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『彦根論叢』300号に見る経営学研究の系譜(第300号発刊記念)

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彦根論 叢』300号に見 る経営学研究の系譜

士 日 I は じめ に 『彦根論 叢』 300号 におけ る経営学研 究 の系譜 を辿 るに あた って,100号 毎 に 3つ の段 階 に分 けて見 るこ とに したい。 この分 類 は一 見 して機械的に過 ぎるか も しれ ない。 しか し,そ れ ぞれ の段 階 に登場 す る研 究者 グルー プ とそこに展開 され る研 究 の 内容 を見 るな らば,こ の分 類 には,以 下 の よ うな,そ れ ぞれ に回 有 の意 味 を認め るこ とが で きるの であ る。 (1)創 刊 号 か ら100号 まで (1949年 12月∼1963年 11月) 一 ― 科学 としての経営学 の理論 と方法の確立の段階 修)101号 か ら200号 まで (1964年 3月 T1980年 2月 ) 一一経 営 におけ る行動科学的研究 と意思決定論的研究の段階 G)201号 か ら300号 まで (1980年 3月 ∼1996年 2月 ) 一 ― 実証的 な経営戦略研究 と比較経営研究の段階 次節以降 にお いて,こ れ ら 3つ の経営学研 究の系譜 につ いて順 次取 り上 げ る こ とに したい。 その際,会 計学 的研 究 と情報科 学的研 究 につ いては,原 則 とし て考察 の対象か ら外す こ とを予めお断 わ りしておか なければ な らない。 これ ら 2つ の研 究分 野 は,当 初,広 義 の経営学的研 究 の なか に含 まれていたが,そ の 後相 次 いで固有 の学科 を設 置す る とともに,独 自の科 学 的研 究 の系譜 を形成 し て い くこ とに なったか らであ る。 なお,登 場 す る研 究者 は,主 として,そ れ ぞれの段 階 において本学部経営学 科 に所属 した教 官 の方 々 で あ るが,本 稿 の なか ではすべ て敬称 を略 させ て頂 い た こ とをお断わ りしておか なければ な らない。 修 田

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H 科 学 と して の 経 営 学 の 理 論 と方 法 の確 立 ― ― 創 刊 号 か ら100号 まで (1949年12月∼1963年11月) 1949年 5月 31日,滋 賀大学経済学部 が設置 され た。 そ して,そ の年 の12月に 『彦根 論 叢』 力靖J刊され て い る。 この創刊 号 に,経 営学 に関係 す る次 の 4人 の 教 官 の論 文 が掲 載 され て い る。 す なわ ち,山 本安 次郎,西 藤雅 夫,芳 谷有 道 お よび高 田馨 であ る。 4人 の なか で,山 本安 次郎 は経営総論 ・生産管理論 担 当, 西藤雅 夫 は交通論 ・保 険論 担 当,芳 谷有 道 は商業学総論 。配給論 担 当の いずれ も経 済学部 発 足 と ともに設置 され た経営学科所属 の教 授 であ り,高 田馨 は経 済 学部 設置後 もしば ら く存続 した彦根 経専 の助教 授 であ った。滋 賀大学 におけ る 経営学研 究 の系譜 の第 1段 階 は,こ れ らの教 官 たちの研 究 に よってス ター トす るこ とに な ったの で あ る。 『彦 根 論 叢』創 刊 号 か ら100号までの総 目次 を一 見す るな らば,そ の14年間 の滋賀大学経済学部 におけ る経営学研 究 の系譜が,山 本安 次郎 の研 究 を中心 と して展 開 されて きた こ とが明 らか であ る。 山本 は,創 刊号 か ら96号 まで,書 評 お よび学会 報告 を併せ て25本の論稿 を寄稿 してい る。 その25本の論稿 は,そ れ ぞれ の 内容 か ら見 て,次 の よ うな 3つ の グルー プに分 類す るこ とが で きる。 ・経営学の本質,そ の対象 と科学的方法 に関す る問題 の研究 ・バー ナー ド理論 を中心 とす る組織理論 の発展 に関す る研究 ・経営学 の 「本格化 」 に対す る ドイツ経営学の批判的摂取に関す る研 究 その なか で,「経営 学 の本質,そ の対象 と科 学 的方法」 に関 して執筆 され た 論稿 は全体 の ほぼ半数 を占め てお り,こ の問題 に対 して,山 本 が いか に精 力的 に取 り組 ん でいたかが分 か る。 山本 に よる経営学 の本質 に関す る一連の論稿が 『彦根論叢』に寄せ られてい た この時期 は, 日本 の経営学 に とって も,近 代科 学 としての経営学 の理論 と方 法 の確 立 をめ ぐって,経 営学 界 を総動員 しての百家争鳴 ともい うべ き方法論争 の時代 で もあ った。 そ して,こ の方法論争 の時代 にお いて,山 本 は最 も中心的 な存在 の一 人 として,「本格 的 な」経営学 の確 立 を 目指 して,指 導的 な役 割 と

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彦根論叢』3 0 0 号に見る経営学研究の系譜 6 7 影 響 力 を発 揮 す る こ とに な るの で あ る。 山本のい う 「本格的な」経営学の主張について,限 られた紙幅のなかで正 し く要約す ることは必ず しも容易 ではない。 ここでは,最 晩年における山本 自身 の論述によって,そ の内容 を紹介す ることに したい。 1993年 5月 , 自 らが中心 となって設立 された経営学史学会の創立大会におい て,山 本 は,「経営学の本格化 と経営学史研究の重要性」 と題す る記念講演 を 行 っている。 そのなかで,山 本は,彼 自身の経営学研究のあ とを回顧 しなが ら 「経営学本格化の道」について次の ように述べている。 「いうまでもな く経営学は文字通 り 「経営の学」であるか ら経営の研究を 離れて経営学はない。「経営 につ いての研究」 もそれぞれそれな りに経営学 的意義 をもつ ことは否定 で きない。 しか し何 といって も経営学に とって最 も 基礎的な研究は 「経営その もの」の研究であろう。それこそが真に経営学に 値す ると思われ るか らである。 ところが,そ の 「経営」が実は国によ り人に よ りその理解 を異に し十人十色 といわざるを得 ない ところに科学 としての経 営学の根本的弱点がある。」 「わた くしは 「経営その もの」 を求めて,諸 学説に囚われず,経 営の歴史 的原″点か ら現代 に至 る経営学史的研究 を試み ることに した。それ を結論的に いえば,い つの時代 で も経営 とは 「企業」が 「事業」 を 「経営す る」 という こ とで,た だ時代 によ りそれぞれその存在形態 を異にす るのである。各国の 経営学的研究の歴史が時代 によ り上述の歴史的存在形態に応 じてそれぞれの 特質的な一面 を分析的に研究 した ものであることも明 らか となる。」 「ドイツ,フ ランス,ア メリカの学史を比較 して見るがよい。意識すると 否 とにかかわ らず近代の科学論は新 カン ト派の哲学が根底 をなしている。… … しか しその説 く分析論理や対象論理では経営の 「経済学」や 「社会学」や 「管理学」 などのような経営の分析的一面的研究はできて も 「経営存在」 を その もの として全体的統一的に把握す ることは不可能である。つ まりそこで は 「経営学」は不可能 である。それゆえに,「本格的な」経営学はパ ラダイ ム ・レボ リュー ションを要求す るのである。わた くしは幸いに して京者B帝国

