本山村,浪瀬 村田ケ村之内,人家田知及現今人民試堀器g
官許ノ場所ヲ除ク之外一切海軍用炭山トシテ 御渡栢成候様御上議相成候ハ、如何様哉,而 シテ現今宮私共着手セザル所ノ¥尽ク予備炭山 トシテ,於官着手之処ヲ以常備炭山トス7) 松浦郡4ケ村について,既許可坑区を除きすべ て海軍炭坑とし,官の既着手地域を常備炭山, 未着手地域を予備炭山とする構想、は小森沢によ って,この時始めて提起されたものである。先 行論考は海軍炭坑(常備炭山)と予備炭山を混 同しているが,この点、は峻別されなければなら ない8)。
この坑区拡大と予備炭山設置の要求は,明治 8年6月の小森沢中秘史の建議を最初として, 次のごとく唐津石炭用所から長崎出張所へ,長 崎出張所から本省宛に繰返し執劫に行われた。 88 -明治9
年1
2
月初日 主船局長石]11利行,会計 局長有馬純行より海軍大輔Jfl
村純義宛9) 同9
年1
2
月278
唐津石炭用所十四等出仕鈴 ( 5) 注(2 )に同じ。 ( 6 ) 詮(4)Vこ同じ。これにより,兵部省が引継いだ援 坑は,下請人9名と炭坑37坑であったことがわか る。 (7) 注(2 )に同じ。 ( 8 ) 唐津石炭山(海軍炭坑=常構炭山)と予備炭山の 混同はf東松浦郡史.! (久敬社,大正14年)を始めと して,戦後の町村史誌におよび,また隅谷三喜男『日 本石炭産業分析jや岩崎宏之「明治初年における肥 前唐津石炭業と三井J
(r三井文庫論叢jlOO号 1978 年)等も同様に混同している。唐津海軍炭坑の設定とその経営 木十郎,十二等出仕三宅当男より長崎潟軍 出張所少佐池田貞賢宛1九 向
1
0
年1
月1
0
日 池田より海軍大輔JlI
村純義宛11) 同1
0
年2
月9
日 唐津石炭用所十等属鈴木十 郎,八等!高三宅当男より向上池田貞資宛I九 同2
月1
2
日 池田より河川村純義代理少将 中牟田倉之助宛1九 この要請が一麗苛烈になったのは,高南戦争 が峠を越した明治1
0
年後半である。そして当初 は松浦郡岩屋村,平山村,本山村,波瀬村4ケ 村(平山村を上下 2村とすると 5ケ村)が対象 であったが,1
0
年(
1
8
7
7
)
11月には喜多村儀嗣 中主計の実地調査によって松浦郡岸山村および 杵島郡大崎村が加えられ 7ケ村となり1九 日 年 (18
7
8
)
2
月にはf
岸山村隣村佐里,久保ノ雨 村ハ兼テ唐津用所ヨリ出張致シ居リ候石炭出シ 場高取村ニモ近接シ,殊ニ良炭含有之地所ニ 付J
I
ヘ佐里村,久保村合計9ケ村に拡大され た。さらに1
2
年(18
7
9
) 3
丹2
2
日には「栢知村 エ含有之炭版ハ良炭市己ナラス,此節被棺定候 各予備炭山咽喉ノ地ニシテ槻ク可カラサノレノ 所J16)という理由で相知村が加えられ,合計1
0
ケ 村となった。 しかし当初海軍上層部は現地からの予備炭山 創設要求に対し,慎重な態度をとり続けた。そ の理由の一端は中牟田少将の長崎池田大佐宛の (9)¥窟津表石炭坑御処分ノ儀ニ付上申J
(¥明治十二年 公文類纂j後編廿ー)。 (10) (11) ¥唐津五炭山海軍所轄ニ相成度儀ニ付伺J
(同 上九 (12) (13) ¥長崎県下松浦郡上平山村之内出炭見込之場 所御取入相成農{義ニ付申出J
(向上)。 (14)¥唐津石炭山ノ件長崎出張所申出(¥明治十一年公 文類纂j前編二十八J)。 (15) 明治11年2月27日,海軍大輔Jll村純義宛長崎海軍 出張所池田貞竪「元一套第五号J
(向上)。尚これは 3月4日に許可された。 (16) ¥東松浦郡棺知村石農山御取入ニ付地方庁エ御照 会案相J(¥明治十二年公文類纂j後編廿ー)。 達などに窺うことができる。 (前略)今般岩農村,平山村上下,本山村, 浪瀬村〆五ケ村ノ石炭当省所轄致度ニ付,長 崎県庁り差支有無間合セ,大急可申越候,尤 現今官許有リ,人民着手ノ分ハ一切相除候見 込ニ有之候条,此旨相心得……逐~五ケ村壱 持ニ県庁り協議難整義モ万一有之11芙ノ¥、,上 下 平 山 二 ケ 村 丈 大 急 棺 整 候 様 談 判 可 有 之 ••• .17) 鉱業行政は明治2
3
年(
1
8
9
0
)
の日本坑法の一部 改正まで,工部省の下で誼接的には地方庁(府 県)が担当していた18)。長崎県は地元の要求を反 映し,地表権利者と地元坑業者のために海軍省 の密込みに抵読したl九海軍省や政府としても, 各地で士族皮蓄しが続出する騒然たる状況の下で は,地光の意向を強力に抑込む力はなかったで あろう。成立したばかりの政府の基盤は脆弱で, 地方を完全に包摂してはいなかったのである。 かくして海軍省が現地の岩津石炭用所および 長崎海軍出張所の執搬な要請を容れて,松諾郡 岩屋村外8ケ村と杵島郡大崎村,合計1
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ケ村を 海軍予備炭山に指定して坑区の拡張を行ったの は,最初の建議より 4年後の明治1
2
年(
1
8
7
9
)
7月であった。工部省より次のごとき仮坑区券 が付与され,これが海軍丙76号として下達され たのは 7月2
3
日であった2九 イ反坑区券 借第千三百三十二号 (17) ¥往出第千四十壱号J
