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関心事としたこともあって,古文書 古記録万能主義の傾向を示し,文書史料によって確定しえない事がらは歴史研究の対象から排除するという錯誤に陥った しかし,人類のうちには文字を用いない社会も存在するし,人間の生活のうちには文字によって記録されない部分も広範に存在する (世界大百科事典より)親鸞に関する確

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Academic year: 2021

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親鸞聖人 一時帰洛説 について 興正寺伝 によると 親鸞聖人 は 赦免 された 翌年 の 建暦 二 年 ( 一二 一二 年 ) に 京都 に 帰 り 、 山城国山 科 郷 に 一宇 を 創建 し 「 興正寺 」 と 名 づけたとし 、 その 後 、 親鸞 はこの 寺 を 弟子 の 真仏 上人 ( 第 二 世 ) にまかせ 、 阿弥陀仏 の 本願 をひろめるため 関東行化 に 旅立 っ たとされています 。 親鸞正明伝 ( 佐々木正著親鸞始記 より ) 建暦二年 ( 一二一二 、 四〇歳 ) 壬生仲秋 ( 八月 ) の 中頃 に 上洛 しました 。 八月 二十日 すぎに 岡崎中納言範光卿 と 共 に 赦免 の 御礼 を 申 し 上 げました 。 京 に 戻 っ た 最 初 はす ぐ に 法 然 上 人 のお 墓 に 詣 で て 、 繰 り 返 し 師弟 の 縁 の 短 か ったことを 嘆 かれました 。 また 、 お 礼 に 参内 された 後 、 九条兼実公 のお 墓 と 玉日 姫 のお 墓 に 詣 でて 、 涙 ながらに 読経 いたしま した 。 印信 もお 供 しましたが 、 玉日 姫 の お 墓 の 前 で は その 時 の 気 持 ち が 蘇 っ て 、 悲 し み の 涙 にく れ なが ら 思 い 出 な どを 語 りました 。 母君 が 臨終 の 時 にまで 「 あ なたの 父上 は 罪 なくして 流 され 、 遠 い 地 で 苦労 しておられます 。 私 が 亡 くなった ら 、 越後 のお 父上 のもとへ 、 私 の 言 ったことを 詳 しく 伝 えて 下 さい 」 と 言 い 残 したことを 泣 き 泣 き 繰 り 返 すので 、 聖 人 も 一緒 に 涙 にくれました 。 その 年 の 九月 、 聖人 は 山城国 ・ 山科村 に 一寺 を 起 こしました 。 武蔵国 の 荒木源 海 の 願 いを 受 けてのことです 。 今 の 興正寺 がこのお 寺 です 。 その 年 の 十月 、 聖人 は 田舎 の 人々 に 教 えを 伝 えるために 、 関東 の 草深 い 土地 を 目 ざすことを 思 い 立 ち 、 下向 いたしました 。 途中 、 伊勢神宮 に 参詣 しました HァHァ 真宗高田派 の 学僧 、 五天良空 ( 一六六九 ~ 一七三三 ) 高田派 に 残 された 数多 くの 伝記 や 資料 を 基 に 「 高田開山親鸞聖人 正 統 伝 しょうとうでん 」 を 著 す ( 一七一五年 ) その 一八年後 ( 一七三 三年 ) に 存覚著 「 親鸞聖人正明伝 」 を 板本 として 刊行 。 正明伝 は 正統伝 の 底本 として 使 われた 。 実証主義歴史学 の 問題点 一九 世紀 に 成立 した 実証主 義 歴 史 学 は , 文書史料 が 残 りやすい 国家史 を 主要 な

