と同 で祭 種 の 人 々 力Sで と 」 そ う と こ と の 折 住 の
農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ
―高橋財政下 における救農政策 との関連 を中心 に一
経済学教室 藤 はじめに一問題 の所在一I
高橋財政下 における救農政策 の特徴H
農村救済請願運動 の台頭 とその歴史的背景 III 農村救済請願運動 の退潮 とその原因 Ⅳ 「 自力更生」論 の政治的意志決定過程への導入V
高橋是清の自力更生論 と救農政策 Ⅵ 農村経済更生運動 と自力更生 おわ りに一昭和恐慌下 における国民統合論への一視角一 は じめ に 一 問 題 の 所 在 ― 社会科学,と りわけ歴史学 の研究者 に とつてら特 に興味 を引かれ る対象が ある。それは一見 して, 歴史の舞台 に突如 として表われ,そ
して また突如,歴
史の舞台か ら消 えてい く事象が存在す ること である。 これ らの現象 に出会 った時,歴
史家 は,こ
れを単なる歴史上の一時の偶然 として済 ますの で はな く,こ
の現象 のなかに,そ
の時代 を理解す る重大な鍵があるので はないか とい う思いにとり つかれ る。そ してそ こに,一
種 の歴史法則 を発見 したい衝動 にか きたて られ るのである。 私が本稿で対象 とす る農村救済請願運動 は,こ
の種 の歴史現象 として,は
なはだ興味深い研究素 材 を提供 して くれる。1932(昭
和7)年
6月 に開催 された第62臨時議会 にむけ,自
治農民協議会・ 日本農民協会 らが中心 とな り,農
村救済 の活発 な請願運動が展開された。 これが世 に言 う「農村救 済請願運動」である。時あたか も昭和恐慌 の真只 中であ り,農
業 において恐慌 は益々深刻 の度 を深 めていた時期であつた。 さらに, 5・15事件 に農民が参加 していた ことか ら,マ
スコ ミは一斉 に「窮 乏の農村」に注視 し,農
村 の現状 と農民 の動向に多大の関心 を示 した。その折,従
来か らの小作争 議の激化 に併行 し,ま
た,そ
れ と対抗 しなが ら急速 に台頭 して きた農村救済請願運動が,社
会の注 目を浴び,歴
史 の舞台 に押 し上 げ られたのは当然 の成 り行 きであつた。事態 は,農
村や農民の動向 に,何
か重大 な地殻変動が起 っているので はないか と想像 させ るのに十分であつた。 その期待 に応 えるかのように,農
村救済請願運動 は後述す るごとく,国
家の農村対策 に決定的な 影響 を与 えた。だが,第
63臨時議会が終 わ るころか ら,こ
の運動 は急速 に後退 し,代
わつて農山漁 村経済夏生計画樹立実行運動 (以下,農
村経済更生運動 と略記)が
展開 されてい くのである。で は 安16
藤田安― :農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ なぜ,農
村救済請願運動が急速 に台頭す ると同時 に,な
ぜ また,こ
の運動が急速 に退潮 していった のであろうか。 さらに,こ
の現象が農村経済更生運動 といかなる関係 にあったのであろうか。 本稿 は,以
上 の問題意識 の もとで,農
村救済請願運動か ら農村経済更生運動への移行過程 に注 目 し,下
か らの農民のエネルギーの噴出 と,そ
れ を利用 した国家 による農村 の組織化のダイナ ミック な運動が もつ歴史的意味 を究明す ることを課題 としている。その際,「高橋財政」の展開 とその財政 危機下 における国家 の農村対策 との関連 を中心 に,上
記の課題 に接近 してい きたい。I
高 橋 財 政 下 に お け る救 農 政 策 の 特 徴 5・ 15事件 によって,1932年
5月 開催予定 の国会 は延期 され,犬
養内閣 は斎藤実内閣 に代わ ると ともに,政
党政治 はここにピリオ ドをうち,「挙国一致」内閣へ と推転 をとげた。 だが,内
閣の交替 にもかかわ らず,財
政経済政策 の陀主であった大蔵大臣には,引
きつづいて高橋是清が就任 した。 以降,1936(昭
和11)年
の2・26事件で高橋が青年将校 の手 にかか り非業 の死 を とげるまでの財政経 済政策 は,典
型的な管理通貨制度下 におけるインフレ財政の序曲 として,日
本財政史上 の大 きなエ ポックをな した。 それゆえ,犬
養・ 斎藤・ 岡田 (岡田内閣期 の1934年 7月 3日 ∼11月 26日 までの5 カ月間 は藤井真信が蔵相,以
降1936年の 2月26日 まで再 び高橋が蔵相)の
3内
閣5年
間 にわたる財 政経済政策 は,大
蔵大 臣であった高橋是清 の名 をとって,歴
史上「高橋財政」 と呼ばれている。高 橋財政 の課題 は,大
規模 な赤字国債 の発行 とそれ を財源 とする積極的財政政策 によって,満
州事変 以降の軍事費 を確保す る とともに,昭
和恐慌 の影響 による景気 の沈滞 を回復す ることにあった。従 来 のように,財
政収支 を均衡 させ るのでな く,財
政 を国民経済 のバ ランシング・ ファクター として 活用 してい く現代財政政策が,日
本 において意識的に実施 され始 めたのが,こ
の「高橋財政」であ つた と言って よいであろう。 したがつて,高
橋是清蔵相 の財政経済政策 は,歴
史 の曲が り角 に立つ国民経済全般,お
よび 日中 戦争やアジア・太平洋戦争 につ らなる日本資本主義の進路 に大 きな影響 を与 えずにはおかなかった。ち とりわ け,昭
和恐慌 の打撃が集中 した農村 の危機的状況 は,日
本資本主義 の体制的危機 を象徴 した だけでな く,日
本 ファシズム形成 の上壊 ともなった。 それだけに,「高橋財政」 の財政経済政策が, 昭和恐慌下 の農村対策 にいかなる影響 を与 え,ま
たそれが,日
本 ファシズムの形成 といかなる関係 を有 し,総
じて,農
業 を含 めた日本資本主義の発展 にどのような影響 を与 えたのか を考察すること は,極
めて重要な研究課題であると言 えよう。本稿が,高
橋財政の展開 とその財政危機下 における 国家の農村対策 との関連 を中心 に,農
村救済請願運動か ら農村経済更生運動への移行過程 に注 目す るの も,以
上 の理 由か らである。 1929年 10月,ア
メ リカ 。ウォール街 の株価 の大暴落 に端 を発 した世界大恐慌 は,翌
年 の1930年 3 月以降,日
本経済 を混乱 の増蝸 に投 げ込 んだ。いわゆる「昭和恐慌」のはじま りである。1930年の 恐慌後 も,犬
養内閣が成立す るまでの救農政策 は,極
めて消極的な ものにとどまっていた。浜 国内 閣及 び若槻 (第二次)内
閣の蔵相井上準之助 による緊縮財政が,国
家 による救農政策展開の余地 を 狭 めていたか らである。 当時,国
家 による農村不況対策 は,米
穀法 にもとづ く米価安定対策,糸
価安定融資補償法 に もと づ く糸価安定対策お よび1930年度 に実施 された「失業救済農村漁村臨時対策事業」 を数 えるにす ぎ なかった。金解禁 の挫折 によって,も
はや これ までの緊縮財政 を継続で きない とみた井上準之助蔵 相 は,恐
慌対策 として総額2億 5千
万 円にのぼる財政投融資 を大蔵省預金部資金 の動員 によって実こ注 目 ミッ ク 財 政 る と 交替 た。 なエ の5 る財
