な ぜ
数 学
は
教 育
の
中心
に
あ
る か
東
京理科 大 学小 松
彦
三郎1
. 松蔭
と工部大
学 校日本は、 わ れ わ れ日本 人に とっ ては、 ち っ ぽけな、 ま だ ま だ開発
途
上の 国で あ る が 、外
国か ら見る と意外
に大 き く、 高度
に発達した、 人 に羨
まれ る存 在である。 ア ジア の 国 々 や ヨー ロ ッパ の小国に行 くと、 日本が幕
末か ら明治にかけて、 ま た第
二次大戦
の後
で、 どう
して急
激に発展
することがで きたか聞
か れるこ とが ある。 私の 答は、 日本は既に17
,18
世紀に高度に発 達 し た数 学をも
っ てい て[
1}
、 幕 末に は庶 民に まで普 及 してい た か ら とい うの で ある。 私は数 学者で、 相 手 も大 抵の場 合は数 学 者だか ら こ ん な答で納 得 して くれ る。 し か し、 似た よ うな条件の 国は た く さ んあっ たの に 、 なぜ 日本 だけ が数学
を大
切 と考
えたの か、考
えてみ れ ば不思 議で ある。森 喜
朗
総 理大 臣 な ら日本は 厂天皇 を中心と して い る神
の 国である という
ことを 国民の皆 さん が承 知 を してい た」か ら と答 える で あろう
。 これ も事 実に反 する と は言え ない 。 勤王 の 志士達はこ の 考 えに立 っ て我が身
を さ さげ、 明 治維
新を成 し 遂 げ た。 これ に続 く明治の 元勲たち も同 じ考
えであっ た。 伊 藤博 文、 井上毅らが 作 成 した帝 国憲法
(
1889
)
、 教育
勅語(
1890)
をみ れば明ら かで ある。 国民の殆ん ど もこの考
えに従
っ た。第
二次大
戦の 最後
の局
面で も、 人事
を尽
くせ ば 天佑神
助が ある と信 じて 疑わ な か っ た。 菊池 大 麓(
1855
−1917
)
は11
歳で イ ギ リス に留
学 し、 ケ ンブ リッ ジ大 学で教 育を受 けた人である が、 こ の人で さえ、1907
年 及び1910
年
の イ ギ リス 、ア メ リカ訪問で は、 日本の 成 功は教 育 勅 語に基づ く教 育の 成果であ る と し、 教育
勅 語の英 訳まで用意
して力 説 し た[
2
,pp
.232
−236
]
。この、 日本は 天
皇
を中心とする神の国であ
る という
思想を確 立 し たの は、 水 戸 学な どの 先駆 は あっ た に して も、吉
田松 陰(
1830
−1859)
である とい っ て 間違い は ない であろう
。彼
は、 承知
の通 り、1854
年
ペ リ ーの :二度
目の 来航
の 際ア メ リカへ 密 航 しようと し、 折 角の 条約締 結 がこわ れ るの をお そ れ たペ リ ー に断
ら れ 、 下 田 の獄につ な が れ る。 そして、 一旦は 長州藩
に送られ、 野山
獄で1
年
を過ご した後、軟禁
の状態
で故
郷の松本村
で松下村
塾を主宰
する。 それ か ら2
年
あ まり
の後
、 再 び投獄 されて江 戸で安
政の大獄最 後の 犠牲者 と して処 刑さ れ た。 こ の 短い 期 間に 教 えた塾 生たち30
人ば かりが、 長 州藩 を動か して明 治維 新 を成 し遂 げた。 高杉 晋 作、 久 坂 玄瑞、 入江 杉蔵
な どの人々 は中途
で亡 くなっ た が、 生き
残 っ た伊藤 博文、井
上馨
、山県有
朋、 品川弥二郎
、野村靖
たちは明治
政府
の 中核
となっ た。革命
を 実 行 する人はふつ う破 壊 者であっ て、 政権 獲 得 後は邪 魔になることが多
い 。 松下 村 塾の生徒 達は破 壊 者である と と もに建 設 者で ある とい う世 界で も例を見ない 偉 一176 −一業を成 した。 この
点
、吉
田松 陰は最 も成 功 した教 育 者であっ た と言え
る の で は な い だろ うか。松 陰の 教 育の実 際につ い ては松陰 自
身
が詳しい 記録 を残 して いて全集[
3
]
で見 る こ とがで きる。(
入手 しや すい もの に[
4
]
がある。)
この もとに なっ た10
巻本の 全 集に は門人が書い たも
のも
いく
つ か収録
され てい る。 この他
、雑誌 「
日本
及日本
人」の松陰特集号
に貴
重 な記録
が ある。 こ の中で、 甥で吉田家を継い だ吉田庫三 と品
川弥
二郎
が一致 して松 蔭が教 えたのは数 学 と地 理だ と言っ てい る。吉
田の証 言[
5
]
では、「
学 者は算
術を卑
しみ 、士 も亦すべ き事で ない 、 と心得る者が ある、 是 は大 変な 間違で、 聖人 も六芸の中に数学 を加 えた位で 、 人生の最 大必 要物であ る、 と言っ て初 学者の為に、「
九數乗 除図」 と題する算
盤 の早学
び の 出来る表
を書 きま した。 そ れ か ら 一つ は地理学 を研 究 致 した もの で 、 凡て歴 史は、 地 図を以て研 究 せ ね ば な らぬ、 地 を離れて 人 な く人 を離れて事
なし とい ふ わけで ある か ら人事 を 論 ずる に は先づ地 理 を研 究せ ね ば な らぬ と言っ て、自
分 も調べ 、 人に も教 え まし た。」
とあ り、杉浦
重 剛が伝
える品川の談
話[
6
]
で は、「
算 術は此 頃武 家の風 習と して 、 一般に士た る者は 、如斯
こ とは心得
る に及ばず
とて卑
しみ たる もの なり
し に、先
生 は大
切な る事
とせ られ、書
生にも九々 を教 へ られ た り 。 余の如 き も算
術 は忘
れた るも、 此 九々丈
は今
も猶 記 臆せ り。余
は最 も算
術が嫌ひ な りし、 そ は算
術に通 ずれ ば、 直ちに俗吏
に用 ひ ら る ・ が故
にて 、俗 吏 と なれ ば、 相 当に威 権 も 振 ひ得
