開国への階梯 : 象山「上書」(天保十三年)考
著者名(日)
小池 喜明
雑誌名
井上円了センター年報
号
15
ページ
325-366
発行年
2006-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002772/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja開国への階梯
象山﹁上書﹂︵天保十三年︶考小池喜明§こ§さ\
一 近世後期から幕末期にかけての、外国交易の可否、開国・撰夷の論と華夷思想との連関を問題にする場合に先 ず想起されるのは、次のような大橋訥蓄の論であろう。嘉永六年二八五三︶八月、アメリカ東太平洋艦隊司令 長官ペリーの浦賀来航の二ヶ月後、その持参したアメリカ大統領フィルモアの国書への対応如何を問うた徳川公 儀の群臣への諮問に応じた、訥蓄の﹃喜永上書﹄︵原題、﹁浦賀表御防禦之義二付今日之急務愚存之趣奉申上候書取﹂︶ 中の一文である。 交易と申物ハ戎秋之如く互二往来不仕候てハ損毛多き物二御坐候得ハ、⋮⋮日本も戎秋同様之商人国と相 成可レ申候。元来戎秋ハ士ト商人ト之差別なく、官位有之候者諸国へ渡海交易致候事にて、夫ハ戎秋故義と 恥と申事を少しも存不申、只利得之事斗り専一二致候風儀二御坐候故こて、日本ハ夫と事替り、士と商人と 之差別正敷、士ハ義と恥とを第一二仕候故、万国中之貴き国二相成居候、云々。︵﹁大橋訥奄先生全集﹂上巻、 二二六ー七頁︶︵← 325 開国への階梯.西洋諸国との交易は﹁利﹂的契機の侵入を招き、﹁義﹂の﹁君子国﹂日本の﹁商人国﹂への転落として結果す る、というのである。訥蓄のこの予言 近代日本が﹁義﹂の﹁君子国﹂なのか、あるいはまた﹁只利得之事斗 り専一に致候風儀﹂の﹁商人国﹂に堕し了せているのか の正当性の検証は暫く措き、ここには華夷思想にも とづき交易反対論が見事に合理化されているのを見ることができる。華夷思想とは元来陰陽思想に発する自然的 秩序観の↓環であり、陽・東・明の系列に華・義・君・父・男などを、陰・西・暗の系列に夷・臣・子・女など を恣意的に、とりわけ日本においては固定的に配分する差別思想である。とりわけ華・夷の別に﹁義﹂・﹁利﹂を それぞれの行動原理として配分する義利弁別論は対外認識上の座標軸として調法がられ、ほとんどすべての撰夷 論の論理的骨格として活用されている。右の訥蓄の立論は、こうした華夷思想に拠る排外・王義的な反外国交易、 穰夷論の典型である。 この華夷思想が、神話にもとつく神国思想の論理的基盤として皇国理論の形成に寄与し、とりわけ近世後期か ら幕末期にかけての尊王穰夷運動に果した政治的役割のほどは広く知られていよう。﹃易経﹄に淵源する陰陽理 論により国家序列︵華・夷︶はもとよりのこと、倫理的価値序列︵義・利︶までも斉合的に合理化してしまうこの 原始的な思想も、本来は、既に早く近世中期の洋学者によるたとえば次のような指摘によりその存在根拠を失う はずである。安永四年二七七五︶の杉田玄白﹃狂医之言﹄中に言う、﹁道なるものは、支那の聖人の立つると ころにあらず、天地の道なり。いはんやまた腐儒庸医、支那の書に従ひ、その国を以て中土となす。それ地なる ものは一大球なり、万国これに配居す。居るところは皆中なり。何れの国か中土となさん。支那もまた東海一隅 の小国なり﹂︵日本思想大系64﹃洋学 上﹄、二一二〇頁︶。地球儀を廻してみれば一目瞭然、陰陽理論にもとつく自 然的秩序など存在せず、各国各自に自分の立っている場所を中華・神国などと潜称しているにすぎない、と言う 326
のである。 訥蓄とてこの程度のことは、もちろん承知している。けだし彼の実父清水赤城は、本多利明に天文暦算を学 び、友人渡辺畢山からオランダ兵学の知識を得ていた当時有数の兵学者であり、その著﹃火砲要録﹄に注目した 松平定信は自著﹃集古十種﹄・﹃野泉帖﹄を下賜し、合わせて子息次郎︵のちの松代藩主真田幸貫、佐久間象山の主 君︶を赤城の門に入れ、海防についてしばしば赤城に諮問したというのだからである。こうした当時としては出 色の西洋知識・実学の家に生育した訥蓄にとって、地球儀などはあるいは遊具の一つであったかもしれない。だ がしかしその彼は、或る人の﹁地球図﹂に付した序文で次のように記している。 万国ノ宇宙ノ間二列スルハ、井然森然、執力横目之民︵人民︶ノ居ル所二非ザラン、而シテ其ノ華夷ノ別 有ル所以ハ何ゾヤ、義ヲ尚ブノ国ヲ之ヲ華ト謂ヒ、利ヲ尚ブノ国ヲ之ヲ夷ト謂フ、義利之弁明ラカニシテ、 華夷ノ別始メテ厳ナリ。︵﹁地球図序﹂嘉永三年、原漢文。前掲全集、中巻三六頁︶ 華・夷の別は、陰・陽、東・西等の自然的秩序に由来するものとしてではなく、﹁義利之弁﹂すなわち倫理的価 値︵義・利︶の序列に基づく、と言うのである。本多利明から実父清水赤城を経て受継がれた西洋近代科学︵端的 には天文暦算の学︶体験を介しての、華夷思想と自然的秩序観︵陰陽五行思想︶との分断であり、これに加えてさ らにその民族的出自︵﹁ 担﹂︶の故を以て清朝中国から中華性を剥奪しこれを﹁夷秋﹂とする訥篭にとって、 ﹁義﹂を担保するに足る﹁︵中︶華﹂と称すべきは日本のみとなる。華夷思想の日本化であり、その実質の神国. 皇国思想への変容である︵2︶。近世後期から幕末期にかけての華夷思想の変容、日本化の時代思潮の論理的代表 327 開国への階梯
事例といってよい。 はじめに﹁義利之弁﹂ありき。当時の華夷思想がこのように伝統的な中国的華夷思想とは論理構造を異にする ものとして登場している以上、先の杉田玄白のようにその自然的秩序観の荒唐無稽性を指摘してみても、かれら は動じまい。また﹁支那もまた東海一隅の小国﹂に過ぎずと喝破してみても、われらも同意見なりと答えるであ ろうこと、右の訥蓄の例︵﹁ 範﹂︶で明らかである。かくて両者の義異は、﹁義利之弁﹂を嘉納するか否かとい う点のみとなる。だが、華夷弁別による中﹁華﹂大国日本ということに限れば、洋学者たちにとっても受容れ難 いものではない。卓越した自然科学者にして偏狭な国家主義者という例は、近代日本においても稀ではないから である。ところがこの時期の華夷思想は、義は華の、利は夷の行動原理として固定的に専属させ、剰え利を財利 と便利の両義に絡ませ、西洋近代の文明の利器の導入即夷秋の行動原理︵利︶の神国への侵入︵﹁君子国﹂の﹁商 人国﹂化︶、さらには邪教︵キリスト教︶の侵入による本邦倫理体系・封建秩序の侵蝕、という図式的理解を戦法 とし、先進的な科学技術をも標的とする。 後年︵明治七年︶の福沢諭吉が、﹁酒店の主人必ずしも酒客に非ず、餅屋の主人必ずしも下戸に非ず﹂との周 知の寸言を以て反論する、﹁人民同権は共和政治なり、共和政治は耶蘇教なり、耶蘇教は洋学なり﹂︵﹁福沢全集 緒言﹂、全集第一巻、四七頁︶と短絡視する反洋学の時代思潮の所在である。とりわけ邪教と絡ませた戦法は効果 を発揮したことと思われる。徳川公儀の禁教、鎖国政策との関連においてである。元来、義を武家の、利を商人 の行為規範としてそれぞれに専属させることにより封建階層秩序を合理化し、徳川公儀体制の倫理的強化に寄与 してきた華夷思想は、ここにおいていかにも時局即応的にその排外主義的傾向性を顕在化させ、反西洋の理論的 橋頭墜としての政治的役割を荷うことになる。洋学者流の一元的な西洋近代科学技術摂取導入の論の通用し難い 328