0局
ヒ。従 して であ 日中た
(1ち し た 策が, 関係 こ と け る 目す 年3 年の 国内 地 を もと す ぎ 助蔵 て実 鳥取大学教育学部研究報告 人文 ,社 会科学 第 45巻 第1号 (1994) 17
施 したのである。具体 的には,つ
ぎのような支出項 目に明示 した金額がぶ りあて られた。(1)糸価安 定補償法 (1930年3月 ■ 日発効)に
よって市価維持 のため生糸15万円梱 の共同保管 に対す る銀行融 資の損失補償 のため政府負担額を前後2回
にわた り3千
万 円。(2)養蚕業者への応急資金 を預金部 よ り4千
万円貸付。(3)米穀貯蔵資金 を預金部 より4千
万 円貸付。(4)農山漁村失業救済貸付 を預金部 よ り7千
万円地方庁 に融資。151中小商工農業資金 (1930年5月23日付地方長官通達)を
3千
万 円預金 部 より貸付。俯)失業救済事業公債 を3,400万 円発行。9)公益質屋の貸出限度 を拡張 して預金部 は地方 債引受の形式で貸出要求 に応ず る12J。 しか し,い
ずれ も十分 な成果 をあげること はで きず,ま
す ます農業恐慌 は深刻 の度 を深 めていっ た。明 らかに,政
府 の救農政策 は農村 の実態 に比 し大 きな立ち遅れをみせていた。それゆえ,政
府 は昭和恐慌 に直面 した農村 の不況対策 として,新
たな対応 をせ まられ ることになったのである。 満州事変 とイギ リスの金本位制停止か ら3ヵ 月後 の12月 13日,若
槻 内閣 に代わ る犬養内閣の成立 とともに,高
橋是清 は大蔵大臣に就任 した。高橋是清 は蔵相 に就任す る以前か ら,こ
の不況の原因 が井上財政 による金解禁 にあると考 えていたか ら,さ
っそ く大蔵大臣就任 の当日,金
輸 出再禁上 を 大蔵省令 によつて断行 し, 4日
後 の12月 17日には日本銀行券の兌換 を停止 した。 これによって事実 上,日
本 は管理通貨制度 に移行 した。 こうして,わ
が国が金本位制 を放棄 してインフレ政策 をとる ようになると,農
村対策 もかな り積極的 に展開 され るようになった。井上財政 にみ られた財政支 出 を伴わず大蔵省預金部資金 を中心 とした低利資金融資政策か ら,直
接国家 の補助金 をテコとした財 政資金の散布 による救農政策への転換である。 この政策転換の契機 を,私
達 は1932(昭
和7)年
8 月23日か ら開催 された第63臨時議会 にみることが出来 る。 第63臨時議会 は,時
局匡救事業 をはじめ農家負債整理,米
価維持 および農村庶民金融 の拡充等 を 内容 とす る時局匡救対策 をかか げたため,別
名「時局匡救議会」 と呼ばれた。 これ らの農村対策 の なかで根幹 に位置 していたのは,言
うまで もな く救農土木事業 を中心 とす る時局匡救事業である。 事業予算 は金輸 出再禁止後 の積極的財政政策 の もとで,1932年
か ら向 こう3年
間の継続費 として支 出されることになった。臨時議会 の席上,予
算報告 に立 った高橋是清蔵相 の説明 による と,(1)国の 予算か ら6億
円,(2)政府 の低利資金融通 による地方の事業費が2億
円,(3)大蔵省預金部資金 による 融資8億
円,合
計16億円にのぼる事業規模 を予定 していた0。 しか し実際 には,軍
事費の膨張な どに より1934(昭
和9)年
度 の時局匡救事業関係予算 は縮減 され,こ
の年か ぎりで打 ち切 られたため, 結局,事
業費総額 は8億 6千
万円に とどまることになる。 それで もこの額 は,当
時の年間国家予算 の半分 に相 当す る巨額 な ものであつた“ち その際注 目すべ きは,つ
ぎの点である。すなわち,井
上準之助前蔵相が救農政策 として預金部資 金 を動員 して財政投融資 を行 ったのであるが,高
橋蔵相 も財政投融資資金 を預金部 に求 めている。 しか し,高
橋 の場合 には井上 とは比較 にな らない ぐらい大規模 な ものであ り,時
局匡救事業費総額 16億の うち半分 にあたる8億
が預金部資金融資で占めることになっていた。それだけで はない。融 資形態 も異なっていたのである。すなわち,高
橋 は時局匡救事業の財源 として,ま
ず国庫補助金 を 支出 し,そ
れで も不足 し地方団体 の自己負担 となる資金 は,大
規模 な預金部資金の地方債引 き受 け により調達す る。しか も,そ
の借入金 の利子 について も国庫 において補給することとした。以上が, 補助金 をともなわず,た
だ金融的にのみ対処 しようとした井上前蔵相 との大 きな違いである。 以上,私
は高橋財政 による救農政策 の特徴 を,井
上財政 との比較で論 じた。だが,こ
れ ぐらいの 特徴 を明 らか にした程度で は,高
橋財政下 の救農政策 の本質 はつかめない。問題 は,こ
れか ら先 の 考察 にある。本稿 の課題 に照 らして一層重要な ことは,前
述 した第63臨時議会 に現れた政府の農村18
藤田安一 :農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ 対策 の考察か ら始 めるので は不十分であるとい うこと,し
たがつて私 は,少
な くとも第63臨時議会 に法制度 を含 めた農村対策へ と結実す る直前 の農民運動 と,そ
こで展開 された農政思想 の生々 しい 相克 のなか に,高
橋財政下 における救農政策 の特徴 を理解す る鍵 を見 い出そ うと思 う。H
農 村 救 済 請 願 運 動 の台 頭 とその歴 史 的背 景 第63臨時議会が開催 された1932年は,昭
和恐慌の勃発か ら2年
目を迎 え,わ
が国の農村が疲弊の どん底 にあえいでいた時期であつた。 この年だけで も,特
別・ 臨時 と合わせて3度
もの議会 (3月 20日-25日 第61特別議会, 6月
1日 -15日 第62臨時議会, 8月
23日-9月
5日 第63臨時議会)が
開かれたこと
,お
よびその課題が農村対策に集中されたことが
,こ
の時期の世相と問題の所在を明ら
か にしていた。 しか し農村問題が,た
だちに社会的認知 を受 けたわけで はなかった。「窮乏の農村」 が社会問題化 され るには,少
な くとも次の2つの出来事が必要であつた。 第1に,軍
部 クーデターの未発 (1931年の「 3月 事件」)や
発覚 (同年の「10月事件」)に
つづ き, 1932年 2月 9日 の前蔵相井上準之助, 3月
5日 の三井合名理事長団琢磨 の暗殺事件が,農
民の窮乏 を基盤 に,農
民の子弟 を実行部隊 とす る「血盟団」 によつて行われた ことは,農
民 をテロ化 に導 く もの として社会 の注視 を受 け,マ
スコ ミは一斉 に農村 の惨状 を伝 え始 めた ことである。 第2に,こ
うした状況 を反映 して,政
局 もあわただ し く動 き, 5・ 15事件で犬養首相が暗殺 され た後,海
軍大将斎藤実 を首相 とす る「挙国一致」内閣が成立するが,こ
の内閣の下で,1932年
6月 1 日か ら第62臨時議会が開催 され るやいなや,議
会 をめが けて,農
本主義イデオロギー にたつた自治 農民協議会 を始 め とす る農村諸団体が,農
村救済 を求 めて陳情請願 の大運動 を拾 き起 こした ことで ある。 農村救済請願運動が開始 され,急
