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フッサール現象学における動態的な習慣解釈について 利用統計を見る

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(1)

フッサール現象学における動態的な習慣解釈につい

著者

増田 隼人

著者別名

MASUDA Hayato

雑誌名

東洋大学大学院紀要

56

ページ

35-51

発行年

2020-03

URL

http://doi.org/10.34428/00011688

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習慣は如何にして働き、人間の活動において如何なる役割を果たすのか。この問いは哲学 において古くから関心を当てられてきたものであり、今なお議論されている中心的課題でも ある。習慣には強力な概念的緊張が内に含まれており、例えばそこでは、意識と無意識、意 志と惰性、人間性と機械性、固着と適応、本能と⽂化、個人と社会……等々の諸概念間の関 係性が問われてくる。本稿においては、ギルバート=ライルにおける静態的・機械論的な習 慣概念と対比することを通して、フッサール現象学における習慣概念の力動的性格と、そこ において習慣概念が果たす積極的な役割を検討する。

1.ギルバート=ライルによる習慣概念――習慣の盲目性と機械性

1)ライルによる知の性質の区分――事実知と方法知 英国人哲学者のギルバート・ライルは、1949年の著書『心の概念』において、人間の知の 在り方を、述定可能な事実や命題等に関する事実知(knowing that)と、述定的に活用され るのではない、技能等に関わる方法知(Knowing how)に峻別したことで広く知られてい る。たとえば、私達は自分が如何にして自転車に乗るのかを他者にうまく説明できずともそ れをこなせるし、現に自転車に乗っている際も、車体と体のバランスの取り方や、ペダルに 乗せた足の動かし方、進行方向の障害物の避け方などを逐一内省的に指示しているのではな い。また、知的行為の場合にしても、私達がチェスの指し方を「知っている」と言うとき、 そこで求められるのは単にチェスの規則(事実知)を記憶していることを意味するのではな く、たとえ規則を全て明⽂化できずとも、盤上において必要な手を実際に指せるかどうかが 問われる1。すなわち、方法知とは、規則が何であるかを表象化することなく、しかしてそ の規則を遵守し、その場にふさわしい合理的なプロセスに沿いながら作業を首尾よくこなし ていくことである。この方法知と事実知は一方が他方に包括されたり還元されたりするよう な関係としては捉えられず、ライルはこの区別によって、学問的な知の探究においてしばし

フッサール現象学における動態的な習慣解釈について

文学研究科哲学専攻博士後期課程3年

増田 隼人

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ば見過ごされてきた方法知の役割に光を当てると共 に、人間の実践的活動について、言語の働きに縛ら れることなく解釈する道を示したのである。 ライルによる事実知と方法知という区別――知識 ないしは記憶は異なる性質のものに分けられるとい う基本的な知見――は、その後の認知科学の記憶研 究においても通底した考えであり2、ミシュキンに 代表されるように、研究者によってはこの区別の違 いを、認知可能な「記憶」と、「習慣」の区別と解 した者もいた3 。実際、方法知も習慣も、言語化な いしは表象化されうるような知識や行為プロセスか ら区別されるという点においては軌を一にしている ように思われる。しかしながら、ここで注意が必要なのは、ライルにおいては習慣と方法知 は、部分的に重なりつつも、明確に峻別されている概念だということである。それでは、ラ イルはいったい、何をもって両者を区別したのだろうか。 2)ライルによる習慣概念――方法知とは如何にして区別されるか ライルが習慣と方法知を区別するにあたって重視するのは、理知性(intelligence)とい う概念である。ライルによれば、理知的行為とは、「行為者がそれを為しているとき、自分 が行っていることについて思慮している」4ことを指し、ある人が理知的であるとは、自らの 行為を批判的に吟味したり、その都度の状況に合わせて理論や行動を調整したりする能力が あることを指している5。この理知性の働きは、当然、科学的に推論を組み立てる過程など においても必要とされるが、方法知と習慣を区別する上で重要なのは、この理知性が方法知 が働く最中においても適用されることである。 たとえば、私達が自転車に乗っているとき、進行方向に空き缶が転がっていたとしよう。 このとき、私達は、ハンドルを切って空き缶を避けたり、場合によってはブレーキを握りし めて自転車を止めたりするが、こうした行為が可能になるのは、空き缶という障害物に対し ての気づきは勿論のこと、自らの身体も含めて、自転車の運転に関連した環境情報に対して 広い意味での注意――すなわち理知性が働いているからに他ならない。そうでなければ、私 達は空き缶という変数に対して全く無防備なままにタイヤを乗り上げ、怪我をしてしまうこ とだろう。とはいえ、このような理知性は、顕在化された指示作用と混同されてもいけない。 たしかに反省的にいえば、空き缶を避けるという行為に対して行為者は、「進行方向に空き 缶を見つけ、危険を感じたから自転車を止めた」というように事後的に説明することは可能 であろう。そして、それは、起きた事態への説明としては理に適っているように思われる。 1900年代後半の記憶の研究者達に よる様々な記憶区分の図表(註2) 事実の記憶 宜言的 記憶 外示的 事柄の輝識 認知的媒介 意識的想起 練成 記録のある記憶 目伝的記憶 表象的記憶 垂直連合 場ilii エピソード記憶 作勁記憶 2種類の記憶 技能の記憶 手統的 習慣 内示的 やり方の知識 意味記憶 技能 統合 記録のない記憶 矧党的記憶 配列的記憶 水平辿合 分類 意味記憶 参照記憶