所以である。 ところで、このように整理してみる時、いかにも特異に映ずるのが、以下に検討する佐久間象山の論理展開で ある。象山は正統的な﹁義利弁別﹂の立場に準拠しつつ、西洋近代科学技術の摂取導入を合理化してみせるので ある。彼は伝統的な兵学論理︵﹁伐謀﹂・﹁両之﹂︶を補助線として、華夷思想と洋学者流の思考との対立を軽々と越 え、いわば両者を融合してしまう。その際の彼の軸足は、見事なほどに﹁利﹂に傾斜している。その現実性・動 態性において、儒学者・洋学者等の学者のそれとは異質の、武士の発想と言ってよい。 天保十三年二八四二︶十一月二四日、当時三十二歳の信濃松代藩士佐久間象山︵文化八ー元治元年、一八二 ー六四︶は、アヘン戦争二八四〇ー二︶における隣国清国敗戦必至の情報に基づき、当時たまたま老中︵海防 掛︶に就任していた藩主真田幸貫に宛てて、早急の海軍軍備・軍制の西洋化を骨子とする海防策を上書した。一 般に﹁海防に関する藩主宛上書﹂︵以下、﹁上書﹂と略記︶として知られる本書は、西洋製之戦艦・武器等の購入予 定価格までを記すその献策の旦ハ体性・現実性を、幕閣中枢にあって海防政策全般の衝に当る自藩主への責任倫理 の要請により裏打ちした、出色の憂国警世の書である。 その趣旨は、隣国中国に及んだ英国の東洋進出の余波の日本への波及︵交易要求から開戦︶は必至との予測の もとに、だが現状での対英戦は必敗との認識から、当面英国をして日本進出を断念せしむるだけの軍備・軍制の 強化︵西洋化︶を説く、避戦不戦の海防論にある。時局的に、小国日本相応の合理的な現実論である。この時点 での象山の立場は英国の対日交易要求の拒否、すなわち鎖国論であるが、右の論の論理的延長線上に後年の、撰 夷戦遂行のための開国の必要性という開国論への転向が位置するのは見易い道理であろう。そしてこの鎖国論の 段階にあってはもちろんのこと、開国論に転じて後も、やがて標語化される周知の﹁東洋道徳 西洋藝術﹂とい 329 開国への階梯
う思惟様式は基本的に変らない。﹁東洋道徳﹂下における﹁西洋藝術﹂、﹁聖学﹂朱子学道徳の絶対的優位のもと での﹁夷秋﹂の長技 ﹁利﹂1の摂取導入という論理である。この限り、﹁上書﹂中の英国論で展開される、 いかにも華夷思想の図式に忠実な立論に拠る﹁利﹂への着眼は、象山における西洋科学技術の摂取導入合理化の 原点としての意義を荷うものと考えられるのである。 象山の英国︵警戒︶論は、モリソン号事件とアヘン戦争とを・王要契機として構成されている。モリソン号事件 とは、天保八年二八三七︶日本人漂流民七名を伴い通商を求めて浦賀沖に来航した米国オリファント会社所属 のモリソン号に対して、幕府が無二念打払令により砲撃を命じこれを退去せしめた、周知の一件である。中国広 東において日本人漂流民を保護していたのは英国であり、かれらを送還してきたのが米国船で、故にモリソン号 の日本来航とその対日通商要求はいわば英・米の合同作戦であったわけだが、日本側には当初その辺の事情は不 明であった︹3︶。日本側はモリソン号と聞いて、当時著名な中国学者として知られていた英国人宣教師ロバート・ モリソンの名と誤認し、英国がこの人物を派遣してきたものと考えていた。日本側の人々とは、たとえば後述す る佐藤信淵・渡辺畢山・高野長英等であり、さらには佐久間象山であった。 ﹁︵日本人漂流民を︶阿蘭陀人へ託し候とも、唐山人に託し候とも、仕二差送り一可レ申義を、七、八年も其侭其国 に留置き候は、是又此もの共を以て奇貨とも可レ仕存念と被レ察候。是等を以て推量仕候ても、彼れ︵英国︶の本 ますます 邦へ対し野心御座候義は、益以顕然たる義と奉レ存候﹂。かねてオランダ側から英国の日本進出の企図あること を知らせてきているが、英国の戦艦増強、英米戦争︵一八一二ー四︶、さらには英中戦争の可能性等についてのオ ランダ情報が正確であったことを考えれば、英国の﹁野心﹂のほどは疑い得べくもあるまい、と。こうしてモリ ソン号事件とアヘン戦争は、共に﹁イギリス夷﹂の﹁利﹂的所行として一括される。これが、以下の英国論の歴 330
史的背景である。 左候へば、唐山との事︵アヘン戦争︶方付次第必ず渡海仕、最初に交易を相願い、其段御許容無レ之節は、 屹と先年船へ鉄炮を被打掛候︵モリソン号事件︶謂れを承り度と申難題を申出し可レ申候。抑彼国は唯利に のみ走り候習俗に有レ之候へば、仮令本邦に深き雛怨有レ之候とも、本邦を乱妨仕候為めのみに態々兵艦を しつらい、数多の入費を掛候て、差向い候等の事は決して仕るまじく候。 然る所、此度は既に唐山迄多くの軍艦差出し有レ之、兵卒にも乏しからず、器械も備り候て、本邦とは僅 かの海路を隔て候のみの事に候へば、先年豆州浦の一件︵象山はモリソン号事件の発生地をコ旦州観音崎辺﹂ と勘違いしている︶御座候を幸に、事の序にその兵声を鳴し、手を濡らさず交易を叶へ、若又其願筋御取上 無レ之節は、本より事の序にて失費も薄き事に候へば、其侭兵を構へ本邦を悩し、遂に要して交易を始め、 本邦の利を網し候べき料見に可レ有レ之候。 元来道徳仁義を弁へぬ夷秋の事にて、唯利にのみかしこく候へば、一旦兵乱を構へ候方、始終己れの利潤 に相成可レ申と見込候はぶ、柳か我に怨みなくとも、如何様の暴虐をも可レ仕候へば、此方にては其怨のな き所を侍みには出来かね候義と奉レ存候。 又彼れにては、本邦と兵を結び候迎も、事の序にて失費の少きのみならず、海上にて又許多の利を獲候義 も可レ有二御座一被レ存候。其利と申は、本邦の近海に戦艦を繋げ候て我海運の妨げを仕、其暇隙を以近来彼 国にて利を獲候鯨猟にても仕、其最寄の島々へ交易等仕候はぶ、月を重ね年を積候とも、格別彼れより本国 の軍資を費し候事は有御座間敷、只本邦の害のみに相成可レ申義と奉レ存候。左候へば、彼れにては必ず兵 331 開国への階梯
ヘ ヘ ヘ へ つか ヘ ヘ ヘ ヘ へ こう 端を開き本邦を慰らし、遂には北秋より宋家の歳幣を要し候如く、要して莫大之交易を求め、終に本邦の膏 ゆ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 膜を吸取り国力を弱め、果ては属国の如きものにも可レ仕内存に可レ有レ之候。︵日本思想大系55所収、二六四 頁。以下、﹁上書﹂よりの引用は頁数のみ記す。尚、右の引用文は便宜上四段に分けた︶ 332 そもそも ただ この鋭角的な英国論の基本的視角が、﹁抑彼国は唯利にのみ走り候習俗﹂︵第一段︶、﹁元来道徳仁義を弁へぬ 夷秋の事にて、唯利にのみかしこく﹂︵第三段︶等の、華夷思想特有の義利弁別論にあることは明白である。モ リソン号一件を口実とする対日交易要求、その要求が容れられぬ場合の戦端開始、挙句は﹁莫大之交易﹂による 日本の﹁属国﹂︵植民地︶化であり、すべては﹁利潤﹂のためだ、というのである。周知の英国兵町火消論、す なわち英国兵は職業的兵士であるから利潤ありとみれば無名の戦をしかけてくること、あたかも江戸の町火消が 火事を欲して付火をするが如しという論もこの文脈中のものである。 それにしても右英国論中の﹁利﹂の語の頻出、﹁利﹂に傾斜した思惟様式は注目に値しよう。まずは、﹁事︵ア ついで ヘン戦争︶の序﹂という切り口が特異である。いかにも現実的で、武士の発想と見てよい。これがこの短かい英 国論のうちに重出する。﹁事の序にて失費も薄き﹂・﹁少き﹂・﹁手を濡らさず交易を叶へ﹂等としてである。さらに 英国は航海の途上、﹁鯨猟﹂により近在の諸島との交易により資金を得るから、長途本国に戻る手間も﹁本国の 軍資を費﹂すこともなく、すなわち補給補充の費用の心配なしに長期戦が可能である等々。以上、日英戦わば短 期的には海軍力の差で、長期的には諸国﹁廻米船﹂航路を寸断︵﹁我海運の妨げ﹂︶されることにより、日本は敗 れ植民地化されると言うのである。一貫して経済︵﹁利﹂︶的視座よりする、合理的・斉合的な経済侵略の指摘で あり、華夷思想の図式的応用の成果と言い得よう。