速 に運動 の高 まりがみ られ る1932(昭
和7)年
5月 は,か
の犬 養毅首相暗殺 に象徴 され る5・ 15事件 の衝撃 に社会が揺れていた真只 中であつた。5・ 15事件 の首 謀者 の一人であった橘孝二郎が,同
時 に農村救済請願運動 にも関わつていた ことか ら,事
件 と請願 運動 との関係が とりざたされた。 そのため,警
察か ら農村救済請願運動 に対 す る警戒が強め られた とはいえ,こ
の ことがか えって請願運動への世 の注 目を集 め,運
動 を積極的 に拡大 させ る一因 とな るとい う,思
わぬ効果 を与 えたのである。 こうした農村や農民の動向 は,政
局 に大 きな影響 を及ぼ さず にはおかなかった。 これ まで立 ち遅れていた国家の農村対策が,徐
々 に本格的な審議過程 に入 ることになるのである。 したがって次 に,農
村救済請願運動の性格 と,こ
の運動 に対す る政府の対応 の仕方 を考察す るこ とによって,高
橋財政下 にお ける救農政策 の特徴 を明 らかにしよう。 農村救済請願運動 は,第
62臨時議会 をはさんで前後2回の山を迎 えている。第1波
は,1932(昭
和7)年
6月 1日 開催 の第62臨時議会 にむけ,自
治農民協議会 。日本農民協会が中心 とな り,三
ヶ 条 の請願期成同盟会 の名称で行動 を起 こした ものであ り,第
2波
は,同
年8月23日開催 の第63臨時 議会 をめざ して,五
ヶ条 の署名運動 を展開 した ものであつた。 この農村救済請願運動において,常
に指導的役割を果たしてきたのが自治農民協議会の長野朗で ある。彼の筆 と思われる自治研究会『昭和農民総販起録』(1966年)に
よると,1932(昭
和7)年
4 月9日 に,長
野朗,橘
孝二郎,稲
村隆―,和
合恒男の4勢
力によつて自治農民協議会の結成 と請願 運動を行 うことを決め,請
願項 目の検討などに数 日を費やした後,実
際に署名運動を始めたのは4 月末であつたという。そして,長
野・新潟・山梨・群馬 。静岡・ 岡山・福岡など16県で行った32,000会 い の 月 開 鵬 臣 帥 げ ︲ ﹂ 脇 ﹂ 辟 F ︲ ! され 脱 齢 r 嫉 帖 諏 歳 監 ぽ 入 ウ c 昭 ケ 時 で 4 願 4 00 議 し 弊 3 が HH
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l l l l l l l l l l l l l L 肝 ﹂ ト ー ー ー ー ー ー ー ー L ト ーr ト ー ー L 鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 45巻 第1号 (1994) 19
名の署名 を, 6月
2日 の第62臨時議会 に提 出 したのである。 したがつて,第
1波の署名運動期間 は 実質1カ月余 りしかなかった ことになる。 しか も,こ
の請願運動の成果 として,第
62臨時議会 にお ぃて「時局匡救 ノ為臨時議会召集奏請二関スル件」の動議が久原房之助 ほか24名によって提 出され, っぎのような決議が採決 されたのである。「政府ハ現 内閣成立 ノ使命二鑑 ミ時局匡救二適切 ナル経済 施設 卜人心安定 ノ対策 ヲ遂行 スル為成ルヘ ク速 二更 メテ臨時議会 ヲ開キ通過流通 ノ円満,農
村其 ノ 他ノ負債 ノ整理,公
共事業 ノ徹底的実施,農
産物其 ノ他重要産業統制二関 シ必要ナル各般 ノ法律案 及予算 ヲ提出スヘ シ右決議 ス」0。 この決議 にそって,同
年 8月,第
63臨時議会で時局匡救政策 と時 局匡救事業の実施が決定 され,農村救済 を目的 とす る時局匡救事業が本格的に展開す ることになる。 で は,短
期間に,こ
れほ どの運動 の盛 り上が りと成果がみ られたのは何故 だつたのであろうか。 農村救済請願運動 を急速 に歴史の舞台 に登場 させた,農
村や農民 の状況 を一瞥 してお こう。 昭和農業恐慌 は,第
一次大戦以降開始 されていた大規模地主層 の後退過程 を,一
段 と促進 させ た だけで はない。 日本 における地主制 の広大 な ピラ ミッ ド型階層構成 の底辺部 をなす厖大 な零細地主 層が,こ
の恐慌 によって受 けた打撃 は特 にきび しい ものがあつた。ふだんで さえ,低
地代取得者で ある彼 らは,恐
慌 の影響か ら小作料収入が 目立 って減 ってい くもとで,小
作料増徴や小作地売却, 自らの自作化 のために小作農か ら土地 を取 り上 げる志向をもち始 める。小作地の取 り上 げは,小
作 農 にとつては,即 ,生
活 の破錠 をもた らし,零
細地主 にとって も,就
労 の場 の拡大 によ り破錠 を回 避す る有力な手段であつた。この時期 の小作争議 は,従
来 の小作料減免要求 を中心 とするものか ら, 防衛的性格 をもつ小作契約 の継続や,土
地取上 げ反対要求 を中心 とす る争議へ と変化 していたので ある。 それだけに,土
地 をめ ぐって小作農 と零細地主 は死 に物狂いの生活防衛闘争 を展開 した。 こ うして,昭
和恐慌 は小作農か ら自作農,さ
らに地主 におよぶ全階層の経営 を震撼 させ ることによっ て,農
村内部 の矛盾 。対抗関係 を著 し く激化 させたのである。 こうして農村で は,従来か らの小作争議 中心の農民運動で は対応 しきれない状態が生 まれていた。 「農村全体が行 きづ まり,地
主 も小作人 もともに困つていて,単
なる小作争議で は解決がつかな く なっていた」t61のである。小作料 の重圧 に加 えて,昭
和恐慌下の農民 を最 も悩 ませたのは,負
債 と重 税であった。借金 は累積 し,税
金 は滞納 し,差
し押 さえが頻々 として行 われてい ることが,農
村 の 常態 とな りつつあった。「一家心中」「欠食児童」「教員の給与不払」は社会問題 とな り,借
金のかた にわが子 を売 る「娘 の身売 り」 は,世
の涙 をさそわずにはおかなかったのである。 こうした状況 を反映 して,農
業諸団体が「窮乏の農村」の集中的表現 たる農家負債 を「農村の癌」 と呼び,そ
の摘出手術 を要求 して,運
動 を展開 しつつあつたのは自然 の成 り行 きであつた。農家負 債 のモラ トリアムが,「一種独特 の世論化 を示 しつつあつた」0の
である。 ここに,農
村救済請願運 動が,モ
ラ トリアムを中心要求 にして自然発生的な運動 を組織化 し,短
期間に全国的規模 に拡大す ることに成功 した第1の理 由があつた。 第2の理 由 として,モ
ラ トリアムの要求以外で も,請
願項 目は小作農,自
作農,地
主 (在村の中 小地主)ま
で含む全農民が合意で きる内容であつた ことである。参考 までに,第
一波の三 ヶ条の請 願項 目と第二波 の五 ヶ条 の請願項 目をかかげてみよう。 三 ヶ条請願項 目 一 農家負債三 ヶ年据置 の こと 二 肥料資金反当一 円補助 の こと 二 満蒙移住費五千万円補助 の こと 五 ヶ条請願項 目藤田安一 :農村救済請願運動から農村経済更生運動へ 政府低利資金三 ヶ年据置
,利
子補給 の こと 農民 の生活権 を確保す る様強制執行法 を改正すること 二億 円の開墾事業 を起 こし,且
開墾助成 の範囲を広むること 適当なる移民教育 を施 し海外移住助成金一人当百円,内