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大学 の時代 に西 田幾 多郎先生 の最 後 の講走 に列 し,後 に特 に 「西 田哲学」 と 命名 され るに至 った哲学 を研 究 して,紆 余 曲折 は あ った ものの,新 カ ン ト派 の哲学 を越 えて 「経営学」本格化 の道 に到達 す るこ とが で きた と確信 し得 た の であ る。」 「・……つ ま り新 カン ト派理論 を越 えて,経 営 を歴史的社会 的であ るととも に主体 的行為 的存在 と把握す るこ とに よって 「経営 の論理」 を確 立 し,こ こ に初 め て経営学 もその学的根拠 を得 るこ とが で きるのではないか。」 「か くて 「経営学」は 「事業 と企業 との経営主体的統一」 とい う歴史的社 会 的 に主体 的存在 た る 「経営 (体)」の歴 史的 に理論 的,理 論 的 に歴 史的 な研 究 として真 に社 会科 学 の重要 な一員 となることがで きるのである。」 山本 の この講 演 は,後 に経営学 史学会 編 『経営 学 の位 相』 (1994年刊)の 巻 頭 を飾 る論稿 として ま とめ られ るこ とに な るが,そ の際 に 山本 自身に よって付 け られ た脚 注 を見 るな らば,上 掲 の 引用 の部分 につ いて そのほ とん とが 『彦根 論 叢』創刊号 か ら96号 に至 る論稿 の なかか ら上 げ られてい る。 山本経営学 の科 学 的方法 の確 立 は,そ の意 味 で,ま さに 『彦根 論 叢』 を舞 台 として行 われ た と い うこ とが で きる。 科学 としての経営学の理論 と方法の確立に対 して,山 本の 「本格的な」経営 学の主張の与 えたインパ ク トは多大 なるものがあった。経営学界におけ る多 く の人々が山本の周 りに集 まって くる。 そ して,そ の中の一人の加藤勝康 は1961 年 に滋賀大学に赴任 して くるのであ り,後 に III節に見 るように,『彦根論叢』 を舞台に経営学の本質にかかわる幾 多の研究 を展開 させ るのである。 次に,『彦根論叢』におけ る山本の第 2の 研究 テーマである 「バーナー ド理 論 を中心 とす る組織理論の発展に関す る研究」について見 ることに したい。バ ーナー ドの組織理論 との出会いについて も,山 本は,1986年 11月に行われた 日 本バーナー ド協会 の記念大会 におけ る講演のなかで次の ように述べ ている。 「わた くしのバーナー ドとの出会いは昭和31年 (1961年)の 初め頃 と思い ます。前々年の暮に 『経営管理論』 を公刊 し,こ れ と姉妹編 をなす もの とし てかねてか ら計画 して きた経営組織論 を纏めつつあった頃です。当時組織は

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彦根論議』300号 に見 る経営 学研究の系譜 管理 の一職能 として管理論 の一部 門 と伝統的に考 えられていました。私 はこ の管理論的組織論に疑間 をもち,経 営学においては経営組織論は経営管理論 か ら独立す る一部 門 とすべ きと考 えて苦労 していました。」 「終戦後 いち早 くバーナー ドを研究 し,経 営学 を組織学 として樹立 しよう としてお られた故馬場敬治先生か ら,お まえは組織,組 織 といっているけれ ども,バ ーナー ドを知 らず しては 「寂麦 を弁 じ得 ざるものである」 とい うよ うなまこ とに厳 しい批判 を頂 きました。 ド イツ経営学で育 ったわた くしたち は, とか くアメ リカを過小評価 していました。 そこで半信半疑でバーナー ド に接近す ることになったのであ ります。 ところが,読 み進むにつれて全 く感 激の連続であ りました。問題 その ものが違います。……要す るに,わ た くし が西田哲学の行為的主体存在論によ りなが らこれ までの二十有五年 をかけて 何 とか探求 して きた経営学の基礎理論の原型がそこに明かに看取で きるでは あ りませ んか。」 「一般的な人間協働に関するバーナー ド理論 を経営学的に限定すれば, ま ことに立派な経営学の基礎理論 となるのであ ります。わた くしの経営存在は バーナー ド流にいえば,経 営協働体系―経営組織―経営管理 という三層の統 一 と把握 されます。そこでわた くしはバーナー ド理論 を経営学的に 「三層構 造理論」 と呼ぶ ことに したのであ ります。」 『彦根論叢』91号におけ る 「バーナー ド組織理論の経営学的意義」 と題す る 論文 こそ,こ こに引用 された山本の 「三層構造理論」の最初の展開の場であっ たのである。 山本 は,京 都大学の田杉競 ・飯野碁樹 とともに,バ ーナー ドの主 著 『経営者の役割』 (C.I.Barnard,The Functions of Executive,1938。)を 翻訳 したこ とで も知 られている。 いまだに多 くの読者 を魅了 して止 まないこの 経営学におけ る記念碑的な名著 を翻訳 したことは,ま た,山 本の大 きな業績の 1つ として上げ られなければならない。 山本 の第 3の テーマ であ る 「経営学 の 「本格化 」 に対す る ドイツ経営学 の批 判 的摂取」 につ いて見み なければ な らない。 『彦根 論 叢』 100号までの寄稿 の な か で ドイツ経営学 を直接取 り上 げ た山本 の論稿 は多 くはない。 しか し,こ の時

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期 の 山本 の研 究 に とって, ド イツ経営 学 に関す る学 史的研 究が彼 の 目指 す経営 学 の 「本格 化 」 の ため に欠かす こ とので きなか った ものであ るこ とは,1961年 に刊行 され た著書 『経営学本質論』 を見 るな らば明 らか であ る。 この著 にお い て,山 本 は, ド イツ経営学 の歴 史の なか で展開 され た 3次 にわた る方法論争 を 回顧 しなが ら,経 営学本質論への道 を探 ろうとしているのであ り,さ らに,経 営学の本格化のために求め られ る科学的な方法,概 念化 と体系化のいずれに関 して も ドイツ経営学の諸学説 と関連づ けなが ら理論化 を試みているのである。 ドイツ経営学の系譜に連 なる研究 として,ま た,山 本 とともに 『彦根論叢』 創刊号 に寄稿 した高 田馨の研究が上げ られなければな らない。高田の本学に在 任 した期間は 4年 に満 たない。 しか し,そ の間に 『彦根論叢』に掲載 された高 田の 5編 の論稿 は,い ずれ もニ ックリッシュの経営共同体論 を中心 とした ドイ ツ経営学の研究か らなっていたのである。高田は,本 学 を離れたのち,1957年 に最初の著書 『経営共同体 の原理一一ニ ックリッシュ経営学の研究』 を刊行す る。 その内容の中心に 『彦根論叢』に掲載 された 5編 の論稿が含 まれていたこ とはい うまで もない。 また,そ の後における高田の ドイツ経営学研究者 として の業績は 日覚 ましい ものがある。相次いで刊行 され る高回の著作はいずれ も ド イツ経営学 を基礎 とした ものであ り,そ れによって, 日本におけ る ドイツ経営 学の研究者 を代表す る一人 として評価 され ることになるのである。 1951年3月 に高田が名古屋大学に転 出 した後 を受けて,53年 5月 に経営財務 論担 当の教官 として鈴木和蔵が赴任 して くる。高 田と同 じく彦根高商の出身で 4年 後輩であった鈴木 もまた, ドイツ経営学 を専攻す る研究者であった。鈴木 は,『彦根論叢』15号か ら72号までの間に,16編 の論稿 を寄稿 しているが,そ の ことごとくが ドイツ経営学 を対象 とした ものである。 中心テーマ となったの は,経 営の実体維持に関す る問題 であった。 ド イツ経営学において,こ の実体 維持の理論 を展開 していたのは,F・ シュ ミッ トであった。鈴木は,こ の F・ シュ ミッ トを中心に,ニ ックリッシュや シュマー レンバ ッハ等の ドイツの代表 的な学説 を取 り上げなが ら,系 統だった精級 な研究 を展開す る。その成果がの ちに 『経営維持 の理論』 (1962年)と して刊行 され ることになる。 この著 は,