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関心事 としたこともあって , 古文書 ・ 古記録万能主義 の 傾向 を 示 し , 文書史料 に よ っ て 確 定 しえ ない 事 がら は 歴史 研究 の 対象 か ら 排除 す ると い う 錯 誤 に 陥 った 。 しかし , 人類 のうちには 文字 を 用 いない 社会 も 存在 するし , 人間 の 生活 のうちに は 文字 によって 記録 されない 部分 も 広範 に 存在 する 。 Hァ ( 世界大百科事典 より ) 親鸞 に 関 する 確実 な 資料 ( 一次資料 ) は 少 な い 、 大正十年 ( 一九二一年 ) に 発 見 された 「 恵信尼文書 」 により 、 親鸞聖人 の 実 在 は 承認 されたが 、 親鸞伝 には 種々 様々 な 伝承 。 噂話 があり 、 近代 の 実証主義歴史学 から 切 り 捨 てられてきた 。 ( 山形大学尋問学部教授 松尾 剛次氏 ) 正 明 伝 がな ぜ これ まで 親 鸞 の 人 生 を 解 き 明 かす 資 料 とし て 重視 され て こな か ったのか 。 それは 、 本願寺教団 を 中心 に 進 められた 近代 の 実証主義真宗 史 学 に 大 い に 誤 りが あっ た から だ と 私 は 考 え てい る 。 明 治 以 降 の 真宗 史 学 が 本 願寺 派 の 立場 に 立 ち 、 覚如 の 著 した 「 親鸞伝絵 」 を 唯一 の 正統 な 伝記 としたためか 、 今日 では 資料的価値 はないものとみなされてしまった 。 ( 梅原猛著親鸞 の 謎 より ) 梅津一郎氏 「 中世武家流刑 の 手続 き 文書 」 通常 、 朝廷 が 罪人 を 京都 から 配流 すれば 、 赦 免 した 場合 は 、 朝廷 の 責任 で 京都 へ 送 り 返 すものである 。 玉日姫伝説 「 正明伝 」 における 玉日姫 と 親鸞聖人 との 結婚 のいきさつ 兼実公 は 「 日夜女性 と 戯 れ 、 酒 を 飲 み 、 肉 を 食 べる 、 私 のような 在家 の 者 の 念 仏 が 清僧 の 念仏 と 同 じであるはずはない 」 と 、 日頃 の 自 らの 疑問 を 法然上人 に 問 い ただしました 。 それに 対 して 法然上人 は 「 女性 と 戯 れている 在家 の 念仏 に 功徳 はなく 、 清僧 の 念仏 に 功徳 があるというのは 、 自力 を 重 んずる 聖道門 のいうこと です 。 浄土門 は 、 念仏 を 唱 えれば 、 持戒 ・ 無戒 、 在家 ・ 出家 の 区別 なく 、 阿弥陀 仏 が 全 ての 人 を 極楽往生 させるという 仏教 です 。 善導大師 は 、 一切 の 善悪 の 凡夫 は 皆 、 阿弥陀仏 の 衆生救済 の 願 いに 叶 うものであり 、 極楽往生 しない 人 はいない とはっきりおっしゃっています 。 したがって 月輪殿 ( 兼実 ) 、 ゆめゆめ 極楽往生 を 疑 ってはいけません 」 と 答 えました 。 けれども 兼実公 は 納得 しません 。「 もしあなたの 言 うように 在家 の 念仏 が 清僧 の 念 仏 と 変 わり は ない と する なら ば 、 あ な たの 弟 子 の 中 から 一 生不 犯 を 誓 っ た