地移住助成金一人当百円を給付 し 且帰農移住者 には助成米一人当三斗つつ三年間支給すること 五 俸給 を物価 に平行せ しめ上下の懸隔を緩和する様俸給令 を改正すること 上掲 した三 ヶ条請願 と五 ヶ条請願 の項 目を比べると,何
点かの変化 に気づ く。 第1は,三
ヶ条請願 の農家負債 3ヵ 年モラ トリアムが,五
ヶ条請願で は政府 の低利資金 に限定 さ れ,モ
ラ トリアムの範囲が狭 められていることである。農民側が政府に対 し,モ
ラ トリアムを受 け 入れ易 くした配慮が うかがゎれる。 第2に,五
ヶ条請願 で は,「農民 の生活権 を確保す る」 (第二項)要
求 に重 きが置 かれていること である。具体的 には,農
民 の生活 および農業生産 の再生産 に必要な物的条件の差 し押 さえや,立
入 りの禁上 を訴 えている。 第3は
,五
ヶ条請願 で は,新
たに政府 による開墾事業の実施 と助成 を要請 していることである。 この項 目は,当
時,政
府が救農政策 として打 ち出 しつつあった土木事業 に対する代案 としての性格 をもっている。土木事業では,資
本家や官吏 の救済 となって真 の農民の救済にはならない,
とい う 判断が背景 にあったのである。 逆 に,三
ヶ条請願 と五 ヶ条請願 の共通点 として,第
一項 目にモラ トリアムの要求が掲 げられてい る以外 には,以
下 の諸点が重要である。 第1に,満
蒙移民政策 に賛成す る立場か ら,そ
の移住費や教育費 に対する補助金 を要請 している ことである。すでに,満
州事変 と昭和恐慌 の深刻化 によって,は
ずみがつ けられていた移民政策が, 後 の農村経済更生運動の一環 として国策化 されてい くが,こ
の方向を無批判 に,請
願 として農民 の 側か ら要求 した歴史的意味 は大 きい。 第2に,両
請願項 目とも,政
府 の補助や助成 について は,具
体的な金額 を明記 していることであ る。 ここには,政
府 による独 占資本への膨大 な補助金への反発 と,財
政危機下の国家財政 とを考慮 して,で
きるだけ実現可能な具体額 を明示 しようとする意図が感 じられる。 農村救済請願運動が,広
く農民 を とらえた第3の
理 由 として,そ
して これが本稿 の課題 に照 らし て最 も重要な点なのだが,農
村救済請願運動 の全体 を流れている思想が,農
民の生活感覚 に合 って いた とい うことである。私 はその思想 を理解する基本タームとして,「自力更生」とい う言葉 を検討 したい。 もちろん,「自力更生」と農村救済講騒 運動の「請願」とは,一
見 して矛盾 しているようで あるが,こ
の運動 のなかで は,こ
の両者が以下 のような整合性 をもって関連づけられる。 まずは , 自治農民協議会がつ くった農民食糧米差 し押 え禁止法案の声明書か ら,「自力更生」という言葉がつ かわれている次の箇所 を引用 しよう。 「すなわち農民がその生命 を保持 し,農
業 を維持 して行 くに必要 な限度の毎年の食糧米,一
人 当 た リー石,生
糸・ 雑穀 はこれに相当する額,お
よび家屋 。衣類・ 役畜に対 しては,一
切の差押 えを 禁止する法律案 の発布 を乞 うものであって,同
時 に生活維持 に必要 なる耕地の差押 え,小
作人 の上 地立入 り禁止 な どお も廃止せん とす るものである。 これにより農業 は辛 うじて破壊 を免れ,農
民 は 漸 くして露命 をつな ぐことがで きる。 これ は農民 としてはその生命線であ り,こ
れ をもし拒 まるる な らば,農
業 も農民 も滅亡 の外 な く,国
脈 もまた絶 ゆるに至 るであろう。 しか もこの保証 は古来わ が国に先例 あ り,か
つ現在で もすでに俸給生活者 には適用 され,俸
給一部 の差押 えを禁止 している。 一 一 一 〓 一 四 う の て ず 整 か 貸 役 と と 約し
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吾人 は今 日政府 の財政困難 なるを知 り,あ
えて一文半銭 の救助 を求 めん とす るものでな く,た
だ差 押法一部 の改正 を要求す る極 めて子半辱健 なる希望 を有するにす ぎない。 もしこの要求 にして容れ られんか,こ
こにはじめて農民 自力更生 の基礎が生 まれ る。」0(傍
点 は引用者) 引用の前半 は,農
村救済請願運動の五 ヶ条請願 に結実 された「農民の生活権 の確保」 を訴 えた も のであるが,「自力更生」とい う言葉 は,
この農民 の生活権が確保 されて はじめて,農
民 自身の力 に ょる更生が出来 るのだ とい う意味でつかわれている。わが国の「 ミゼラブルな零細農耕・ 農民労働 力のおそるべ き濫費」teJのなかで,自らの力 を頼 りに勤農精励一途 を唯― の更生手段 として教育 され て きた農民 にとつて,上
記 した意味での自力更生 は,比
較的,農
民の生活感覚 として受 け入れ易い 考 え方であつた と思われる。 以上,農
村救済請願運動が急速 に台頭 しえた要因 と,そ
の歴史的背景 について考察 した。次に, この運動が退潮 した原因の考察へ と移 ろう。 Ⅲ 農 村 救 済 請 願 運 動 の 退 潮 とそ の 原 因 農村救済請願運動の中心課題であったモラ トリアム は,た
とえ期限つ きであつた として も,そ
う 簡単 に実現 され うるはず はなかった。なぜ な ら,第
1に,農
村 の負債 のなかで は地主 を債権者 とす るものが少 な くな く,ま
だ当時,支
配層の一翼 を形成 していた地主勢力 と,彼
らを支持基盤 とす る 議員の執拗 な抵抗 は避 けられなかった。第2に,い
つたんモラ トリアムが農村で実施 されれば,恐
慌で同様 な打撃 を受 けた都市 における中小企業のモラ トリアムを拒否すべ き理由はないだけに,農
村・ 都市 を問わず,モ
ラ トリアムの要求 は全国的 に波及す る恐れがある。第3に,モ
ラ トリアムの 要求がすすめば,債
務 の支払 い要求へ と進展す ることが予想 され,そ
うなれば,私
有財産制度 を基 本 とする資本主義体制 その ものを揺 るがす大問題 に発展 しかねないか らである。 以上 のような理 由のために,農
村モラ トリアム は「各議員 の農村対策委員会の論議過程 のなかで うやむやにな り,結
局 は政府低利資金の貸付 けと償還延期 とい うふ うに骨抜 きにされていった」(1° のである。すなわち,農
家負債 の処理 をめ ぐる問題 は,第
63臨時議会 に「負債整理組合法案」 とし て提出されたが,負
債整理資金 ない し損失保証 の方法 について,貴
族院 と衆議院 との意見が一致せ ず,こ
の法案 は流産 して しまう。翌年1933(昭
和8)年
3月29日開催 の第64議会で,や
っ と「負債 整理組合法」が成立す るのだが,そ
の実体 は,「部落単位 に負債整理組合 をつ くらせ,政
府が預金部 か ら低利資金 をなが して,高
利債 の借換 を行わせ ようとした ものであつた。ただ この資金 も,そ
の 貸 し出 しにはい ろい ろの条件がつけられていたために,真
に救済 を必要 とす る貧農 には,そ
れほ ど 役だたなかった」(1うといわれている。それだけに,当