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彦根論叢』3 0 0 号に見る経営学研究の系譜 7 1 経営学 界のみ な らず,会 計学 界か ら も高 い評価 を受 け るこ とに もな った。 その 主張す る実体 維持 の思考 は,今 日なお新鮮 な説得 力 を もって い る。 経営学 史上 に残 る名著 の 1つ とい うこ とが で きる。 しか し,鈴 木 の本学 におけ る在任期 間 も 7年 間 で終 わ る。60年 4月 に大 阪府 立大学 に転 出す るこ とに な る。 そ して,そ の後 を受 けて翌61年 4月 に経営財務 論 担 当の教 官 として赴任 して きたのが,加 藤勝康 であ ったの であ る。 す でに触 れ た よ うに,加 藤 の本学 におけ る本格 的 な活躍 の時期 は,次 の 『彦根論 叢』101 号 以 降 の段 階 で あ る。 しか し,そ れ に先 立 って,93・ 94・95・96合併号 に寄稿 した 「グー テ ンベ ル ク 『経営経済学 原理』 におけ る 「生産行為 的要 因体 系」 の 意義 につ い て」 は,『彦 根 論 叢』 にお け る ドイツ経 営 学 の系譜 に違 な る研 究の 貴重 な業績 の 1つ として数 え るこ とが で きる。 以上 にお い て,山 本 の研 究 を中心 に,『彦根 論 叢』 を舞 台 として展 開 され た 「科 学 としての経営 学 の理 論 と方法 の確 立」 の系譜 を見 て きた。 しか し,こ の 段 階 にお いて,山 本 とともに経営 学科 所属 の教 授 として指 導 的立場 に あ った芳 谷有道 と西藤雅 夫 は,そ れ ぞれにそれ とは学 問的傾 向 を異 にす る独 自の経営学 的研 究 を展 開 して い た。 芳谷 は経済学部 の前進 であ る彦根 高商 以来 の生 え抜 きの教 官 として,長 く本 学 の教 育 と研 究 を支 えて きた 中心 的 な 1人 で あ つた。『彦根 論 叢』 には 8編 を 寄稿 している。 そのいずれ もが,芳 谷の専攻す る商業学 をテーマ とす るもので ある。 この時代,伝 統的な商業学 は,新 しく台頭 して きたマーケティング論の 影響 を受けて,大 きな転換期 を迎 えようとしていた。芳谷の研究に もその傾 向 が表れている。 その後,商 業学およびマーケティングの研究は,経 営学研究の 系譜のなかで 1つ の固有の系譜 を作 ってい くことになるのであるが,芳 谷の業 績は本学におけ る最初 の基礎づ け を行 った研究 として評価す ることができる。 西藤 は,『彦根論叢』100号までに30編の論稿 を寄稿 している。 内容的に最 も 多いのは,専 攻す る保 険論 に関す るものであるが,後 半になって くると,産 業 論 あるいは産業構造論 をテーマ とす る論稿が 日立つ ようになる。その 1つ に99 号 に掲載 された 「産業学の立場一一経 済学 と経営学の谷間 を埋め るもの」があ

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る。西藤の学問的立場 を明 らかに した もの とい うことがで きる。 しか し,そ の 後,西 藤の研究はよ り経済学的方向に傾斜 してい くのであ り,結 果的に経営学 研究の系譜か らは遠 ざか ることになる。 そ して,西 藤の始めた産業論の系譜は, 経済学科 の教官に よって継承 され るこ とになるのである。 最後に,進 藤勝美につ いて触れておかなければならない。進藤の赴任 は1956 年 4月 であ り,『彦根論叢』へ の寄稿 は33号か ら始 まってい る。 しか し,進 藤 の研究が よ り本格的に展開 され るのは,本 学の経営学研究の系譜の第 2段 階に おいてである。加藤 とともに次節において取 り上げることに したい。 II 経 営 におけ る行動科 学的研 究 と意思決定論 的研 究 一 -101号 か ら200号 まで (1964年3月 ∼1980年 2月 ) 1960年代 ,経 営学 は 1つ の大 きな科学 的潮 流 に よって決定的 な影響 を受 け る こ とに な る。 それ は,従 来 の職能 的 な構造分析 を中心 とした伝統 的 なアプ ロー チに番 わ って,そ れ とは全 く異 な る新 しい観 ″点の も とに企業 を組織 の意思決定 行 動 シス テム と見微 し,そ れ を経 験 的・実証的 な検証 に よって研究 していこ う とい うものである。 いわゆ る 「行動科学的な」アプローチ と呼ばれ るものがそ れであ る。「行動科学」 とは,人 間行動の研究に対 して,生 理学,心 理学,社 会学,文 化人類学,経 済学,経 営学等の個別科学の境界 を越 えて,そ れ らの諸 学問の学際的アプ ローチ をとろ うとす る近代的な社会科学の方法 を意味す る。 人間行動 について, と くに経営学の対象 とす る企業組織の行動については,従 来 よ り個別科学的研究の枠 内に入 り切 らないこ と,そ して,す でに社会学,心 理学お よび管理論 な どの間の学際的なアプ ローチの必要 であることが指摘 され て きた。 それだけに,こ の新 たに開発 されて きた行動科学的なアプローチに対 す る経営学の取 り組みは,他 のいずれの科学分野におけ るよ りも積極的な もの があったのである。 経営学の研究におけ る行動科学的なアプローチヘの取 り組みは,大 きく2つ の方向に分 け られ る。 1つ は,「意思決定の行動科学」 として,組 織におけ る

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彦根論叢』3 0 0 号に見る経営学研究の系譜 7 3 意 思 決 定 過 程 に対 して行 動 科 学 的研 究 を行 い,そ れ を企 業 行 動 に適 用 して い こ うとす るものであ り,他 の 1つ は,組 織 におけ る個 人の動機づ けや リー ダー シ ップに対 して行動科学的研究 を行 うものであ り,そ のルー ツは人間関係論の研 究か ら始 まっている。 その中で,前 者の系譜に属す る学説の中心 となったのが バーナー ドの組織理論であ り,そ の影響の下に 「限 られた合理生」の仮設によ る組織の意思決定論 を展開 したサ イモンの経営理論であった。 そして,そ れに 対 して,後 者の系譜 を形成 したのが,い わゆ る 「ポス ト人間関係論」 と呼ばれ る リッカー トやアー ジ リス等の学説であった。 この新 しい行動科学的アプ ローチは,『彦根論叢』第 2段 階におけ る本学の 経営学研究の展開に対 して も決定的な影響 をもたらして くる。以下に見てい く ように,そ の影響 は 『彦根論叢』に寄稿 され る論稿 のほ とん どすべ てに及んで い るのである。 1964年3月 に,『彦根論叢』101。102合併号が 「陵水40年記念論文集」 とし て刊行 されている。 しか し,そ の寄稿者のなかに山本安次郎の名前は もはや見 当 らない。代 わ りにそこに見い出す ことのできるのは,加 藤勝康 と進藤勝美の 名前である。本学 におけ る経営学研究の第 2段 階は,こ の 2人 を中心に始め ら れ るのである。 加藤勝康 の研 究か ら見 るこ とに したい。 『彦根論叢』に寄稿 した加藤の論稿 の大部分 は,担 当す る経営財務論に関す るものであ り,そ の中心 テーマ となっ ていたのは,経 営財務 の組織構造に対す る意思決定論的な考察であった。その なかで,106・ 107合併号に掲載 された 「バーナー ド理解のための一考察」は, 加藤の経営学研究に決定的な意味 をもった論稿 として, と くに重要 な意味 をも って くる。す でに見て きたように,バ ーナー ド理論 の研究は,『彦根論叢』の 第 1段 階において,山 本の取 り組んだ経営学の本質にかかわる重要 なテーマの 1つ であった。 この山本によって始め られたバーナー ド研究の系譜が加藤によ って引 き継がれ ることになる。 バー ナー ドとの出会 いは,加 藤の経営学研究者 としての人生 を決定づ け るこ とに な った。 それ につ いて は, 『彦根 論 叢』本号 におけ る加 藤 自身の寄稿 か ら

