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村山籌子--「最晩年」の鎌倉時代(疎開時代)---香川大学学術情報リポジトリ

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村 山

「最晩年」の鎌倉時代(疎開時代)

山 崎

第1回 話し手 宇野重吉夫人(寺尾志保,旧姓 関口)

(柿ノ木坂のご自宅にて) (宇野重吉夫人のこと) 村山事子の死の前後,最期の看病古土いそしんだのは宇野重吉の夫人であった。 知義が朝鮮から帰国して,夫婦としての共同生活にいそしみ,重病の静子を看病 した日々,かの女の「下」(しも)の世話を焼いたのは身内ならぬ宇野夫人であ る。それは痩せおとろえた自己の肢体を知義や亜土にもみせたくなかったからで ある。そして,そういう関係を実現させたのは次のような事情によったのである。 知義が亡命先の朝鮮から帰国して病人の章子と同居生活をはしめるとき,その 家を提供して自らは隣家にしりぞいたのは陣ノ内鎮であった。しかも陣ノ内は宇 野重吉一家をもおなじ家に住まわせて,章子の療養のために,もとの家には村山 一・家のみを住まわせたのである。村山一家にとり,1戸建ち2階家に−・家3人, 常子の療養にとっても好都合なことであった。ところが残念にも,陣ノ内と宇野 一・家の住む,すぐ脇の家が火事となり,陣ノ内一・家と宇野一・家が当初の家である 村山一・家の借家にころがり込んでくることになり,2階の一周に村山一・家,階下 の奥に陣ノ内家,玄関の部屋に宇野−・家が居住することになった。この手狭な1 戸建ちに3つの家族が同居するのだが,重病の章子の世話を一階下から階段を 往復するかたちで宇野夫人のみが身の廻りの世話を−−−するのが自然ななりゆき となったようである。章子は下血をする苦しみ,痩せ細って男性である知義,ま してや長男の亜土に世話を焼かれるのは好まないという事態になって行った。宇 野重吉によれば,「苛子さんはああいう人だから,余計にそうであると思う。ぼ くは2階に上がることは遠慮して,いちども行かなかった」というのである。

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「ああいう人だから」というのは育ちのよさ,育ちのゆたかさ,高畠な恥じらい ということである。 そういうことで,宇野夫人はもともと章子とは全く縁故もなく,つきあいもな かったのに,最晩年の章子と接することになった。これは,ごく短期間であるに もかかわらず,死にゆく筆子と接した唯一・の「他人」としての宇野夫人の証言の 貴重さを示唆していよう。私はそのことから,夫人にお目にかかって,章子の最 後の日日を伺いたいとつよく思うようになった。宇野重吉にも何度か,そのこと をお願いした。「女房は章子さんをそんなには知らないよ」といわれつつも,そ れほどいわれるなら,「女房にいってみよう」といわれた。しかし,宇野は日頃, 自分の妻をおもてに出すことをしない男性として有名であり,さまざまな人名録 や紳士録でも妻のことを全く記述していないように,本来の宇野は妻を私のよう な人間に逢わせるような人物ではないのである。私が柿ノ木坂の宇野の家に電話 をかけて夫人に面会を申し込んだときも,どうして電話番号を知っているのか, ということから問題になったくらいである。したがって,すぐにはお逢いできな かったが,夫人が重吉七何度か相談をかけ,宇野が例外的に,それこそ異例にも 夫人を説得して,夫人は私に直接面談することを了承されることになった。これ は宇野の萄子さんへの愛情,そして私の章子さんへの思い入れを理解していただ いたとしか思えない。まことに,ありがたい聞きがきであり,貴重な証言であっ た。宇野重吉という人物の大きさ,深さがこういうことにも示される。電話番号 を教えて下さったのは宇野自身であり,「それならば女房に逢ったらよい」とし たのも宇野であり,それに半信半疑で,宇野にみずからチェックしつづけたのが 妻のほうであった。 浩子の鎌倉での生活の前後をもっともよく知る人は,じつは陣ノ内鎮である。 その証言は次回にのべたい。しかし,陣ノ内は章子の看病を直接に実行したひと ではない。 宇野重吉の本名は寺尾信夫であり,夫人は寺尾夫人であるので以下はTとする。 夫人は寺尾聴の母でもある。やまさきはイニシアル,Yとする。 Y 鎌倉にはいっ頃,住まわれることになったのでしょうか?