時マスコ ミが評 した「大山鳴動 して鼠一匹」 とは,農
村モラ トリアムの帰結 として,ま
さに正鵠 を射 た表現であつた と言 えよう。 このような農村救済請願運動の結末 を,運
動の波頭 に立 っていた者達 はどのようにみたであろう か。 まず長野朗 は,「斎藤官僚 内閣 と,政権欲 の外何物 もな き既成政党 のため空 し く葬 られ去 った。」(り と述べ,無
念 さ と現政治体制への怒 りを顕 にしなが らも,農
村救済請願運動 の成果 を次の4点
に集 約 し,こ
の運動の意義 を強調 している。 第1に,農
村救済請願運動が従来 の農民運動 を一大転換 させた ことである。すなわち,「か くて農 民運動 の行づ まりは打開され,一
部農民の運動か ら三千万農民の総販起へ,小
作争議か ら農村 自治 の建設へ向か った。」(1022
藤田安一 :農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ 第2に,政
府や政党お よび一般世論 を農村問題への理解 に向けさせた ことである。すなわち,「か くて社会運動記事 も,労
働運動中心か ら,重
点が農村問題 に移 つた。農村問題 はまた大衆小説 の中 にも盛 んに取 り扱われ るようになった。」(10 第3に ,農民 の自覚 と意識 の高 まりがみ られた ことである。すなわち,「この請願で心配 したのは, 政府 にお願い とい うことで,農
民が乞食根性 におちい らないか,こ
の点大 に注意 を払 ったが,し
か し大体 に農民の意識が高 ま り,農
民が 自ら自己の境地 を切 り開 こうとす る考 えが生 まれ,か
つ農民 が団結すれば,その力 は強い もので,何 事で もやれ る とい う自信が,おぼろげなが ら湧いて きた。」(19 第4に,前
述 したように農村モラ トリアムは成功 しなかった ものの,「この運動 の結果,一
般 に借 金 の取立てが緩和 され,無
理が利かな くな り,あ
ち こちで『あんな ことをや るか ら,一
般 に借金 は 払わんで もいい とい う風潮がで きて困る。』という苦情 を聞かされ,実際上の効果 は充分 にあった。」(り 長野朗 は,農
村救済請願運動でつかんだ以上 の成果 と一定 の確信 をもとにして,第
63臨時議会が 終わる と直 ちに,食
糧確保 の運動 と併行 し郷倉設置の必要 を唱 える郷倉運動 を展開 してい くのであ る。だが他方,長
野朗 と並んで農村救済請願運動 の指導者 の一人であ り,こ
の語康 署名 の案文 の作 成者であった 日本農民協会の和合恒男 は,長
野朗 と違 って,農
村救済請願運動 の敗北 を次のような 悲痛 な言葉で述べている。 「我等の請願 は,お
互 いに骨 をけづ るほどの苦労 として血 のでるや うな叫びをあげたのに官僚政 府 と資本家政党の最 もヅルイ手 によって,ム
ザ ンにも握 りつぶ された。 これで は泣いて も泣 ききれ ない。政府 は我々 に議会 に対 す る望 を失 はせて,直
接行動 にうつ らせたいのだ らうか?」 (1つ このように,長
野 と和合 とで は,農
村救済請願運動の評価 について若干の相違 はあ りなが らも, 両者 にはある共通 の確信があった。 それ は,前
に述べた農村救済請願運動 の成果 にもかかわ らず, 長野朗が この運動 の「最 も大 きな収穫」 としてあげた次の点である。 「現在 の内閣及政党 によって,農民が何事 を為 さん とす ることは全 く無益だ といぶ ことである。中● 農民か ら見れば,木
に縁 つて魚 を求むるが如 きかか る行動 を止 め,自
ら省 み自ら救ふの道 を講ず る 外,他
に方法 な きを覚 らしめた大 なる収穫があった と思ふ。」(19 上 の引用文 の要点 は,農
村救済請願運動 の貴重な教訓 として,政
府や政党の農村対策 に期待 をか けることは実 に愚かな ことであ り,農
民お よび農村 の更生 は自力 による外 はない,
と断 じた点 にあ る。先 に私 は,農
村救済請願運動が広範 な農民 をつかんだ理由の一つに,こ
の運動 に流れてい る自 力更生 の思想が,比
較的,農
民の生活感覚 に合 っていた とい うことを述べた。 その際,農
村救済請 願運動 に使われた「 自力更生」 とい う言葉 の意味 は,昭
和恐慌下の窮乏 した農民 に,追
い打ちをか けるかのような公権力 による米や家屋,耕
地 な どの差押 えを禁止 してほしい とす る農民の生活権擁 護 の切実な要求があ り,こ
の生存権 の確保があつて はじめて,農
民 自身の力 による更生が出来 るの だ とい う意味であった ことを確認 した。 しか しこの長野の主張 は,そ
の生存権 さえも,農
民 自身の 力で確保す る外 にない と決意 した ものであった。農村救済請願運動 の始 め と終わ りとで は,「自力更 生」 とい う言葉 の意味 は,以
上 のように変化 していったのである。 この変化 を,農
村救済請願運動 の指導者 の一人であった稲村隆― は,「真 の自力更生へ」とい う言 葉で表現 した。稲村 の論文「臨時議会 は農村 を救 うか」 において,結
びの最終項 を「真 の自力更生 へ」 と題 して,つ
ぎのように述べている。伏字が痛々 しいが,引
用 してお こう。 「我々 は,農
民組合 の自主的組織 によって米飯 の差押へや立入禁止 を実力 によって廃絶 しなけれ ばな らない。 自主的な負債整理組合 を組織 して,高
利貸 の差押へ と競買 を××しなければな らぬ。 又悪税撤廃運動 によって,税
制 の根本的改革 をや らねばな らぬ。……すべては農民 自らの団結の力 も る 村 い 言鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第45巻 第
1号 (1994) 23
だより,自
力更生す る他 にはない。而 して我々真 に目覚 めて ×Xの
力 によって自力更生せん とす る ならば政府 は之 に対 して ××を加へ るにきまっている。今や新 しき××××の前 に我々 は立ってい る。それをなす もの は我々農民の団結力 と実力 あるのみである。真 に農民が 自らの力 によって夏生 することが出来 なければ,人
類 の文明 は無気力 と退廃 と堕落 の中に敗滅す るであ らう。」。9 農村救済請願運動 は,こ
こにピリオ ドが打 たれ,こ
の運動の リーダー達が述べたように,彼
らの 基本的要求 は受 け入れ られず に終わった。 その結果 をどう評価す るか は,彼
らの立場 によって幾分 違つていた ものの,「真 の自力更生」への決意 は共通 した ものであつた ことは確認 しうるであろう。 もつ とも,こ
の点 は次 に検討す ることになるが,皮
肉な ことに,政
府が農村救済請願運動 に対応す る救農政策 として打 ち出 して きた もの も,実
はこの「 自力更生」運動だったのである。一方で,農
村救済請願運動の リーダー は,自
分達 の主張す る意味での自力更生が,政
府の政策で は実現 されな いのをみて失望す るが,他
方で は,こ
の運動 に参加 した多数の農民や一般 の農民達が,政
府 による 言葉上の「 自力更生」の幻想 に迷わ され,政
府 の救農政策 に望みをもち始 めてい く。 ここに私 は, 農村救済請願運動が第63臨時議会 の終わ り頃か ら,急
