ジョン・トーランドによる汎神論の発明
―ジョルダーノ・ブルーノの哲学の継承―
岡 本 源 太* 1 ジョン・トーランド(John Toland, 1670-1722)は、一般的には、ジョン・ロックの宗教論を急 進化した自由思想家の典型、またスピノザの哲学体系を唯物論へと敷衍した啓蒙主義者の先駆とさ れる。たしかにトーランドの最初の主著『秘義なきキリスト教』(一六九六)での主張は、キリス ト教の「福音には理性に反するものも理性を超えるものもない」1、したがって理性では理解できな い教説とされる「秘義〔mystery〕」は後代の捏造だというものであり2、これによって以後の自由 思想と啓蒙思想に多大な影響を与えた。もっとも、当時の激しい宗教論争の渦中を生きたトーラン ドは、検討の自由と言説の多様性を熱烈に擁護しこそすれ、宗教そのものを虚偽や欺瞞として告発 したわけではない。彼は理神論者や無神論者と呼ばれることを嫌い、小冊子『真に主張されている ソッツィーニ派』(一七〇五)3から晩年の主著『パンテイスティコン』(一七二〇)4にいたるまで、 みずから「汎神論者〔pantheist〕」を名乗っている。 本論はトーランドの汎神論を、彼が生涯にわたって私淑したジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548-1600)の哲学に照らして考察するものである。トーランドは一六九八年にブルーノ の一連の著作を入手し、書き込みと英語訳を残すとともに、ライプニッツやピエール・ベールら当 時の知識人とブルーノ哲学に関して書簡を交わした5。超越的な第一動者を否定し、この自然を唯一 の物質がたえず種々様々な様態に変容しているものと見なすトーランドは、つとに「スピノザ主義 * 岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授1 John Toland, Christianity not Mysterious, 2nd ed., London : Sam. Buckley, 1696; repr. London-Tokyo :
Routledge/Thoemmes Press-Kinokuniya, 1995, p. 6.〔ジョン・トーランド『秘義なきキリスト教』三井礼 子訳、法政大学出版局、二〇一一年、5頁〕 邦訳のあるものは原典とあわせて指示するが、本論での引用に あたってはいずれも訳し直している。
2 Ibid., pp. 151-160.〔同書、119〜130頁〕
3 [John Toland,] Socinianism truly Stated, London, 1705.
4 [John Toland,] Pantheisticon, Cosmopoli, 1720; Pantheisticon, a cura di Onofrio Nicastro e Manlio
Iofrida, Pisa : ETS, 1996.
5 Cf. Giovanni Aquilecchia, Schede Bruniane (1950-1991), Roma : Vecchiarelli, 1993; Maria Rita
Pagnoni Sturlese, “Postille autografe di John Toland allo Spaccio del Bruno,” Giornale critico della filosofia italiana, 65, 1986, pp. 27-41; Saverio Ricci, La fortuna del pensiero di Giordano Bruno (1600-1750), Firenze : Le Lettere, 1990; Id., “Il Bruno di Toland. Aspetti politici,” in Michele Ciliberto e Nicolas
Mann (a cura di), Giordano Bruno 1583-1585. The English Experience/L’esperienza inglese, Firenze : Leo S. Olschki, 1997, pp. 101-116.
者」に数え入れられてきた6。しかし『セリーナへの手紙』(一七〇四)7にうかがえるごとく、彼は 自身の自然哲学をスピノザ哲学への批判において形成しており、その際に決定的な論拠を提供した のがブルーノ哲学であったと思われる。トーランドの汎神論の根本には地動説にもとづく無限宇宙 論があって8、明に暗にブルーノの無限宇宙論が参照されているのである。トーランドがブルーノか ら継承した思想内容は多岐にわたるが、本論ではそのなかからまずは無限宇宙における動力の内在 性という論点に着目する。それにより、トーランドの汎神論がその核心において、通約不可能な諸 属性の並行論を語ったスピノザ哲学から離れて、相反する諸特性の一致を述べたブルーノ哲学に与 していることを明確にできるだろう。 そのうえで本論では、トーランドの汎神論がまずもって議論における「中立無差別〔indifference〕」 の教えとして提示されている哲学的根拠を解明したい。匿名出版ながら彼がはじめて汎神論者を名 乗った『真に主張されているソッツィーニ派』を繙くと、意外にもそこには神を自然と同一視する ような議論は何もない。ただ、当時のイギリス社会を分裂させていた宗教論争のことを嘆く友人宛 の手紙の体裁をとりながら、汎神論の哲学体系から必然的に帰結するという「中立無差別」が説き 勧められている。 このような反省のあと、わたしはさらにこう主張しました。あなたも憶えておいでのことでしょ う。あらゆる議論において完全に不偏不党であるばかりか、そう見える者たち(とりわけ〈汎 神論者たち〉)がこの世に見いだされうるのであって、わたしも自分自身をその一員だと表明 する、と。彼らの哲学体系0 0 0 0を、わたしは内緒であなたに伝えました。この体系について、あな たは必然的な結果としてそのような中立無差別を認めました。もっとも、同時にあなたはこの 体系にもその中立無差別にも賛同せず、どちらにも等しく馴染めないとのことでした。ですが、 かくも善良なる友の安らぎを思って、わたしはあなたがそうした気質の中立無差別にますます いっそう精通することを望みます。あなたには、わたしのそうした気質の中立無差別が、何に もまして非難すべきものに思われたようではありますが。9 トーランドはけっして中立的意見なるものを認めるわけではないが、それでも健全な理性にもと
6 Cf. Paul Vernière, Spinoza et la pensée français avant la révolution, Genève : Slatkine Reprints, 1979
(19541), pp. 355-360; Jonathan I. Israel, Radical Enlightenment. Philosophy and the Making of Modernity
1650-1750, Oxford : Oxford University Press, 2002 (20011), pp. 609-614.