﹁道徳仁義を弁へぬ夷秋﹂とする前提に立つ象山は、決して﹁義﹂に言及しない。﹁利﹂が戦場となる。戦わば 必敗、さりとて降伏︵交易許可︶もならずとならば、方法は避戦・不戦のための海防力の強化しかなく、その手 段が共にオランダ経由の﹁西洋製之戦艦﹂購入と軍制の西洋化とされる。そのための回天の論理として説き出さ れるのが、中国の失敗を他山の石・前車の轍として援用︵﹁唐山にて頻に戦に打負け、其士民をも損じ、土地をも失な い候後に及び、近来漸く我を折り候て、始めて西洋人を抱へ、火術を学び候等は尤も事の機会を失なひ候の大なるものに て、よき鑑戒と奉レ存候﹂二八二頁︶する、﹁己れを舎て人に従ふの量を以て、水軍・火器は専ら西洋方を被レ用候知 略・識量﹂︵二七二頁︶にほかならない。後年︵安政五年︶の梁川星巌宛書簡において、﹁伐謀﹂︵﹃孫子﹄︶・﹁両之﹂ (『 i馬法﹄︶の兵学概念として収敷、析出される論理である。 すて 要するに、この﹁非常﹂時に大船建造禁止などとつまらぬ﹁我﹂を張るな、﹁己れを舎て﹂夷秋の長技を採れ というのである。﹁天下之為に立てさせられ候御法を、天下の為めに改めさせられ候に、何の御憧か御座候べき。 平常の事は平常の法に従ひ、非常の際は非常之制を用ひ候事、和漢古今之通義と奉レ存候﹂という周知の命題 は、こうした文脈中に位置する。﹁義理﹂・﹁事勢﹂・﹁時宜﹂に即し、﹁時に応じ変に随ひ、所を替へば皆しかある べき様に仕﹂る、いわゆる﹁変通﹂論であり、後日象山はこの﹁変通﹂論を軸として論理必然的に、華夷思想か らの決定的離脱を宣言することになる。それにつけても先の英国兵町火消論といい、中国﹁鑑戒﹂論中の﹁︵中 国も︶近来漸く我を折り﹂等の卑近な表現といい、さらにはここでの﹁事勢﹂・﹁時宜﹂の﹁変通﹂論ーただの 変通策なら当時・以後の常識だが といい、象山の弾力的な立論には少なからず先の海保青陵二七五五−一八 一七︶や後の福沢諭吉といった出色の経世論者との類比を考えさせるものがある。その理由の一つは、かれらが その独特の現実的合理的思考を托すに相応しい叙述形式︵和文︶を採ったことにあろう。漢文叙述による弊害が 333 開国への階梯
その修辞・潤飾の辞を介して、記述内容のいささかならぬ現実遊離に及ぶこと、たとえば会沢安﹃新論﹄の例に 見てとれる。このことの自覚あってのことか否かは知らぬが、会沢赤誠の転向︵開国論︶表明書﹃時務策﹄は見 事な和文で記されている。尚、こうした漢文叙述の弊害は古くは新井白石、近くは島田三郎︵﹃開国始末﹄︶によ り指摘されている。 334 二 先の英国論において象山は、﹁事︵アヘン戦争︶の序に﹂日本近辺に出没する英国は、その附近で随時﹁鯨猟﹂ をし、その収穫を以て近在諸島との間で交易を行うが故に、わざわざ遠路本国にまで戻り軍費・備品の補給を仰 ぐ必要なしとして、英国の戦術上の優位を指摘していた。また彼は英国によるわが補給路︵諸国から江戸への廻 米船︶の防害、それへの対策としての公儀﹁水軍﹂の大船の﹁廻米之御用船﹂への転用という動態的意見をも具 申している。さらに﹁軍艦・火器﹂の西洋化・整備とともに、海防の要諦とされるのが、海岸警備にかかわる﹁労 逸の説﹂︵﹃孫子﹄虚実篇︶である。四面海に囲まれた日本では英国船の随時随処の攻撃への対応を余儀なくされ て兵たちは疲れ切ってしまう︵﹁労撰の患﹂︶として、﹁八陳の法﹂︵諸葛亮︶にもとつく﹁游兵﹂構想を述べてい るのがそれである。象山の海防論はしかく現実的・具体的かつ多彩である。だが翻えって考えるに、これらの各 項の指摘は、個別的散発的にではあれすでに早く、象山﹁上書﹂に十七年先立つ会沢安﹃新論﹄︵文政八年、一八 二五年三月成稿︶のうちに見られる。 つね たとえば鯨猟と物資補給の関連、﹁労撰の患﹂について次のようにいう。﹁然れども虜は毎に長策に出で、従容 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ き ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ として人を制するものは、客を変じて主となすなり。彼は客にして、しかも韻糧︵兵糧の運送︶の労なきものは、
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ つか 或は漁し或は商して、糧に因るの術︵出典は﹃孫子﹄作戦篇︶を活用すればなり。車を破り馬を罷らすの費なき ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へつかヘ ヘ ヘ へ ものは、巨艦に乗じ長風に駕すればなり。そのよく坐して我が民をして奔命に罷れしむるものは⋮⋮﹂︵﹃新論﹄、 原漢文。日本思想大系﹃水戸学﹄所収、=二七頁︶。また船艦の平時における廻米船への転用についても、﹁船艦の 制、精ならざるべからず、水操の法、講ぜざるべからず。⋮⋮事なければ、すなはち以て天下の米穀及び諸物を ヘ へ てきちょう 運び、擢耀の権をして上に在らしめ、邦国をして給を商費に仰がざらしむ﹂︵同右、一二一頁︶、と明快である。 十九世紀初頭、水戸藩の沿海部、常陸沖には英米の捕鯨船がしばしば姿を見せていた。そして文政七年二八 二四︶五月には、水戸藩領大津浜に英国人が上陸して薪水をもとめる事件が起きた。このとき筆談役として藩か ら派遣されたのが会沢安であり、この際の交渉を記録したのが﹃暗夷問答﹄である。この二ヶ月後、英国人はま た薩摩宝島に上陸し略奪事件を起こしている。これらを契機として徳川公儀は、翌文政八年二月、異国船無二念 打払令を発令することになる。﹁今、天下すでに幕府の英断を知り、感憤激励す﹂︵七八頁︶という﹃新論﹄は、 皇国国家主義︵華夷思想︶に拠るこの文政打払令の理論的合理化にほかならない。 会沢安のおかれたかかる時代的・地理的境位に徴すれば、先の﹁或は漁し或は商し﹂等の英国情報、英国によ るわが廻米船航路の防害を斥けるための大船建造、さらには平時におけるその大船の廻米船への転用といった海 防策の提示は当然のものといってよい。そしてこの﹃新論﹄は当時の水戸藩・王哀公徳川斉脩への上呈書であり、 公式に一般人士の眼に触れるのは安政四年二八五七︶の公刊書によるが、非公式にはそれ以前の天保から後の 弘化・嘉永の頃まで広く門人・有志の間に筆写され伝播していたと見られるから、本書中の情報・施策等は既に 当時の識者間における常識であったと見てよい。たとえば少しく時代は下るがペリー来航に際しての徳川斉昭の 公儀宛建議書﹁海防愚存﹂、いわゆる﹁十条五事建議書﹂︵嘉永六年七月十日︶中の海防策は、ほぼ本書に沿って 335 開国への階梯