速 に退潮 してい く根本原因があるのではない か と考 えている。 こうして,農
村救済請願運動 に示 された農民の現状打破 をめざす下か らのエネルギー を,政
府 は 上か らの自力更生運動の基本線 に吸収 してい くのである。 この点が今後,本
稿 の論理展開にとって 重要である。高橋財政下の救農政策 の特徴 を,私
はこの「 自力更生」 を基本 ターム として考察 しよ うと思 うか らである。 もっ とも,「自力夏生」 とい う言葉 は,「隣保共助」 とともに,
この時期か ら盛 んに使 われ始 めた 救農政策 の合言葉であつたか ら,こ
の用語 を使用す る者 の立場 によって,さ
まざまな意味 をもた さ れていた ことは言 うまで もない。 そのため,「自力更生」を抽象的 に論 じては,全
く意味がない。 し たがって,私
は先 に農村救済請願運動 において使 われた「 自力更生」 とい う言葉 の具体的意味 を明 らかにした と同 じように,政
府が使用 し,後
に農村経済更生運動 に接続 されてい く「 自力更生」 の 意味 を確定 しつつ,論
をすすめてい きたい と思 う。まず,農
民の この下か らの農村救済請願運動が, 国家の政治的意志決定過程 に吸収 されてい くプロセスの考察か ら始 めよう。 Ⅳ 「 自力 更 生 」 論 の 政 治 的 意 思 決 定 過 程 へ の 導 入 5・ 15事件直後 の混乱 の中で,1932(昭
和7)年
5月26日,急
いで組閣 を終 えた斎藤内閣 は,農
村問題 に対 す る基本政策 を持 ち合わせていなかった。 したがつて, 6月
1日 か ら開催予定の第62臨 時議会 は,斎
藤内閣 に とって余 りにも急であ り,十
分 な準備 な しに議会 に臨 まざるをえなかった。 このように,政
府 の対応が もたついている間に も,す
でに地方 レベルで は,種
々の農村不況対策 が試み られていた。.昭和農業恐慌 の荒波 をまともにかぶ つた農村や農民 の窮乏 は,そ
の現場で活動 している農業諸団体 に,な
ん らかの行動 を起 こさざるをえないほ ど,深
刻 な危機感 を与 えたか らで ある。だが,全
農村各層の窮乏 と農産物 の価格暴落お よび租税公課負担 の問題 は,農
民の自助努力 によって農村 内で解決す ることは不可能 な ことは明 らかであった。そ こで必然的 に,農
村不況対策 を政府 に求 める農民の世論が形成 されてい く。なかで も,中
心 となって農村 における不況対策 に取 り組 んでいたのが系統農会であ り,「自力更生」とい う言葉 の創始者 としての栄誉 を担 うことになる。 自力更生 とい う言葉 の始 ま りは,兵
庫県農会 の幹事であつた長島貞が「 自力更生」のスローガ ンを 造語提唱 し,1932(昭
和7)年
5月,兵
庫県農会が県下 6ヶ 所 において,農
人 自力更生祭 なるもの藤 田安一:農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ を開催 した ことにあるとされている90ち 十分 な準備 もな しに
,第
62臨時議会 に臨んだ斎藤内閣 は,時
局匡救 のための法律及び予算案 を提 出すべ しとい う決議 をただ唯― の成果 として, 2ヵ
月後 の臨時議会 を待つ ことになる。 この第63臨 時議会 にむけて,す
でに地方 レベルで展開されていた農民の自力更生運動 を逆手 にとり,ま さに「わ た りに船」 として内閣のスローガ ンにまで高め,安
あが りの農政へ と農村救済政策 を導いて力があ ったのが,外
な らない高橋是清蔵相であつた。第62臨時議会 の閉会直後,地
方長官会議 (1932年 7 月18日開会)に
臨んだ高橋蔵相 は,つ
ぎのように述べた。 「全国各地 よ り政府 に対 し救済 を求むるもの非常 に多 きに至 った ことは諸君 もご承知 の通 りであ るが,数
ある救済要望中には徒 に偏狭 なる見地 に立脚 して国家的考慮 を欠 くものが少 な く無 いこと は誠 に遺憾 とす る所であ ります。殊 に近来著 しきは国庫 の負担 を前提 として自己又 は或団体 の救済 更生 を求 めん とする気風が漸 く各方面 にび慢せん とすることであ りまして,常
に国家全体 の利害 に 専念するを要す る政府 として到底広 くこの種 の要望 に応ず ることを許 さざるはい うまで もない所で あるのみな らず,い
や し くも国家社会 に及 ぼす損失 と犠牲 とを意 とせず して自己救済 をのみ要望す るの思想が一世 を風靡す るにおいて は,国
家 は逐 に破産 に陥るの外 ないのであ ります。いわんや今 日は満蒙問題 の解決 を控 えたる国家非常の時であ ります。 しかれば国家 は全力 をつ くして内外の困 難 に善処す るの覚悟が肝要であ ります。すなわち地方にあってはまず以て自助 の精神 を鼓舞す るに 努 め られ 自力更生の道 を請ぜ しめ,各
地方 に応 じてその特徴 とす る産業 に対 しそれぞれ適当なる奨 励指導 をなし,よ
って以て国民が発奮努力 この難局 に善処する様 その意 を用い られん事 を望むので あ ります。」91)(傍点 は引用者) 自力更生 を強調す る高橋是清 の この思想 は,今
に始 まったわけで はない。以前か ら,農
村疲弊 の 根源 を農民の精神的教養や知識 の停滞 に求めていた高橋 は,農
村救済政策 の基本 を次のように考 え ていた。 「本 当に更生 させ るための救済の対策 はなかなか難 しい ことである。農村 に限 らず,失
業者の間 題で も,無
意味な救済 はしてはな らぬ。 それ は相手 に間違 った安心 を与 えるか らである。何事 に も 必要 なのは親切気である。皆が親切気 を以て助 け合 つてゆ くことである。」9り 後述す るように,若
き高橋 の農政思想 には彼が農商務省 に在職 していた当時,前
田正名編纂の『興 業意見』か ら受 けた影響 の大 きさを無視す るわ けにはいかない99。 要点 を先 どりすれば,高
橋是清 が『興業意見』か ら学 んだ自力更生論 とは,つ
ぎの内容 をもつ ものであった。すなわち,農
村 とは いって も窮乏の状態 は種々である。 それ を無視 して,い
きな り中央か ら画一的な政策 を地方に押 し つ けて もムダだ。 そんな ことをする と,農
村が 自分 の力で克服 しようとす る能力 を失 うて,中
央 に 依存す るような体質 になって しまう。 これで は,い
つ までたって も農村 は真 に立直 ることはで きな い。 まず基本 は,農
民・ 農村 自身が「 自奮 自励」の気持 ちをもつ ことが大切である。 その うえに立 つて,政
府 はそれぞれの農村 の事情 にみあった救済援助 をすべ きである。 このように高橋 の自力更生論 は,客
観的 には,後
述す るごとく高橋 の意図 とは全 く違 った意味で 農村経済更生運動 を担 うのであるが,高
橋 の主観で は,財
政膨張 による財政の危機 を,こ
れ以上 に 進展 させずに農村 を真 に恐慌か ら立 ち直 らせ,全体 として 日本経済 の景気浮揚 につながってい く「一 石二鳥」の妙薬であ り,こ
の考 えこそが,終
始,高
橋是清 の自力更生論 の核心であった。 そして, ついに1932年 7月 における斎藤首相 の講演 によって,自