(向上) (18) 福岡鉱山監督局編『鉱政五十年j(昭和18年) 5 頁。この時期筑豊では,福岡県の炭鉱行政が中央の それをリードしていたことは,東定「明治初期,福 岡県の鉱業行政J
(
r
経済学研究j53巻4・5合併号)参 日召。 (19) 例えばその一端は「海軍省石炭予備山ニ係Jレ坑業 人処分振条目J
<¥明治十二年公文類纂j後編廿ー) 等に窺える。尚詳細は今後の地元資料の調査によら なければならない。 (20)r
海軍制度沿革j 384頁。 -89-経 済 学 研 究 第 59巻 第 3・4号 衰5 海草予備炭山面積(明治12年) 郡 名 村 名 海軍予錆炭山 民営炭坑f昔区 Z仁』ヨ 計 東 松 浦 郡 岸 山 村 575,061 坪 675 94,375坪 669,436判z675 波 瀬 町 832,417 5 86,060 913,077 5 本 山 村 325,536 705 14,205 339,741 705 佐 里 村 1,699,809 5 51,800 1,751,609 5 平 山 下 村 341,241 125 32,300 373,541 125 平 山 上 村 1,319,745 97475 23,270 1,343,015 97475 久 保 村 160,642 225 11 ,850 172,492 225 岩 屋 村 352,692 75 14,800 367,492 75 杵 鵠 郡 大 崎 村 991,571 10,800 1,021,371 小 計 6,598,718 49975 334,060 6,932,778 49975 東 松 浦 郡 相 知 村 1,237,090 5 総 計 7,835,808 99 975 注1)1長崎県下把前関東松浦郡井杵嶋郡大崎村共九ケ村炭山坪数調
J
(1明治十二年公文類纂J
後編廿ー) より。 注 2)この時の海軍予備炭山は厳密には予定坪数だが,この通りに設定された。 注3)棺知村は「明治17年炭山及坑註坪数J
(
r
海軍省第十年報j)による。 海軍省 長崎県肥前回松浦郡岩屋村,平山上下両村, 浪瀬村,本山村,佐里村,岸山村,久保村 向杵島郡大崎村,同東松浦郡桔知村 前書村々ノ石炭山,従前人民へ試掘並借区開 坑等許可ノ箇所ヲ除クノ外,軍艦用予備炭ト 相定{民事 明治十二年七月十四日 工部卿井上馨代理 工 部 大 輔 山 尾 庸 三2ひ このように予備炭山の創設は現地の炭坑経営 上からの強い要請に基くものであって, 層部の方針ではなく,上層部はむしろ非常に慎 った。そして地元の反対のため予備炭山 内の既存の民営炭坑については,これを排除す ることは出来なかったのである。 この時予稿炭山として密込まれた坑区は表5 のごとく, 10ケ村7
8
3
万余坪に遼する。 10ケ村民 (21) 真木後魁 f海軍燃料沿革1
(昭和10年) 6頁。 営坑区の合計が3
3
万余坪であるから,その2
0
数 倍,明治1
1
年の唐津炭田(東松浦,西松浦,杵 島,小城郡)46ケ村の借区面積合計105万5000余 坪22)の7
.
5
能に達する坑区であった。また明治 21, 2年筑豊石炭鉱業発展の醐期をなした 5郡3
4
鉱区の選定鉱区が合計1500万坪であったから, 10ケ村に集約された海軍予備炭山は極めて穂密 な日大坑区であった。 唐津海軍炭坑および予備炭山は,その後13年(
1
8
8
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)
に北松浦郡大瀬村炭山を廃止開放した 外は2九
12年設定の表 6の鉱区は23年唐津百炭 用所の廃止まで変化はなかった。 90 -(22) 隅谷三喜男前掲書 142頁 表11-60 (23) 大瀬炭山は明治13年 3月 1日に長崎海軍出張所 より長崎県庁へ引渡され,県庁は27日付でこれを請 取 引 海 軍 卿 が11月16日にこの留を達した(1大瀬山 処分済Ji明治十三年公文類、纂j後編十二月号収入も っとも向山は明治8年10月の森尾主計少患の調査 により既に解放されることが決定し,そのまま手続 きが放置されていたものである (1大瀬炭山興廃処 分ノ義ニ付再申J
1明治十三年公文類纂j前編十四所 収入窟津海軍炭坑の設定とその経営 4 .語負採掘制 各蕃の藩営炭坑(手山)は派遣役人の監督の 下で,地元請負人によって採掘されたが,この 方法は兵部省さらには海軍省移管後もそのまま れた。しかし移管時については先述の坑 口37ケ所と免許畿札 9枚という史料があるのみ であるo この9人の下詩人と 37坑がすべて稼行 中であったか否かは不明である。海軍炭坑と 詰二人の全貌が窺えるのは明治 7年 (1874)が最 初である。表6によると,農津炭田の海軍炭坑 は本山村 3坑,平山村 4坑,岩屋村 4坑, 11坑で,下請人は鶴田保平,菅木浅六(以上,本山 村平民),山口恒ニ郎(常次郎),藤田礼蔵,池 田善七,藤田源造,藤田平内(以上,岩屋村同) の 7人であった。このうち少くとも鶴田保平他 4人は明治4年の移管当時からの下請人である。 この他に長崎県松浦郡大瀬村海軍炭坑で, 政吉(松浦郡徳須恵村平民),大田忠造(佐賀郡 八戸町平民),黒木甚助(麗児島県鹿児島郡上立 の3名が下請採炭を開始している