ら る 丶譯な れ ども、学 問の 修業が 、 是が為に充分 出来 ざる を以て、 一つ に は算 術 さへ 学ば ざ れ ば 、余
が父 母も俗吏
と は せ ま じ との 心 よ り、 強 ひ て学
ばざ り しが、先
生 は此算
術に就て は、 士 農工 商の別 な く、 世 間の こと算
盤 珠を はつ れ た る もの は な し、 と常 に戒 しめ られ たり
。」
とある。松
陰
の尊
王敬神
は父杉百合之助
の影響
であ
る。百合
之助は、文化
十年将軍
家斉
が太
政大 臣
に任 ぜ られ、世子
の 家 慶 も従一位に叙せ られ た際に朝
廷 か ら出 された 布 告の 写 しを持 っ てい て、 こ れ が幕府
の跋扈
と朝廷
の御威光
の衰
え を示す
もの だ と して嘆
い てい た。 また、先祖
の祭
を仏式
ではな く、自分
で定
めた規則
に従
っ て行
っ て い た[
5
]
。 家に神
棚を お い て まつ る こ と は ま だ 一 般 に行わ れ てい な か っ た ようであ る。 松陰 は、 山鹿流 の 兵 法の 家 を継い だ叔 父 吉 田 大 助 の養
子となっ て 兵 法 を学んだ。 もう 一人の叔 父 玉木 文 之進は儒 者の家を継い だ 。 松下村 塾は もと も と はこ の 人 が始
め たもの である。 松 陰は文 之進の ス パ ル タ式 教 育 を受 けてい る。 松 陰の 、 客 観 的 世 界を数 学 的に把 握 する という
態 度は、 一 つ には兵法者
の「
彼を知 り、 己を知
る」
ことに由来するであろ うが、 もう 一つ は 、 後で詳 し く述べ る よう
に、朱子
学の 日本 的解釈
に理由
があ
る よう
に思わ れ る。他 方、 ヨ ー ロ ッ パ の教
育
では伝
統 的に数学
が尊重
さ れて きた 。 そ もそ も、 ヨ ー ロ ッパ の高等
教育
は プラ トンが始
め たアカデ メ イア(
387BC
頃
一529
)
に原形
が あ る。 その 門には「
幾何 学
を学
ば ざる者
は入 門 を許 さず」
とい う言葉 が掲 げられ てい た という伝 説
が あるが、 その通 りにそこ で は数 学 的教科
が重
ん じ ら れ ていた
[
7
]
。 中世 に なっ て も、 ヨ ー ロ ッパ の修
道 院や大学
で の学科
は算術
、 幾 何、 天 文学
及 び音 楽 という
上位
四科
(
quadrivium
)
に 、 文 法、修
辞、 論 理の下位
三学
(
trivium
)
を加 えたもの で あっ た。 ケ ン ブリッ ジ大 学で は19
世紀末 まで こ の伝 統 が保た れて い た。 学 部学 生は基本
的に数学
とラ テン語 ギ リシャ語だ けを勉 強 す れ ば よか っ た。優等
生 になろう
とする学 生はまず数学
だ けの トライボス(
tripos
)
試 験 を受 ける。 こ れ に第
一等 級
の成
績で 合 格 した も の は wrangler と呼
ば れ、非
常 に名誉
なこ と と され た。特
に上位
3
入位
まで の人達はカ レッ ジの フ ェ ロ ーにな り、好
きな研
究に専念
するこ とがで きた。古典
語の トライボス 試 験 もあっ た が、1850
年 頃まで は数 学の トラ イ ボス試
験 合 格 者で な けれ ば受験 す
ら許 されな かっ た。 同 じ頃数
学の トライ ボス 試 験 に もよう
や く物 理 学が加 味 さ れ る よう
になっ た とい う [2
,pp
.95
−97]
。 そ れ ぞ れの専 門の試 験はその後 に受
ける の で ある 。G
.H
.バ ーデ ィは20
世紀前 半の イギリス を代表
する大数学 者であ っ た が 、1898
年 に受け た数学
の トラ イ ボス 試験で は 第四 位 の 成績しか とれず、1900
年 に受け た数学
専 門の卒
業試 験で第一位 となっ て よう
や くフ ェ ロ ーの 地位を得た [8
,p
.95
]
。1900
年 頃の 数学
トライ ボス 試験の 問題の例は ホ イ ッ テイカー一一ワ トソ ン の 教 科書[
9
]
で見る こ とが で きる。決
して易
しくない 。 電磁気学
や流体力学
で よ く用い ら れ る ス トー クス の 公式
も、 論 文で発表
さ れ たの で はな く、 この試験
問題の 一つ で あ っ た とい う。 この よ うな教育
で ケ ンブ リッ ジ大学
は一大
学で フ ラ ン ス ー国より多
くの ノーベ ル 賞受
賞者 を育て るの に成 功 した。松 陰に ヨ ーロ ッ パ の
影響
が なか っ たと は言
えない 。 彼 は非 常 な勉
強家で、 獄 中 にある と き な ど毎 日数冊 の本
を読
んだ とい う。特
に洋式兵法
につ い て熱
心に研 究 した。 下 田事件 まで の1
年
間は 江 戸 で佐 久 間象
山に師事
した。 松下村塾
でも
洋式 の 軍事
訓 練 を行っ て い る。 後に高杉晋作
が おこ した奇兵隊
は松 陰
の西洋 兵 法の用
語奇
兵 を とっ た もの で ある。 源 了 圓教授に よれ ば 、象
山は「
詳証 術(
数学)
は萬 学の 基 礎 な り」
と書
き残 してい るそ うである。と もあれ、 生 き残 っ た塾生 と長 州 藩の 同
僚
たちは、新
国家の建 設 に必 要な人材 の 養誠 の た め教育
機 関の整備に努
め、 その 際 数 学に重点
を置 くことを忘
れな かっ た。 まず、 藩校明倫館
で松 陰の 門下生であっ た木
戸 孝 允は1868
年
(
明治
元年
)
に普
通 教育
の振
興につ い て建 議 し、 これ が文部 省による小 学 校 と師範 学 校の 設 立につ なが る。1870
年
に は山
尾 庸三(
1837
−1917)
らの建言によ り工部省
が設 けられ 、 工部大
丞 となっ た山尾 と伊 藤博文
(
1841
−1909
)