いる。 さらに言えば﹃新論﹄中にはすでに、﹁利をこれ取りて蜴きざるものは海なり﹂という海の﹁利﹂への着眼と、 それと裏腹の、﹁今日のごときは、すなはち虜は至るべからざる所なくして、海内を挙げて皆長崎たり。そのこ れを守る所以のものも、また長崎と何ぞ異ならんや﹂︵一一四頁︶とする日本の地理的弱点に関わる原理的認識 が見られるばかりではなく、象山の﹁伐謀﹂・﹁両之﹂の戦術的論理と類比的な﹁倒用﹂論による展開も見られる。 このように見てくれば、象山が﹁上書﹂中で掲げる海防強化の具体策も部分的・個別的には当時の常識の範囲内 のものと言ってよく、とりわけ目新しい提案とは言い難い。にもかかわらず、象山の論旨には際立った特色が見 出される。彼の海防策はすべて﹁利﹂の視座により貫通され、有機的に連関しているからである。 会沢と象山の海防策にはいくつか重なり合うものがあるが、その中にあって会沢がそれに決して言及しないも のがある。象山﹁上書﹂の骨子ともいうべき、西洋近代科学技術の成果の摂取導入である。たとえば、両人共に ﹁変通﹂の論により公儀の大船建造禁止令の見直しを迫り、さらには平時におけるこの大船の﹁廻米之御用船﹂ への転用という動態的な策を提示していることは既述したが、その際に象山が不可欠的に﹁西洋舶﹂.﹁洋製之大 舶﹂のオランダからの購入を主張するのに対し、会沢はこれに言及しない。﹁すなはち船制のごときも、また善 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ しりえ く彼に取りて以て己の用となさば、製造の精なる、何ぞ独り他人の後に在らんや﹂二二四頁︶。折角ピョートル 大帝の周知の故事︵4︶、一職工に身を隠してオランダ・イギリスに赴き造船術・航海術を習得した故事を例証とし ながらも、﹁夷虜︵ピョートル︶の心を用ふること、なおかくのごとし、況んや中国︵日本︶にして、反って自か ら棄ててなさざらんや﹂として彼が顕彰・期待するのは、﹁西夷﹂の発明した﹁鳥銃﹂︵小銃︶を﹁倭銃﹂として 完成させた﹁我が民の巧﹂、日本人の優秀性である。会沢は遂に、オランダからの船艦購入はもとよりのこと、 336
﹁善く彼︵西洋︶に取りて以て己の用とな﹂す造船技術の摂取導入にも言及することはない。 ﹁今や撰夷の令は天下に布かれ、天下差悪の心に因りて、以て大義を天下に明らかにし、天下向ふところを知 れり﹂︵一三二頁︶。然して現在の最大の問題は、﹁民心、主なし﹂二四五頁︶。既述のように﹃新論﹄は、文政八 年二月の無二念打払令の発布直後の同年三月、その発令の旨に触発されての著述である。撰夷の大号令が発せら れたいま、真先に憂うべきは我が国における正統イデオロギーの欠如だと言うのである。﹁祀礼廃らば⋮:.︵民 もと は︶幸を死後に徹めて、義を生前に忘れ⋮⋮異言︵キリスト教。﹁怪妄不経の説﹂・﹁冥福陰禍の説﹂︶を慕ふこと、慈 母を慕ふがごとし。心、外に放たれて、内に主なければなり﹂。こうして﹁内﹂に向けて内面化する会沢の関心 は、撰夷の主眼を﹁神聖﹂の教対異教という﹁義﹂戦へと収敷させることになる。 ここで問題になるのが、会沢が﹃新論﹄において繰返し多用する﹁倒用﹂の論理である。﹁倒用﹂概念はたと えば次のような文脈において活用される。﹁内は以て大いに守禦の備を修めて、兵力は以て虜を制するに足り、 政教は以て夷を変ずるに足らば、彼︵夷秋︶それ辺を伺はんか、奮戦繊滅して、以て威を万里に揚げん。⋮:.彼 みだ ヘ へ の我を擾す所以の術、我まさにこれを倒用せんとす﹂︵一三九頁︶。会沢ほどの学識の持主が﹁逆謀﹂.﹁両之﹂の 概念に想倒しなかった理由は不明だが、敵の謀・利点を採って逆用するという意味は、三語共通である。そうで あれば﹁倒用﹂の論理の必然的帰結として、右の一文から﹁守禦﹂・﹁兵力﹂の近代化.西洋化という結論が導き 出されて然るべきだろうが、会沢の視線が﹁利﹂器の﹁倒用﹂に向けられる可能性はほとんどない。彼の﹁倒 用﹂論は、﹁義﹂戦のためにこそ活用されるのである。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 彼に変ぜらるる所以のものを転じて、彼を変ずるの道に由る、宣に大経を立つる所以の先務にあらずや。 337 開国への階梯
彼は戎秋にして自からその道を道とす。常情よりこれを視れば、これを度外に措くといへども可なり。しか し るに彼は今、大いに非望を逞しくし、必ず夷を以て夏を変じ、正道を漸滅し、神明を汚辱し、天を欺き人を し 岡ひ、人の民を傾け、人の国を奪ひて後に已まんと欲す。誰術と正道とは、相反すること氷炭のごとし。 や 々たる宇宙、戎秋の道息まざれば、すなはち神聖の道明らかならず、神聖の道明らかならざれば、すなは ち戎秋の道息まず、彼を変ぜざれば、すなはち彼に変ぜらる。勢相容るる能はず。︵一四六頁︶ 338 ﹁彼は戎秋にして自からその道を道とす﹂云々というのは、既に早く新井白石︵﹃西洋紀聞﹄︶に見られた文化的 相対・王義である。そして宗教︵キリスト教︶を先兵とする漸次的な政治的侵略というのも、白石以来の伝統的解 釈と言ってよい。しかし右の一文では、西欧列強の政治的野心︵﹁非望﹂︶が前面に押し出されている。壌夷を旨 とする文政無二念打払令の発令に伴なう、時代的境位の然らしむるところである。かくて会沢の論は一気に﹁戎 秋の道﹂対﹁神聖の道﹂という﹁義﹂戦のそれへとつきすすみ、ここに﹁彼に変ぜらるる所以のものを転じて、 彼を変ずる﹂とする折角の﹁倒用﹂の論も、早急の﹁神聖の道﹂の確立による﹁戎秋の道﹂の圧伏という倫理的 局面1﹁義﹂戦へと一元的に収敷してしまい、﹁利﹂に着眼しての軍事的側面へのその応用は視野の外におか れることになる。﹁義﹂の﹁中華﹂︵﹁皇国﹂︶、﹁利﹂︵﹁非望﹂︶の﹁戎秋﹂という固定的図式に発しかつそれに帰着 する華夷思想の典型的展開である。会沢が﹁西洋製之戦艦﹂購入や西洋科学技術の導入習得に積極的に言及する 可能性は、論理的にあり得ないのである。 もちろんそれら西洋の﹁利﹂的成果の導入習得︵﹁倒用﹂︶という現実的視点が、会沢に訣けていたわけではな い。たとえば、ピョートル大帝の故事を引用し、﹁船制のごときも、また善く彼に取りて以て己の用となさば﹂
と述べていたことなどが、その端的な一例である。だがここでの﹁倒用﹂的発想が﹁倒用﹂の現実化には結びつ かず、﹁我が民の巧﹂すなわち﹁中国﹂︵﹃新論﹄では日本を常にこの語により表記する︶の技術的優秀性の顕彰に終 始したこと、既述のとおりである。ここに、同じく華夷思想に拠って発想した会沢と象山との決定的な分岐点が ある。動態的な兵学論理︵﹁逆謀﹂・﹁両之﹂︶を補助線とする﹁利﹂的視座の貫通により、華夷思想を機能的に開放 し、開国への道程を論理化した象山と、兵学的ダイナミズム︵﹁倒用﹂︶を﹁義﹂的視座に一元化し、華夷思想を 閉じた体系とすることにより、﹃新論﹄をして撰夷﹁義﹂戦の聖典たるに止めた会沢、との差異である。 異国船打払令の発布を背景とする﹃新論﹄と、アヘン戦争による清朝滅亡の危機の報を直接の執筆動機とする 象山﹁上書﹂との間に横たわる日本をめぐる国際状況の差異は、両者間の十七年という年数の隔たりには換算し 難いほどに甚大なものがある︵﹁上書﹂に丁度四ヶ月先立つ天保十三年七月二八日には、幕府の薪水供与令が発令され ている。しかし﹁上書﹂中にこれへの言及は見られない︶。象山における﹁利﹂への着眼とそれへの急傾斜が、鑑戎 としてのアヘン戦争、その日本への波及を危惧しての切迫した危機感に触発されたものであろうことも見易い道 理である。対するに﹃新論﹄にあっては、時代的に見てそうした切迫した対外的危機感の稀薄さが、一見して迂 遠な﹁義﹂戦という﹁長計﹂に賜踏せしめたにすぎない、という見方にも一理あろう。両者の歴史的境位に関わ る議論である。だが本稿の基本的立場はこれと異なり、両者を、近世後期から幕末にかけての時期における、開 国・鎖国︵嬢夷︶の論にかかわっての華夷思想の二類型として位置づけることにある。 この類型という立場に関して言えば、たとえば﹃新論﹄中に次の言がある。﹁夫れ天下の事、この利あらば必 よ ずこの害あり、二者相筒らざるはなし。易に曰く<利は義の和なり﹀と。荷しくも義を以て利となすにあらざる おごと よりは、すなはち所謂、利なるものは、未だその利たるを見ざるなり。⋮⋮語に曰くく君子は義に喩り、小人は 339開国への階梯