l
h
明治7
年の出炭高は1
ヶ月約1
8
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万斤(
1
0
8
0
噸)であった九移管当時の出炭高は「壱ヶ月八 拾万斤計ニ~,御用炭ニ主連モ行足リ不申,就 奇主……何レニテモ壱ケ所開坑御決定之上,至 急御沙汰相成候様奉瀬戸状況であったから倍 表S 明治7年の唐津海軍炭坑と下詩人 所 主 主 地 下 詩 人 坑 数 開 坑 年 月 松浦郡本山村字舟木谷 山 口 恒 二 郎 明治5年3月 但5年11月間坑6年11月廃坑あり。 本山村字舟木谷 鶴 田 安 平 明治5年10月 本山村字西峠 同 明治4年10月 平山村宇山芋谷 菅 木 浅 六 l 同 岩屋村字七曲 藤 田 礼 蔵 明治5年4月再開坑 岩原村字稲荷山 池 田 善 七 1 明治4年10月 平山村字桃ノ箆 藤 田 平 舟 3 明 治6年5丹 藤 田 源 造 藤 田 礼 蔵 岩屋村字ナカセ 藤 田 源 造 1 明治4年10月 波瀬村字苔見堂 藤 田 平 内 1 明治4年10月 注 ) 海 軍 省 騎 津 出 張 所 明 治7年6月 f石炭坑数取調J
(1醸山一件書留j佐賀県明治行政資料)より作成。 表7 明治11年鹿津海軍炭坑 下詩人 所 在 地 坑数 出炭高 藤 田 平 内 波瀬村字苔御堂 平山上村字桃之尾 3 山 口 常 次 郎 平L1J上村字桃之尾 2 4万斤 本山村字舟木谷 2 9万斤 菅 木 浅 六 平山上村宇山芋谷 5 本山村字蜂之須 ワ 油 田 善 七 岩雇村字エナギ l 7万5千斤 藤 田 金 造 平山上村字桃之尾 4 20万4千斤 合 計 20 81万9千斤 住)1坑内記J
(1明治十一年公文類纂j後編二十八)。 - 91 増している。これから推潤しでも,表 6の「関 jが明治4年1
0
月分,N
P
ち下請人鶴田安 平{也4人,本山村2坑,岩屋村2坑,波瀬村1坑, 5坑が移管当時の海軍炭坑であったろう。 ( 1 ) 井 手 政 吉 他2名 は 明 治7年6月 に 契 約 を 結 び 請 負を始めた (1大瀬村炭山!日下受人笹!l処分之儀窺J
, f明治十一年公文類纂J
前編二十八所収入 (2 ) 表18参J照。 (3) 肥 蔀 国 炭 坑 開 発 ノ 件 弁 宮 へ 上 申J
(1明治四年公文 類 纂j三十五)。経 清 学 研 究 しかし7年をピークに請負人も出炭高も減少 する。 11年 (1878) は表?の通りである。坑数 こそ20坑と 7年に比較して9坑増加しているが, 請負人は 5名,出炭高は約82万斤と 4年の移管 当時にたち帰り,当時海軍必要高120万斤に約38 万斤不足する状況に縮いっている
4
L
ところで講負人の決定方法,あるいは請負契 約の内容等については初期の状況は不明である。 維新期の混沌とした情勢の中では明確な規準は なかったかもしれない。大瀬炭坑の場合でも「最 初下受申付候原由及約定向等モ判然不致候J
め ということである。ただし,唐津海輩炭坑の当 初の請負人は,おそらく鹿児島藩のそれがその まま移行したのであろう。表6の菅木浅六,藤 田礼蔵,藤田平内は薩摩山の下請人であった しヘ移管の際,同藩の派遣役人池之上次郎太も 炭坑とともに海軍省石炭掛となっているからで ある7)。
明治1
2
年(1879) から1
3
年になると,請負関 係を明らかにする史料が残存する。それは予備 炭山の創設とそれに前後する「唐津潟軍用所石 炭取扱内規J
(12年5月)や「唐津石炭用所採炭 用地約書J
(同年11月)と関連して制度の整備が 図られたためのようである 「明治十四年公文類纂j に綴り込まれた史料 から,まず請負人決定経過を明らかにすると次 のようになる。 下請希望者は唐津海軍石炭用所宛に「炭坑下 ( 4) 1唐津石炭買上ノ件長崎出張所上申J
(1明治十一年 公文類纂j後嬬二十八)。尚,長崎県大瀬村の下請人 は井手政吉外2名 よ り 草 苅 政 太 郎 外2名に交代し ている(住1に同じ)。 (5 ) 注(1)に同じ。 ( 6 ) 前掲 f相知町史j 578頁。 (7) 明治4年9月17日付文書(
1
明治四年公文類纂J 十五)0r
相知町史j579頁。 ( 8 ) 前掲『海軍燃料沿革j6頁, w海軍省報告書j自明 治12年7月歪全13年6月 8貰。但し,これらの内 容は不明であり,今後の調査が必要である。 - 92 第 59巻 第 3・
4号 請稼方ニ付歎願J
を付し提出する。 この場合地元村の承諾が要求される場合があ る。 唐津瀧軍石炭用所は下請希望者に許可を与え るC
i
下稼申付J
)
とともに,採炭「条件J
を 提示する。 下請人は問所宛に受書と「条件j遵守の誓約 書を進達する。 下請人は同所宛に保証金(不動産抵当証書) を提出する。実地見認されれば差戻される。 唐津石炭用所は長崎出張所先に「新開坑之義 ニ付街i届j をする。 長崎出張所長は海軍郷宛に,間坑の場所,下 稼入姓名等を届出る。 以上の経過で下請人が決定されている。もちろ ん上記に明らかのように,決定は唐津石炭用所 で行われ,あとは届出だけである。 この持の採炭f