は翌年この 下に工部 学 校 を設立 する こ と を建議 した。山尾
は伊藤
と共に勤 王の 志士 として活
躍 した人で、1863
年長州 藩が幕府
の禁
をお か してイ ギ リス に派
遣 した伊
藤、 井上馨
ら5
人の留
学 生の 中の 一 人で ある。 伊藤
と井
上 は翌年
の長 州藩
と四国連合艦
隊の 戦争に際
し急遽
帰 国し た が、 山尾は1868
年 まで留
っ て造船
学を修めて帰国
した。山
尾たちの建 言は直
ち に太 政 官に採納
さ れ、 山尾と工部 大輔 となっ た伊
藤が こ の学校
設 立 にあ たっ た。 教 師は イ ギ リス か ら招 くこ と と し、 その 人選は、 折か ら条
約改正の ため派遣
さ れ 一178
一た
岩倉使節
団の 一員
となっ て欧 米 を訪問 する伊藤
に任 さ れ た。 この条約改
正交渉
は思
っ た よう
に はゆかず、使節
団の イ ギ リス到着
は翌年夏
になっ て しまっ た。それや こ れ で実 際の 開
校
は1873
年
8
月
になるが、 都検
(
principal
)
に任 命 され た ダ イヤ ー(
Henry
Dyer (
1848
−1918))
と山尾の 構 想で当
時最 先端
の 工科大学
が誕 生 した。 土 木、 機 械、 電信、建築
、実
地化学
、 鉱山
の6
学科
を もつ6
年
制の大学
であ
る。始
め工学寮
とい っ た が、1877
年工部大 学 校と改 称 し、1885
年
文部省
の 下 にあっ た東
京 大 学工 芸 学 部 と合 体 して帝国大 学工 科 大 学 となる まで続い た。15
歳
以 上18
歳 まで 応募 する こ とがで き、 入学試 験に は英語 読 書、 聞書、算
術 、 幾 何 学 初 歩、 代 数 初 歩、 地 理 学 初 歩、窮
理学
初歩
が課
され た。 合格 者は、2
年 間の 予 備 学で英
語、数学
、本 朝 学、物理学、 化学、 図学 をそれぞれ ほ ぼ毎
日1
時 間半
ずつ 学ぶ 。 そこ で 試験 に合 格 したも
のは2
年
間の専
門学
に進
み、 それぞれの専
門 の授 業 を受
ける と ともに実
地研修
をする。2
年後
大 試 験 を受
けこれ に合格
した もの は実地施 業の 免 状 を得
て、 更に2
年
問実
地修業
をする という
制 度で あっ た[
10
,pp
.649
−699
;11
,pp
.74
−96]
Qヨ ーロ ッパ では
物
作 りを卑
しい 仕事
と見做 し、 紳 士た るも
のは物作
りに関わ ら ない の がギリシ ャ以 来の伝
統であ
っ た。 しか し、19
世紀
になっ て 一国
の 工業力
が その国の経済力
、 軍事力
を左右
する ようにな るとそ う もい っ ておれ な くな る。伝
統 ある大学は無
関心で あっ た か ら、 国家
が技術者養成
のための教 育機 関
を作
る よう
になっ た。 ナ ポ レ オ ンが作
っ た グ ラン ・ゼ コ ール の い くつ か は この 目的のた め にで きた。 ドイツ系の諸 国で は1865
年の カ ール ス ルー工工科
大学
を皮
切 りに大学 の 外に新
た に工科 大 学が作 られ た。 こ の中で最 も有 名なの が アイン シュ タイ ンが 学 んだ ことで知ら れ る チ ュ ー リヒ の ス イス連 邦工科 大 学で ある。 とこ ろ が先 進工 業国であっ た イ ギ リス で は却っ て対 策が遅れ、徒弟修業
だ けが技術者
に なる道
で ある という
状態
が長 く続
い た 。 ダイ ヤ ーや彼
の 下で20
世紀
の 数 学教育
の プラン を たてたペ リー(
John
Perry(
1850
−1920))
は共に小 学 校 を終え
る と徒 弟修
業 をし なが ら夜
間の 学校 に通い 、 その 後 よう
や く高等
教育
を受
ける という
経 歴 を送っ て い る。 これがイ ギリス で最 も恵
まれた技術者教育
であ
っ たの であ
る。山尾
もグラ ス ゴ ーの造船所
で働
きなが らダ イヤー と同
じ夜 間の学校ア ン ダ ーソン ・カレッ ジ で勉
強 した。 ダイヤー は 日本に来てか らこの こ とを知
り、 山尾 とお おい に意気投
合 した と回想 して い る[
12
]
。工部
大
学校
は技
術者
を養
成す
る 目的で で きた世界
最 初の本 格 的な高 等教 育 機 関 で あるが、 同時にイ ギ リス の経験 も生 か して実
地教 育 を重視 した 。 上に紹介 した カ リ キュ ラム は第二次 大 戦 後に で きた新 制大 学の工学 部の カ リキ ュ ラム に そっ く りとい っ て よい ほ ど よ く似 てい る。本朝学
という
の は歴 史書の講 読で 、 新 制大 学 教養
部の 人文
・社 会 科学
に相 当する。 松下村塾で の教育
を ほう
ふ つ さ せ るもので あっ たの であろう。 窮理 学 という
のは物
理学
で ある。後
で説明 するよう
に朱子
学で いう
窮理 を日本人 が物理 と理解 したこ とか らこ の名が 生 まれ た。6
年
という修
業年
限は ス イス連 邦工 科大
学の倍 以上で あっ た が、 これ も新
制大学
の 大学
院修
士課
程
を含
めた もの と考 えれば納 得が ゆく
。 実 際、優等
で卒業
した もの にはMaster
ofEngineering
とい う称 号が 与 えら れ た 。 第1
回の卒 業生の 中に は 高 峰 譲 吉、 辰 野 金 吾、 志田林三郎、 田辺朔郎
な どがい る。彼
らの卒
業 論 文は その ま ま実施で きる ほどの もの で あっ た という
[
10
,13
]
。電信 学とい
う名
で 電気
工学 科が 誕生 したのも
世界最初
で ある。 電 信は1837
年
ア メ リ カ の モ ース とイ ギ リス の ホ イー トス トーン に よっ て独 立に発 明 された。 それ より前