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T 宇野が昭和21年の春に復員し,その復員後,鎌倉に行きました。火事で焼け だされて,私たちがころがり込んだため,病状がすすんだと思います。階下 にいて,2階に上がって,世話をしました。世話をするために,ふたりの子 どもたちを1∼2カ月の間,薄田研二さまのお宅にあずけました。 Y どんな世話をなさいましたか? T 看病的なお手伝いだったと思います。 Y 章子の病状はどんな状態でしたでしょうか? T ころがりこんだときは,まだ,ときに起きあがって車子さんは煮炊きなどを していましたね。冷房の完備のないときですから,2階ではつらかったので はないか,と思います。私たちがころがりこまなければ,階下で養生できた のに,と申し訳ないことでした。 Y 喀血はどうでしたでしょう? T 自分のいました3カ月間に喀血などはしたことばありません。はじめは何の 病気かも知りませんでした。ずうっと知らなかったのです。 Y 病名はご存知でしたか? 正確な…。 T いいえ,知りませんでした。しかし,血便がでましてね。あれは腸結核では ないか,と思ったことです。亡くなられる1カ月前くらいから,かすれた声 で話をなさいました。ノドだけで,ものをいうのです。それでも結核という 話はきかなかったのです。子供をあずけたのもうるさいからでして,うつる などとは考えも及ばなかったはどです。 Y 話は変わります。笥子に最初にお会いになったのはいっなのでしょうか? T それは昭和13年8月ではないかと患いますね。宇野と結婚したのが,その年 の4月でした。その8月に,アイサツにまいりました。下落合[下は「上」 の記憶ちがいと思われる]の玄関でお巨引こかかりました。そのとき,章子さ んは玄関で掃除をしていました。宇野が復員してからもしばらくはお目にか からず,鎌倉で久し.ぶりにお目にかかったのです。最初のときほ髪は短かっ たのですが,約8年を経た鎌倉では,ご病気にもかかわらず,このときは髪 が長く,じつにきれいでしたね。それと同時に,大変痩せておられるのに気 付きました。

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Y 思い出に,どんなことがございましたか? T いろいろなことに意見をおもちでしたね。氷をガーゼでつつんで,それで顔 をなでまして,いまにこういう美容法がはやるわよ,といっていました。章 子さんのいってくれた,いくつかの方法が今でも有効に思います。例えば, イボなんですが,ナスのへ夕でこすると,とれるといっていました。それを 私も実行しましたら,本当にとれました。 Y かの女はどんなことをっらがっていたと思いますか? T そうね,村山さんが朝鮮に行って,1人ぼっちで,つらかったといっていま した。その時分のことだと思いますが,だれかのうちで,そのうちのひとの お茶ワンで食事をして,草子さんが食べおわるのを待って,その茶ワンをそ のひとがもってゆかれたのですね。どこかへ・。とってもつらかったと笥子さ んは申しました。あのような育ちの方ですから,そういうことがひじょうた つらかったのです。 それと,ある夜のことです−。これは鎌倉でのことですが,メロンがありま した。そのメロンを,章子さんは「自分はもう食べられないから,食べてい るのをみたい」といいだされて,私に食べてもらいたいといわれたのです。 私はやむなく,それをいただいたのです。大変っらかったのです。かの女は 食べている私をじっとみつめられました。[そのときの宇野夫人はじつにか なしそうなお顔であって,やまさきはそれを忘れることができない。] Y かの女が鎌倉の海岸を散歩したりしたことばあるのでしょうか? T 私はそうしたことを知りません。しかし,それ以前は知りませんので。自分 がいっしょに住んだのは,はんのわずかな期間ですから。 Y 血便はいつごろからでしょうか? T 亡くなられる1週間前くらいからと思います。流れるような,かなりの出血 でした。しかし,ご自分は知らなかったのではないかと思います。そして, 私にそういうことをさせるのはつらかったのではないかと思いますね。 Y 亡くなられる予感はいつでしょうか? T それは1週間くらい前からです。亡くなられたあと,下の部屋で納棺をいた しました。私もお化粧をしてさしあげました。陣ノ内のおくさまもおられま

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した。しかし,この方は,ご病気がちでしたので,華子さんの世話は自分の ほうがしたことになります−。亡くなられた直後に,大勢の人が弔問にみえま した。 Y 章子について,そのはか,印象的なことをお伺いしたいのですが……。 T 劇団の人からきいていた章子像と私がじかに接して知っている幸子像とはち がいますね。 Y 劇団の人の籠子像とはどんなことでしょうか? T …・・・[微笑してこたえられず。] Y よろしければ,教えて下さい[としつこくお伺いした]。