7 John Toland, Letters to Serena, London : Bernard Lintot, 1704.〔ジョン・トーランド『セリーナへの手
紙』三井礼子訳、法政大学出版局、二〇一六年〕
8 [Toland,] Pantheisticon, cit., pp. 21-33.
9 [Toland,] Socinianism truly Stated, cit., p. 7. 本書の中扉にある書名も、『あらゆる神学論争における公正
な扱いの一例であるところの、真に主張されているソッツィーニ派。その序文として、汎神論者によって正 統派の友人に説き勧められた、議論における中立無差別』となっている。
づいて中立無差別に判断するならば、議論における多様な意見の対立は知識の増大をもたらす喜ば しいものであるという。 意見の中立無差別については、わたしは可能だとは認めませんし、信じてもいません。けれど も、他者たちの意見があなたの判断を損なうなどということは、あなたが判断を健全な理性に よって律するなら、ありはしないでしょう。そうした意見の多様性はあなたの観想を喜ばしい ものにしてくれるはずですし、意見の対立はあなたの知識を増やしてくれるでしょうし、意見 の難解さはあなたの非難を弱めるはずです。10 トーランドによってはじめて汎神論が提示されたとき、まずはこのような議論における中立無差 別の教えとしてであった。それは晩年の『パンテイスティコン』にいたっても変わらない。そこで も汎神論者は、「いかなる言葉にも忠誠を誓わず、教育にも慣習にも引きずられず、故郷の宗教に も法律にも妨げられず、もっとも自由な判断でもって、またどのような先入見も排したこのうえな い心の平静さをもって、聖(と言われるもの)も俗もすべてを探究する」11哲学者だとされるので ある。 それにしても、いったいなぜ汎神論は議論における中立無差別をもたらすのだろうか。そしてな ぜ多様な意見の対立は知識の増大に資する喜ばしいものなのだろうか。この問いに、本論ではトー ランドとブルーノを照らし合わせることで一つの答えを導きたい。 2 この宇宙は無限に広がり、いたるところが中心であって周縁はどこにもなく、無限数の諸世界で 満ち、無限数の個物がたえまなく生成消滅を繰り返しているが、全体では同じ一つの物質であるた め生成も消滅もない12──トーランド『パンテイスティコン』で開陳される汎神論の自然哲学には、 ブルーノの無限宇宙論から継承されたとおぼしきモチーフが溢れている13。とはいえ本論では、そ のなかではじめに動力の理論に着目しよう。宇宙全体に内在する普遍的な動力がトーランドの汎神 論の「神」であると同時に、彼のスピノザ批判の争点であり、そしてブルーノ受容の核心にほかな らない。 汎神論とは、一般的に言えば、トーランドが『ユダヤ教の起源』(一七〇九)で要約するごとく、「物 10 Ibid.
11 [Toland,] Pantheisticon, cit., p. 5. 12 Ibid., pp. 5-40.
13 Cf. Jean Seidengard, “L’infinitisme panthéiste de John Toland et ses relations avec la pensée de
質およびこの世界の組織から分離されるようないかなる神格もなく、自然それ自体あるいは事物の 総体が一にして至高なる神であり、その部分が個別の被造物と言われ、その全体が──お望みとあ らば──創造主と言われる」14となるだろう。彼によれば、この見解はモーセら古代のユダヤ人、ま たギリシア人とローマ人、さらに現代の中国人やスピノザ主義者にまで広く見られるという15。 しかし『パンテイスティコン』で彼自身の汎神論が詳らかにされる際には、神は「自然それ自体 ないし事物の総体」とされるにとどまらず、たえず万物が生成消滅の運動を繰り広げるこの無限宇 宙の「全体の力〔vis totius〕」が神と呼ばれている16。しかも「この力は〔……〕たんなる概念上で しか宇宙それ自体と分離されない」17として、その内在性が強調される。 トーランドのスピノザ批判は、まさにこの万物を生成消滅させる動力の位置づけをめぐるものだ。 『セリーナへの手紙』によれば、スピノザ哲学には端的にこの動力の理論が欠けている。 スピノザは物質がどのように動かされるようになったのか、あるいは運動がどのようにして持 続しているのかを何も説明せず、神を第一動者と認めることもせず、運動を属性であると証明 したり仮定したりもせず(それどころか反対のことをおこない)、あまつさえ運動が何である かを説明してもいないのですから、彼は個別の物体の多様性が実体の単一性とどのように調和 しうるのか、どうしても示せなかったのです。18 トーランドが問題視するのは、つまるところ「延長の観念自体にはいかなる変化もいかなる変質 の原因もけっして含まれていない」19こと、すなわちスピノザのいう延長属性に運動の原理が欠け ていること、ただその一点のみである(なおトーランドは思考を脳の運動によるものと見なすため、 スピノザのいう思考属性を属性とは認めない20)。「活動だけが延長においてあらゆる変化を産出し うるのだから、この活動すなわち運動の原理をはっきりと明確化し、確立せねばならない」21と述 べるトーランドは、スピノザの『エチカ』のそのほかの論点にはほとんど触れず、スピノザ哲学の 側からすれば批判として成立しているのか疑わしいところかもしれない。しかしながらトーランド
14 John Toland, Adeisidaemon, Annexae sunt ejusdem Origines judicae, Hagae-Comitis : Thomam
Johnson, 1709, p. 117.