ドイッ で もガウス と ウエ ーバ ー に よ る実験
が行
わ れてい た が これは実用に ならなか っ た。 西部劇
を注意深
く見
る人はア メ リカ の西 部 開拓が電 信線
の敷 設 と 共に行
われた ことに気付
い てい る であろ う。19
世 紀後半
の イ ギ リス の 世界
制覇に も電信
は欠
かせ なか っ た。海
を越 える通 信 には海底
ケ ーブル が使
われたが 、 初 期 のケー ブル は期 待 さ れ た性 能を示さ な か っ た。 長距 離 を伝わるうちに電 気信 号の波
形が乱れ て判読不 能 と なっ て し まうの であ る。1855
年 グラス ゴ ー大 学の ト ム ソン
(
William
Thomson
、 後のLord
Kelvin
(
1824
−1907
)
)
}まこの 問 題 を数 学 的に解
析
し、長
距離
ケ ーブル設計
の 指 針 を与 えた 。 トム ソ ン自身
この理論
に基
づ い て 大 西 洋 横 断 ケー ブル を設計
し、1866
年実際
に敷
設さ れ た ケ ー ブル は予期以 上 の性能
を示
したとい う。 同 じ頃イ ギ リス と イ ン ドを結
ぶ ケーブル も完 成 し、 こう して 大 陸 間も瞬 時に 通信
で きるようになっ た。 これ に前 後 して、 マ クス ウエ ル(
James
Clerk
Maxwell
(
1831
−1879)
)
は電 磁気学
を完
成し、1873
年
最 初の教 科 書 を出版 した。 これ はフ ァ ラデ ーたちに よる直観 的 な記 述 を 、 数 学 的に厳 密 に表
現 し直し た もの で あっ た が 、複雑
な連 立偏 微分 方程 式の形に表
わ されてい た ため 理解
で き る 人 は少 なか っ た。 長 距離ケ ー ブル の解 析 もトム ソ ン の 理論で は不 十 分で、 マ ク ス ウエ ル 理 論に基づ い て改めて作
り直
す 必 要があっ た。 マ ク ス ウエ ル の生 前こ の よう
な研究
を行 っ たのは、 工 部 大 学校
の 電信 学担当教 師
エ ア トン(
William
H
.Eyrton
(
1847
−1908
)
)
とペ リーで ある。 エ ア トン の在
任 は1873
−78
年、 ペ リ ー は1875
−79
年で 、 二人が 一緒
にい た期 間
は短
い が こ の間
に50
篇以 上 の共 同の論 文 を発表
し、マ ク ス ウエ ル に「
電気 学
の研究
の中
心は今
やイギ リス か ら東
京へ 移っ た」
と言わせ た そう
である[
14
]
。 現在
、 電磁気
の単
位 系は電 流の単 位アンペ ァを 基 に定義
さ れてい るが 、 これ はエ ア トン が始
め たもの で ある。ニ ュ ー トンが 「プリン チピア
」
を出版
し、力学
の法則
と万有引力
の法 則
か らケ プラーの法
則 が導
ける ことを示したは1687
年
である。 ニ ュ ー トン は、 こ の た めに まず 関数
概念
を確
立 し、 その上 で微 分 積 分学
を建
設 しな けれ ばな らなか っ た。 こ の解
析 学の誕生 は、 ギ リシャ時代
の幾
何 学の成 立に匹敵
する数 学上 の 革命であ る。 そ して、 ひき続
きイギ リス の産 業 革命が起き
た。 しか し、 この 二つ の革命
の 間に直
接
の 関係は ない 。 天 を理 解 する こ とは直 ちに地の こ とに結
びつ か な か っ たの であ る。 つ ま り、蒸気 機関 と機械の時代であ
っ た19
世紀
の 中頃 まで、 工業で使われる力学
は、 大 抵の場合
ギ リシャ以来
の 静力
学で間に合わせ る ことがで きた。 そこで生 一180 〜じた問題を解 くには連立一次 方 程 式か、 せい ぜ い 二次 方 程 式の解
法
を知っ てい れ ば よ く、古 代の 数 学で十 分で あっ たの である。 そ れ が 電気
と情報の 時 代になる と すっ か り様 子が 変わ っ て し まう。 電気 を伝 える た めには高 価な 金属である銅 を使う他
な か っ た が、 これ を節 約 し よう
とすれ ば、 偏微 分方 程 式 を、 た とえ近似 的で あっ て も、 解 か ねば な らない という事態
に なっ た。特
に初期
の時代
はそう
であ
っ た。 とこ ろが、19
世紀の 中頃、 偏微 分方程 式 を解 く方法は、 ご く特殊
な方程式
を除 けば、 フ ー リエ(
Joseph
Fourier(
1768
−1830
)
)
の 方法
(
1822
)
が ただ 一つ知
られ てい た にす ぎない 。幸
い トム ソ ンの方程式
に対 して は フー リエ の解
そのも
の が使 えた が 、 そ れ以 上は自力
で解
を見つ けなけれ ばな ら な か っ た。 そして、解
くこと がで きた場 合 も、 答は数 値で な く関 数 なの で ある か ら、 そ れ を活
用 するには利用者
の 側 に また高
度の数 学 的素養
が必 要 となる。 そ うい う時代 になっ たの である。工部 大 学 校で は、 予 科
1
年生 に数学の 講義
を毎
日1
時
間半ず
つ 、 予 科2
年生に 数 学の 講 義 と力 学の 講 義 を それぞれ週3
回 と週2
回1
時 間半 ずつ 行っ て い た が、 こ れ で も、従 来の 教 え方
で は時
間 が 足 りな くなっ たの であろう
、 ペ リー たちは大 胆 な改 革を始め た。 すな わち、 正確 な分 数で はな く、 精 度 を指定
した小数
を用い る。 定 規 とコ ン パ ス で描 く図形で は な く、 関数値
を基に方 眼紙上 に描い たグ ラフ を使 う
。 ユ ー ク リ ッ ド幾何
より解析
に重 点 を
置き
、 なるべ く早 くか ら微 分積