T

[無言で何もおっしゃられない。]ともかく,私の知っている章子像の ほうが好きです。 Y それはどういうちがいでしょうか?[と伺ったが,ついにこたえられなかっ た。] T 貸子さんの印象ですが,とくに笑うと,あどけないお顔でした。首をふって お笑いになると,1本,左側の歯がぬけているのがみえて,じつに可愛らし かったのです。 Y 陣ノ内さんの所の火事はどんな原因でしょうか? T 失火です。あの家に陣ノ内さんはカメラをもち,暗室もあった筈です。全焼 してしまい,すべて失われてしまいました。 Y 陣ノ内さんはお元気ですか? T 横須賀に在住されています。陣ノ内鎮。鋲はオサムとよみます。奥様は陣ノ 内すみ子さん。声楽家ですね。たずねられましたか? 是非,おたずねにな られてはどうか,と思います。 私は,章子さんの発病があと10年経過したのちであれば,治ったのに,と いっも思うのです。残念です。本当に残念なことです。[このことを宇野夫 人はくりかえし,のべられたのであった。] Y 村山さんは今日,代々木病院を退院されます。偶然です。トムさんのお見舞 にゆかれましたか? T いいえ,行っておりません。入院のことはきいておりました。さいきんの宇

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野も演出の仕事で徹夜が重なって,行っておりません。今回は……・。 Y ありがとうございました。身にしみてうれしく思います。 T 私はあまりひとにはお逢いしないのです。笥子さんのこともよく知っていな いのでお役にたちますかどうか……。 Y 失礼なことですが,奥さまはいっお生まれでしょうか? T 大正6年6月12E】です。 (この日の印象から) 宇野夫人は和服を召されてやまさきを迎えて下さった。それは正装というに近 く,役者が舞台にすっくと立つという思いが感じられた。そして大変やさしく, 気配りもゆきとどいて,心のこもった発言をされる方で,また物静かにお話をさ れ,萄子の晩年をこういう方が看取られたかと思うと,私はそれだけで満足感を おぼえた。死にゆく鱒子が知義への造言で,形見わけに,宇野夫人の名をいちば んに挙げたのは当然であると思われる。やまさきは笥子を知る多くの方から聞き 書きをくりかえしてきたのだが,宇野夫人のように静かに,しかし,ある毅然た る姿で語られたことはすくなく,短くはあるが,得がたい証言である。章子研究 において,こういう充実した時間をもちうることば無上のよろこびである。 なお,村山知義が宇野重吉にとっては演劇上の「師匠」であり,劇団での頭領 である事から,章子は宇野にとっては,近よりがたい奥さまであり,やまさきに 対しても「奥さん」とよぶのが自然のようにいわれた。そこで宇野夫人にとって も章子は「奥さん」であって「玲子さん」ではない。私に対してもしばしば「奥 さん」と表現された。上記のTの発言中にある「韓子さん」を「奥さん」とよみ かえてよんでいただくと発言の味わいは自然なものとなる。しかし,章子は「奥 さん」という表現におさまる女性ではないので,「奥さん」という表現のウラ側 に「章子さん」という表現をよみこまないと真実がよみがえらないという関係に ある。

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じんうちおさむ 第2回 話し手 (横須賀市のご自宅にて) (陣ノ内 鎮さんのこと) 陣ノ内さん(以下は敬称略)は演劇の上で村山知義の「弟子」ともいえる人で 最も影響をうけたと本人も語るようにトムさんに親しみもあり,村山芸術への深 い理解者ともいえるひとであるが,とりわけ,寺子に親近感をもって生活した 「友人」であり「同志」であるといいうる方であった。とりわけ,以下に記すよ うに鎌倉時代の,いわば世話人であったと(陣ノ内自身はそういういい方を全く されなかった),やまさきは考える。徳子の晩年は陣ノ内なしにかんがえること ができないほど,両人の生活は入りまじっていた。トムさん自身も陣ノ内の配慮 で戦後の疎開時代を生きのびることかできたのである。みずからを誇示しないで, 淡淡とかたりながらも,戦中戦後の芸術家,知識人のありようを陣ノ内は述懐さ れた。 やまさきは魂度か横須賀市声名の陣ノ内夫妻を訪ねて直接お目にかかり,長時 間にわたるお話を伺ったが,以下は陣ノ内の手紙文を「聞きがき」風に組かえた ものであり,その意味ではお話の記録ではない。(この方は別の機会に廻すこと にした。)しかし,陣ノ内の発言は手紙文の表現をそのまま再録したので,正確 さは「聞きがき」以上に保つかたちになっている。(Jは陣ノ内,Yはやまさき である。) J 村山章子さんのこと,お調べの由,大変うれしいことです。私は杉本良吉の すすめで演劇にはいったのですが,はいったあとは,村山知義さんにいちば んに影響をうけました。そのトムさんの,うしろにいて,終始,峻厳な芸術 批判者だった笥子さんの存在は,単に童話作家としてではなく,私たちの芸 術運動の影のリーダーのひとりであったと私は考えています。トムさんのこ とはトムさん自身が,自分でいろいろ,かいているので後にものこるでしょ う。しかし舞子さんのことは消えて失くなりかねないので誠に残念なことと 考えておりました。後のために,現代の女性の叡知のひとりとして,是非か きとめておいて下さい。