条件j は次の通りであった。 第壱条 一,予備炭採取ニ方リ,炭線ノ健康ヲ 或ハ地中含有ノ良炭悉皆堀取ラサル節ハ, 実地ニ於テ吟味ノ上,罪金徴収ノ義可申達 候条,其旨可心得11突事 第二条 一,官炭密売シタル証判然タルニ於テノ¥,其 業ヲ禁止シ,坑亙及ヒ其業ニ震スル諸具悉 皆取揚ク可シ 第三条 一,石炭運送車ハ海ノ焼印ヲ捺シ,小旗ヲ建 テ,検査場迄通行可致,因テ車数可揺出寵, シ私炭運送スル時ノ¥,車及積入ノ石炭ヲ 取上ケ当用所エ収入ス可シ 第四条 一,石炭運送ノ道及石炭置場ハ自費ヲ以営繕 スQJシ,旦納炭ニ付,石炭検査及ヒ麿津海軍炭坑の設定とその経営 表8-1 明治12,3年新許可の下詩人 内浦谷炭坑 (平山下村) 小城河内炭坑 (平山下村) 亀石谷炭坑 (佐里村) 許可年月日 明治12年11月24日 明治13年 3月18百 明治13年 4月 7日 坑冨面積 38,800坪余 67,200坪 余 65,500坪 余 下請人 窟 石 信 一 部 ( 平 山 下 村 ) 松 尾 辰 造 ( 平 山 下 村 ) JII 添 平 助 ( 佐 里 村 ) 岸 ) 11 善蔵(f司) 大 草 芳 吉 { 開 ) 井 上 浅 平 ( 同 ) 堤 又 作 ( 向 ) 井 上 忠 、 作 ( 開 ) 梶 山 幸 兵 衛 ( 同 ) 松 出 彦 兵 籍 ( 同 〉 居 石 善 四 郎 ( 向 ) 岸 川 笛 平 ( 河 ) 居 石 研 次 ( 間 ) 備 考 f土繰完了後6ケ丹間は 月30万斤納炭 月30万斤納炭 月平均40万斤納炭 注)
1
明治十四年公文類纂j前編十ーより作成。 袈8- 2 明治12, 3年新許可の下請人 椋木瀬 (本山村) (平山上村) (平山上村) 許可年丹日 明治12年 8月カ 明治12年 8月カ 明治12年 8月カ 坑宮部積 50,000W 下請人 池 上 次 郎 太 ( 岩 屋 村 ) 池 田 善 七 ( 岩 屋 村 ) 菅 木 浅 六 ( 本 山 村 ) 犠 考 9月より出炭15万斤, 10月より出炭15万斤, 3ヶ月日より 30万斤 3ヶ月日より 30万斤 (平山上村) (佐里村) 許可年月日 明治12年 7月カ 明治12年 6月カ 坑区面積 下請人 藤 田 平 内 ( 岩 屋 村 ) 鶴 田 保 平 ( 本 山 村 ) 備 考 10月より出炭15万斤, 10月より出炭15万斤, 3ヶ月自より 30万斤 3ヶ月目より 30万斤 注)1御所轄炭山開坑ニ付仕繰金御下渡ノ儀歎願書J
(1明治十二年公文類纂j後編十二)より作成 と示談し,次の契約を結び,地主承諾を得て 取方ハ当用所成規之通取計ヒ申ス可シ 第五条 いる。 一,坑区境界ハ各拾間ヲ距離れ若シ採炭都 合ニ因リ其境ニ堀入ノレ節ノ¥可届出,1
主筆宣監 焼用ノ良炭月々 斤ツ、綿炭ス可シ 右五ケ条ノ余件ハ揮テ坑法ヲ以テ処分可致候 条,其旨相心得可申{民事9) この“条件"によって許可を受けた下請人と 炭坑は表8 1のとおりである。J
11添平助外3 は亀石谷炭坑の許可に先立ち,地元佐里村地 - 93-定約証 東松浦郡佐里村海軍御用所予備地六千五百坪 ( 9) 1予備炭山新開坑ノ場所及下稼人姓名等御窟J
(1明 治十四年公文類纂J前編十一)。この条件は唐津石炭 用所で決定施行されたもので,後に本省に於て「第 壱条罰金徴収ノ名義不穏,第二条諸具悉皆取揚云々 不穏,第三条石炭取上当用所ヱ校入云々不都合ナ リ,第四条官費消費方法云々不穏以下皆同シJ
(向 上)と指摘され,かなり大巾に訂正された。しかし 訂正は本省書類上にとどまり,現地では訂正前のま ま実行されたと思われる。経 済 学 研 究 余,字南ノ浦ヨリヱゴ数ケ所ノ地主中ト左ノ ヲ以定約致シ候事 ,溜築替場所ノ地主大草安右諾門外三拾八 名, Jl
I
添平助双方示談ヲ遂ケ,溜建築入費 ハ}II添平助ヨリ出金ノ事 一,水溜下ニナル田地ハ}l1添平助ヨリ買揚候 事 一,悪水揮リ並田畑山林ノ笛所,採炭ノカス 龍場相障候為メ,出炭壱万斤ニ付金八銭宛 地主エJ
11添平助ヨリ弁償差出候事 第四条 一,納屋建場所ハ其時々地主ニ相当ノ償金ヲ 以テ示談可致事 第五条 一,石炭下シ車道並土場ニ於テモ,民地ニ係 ル場所ノ¥相当ノ{賞金}l1添平助ヨリ弁金可致 候事 明治十三年四月一日 佐畏村坑業人JlI
添 平 助 地主惣代 山口 J人- 大草卯平治 ー人し 大草重兵衛 ーFし¥ 大籍 外三拾五名10) これはf
一村人民共エ示談方尽力可仕官御口達 ニ付キ,カノ及ブ丈ケ御為メ方心掛J
(傍点筆 者,以下回)けた結果であるとのことであり, 海軍炭坑においても関坑に際し地主承諾を得る べく行政指導が行われた証である11)。 (10) 同上。 (11) 日本坑法下では地主承諾が義務付けられていた - 94 第 59巻 第3・4号 に際しては表8備考欄にみるごとく定輩 出炭が要求された。他方そのために海軍省から 「仕繰金jが前貸された。大瀬炭山の場合,先 述のごとく明治7年下詩人井手政吉外2名が罷 免されるが,この原因は「毎々之降雨ニテ塘中 満水シ,湯水之出費不行届ヨリ,拝借或ノ¥現炭 拝借等度々中出,立上納金モ兎角不納,加之不 正之廉モ有之J