力更生 の提唱 は次第 に鮮明にな り,斎
藤 内 閣の一枚看板 になるまでに定着 してしゝく。一方それ とは逆 に,こ
れ まで農村救済請願運動 の第1の スローガンにあげ られていた農家負債モラ トリアムの叫びは,徐
々 に後退 し,「時 あたか も農村窮乏こ
折
殖
一隊
の深 力 ヤゝ が開 大な 「 底 所 とこ 済 れ る 第 とは そ の で つた 意見 者)。 け の著 「 も, 工業 方 は の前 閣で つた 第 置か 政支の 算案 を まさに「 ゝて力 が (1932と
F7
通 りであ 無い こと 体 の救済 の利害 に ない所で み要望す わんや今 内外の困 す るに 当 な る奨 望 むので 弊 の うに考 え 業者の間 何事 にも 纂 の『興 高橋是清 本∫とは 方 に押 し 中央 に はで きな うえに立 意 味 で 以上 に い く「一 して, 斎藤 内 第1の 鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 45巻 第1号
(1994) の深刻化 によ り,指
導者 は何か を求 めて農民 に曙光 を与 えん としていた折柄 なるため,かか る語(自 力更生 をさす一引用者)の
発生 は電波 のごとく全国津々浦々に侵潤 していつた。」 9°のである。 ぃょぃよ1932年 8月23日,先
の国会 における決議 どお り,第
63臨時議会(いわゆる時局匡救議会) が開会 されたが,財
政報告 に立 った高橋蔵相 は,救
農土木事業 を中心 とす る総額16億円におよぶ膨 大な時局匡救予算 の説明 を行 う際 にも,つ
ぎのように付 け加 えることを忘れなかった。 「今 日の時局 に善処す るには,国
民が単 に政府 の施設 のみに依頼す るが如 きことがあっては,到
磨所期の効果 を収 むることが出来ないのであ りまして,国
民 自身 自力更生の意気 を以て,難
局打開 に遭進す るの用意がな くて はな らぬのであ ります。」9° (傍点 は引用者) ここには,高
橋蔵相 による救農政策の基調 を読 み取 ることがで きる。農業補助金・ 交付金の支出 を好 まし く思 っていなかった高橋蔵相 に とって,救
農土木事業への財政支出は恐慌か らの農村の立 ち直 りに とり,い
わば応急的にやむをえぬ手段であるのに対 し,自
力更生 による農村対策 こそが, 恒久占手段 に据 えられなければな らなかったのである。V
高橋是清の自力更生論と救農政策
ではなぜ,こ
れほ どまで,高
橋蔵相が 自力更生 にこだわつたのであろうか。性急 に高橋が農村救 済を軽視 していたか らだ,
とい う結論 を下 して はな らない。 それには, 2つ
の理 由があつた と思わ れる。 第1に,『興業意見』が高橋蔵相 の農政思想 に与 えた決定的 ともいえる影響である。『興業意見』 とは,1884(明
治17)年に前田正名の編集 によつて刊行 された全30巻に及ぶ大書であ り,「松方デフ レ」政策下 の不況 にあえぐ国民生活や農工商業 の現状 を,詳
細 な調査 によって描 きだす とともに, その貧窮 と疲弊 の原因 を明 らかにし,下
か らの地方産業 の振興策 を体系的かつ具体 的に立案 した も のであつた。 高橋是清が農商務省 に在職 し,彼
が同 じ省 の先輩 にあたる前 田正名 に協力 して『興業意見』 を作 った当時か ら,自
力更生 こそが農村救済の基本であるとの確信 をもっていた。高橋 は言 う一「興業 意見書 に盛 られた自力更生 についての中心観念 は,今
なほその生命 を持 っている」9° (傍点 は引用 者)。 これ は1933(昭和8)年
12月に行われた内政会議の席 における高橋是清 の発言である。 とりわ け昭和恐慌下 の「農村救済」「農村更生」が時代 の合言葉 になった時,高
橋是清 の頭 の中には,「興 業意見 に盛 られた自力更生」 こそが,農
村経済回復 の根本 と映 ったにちがいない。『評伝高橋是清』 の著者である今村武雄 は言 う。 「彼 (高橋是清一引用者)が
『殖産興業 の恩人』 として尊敬す る前田正名の『興業意見』にして も,そ
の内容 を一言 にしていえば,自
作農維持 と中小商工業 の振興策 にす ぎず,資
本主義的な近代 工業の発展 に伴 う犠牲 をす こしで も軽 くしようとす る努力 にほかな らない。 けれ ども,前
田の考 え 方 はす こぶ る精神主義 に偏 し,農
民 には一層の勤倹力行 を説 く結果 になった。高橋 の農業観 にはこ の前田の影響が強い。だか ら,斎
藤内閣の蔵相 として,農
村救済 の問題 に直面 した ときも,岡
田内 閣で農村窮乏の声 を聞か された ときも,彼
は終始一貫 『農業の自力更生』 を説いて一歩 も譲 らなか った。」(2つ 第2に,高
橋が 自力更生 に固執 した理 由 として,1930年
代 の財政危機下での大蔵大臣である彼 の 置かれた立場があげられ る。すなわち,昭
和恐慌 の影響 による財政収入の減少 と恐慌対策 による財 政支出の増大 との矛盾 を,大
蔵大臣 としていかに調整す るか とい う問題である。 とりわけ,満
州事 乏藤田安一 :農村救済請願運動か ら農村経済更生運動ヘ 変 を契機 とす る軍事費支出の急膨脹 と
,農
村対策 としての時局匡救事業 の予算化 は大規模 な赤字国 債の発行 を余儀 な くさせ,「恐慌 の財政」は「財政 の恐慌」へ と,い
きおい財政危機 をよ り深刻化 さ せていったのである。 ここで,こ
れ以上 の財政危機 の進行 を幾分かで も緩和 しようとすれば,国
防の充実 を是認す るか ぎ り,他
方の農村対策費 を抑制せ ざるをえない。 そのための理論的根拠 に,高
橋 は自力更生論 を活 用 した とみることがで きる。高橋蔵相 は農村対策 に割 く財政負担 を可能な限 り縮小 し,軍
部 の圧力 の もとで,軍
事支出の増大 に対 して はそれを認 め,自
力更生 によって農村救済 と軍備拡張の双方 を 調和 させ,妥
協 をはか ろうとしたのである。事実,第
63臨時議会 は,救
農土木事業 と農村経済更生 運動 を2本
柱 とす る時局匡救事業 を,全
国的に展開させ る契機 となるものの,こ
のうち救農土木事 業 は, 3年
間 とい う期限付 きであったが,事
業 の継続 を望 む農民の要求 にもかかわ らず,結
局,軍
事費 の膨張のために押 し切 られたかたちにな り,1934(昭
和9)年
には打 ち切 られて しまう。 それ 以降 は,自
力更生 を基調 とする農村経済夏生運動が主役 にな り,農
村対策 として強力 に推進 されて い くのである。 Ⅵ 農 村 経 済 更 生 運 動 と 自力 更 生 農村経済更生運動 は内閣 を総本部 としなが ら,文
部省社会教育局,内
務省社会局,農
林省経済更 生部がそれぞれかかわ るが,な
かで も,主
力部隊 となったのが農林省経済更生部であつた。 この経 済更生部 とい う名前 は,「当初 はその ものズバ リ自力更生部 とい う案であったが,自力更生 は本来民 間側がい うべ きことで,政
府がそれ をいったので は趣 旨にそ ぐわない という意見が出て,結
局経済 更生部 におちついた とい うエ ピソー ド」99(傍
点 は引用者)を
もつ,い
わ く付 きの ものであった。 しか も,自