利に喩る﹀と、筍しくも義利をして弁ぜず、小人にして君子の器に乗らしめば、すなはち天下の利は、未だその 変じて害とならざるを見ざるなり﹂︵一三二頁︶。この﹃易経﹄︵乾卦、文言伝︶と﹃論語﹄︵里仁篇︶の語をそれぞ れ形而上的、倫理的根拠とする義利弁別論こそ、﹃新論﹄における華夷思想の中心命題にほかならないが、たと えば二八年後、ペリi来航の直前︵嘉永六年六月︶に著わされた大橋訥奄﹃闘邪小言﹄においてもこの命題が立 論の基盤とされている。おそらく他のほとんどの撰夷論においても事情は変るまい。閉じた体系の然らしむると ころであり、右に類型の語を以てした所以である。 地球儀を廻せば、陽・東に華を、陰・西に夷秋を恣意的・先天的に配する華夷思想など直ちに存立基盤を失う 位のことは、会沢や訥蓄とて充分承知していよう。かれらとて文明の﹁利﹂器の功用を認めるに吝ではあるま い。だが一旦その有効性を認めれば、人間普遍の常情︵かれらからすれば俗情︶たる﹁利﹂への傾向性を野放し にすることになり、ひいては西洋﹁利﹂器の導入︵交易・開国︶、西洋諸国通有の﹁利﹂中心の行動規範の侵入に より、本邦の誇るべき政治体制・倫理体系︵﹁義﹂︶が危機にさらされる、と考えるのである。だが﹁小人は利に 喩る﹂︵喩るは、さといの意。象山の、夷秋は利にさといと同義︶とする﹃論語﹄における﹁利﹂の原義は利潤・財利 の意であり、それが科学技術︵利器︶批判やその排斥にどう関わるのか。この点への原理的言及の例が、大橋訥 蓄の所説のうちに見られる。 便利の説ヲ張ル者多キハ、華夷ノ藩離ヲ壊裂シテ、人ヲ禽獣二駆ントスルナリ、懐ルベク又悪ムベシ。 ︵中略︶彼西洋ノ者ドモハ、義ヲ失フヲ恥トセズ、只利欲ノミヲ謀ル故、万事モ便利ヲ宗トシテ其道二敏捷 ナルハ、戎秋ナレバサモアリナン。︵﹃闘邪小言﹄︶ 340
今之蘭学者ハ戎秋之眞似斗を専一に致候て、彼国にかかる器ありと承候得ハ直二其器を作度存じ、彼国二 か㌔る説ありと申せハ急二其眞似を仕候て、其上二今年ハ便利之器ハ渡らぬ欺、明年ハ重宝之説ハ来らぬか と、人之国斗をあてに致居候ハ、限りも果も無之事にて、少しも自分の見識より活用を致候心無之候間、流 行二従ひ次第く二道旦ハ頼ミ死物斗二落入可申候、殊更日本持前之義気を亡し、戎秋之方へ心を傾ヶ候て世 間之人へ臆心を為引起、鉄砲二斗かじリ付候て鎗モ刀剣モ無用之物二致し、義気の胆略の活用のと申事ハ空 論にて其益無之様二申唱候⋮⋮。︵﹃嘉永上書﹄︶ 一般にこの種の言説は﹁便利﹂の﹁道具﹂の有用性を充分に洞察し、既にして﹁便利之器﹂の時代という認識 の前提のもとに吐き出されることを常とする。隣国清国が﹁夷秋﹂英国の﹁便利﹂の﹁道具﹂により粉砕された アヘン戦争から十一年を経た、この嘉永六年二八五三︶という時点における、﹁便利﹂の鉄砲よりは﹁義気﹂ の鎗・刀剣という論理の非現実性は、訥蓄とて承知していよう。だが彼は、共に兵学者の父︵清水赤城︶.兄︵清水 ゆき 正巡︶の交友圏に連なり、日夜海外からの﹁便利之器﹂・﹁重宝之説﹂の渡来に期待する﹁蘭学者﹂たちの姿に触 れて、危機感を募らせる。﹁民心、主なし﹂、と。彼の所説中の、﹁西洋ノ賊ヲ防ガントシテ、只管西洋ノマネヲ スルハ、人タル者、犬ト闘ント欲シテ、我モ亦噛ムコトヲ学ブ類ナラン﹂とか、顕微鏡で父子関係が見えるか等 の非合理極まる言説は、西洋﹁便利之器﹂にたいするこうした屈折した心情に由来する。だが﹁便利﹂と﹁利 欲﹂を内在的に相関させるべく、いかに誰弁を弄しようとも、彼は本邦﹁義気﹂への﹁利﹂的契機の侵犯を防が ねばならぬ。けだし訥養における﹁義﹂とは封建秩序そのものの謂にほかならず、共に﹁利﹂で括られる夷秋と 商人︵﹁狡夷好商﹂︶に対するこの秩序の護持こそが、彼の使命とするところであるからである。 341 開国への階梯
﹁便利﹂を﹁利欲﹂に絡めて否定する発想は、当然ながら訥蓄に先立って、会沢の所説のうちに姿を見せてい る。たとえば先の﹃易経﹄と﹃論語﹄を典拠とした一文における、﹁君子は義に喩り、小人は利に喩る﹂の語中 の﹁利﹂は﹁利潤﹂︵利益・財利︶を意味し、一方、それに続く﹁小人をして君子の器に乗らしめば﹂云々の一句 は、訥蓄のいわゆる﹁便利之器﹂・﹁便利﹂の﹁道具﹂に関わっている。そのことは、この一文が﹁小人﹂をして ﹁巨艦﹂・﹁大銃﹂に携わしむることの弊害という文脈中のものであることからも知られよう。すなわち会沢にお いても﹁利﹂は、﹁利潤﹂・﹁便利﹂の両局面に関わって認識され、それぞれ否定的に扱われているのである。類型 たる所以である。 これに対し象山﹁上書﹂においては、同じく華夷思想に発しながら、﹁利潤﹂・﹁便利﹂は共に実質的に肯定され ている。否、それは単なる肯定の域を超えて、誇らかにその有効性が高唱されている。前者は﹁海運之利﹂・﹁融 通之利﹂・﹁天下之利﹂等の語のうちに、後者はたとえば梵鐘・双盤等の寺院の﹁無用の銅器﹂に対する﹁有用の 利器﹂等の語としてである。さらに﹁利﹂への傾斜に特色を発揮する彼の視点は、海防に奔走する兵士たちの労 (「J撰の患﹂︶を省くという、﹁労逸の説﹂︵﹃孫子﹄虚実篇︶への言及のうちにも示されている。労力の消耗は不 ﹁利﹂というこの視点は、会沢や訥蓄の精神主義とは厳しく対立する。﹁利﹂的視座と見る所以である。 342 扱又、右之御鋳立に相成候大銃も、総じて西洋製に御倣ひ、軽便に御造立有レ之、公儀御用之余は、御大 名方・御旗本衆にも代価上納之上、御引受に相成候様相成候はぶ、筒の目方法に外れ、持運びに不便なる大 筒等は、自然と鋳立候ものも無レ之、天下多少の浮費を省き候て、世に実用の利器のみ多分に相成可レ申候。 ︵二七九頁︶