15 Ibid., p. 118.
16 [Toland,] Pantheisticon, cit., p. 8. 17 Ibid.
18 Toland, Letters to Serena, cit., IV, 12, pp. 146-148.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第四書簡第
12節、114〜115頁〕
19 Ibid., IV, 9, p. 141.〔同書、第四書簡第9節、110頁〕
20 Ibid., IV, 7, pp. 138-139.〔同書、第四書簡第7節、108〜109頁〕; [Toland,] Pantheisticon, cit., pp.
12-15.
21 Toland, Letters to Serena, cit., IV, 9, pp. 141.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第四書簡第9節、
のきわめて限定的な立論は、彼の汎神論の根拠がまさにスピノザ哲学と異なる動力の理論に据えら れていることを示唆している。 スピノザに対してトーランド自身は、「活動は物質に本質的である」22と提案する。つまり、物質 の属性として、延長(ならびにロックのいう固性ないし不可入性)に加えて、さらに「動力〔moving force〕」すなわち「活動〔action〕」を認めるべきだという。もちろん単純な物活論を唱えるわけで はない。個物の「量〔quantity〕」と全体の「延長〔extension〕」の区別になぞらえて、トーラン ドは局所的な「運動〔motion〕」と全体の「活動〔action〕」とを区別するのである。 さて、物質において、われわれは個々の物体の量0と全体の延長0 0とを区別しています。それら個々 の量は全体の延長のさまざまな限定ないし様態にほかならず、それらのさまざまな原因によっ て存在したり消滅したりします。同様にして、より理解しやすくするために、わたしは全体の 運動を活動0 0と呼び、すべての局所運動──線状だったり円状だったり、速かったり遅かったり、 単純だったり複合的だったりする──をひきつづき運動0 0と呼びたいと思います。局所運動は活 動がさまざまに変化した限定0 0です。活動はつねに全体に存在し、あらゆる部分において同一で す。活動なくしては、いかなる変容も受け入れられません。わたしは、物質が絶対的に静止し た不活性の死んだかたまり、怠惰で動けぬ事物であることを否定しますし、かつてそうであっ たことも否定します。23 全体の活動が個別の局所運動に限定されるとのトーランドの主張は、唯一の実体が個別の様態に 変容するとしたスピノザ哲学とさほど違わないように思えるかもしれない。しかしながらトーラン ドはおそらくここで、けっして活動を属性とは認めなかったスピノザ哲学よりもむしろ、唯一の存 在がたえず多様な様態に変容するこの無限宇宙における動力の内在性を語ったブルーノ哲学に、着 想を得ているだろう。 アリストテレス主義的な閉じた有限世界を否定するブルーノは、『無限、宇宙、諸世界について』 (一五八四)において、外部から運動を与える超越的な第一動者をあわせて否定し──というのも 無限宇宙には外部がないのだから──、万物の動力をはっきりと内在的なものと主張していた。開 かれた無限宇宙では、万物はそれぞれに内在する動力──魂──にしたがって有限の局所運動をお こないつつ、同時にすべてに共通する普遍的運動にも加わっている24。あるいはむしろ、無限の全 22 Ibid., IV, 17, p. 160.〔同書、第四書簡第17節、125頁〕 23 Ibid., pp. 158-159.〔同書、124頁〕
24 Giordano Bruno, De l’infinito, universo e mondi [1584]. Œuvres complètes, IV, Paris : Les Belles
Lettres, 1995; 2e éd., 2006, pp. 103-107.〔ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』清
体の普遍的運動から個別の有限な局所運動が派生するという。 〔……〕始原の第一動者はたしかに存在しはしますが、しかしそれは、そこから一定の階梯を通っ て第二、第三、等々と数えつつ中間や終極へと下降していくという意味での、始原にして第一 というものではありません。そのような動者は存在せず、存在できもしません。というのも、 無限数の存在するところには、数的な等級も順序もないからです。もし等級と順序があるとす れば、多様な種と類か、同一の類と種における多様な等級か、そうしたものの根拠と価値にし たがってのことでしょう。したがって、この無限の領域に無限数の魂があるように無限数の動 者があり、これらは形相にして内在的活動ですが、これらに対して、これらすべてが依存して いるところの一つの原理があります。霊・魂・神々・神格・動者に動力を与え、質料・物体・ 生物・下位の自然・可動物に可動性を与えるところの第一者が存在します。〔……〕すべての 可動物が等しく、普遍的な第一動者から、また第一動者に、近くも遠くもあるのです。