12)ことにあった。この時井手政吉 の前借金は7丹以降11丹巡の 5ケ丹間で合計 5233円27銭 9厘の多額に達している。 3人の下 請人は身元もなく,憶産もなかったため,海軍 省側は裁判も維持できず,明治11年ついに前貸 金を放棄せざるを得なかった1九 ま た 本 山 村 舟 木谷炭坑の下請入山口常次郎は7年(1874) 7 月に2576円61銭の貸付を受け, 1万斤につき 16 円の出炭契約を結んだ。即ち当時17円50銭が買 上錨格であったから(請負制の下での質上値格 については次項で考察する) 1万斤につき 1円 50銭宛返済する契約であったが,およそ 5年後 の12年 (1879) 2月に歪つでも 364円22銭 5震が 返済されただけで, 2212円38銭5厚が未遂済と なっている14)。 海軍省はこのような採掘予定石炭を抵当とす る前貸金の田坂器難に遭遇し,明治12年以降土 地を担保とする方策に転換する口 12年の「御所 が,地主;議諾と村承諾は竣期されるべきである(東 定前掲論文)。ここで“一村人民"とあたかも村承諾 的表現があるが,佐里村戸長の奥書に「本書坑業人 及地主共遂協議候儀取札候処相違無御座J
とあり, 地主承諾の意と思われる。村承諾に基づく“村益" は海軍炭坑の場合, i朝廷御仕組山」のため支払われ なかったという記録がある(
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桔知町史j585頁)。 (12) 注(1)に同じ。 (13) この内訳は, 965円69銭8麗諸物品代拝借之分, 656丹87銭5盟石炭100万斤代拝借之分, 1210円70銭 6原石炭184万3130斤代拝借之分, 2250円出炭高に 不拘月450内宛上納分, 150円堀子貸付金であった (向上)。 (14)i本山村字船木谷炭坑処分之義ニ付上申J
(i明治十 二年公文類纂j後編廿ー)。窟津海軍炭坑の設定とその経営 表9 f士繰金前借歎願書内容 申請年月日 明治13年7月2日 明治13年4月 明治13年3月12日 許可年月日 明治13年9月15呂 同 左 明治13年5月19日 信用者 鶴 田 保 平 ( 本 山 村 ) JII 添 王 子 助 ( 佐 里 村 寄 留 ) 菅木浅六(本山村) 開坑場所 住 里 村 佐里村 平山下村 仕繰金見込 3,000円余 3,000円余 3,500円余 歎願前借金 700内 700円 700円 抵 当 本山村菅木間九郎所有田畑 佐里村堤又作田畑 本山村菅木浅六田畑 か 菅木平六 !I か 梶 山 幸 兵 衛 か 時価金701円57銭 万 松尾伝平 JJ 万 大草安右衛門田 万 鶴田平治 JJ 万 小 浜 常 五 郎 か か 鶴田芳作 JJ Jl 広 高 天 室 J) グ 古田清蔵 JJ Jl 宮崎定五郎 か 伊岐佐村高添繁太郎 万 万 梶 山 弥 平 次 万 本山村松尾定蔵所有国煩宅地 JJ 加唐浅吉田熔 万 菅木茂平 JJ 以上地価金698円32銭2麗 橋 村 渡 辺 禎 造 所 有 田 本山村吉田清蔵 万 以上地価金700門10銭9麗 注)
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御所轄炭山開坑ニ付仕繰金御下渡ノ{義ニ付歎願書J<
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明治十三年公文類纂J
前編八,後編七)より{乍 成。尚,池田善七(岩屋村)は平山上村の開坑仕繰金として700円余を借用許可されたが,その抵当は 慶長判金50枚(所有者不詳)であった。 轄炭山開坑ニ付,仕繰金御下渡之儀歎願書J
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勺こ よると,池上次郎太が3000円,池田善七,菅木 浅六,藤田平内, を願出,居宅, 4名が各700円の前借 土蔵等建物を担保とした。 返済方法は池上が2年間5自分部,f
也は1年半 8自分割であったむしかしこの歎巌に対し主船 局長と会計局長は[家屋器当之{義ノ¥火災之憂モ 有之,且金額ニ不当ナル低価格之家屋モ相見へ, 芳不都合ト存候条,地面其他確タル財産之抵当 無之候ハ、御許容不相成J
と拒絶している。そ して,翌日年に鶴田保平と川添平助は土地を担 保として各700円の前貸を受けた。表9はこの仕 繰金前{昔歎願書を整理したものである。この時, 蔀借金と等価の地借金の土地が抵当となってい (15)r
恵津提出下稼人共下渡金出願ノ件長崎出張所申 出J
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明治十二年公文類纂j後編十二)。 ること,土地が菅木浅六を除いてすべて他人名 義であることが注意をひく。鶴田は前年の前借 歎願書では居宅,釜屋を担保としているから, 自分名義の土地を所有していなかったのであろ う。幕末以来の地元下請人はこの時既に専業炭 坑経営者であった。 この頃各炭坑は表10にみるごとく,坑道総延 長の最長340間,最短12間,平均90簡であり,切 羽数も最多は注記した舟木谷の10,最少が 2と 幕末の唐津炭坑とほとんど変化はなしジヘ採掘 方法も旧来のままであった。しかし唐津石炭用 所は予備炭山の設置により,漸く炭坑の近代化 に取組む。石炭用所は12年(1879)予備炭山地 中炭脈試験用として始めて試錘器具 1組と試験 ポンプ2了を工部省所轄下の高島炭坑商局より (16) 隅谷前掲書 49, 50頁。 F h u経 済 学 研 究 第 59巻 第 3