大砲鋳造︵﹁大銃御鋳立﹂︶に関わる一節である。象山はこの﹁上書﹂に先立って藩主真田幸貫宛に、本邦海防 の要諦を八策にまとめて上呈しており、それらの要項は﹁上書﹂中にも﹁先達て上陳仕候八策﹂として再録され ている。その第二項に曰く、﹁其二、阿蘭陀交易に銅を被二差遣一候事、暫御停止に相成、右之銅を以、西洋製に 倣い数百千門之大炮を鋳立、諸方に御分配有レ之度候事﹂、と。﹁数百千門﹂というあたりが、いかにも象山流で ある。ところが﹁上書﹂では、右の第二策の内容を少し変えると言うのである。現在緊急の課題は﹁外夷﹂︵西 洋諸国︶と戦うことではなく、本邦の海防・軍備の充実ぶりをオランダを介して﹁外夷﹂に知らしめ、﹁自然と虎 き ゆ びらん 狼閲閑の心を消阻し、永く生民靡燗の禍を免がれ﹂しめること、すなわち﹁外夷﹂をして事前に本邦侵略を断念 させること︵避戦不戦︶にあるから、いまオランダへの銅輸出を中止しその機嫌を損ねるのは得策ではない、と 言うのである。国際政治上の、損得計算︵﹁利﹂︶にもとつく変更である。 右の引用文中の﹁浮費﹂・﹁代価﹂・﹁軽便﹂・﹁不便﹂・﹁実用の利器﹂等の語のうちには、象山の﹁利﹂的視座へ の傾斜のほどが端的に示されていよう。﹁便利﹂の語に関わっていえば、兵器具は﹁実用の利器﹂であるから、 それは﹁持運び﹂に便利な﹁軽便﹂なものでなくてはならない、と。だが注目すべきは、製造した大砲を大名・ 旗本たちに売却するという案であろう。この点は﹁海防八策﹂にも明記され、変更されていない。公儀の製造し た艦船・兵具の各大名への売却頒布というこの案は、後日のペリー来航時、公儀諮詞に応じた御家人や豊後日田 の儒者広瀬淡窓の上書中にも見えている︹5︶から、さほど突飛・出色なものではない。だがかれらは、華夷思想を 表看板として大上段な論法を駆使する象山とは、時代的・思想的背景を異にする。 華夷思想にあっては、﹁義﹂が武士の、﹁利﹂が商人の行動規範とされ、両者は氷炭相いれないはずである。敢 えて華夷思想などといわずとも、﹁百姓に似るとも、商人に似るな﹂︵長岡牧野家﹁参州牛久保之壁書﹂︶というの 343 開国への階梯
が、三河以来の武士の心得である。伝統的な賎商観である。それが象山の趣旨に従えば、公儀たる幕府が配下の 大名・旗本相手に商売︵象山によれば﹁代価上納﹂。誰弁である︶をするのである。大橋訥蓄ならずとも、﹁君子国﹂ 日本の﹁戎秋同様之商人国﹂への転落が危惧される事態と言ってよい。だが象山の﹁利﹂的視座、﹁利﹂への傾 斜の度合はこの程度に収まってはいない。オランダからの﹁西洋製之戦艦﹂購入二阿蘭陀領ジャガタラ辺に、多 く海舶を仕立候場所御座候由に承り候へば、日ならずして御用に相成可レ申候︵6︶﹂︶資金や海軍教官・技術者の招聰費 用について、彼は建言して曰く、﹁海運之利﹂は莫大である、よって海運業務から民間業者を締め出しこれを幕 府専業とし、その﹁利﹂を独占し右の資金・費用に充てるべし、と。 344 三 そもそも象山が時の老中・海防掛真田幸貫へ避戦不戦の論を展開するに際し、 するのは、戦争には莫大な費用がかかるということであった。 彼が説得の鍵概念とも切札とも 兵法にも有レ之候、﹁百戦百勝非二善之善者一、不レ戦而屈二人之丘二善之善者也﹂と。此言に拠り候節は、外 みなごろし 冠の既に至り候後に及び是と戦を決し、思ふ図に打勝候て敵軍を馨にし、其器械資糧を奪ひ取候共、尚其 上計とは不レ仕。況や勝敗互に有レ之候をや。又況や我の勝算極て乏しく候をや。去れば夷虜の心をして自 然と揮畏を生じ、我 神州を閲閑仕候念を絶たしめ候様仕候が、真の太上之策に可レ有二御座一候。兵法にも ﹁日費一千金一然後十万之師挙﹂とも有レ之候。
象山﹁上書﹂の骨子たる、対英戦必敗の予測のもとになされた避戦不戦の論の原理的表明である。﹃孫子﹄︵謀 攻篇・作戦篇︶に準拠してのこの原理論を序論とも総論ともして、次に各論が展開される。先ず、﹁日費千金﹂の 語について言う、﹁︵﹁唐山﹂において︶千金の費と申は、本邦にては大略万金以上に当り可レ申欺﹂。﹃孫子﹄中の ﹁千金﹂が当時の日本の﹁万金以上に当﹂るとする根拠は不明である。大体、﹁西洋製之戦艦﹂など一艘もない 当時にあって、一挙に﹁洋製之大舶四、五十艘﹂の購入、﹁西洋製に倣ひ数百千門之大炮を鋳立﹂と言う気宇壮 大︵世間では﹁法螺吹き﹂とも﹁山師﹂とも噂した︶な象山のことだから、多少の誇張はあろう。しかし初手の啖 呵としては充分な切れ味である。さらに次のように続く現実的な各項との連環によって、この多少の誇張はその 効果を発揮する。この﹁万金以上﹂の戦費の他に、﹁兵糧の転輸﹂︵輸送︶の費用がかかり、さらに戦争となれば ﹁日用の諸品も遽に高価に相成可レ申﹂として、以下のごとく結論する。 公儀の御費は兵法に申候所より幾倍に相成可レ申哉、莫大之義に可レ有御座一候。倣レ之天下之御疲弊にも いよいよもって ヘ ヘ ヘ ヘ へ 相成可レ申義は、智者を待ずして明白なる義と奉レ存候。左候へば、弥以此節僅かの御費を不レ被レ惜、初 め申上候一策を御用ひ、彼れの好謀を未だ成らざるに破り、我の大師をまさに興さんとするに停められ候様 有二御座一度、左候はぶ、実に天下幸甚と奉レ存候。︵二七五頁︶ 階しむらくは、この時期の象山が敗戦に際しての﹁順銀﹂︵戦時賠償金︶の知識を欠いていたかに思えることで ある。後日会沢が年来の撰夷から開国への転向を表明した﹃時務策﹄︵文久二年、一八六二。八十一歳︶中で、コ 時ノ敗二懲リテ和ヲ結ントセバ、降ヲ請フガ如キ姿ニナリ、西洋ノ習ニテ軍費ノ償ヲ責取ラレ、国力給シ難キコ 345 開国への階梯
トモ料リ難ク﹂として言及している賠償金である。この﹁贈銀﹂については、﹃時務策﹄に先立つこと九年の嘉 永六年六月、ペリー持参の米国国書に関わる公儀諮詞に応じた御家人向山源太夫の﹁上書﹂中に、﹁不得止事和 議等之御扱候ハ﹀、彼国々之習風は贈銀を可申入﹂︵﹁大日本古文書﹂幕末外国関係文書之一、三八六頁∀として、 既にその指摘が見られる。そして後日の薩英戦争・四国艦隊下関砲撃事件等において、現実化する賠償金である。 もしも象山に、コ時ノ敗﹂であっても莫大な金額を要求されるこの﹁贈銀﹂の知識があったなら、彼の右の 論調はより鋭角的に説得力を増したであろうが、当面は一日の戦費﹁万金以上﹂・兵糧輸送の弊害・諸物価高騰等 の指摘だけで充分、幕閣は肝を冷やしたことだろう。象山は国家の存亡とも皇統の安危とも言わない、ただ戦争 には﹁莫大﹂な金がかかる、﹁天下之御疲弊﹂の可能性を指摘しただけである。﹁陽には、幕府全盛の極運を示し たるにかかわらず、その実は幕府の衰頽、すでにこの時においてその萌芽を顕わしたり﹂︵福地桜痴﹃幕末政治 家﹄︶と言われる十一代家斉治世の余波のもと、天保の改革、周知の三方領知替︵天保十一年︶等によりその経済 的・政治的疲弊の様を天下にさらし、下からは﹁武家困窮﹂の怨嵯の声につき上げられる末期の幕府にたいする 説得の論理としては、まことに秀逸なものであったと言い得よう。﹁利﹂的視座の然らしむるところである。 ところで右の避戦不戦の大計の一文中には、﹁此節僅かの御費を不被惜﹂との一句が見られた。﹁イギリス夷﹂ の﹁好謀﹂を未然に防ぐための﹁僅かの御費﹂の意である。だが当時の幕府にはこの﹁僅かの御費﹂もままなら ぬと見た象山は、献策する。民間から剥ぎ取れ、と。 346 扱又、西洋製之大舶だに御しつらひに相成候はぶ、前きの八策にも申上候通り、江戸御廻米に難波船無レ 之、且又、天下之大利を興し候て、蘭人被二召呼一、戦艦、火器等御造立御座候失費をも、暫時に取返し候
趣法有レ之候。 当時、難波船の年間平均は四、五百艘、最大で千八百余艘にも及んだ。共に失われる積荷の額を加えれば、年 間の損失は莫大となる。船主たちの﹁利方﹂︵利潤︶は減少の一途をたどり、かれらは海運事業に及び腰となっ ている、として言う。 愚意奉レ存候には、この天下之船持に利潤薄く候時こそ誠に難レ得の幸、公儀にて大利を御興し被レ遊候御 時節、唯比時に限り候義と奉レ存候。︵中略︶ 当今天下之大利と申もの、この策にしくべからずと奉レ存候。且又、難波船だに無レ之候へば、海運程利 の大なるものは無レ之候。⋮⋮海防御入料程の義は、遠からずして御取返しに相成可レ申義と奉レ存候。︵二七 七頁︶ 趣旨は一読、簡明であろう。﹁海運程利の大なるものは無レ之候﹂、﹁此節幸に諸湊船持のもの利潤薄く候﹂・﹁こ の天下之船持に利潤薄く候時こそ誠に難レ得の幸﹂、この絶好の機会を逃さず﹁公儀にて其利を専らにせさせら れ候へ﹂と言うのである。先には幕府自ら大砲︵﹁大銃﹂︶を大量生産し、余剰分を大名・旗本に売れと言い、今 また海運事業の幕府専業化による﹁利潤﹂の独占を言う。共に、幕府の営利事業︵商売︶への献策である。とり わけ、民間海運業者の不運・不幸を﹁難レ得の幸﹂とする感覚、その経済合理主義のありようには端侃すべから ざるものがある。彼の英国論は﹁唯利にのみさとく﹂・﹁道徳仁義を弁へぬ夷秋﹂という図式に発していたはずだ 347 開国への階梯