ちょう ど(論理学的に言えば)すべての種が同一の類に対して、すべての個が同一の種に対して、等 しい根拠を有しているようなものです。かくして、一つの無限の普遍的な動者から、一つの無 限の空間のなかに、一つの普遍的な運動が生じます。そこから、それぞれ有限の量と動力をも つ無限数の可動物と無限数の動者が派生してくるのです。25 閉じた有限世界であれば、外部から超越的な第一動者が世界の階層構造にしたがって順に運動を 伝播させていくと考えられるかもしれないが、開かれた無限宇宙には外部も階層もない。そのため ブルーノは第一動者が万物に内在的に等しくはたらきかけると考え、すでにトーランドと同様に、 無限の内在的動力による全体の普遍的運動と、そこから派生する有限の個々の局所運動とを語って いたのである。 そのように万物に動力が内在すること、そして活動が物質の属性であることを認めるには、運動 も変化もしていないと思われる静止した事物がそれでも何かしら活動していることを説明せねばな らない。トーランドの『セリーナへの手紙』第五書簡の多くの紙幅が、その説明に費やされる26。 このとき彼はひきつづき、ブルーノが地動説から導き出した運動と静止の相対性の議論をなぞって いるように思われる。地動説は、不動とされていた地球のほうが実は運動していたことを示した。 そこからブルーノは運動と静止、可動と不動が相対的なものにすぎないとしたのであった。ブルー ノ『無限、宇宙、諸世界について』にはこう記されている。 25 Ibid., pp. 337-339.〔同書、230〜231頁〕
26 Toland, Letters to Serena, cit., V, 15-22, pp. 186-209.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第五書簡
何か固定されたものとの関係で比較しなければ、われわれは運動を把握できません。というの も、水が流れていることを知らず、岸も見えていない人がいるとして、流れゆく舟に乗って水 のただなかにいても、その運動の感覚をもつことはないでしょう。ここからわたしは、こうし た静止や固定は曖昧なものだと、疑わしく思うのです。もしわたしが太陽か月かほかの星のな かにいたとして、わたしのいる天体のほうが自身を中心にして回っているのに、わたしにはつ ねに自分が不動の世界の中心にいて、そのまわりを周囲のものすべてが回っているように見え ると、そう考えることができます。このように可動と不動の差異はたしかではないのです。27 ブルーノと同様に、トーランドも繰り返し運動と静止の相対性を主張する。トーランドによれば、 「局所運動と静止は、あくまで相対的な用語、消滅しうる様態にすぎず、実定的ないし実在的な存 在ではない」28。それゆえ、静止した事物はあくまでほかと比較して静止していると言われているだ けであって、比較の対象を変えれば運動していると言うこともできる。静止は「けっして物体にお ける絶対的非活動などではなく、ただその位置の変化を感覚できるほかの物体と比較しての相対的 な静止にすぎない」29のである。トーランド『セリーナへの手紙』には、さらにこう書かれている。 地球(ほかすべての惑星についても同様に真実ですが)における万物は、地球の恒常的な運動 に加わっています。〔……〕ある運動している球体のすべての任意の部分は、おたがいの関係 では、あるいはその球体におけるそれらの位置との関係では、静止しています。けれどもそれ らの部分はすべて、その球体の部分としては、もしくは球体以外の万物との関係では、実際に は動いているのだと、そう述べない人はだれもいません。ですから、船客は航行中の船の運動 を共有しています。船客の人体組織に特有の運動については言うまでもありません。それでも 船客が静止していると見なされるのは、その者が座っている場所や船のほかの部分との関係に おいてです。それらの場所は、全体の運動にもかかわらず、船客との関係では同じ距離と位置 を保っているのです。30 したがって、局所的な運動と静止はすべて観点次第でどちらとも言える相対的なものであり、静 止しているかに見える物体も、観点を変えれば運動している。とすれば、すべては運動している。 絶対的に静止したものなどなく、万物はかならず全体の普遍的な活動を分有し、その活動は物質に
27 Bruno, De l’infinito, universo e mondi, cit., p. 207.〔ブルーノ、前掲『無限、宇宙および諸世界について』
142頁〕
28 Toland, Letters to Serena, cit., IV, 9, p. 142.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第四書簡第9節、
110頁〕
29 Ibid., V, 19, p. 199.〔同書、第五書簡第19節、152頁〕