分 に慣
れ させ る という
教 育である。 これ は成 功 し、 工部大学校
の卒 業
生 たちは新 しい時代
の技 術者
に必 要な数 学の 実 力 をつ けて巣 立っ て い っ た。 公平
に見
て、20
世 紀はア メ リカ と日本
の世紀
であ
っ た。 この成功
の 理由
は、 両 国がこ の世紀
の 主要産業
は 工業である こ と を見抜
い て、現代
の物作
りに必要
な、 碁本 原 理を理解 しかつ 応 用で きる人材を育成 したこ とにあ る。日
本
での実験
の成
功に自
信をつ けて、 ペ リ ー 、 エ ア トンたちは帰
国後
イギ リス に 工部大 学校 を模 した教 育機 関 を作る こ とに努力
する。 一方
、ペ リーは一般 人の た め の初 等、 中等 教 育で の数
学教 育の 改革
に も情
熱を傾 けた。 しか し、 日本
で は抵抗
な く受
け 入 れ ら れ た ものが、 イ ギ リス ではそ うは ゆ か なか っ た。20
世紀になっ ても
、 イ ギ リス で は数学 教 育 を、 プラ トン の よう
に、 正 しく論 理 的 あるい は政治的判断
がで きる よう
に なる た めの 訓 練の 場と考
えて い たの で ある。 こ のた め、 ユ ーク リッ ドが 書い た とお りの ユ ーク リッ ド幾
何 を教
えるという
教 育が依 然 と して行わ れ てい た。 守 旧 派は、 技術 者の ための実
用数学
で は知性
の鍛錬
はでき
ない と してペ リーに反対
した。 ペ リーは20
年
の 試行の後、1901
年
グ ラス ゴ ーで開
か れ た大英
学 術協 会の 席上で 守旧派と対 決 する講 演 を行 う
。 翌年
、 この講演
、 この 会場 とその 後に出された数多
くの 意見、及びペ リーの 返答
を収録した本[
15
]
が出版さ れ た。 すこし遅 れて、 アメ リカの ム ーア(
Eliakim
Hastings
Moore
(
1862
−1931))
、 ドイツの ク ライン
(
Felix
Klein
(
1849
−1925
)
)
も同 じ よう
な数 学教育
改 革案を発 表 した。
彼
らの 提 案はす ぐ に各
国に採
用 され た わけで は ない が、 徐々 に取 り入 れ られ 、麓が、 逆にイ ギ リス流の ユ ーク リ ッ ド幾何 を持 ち込 むとい
う
反 動の時 期があっ た。 しか し、 小倉
金 之助 た ちの努力
で少
しずつ 改 善さ れ 、 戦中の 旧制中学や 戦後 す ぐ の 新 制高校
の数学
教育
な ど はほ ぼペ リーたちの案
に沿っ て 行わ れ た。松下村 塾の 教
育
は、 生徒が 一 人で、 あるい は数人でグル ー プ を作
っ て 、儒
学の経典
、兵法
書 などを読 むの に対
して先生 が意見を はさんだ り、生徒の意見 を求
めると いう
ス タイル で行
わ れ た。 松 蔭は、 また、 生徒に読んだ本の抜 き書 きを作
る こ とを 奨 励 した。 以下 、 そ れ に な らっ て、 数 学教 育の古典
を読みな が ら、大
切 と思わ れ る とこ ろを抜
き書 きしたい 。 テキス トは プラ トンの対 話 篇 「国 家」[
16
]
、 朱熹の 「大学章句」
[
171
及 びペ リーの「
数学
の 教育
」[
15
]
である 。 これ に は二 つ の翻 訳[
23
,24
]
がある が、 こ の抜 き書 きは新し く訳 した。2
, プラ トン の 対話 篇 「国家」
プ ラ トン
(
427
−347BC
)
が 生 ま れ たのは 、 ア テ ナ イの 威 信 を絶 頂 に導
い たペ リ ク レス の 死後
2
年
の こ とで ある。 パ ル テ ノ ン神 殿が完 成 したの はその3
年前
の 前432
年
、 ギ リシ ャ の連合
艦 隊が サラ ミ ス の沖
でベ ル シ ャ海 軍 を壊 滅 させて か ら50
年
しか経
っ てい ない 。 ア テ ナ イ はこ の とき自分たちの 町 を焦土 とする犠 牲 を払
わ なければな らなかっ た。 そ れ を考
える と信 じ られ ない ような繁
栄ぶ りで ある 。 しか し、 一方
で はア テ ナイの 衰 亡は既に始
まっ てい た。 ギ リシャ世 界 最後の 覇権
を め ぐっ てス パ ル タ と戦っ たペ ロ ポネソ ス 戦争
は前
431
年に始 まり 、 こ の後20
年 以上 も続い て前404
年
ア テ ナ イの無条件
降伏で終わっ た。結
果 として 、 ギ リシ ャ人 た ち は 自分た ちの 力で 統一国家を建 設する こ と に失
敗 した。プラ トンの 父 母は共 に名 家の出で あっ たか ら、 プラ トンは
本来
ならばアテ ナ イ の 政治
家 と して活躍 することが期待
されてい た。 プラ トン 自身 も政治
に対す
る関 心 を生 涯持
ち続
けた。 理 想 国 家の 建 設 を夢
見て3
度 もシュ ラクサ イの 招 きに応じ た ほ どである。 この旅 行 とて僭 主の 怒 りにふれて奴 隷に売られるこ ともあっ たほ どである が、 ア テ ナ イで政治
活 動をする こ と はもっ と危
険で あっ た。 ア テナイが 発展 する間は市民
の 心 を一つ にする こ と に役
立 っ た民主主義
が 、衰 退 期には衆愚
政治
に落
ちぶ れ、有
能 な将軍 た ち をわず
か な失敗 を理 由に死 刑にする一方
、 扇動 政 治 家ア ル キ ビア デ ス の 口車に乗っ て前
415
年
には シケ リ ア遠征
に乗 り出 し、3
万 以 上の 将 兵を失 うとい う大敗
北を招い た り した。 ペ ロ ポネソス戦 争の後
も対外 戦 争以 上 の惨 禍が続い た。 戦 後に で きた30
人委員会
に よ る政治
は過酷
をき
わめ 、 つ い に 内 戦 と な る 。 一年 後民 主 政が復
活 する が、 それまでに失