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Y 韓子が鎌倉で生活されるようになった事情と経緯をお教えいただけないでしょ うか? J 正確な記録が何ひとつ残っていないのが残念です。年代に弱い私ですから, 記憶にたよるしかなく,その点はご期待に添えないこと,申しわけないと思 います。 私の鎌倉宅に草子さんが移られたのは1943年か44年かのいずれかではない かと思います。私たち夫婦が東京から鎌倉へ疎開したのは42年でした。月日 はどうにも思い出せませんが,鶴川から静子さんの荷物を車力で運んでもらっ たのに,舞子さんの姿見の鏡がメチャメチャに割れていたのを家内が記憶し ているそうです。 Y トムさんの朝鮮行は亡命なのか,あるいは他の目的なのか,はっきりしない 所がありますが,どうみたらよいのでしょうか? J この「亡命」についてはトムさんの自伝にもはっきりかいていないと,先年、 宇野重吉氏からも問いあわせがございました。トムさんは私にも何もいわず に突如行ってしまいました。確かに亡命のつもりであったのでしょうが,朝 鮮は「春番伝こ」以来,トムさんの支持者も多く,その線をたどったことは想 像がつきますね。 Y その頃の章子さんのことをご存知でしょうか? Jトムさんの留守中,相っぐ空襲で,私は鎌倉から,東京の友人たちの消息を いっも気にしていたのです。下落合[上落合]が焼けたと聞き,肇子さんの 行方をさがしていました。確かに章子さんの住所を聞いたので,さがしにさ がして1軒の百姓家をさがし当てました。多分,藤川栄子さんの手引だった のでしょう。柿の木の多い庭があり,その日当たりの−・部屋に繁子さんはひ とり寝ていました。当時,亜土ちゃんは山梨の医学校に行っていて甲府にい ましたので,全くのひとりだったのです。いかにも淋しそうでしたから,丁 度,鎌倉の私の家に,2階の一部屋がありましたので,そこへ移らないか, とおすすめいたしました。当時,範子さんの病気はそうわるい方ではなく, 寝たり起きたりで顔色もそうわるくはありませんでした。しかし,空襲の打 撃でかなり疲労していたのです。その時は私は夕方までおりまして鎌倉に帰

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りましたが,数日して,等子さんが鎌倉の私の家にたずねてこられ(多分, 様子をみにきたのでしょう),すっかり気に入って引っ越すことになりまし た。それが柿若葉の頃のような気がしますから,じっさいに引っ越されたの は梅雨前だったようにおもいます。 Y そうしますと,最初は草子だけが鎌倉にこられたのです−ね? J そうです。私たち夫婦が階下3室,2階の−L間に章子さんが住まわれたので す。それが,しばらくつづきました。そういう生活の申で,天気のときは, 海岸や近所の散歩にでかけたり,わりに平穏でした。休暇には,亜土ちゃん もそこへ帰ってきましたね。岡内さんとの文通もたびたびのようにおもいま す。そこで終戦を迎えることにもなりました。 Y トムさんはまだでしたか? J まだです。トムさんの帰りはおそかったのです。45年申はトムさんは帰らず, 46年になって,1月か2月か,トムさんが帰ってきました。このことはトム さんが自伝か何かにかいているはずです。トムさんが帰国し,亜土ちゃんも 甲府の学校をやめて帰ってきましたので,私たちは,トムさん−・家にそこを 空けわたして,隣に空いている家がありましたので,その方へ,移りました。 Y 宇野さんはいっでしょうか? J 隣に移りましてから,宇野重吉が兵隊から帰ってきまして,私の家に同居す ることになったのですが,3月(?)に火事をだし,焼けだされてしまいま した。戦火に遇わずに疎開させた荷物を取り戻したあとのことで,丸焼けに なって宇野−・家,私の−・家ともども,元の家に戻り,2階は村山,階下が陣 ノ内,宇野と3家族1軒で住むようになりました。3家族同居間もなく,私 の方の妻の父が亡くなり,九州へ帰っている間に笥子さんの病気は重くなり まして,帰宅してみると,宇野重吉夫人が,何かと,めんどうをみて,2階 へ上り下りしていました。 Y その頃の欝子さんの病状や療養の経過はいかがでしたでしょうか? J肇子さんは生活の他の分野では徹底して近代的で合理主義者でしたが,ただ 一つ,健康についてだけ払 独善的な治療法の頑固な信者でありまして,座 右に赤本を離したことがなく,トムさんにも劇団の仲間にも,奇妙な健康法