内在的なものである。かくしてトーランドは、万物に内在的な普遍的動力をブルーノとともに認め ることで、動力の不在というスピノザ哲学の難点──と彼が見なしたもの──を克服するのである。 この普遍的で内在的な動力が『パンテイスティコン』にいたって「神」と呼ばれるのは、第一動者 としての超越神に取って代わる内在的な第一動者であるからだろう。 3 トーランドのスピノザ批判は、繰り返せば、物質の属性として延長のみならず活動を(そしてさ らに固性も)認めるべきだというものであり、ただこの一点のみに向けられている。とはいえ、こ のきわめて限定的な批判において、実のところスピノザによる属性の定義そのものが問い直されて いることに注意したい31。というのもトーランドは、スピノザのように「実体の各属性はそれ自身 によって考えられなければならない」32とは見なさないからだ。それどころか、延長・活動・固性 といった「物質におけるこれらの属性がおたがいに区別されるのは心においてのみである」33とし て、現実にはこれらは相互に依存しあい、協働しているのだという。 物質はしばしば運動から抽象され、運動も物質から抽象されますし、固性と物質、運動と延長、 延長と固性、固性と運動に関してもそうです。これらの各々は、そのほかを何ら考慮せずにそ れ自体で受け取られるかもしれないし、そうされていますが、現実には物質の運動はその固性 と延長に依存していますし、同じようにこれらの諸特性はすべて切り離せず、相互に依存しあっ ているのです。34 スピノザにとっても、たしかに唯一の実体があるときは思考属性のもとに理解され、またあると きは延長属性のもとに理解されるのではあるが、しかしこれらの属性はおたがいに独立しているの であって、依存しあったり協働したりするわけではない。あくまでも「ものごとが思考様態として 見られるときには全自然の秩序ないし原因の連結は思考属性によってのみ説明されねばならず、も のごとが延長様態として見られるかぎりは全自然の秩序もまた延長属性のみによって説明されねば
31 Cf. Tristan Dagron, Toland et Leibniz. L’invention du Néo-Spinozisme, Paris : Vrin, 2009, pp. 191-209. 32 バルーフ(ベネディクトゥス)・デ・スピノザ『エチカ』第一部定理一〇。Baruch (Benedictus) de
Spinoza, Etica ordine geometrico demonstrata [1677], in Opera , II. Heidelberg : Carl Winter Universitätsverlag 1925; 1972–1987, p. 50.〔スピノザ『エチカ』(全二冊)畠中尚志訳、岩波文庫、一九五 一年/一九七五年、46頁〕
33 Toland, Letters to Serena, cit., V, 29, p. 230.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第五書簡第29節、
172頁〕
ならない」35。属性のうちで閉じた機械論的因果が成立しているのであって、異なる属性間に連絡は ないはずなのである。ところがトーランドは、「あらゆる属性は、それぞれ別個の様態を産出する ために協働せねばならない」36と述べる。彼は「属性〔attribute〕」の語をしばしば「特性〔property〕」 の語と混用するが、このとき明らかにスピノザの属性にはありえないことを語っているのである。 トーランドの言う属性ないし特性はいずれも、「異なる観点のもとで同一の物質を考察したも の」37にほかならず、あくまで観点に応じて相対的に区別されるにすぎない。『セリーナへの手紙』 第五書簡では、延長・活動・固性、さらには運動と静止、大小、軽重、点・線・面、四元素、物体 と空間、等々がすべて相対的なものであると強調される38。 たとえばこの種のものに大小がありますが、これらは心によるたんなる比較にすぎず、いか なる実定的基体の名称でもありません。あなたは妹に対しては大きいですが、象に対しては小 さいですし、妹は彼女の鸚鵡と比べれば大きいものの、母親のかたわらに立てばとても小さい でしょう。こうした言葉は正しく適用されればたいそう役立ちます。ですが、しばしば濫用さ れて、相対的ないし様態的なものから実在的・絶対的・実定的なものにされてしまいます。物 体、部分、粒子、あるもの、ある存在などはそうしたものです。これらは、生活実践のなかで はもちろん容認されてしかるべきでしょうが、哲学の思弁ではけっして容認できません。39 結局のところ「宇宙には一種類の物質しか存在しない」40が、しかしそれが無限のものであるが ゆえに観点次第で多種多様な考察が成立し、いくつもの属性・特性があらわれるのである。 このようなトーランドの属性・特性の相対主義は、まずは彼のロック哲学の受容に由来すると考 えられる。『秘義なきキリスト教』でトーランドは、人間の認識がジョン・ロックの言うところの「唯 名的本質〔nominal essence〕」──事物の主要な特性ないし様態の集合──にのみ関わり、「実在 的本質〔real essence〕」──事物の本体的構造──に関するものではない、と主張していた41。つ まり、何かを確実に理解するとはそのものの主要な特性と効果を知ることであって、すべての特性
35 スピノザ『エチカ』第二部定理七備考。Spinoza, Etica ordine geometrico demonstrata, cit., p. 90.〔ス
ピノザ、前掲『エチカ』、101頁〕
36 Toland, Letters to Serena, cit., V, 10, p. 178.〔トーランド、前掲『セリーナへの手紙』第五書簡第10節、