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しかし、不意に現れた空き缶という変数を見つけたとき、そういった一連の思考過程が明示 的に脳裏に浮かび、「……だから自転車を止めよう」と結論づけて、私達はそうするのだろ うか。仮にそうした思考過程があったとしても、たとえば自転車を止めるための手段として ブレーキを握るのが有効だという明示的な認識がそこで働いているかは甚だ疑わしい。この ような事態への対処は、事実知よりもむしろ方法知の領分であるが、方法知が働くためは、 理知性の存在がここにおいても暗黙裡の前提として機能している。いわば、理知性は、事実 知・方法知問わず、何らかの意識的制御が必要とされる場面全般において働く、「気づき」 と調整の機能である。 ライルにおける方法知は、このような理知的な制御の下で、状況に応じて適切且つ柔軟に 操作可能であるような知の在り方を示すものである6 。その意味で方法知は、非言語的・非 明示的な性質を持っていたとしても、その根本においては意識的制御や変更の可能性が開か れている。しかし、それに対して、習慣は、自らの行為について「それを自動的(automatically) に行ったり、自分がしていることについて思慮なしに行う」7ことであり、以前行われた行為 の単なる反復にすぎないとライルによって述べられる。すなわち、習慣的行為においては、 そこに理知性の関与は認められないのである。ライルはさらに、それぞれの能力が得られる 方法的プロセスも区別している。すなわち、方法知は「訓練(training)」を通して、自分 が何をしているのかを考えながら行為を遂行することで学ばれるとする一方で、習慣は、単 純な「反復練習(drill)」によって獲得されるものだとされる。ライルは両者の区別につい て、「反復練習は理知性を失わせ、訓練は理知性を成長させる」8と述べているが、この言及 は「反復練習」を「習慣」と換言することもできるだろう。ライルが知の形態を事実知と方 法知に分けたことは既に述べたことではあるが、より広範な区別で言えば、彼は意識的制御 の及ぶ理知性の次元と、習慣の次元を明確に区分したと言えよう。 マクガークは、こうしたライルの習慣概念について、それは外的な刺激によって引き起こ される自動的ないしは非合理的な状態であり、非-人間的・動物的な状態であると特徴づけ ている9。いわば、習慣的行為は、特定の刺激に対して機械的に反射応答しているにすぎな いということになる。それゆえ、ライルにとって習慣的であるとは、当該の行為やその行為 を成立させている知について無自覚な状態を指し、その状態にあっては真の意味で世界や自 身の知に関与しているとはいえず、その知の発展可能性もありえない。裏を返せば、ライル において世界との真の関わりは、理知性を通した自己透明性と共に進めなければならないも のである。こうした意味においては、ライルは実践の場面の解釈において、言語による指示 作用に重きを置くことはなくとも、「意識」の権能を甚だ重視していたことが分かる。こう したことから、ライルにおいて習慣のその機能的役割や意義は、方法知と比較して狭く、消 極的に語られるに留まるのである。 ライルのこのような習慣概念は、現在の認知科学における習慣に対する知見とも基本的に