わ れ た人命
は 、 ア テナ イ市 民に限れ ばペ ロ ポネソス 戦 争 全期 間以上 であっ た とい う 。わずか
30
年 の 間 に繁
栄の 極み か ら奈 落の底
に落ち たの はア テ ナ イ市 民の傲 り とそ れに由
来 する政 治の失敗か らで ある。 自らは額に汗せ ず、奴 隷の労働
と同盟 国の貢 ぎ物に寄生す る暮 ら しがい つ まで も続 くわけは ない 。 しか し、 市 民た ち は 一182 −一そ
う
は思っ て い ない 。 責 任があっ た と思われる人々 を告
発 し、 死刑にする こ と に よっ て うさをは ら してい た。 ソ クラ テス(
469
−399BC
)
は その 犠牲に なっ た。 ソ ク ラ テス は た だ一 人市
民たちに彼 らの 政治 判断の根
拠 を問い た だ し、 正 しい根
拠 に 基づ い て判断す
る よう
に求
め続
けてき
たの である が 、 一般市
民に と っ ては他 な ら ぬ アル キ ビ アデ スた ちアテ ナイの 運命
を狂
わ せ た政 治家 を教 育 した詭弁家
であ
っ たの であ
る。ソ クラ テ ス に近 か っ た プラ トン は国外に出て しば らく諸国を遍 歴 す る 。 その間、 ソ ク ラ テ ス と
他
の人々 の対 話 を記 録 した という
体裁の 初期の 対 話 篇を発 表 し、 ソ ク ラ テス の 真 意 が何で あっ たか 人々 に理解 して もらう
こと に努
あた。 次々 に発 表 して いく
対 話 篇はその 内にソ ク ラテス にプラ トン自身
の思想
を語らせる もの に変
わっ て ゆ く。 そ うした中期
の対話
篇の 中で最大 最 重 要 な もの がこれ か らその 一部 を紹 介 して行 く 「国家」である。 ア カ デ メ イア開設後
10
年程
たっ た前375
年 頃に、 前430
年頃行
われ た対話
として書か れ た と想 定 されてい る[
16
下 ,p
.433
,454
]
。この 篇の 主題 は 「正
義
につ い て」
である。 その 中で、 理想の 国家の あり
かた、 そ こ で の政 治家の養 成が論
じ ら れ、 政治家 を育
て る にはまず数学
と数学
的 な科学 を教 えるべ きである とい う現 在の 日本
で は全く考
えられ ない 教 説 が述べ られてい る。10
巻 あ
る本の第1
巻ではまず
、 『そ れ ぞ れの人に借 りてい る もの を返すの が、 正 しい こ と だ』
とい う詩 人シモ ニ デス の 説が取 り上 げ られ、 これ が 「友
に は利益 を与
え、敵
には害悪 を与 え
る技 術」
と解釈
され る。 そこ に トラ シュ マ コ ス が割
り込 んでき
て『
〈
正 しい こと〉
とは、強
い者
の利 益に ほ か な ら ない 』とい い 、 ソ ク ラ テ ス と問答
の結
果、「
支 配 者が 自分 た ちの利 益になると思っ て被 支配者に命
じたこ と をその ま ま行 う
こ と」が正義で、従っ て 「弱
い もの に とっ て は不 正 を行 う
ことが 利益
である」
と言
い直す
。 問答
は な おも続 き、一応 トラシュ マ コ スが引 き下がっ た形で第
1
巻
が終わ るの である が、 本 当の意味で反駁 したこ とにな らない こと は ソ クラ テ スも
認める 。シ モ ニ デス の正義が政 治 的問 題 の解
決
に役立 た ない こ とは明
らかであ
る。 現に、 イス ラエ ル とパ レス チ ナ は 互い に こ の正義を主張
して50
年以 上殺 戮を続 けてい る。 トラ シュ マ コ ス の正義は当 時の ギ リシャ諸 国の 政治原 理で あ り、 現在
もな お大 国 の主 張 する正義である。第
2
巻以降で は プラ トンの兄であるア デイマ ン トス 、 グラ ウコ ン とソ ク ラ テス の 三人だけの対話になる。 ソ クラ テス は、 兄弟たちが再提 起 した トラシ ュ マ コ ス説
に直
ちに反論 するこ とはで きず、 理想国家 建設に話を移す。 ここ で述べ られ るの が有
名 な哲 人統治説
である。 『つ ね に恒常 不変のあ り方
を保つ もの に触
れ ることの で き る』愛
知者が国の守護
者に な る か、統
治者が哲学 者になる以外
正義
は行
わ れ ない 。 こう
して、 こ の よう
な人々をどの よう
に して養
成する か とい う問題に入っ てゆ く。教 育 論は 「国家 」の
2
ヶ 所にある。 第2
〜3
巻
に述べ られて い る文芸
・音楽
と体 操 を主 とする教
育
は総て の人 を対象
とする一般教育
であり
、哲学者
・統治者
の た めの教育
は第
6
〜7
巻
で論
じられてい る。まず
、第
6
巻の後半
で この教育
で学
ぶべ きもの が〈
善の イデ ア〉
である ことが語 られ る。 よ く知 られ て い る よう
に、 プ ラ トン は個 々 の事
物 は移ろい ゆ くが 、 その奥
に不変
の存在
がある と し、 イデ ア と 呼ん だ。 しか し、 善の イデ アが何で ある か プラ トン の 説 明は明 噺 とは言い 難い 。 『思惟 に よ っ て知 られる 世界に お い て、〈
善〉
が〈
知る もの〉
と〈
知ら れ る もの〉
に対 し て もつ 関係 は、 見 られ る 世界におい て、 太 陽がく
見る もの〉
と〈
見られ る もの〉
に対 し て もつ 関係 とちょう
ど同じなの だ』
という
太 陽の 比喩
、 あるい は もっ と分か りに くい 線 分の比 喩 に よっ て暗
示 され るだけであ
る。しか し、 それ が どの よ
う
にして得
られるか、 その方 法につ い て は次の第7
巻
で明確
に述べ てい る。 この巻
は洞窟
の比喩
で始
まる。『
教育
と無教育
という