137-138頁〕 37 Ibid.〔同書、138頁〕 38 Ibid., V, 7, 10-14, 24-25, pp. 173-175, 177-186, 212-218.〔同書、第五書簡第7、10〜14、24〜25節、134 〜135、137〜143、160〜164頁〕 39 Ibid., V, 7, pp. 174-175.〔同書、第五書簡第7節、135頁〕 40 Ibid., p. 174.〔同書〕
41 Toland, Christianity not Mysterious, cit., III, 16-17, pp. 82-83.〔トーランド、前掲『秘義なきキリスト教』
を知る必要はないし、それらの特性の基体が分かる必要もないという。「われわれに関わるものか、 そうであるものの発見に役立つものでなければ、いかなる特性も知りえない」42のだから、「われわ れがある事物を理解したと見なされるのは、その主要な特性といくつかの使い方がわれわれに知ら れたときである」43。つまるところ人間の認識は、その観点に応じて相対的にあらわれる特性にのみ 関わるという。 おそらくトーランドにとってブルーノ哲学は、無限宇宙における動力の内在性を根拠づけるのみ ならず、ロック哲学から敷衍された属性・特性の相対主義を存在論的に根拠づけるものでもあった だろう。ブルーノの無限宇宙はその全体がただ一つの連続体をなす果てしない生々流転の自然であ り、そのなかで運動と静止、中心と周縁、上下、軽重、物体と空虚、四元素、等々の区別は、ある 観点からあらわれるにすぎない相対的なものである44。ここで示唆的なのは、トーランドが『パン テイスティコン』で、地動説を「両極の一致〔extremorum coincidentia〕」の教説から論じてい ることだ45。ブルーノにとっても地動説はまさしく、運動と静止といった対立概念が――先に見た ように――観点次第で一つの同じ対象に当てはまることを示す「相反の一致〔coincidenza de contrarii〕」の教説の典型である46。「ほんとうは一つの絶対的な第一質料〔物質〕しか存在しない にもかかわらず、哲学のさまざまな方法によって質料〔物質〕のさまざまな根拠をとらえることが できる」47がゆえに、この無限宇宙では観点次第でさまざまな理解、ときに相反し矛盾さえする理 解が成立するのであり、その観点の相異に応じて哲学の諸派に分かれるのである48。 この点でトーランドは、通約不可能な諸属性の並行論を語ったスピノザ哲学から離れて、認識さ れる諸特性の相対性を示唆したロック哲学に、さらには相反する諸特性の一致を述べたブルーノ哲 学に与している。それゆえ、彼の汎神論が前提とする無限宇宙は、機械論的法則性によってくまな く支配されたスピノザ的な神即自然というよりも、観点に応じてたえず多様な相貌を見せるブルー ノ的な生々流転の自然と言うべきであろう。 4 かくしてブルーノ哲学は、トーランドにとって、たんに地動説と宇宙の無限性を主張しただけの 42 Ibid., III, 10, p. 77.〔同書、第三部第10節、61頁〕 43 Ibid., p. 76.〔同書〕
44 Bruno, De l’infinito, universo e mondi, cit., passim.〔ブルーノ、前掲『無限、宇宙および諸世界について』、
随所〕
45 [Toland,] Pantheisticon, cit., pp. 21-30.
46 Cf. 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、月曜社、二〇一二年、92〜97頁。
47 Giordano Bruno, De la causa, principio e uno [1584]. Œuvres complètes, III, Paris : Les Belles Lettres,
1996; 2e éd., 2016, p. 17.〔ジョルダーノ・ブルーノ『原因・原理・一者について』(ジョルダーノ・ブルーノ
著作集第三巻)加藤守通訳、東信堂、一九九八年、13頁〕
ものではなく、まずはこの宇宙の一にして無限なる物質における動力の内在性を、そしてその物質 のあらゆる属性・特性の相対性を、根拠づけるものであった。 ここで思い起こすべきは、ブルーノが「自然の認識を求めてたどりつく道がただ一つしかないの だと、そう他者たちを説得しようと望むのは、野心深く、自惚れて、虚しい、嫉妬深い頭脳のする こと」49と語って、言説の多様性を擁護していたことだろう。この無限宇宙は観点に応じて多様に 理解しうるのだから、その観点の数だけ哲学の学派がありうるのであり、「いかなる種類の哲学で あっても、節度ある分別によって秩序づけられているかぎり、そのほかの哲学に含まれていない何 らかのよい特性をみずからのうちに含んでいないはずはない」50。一つの観点でもって無限の全体を 汲み尽くすことはできない。それゆえに言説は多様であって、その数が多いほど人間の知識は増大 する。 そのようにブルーノ哲学は言説の多様性を根拠づけるものでもあった。この宇宙、この自然が無 限なる一者であるという絶対的真理の知識は何をしようと増大も減少もしないが、多様な言説があ ればあるほど個別的な知識は増大するのであり、その個別の相対的真理はいずれも無限の絶対的真 理の一面を示しうる。