が、これでは﹁義﹂の国日本の英国並の﹁夷秋﹂への転落が危惧されよう。 ﹁商なる者は天下の賎民也﹂︵山県大弐﹃柳子新論﹄︶。江戸中期以降、賎商観は知識人に通底する道徳意識の一 環︵7︶であり、かれらの﹁道徳仁義﹂の中核と言ってもよい。この周知の尊王論者の言が、その思想傾向からし てその極言のほどは当然というならば、次のような蘭学の大家の言は如何か。﹁何ぞ事あらん時、御用に立べき ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 第一の御旗本、御家人等も、十に七八は其状は婦人の如く、其志の卑劣なる事は商質の如くにして、士風廉恥の 意は絶たる様なり﹂︵杉田玄白﹃野嬰独語﹄︶。﹁野斐﹂とは野翁・村老の意である。この田舎親父の目から見ても、 商人は﹁卑劣﹂の象徴となる。だから外国との交易から商人を除外せよ、というのは本多利明である。﹁渡海・運 もし 送・交易は国君の天職なれば、商民に任すべきに非ず。若誤て商民にのみ任するに於ては、好計貧欲を恣にする ゆへ⋮⋮﹂︵﹃経世秘策﹄巻上。寛政十、]七九八年︶。 否、商人の交易参加は国際親善の障害とまで言うのは、橋本左内である。﹁右外国之風儀は兼て御聞及も被レ 為レ在候通、商法専ら信義に基き礼律を守候事故、本朝商人之狡弄臓檜のみにては永久親懇之引合も不二相成一、 かたがた ⋮⋮芳々尋常之町人にては、連も御国表より御仕出しの品物引受廻し候義、出来難レ申義と奉存候間・⋮:﹂︵﹁制 産に関する建議手書﹂安政四年、一八五七︶、と。山県大弐・杉田玄白の場合は単なる賎商、商人蔑視だが、利明・ 左内においては、それが経世論の一環として官営貿易︵﹁利﹂の独占︶合理化の倫理的裏打をなしている。したが ってこのように瞥見した限りでは、象山の説く、国内海運事業からの民間業者の排除自体は、少しも当時の﹁道 徳仁義﹂すなわち賎商的身分観に違背するものではない。 この民間業者の排除・圧迫と裏腹の関係をなす、幕府による﹁海運之利﹂の独占、﹁利﹂への官の直接関与︵商 売︶という点こそが問題なのである。交易の官営化、官による﹁利﹂の独占という構想自体は、右の引用文に明 348
らかなように、象山に先立っては本多利明により、後れては橋本左内により、原則的に展開されている。だがこ の両人の所説中には、賎商的身分観こそ歴然たるものがあるものの、体系的な華夷思想の痕跡は見出し難い。そ れどころか両人の展開する鋭角的な儒者批判に徴すれば、かれらの海外認識の枠組は華夷的図式とは対聴的と言 ってもよい。その上、かれらの所説中の交易とは海外交易である。これに対し、当時すでに第一級の儒者を自負 していた象山が、華夷思想に忠実に、﹁唯利にのみさと﹂く﹁道徳仁義を弁へぬ夷秋﹂として英国を規定するの は当然として、その一方で国内交易への官の積極的関与、﹁利潤﹂の独占を策するとはいかなることか。幕府自 身が率先して、﹁地球中比類無レ之霊慧之国﹂をして﹁唯利にのみさとい﹂﹁夷秋﹂と同等の﹁商人国﹂に堕せし めかねぬ事態の招来であろう。 ﹁夷の術を以て夷を防ぐ﹂・﹁彼を用ひ彼を制す﹂︵嘉永六年六月二九日書簡︶と説明される﹁逆謀﹂・﹁両之﹂の兵 学的思考が産み出したものは、幕府の商売進出という鬼子であった。華夷思想の構造上の亀裂、論理的破綻と見 るべく、後の本格的開国論への転向の予兆と言ってよい。次の一文は、﹁上書﹂の二十年後の文久二年九月にお ける﹁財政に関する幕府宛上書稿﹂中に見られる、﹁夷秋﹂観修正の原理的表明である。 ⋮⋮向後外国を斥して戎秋・夷秋と御称呼無二御座一候様、有二御座一度奉レ存候。凡戎秋・夷秋の称は、漢土 の中つ国にて四辺の外邦をさし候辞にて、代々の歴史、御本邦の如きをも皆東夷伝に収め候。⋮⋮御本邦の 如き綱常正しき君子国迄を夷秋と申候は、漢人既に誤り候義に御座候。然るを、御本邦にも其誤に傲ひ、只 管外邦他国を販し、学行・技巧・制度・文物、此方より備り候と見え候有力の大国を、戎秋・夷秋と御称呼 被レ為レ在候は、甚だ如何之御儀と奉レ存候。 349 開国への階梯
顧れば、﹁唯利にのみかしこく﹂・﹁唯利にのみ走り候習俗﹂の﹁元来道徳仁義を弁へぬ夷秋﹂と規定したのが天 保十三年﹁上書﹂であったが、それが今や、﹁学行・技巧・制度・文物・此方より備り候と見え候有力の大国﹂と 修正されているのである。刮目すべき、﹁夷秋﹂観の変容と言ってよい。西洋諸国の本邦にたいする優位は、も はや船艦兵器等の技術的﹁利器﹂に止まるものではなく、その範囲は﹁制度・文物﹂等の多岐にわたり、かかる 文明・文化兼備の﹁有力の大国﹂を﹁戎秋・夷秋﹂と呼称することは﹁誤り﹂だと、断ずるのである。そして象 山が自身の﹁夷秋﹂観修正の挺子ともする、他国から﹁夷秋﹂と呼ばれたくなければ他国をも﹁夷秋﹂と呼ぶな という感覚のうちには、万国公法に通ずる普遍的な国際認識の可能性が示唆されている。それが幕府宛上書稿中 のものであることからしても、右の一文は、決定的な、華夷思想との訣別宣言と見てよいだろう。かくて﹁夷 秋﹂は、﹁西洋諸国﹂と名を替えることとなる。 既述のように象山﹁上書﹂のうちには華夷思想の論理的破綻の素因が潜んではいたが、後年、彼をして該事態 に至らしめた主因が歴史状況の推移・変化にあったろうことはいうまでもない。天保十三年二八四二︶から文 久二年二八六二︶の間といえばとりわけて内憂外患、椙獄の季節であり、対外問題の重要事件は、日米関係に 限っても、ペリー来航・和親条約・ハリス駐在・修好通商条約等々と牧挙に違がない。象山がみずからの﹁夷秋﹂ 観の再検討に要する諸契機にも、時間にも不足はなかったと考えられる。しかしその内憂外患の季節の中にあっ ても、彼が右の﹁財政に関する幕府宛上書稿﹂を著わした文久年間といえば、壌夷思想が撰夷運動へと転換し、 最も政治的に娼微を極めた時期であった。万延元年の井伊大老暗殺、翌々文久二年の安藤信正襲撃事件・寺田屋 騒動・生麦事件につづき、同年十一月二七日には勅使三条実美が東下し幕府にたいし壌夷の勅旨を伝達している。 この壌夷督促の勅旨に接した幕府は、翌十二月十三日、擁夷の策略ならびに期限につき諸侯・有司に諮問し、 350