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も窺 うことができるが,い ずれに して も,そ の後におけ る加藤の研究はことご とくがバーナー ド理論に関す るもの となったのである。そ して,バ ーナー ド研 究者 としての加藤の活躍のなかで, と くに知 られているのが,同 じく日本 を代 表す るバーナー ド研究者の飯野春樹 との間に戦 わされた論争である。論争のテ ーマ となったのは,バ ーナー ドの組織理論における最 も重要なキー ・コンセプ トの 1つ である公式組織の定義 に対す る理解 の違 いであった。周知 の ように, バーナー ドによれば,公 式組織は 「二人以上の人々の意識的に調整 された活動 の システム」 として定義 され る。 この 「意識の主体」について,飯 野は,組 織 の システムその ものであるとす るのに対 して,加 藤によれば,そ れは組織に参 加す る個 人であ り,個 人の 自覚的な調整であるとしたのである。飯野の他界 し た現在,こ の論争には決着はついていない。 しか し,多 くのバーナーディアン が参加す ることに もなったこの論争によって, 日本におけ るバーナー ド研究は 大 きく発展す るこ とになったのである。 加藤 は,1968年 4月 に名古屋市立大学に転出す る。滋賀大学の在任期間は 7 年 であった。 その後,1996年 に至 って,著 書 『バーナー ドとヘ ンダー ソン』 を 刊行す る。「The Functions of Executiveの形成過程」の副題 をもつ750ペー ジ を越 える大著 であ る。加藤 自身の こ とばに よれば,「本書 は難解 の故に多 くが 途 中で引 き返すバーナー ド主著 とい う類 い稀 な高峰への登頂 を目指 した 1つ の 研究記録 である」 とい う。 山本 との出会 いか ら,飯 野 との論争 を含めて,30年 を越 える加藤のバーナー ド研究の成果が ここに収め られているのである。 この ように,一 方におけ る加藤の研究が,バ ーナー ドか ら始 まる意思決定論 の系譜に属す るものであったのに対 して,他 方における進藤の経営学は,人 間 関係論 を始点 とす るもう一方の行動科学的アプ ローチに指向す ることを特徴 と している。 進藤の 『彦根論叢』への寄稿 は33号か ら198・199合併号 まで50編に及んでい る。 そのなかで,前 半段階の中心的な内容 となっていたのは,ス キャンロン ・ プ ランお よびラッカー ・プ ランを含む賃金政策 を中心 とした労務管理の問題に 関す る研究 であ り,そ れは1971年に最初 の著書 『労使関係 と成果分配』 として

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彦根論叢』300号に見る経営学研究の系譜 75 ま とめ られ る。 それ に対 して,後 半 と くに 『彦根論 叢』 第 2段 階 におけ る進藤 の寄稿 の大部分 を 占め てい るのが,ホ ー ソン ・リサー チに よる初期 の人間関係 論 か ら行 動科 学 的 な現代 の人間関係論へ の発 展 とそ こに展 開 され る労務 管理 的 な問題 であ った。進藤 が,こ の よ うな新 旧の人間関係論 の発展 の問題 に取 り組 んだの には, 1つ の意図が あ った。進藤 自身の言葉 を借 りるな らば,そ れは, 「「初期 人間関係論 」 は労働 の人間化 へ の端 緒 を与 えた もの として高 く評価 さ るべ きだが,人 々 をよ り受動 的 な存在 とみ な して いた ところに限界が あ った。 …… また,第 1次 大戦後 の1920年頃に登場 を見 た 「近代 労務 管理」 は,「能率 原理 」 を指標 とす る人間工 学的 アプ ロー チが支 配的 であった。 これ に対 して, リカー トの 「シス テム IV」 や マ グ レガー の 「統合 と自己統制 の管理 」 に見 ら れ る 「現代 人 間関係論 」 の アプ ロー チは,「能率 原理」 とは異 な る指 導 原理 を 「現代労務管理」に求めている」 とい うことである。行動科学的なポス ト人間 関係論 に対す る進藤の強い指向を見 るこ とがで きるのである。進藤の労務管理 研究の総決算 として行 われたこれ らの一連のの研究の成果は,後 に 2つ の著作 に まとめ られ る。す なわち,『ホー ソン ・リサーチ と人間関係論』 (1978年 ) と 『現代経営労務論』 (1982年)と である。 1960年代か ら70年代 にかけては,本 学の経営学科 に とって,充 実の時期 で も あった。教官定員の増加 に ともなって,新 たに経営学の各分野 を専攻す る教官 が相次いで赴任 して くる。すなわち,吉 田修 (1964年 経 営学),門 脇延行 (67 年 企 業論),水 原正亨 (68年 西 洋経営史),森 俊治 (71年 研 究開発論), 冨 田光彦 (71年 国 際経営論),井 上洋一郎 (72年 経 営史),道 明義弘 (72年 経営財務論),及 川宣生 (72年 企 業論),神 山進 (74年 経 営学)で あ り,そ の多 くは,い ずれ も20歳代後半か ら30歳代 にかけての若手の研究者であった。 括弧 内は,そ れぞれの本学への赴任年 と担当科 目とを示 している。以下におい て,順 次,そ の研究につ いて見 ることに したい。 (なお,冨 田 と井上の研究 に ついては,次 節において取 り上げることに したい。 2人 が 『彦根論叢』に経営 学 としての研究業績 を寄稿す るのは第 3段 階に至 ってであるか らである。) 吉 田修 は,本 学において鈴木の指導 を受けたのち,神 戸大学の市原季―に師