どの言説も相対的であるからといって、ブルーノはけっして、それらすべて が無意味であったり誤謬であったりとは考えない。その逆に、あらゆる観点がそれなりに真理を分 有し、いかなる意見もそれぞれに聞くべきところをもち、諸々の学派はどれも有益なところがある、 という帰結にいたる。もちろんそれは、いかなる荒唐無稽な言説でもかまわないということではな い。ブルーノがたとえばアリストテレス自然学に向けた厳しい批判を思えば、どの言説も無条件に 認められるわけではないことは明白であろう。あくまですべての言説がその観点に応じて検討され るに値する、ということである。 このことは宗教にも及ぶ。ブルーノの名高い言葉「自然とは事物の内なる神である」51は、まさ に唯一の無限なる自然がたえず生々流転しながら多様な形姿をとることにもとづいて、まずは古代 異教の偶像崇拝を、だがひいては宗教の多様性を説明するものであった。エジプト、ギリシア・ロー マ、そしてヨーロッパと、地域や時代に応じて多様な宗教があらわれ、数多くの神々があらわされ てきた。とはいえブルーノによれば、ゼウスにせよアプロディテにせよ、いずれの神ももとはとい えば一人の人間であり、ただその人間のうちに正義や寛容といった神々しい徳が見いだされたため に、便宜的にその名前と表象でもって神があらわされたにすぎない52。つまるところ神の名前と表 象の差違は、ひいては宗教の差違は、地理的・歴史的状況の相異による相対的なものにほかならず、 49 Ibid., p. 195.〔同書、120頁〕 50 Ibid., p. 199.〔同書、123頁〕
51 Giordano Bruno, Spaccio de la bestia trionfante [1584]. Œuvres complètes, V, Paris : Les Belles
Lettres, 1999; 2e éd., 2019, p. 415.〔ジョルダーノ・ブルーノ『傲れる野獣の追放』(ジョルダーノ・ブルー
ノ著作集第五巻)加藤守通訳、東信堂、二〇一三年、235頁〕
いずれの宗教も実はこの自然のうちに多様な形姿であらわれる唯一の神性を崇めているのだという。 〔……〕万物のなかに見いだされる一つの単純な神性、宇宙の維持者たる豊饒な母なる自然は、 さまざまにみずからを伝達するのに応じて、さまざまな基体のなかで輝き、さまざまな名前を とります。〔……〕けれども、万物のなかに見いだされる神性は一つであることが、理解され なかったわけではありません。この神性は、無数の仕方でみずからを拡散し伝達し、そのよう に無数の名前をもつのであり、そして人々はそこから無数の類の恩恵を懇願するがゆえに無数 の儀礼でもって讃え崇めながら、無数の道を通って、各人固有の適合する根拠でもって、探究 するのです。53 トーランドの汎神論が、「神あるいは自然」と語ったスピノザ哲学よりも、むしろ「自然は事物 の内なる神である」と語ったブルーノ哲学を継承するものであるとすれば、ブルーノにおけるのと 同様に言説の多様性が擁護され、それが宗教にまで及ぶとしても不思議ではない。先に見たように、 トーランドは人間の認識をただ事物の相対的な属性・特性とその効果にのみ関わるものとしていた。 これは、彼にしたがえば、自然物のみならず神にも当てはまる54。つまり、人間が神に関わるのは、 神の唯一の実在的本質においてではなく、あくまで神の善性や愛といったさまざまな属性、そして 救済というその効果においてである。 神0については、その属性ほどわれわれがよく理解しているものはない。たしかにわれわれは、 無限の善性、愛、知識、能力、知恵が共存しているあの永遠なる基体0 0 ないし本質0 0 の本性を知ら ない。しかし、われわれはいかなる被造物の実在的本質0 0 0 0 0についても、それ以上によく知っては いないのである。われわれは神0の観念と名前によってその既知の属性と特性を理解するように、 ほかあらゆる事物の属性と特性もその観念と名前によって理解する。いずれであっても同じほ ど明晰に把握するのだ。わたしが本章の初めで指摘したように、われわれは事物について必要0 0 かつ有益0 0であるような特性のほかは何も知らない。神についても同じことが言えるだろう。と いうのも、われわれの宗教のあらゆる行為は、神の属性のいくつかを考察することによって導 かれるのであって、神の本質0 0 を考えてはいないのである。神へのわれわれの愛は神の善性によっ て、感謝はその慈悲によって、かきたてられる。われわれの従順さは神の正義によって整えら れる。われわれの希望は神の知恵と能力によって確証される。55 53 Ibid., pp. 421-423.〔同書、240頁〕
54 Toland, Christianity not Mysterious, cit., III, 12, p. 79.〔トーランド、前掲『秘義なきキリスト教』第三
部第12節、63頁〕