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をすすめておりました。結核についても,笥子さんが名医であると称してい ました主治医がおられましたが,はとんど,そのいいっけはきいたことがな い様子で,自己流の治療法をやっていたのです。空襲の前後も,ススキの枯 葉を綿代りにつめたベッドに寝っづけて「その葉のガラス質が肺につきささっ て悪くなった」と自分でいっていましたね。ときどき,少量の喀血もありま した。まだストマイのでる前でしたが,はとんど,そんな薬を信用していま せんでした。これは岡内家の影響かと思いまして,いちど千金丹のことを聞 いてみましたら−じつはいっも部屋には千金丹があちこちに一杯ありまし たので−,「こんなの利くと思って…… 」とたいへん笑われたこ.とがあり ます。薬そのものを信用していなかったのでしょうか?いまでも,疑問に思っ ています。トムさんのことは,オニイシャマ,フトニイシャマと高松弁で呼ん でいましたが,トムさんが朝鮮から帰ってからは,赤ん坊のように甘えて, 足をもませたり,お鍋を運ばせたりしていました。あのトムさんが赤ん坊に 仕えるように,そんなことをしていたことは,病気が迫っていたこともある でしょうけれども,この夫婦生活の一面を垣間みたようで,私にはたいへん なおどろきでした。トムさんも車子さんも私生活は他人にはなかなか見せな い人でしたので,同居期間にやっと知ったことが多かったように思います。 Y 貴重なお話ばかりで私は感銘ふかく伺いました。章子がどのような生活のな かで死を迎えねばならなかったかが,手にとるようにわかります。 J 大事なことをここでつけ加えさせて下さい。それは筆子さんの死因のことで す。病気は腸結核でしたが,私の宅に移られる前から,すでに下痢はあった ようです。そのために章子さんは消し炭を磨りつぶして飲んでいました。自 分で乳鉢と乳棒を買ってきまして,それで普通の消し炭をすりつぶすのです。 その療法は赤本から教わったのか,自分の考案かは,わかりませんが,下痢 薬にカーボンがあることを知っていて,自分で考案したらしい点がたびたび の章子さんの説明から想像できますね。私にも,しきりにその方法をすすめ ていました。自分で乳鉢でするのですから,機械的製法に比べるとまるで粒 子の大きさがちがうと思いますが,笥子さんは自信をもっていたのです。ほ とんど医者の薬は飲んでいなかったらしく,あるいは,たまに兼用はしてい

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たのかも知れませんが,下痢は一向に止まりませんでした。それどころか, 私たちが九州へ帰る前には,起きて歩いてもいたのに,留守の間に全く重体 になってしまわれたのは,私はこの消し炭療法のせいだろうと思います。便 も寝たきりで用を足し,宇野重吉の細君がオカワを何度ももって2階へ上り 下りしていました。亡くなる頃になって,主治医を東京から呼んだのですが, もう,そのときは手のつけようもなかったようでした。下痢につれて,体が 衰弱して行ったのは,私たちの帰宅後,まるで,見る影もなく相好が変わっ ていたので明らかでした。そのとき,もうダメかなと患ったものです。 その後,私も結核になったのですが,二,三年経って,私のときは,八方 手を廻して,どうやら,ストマイが手に入るようになり,助かったのです。 嚢子さんが医者にしたがって,静かに養生していましたら,助かったにちが いないと今でも残念でなりません。(JとYはしばらく,瞑目。) Y 別のことでありますが,私は涛子の女性の友達を探しています。自由学園時 代とか,−・,二の方はわかっているのですが,たとえば劇団の女優さんのよ うな方がよくわかっておりません。親しくしていた女優さんをご存知ではあ りませんか? J章子さんは交友にかなり好き嫌いが強く,ことに頭のいい人たちを選んでい ました。劇団関係のひと,とくに俳優さんとは男女を・問わず,あまり,ゆき きはなかったように思います。その中では,中野重治夫人,原泉さんなど, プロット初期からの交友でわりに親しかった人でしょう。演劇関係より文学 関係に親しい人が多く壷井柴さんは郷里の関係もあり,親しかったようです。 それに佐多稲子さん(当時,窪川姓)も近くしていたようですね。陶芸家富 本意菩氏の夫人,富本一L枝さんはたいへん尊敬し信頼しあっていたようで, 病床にも何度か富本さんが見舞に釆ていましたし,私にも富本意吉氏の作品 を世話してくれると話をしていたのでした。 Y 山内光さんのことをお教え下さいませんか?ときどき,章子さんにまつわっ て名前がでるのですが… J山内光は昭和初期松竹大船の二枚目の俳優でした。スタ・−としてかなり活躍 しました。本名は岡田宗三,現存しているはずです。ずっと小型映画の製作