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4号 表10 明治11年海軍炭坑と坑道,切羽 譜 負 人 所在地 坑口数 坑 道 切羽数 藤 田 平 内 波瀬村苔御堂 本通崎280間,片盤60問 8 上平山村桃之思 1 本通崎78間,片盤40間 4 同 村 同 l 本通崎40間,片盤30賠 2 同 村 間 1 本通崎20間,片盤30間 2 山 口 常 次 郎 平山上村桃之尾 1 本通より切羽迄訪問 3 同 やI 同 1 本通より入レ口迄崎40関 菅 木 浅 六 本山村山芋谷 2 通崎35間,ヲロシ 40間,通崎28間 同 村 同 2 通 崎15間,同17賠 問 村 間 1 片盤50間,卸35間 同 村 蜂 之 須 1 卸20関,片盤37関 同 村 同 1 通 崎45間,片盤60間 池 田 善 七 岩屋村ヱナギ 1 通先180間,部50関,片番50間 5 藤 田 金 造 平出村桃ノ尾 坑口本通り30間,調]20間 5 同 村 同 坑口本通り20間,片盤12閤 4 同 村 同 坑口本通り 8間,卸20関 6 毘 村 再 本通り12関 2 注1)i明治十一年公文類纂j後編二十八。 注2)明治11年7月海軍省石炭御用所宛報告,他に山口常次郎下受の本山村舟木各炭坑(坑口2,切羽数日) カまある。 表11 明治12年購入試錘器械,ポンプ 口r::t口 目 l吋2分角長10尺 捻形 大小ガス揚ポンプ サルカン付ボート 離号i揚カギ ケン先錐 十ノ字錐 Tノ字錐 錐棉ハサミカネ 捻廼シ 捻錐 錐 ソラ巻地金 鍛冶手間工 大工手間 材木 ぷE』1 計 総 言十 注1)i明治十二年公文類纂j後編十一。 注2) 10月 9日付で許可された。 30本 1200斤 1組 2丁 2本 20斤 2ツ 5斤 5本 18斤 2本 12斤半 2本 12斤半 7斤半 2 T 5斤 5斤 50斤 70斤 - 96-価 格 工事費144~
54戸
60. 9. 60 10. 20 54. 15. 7. 20 9. 60 3. 36 2. 40 248. 40 120. 96 369円36銭震津海軍炭坑の設定とその経営 購入した。内訳は表11の通りである。 これによ って始めて予備炭田内の全般的炭層調査が行わ れたようである。 当時既に下請人の
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人である池之上次郎太は, 松浦郡岸山村の永見伝三経営の炭坑において蒸 気捲揚を使用している17)。何人はまた岩屋村の 私坑でもスペシャルポンプを使用している1
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しかし海軍炭坑内では出来のままであった。明 治2
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年(
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になっても機械化は行われてい なかったようである。吉原政道は海軍省予稿炭 田の経営を批判して次のごとく述べている。 御用炭堀採ノ¥人民ニ放任シテ正則ノ開採方ヲ ナサ、ルガ故,所調狸堀ト唱ブル堀方トナリ テ坑区ヲ無茶苦茶ナラシメ,第二ニハ売直ノ 八分ヲ徴収スルガ故政府ノ商法トナリ, 海軍御留メ地ナノレガ故,真面ノ実業家アレト モ該炭山広ノ坑業ヲシテ改良ヲ計リ国益ヲ興 ス1
能ノ¥ザル等ノ1
ニシテ,小生等ノ意恨ニ 堪ヘザル所ナリ19) と。 5 .明治14年の改革と石炭買上価格 下詩人採掘の石炭買上について, ij海 軍 省 年 報j は次のごとく記述するG ノ堀採ノ¥農津石炭用所ノ管理ニ シテ……総テ坑業人ニ委ス,坑業人坑夫ヲ使 役シ,其堀採スノレニ従ヒ之ヲ納メシメ,用所 (17) 池之上使用の捲揚器械はストローク長 1唄,t:"ス トン誼箆5吋,ドラム直径 2吹,横汽曜は長 1丈1 尺,直径3尺,嫡筒長22尺(
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工学叢誌j8号 明 治 14年10月,r
日本拡業史料集j第ニ期明治篇所収)。 (18)i坑内ノ水ハスペシャル日開筒ヲ用ヰテ疏注セリ,ピ ストンノ産経六寸,ストロークノ長拾八寸,現今坑 内ノ湧水装タ髄カニシテ鞠簡ノ¥廿四時間毎ニ三時 間ノ運転トス(向上)。 (19) 吉藤政選「海軍省予備炭田J
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百本鉱業会誌j第 52号)。 97 ニ於テ炭質ヲ審査シ, ヲ シテ堀採賃 ヲ給ス,凡ソ炭質ヲ分テ三種ト為ス,其善良 ニシテ海軍艦船ノ焚用ニ適スルモノヲ以テ最 上等ト為シ, 之ニ次クモノヲ ト為ス,上 等炭ノ¥専ラ海軍部内ノ製造場,其他官省等ノ 用ニ供シ,此二種撰抜ノ残炭ヲ ト為ス, 下等炭ハ坑業人t