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300号発刊記念 (第301号) 事 した ドイツ経営 学専攻 の研 究者 であ った。 山本か ら始 ま り高 田 。鈴木 に継承 され て きた本学 におけ る ドイツ経営学 の系譜 は,こ こに至 って苦 田に よって受 け継 が れ るこ とに な る。吉 田は 『彦 根 論 叢』200号 までに併せ て17編を寄稿 し て い る。 その 内容 をなすの は,第 2次 大戦後 の いわゆ る近代 派の ドイツ経営学 にお いて, と くに意思決定論 的行動科学 の影響 を強 く受 け たハ イネ ンを中心 と す る組 織理論 の研 究 であ る。 しか し,吉 田の研 究 は,や が て ドイツにおけ る経 営組 織論 の発展 の跡 を遡 るこ とに な る。 そ して,そ の始点 となったプ レンゲや ボ グダ ノフか らニ ック リッシュ を経 て,伝 統派か ら再 び近代 派の組織理論へ と 至 る学 説史的研 究 として体 系化 され るこ とにな る。 その成果 が,1976年 に 『ド イツ経営組織論』 として刊行 され る。吉 田の最初 の著作 であ る。 門脇延行 は,吉 日の 3年 後 に赴任 す る。神 戸大学 にお いて,古 林喜楽 お よび 海道進 の指 導 を受 け た。 『彦根 論 叢』200号までに併せ て14編を寄稿 してい る。 門脇 の論稿 の なか で, と くに注 目され るのは,最 初 の 3編 が いずれ もバーナー ドか らサ イモ ンに至 る 「組 織均衡 論」 の発展 を取 り上 げ た ものであ った こ とで あ る。 山本 か ら加 藤へ と続 くバーナー ドの組織理論 と意思決定論 の系譜 に追 な る研 究 であ る。 3編 の論稿 は いずれ も意思決定論 的行動科 学 の研 究者 たちか ら 高 い評価 を受 け るこ とに な るの であ るが,そ の後,門 脇 の関心 は, ソヴェ トの 企業管理論 に関す る研 究 に移行 す る。 1960年代 に入 って,社 会 主義体制下 の ソ ヴ ェ トにお いて も,企 業 の生産 管理 の改革が進め られ るよ うにな るのであ り, その改革 の推進 の ため に欧米 におけ る意思決定論 的研 究の成果 が導入 され るこ とに なったのであ る。神 戸大学 にお いて,海 道 の もとで社会 主義企業 システム の研 究 の指 導 を受 け た門脇 は,こ の問題 に着手す る。 そ して,ソ ヴェ トの企業 管理 に関す る 7編 の論稿 を 『彦根 論 叢』 に寄稿 す るこ とに な る。 水 原正 亨 の赴任 は,門 脇 の 1年 後 であ る。大 阪大学 で作道洋太郎 の指導 を受 け た。 『彦根論 叢』200号 までに 6編 を寄稿 してい る。 その なかの 4編 はア メ リ カ産業革命初期 におけ る企業者史 に関す る研 究 であ り,他 の 2編 は近世 長崎 に おけ る両替 商 に関す る研 究 であ る。 なお,水 原 は,そ の後72年に赴任 す る井上 洋一 郎 を助 けて本学 におけ る経営 史研 究 の基盤づ くりに貢献す るこ とにな る。

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彦根論叢』300号に見る経営学研究の系譜 77 71年 に な って,森 俊治が赴任 して くる。森 は,山 本 門下 の 1人 として知 られ てお り,ま た,そ の専攻す る研 究開発 の分 野 においてす でに一家 をな していた 研 究者 であ った。本学へ は,研 究開発論 の担 当 としてだけ でな く,経 営管理論 の担 当 としての期待 を受 けての赴任 で もあった。森 は,『彦根論 叢』200号 まで に 6編 を寄稿 してい る。 いずれ も研 究開発 に関す る問題 をテーマ とした もの で あ る。 しか し,森 の研 究が その本領 を発揮す るのは,第 3段 階の 「実証 的 な経 営 戦略研 究」 にお いてであ る。後 に見 るこ とに したい。 道 明義 弘は,72年 に赴任 す る。吉 田 と同 じ く神 戸大学 にお いて市原季― に師 事 した ドイツ経営 学 の研 究者 で あ ったが,方 法論 的 には,本 学 にお いて師事 し た加 藤 を通 じて山本経営学 の影響 を強 く受 けていた。前任校 の 甲南大学 の時代 か ら始め た ドイツ経営学 におけ る経営規模 論 の研 究 をテー マ に,『彦根 論 叢』 に 4編 を寄稿 す る。 しか し,そ の後,道 明の関心 は ドイツ経営学か ら離 れ,経 営規模 論 の研 究 は 中断 され る。番 わ って,研 究 テー マ とな るのは,イ タ リア ・ イギ リス等の各 国におけ る企業行動 の財務 的 な分析 と比較 であ る。本学 の経営 学研 究 の第 3段 階 において展 開 され る 「比較経営研 究」 の系譜 を先取 りした も の とい うこ ともで きる。 及川宣生が赴任す るのは,道 明 と同 じ72年のことである。東北大学において 国弘員人の指導 を受けてい る。及川は,『彦根論叢』200号までに11編を寄稿 し ている。いずれ も,経 営者支配の経営体制の改革 と支配権 力の移動 をテーマに しなが ら,ア メ リカを中心 とす る現代の株式会社 におけ る取締役会の機能 と制 度的な意義 に関す る研究 を内容 としている。及川の取締役会に関す る研究は, その後,『彦根論叢』210号および222・223合併号に掲載 され る論稿 を含めて, 1985年に著書 『取締役会制の意義』 として刊行 され るこ とになる。 74年に赴任す る神 山進は,本 学 を卒業の後,神 戸大学において市原季―に師 事す るが, ドイツ経営学 を専攻す ることはなかった。む しろ,本 学で指導 を受 けた進藤の影響 の もとに,行 動科学的な研究テーマ を選択す る。神 出が取 り組 んだのは,ポ ス ト人間関係論 におけ る動機づ け理論 であったのであ り,ま た, 70年代の後半に世界の経営学に決定的な影響 を与えたコンティンジェンシー理

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論 にお け る組 織分 析 の研 究 であ ったの であ る。 『彦根 論 叢』 171号か ら200号 ま でに 6編 を寄稿 してい る。 本学 におけ る経営学研 究 の系譜 の第 2段 階 は,こ の よ うに,多 くの優 れ た研 究者 を相 次 いで迎 え入 れ るこ とに よって,名 実 ともに充実 した もの となった。 この時代 の経営学 界全体 におけ る行動科 学的研 究 な らびに意思決定論 的研 究 の 動 向 に影響 を受 け なが らも,そ の なかか らそれ ぞれの教 官が展 開す る独創 的 な テー マ の 多様 な研 究 は,量 的 に も質 的 に も本学 におけ る経営学研 究 を豊か な も の にせ ず には措 か なか ったのであ る。 しか し,こ の第 2段 階 におけ る勢 いは, その ま まの形 では次 の段 階 に引 き継 ぐこ とはで きなか った。 1968年の加藤 の転 出 した後,79年 に道 明が愛知大学 に転 出,83年 に進藤 が定年退官す るのに次 い で,86年 には水 原が大 阪学院大学 に,及 川 (伊藤)が 福 島大学 に相 い次 いで転 出す るこ とに な る。本 学 におけ る経営学研 究 の系譜が第 3段 階 を迎 え るため に は,新 たに,研 究 ス タ ッフの補 充 を待 たなければ な らなか ったのであ る。 IV 実 証 的 な経 営戦略研 究 と比較経営研 究の展 開 -201号 か ら300号 まで (1980年 3月 ∼1996年 2月 ) 経営学関係 の教 官の補 充 は,1980年 代 に入 って直 ちに行 われ る。 その結果, 第 3段 階 を通 じて,併 せ て12人 の新 しい研 究者が赴任 す るこ とにな る。す なわ ち,野 本 明成 (81年 マ ー ケテ ィング論),戸 田俊彦 (83年 経 営管理 論),黒 川晋 (83年 経 営技術論 ),上 村雅洋 (84年 日 本経営 史),金 井一頼 (85年 経 営戦 略論),瀬 岡誠 (86年 経 営 史),藤 村博 之 (90年 経 営 労務 論),奥 村 哲 史 (90年 経 営心理 学),伊 藤博之 (92年 経 営組織論),方″島沢歩 (92年 西 洋経営 史),竹 村正 明 (93年 マ ー ケ テ ィング論),大 田肇 (94年 経 営組織論) であ る。 それ ぞれ に新 しい問題 意識 と研 究意欲 を もって赴任 して きた研 究者 た ちは,同 時 に,従 来 の経営学 のアプ ロー チ と異 な る新 しい研 究方法 を も導入 し て くるこ とに な る。 その 1つ が,「 実証 的 な経営戦略研 究」 の方法 であ った。 経営学 は,サ イエ ンスであ る とともに,ア ー トで もなければ な らない。 この