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僧 の 一人 を 選 んで 、 私 の 娘 と 結婚 させてくだ さい 。 それを 、 この 末世 の 在家 の 者 が 男 も 女 も 見事 に 往生 で きる とい う 模範 に して く だ さら ない で しょ う か 」 と 法 然上人 に 申 し 出 たのです 。 法然上人 は 少 しも 驚 くことなく 、「 仰 せのとおりです 」 と 返答 し 、 かたわらに いた 綽空 ( 親鸞 ) に 「 では 綽空 よ 、 今日 から 兼実公 の 仰 せに 従 い 結婚 しなさい 」 と 命 じました 。 ( 中略 ) 「 あなたを 選 んだのには 理由 があります 。 あ なたは 今年 の 初夏 ( 四月 ) に 救世 観音 の 瑞夢 を 見 たはずです 」 ( 中略 ) 「 女犯偈 」 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽 ( 中略 ) 綽空 は 納得 できずに 「 思 いがけない 身 の 上 になったものだ 」 と 内心苦々 しく 思 っていましたが 、 法然上人 の 命令 であるため 反対 もできず 、 また 真空上人 や 聖覚 法印 などの 知恵 ある 兄弟子 の 勧 めがあったために 、 やっと 決心 が 定 まりました 。 月輪殿 は 大 いに 喜 んで 、 直 ちに 同 じ 車 に 綽空 を 乗 せて 帰 り 、 五条西洞院 の 邸宅 を 新居 として 、 娘 の 玉日姫 と 結婚 させることになりました 。 室町時代 に 成立 した 系図集 「 尊卑 分 脈 」 に 玉 日姫 についての 記述 がある 。 親鸞 聖人 の 最初 の 子供 である 範意 ( 印信 ) につい て 、 その 母親 が 〈 月輪関白娘 〉 すな わち 九条兼実 の 娘 であることが 明記 されている 。 また 、 蓮如上人 の 子 である 実悟 が 編集 した 「 日野一 流 系 図 」 にも 同 じことが 記 されている 。 ( 梅原猛親鸞 の 謎 ) 京都市伏見区 「 西岸寺 」 摂 関 家 ゆか り の 寺 とし て 知 ら れ る 法 性 寺 の 小御 堂 跡 に 建 つ 、 五 条西 洞 院 に あ る 「 光圓 寺 」 、 「 大 泉 寺 」 ( 親 鸞 聖人 が 玉 日姫 と 過 ごし た とい う 由 緒 を 持 つ 寺 院 ) と 同 じく 「 花園御殿 」 と 通称 で 呼 ばれる 。 九条兼実 の 別邸 があったところで 、 親 鸞 聖 人 流罪 の 日 に 玉日 姫 が 見 送 っ た 場所 で あり 、 息 子 の 範意 と 暮 ら し た 場 所 で もあるという 。 西願寺 の 「 玉日姫君御廟所 」 平成二十四年 に 発掘調査 が 行 われ 、 人骨 が 発見 された 。 人骨 から 、 性別 ・ 年齢 の 特定 には 至 らなかったが 、 伝承通 り 骨 が 玉日姫 のもの である 可能性 が 高 まった 。 ま た 、 幕末 に なっ てか ら も 九 条 家 の 人 々 が 玉日 姫 の 墓所 と して ここ を 訪 ね て

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きていることが 文献 によって 確認 された 。 ( 山形大学教授 松尾剛次氏 ) 「 正明伝 」 において 親鸞 の 妻 として 登場 するのは 玉日姫 だけ 、 恵信尼様 の 名前 は 見当 たらない 。 親鸞聖人 の 没後 、 江戸時代 までにあらわされたいくつもの 親鸞