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近似していると言える。たとえば、マクガークは現代の認知科学における習慣概念は、4つ の特徴を暗黙裡に前提にしていると指摘している10。すなわち、 (1)習慣には、思慮なし(thoughtless)に実行される行動が含まれる。 (2)この思慮のなさは非常に広範なものであり、否定的な結果が出ても、それはただちに古 い習慣的な行動にはならない。 (3)習慣は外部刺激によって引き起こされる行動であり、これらの刺激に対する不変の反応 を伴う。 (4)実験ボックス内のラットの行動は、人間の習慣的行動の解釈に対しても転用可能なもの として受け止められる。 これらの項目からは、習慣の盲目性、固着性、機械性等々の側面が暗黙裡に含まれているよ うに思われるが、マクガークは、この諸特性はそれぞれ実験的に明らかにされることという よりも、習慣の規定としてすでに当たり前のこととして前提とされていると指摘している11 ライルによる習慣の規定も、ある意味ではこの標準的な路線を辿るものといえよう。しかし、 意識と習慣を明瞭に区切るようなこの規定の仕方は、はたしてそれほど自明なものなのだろ うか。 実際、言語的・非言語的によらず、人間の活動のどこまでが意識的制御に委ねられている のかは曖昧な部分が多くある。『心の概念』の翻訳者でもある坂本百大は、「現実の行動の中 にはかなり明瞭に意志的であるか否か断定できるコントロールが多い」と認めつつも、それ が条件反射や習慣的といわれる行動の場合、その関与の程度を厳密に論証することは困難で あると指摘している12。坂本は、たとえ一見意志的な決断と思われることでも、「それは彼の 思考傾向のパターンが批判や討論を通じて強化されたものと言えないこともない」として、 意志と習慣の境界の曖昧さについて論じている。坂本は、「初回の行動が条件行動であるこ とは原理的にありえない」としながらも、ある初回の刺激がそれと類似・近接した条件行動 を代置的に引き起こしたり、条件行動の結合がより大きな条件行動の枠組みを作り、新たな 刺激に適応させることは十分に考慮可能であるとし、さらにはそうした代置や結合それ自体 がパターン化される可能性について指摘している。坂本によれば、意志による行動も「すべ てある程度条件反射のことばで表現できる」ものであり、意識と反射は必ずしも対立概念と してあるのではなく、「条件反射は相対的な概念」である13。このような見地に立つと、ライ ルによる理知性の有無に依る方法知と習慣の区別は、概念規定こそ明瞭ではあるものの、実 態を捉えているとは言い難い。むしろその一見して分かりやすい区分は、意識と習慣との間 にあるだろう微妙な繋がりを覆い隠してしまうリスクを孕んでいるとも言えよう。 また、ライルのように理知性という一種の注意作用の有無によって方法知と習慣を区分す

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るとしたら、そこでは当然、「あるときには習慣的であり、あるときには方法知的である」 という事例が考えられる。たとえば、今日の夕飯について考えながら帰り道を歩いていると いう際、少なくとも相対的には、夕飯についての思考に比べ、歩行という行為に対する理知 性の働きは少ない、いわば習慣的であると言うことができる。しかし、例えば路面の荒い凸 凹道に差し掛かった時には、転倒しないように、注意は歩行そのものに向けられる――すな わち、理知的になる。こうした場合、その行為が方法知に属するか習慣に属するかは、その 都度の意識的注意の程度差によるとしか言いようがなくなる。しかし、路面に注意して歩行 するというとき、はたして私達の歩行の中から習慣的なものは掻き消えてしまっているだろ うか。むしろそういった新しい行為形式はそれまで培ってきた習慣という地盤があってこそ 成立するものであり、翻って言えば、意識的制御とは、その習慣的な行為過程の中に現れた 個々の変数に対応するものでしかないとも言いうるのではないか。ライルの記述においては、 意識による試行錯誤のプロセスが重視されるあまり、こうした発展の土壌としての習慣とい う見方が希薄にすぎるように思われる。 ライルのように習慣を単なる「刺激-反応」形式で捉え、それを機械的反復としてのみ捉 える解釈の背景には、記憶をコンピューターに保存されたデータや倉庫に貯蔵された物のよ うな、静的なイメージで捉える見方が根底にある14。このような見方においては知の刷新や その動性は、あくまでも理知性や意識の側に属することになり、記憶は単に意識によって利 用されるのをじっと待つ素材という位置しか持ちえない。意識から外れて勝手に動いている ように見える習慣に関してもその基本的性質は同じであり、再現前に際して要求されるもの が意識から外的刺激に置き換えられているだけである。外的刺激を受けるまで習慣はただ眠 っており、該当の刺激を受ければ以前の行為のコピーをただ再び差し出す。そのようなもの として考えられる。 こうした見方に反して、過去が「現在」という時間意識の成立そのものに原理的に関与し ていると考え、記憶や習慣の持つ力動的性格を強調したのがフッサールである。フッサール にとって習慣とは、自我がその全活動を通して積み上げていく歴史そのものであり、そして この歴史は今このときにも刷新され続けていく有機的なものとして考えられている。こうし た基本的理解に則って習慣という現象を再解釈した場合、ライルのそれとはまったく異なっ た習慣像が出現してくる。それは単に外的刺激によって呼び起こされ、応答するような機械 的なものではなく、それそのものが現在を生きる人間活動を基づけ、突き動かすような、生 き生きとした力動性を持った習慣の理解である。以下ではこうした特徴を持ったフッサール の習慣性概念をライルのそれと対比しながら述べていくこととする。