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者として数々の国際コンクールで賞を受賞されている名人です。これは本名 での仕事です。村山家との関係は,非合法時代の前期に,トムさんのシンパ として,相当,村山家の世話をなされて,ときどき,そのことをトムさんや 繁子が洩らしていたように思います。 (あとがきに代えて) みられるように陣ノ内鎮のお話は静子への親しみと最晩年の私生活へのふみこ みにおいて迫真性があり,やまさきにとって感銘ふかいものであるが,くわしい ことは,陣ノ内との面談上のお話や他の書簡にふれるなかで,しるすことにした い。親しい女性友だちについて,あたらしい収穫を期待したのだが,原泉のほか, すべて既知の人たちであったのは,やはり,寺子の友人の少なさ,かの女の人見 知りのゆえを再確認す−ることになったのである。なお,「トムさんの,うしろに いて,終始,峻厳な芸術批判者だった静子さんの存在」という表現は,かつてト ムさんの「門弟」である松本克平が私に対して,「筆子さんはトムさんにとって 最大の批評家であり,最良の観客であって,その歯に衣をきせぬ批評にびくびく しながら,トムさんはもっとも信頼をおいていたので,章子さんの死去はそうし た批評家を失なうことを意味した」とのべられたことと軌を−・にしていると思わ れる。

第3回 話し手 宇野重吉

(東京青山,劇団民塾事務所にて) (宇野重吉氏のこと) 宇野重吉氏は劇団民垂の代表として,経営面をはじめ,主演,助演,朗読など 八面六腎の活躍をされていたため,じつに多忙。やまさきと話をすることを承諾 されたあとも,じっさいに時間と場所を決めることが困難であったが,やっと, ある日の午後,2時間,やまさきに時間を割いてくださった。そして,知る限り の章子についての印象を語られたし,別記のように妻の,やまさきへの面談をも すすめていただいた。

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宇野にとって,村山知義は芝居の手はどきをうけた「師匠」であり,戦前は, トムさんの膝下に育ったが,戦後は民垂を率いてトムさんと挟をわかった。しか し,トムさんへの恩義は忘れず,時に応じて義理を果し,トムさんの祝いの席に かけっけ,自著の中でもトムさんへの言及を怠ることはしなかった。村山知義の 葬儀にも,トムさんの思い出を語る重要な役割を担った。 草子研究を志すやまさきに対しても,理解を示され,宇野自身の世界の中での 位置づけは大きくはないはずだが,やまさきに協力されたのである。(以下,U は宇野,Yはやまさきである。) Y 算子に最初に逢われたのはいつでしょうか? U はしめて逢ったのは,はっきり覚えていることとす・れば,昭和10年のはじめ, 当時,芝居のケイコをする場所がなく,上落合のトムさんの家でケイコをし たことがあります。オストロフスキーの「雷雨」のケイコでした。そのとき にお目にかかったのです。そのまえに,執行委員会が1,2度ありましたの で,そのときにもトムさんの家に行ったかも知れません。そのときにお目に かかった可能性もあります。ばくが数えで22歳くらいのころです。 Y どんな印象でしたでしょうか? U 随分,モダーンな奥さんと思いました。1,2年してから,新宿にあったムー ラン・ル・−ジュにおもしろい知的な観客があつまりましたが,章子さんはそ のファンでして,笥子さんの発案で,ムーラン・ルージュの俳優さんを上落

合の家に呼びまして,ごちそうをしました。ぼくもそれに同席しました。ぼ

くは若くて,劇団の使い走りをしていました。 Y 章子にお逢いになられるのはどんなときでしょうか? U 再建新協劇団のあと,また,トムさんがつかまり,使い走りのぼくは,その さし入れその他の用事でトムさんの家をしばしば訪問したものです。 その頃,ぼくらは蔵原理論で教育され,その理論は確固不動のものであり ましたから,ぼくらにはね……。戒原の書簡集を読んで,その相手である章 子さんを尊敬していました。 童話作家としてもすぐれていました。その絵本を,当時,みせて貰ったこ

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とがある。何度か…・。 Y そのほかの印象はいかがですか? U 大変おしゃれで外国へ,寸法を測ってクツを注文されました。子供みたいに, 一・級品を求めたのです。 Y そういうことに反撥はありませんでしたか? U いいえ,むしろ,感心したり,感嘆しましたね。反撥など全く感じませんで した。 Y それはいっのことでしょうか? U 昭和15,6年頃のことです。ばくの結婚式のとき,トムさんから上等のイン ク・スタンドを記念にもらいました。しかし,静子さんからはもらっていま せん。 Y 章子の人柄について,どんな感じをもたれたのでしょうか? U じつに高貴な感じがしました。とっつきにくいというより,人種がちがうと いう感じがしました。ひとに調子をあわせるという人でないために,とっつ きにくい印象をあたえかねませんが,ぼくはなんともなく,くったくのない 人にしか,みえませんでしたね。えらぶっている人ではありません。また, へつら笑いはしない人です。近代女性です。 トムさんがいうには,「重さんの芝居は性的魅力がある」と静子さんがいっ ていたというのです。「性的魅力」をイット(it)があるといういい方でさ れていました。が,ぼく自身に直接そうした話をしたことばありません。人 見知りをする人でした。 あの鎌倉で病中の看病を,あるいは着衣の着せ替えをうちの家内にのみ, やらせたのも人見知りのせいと思います−。 Y その鎌倉にはどんな経緯で共同生活になったのでしょうか? U ぼくは昭和18年に再度兵隊にとられてボルネオに行き,そのボルネオから, 昭和21年3月に復員して,2世帯がうつり住んだのです。村山は2階,陣ノ 内が奥の−・間,宇野は玄関の部屋。陣ノ内家は夫婦とあとあずかりの少年が ひとり,宇野は,2歳,3歳の娘と家内に3人目が腹にはいっていました。 そのようにして,そこに3年くらい住んだと思います。欝子さんが亡くなっ