こ払下クルモノトス1) 以上のごとく,下詩人採掘の石炭はお炭用所で 三種に区分され,最上等炭は海軍艦船用,上等 炭は官営工場用とされ,下等炭は下詩人に払下 げられた。 この払下炭は, 吉原政道によると次 のようであった。 下受人ヨリハ海軍入用炭丈ケヲ市価売買ノ直 段ヨリ安価ニ質揚ゲ,其余ニ出炭セシ分ハハ ね炭ト唱エ,坑主ガ市場ニ売捌得タノレ売揚代 金ノ八分ヲ海軍省ニ上納セザルヲ得ザル約束 ナリ2) 郎ち,下等炭は“ハネ炭"と称し,下詩人に払 下げられ,下請人はその売却代の8
分を“八分 金"3)と称し,海軍省に上納した。 最上等炭と上等炭の区分が何時から行われる ようになったのかは明らかでないが,買上価格 に格差はなかった。市価売買値段より安価に翼 上げられた買上価格は,表12のごとく,明治 4 表12 海軍省買上錨格(麿滞満島渡) 年 丹 1万斤当儲格 明治4年10月 17f弓50銭 5年11月 19. 6年 6月 17. 50 14年 1月 22. 39.8 14年6月 27. 70 注)i明治十四年公文類纂j前編五・後編五より作 成。 (1) ( 2 ) ( 3 ) f海軍省第十年報j(明治17年) 159貰。 前掲吉原政道 f海軍省予鑓炭田J
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?東松諸君E史j( 久 敬 社 大 正14年8月)499頁。経 済 学 研 究 年 (1871) に 1万斤当り,
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I f下賃(最寄土場よ り松浦Jlf河口満島迄)を含め 17F
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50銭と定めら れ,その後物価騰貴のため一時19円に値上げさ れたが, 6年 (1873) 6月より再び元の値段に 引寵された九 しかしこの買上げ価格が長期にわたって国定 されたため, 13年 (1880) 宋には次のような問 題が誰の自にも明らかになっていた。 ノ低価ヲ以テ買上ルカ故ニ,下稼人ヨリ 納ムル所ノ炭額ハ凡現出炭数ノ三分位ニ過キ スト想像ス,其余ハ密カニ満島川口ノ相場, 郎チ廿円ヨリ廿四月迄ノ価ヲ以テ売却セシト 云ブ5) この頃,満島港の市場価格と海軍省買上価格は 1万斤当り 2円50銭乃至6円50銭の品離が生じ, そのため請負人は海軍省納炭を抑え,“官炭"を “私炭"と偽り売却する者が目に余るようにな っていたのである。そのためであろう, 13年7
月からは年 1月迄の出炭高は月平均50万斤以下 で, 14年 6月頃には「用所ニハー塊ノ 之,……横浜地方等へ廻漕致候石炭ノ内ニハ粗 悪ノ品多分ニ混渚致シ居_j6)る状況に焔いって いた。出炭高は 7年の約2200万斤をピークとし て一貫して低下を続け, 13年にはその 3分の l の730万斤にまで落ち込んだ九 唐津石炭用所では,かかる事態、を放置できな (4 ) 明治13年12月唐津炭山景況取調のため海草省出 張所その他を調査した吉原政道は「下稼人ヨリ納ル 所ノ炭髄ハ満島川口ニ於テ一万斤拾七円拾銭トス, 是ハ明治四年ニ確定セシ部ニテ,i
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今ニ玉三テモ変換 スルコトナシ(蔀掲(農津炭山報告J
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工学叢誌j第 8号)と記す。実際には本省決定価格より謄津石炭 用所が安備に買上げていたのか,或いは何らかの名 召の引去費があったのか,単なる誤植であろうか。 ( 5 ) 向上。 ( 6) I麿津炭山処分方意見J
(,明治十五年公文類纂j前 編六)。 (7) 前掲f海軍燃料治革j9~10頁。但し生産高につ いては, 6.改革後の経常,参照。 第 四 巻 第 3・4号 くなった。 13年(1880) 7月 7日,唐津石炭用 所の要請を受けて,長崎海軍出張所長菅野党兵 衛は海軍卿榎本武揚宛に「唐津用所石炭代価増 額之義上申J
を,さらに繰返し 12月10日に「作 業石炭代価産増之義ニ討上申jを行ったヘ は「近年物価騰貴ニ及ヒ,殊ニ新開坑之為多少 入費モ相掛リ,且用所ニ於モ作業費ニ御改正之 今日ニ歪リ,尚従前之通被据置候テハ下稼人共 ノ難立行ハ勿論,用所之予算モ槌テ難相立義ニ 御鹿{[柔j事を理由とし, 1万斤当(川下賃 め)22円39銭 8庫とするように上請した。海軍 としてもこれを認め, 14年 (1881) 1月138 付で承認した。ここに創設以来の質上価格(途 中一時変更はあったが)は漸く改定を見たので あった。 新たに決定された質上髄格の算定規準は大雑 把な机上の計算にもとづくものであった。即ち, 表13の麿津石炭用所の“13年度予算額"40,132 円を杭上の予定採炭量1800万斤で除し, 1万斤 当り 22円29銭 6厘を得,当時(明治13年 6月) の唐津満島相場 1万斤当22円50銭との中間値を とったもの,いい換えれば, を足して2