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彦根論叢』300号に見る経営学研究の系譜 79 二面的性格 を もつ経営学 にお いて,従 来,そ の科学化 に最 も貢献 して きたのが 意思決定論 的 なアプ ロー チ で あ り,そ の上 に建 て られ た経営組織 の理論 であ っ た こ とは周知 の通 りであ る。本学 におけ る経営学研 究 の第 1段 階か ら第 2段 階 に至 る発展の系譜 もまた,そ のような組織理論 を中心 とした経営学の科学化ヘ の過程 であった。 しか し,組 織理論的研究に基づ く科学化の過程が一段落 した 1970年代 の後半になって,経 営学のアー トとしての重要性が改めて指摘 されて くる。 そこに クロー ズ ・ア ップ されて きたのが,従 来の組織理論的方法では解 決す ることので きなかった 「企業の主体的環境適応の手段」に関す る問題 であ り,経 営戦略の問題 であった。経営組織に替わって,新 たなキー コンセプ トと なったのが,「経営戦略」 とその担い手 としての 「企業者職能」であったので ある。第 3段 階に入って赴任す る教官たちの研究方法は,中 小企業の経営戦略 研究において優れた実績 をもつ戸田を始め として,そ れぞれに研究テーマ を異 に しなが らも,こ の ような戦略的アプローチヘの指向を示 していたのである。 他方,第 2段 階において活躍 を始めていた教官たちも,す でに10年を越える 研究歴 を経て,そ れぞれに最初 の研究 をまとめ,あ るいは在外研究の経験 を重 ねなが ら,次 のステ ップに進むための新 しい研究方法の模索 を試みていた。そ して,そ の結果 として,選 択 され ることになったのが,各 国の企業体制 を実証 的に比較分析 しようとす る 「比較経営的研究」の方法であったのである。 この 比較経営的研究の方法は,90年 代 に入 って急速に進展することになった世界的 な体制変革の動 きとともに,さ らに重要 な社会科学的意味 をもって くる。それ は,世 界各国の産業組織がいずれ も市場経済体制の下に置かれるようになった 現在,そ の競争的優位性は,そ れぞれにおける支配的な企業体制の比較によっ て しか検証 で きな くなったことによっている。第 3段 階におけ る本学の経営学 研究の中心的立場に立たされ ることになる吉 田 と門脇,こ の段階において意欲 的な 日本的経営の研究 を展開す る冨 田,そ のいずれの研究 も,基 本的に,こ の ような 「比較経営的研究」の方法に基づ いて展開 され ることになるのである。 第 3段 階におけ る各教官の個別的な研究について,森 俊治の研究か ら見 るこ とに したい。第 3段 階において,森 が活躍す るのは,そ の前半の10年間,定 年

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で退 官す る90年 3月 までであ る。 この問,『彦根論 叢』 に寄稿 したの は,い ず れ も経営戦略 としての研 究開発 をテーマ とした 2編 の論稿 であ る。森が,本 学 に在任 中に 『彦根論 叢』 に寄稿 した論稿 は,第 2段 階 と併せ て も 8編 にす ぎな い。 それに もかか わ らず,本 学 の経営学研 究 に対 して,森 の与 えたインパ ク ト は決 して小 さな もの では なか った。 森が研究テーマ としていたのは,89年 に刊行 した著書 『研究開発管理論』の 副題 に もあ るように,「技術革新 に対応す る管理体系の研究」であった。そ し て,森 によれば,そ の管理体系の中核 をなすのが,研 究開発でなければならな か ったのである。従来,企 業の管理体系は,生 産職能 ならびに販売職能 を中心 として形成 されて きた。 しか し,現 代 におけ る技術革新の急速 な進展の下にお いて,企 業者の革新的な職能 を実効力あるもの とす るためには,生 産職能およ び販売職能に替わって,研 究開発 こそが中心的に機能 しなければならない。 そ のためには,こ れ までスタッフ的な職能 として捉 えられて きた研究開発が管理 体 系の中核的な職能 として位置つけ られ ることが必要 である。それこそが革新 的 な企業者職能 に適合 した最 も有効 な経営戦略ではないか。 そのために求め ら れ るのが,「生産過程 の中核 をなす研究開発の理論」でなければな らないので はないか。 これが,森 の主張である。 そ して,こ の主張 こそが,63年 に刊行 し た森の最初の著書 『研究開発管理』以来一貫 して続けて きた ものであった。そ れだけに,80年 代 に相次いで赴任 して くる若い教官たちの もつ経営戦略的アプ ローチ との出会 いは,ま さに我が意 を得 た りの感があったのではなかろうか。 吉 田修が 『彦根論叢』第 3段 階に寄稿 しているのは, 6編 の論稿 である。 い ずれ も,「労働 の人間化」 をテーマ としている。吉 田は,最 初 の著 『ドイツ経 営組織論』 を刊行 した1976年の10月か ら 1年 間, ドイツにおいて在外研究 を行 っている。 そこで出会 ったのが 「労働 の人間化」のテーマであったのである。 吉 田に よれば,労 働 の人間化 には,技 術的なレベル,社 会的なレベルおよび政 治的なレベルの 3つ の実現段階がある。そ して,そ のいずれのレベルにおいて 労働 の人間化が実現 され るかは,そ れぞれの企業の置かれた経済体制 ならびに 企業体制 によってそれぞれに異なって くる。 ド イツでは,「共同決定の体制下

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彦根論叢』300号に見る経営学研究の系譜 81 におけ る経営 の意思形成へ の参加 と,そ れに基づ く最適 な労働 の形成」 として 実現 され たの であ る。 吉 田の研 究 は,85年 に な って 『西 ドイツ労働 の人 間化』 として刊行 され る。 そ して,こ の著 にお いて労働 の人間化 との関連 で取 り上 げ られ た 「企業体制」 の問題が,彼 の次の研究 テーマ となる。企業体制 とは,「企業 とい う 1つ の経 済組織の構造様式あ るいはその支配関係の様式」 を意味 しているのであ り,先 に見た比較経営的なアプローチの最 も重要 なキー コンセプ トの 1つ として用い られなければな らない。 コー ポレー ト・ガバナ ンス,労 働者の経営参力日,所 有 と支配の関係等,今 日の比較経営的研究の主要 なテーマ を形成す るこれ らの間 題領域は,い ずれ も企業体制 との関連 を抜 きに しては捉 えることがで きないか らである。94年になって,吉 田は,新 たに 『ドイツ企業体制論』 を刊行す る。 そこにおいて, これ らの諸問題 をテーマに,現 代の ドイツ, 日本お よびアメ リ カの基本的な企業体制の比較が試み られている。 門脇延行 は,第 2段 階の後半に,ハ ンガ リーの国営企業に関する3編 の論稿 を寄稿 している。 そ して,第 3段 階に至 って,さ らに 5編 のハ ンガ リーの企業 問題 に関す る論稿 を寄稿す る。すでに見 たように,第 2段 階におけ る門脇の中 心 テーマは,ソ ヴェ トの企業管理の研究であった。 しか し,門 脇に とって,ソ ヴェ トの企業管理論には,彼 の求め る社会主義企業 システム としての展望 を見 出す こ とがで きなか ったのである。1976年の秋か ら20ヵ月間,門 脇はハ ンガ リ ーにおいて在外研究 を行 っている。難解 で知 られるマジャール語 を独習 しての 留学であった。門脇がハ ンガ リーに着 日したのは,68年 の経済改革 をきっかけ にハ ンガ リーが企業の 自律性 を尊重 した市場 メカニズムを導入 したことであっ た。門脇は,そ こに社会主義企業 システム としての 1つ のあるべ き姿 を見 よう としたのである。 『彦根論叢』220号に寄稿 された 「ハ ンガ リーの企業管理組織 の改革」は,ハ ンガ リーに寄せ る門脇の思いを最 もよ く物語 っている。 しか し,門 脇の 『彦根論叢』への寄稿 は,85年 11月の234・235号「松尾博教 授退官記念号」の後,数 年間にわたって,中 断す る。周知のように,そ の間の 80年代の後半か ら90年代 にかけて,ソ 連 。東欧におけ る社会主義体制が崩壊す