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伝 に 玉 日姫 だけ が 登場 し 、 恵 信尼 様 の 姿 が ほと ん ど 見 え ない こ とを ど う 考 え れ ばよいのか 。 ( 梅原猛 親鸞 の 謎 ) 恵信尼様 は 兵部大輔 三善 為教 の 娘 。 三好爲教 は 京都 にいた 官吏 で 、 娘 である 恵 信尼 も 京都 にいたと 考 えられる 。 九条兼実 の 日記 「 玉葉 」 に 越後介三善爲則 と 出 てくる 、 則 と 教 と 字 は 違 うが 同 じ 人物 で 、 越後介 とは 越後国司 の 次官 。 西山深草氏 の 説 恵信尼 は 、 筑前 という 女房名 であった 、 九条兼実 の 長女 で 後鳥羽天皇中宮任子 ( 宜 秋 門 院 しゅうもんいん ) につかえていたとする 。 任子 が 出家 した 後 、 任子 の 妹 である 玉日 に 仕 えることになり 、 配流 の 際 は 玉日 の 代 わりに 親鸞 に 従 って 下向 し 、 玉日 の 喪 ( 親鸞流刑後 2 年 で 死亡 ) が 明 けてから 親鸞 と 越後 で 結婚 したとする 。 「 恵信尼文書 には 」 筑前 と 署名 しているものもある 。 荒木門徒 について 興正派 の 第三世 「 源海上人 」 は 高田 の 真仏上人 の 弟子 で 、 武蔵国 の 荒木 ( 埼玉 県行田市 ) に 住 したとされ 、 上人 にはじまる 門徒団 を 一般 に 荒木門徒 といってい る 。 荒木門徒 の 門徒団 は 大 きく 発展 し 、 広 く 各地 に 進出 。 興正寺 も 荒木門徒 の 流 れをくんでおり 、 源海上人 から 第四世了海上人 、 第五世 誓海上人 へと 法脈 が 伝 えられている 。 事 実 上 興正 派 を 開 いた 了 源上 人 は 、 了 海上 人 の 念 仏 道場 に たび たび 通 って お られ 、 道場 を 「 本所 」 と 呼 んでおられた 。 名帳 ・ 絵系図 による 教線 の 拡大 血脈相承 による 門徒集団 の 維持 女人教化 、 坊守 の 役割 荒木門徒 の 女人教化 は 、 普通 にいう 女人教化 とは 異 なり 、 夫 と 共 に 妻 をも 教化 するというふうに 、 夫婦 の 関係 を 中心 に 据 えて 女性 への 教化 を 行 っていました 。 親鸞聖人 の 結婚 ということを 強調 するのは 、 荒木門徒独自 の 傾向 である 。

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覚如上人 「 改邪鈔 」 親鸞聖人 の 門弟 のなかに 、 師伝 でない 異義 を 主張 し 、 聖人 の 教 えをみだす 者 が あらわれたため 、 邪義 を 破 し 、 正義 を 顕 すために 、 述作 されたものである 。 第 三 代宗主覚如上人 は 三代伝持 の 血脈 ( 法然 - 親 鸞 - 如信 ) を 主張 し 、 自分 がその 血 脈 の 正 統 を 受 け 継 ぐも の であ るこ と を 示 し 、 当 時 の 教団 内 の 邪 義 二 十 箇条 を 挙 げ て 批 判 し 、 も っ て 大 谷 本願 寺 を 中 心 と し て 真 宗 教 団 を 統一 し よう と され た の である 。 一 自分勝手 な 説 を 立 てて 、 「 名帳 」 と 呼 んで 、 祖師 の 教 えを 乱 すこと 。 法然 、 親鸞 、 両師 が 伝 えられたわが 浄土教 に おいて 、 名帳 と 呼 んでその 信徒 の 数 を 記 すことをもって 、 浄土 に 生 まれるための 指南 とし 、 仏法 を 伝 えられたこと の 証拠 とする 」 ということは 、 おそらくは 祖師 の 教 えをさえぎる 悪魔 の 仕業 であ る に 違 いな い 。 決 して こ のよ うな 邪 義 を も って 浄 土 の 教 えの 正 義 と し ては な ら ないものである 。 二 絵系図 と 称 して 、 同 じように 自説 を 立 てるということは 、 理由 がないこと 。 祖 師 親 鸞聖 人 が 残 しお か れた お 訓 し とし て 、 「 出 家 ・ 在 家 の 男 女 が そ れぞ れ 、 ひとりひとりの 姿 を 画 いて 所持 せよ 」 という 掟 があるとは 、 まだ 聞 いたことがな い 。 十一 春秋二季 の 彼岸 を 、 念仏 に 励 む 時期 と 定 めるのは 、 理由 がないということ 。 二 十 祖師 聖人 よ り 遥 か に 遠 ざか っ た 後 の 弟子 が 建 てた 寺 を 本 寺 と 称 し 、 国 中 があげて 崇敬 する 聖人 の 御廟所 である 本願寺 を 参詣 してはならない 、 と 説 いて 、 多 くの 人 に 信仰 の 邪魔 をさせることは 、 聖人 の 影 を 忘 れた 企 てであること 。

参照

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