松代藩主真田幸貫は象山の見解をもとめた。このときの象山の上書が﹁撰夷の策略に関する藩主宛答申書﹂︵文 久二年十二月︶であり、この﹁答申書﹂がそのまま松代藩の意見として幕府へ提出されたといわれるから、これ もまた、先の﹁財政に関する幕府宛上申書稿﹂︵同年九月︶と同じく、幕府宛上申書と見てよい。その間わずか 三ヶ月、時勢の急激な展開と象山の危機意識のほどが偲ばれよう。彼の壌夷から開国への転向宣言として有名な 次の語は、この﹁藩主宛答申書﹂中に見られるものである。 抑五世界の学術智巧、次第に開け、各国の兵カ所作、此形勢に相成候も、実に天運のしかしむる所、皇国 独り此天運を奈何せさせらるべき。且御鎖国の手段も、充分の御国力と御伎備無二御座﹁候ては不レ被レ為レ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へついヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 叶、又学術智巧は、互に切磋して相長じ候もの故に、始終御鎖国にては、御国力御伎備共寛に外国に劣らせ られ、終に御鎖国を遂げさせられざるに至り可レ申、是本邦当今の御形勢に馴致候を以ても、明に知らるべ き義に御座候。夫よりは外蕃と礼義を以て御交通、其間に公武御合体被レ為レ在、御共々御励精被レ遊、⋮⋮ 象山の答申は、開国.海外交易による資長補短なくしては撰夷はもとより鎖国すらおぼつかぬ、よって﹁外蕃 と礼義を以て御交通﹂というのである。だがこのそれ自体としては普遍妥当的な命題も、末尾の﹁公武御合体﹂ の語が示すように、特殊具体的な政治状況のうちに位置している。それは先の﹁上書﹂︵天保十三年︶の天保期と は全く政治的位相を異にした、撰夷が尊王のうちに取り込まれて政治運動化し、討幕運動の一翼を荷うという歴 史状況である。ここに先にみずからの内なる華夷思想と訣別した象山は、新たに、外なる華夷思想運動・勢力と の対峙を余儀なくされることになる。朝廷・幕府﹁御共々﹂に向けて、である。 351開国への階梯
はか 尚書にも、﹁力を同じうするは徳を度り、徳を同じうするは義を量る﹂とも有レ之。古、司馬法にも、﹁物 を見て与に僻しうする、是を両之といふ﹂とも有レ之候。其国力、敵国と偉しきに至らずして、兵を構へ候 ては、其徳其義いか様徒わに超過候bか、其志を得候義は決して難二出来一、是乃ち天下の正理.実理.明理. 公理に御座候。 352 華夷思想、あるいはその変容としての神国思想への執着こそが時代の病巣だと言うのである。﹁其徳其義いか 様彼れ︵西洋諸国︶に超過候とも﹂とは、あるいは﹁夷秋﹂嫌いを標榜する天皇、それを利用する政治勢力を誠 しよう。現在の小国日本の採るべき途は、﹁徳﹂に非ず﹁義﹂に非ず、ひとえに﹁国力﹂の充実のみ、然してそ の手段は﹁利﹂的視座に立っての兵学的手法﹁両之﹂のほかなしとするその論旨は、天保十三年﹁上書﹂と基本 的に変らない。だが同時に、朝・幕双方が﹁徳﹂・﹁義﹂を政争の具として争う政治状況にたいする、彼の危機意 識のほども、﹁正理・実理・明理・公理﹂とルフランのように繰出される道理の語の重出のうちに如実に示されて いよう。 撰夷の勅読降下、それへの幕府の返答如何というこの文久二年十一月の時点における、象山の危機意識を示す す 徴表はまた、次のような叙述のうちからも感取される。﹁古代神聖の、︿おのれを舎て人に従ひ、人に取って善を 為す﹀の御盛徳被レ為レ渡、万国の長ずる筋を被レ為レ集、外国にも追々日本領をも被レ為レ開、御国力の御盛強も 万国分上に出で、鉄砲の御修繕、弾薬の御術業も万国の上に出で、軍艦の数も万国の上に出で、将材異能の士の 衆多なるも万国分上に出ひ、兵卒の錬熟も万国の上に出で、城制の堅固なることも万国の上に出で候様被為至候 しよう はぶ、兼ては關悶の禍心を致二包蔵一候国々も、自然と奉二囁畏一、御抗拒を待たず、跡を絶ち可レ申﹂、と。この
文意から、象山が﹁両之﹂︵司馬法︶の概念に托した趣旨が﹁万国の長ずる筋を﹂集めるの意であったことが分 明になるにせよ、ここでの﹁万国の上に出で﹂の語の重出には驚かされる。しかし、より注目すべきはこの語の うちに孕まれる大雑巴な感覚だろう。 天保十三年﹁上書﹂は、船艦・大砲・難波船等に関する具体的な計数の上に構築されていた。﹁万国の上に出で﹂ などという曖昧不確実な表記は、そこには見られなかった。そもそも英国一国に対してすら本邦﹁必敗﹂という のが、彼の基本認識であったはずである。それが、すべてにおいて﹁万国の上に出で﹂とは如何なる謂か。思う にこの本邦﹁国力﹂へのまことに非合理的な予想の語は、﹁小国﹂日本についてのきわめて正確かつリアルな地 理的位置づけに対応していよう。﹁本邦の面積、独乙里法を以て量り候に、壱万方里に満たず候。左候えば五大 洲の二百分の一には遥に及ばず候。⋮⋮其上、外国の学術技巧は、かねがね申候三大発明︵コロンブス・コペルニ クス・ニュートンの発明の意︶より、日々月々に致長進・、天文・地理・船艦・銃砲・城制等、一として其妙に至 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ や らざるは無レ之、且蒸汽機の学盛に相成候より、海には蒸汽船を走らせ、陸には蒸汽車を行り候﹂として、ロシ ア・フランス・イギリス・アメリカ等十二ヶ国の国名を列挙し、﹁其国力の富有、強大いかなるべきや﹂と結ぶの である。かくては﹁五大洲の二百分の一﹂の﹁小国﹂の生きる途は、﹁外蕃と礼義を以て御交通﹂するしかある まい。﹁万国の上に出で﹂の重出が、華夷思想・撰夷論者にたいする椰楡・冷笑の響きすら感じさせる所以である。 このように見てくるとき、華夷思想に発した天保十三年﹁上書﹂と、華夷思想と対時した文久二年﹁幕府宛上 書稿﹂・﹁藩主宛答申書﹂における、開・鎖をめぐる象山の論理の基本構造にほとんど変化が見られぬことが知ら れよう。異国をして﹁閥閑の禍心﹂を抱かしめぬ﹁国力﹂の増強・海防、すなわち避戦不戦という結論にも変化 はない。世評の高い﹁夷秋﹂観からの脱却・開国論への原理的転向表明を含む後者も、実は前者における論理的 353開国への階梯
可能性の現実化にほかならないということである。とすれば前者すなわち天保十三年﹁上書﹂において、象山を して﹁利﹂的視座を確立せしめる触媒的契機をなした華夷思想の果した役割には看過し難いものがあったと見て よいだろう。もとより象山の兵学的教養から推せば、そこにおける﹁利﹂的契機への着眼を華夷的図式にのみ帰 するわけにはいくまい。但し華夷思想的図式の介在なしに、仮にそれが性来のものであれ、彼のうちなる﹁利﹂ への傾向性があれほどに論理的・動態的に発現し得たか否かは疑問なしとはしない。 354 四 江戸川柳に、﹁東夷南蛮西戎は岡場所﹂というのがある。官許の吉原を﹁北秋﹂とし、これに対する岡場所 ︵私娼窟︶を列挙したものである。東夷は深川・南蛮は品川、西戎は新宿を指している。また、嘉永年間発行の 瓦版の中には、﹁止めて止まらぬものは、男女の仲と異国交易﹂︵石川県立博物館蔵︶の文句が見えている。この 二つの文句を重ね合わせた地平には、近世後期から幕末期にかけての人々の、恐ろしいけど魅力的といった アンピヴァレント 両面価値的な﹁夷秋﹂観が垣間見えていよう。いまこの﹁夷秋﹂の語に関わって言えば、渡辺畢山﹃慎機論﹄ ︵天保九年十月。一八三八︶の中に、﹁西洋戎秋といへども、無名の兵を挙る事無ければ﹂︵日本思想大系55、七十 頁︶の語が見える。前年六月の、既述のモリソン号事件にたいする英国側の対応を予測した文脈中の語である。 ﹁戎秋﹂の語は一見して華夷思想の存在を予想させるが、華夷思想の原義に即すればこの畢山の発想と用語はか なり奇妙に映ずる。﹁無名の兵を挙る﹂から﹁戎秋﹂なのであり、﹁戎秋﹂だからこそ﹁柳か我に怨みなくとも、 如何様の暴虐をと可レ仕﹂︵﹁上書﹂︶という象山の英国論中の解釈こそが正統なのである。故にこそ畢山は翌年の ﹃初稿西洋事情書﹄中で、次のように言う。﹁中々夷秋などと軽んじ候事は、誠に盲人の想像にて御座候﹂︵同