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たあとも,2年強くらい住んだことになると思われます。 Y 火事は何月でしょうか? U 3月くらいと思います。 Y 病気のとき,あまり人をよせつけなかったようなのですが,いかがでしょう? U 章子さんは病気のときは,人の訪問をうけつけなかったと思います。ばくは 下にうつり住んでも,病室には行きませんでした。いちども伺いませんでし た。家内が看病しつづけたのでした。しかし,その女房もその病状をぼくに 話すこともしなかった。[そういうことを他者におしゃべりすることもまた 滋子が好まないこ.とを了解して,そういうことをひとに告げることをできる だけ避けることにしたという意味である。] Y うつり住んだときの章子さんの様子はどんなものだったでしょうか? U はじめから,.ふせっておられた。顔なんかもみられたくなかったようでした。 痩せたお顔や鉢を見られたくなかったのであろうと思います。ああいう人だ から,余計にそうであろうと思っています。トムさんや亜土さんという肉親 でも,男性ですから,イヤだったようです。 Y 例の「下」(しも)の世話も女性である奥様がなさることになったのですね。 U そうです。「便」(べん)の始末も全部,家内がいたしました。清洲さんもと きどき釆ていましたが,清洲さんにはさわらせなかったようです。 あの,ついこの間,新聞の日曜版にトムさんが宇野についてしゃべったこ とがでていましたが,ぼくの家内への謝辞がかかれていました。 Y 章子の過言に形見わけの指示があり,「しいちゃんにあげて」とあります。 [しいちゃんは宇野夫人のこと。]それはどのように実行されたのでしょうか? U 亡くなられて,形見わけに,とっても上等のスーツを貰いました。それを2 年後に質に入れて流してしまった。残念である。じつになさけなかった。あ の頃,オガクズでもよいから,それを食べてセリフをいいたい時代だったの です。[ここで宇野は本当に悲しそうな,大きな溜息をつく顔をした。] Y それは残念ではありますが,芝居をやるために資金の劇部になったのであれ ば,亡き章子さんも本望ではないでしょうか? U [無言]。

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Y 鎌倉時代,海の好きな章子さんを宇野先生が背中に背負って海岸を散歩した といわれることがありますが,これは事実でしょうか? U それは誤伝です。まちがいです。そんなことをするような鉢の状態ではあり ませんでした。また,繁子さんというひとは,そういう様子をしたくない人 であったと思います。[たとえ海がむしょうに好きで人生の最後に−・目でも 海をみたいと徳子が考えたとしても,痩せ細った自分が人に背負われるとい う迷惑をかけつつ,海岸を見るということば笥子の美学がゆるさないという 意味である。] Y また,海水をビンか何かで汲んで釆て,その匂をかいだともいわれています が…… U それもまちがいではないか。ぼくは知りませんね。 泳ぎの上手なことは知られていました。鶴沼にトムさんの別荘があって, 仁木独人(この人は新協劇団の有能な経営部長だった)やトムさん,中野重 治夫人たちとばくも泳ぎに行きました。泳ぎのうまいのには,ほとはと感心 しました。ぼくもうまい積りであったのですが…‥・。 Y トムさんと笥子さんとの関係ですが,トムさんは韓子をどうみていたと思わ れますか? U トムさんは韓子さんに頭が上がらなかったと思います。かの女は神様みたい に純真なので‥…・。無邪気で心が清く,余計にこわかったのではないか,と 思います。 ぼくが出演した上林暁の病妻物に「あやに愛しき」とい大型映画がありま した。脚本は進藤兼人,トム,久保栄,菅原卓,それに宇野が冒を通したん です。メムバ・−は全く,ぜいたくといってよかった。その中で,主人公が病 妻に「才能がないのよ」といわれる所がり,主人公の,もう来ないというセ リフをどうすればよいか,それは決定的なセリフなんです。トムさんは,寺 子さんに「才能がないのよ」といわれた。これは芸術家のくるしみです。 [この映画は出演のほか,宇野がはじめて監督した映画であるにもかかわら ず,監督という2字は全く使われなかった。これはいかにも宇野らしいこと である。]