力更生 をスローガ ンとす る時局匡救政策 は,決
して順調 に進 んだわけで はない。農林省 の経済更生運動 と内務省 の国民更生運動,文
部省 の国民教化運動 との相互対立,セ
クショナ リズム を含 みなが ら推 し進 め られた。 この矛盾が表面化 したのが,内
政閣僚会議(以下,内
政会議 と略記) の審議過程 においてであった。 内政会議 は,1932(昭
和7)年
10月に開催 された五相会議●9につづいて,次
の1934(昭
和9)年
度 の農政施策 と予算編成 との調整 のために,1933年
11月 7日 を初 回 として12月 22日まで,つ
ごう8 回開催 されている。 この第三回会議 (1933年 12月 5日)の
席上,後
藤文夫農相が農村への積極的な 政府施設 の必要性 を説いた ところ,高
橋是清蔵相 は自己の主張す る自力更生論 の立場か ら,「農村対 策の実行 に当たって は農村 の自覚 を促 し,誘
って行 く様 にしなければな らぬ。農村 は各地夫々条件 が違 う故,一
概 に一律 な農村対策 を樹てて押 しつけるも意味がない。」。ωとの意見 を述べた。 この高 橋蔵相 の主張 に対 して,三
土忠造鉄相 も,「政府 の農村対策 中には,や
らず もがなの もある。1か ら 10まで政府 の力で救済すべ きで はない。」。1)と 述べ,蔵
相 に賛意 を示 した。 これ に対 して荒木貞夫陸 相 は,「農村問題 を予算 を伴わない精神作興位 で,お
茶 を濁 そうとす るような事 は,絶
対許 さぬ。」O動 と怒 りをあ らわにして,後
藤農相 を援護 した。 こうして内政会議 は早 くも,高
橋蔵相・ 三土鉄相 と後藤農相・ 荒木陸相・ 永井拓相 との間で,鋭
い意見 の対立 をみた・ °。 しかし,こ
れを当時のジャーナ リズムが,「自力更生派」と「積極派」との 対立 として描 き出 したい。ことか ら,現
在 もその ように言われている。確かに,こ
の両派が鋭 く対峙 した ことはまちがいない。 しか し,自
力更生 をめ ぐる論議 に関 して は,両
派 を機械的 に区別 し,自
力更生論 を主張す る派 と,そ
うでない派 との対立 としてみるのは誤 っている。少な くとも,農
相で鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 45巻 第
1号
(1994) ある後藤文夫 は自力更生 を主張して,「 (農村 の)疲
弊状態が存在す るとせ ば,こ
れが救済策 の枢軸 をなす自力更生の仕組 に就て,こ
れを如何 なる形 の下 に置 くべ きや考察す る必要が ある。」・ °[( ) は引用者]と
言い,ま
た「 自力更生 をさせ るに就いて は,そ
の障害 となるべ きものを先づ以て除去 することが必要である。」°°とも述べている。 つまり,高
橋是清 の自力更生論 と後藤農相 のそれ との違い は,自
力更生のすすめ方にあった とみ るべ きであろう。すなわち,後
藤 は自力更生のためには,ま
ず農村救済の事業 を中央か ら積極的に 誘発することが先決問題であると主張 したのに対 し,高
橋 はで きるだけ中央 の働 きかけを少な くし て,地
方の自発的意思 にもとづいてすすめることを提唱 したのである。 結局,1934年
度 の予算 をみるか ぎり,時
局匡救費が大幅 に削減 され,農
林省の新規要求 として は 修錬農場 (いわゆる「農民道場」)の
設置が認 め られたに とどま り,高
橋蔵相 の主張が買かれた形 と なつた。 こうして,内
政会議 は約 2ヵ 月間,時
に中断をはさんだ とはいえ,前
後8回
にもわたる会 議 を重ねたすえ,高
橋蔵相 の自力更生論が他 の閣僚 を圧 し,「農村救済 を必要 とす るも,国
家財政 の 現状か らすれば,も
うこれ以上 どうにもな らない」 とい う鉄 。内相の見解 に裁かれて,五
方針の覚 書を作成 して幕 を開 じたのである。つ。この時の覚書 きとは,(1)農民精神 の作興,(2)農村共同体組織 の徹底,(3)農村負担 の軽減,(4)重要肥料 の統制,(5)蚕絲対策 の5項
目がそれであった。上記五方針 の覚書 きには,後
藤農相 の見解が反映 されているとはいえ,(1)(2)に示 されているように,内
政会議 は予算 を伴わない「 自力更生」の貫徹で もって終わつたのである。 ともあれ,自
力更生 をスローガ ンとす る農村対策 は,高
橋財政下 における都市 と農村 を,著
しい 経済的不均衡 の状態 に陥れた。高橋財政 による財政膨張政策 は,軍
需発注の増大 を背景 として都市 における重化学工業 を著 し く発展 させた。い ま,高
橋財政期の重化学工業 の発展 をみる と,1931年
から1936年の間における生産額で,金属工業 は4億
3487万 888円 (1931年 )から21億3071万9890円 (1936 年)へ
と約5倍
の伸 びを示 し,機
械工業 は4億
4334万 741円 (1931年)か
ら16億 925万 3765円 (1986 年)へ
と約4倍
増大 し,化
学工業 は8億
2552万 153円 (1931年)か
ら22億 236万 2312円 (1986年)へ
と約2.5倍に伸 びた。その結果,重化学工業 の生産額 は1931年の17億 373万 1782円か ら1936年 59億4233 万5967円へ と約3.5倍に増大 し,重
化学工業生産額が全工業生産額 に占める割合 も,1931年の32.9%
か ら1936年の48.5%に
増加 した°9。 と同時 に,こ
うした満州事変以降の急激な産業 の発展 は独 占資 本 を一層強化 し,財
閥の支配 を拡大 させた。特 に,重
化学工業分野への進出 は著 し く,石
炭,金
属, 機械,化
学工業 の諸分野 において,三
井・ 三菱・ 住友等の主要財閥がその支配 を圧倒的な ものにし ていった。 しか し,こ
うした都市のインフレ景気 とは対照的 に,農
村 の窮乏 は依然 として深刻であつた。昭 和恐慌 による農業生産額 の急落 は激 し く,そ
の回復 は遅々たるものであつた。例 えば,農
業生産額 (農家庭先価格 による当年価格評価)が
昭和恐慌前の1929年の水準 に回復す るのは,米
や麦で1935 年のことであ り,雑
穀や果実で1986年,野
菜や豆で は1937年まで待 たなければな らなかった。結局, 農業生産総額で は,1929年
(35億9800万 円)の
水準 に戻 るのは1936年 (36億 6000万円)の
ことで あ る。9ち この間,農
村 は都市 とは逆 に未曾有 の農業恐慌 にあえぐことになったのである。 このように,「自力更生」の名 による農村対策 は,都
市 に対す る農村 の不況 を相対的に深化 させた だけで はない。農業 と対照的な軍需 による重化学工業 の発展 と財閥の繁栄が,財
閥に対す る国民 の 反感 をつの らせ るとともに,農村問題 を解決す る力のない議会政治への不満 を極度 に高めていつた。 こうした情勢 を扇動 し,右
翼や青年将校 による一連 のテロや クーデターを利用 しなが ら,軍
部 を中 心 とす るファシズム勢力が,農
村 を自己の政治的支持基盤 にとりこみつつ,権
力 の中枢 を掌握 して藤田安一:農村救済請願運動 か ら農村経済更生運動ヘ い くのである。以上 の意味において