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る。 それ に ともなって,ハ ンガ リー もまた社会 主義経済か ら自由経済体制へ, 完全 な市場競 争 の下 におけ る企業体 制へ と移行 す るこ とに な ったの で あ る。社 会 主義企業 システムの研 究者 としての門脇 の新 しい苦悩 が始 まる。新 しい視 点 と研 究方法 の模 索が始め られ る。95年 2月 の『彦根 論 叢』220号に,門 脇 は,「体 制 転 換 と民営化 のハ ンガ リー の道」 を寄稿す る。 そこにおいて,門 脇が選択 し たのは,現 実に進行す る改革 を直視す ることであったのであ り, また,あ るべ き企業体制 に向けての 「比較企業 システム」研究の方法であったのである。 冨 田光彦の本学への赴任は,先 に見たように,1971年 であった。 しか し,経 営学的研究 の成果 を 『彦根論叢』に寄稿す るのは,85年 1月 の230号か らの こ とである。300号までに併せ て 9編 を寄稿 している。いずれ も海外 に進 出 した 日本企業によって展開 され る経営戦略の実態が取 り上げ られている。今 日,ア ジアの全地域に展開 され る国際的な生産分業体制の進展において, 日本企業の 海外進 出が避けがたい もの となっている。 しか し,そ れ とともに,海 外進 出す る日本企業に とって,取 り組 まなければならない多 くの問題が次々に発生 して いることも事実 である。その問題の 1つ として,進 出先の現地における労務管 理 にかかわる問題がある。冨 田が取 り組んだのは,こ の労務管理的な問題, と りわけ,中 間管理職の現地化の実態に関す る研究であった。冨日の研究方法は, 主 として,直 接的な実態調査 によって得 られ るデー タを中心 とす る実証的な分 析 を特徴 としている。本学へ の赴任以前におけ る10年にわたる総合商社 での経 験 を生か した実証研究は,他 を寄せつけない説得力 をもっている。 冨 回の研 究対象 は,当 初,ASEAN諸 国か ら始 まった。 その後,そ の対 象 はイギ リスお よび中国へ と拡大す る。 それ と同時に,冨 田の問題意識 も,労 務 管理 的な問題か ら, 日本企業 の経営戦略 その ものが進 出先の経済的ならびに社 会的体制の下 で どの ように受容 され るかの問題へ と発展す る。 そ して,そ こに おいて直面す るこ とになったのが,「 日本的経営」それ 自体 の独 自性 に関す る 問題 であったのであ る。 『彦根論叢』285・286号な らびに287・288号に寄稿 さ れた 2編 の論稿 が,Vヽずれ も日本的経営 と企業文化 をテーマ としているのは, その ような冨 田の問題意識 を示す もの とい うことができる。

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彦根論叢』3 0 0 号に見る経営学研究の系譜 8 3 戸 田俊彦 は,83年 に本学 に赴任 す る。名古屋大学 において未松 玄六 の 中小企 業論 の指 導 を受 け た戸 田は,す でに東海地方 の 中小企業 を対象 に行 った実 態調 査 を もとに,企 業倒産 に関す る研 究 の実績 を重 ねていた。本学赴任 の翌84年に は,そ の研究 をまとめた著書 『企業倒産の予防戦略』 を刊行す る。い うまで も な く,企 業は,そ の存続 を至上命令 とす る組織である。 しか し, 自由な市場競 争の下 では,い ずれの企業に とって も,倒 産 は避けがたい事態の 1つ であるこ とも事実 である。経営戦略的にみて,企 業の成長には固有の要因が作用 してい るように,企 業の倒産に もそれぞれに固有の要 因が作用 している。それ らの倒 産 に作用す る要 因を明 らかにす ることがで きるならば,そ して,そ れを予防す るための方策 を立てることがで きるならば,企 業の存続 と成長への道はおのず か ら開かれて くる。戸田の研究の意図は,そ こにあった とい うことがで きる。 戸 田は,本 学に赴任 の後,『彦根論叢』に 7編 の論稿 を寄稿 してい る。その なかに,戸 田の もう 1つ のテーマの展開 を見 ることができる。それは,258・259 合併号に掲載 された 「中小企業経営者の性格 ・意識 と企業経営上の特徴」であ る。信長 ・秀吉 ・家康 とい う3人 の戦国武将の性格的な類型化 と,そ れ を現代 の激変す る環境の下に置かれている中小企業の経営者の戦略行動に対応 させ よ うとす る試みは,独 特の説得力 をもった研究 となっている。 神 山進の研究につ いて見 なければならない。 この段階に至 って,神 山の研究 は大 きく変化す る。第 2段 階において行動科学的な組織研究 を展開 していた神 山の関心は,そ の後,社 会心理学的な方向に向け られ ることになる。新 たに選 択 されたテーマは,繊 維 ・アパ レル製品の市場におけ る消費者行動の社会心理 学的な研究であった。相次いで,2つ の著書が刊行 され る。『被服心理学』 (1985 年)お よび 『衣服 と装 身の心理学』 (1990年)で ある。経営戦略論 の研究 にお け る新 しい領域 を開拓 した独創的な業績 とい うことができる。 本学におけ る経営学研究の第 3段 階 を担 う5人 の教授の研究 を見て きた。次 いで,こ の 5人 に続 く世代の教官たちの研究について見てい くことに したい。 野本明成は,大 阪大学において高田馨の指導 を受けた。 しか し,野 本が専攻 したのは, ドイツ経営学ではな く,マ ーケティング論 であった。81年に本学に