で たものであった。規準となった唐津石炭棺 13年度予算額および採炭予定量についてみ ると,唐津石炭相場は所与のものであるが, 13 年度予算額は表13にみるごとく 11年度決算額と 比較しでも連続性は見られず,採炭予定量1800 も11年実績1204万斤余を反映しない机上予 った9)。むしろ予算額と採炭予定震は 質上価格決定後,説得力を付与するために操作 して得られた数字であった。改定された買上価 格は物価騰貴を理由に,何よりも市場実勢価格 98 -( 8 ) I明治十四年公文類纂j前編五。 (9 ) 明治13年度の実際採炭高は731万斤にとどまった (前掲 f満軍燃料沿革j)。唐津海軍炭坑の設定とその経営 表13 炭儲算定規準 13年 度 予 算 額 11年度実費 費 目 (建築新営費を除) (新築費を除) 属官俸給 600円 438円 銭 ! 豆 巡査律給 480 84(等外俸給) 付属俸給 267 93 備員俸給 460 160. 70 旅費 800 519. 30 勉 励 賜 金 150 27. 50 鵠給 662 376. O. 9 被服料 180 4. 53 儒 品 184 394. 38. 5 消耗品 116 74. 1. 4 郵 便 税 38 20.72 電信料 6 33 運搬費 30 21. 24 3 賭費 110 42. 19 雑費 100 22. 10 3 石炭運搬費 3,168 2,100. 4. 8 石炭堀取費 32,681 18,765. 60. 9 修繕費 100 34. 2 合 計 40,132 23,177. 70. 1 注
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作業石炭代価誼増之義ニ付と申J
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明治十四年公 文類纂j前編五)より。 表14 採掘輸送費比較(1万斤当) 名 称 明治4年代価 明治13年代髄 差 引 堀費褒美直上ケ共 6内50銭 8内20銭 1ドJ70鍔 小仕繰費 90 1.00 10 頭梁賃 40 50 10 勘場入費 1.70 1.90 20 柱木成木コロ;本共 60 80 20 諸道具損料 40 40 車道費 40 50 10 大八損料 30 ム30 坑口ヨリ中土場迄下賃 80 1.00 20 中土場ヨリ積場迄車賃 2. 50 2. 70 20 荷ヒ揚ケ賃 1.20 1.20 ]11下ケ賃 1.60 1.80 20 1割1合6勺切レ 1.40 ム1.40 之口』 計 17. 50 20. 00 2. 50 注)1諸物価比較表J
(出所は表13に同じ)。 尚,明治13年代揺は桃ノ尾!日坑明治13年調整額。 - 99 との関係でのみ意味のある価格であった。 石炭原価における物価騰貴の影響を表1
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にみ ると,全般的に各費目が上昇しているが,中で も採掘費の1円70銭値上りと新に荷ヒ揚ケ震が 付加されたことに大きな影響を受けている口明 治4年費日中のr
1割1合6勺切レjは今後の 調査課題である。f
荷ヒ揚ケ質jとは,対象とな った平出上村桃ノ尾i
日坑は運送の使極めて悪く,f
坑口ヨリ山頂マデ護経ノ高サ六拾間,長吾八 十間ノ所ヲ荷ヒ上ケ,又山頂ヨリ山麓ナノレ中土 場迄ハ凡廿七八度ノ斜道ニシテ,長四百間ノ場 所ヲ車付ノスラヲ以テ下シ,中土場ヨリ下土場 川 船 積場マア弐千弐百間ノ間ハ台八ヲ以テ運送jlO) したが,このうちの坑口より山頂迄の荷ヒ揚ケ 貨であろう。 ところが,明治1
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年(18
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になるとお炭市 場錨格はさらに騰震したJ
震津港J
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口高法炭売 ノ炭儲ハ春来追々引上ケ,四月以来壱万斤ニ 付金三拾二月ヨリ三拾三月ニ歪1),自後価位ヲ 不落J
l1l,坑夫賃金,車夫賃金,坑木等が一斉に した。このため再び石炭用所の必要量納炭 確保は国難になった。 この事態に対し,用所は必要炭240万斤を超 え, 300万斤を採炭させ,その余剰分を「当用所 エ積下ケ,検査ノ上各稼人工下ケ戻シ,麿津港 時錨ヲ以テ売却差許jすことにより,事態の緩 和を計ろうとした1九郎ち,従来下等炭のみを請 負人に払下げていたが,上納炭と向品質の石炭 を下等炭扱いとして払下げることにより,買上 げ価格の固定制と変動する市場価格との調節を (10) 前掲「膚津炭山報告J
(W工 学 叢 誌j8号)。 但し, 吉露政道はこの報告で桃ノ尾坑[Jから山頂迄荷ヒ 上 ケ 賃2円50銭 , 山 頂 よ り 中 土 場 迄 下 車 賃l丹20 銭,中土場より下土場台八2円としている。 (11) (12)(13) 1石炭麹帯代髄増補及取扱方農津沼所上 申J
(1明治十毘年公文類纂j後編五〉。経 済 学 研 究 行おうとした。この時海軍省はとりあえず,次 のように用所に指令した。 一,石炭代