こ とに関連 して、 わ れ わ れ人 間の 本性 を、 次の よう
な状 態に似て い る もの と考
えてく
れた ま え』
と前置 きし、「人 間は、 地 下にある洞窟に、 生 まれ た ときか ら奥
の ス クリ ー ン しか見るこ とがで きない よう
に縛 りつ けられてい て、 背後にある品物の(
太 陽に よ る) 影
しか見 ない ように強制 されてい る」
とする。 そ うすれ ば、 この 囚 人た ちは 『もっ ぱ ら さま ざ まの 器物の 影だ けを、真
実の もの と認 め る こ とにな る だろ う。』
「彼
らが こう
した束縛
か ら解放
され、後
を見
る こ とが許さ れ た とき、 以前
には影
だ けを見てい た もの の実 物 を見 よう
と して も、 目が くら んで よ く見定
め る こ とがで きない だろ う。」
そ して、見 える よう
に なっ た後
も、「以前
に見
てい た影
の ほう
が、 真 実性がある と考えるだろう。 上 方の 世界の事 物 を見ようとするならば、慣
れ が 必 要である。 遂 に、 洞窟
の外
に で て太 陽を見る こ とがで きる よう
になっ た人は、 太 陽こそが 、 目に見え
る世界にお ける い っ さい の(
ある仕 方で の)
原 因 と なっ て い る もの で あるこ とを知
る。 この 人 は わ が身
に起
っ たこ の変化
を自
分の ため に幸
せであっ た と考
え、 地下 の 囚人たち をあわ れ むよ うになるだろう
。 とこ ろが、 こ の よう
な 人 が、 もう
一度
下へ 下 りて行
っ て 、も
との座
を占め た とき
、 ま だ暗い影
が よ く見え ない こ の 人を見て、 人々 は、 あの男
は上へ 登っ て行
っ た た め に、 目を すっ か り だめ に して帰 っ て きたの だ とい い 、 上へ 登っ て行 くな ど とい うこと は、 試み るだけの値 打 ち さえもない 、 と言 うの で はなかろ うか。 人々 を解
放して上 に連
れて行
こう
とす れ ば 、殺 されて し まう
こ と が あ る かもしれ ない 。」この ように、太 陽の 比 喩に戻っ た後 ソ ク ラ テス は言 う。 『
知
的 世界には 、最 後 にかろう
じて見て と ら れ る もの と して、〈
善の イデ ア〉
がある。 い っ た ん こ れ が見 て とら れ たな ら ば、 この〈
善の イ デ ア〉
こそ はあら ゆ る もの に とっ て 、 すべ て 正 しく美
しい もの を生み出 す原 因で ある とい う結論
へ 、考
えが 至 ら なければな ら ぬ。 すな わ ちそれ は、〈
見 られ る世 界〉
に おい て は、 光と光の主とを生み出 し、〈
思 惟に よっ て知られ る世界
〉
におい て は、 みずか らが 主 と なっ て君 臨 しつ っ 、真
実性 と知
性 とを提 供 する もの である』
と。した がっ て 、厂教育 とはある人々 が 世に宣 言 し な が ら主
張
して い るよう
な、魂
の 一184 一なかに知 識が ない か ら、 自分たちが知識を な か に入れてや る
も
の で は ない 。 真 理 を知
る機 能
は は じめ か ら魂
の なか に内在
して い る。 た だ それを、 魂の全体
とい っ しょ に生 成 流転す る世界か ら一転 させ て 、実 在お よ び実在の うち最も光 り輝くもの を観るこ とに堪え うるようになる まで、 導い て行か なけれ ば な ら ない 。」 教 育と は 「向け 変 えの 技術 にほ か な ら ない 。」
『視 力 を外か ら植 えつ ける技術で はな くて 、視 力は は じめ か らもっ て い るけれ ども、 た だ その向
きが 正 しく
な くて、 見なければ な らぬ方向
を見て い ない か ら、 その 点 を直 す よ うに 工夫 する技術 なの だ。』
「
そ こ で 、 われわ れ新 国家 を建 設 しようとする者の為 すべ きこ とは、 次の こ と だ」
とソ ク ラテス は言 う。『
最 もす ぐれた素 質 を持つ 者たちを し て、 ぜ ひ とも、 わ れ わ れ が先に最大の学 問と呼ん だ とこ ろ の もの まで到達せ しめ る よう
に、 つ ま り、 前 述 の よう
な 上昇の 道を登 りつ め て〈
善
〉
を見 るよ うに、 強制 を課する とい うこ と。 そしてつ ぎに 、 彼 らがその よう
に上昇 して〈
善
〉
をじゅう
ぶ んに見たの ちは、彼
ら に対 して 、 その ま ま上方に留 まる こ と をけっ して 許 さ ない という
こ と。』善
い 政治
の行
われ る 国家は、真
の意味
の富 者、 すな わ ち、 黄 金に富む者で は な くて 、 思慮
あるす
ぐれ た 生 を豊
か に所有
する者が 公 共の仕事
につ くこ と に よっ て の み 実 現で きるか ら とその理 由を述べ てか ら 、 こ の よう
な人た ち は、 どの よう
な仕
方で生 み 出され るの か、学
習され るべ き もの が数
ある な か で、 どの学
問が その ような効 力 を もっ て い る か が検討
さ れる。初め に、 第
2
〜3
巻で扱
っ た体育
と音楽
・文芸
が とりあげ
られ 、 体育
は、 それ が管
理す
る とこ ろ の 人間の身体
が成 長 し た り衰 え た りするもの だか らという
理 由で求
め て い る学 科 目で はない と判 断 され る。 音 楽 ・文 芸 もけっ して学 問的 知識 を授 ける もの で はない 。 そ れ が もっ て い る教 育
的効
果は調和
と リズ ム の感覚
を養 う
の で あっ て、 事 実に近い 内容の 物語 を主 とす る もの も同 じだ と して しりぞ け られる。 技 術 も、 すべ て低 俗 な もの と思わ れ る とい うギ リ シ ャ 的偏 見で、 捨て られる。結局 、「