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赴任 した後,『彦根論 叢』 に 6編 を寄稿 して い る。 野本 の とった研 究方法 は, 数理分 析 的 なマー ケ テ ィング ・サ イエ ンスの方法 であ った。 2つ のテーマが選 択 され て い る。 1つ は,ビ ー ル業 界におけ るマー ケ ッ ト ・シェアに関す る研 究 で あ り,他 の 1つ は,意 思決定支援 システム としてのエ キスパー ト ・システム 構築 に関す る研 究 であ る。 金井一頼 は,85年 に本学 に赴任 す る。神 戸大学 において 占部都 美 の指導 を受 け た気鋭 の研 究者 であ った。本学 の経営戦略論研 究 におけ る中心 の 1人 として 期 待 され たが, 4年 後 の89年 に北海道大 学 に転 出す る。 『彦 根 論 叢』 に は, 1 編 の論稿 が残 され て い る。233号 に掲載 され た 「中小 企業 の革新 適 応」が それ であ る。金井 の経営戦略論研 究 におけ る中心 テーマ であ った。 黒 川晋 は,金 井 と同 じ く,神 戸大学 において 占部都 美の指 導 を受 け た。83年 に本学 に赴任 して い る。 テー マ としたのは,技 術 開発戦略 の研 究 であった。黒 川 は,赴 任後 ま もな く,マ サ チュー セ ッツエ科大学 に留学す る。 3年 間の留学 の後,マ サ チ ュー セ ッツエ科 大 学 か ら Phe D。の学位 を受 け るこ とに な る。 そ の学位論文 が,本 学 の研 究叢書 の 1冊 として刊行 されてい る。す なわ ち,“Zu‐ House R&D versus External Technology Acquisitions''(1992年)で あ る。

藤村博 之 が本 学 に赴任 す るのは,90年 であ る。名古屋大学 で小 池和 男の指導 を受 け,本 学へ の赴任 以前か ら,労 働 問題 の優 れ た研 究者 の 1人 として知 られ て い た。 『彦根 論 叢』 に は 3編 を寄稿 して い る。 いず れ も, 日本企業 におけ る 労務 管理政策 をテーマ として い る。一 方,藤 村 は,94年 に本学 の研究叢書 の 1 冊 と して,『ユー ゴ労働 者 自主管理 の挑 戦 と崩壊』 を刊行 してい る。 ソ連 。東 欧 におけ る社会 主義体 制 の崩壊 とともに解体 した旧ユー ゴにおいて,か つ て存 在 した独 自の労働 者 自主管理 の企業体 制 を取 り上 げた ものであ る。 門脇 のハ ン ガ リー研 究 とともに,本 学 におけ る社会 主義企業 システムに関す る比較経営 的 研 究 の貴重 な成果 とい うこ とが で きる。 奥 村 哲 史 もまた,90年 に赴任 してい る。早稲 田大学大学院 の時代 か ら,奥 村 が テーマ としていたのは, と くに交渉過程 に関す る経営心理学的研 究 であ った。 『彦根 論 叢』 に掲 載 され た 2編 の論稿 な らび に ミンツバー グの書評 の いずれ も,

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彦根論叢J300号に見る経岩学研究の系譜 85 交渉過程 としての管理 者 の役 割 の問題 を取 り上 げ て い る。 太 田肇 は,94年 に なって赴任 して くる。 黒川 ・藤村 と同 じ世代 に属す る。社 会 人経験 を経 たの ち,神 戸大 学 で加 護 野忠 男の指 導 を受 け た。 大 田 もまた,本 学 に赴任 す る以前 に,組 織論 の研 究者 としての優 れ た実績 を積 ん でい る。現代 の企業 におけ る組織 と個 人の間の新 しい関係 をテー マに,す でに, 3冊 の著書 を刊行 してい る。すなわち,『プ ロフェッシ ョナル と組織』 (1993年),『 日本企 業 と個 人』 (1994年)お よび 『個 人尊重の組織論』 (1996年)で ある。 なお,92年 になって伊藤博之が,そ して,翌 93年には竹村正明が赴任 して く る。 いずれ も,神 戸大学大学院の後期過程 に在学す る若い研究者であった。伊 藤 は加護野忠男の指導 を,竹 村は石井淳蔵の指導 を受けている。 ともに,戦 略 論的 な方法 を基礎 に しなが ら,経 営組織論 を専攻す る伊藤 とマーケティング論 を専攻す る竹村の研究に対 して,本 学におけ る経営学研究の次の発展に向けた 大 きな期待がかけ られている。 第 3段 階におけ る経営史研究の系譜につ いて見 なければならない。先 に見た ように,1972年 に丼上洋二郎が本学に赴任 している。 日本における造船 ・海運 業に関す る経営史的研究の業績で,経 営史の学界においてすでに一家 をなして いた井上 は,『彦根論叢』第 3段 階において も3編 の論稿 を寄稿 している。 し か し,井 上の よ り大 きな貢献は,本 学におけ る経営史研究の体制 を確立す るこ とにあったのである。86年に水原が転 出 したのち,上 村雅洋 と瀬岡誠 を相次い で呼んで くる。 ともに大阪大学出身であ り, 日本の企業者史の研究 を専攻 して いた。 しか し,上 村 と瀬岡の本学での在任 は長 くは続かなか った。90年 3月 に 井上が定年退官 した後,同 じく90年に瀬岡が,94年 には上村が転 出す る。 さら に,92年 に赴任 していた西洋経営史専攻の方,島沢 も95年に転 出す るのである。 直 ちに,経 営史の研究体制の再建 が図 られなければな らなか った。94年10月 に宇佐美英機が,そ して,96年 4月 に阿知羅隆雄が本学に赴任 して くる。宇佐 美は近世 日本経営史,阿 知羅は19世紀 イギ リスの企業者史 を専攻す る, と もに 実績 を積 んだ研究者であった。 この 2人 を中心に本学の経営史研究の系譜が継 承 され るこ とになったのである。

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V 結 びにか えて 『彦根論叢』300号に至 る50年の歴史に よ りなが ら,本 学 におけ る経営学研 究の系譜 につ いて見 て きた。「科学 としての経営学の理論 と方法の権立」の第 1段 階,「経営におけ る行動科学的研究 と意思決定論的研究」の第 2段 階,「実 証的な経営戦略研究 と比較経営研究」の第 3段 階の各段階において,そ れぞれ に紆余 曲折はあった。 しか し,全 体 として見 るならば,本 学におけ る経営学の 研究は順調に発展 して きた とい うことがで きる。そ して,そ の間に蓄積 されて きた研究業績 ならびに活躍 した研究スタッフの陣容 を見 るならば,量 的に も質 的に も,決 して他学にひけ をとるものではない と自負できるのではなかろうか。 今後の さらなる発展 を十分 に期待す るこ ともで きるのではなか ろ うか。 最後 に,本 学の経営学研究 スタッフを総動員 して行 われた 1つ の共同研究の 成果 を上 げてお きたい。共 同研究に参加 したのは,吉 田,門 脇,冨 田,戸 田, 野本,黒 川,藤 村,奥 村の 8人 に,経 済学科の山崎朗であった。1988年か ら3 年間,学 内特別研究経費 を得 て,滋 賀県内の企業 を対象にアンケー ト調査 を行 うことになった。企業者職能,立 地戦略,労 務管理,労 使 関係,技 術開発,マ ー ケティングならびに海外進出等の戦略要因について,そ の実態を調査 ・分析 す るこ とに よって,今 日の県内企業の経営者の行動 を明 らかに しようとしたの である。アンケー トの集計 ・分析 の後,そ れぞれの分担に基づ いて,論 稿が作 成 され る。 そ して,93年 に至 って,そ の結果が 1冊 の著書 として刊行 され る。 滋賀大学中小企業経営研究会編 『現代近江の企業家群像』がそれである。本学 の経営学研究の系譜におけ る 1つ の成果 とい うことができるのである。 (なお,本 稿 の作成にあたって取 り上 げたそれぞれの教官の研究内容 につ いて は,筆 者の及ぶか ぎりの理解 に努めた所存ではあるが,思 わぬ誤解や言葉の足 らない点のあったこ とも考 えられ る。その場合 は, くれ ぐれ もご寛恕の程お願 い申し上げ る次第である。)

参照

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