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Y お葬式のとき,役者の友人たちが童話を朗読したようなのですが,それをな されたのでしょうか? U いや,朗読したことばありません。あの例のトムさんの,ことばを代読した だけです。 Y かの女から手紙をうけとったことはおありですか? U 2,3度もらったことはあると思う。ハガキに小さな字だったと思います。 Y それはおもちでしょうか? U あるかないか,わかりません。ひょっとすると,家内が保存しているか? Y お葬式に関鑑子さんが歌われたご記憶はおありですか? U その記憶はありませんが,否定することもできません。立派なお葬式だった。 本当に一・流の人々があつまりました。 Y お話は前後しますが,亡くなった1946年8月4日,宇野先生は,鎌倉のおう ちにおられたのでしょうか? U 東京に仕事に出ていませんでした。帰宅して,亡くなられたことをきいたの です。 Y 病人としての章子さんはどんな人だったでしょうか? U 我慢づよい病人だったと思います。わがままではなかった。 Y 筆子さんを全体として意義づけるとすれば,どうみられますか? U あのように,こころのきれいな人はいない,と思います。 Y 亜土さんをご存知のことと思いますが…り。 U 亜土ちゃんは,薄田研二さんの娘さんと仲よかった。そこへ,よく行ってい たですね。 あの,香川県といえば,戦時中ばくたちが農山漁村文化協会所属の瑞穂劇 団にいたとき,香川県に派遣されて行ったのです。その折,簑子さんのお兄 さんが釆てくれまして,そのお兄さんが魚を釣りにつれて行ってくれました。 また戦後になりますが,章子さんが亡くなられて,あのお墓につれて行っ て貰ったことがあります。いちどだけです。 Y そのお墓でうつされた写真が岡内弘子さん宅にあります。

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(あとがきに代えて) 宇野の聞きがきは1973年11月のことで,多忙の毎日,秒読みの毎日であられた のに,やまさきのために2時間を割いていただけたのはありがたかった。当時, 仕事のために自宅のはかに,住居がいくつかあり,もっぱら,その仕事場に電話 をおかけして打ちあわせをしたことが想いだされる。ていねいな手紙もいただい た。感謝のきわみである。 宇野はやまさきが宇野先生というのも好まなかったが,ほかに呼びようがない, としてゆるしてもらった。簑子については,「あの人はばくにとってはトムさん の奥さんなので,簑子さんというのはピンとこない」といわれ,しばしば「奥さ ん」といわれた。宇野によると,「奥さん」は劇団のひととほ−・線を画し,つき あうことをしないし,ケイコ場などにやってくる人でもなかったので,はるかに 眺めやるというのが「奥さん」との距離であったという。ただ,宇野は劇団の使 い走り役であったため,上落合の自宅に連絡する機会が多く,回数としては,欝 子に「お目にかかる」ことが多かったようである。しかし,連絡事であるから, 数言交わして辞去す−るというものであったという。 そういう事情で若い劇団員としては,もっとも「奥さん」に接しうる立場にあ る上 章子の方も宇野には好感をもっていたと推察される(宇野自身はそういう 明言はなされなかったが)。そうして,偶然とはいえ,晩年の同居的生活を迎え たので,「奥さん」が身近にいることとなり,宇野の妻の手厚い看護,身の廻り の世話となったから,宇野の証言は格別の意味をもっている。 宇野の発言は宇野らしい慎重さを背景にして,マイナ・ス・イメ・−ジをあたえた くない,悪口めいたことはいいたくないという気持ちがつよくにじんでいた。し かし,いんぎん無礼にはめことばでいいふくめるというのではなく,真実は真実 として,筆子の印象を伝えるという気持もつよく感じられた。やまさきは,章子 が気ぐらいの高い,高慢ちきにみえたかどうかをとくにたずねたのだが,宇野は それを完全に否定された。やはり,ここでも韓子は男性からは十分に理解された という事実が確認されている。 宇野の証言について,さらにいうべきことばいろいろあるが,それは他の劇団 関係者や文学関係者の「聞きがき」をしるしたあとにのべるべきなので,ここで

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は以上にとどめたい。宇野とはその後もしばしばお逢いして,印象を論じあうこ とがあり,公演時の楽屋とか路上とかでも話をする機会があった。そのときどき でのことを追想し,ここにあらためて宇野のご冥福をおいのりするとともに,い まはトムさんや筆子さんたちとも,打ちとけた話に興じていると思いたい。

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︵E忙朝雄︶鵬e地e帖腑

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参照

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