それゆえ神は唯一であっても、神についての認識はその多様な属性に関するものであるから、宗 教の言説は観点に応じて多様でありうることになろう。もちろん、ブルーノにおいてと同様トーラ ンドにあっても、いかなる荒唐無稽な言説でもかまわないということにはならない。プロテスタン トであったトーランドがカトリックに向けた厳しい批判を思い起こせば、それは明白であろう。『秘 義なきキリスト教』では、キリスト教はすべて理性で理解できるのだと主張されていた。それはつ まるところ──トーランドによれば自然物と神はまったく同じように認識されるのだから──自然 学も宗教も理性にもとづく自由検討に開かれているということである。すべての言説がその観点に 応じて検討されるに値するということであって、どの言説も無条件に容認されるということにはな らない。彼がカトリックを批判するのは、それゆえ、権威に依拠して自由検討を禁じるがゆえにで ある。 トーランドが言説の多様性とあわせて、検討の自由を何より重視していることに注意せねばなら ない。自由検討こそが、彼によれば、真理を見いだし、真理を伝える方法である。 こうして、わたしはきわめて早くから検討と探究に親しみ、そしてわたしの知性と感覚がいか なる人にも団体にもとらわれてしまうことのないようにと教わってきた。今では、真理を他者 に伝える最良の方法はその人自身が真理を学ぶのにもちいた方法である、と考えている。56 そもそもトーランドにとって理性とは、「疑わしかったり曖昧であったりするなんらかの事柄を、 明白に知られているものと比較することで、その事柄の確実性を見いだす魂の能力」57であって、つ まりは自由検討の能力と別のものではない。ここで「確実性〔certainty〕」は、対象──自然物で あれ神であれ──の主要な特性とその効果を知ることで得られるものである。理性的であるとは、 したがって、確実性を見いだすために中立無差別に自由検討をおこないうること、つねに議論に開 かれてあることを意味する。この意味でこそ、トーランドが繰り返し要請する先入見からの解放の ことを理解すべきだろう。トーランドは先入見にとらわれたままでいることを度重ねて批判するが、 同時に、先入見を完全に捨て去ることはできないとしてもいる58。まったく先入見のない人間はだ れもいない。しかしその先入見を自由検討によって比較対照することで、そのつどの観点から真理 が明らかになり、個別的な知識がしだいに増していく。先入見は、無条件の真理性を要求するとき 迷信と化すが、しかし自由検討に開かれているとき知識の源泉となるのである。したがって多様な 言説は、そのままでは先入見の表明であって、自由検討と組み合わされることでこそ擁護される。
56 Ibid., Preface, p. ix.〔同書、序文、x頁〕 57 Ibid., I, 7, p. 14.〔同書、第一部第7節、11頁〕
というのも、(たとえば)ある人が聖書を読むことを禁じられているなら、その人がどんな手 段でクルアーンから離れられるかを考えるのは困難です。さて、もしイスラーム教徒が聖書を 読むべきであるなら、キリスト教徒がクルアーンを読むのを恐れねばならない理由は何も見当 たりません。このことは世界中のすべての本についても同じく真実です。59 このような検討の自由と言説の多様性の擁護の思想的根拠は、まずはトーランドがスコットラン ドとオランダで学んだプロテスタント聖書文献学に求められるものだろう。とはいえ、これまで本 論で見てきたように、ブルーノ哲学からの帰結としても理解しうるものである。プロテスタンティ ズム自体が、遡れば、ルネサンス人文主義の文献学による聖書の自由検討から──鬼子としてでは あれ──生まれたものであった。 トーランドが汎神論をまずもって議論における中立無差別の教えとして提示し、検討の自由と言 説の多様性をかくも熱烈に擁護した理由は、いまや明らかであろう。彼の汎神論は、一なる無限の 宇宙にして神が多様にあらわれることを示して、あらゆる言説を相対化するものである。このとき すべての言説は、その観点に応じて、相対的な真理をそれぞれ多様な仕方で語っていることになる。 諸々の言説は、どれもそのまま無条件に真理を語るわけではなく、とはいえどれも真理に無関係と いうわけでもない。どの言説がいかなる観点のもとで真理を示しているのかは、自由検討による比 較対照を通して明らかになる。逆に言えば、多様で対立しあう言説を中立無差別かつ自由に検討で きなければ、真理は明らかにならない。その意味で言説の多様性は知識の源泉であり、検討の自由 は真理の根拠であって、彼の汎神論はそれを基礎づける宇宙論にして神学であった。 とすれば、トーランドのスピノザ批判は、後世の啓蒙主義者たちがしばしば見なしたような、物 質の活動性にもとづいたスピノザ哲学の唯物論化であるとだけ解釈してしまうことはできない。よ り根本的な争点となっていたのは、スピノザ哲学の属性では言説の相対性がなくなり、自由検討の 余地がなくなることであったろう。トーランドにとっての理性とは自由検討をおこなう能力のこと であって、宗教の欺瞞性を告発する後世の啓蒙主義的な理性の先駆というよりも、むしろ文献学に もとづく自由検討をこととしたルネサンスの人文主義的な理性の後裔と見なすべきと思われる。こ の理性は、真理を無条件に要求するものではなく、先入見のなかにありながらもそれを相対化して 知識の源泉にするものだ。トーランドがブルーノ哲学を引き継いで展開した汎神論は、かくして、 あらゆる言説を相対化する一なる無限の宇宙にして神を示すことで、言説の多様性と検討の自由を 擁護し、議論における中立無差別を教えるのである。 59 Ibid., I, 12, p. 15.〔同書、第一書簡第12節、11頁〕