数
と計
算」
が最 初に教 えられ るべ き学科 と なる。 その 理由 として、 は じ め に挙 げられ る の は、 すべ て の技 術 も思考 も知 識 も共 通に用い る もの で ある、 戦 争のた めに必 要である という
ような実
用 的な面である。 次い で、 「この 学科は知
性 を目覚
め させ る よう
に導 く性 格、 実在 するも
のへ と全 面 的に引っ ぱっ て行 く力 をも
っ て い る」
とし、 以下の2
つ または3
つ が挙
げられ るの であるが、事柄
の 重要性
に反 し、 プラ トンが書い てある ま まで はあま り説得 力がある よう
に思わ れない 。まず 第一 に、
感覚
だけで は知
識 が得
られ ない こ とがある。 すなわち、 感 覚が 同時
に正反対 の もの を示 すこ とが あ り、 その 場 合は知性の 助 け を呼んで は じめて認 識 がで きる。 その 際、数と計 算が役立 つ とい うの で ある。 プラ トン は小 指、 薬 指 と中指の三本の指を例にあ げ る。 「これ は指
で あ る」 という
認 識 は感覚の みで で きる。 しか し、「この指
は大 きい」
という
認 識 は、 どの 指と比較
する か に依存
し、 感 覚の み で は定ま らない とい う。 同様 に、 太 さと細 さ、 軟か さと硬 さ、 軽 さと重 さも定ま ら ない 。 こ こ まで読
む と、今
日の わ れ わ れ は これ らの量 を数値 化 し、 その
数
を比 較 して正 しい 認 識 を得
る と書い てある こ とを期待 するが、 プラ トン は 全 く別の こ とを言 う。 「魂は、 報 告 さ れてい る そ れ ぞ れの ものが 一 つ の もの なの か 、二 つ の もの なのか を、 し らべ て み よう
とす るだろ う。 そこで 、 もし 二つ と し て現わ れ るの な らば、 その おの お の は別の もの であ
り、 そ れ ぞ れ が 一 つ の もの である」
こ とを知 る。「
こ の よう
な状 況の な か か ら、 は じめて、〈
大〉
と は何か、〈
小〉
とは何か という問
い の 発動
が 起る・」
第二 に、
数
とか 一 につ い て学
ぶ こ と は、 次の 二 つ の 理 由に より、 実在
の観想
へ と魂 を向 け変え
て導
い て行 く
と言う
。 まず
、「
わ れ わ れ は同 じ もの を、 一つ と見
な が ら同時
にまた無 限に多
い と見る のだ か ら」
、 ちょう
ど指
の場
合 と同 じく知
性 を呼
び覚
ます 効 果をも
つ 。更
に、 そ れ にもかか わ らず、〈
一〉
は どれ をとっ て も互い に まっ た く等
しくて少 しの差異 もない 、 た だ思惟に よっ て考 えられ る もの で ある。この よ
う
な〈
一〉
の あ り方はプ ラ トン的実 在の典 型 と され、 後に プ ロ テ ィ ノ ス 、 プ ロ ク ロ ス ら新プ ラ トン主義 者に よ っ て〈
善の イデ ア〉
と結 びつ け られ 、 更に、 ア ウグス テ ィヌス によっ て キ リス ト教 神 学に取 り入れ られ た。20
世紀の 無神 論 数学者
に とっ て も〈
一〉
は実 在である。 バ ーデ ィ[
8
,p
.59
]
は言
っ てい る。「
数 学と物 理 学 との立場の違
い は、 お そら く普
通考
え られてい る よ りも少
ない 。 私の見る と こ ろ で は、 最 も重 要 な違い は、数
学の方が実在
とは る かに直接 的
な かかわ り合
い を持つ という点
にある。 通常
「実在
的」
と目される主題 を取 り扱 うの は物 理学
であ
るか ら して 、 この こ とは逆説
と思わ れ るかも
しれ ない 。 しか し、少
し考
える と、 物 理 学 者のいう
実在
が何であ
れ、常
識が直感
的に実 在 に帰 する属
性を ほ と ん ど、 あるい は全 く持
っ て い ない こ と は わ かる。』
理
由
づ けは とまれ 、 プラ トンは『
国 家におい て最 も重 要な任 務に将来参与
すべ き人々 を、 計 算の技 術の学習へ向
か うように説得
する こ とは、 適 切 な処置である。 そ して彼
らは、この 学科に素 人と して触れ るの では な く純粋 に知
性その もの によっ て数の本 性の感 得に到 達す
るところ まで行
かなけ れ ばな らない 。貿
易 商 人や小 売 商人 と して売
買の ために それ を勉 強し訓練 する の で は なく
、 その 目的
は戦争
のた め、 魂 その もの を生成
(
死滅
)
界
か ら真
理 と実在
へ と向 け変 えること を容 易にする た め なの だ』
と書い た。第
二番
目の 学 科は「
幾 何」
である。 幾何 はもっ ぱら知るこ とを目的
として研 究
されてい る。 それ が知
ろう
とす
るの は、 つ ねに在
るもの で あっ て、 時に よっ て生 じたり
、滅
び た りす る 一時 的な もの で は ない 。三
番
目の学科
と して、 ソ ク ラ テス は は じめ 「天 文学」
を提案 する。 グラウコ ン の「
季節
を正確
に関知 する という
ことは、農耕
や航海
に必 要
で あるだ けで な く、 軍 隊統 率の た め にも
、 それ に劣
らず大
切 なことですか らね」
とい う賛 成の言葉 を、『
何だか大衆
に気
が ね して、役
にも立たない 学問 を押 しつ けよう
と してい る と思わ れ は しない か と、 び くび くしてい る よう
に見 えるで はない か。 ほ ん とう
に重大な点、 容 易には信じが たい点
は、 こ うした学問の なか で各 人の魂のある器官が浄め られ、 一一186 一ふ た た び火を ともされ るとい