2.フッサールにおける習慣概念

さて、ライルは習慣概念の適用範囲を理知性(いわば当該の行為ないしはそれに付随する

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知に対する気づきないしは注意)の有無によって現に規定するライルとは対照的に、フッサ ールの習慣概念は非常に広大な範囲に広がっており、それゆえにやや曖昧さも感じられる概 念である15。実際、フッサールはしばしば「習慣性」や「習慣的」という言葉を使うが、習 慣とは何であるかを明確に定義している個所は存外に少ない。たとえば、『経験と判断』に おいては、習慣とは、我々が生活世界において生きるにあたって行う認識、実践、価値づけ といった諸行為を行う中で獲得されたものであり、様々な生活状況における決断と行為にあ たって安定感を与えるものだとしているが(vgl. EU, 52)、これも説明が包括的すぎて、や や漠然としている感は否めない。 とはいえ、前述したように、たとえば意識的制御の有無によって習慣の概念規定を明瞭化 しようにも、実態としてはその区別は相対的で曖昧なものに留まるものになりかねない。そ の意味では、フッサールによる習慣の概念規定の曖昧さは、むしろ習慣概念の豊饒さを示す ものとして積極的に活用していく方が議論として建設的であろう。前述したように、フッサ ールの習慣性概念は非常に広範な性格を有しているが、以下では、ライルの習慣概念との対 比点として、a)習慣は単に思い出されるものとしてあるのではなく、衝動志向性に代表さ れるように、意識の水面下にあっても活動的な志向的性格を備えたものとして理解されるこ と、b)時間論の理解においては、習慣はとりわけ予期の志向として積極的に現在の経験の 構成に関与し、基づけていることを中心に論じる。以上のことを踏まえたうえで、ライルの それとは対照的に、フッサールにおける習慣概念は自ら積極的に自我の活動に関与しようと する力動性を有しており、また、自我の諸活動の可能性を拡張していくための地盤としてみ なされていることを示す。 a)フッサールにおける習慣性概念の――衝動としての習慣 さて、フッサールの志向性概念は、様々な様相に従って細分化されうるものではあるが、 とりわけ意識の関与という面を強調する場合、二つに大別できる。すなわち、対象について の自我の注意として働く能動的志向性と、まったく注意が向けられていない「無意識の志向 性」とか「地平志向性」などと称され、自我の関与が認められない受動的志向性である。そ して、この受動的志向性ないしは受動性の領分にはさらに、自我の能作によって構成された ものが過去把持の沈澱化を通して無意識的になった「二次的受動性(sekundäre Passivität)」 (EU, 336)と、自我の作用志向性を原理的に含まない「根源的受動性(ursprüngliche Passivität)」(EU, 73)の区別がある。 フッサールの習慣性概念は、ところによっては、このいずれにも関与するものとして述べ られるが、本論で習慣性というとき、およそそれが意味するのは二次的受動性であると考え てよい。簡潔に言えば、ここで論じるフッサールの習慣性概念は、繰り返しの経験によって 無意識に沈み込んだ経験の痕跡ということになる。

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一見すると、これはライルの習慣の定義と同様に見えるかもしれない。しかし、そこに志 向性という性質を加味することで、その内実は大きく異なることになる。志向性は、能動的 にせよ受動的にせよ、⽂字通り何らかの充実へと向かうという性質を備えている。それは単 に習慣が外的刺激に対して受け身的に応答するものとしてのみ働いているのではなく、習慣 それ自体が慣れ親しんだ行為形式へと自我の活動を牽引していく性格を持っていることを示 唆している。このことを端的に表すのが、フッサールが動機づけ、とりわけ衝動との関連の 下で習慣の働きを述べている個所である。 フッサールは、『イデーンⅡ』において、具体的な経験的自我(人格的自我)の諸活動を、 理性による能動的な作用に基づけられたものと、連合による無意識的な傾向性に基づけられ たものとに区分する一方で、「習慣は、根源的に本能的な行動に対しても、自由な行動に対 しても形成されなければならない」(Hua IV, 255)とした。 たとえば、フッサールは、理性による動機づけ16の中には、ふたつの種類の「相対的な理 性の動機づけ」があるとして(Hua IV, 222)、1)理性的推論を重ねる過程において諸前提 の中に誤謬が含まれる場合という意味での「相対的な理性」と、2)理性的に判断したつも りが実は個人的な嗜好のような「盲目的な傾向性」がそこに入り込んでいたという意味での 「相対的な理性」について論じている。これについてひとつ事例を挙げてみよう。 私は選挙に投票する際、自己の政治的理念や、その候補が当選することによって自己が得 るであろう損得の見通しなどにしたがって投票する相手を選別する。その候補者のマニフェ スト、経歴、所属政党など諸々の要素を吟味して、妥当な候補者の氏名を投票用紙に記入す る。これは明らかに理性的且つ主体的な判断であるが、しかし現実問題、本当にその候補者 が私にとっての諸条件を備えた人物であるか――たとえば掲げた公約を本当に実行できるか ――は厳密な意味では私にとって不明瞭であり、私はその不明瞭さを楽観的な期待や妥協な ど何らかの形で呑み込んだまま投票を行う。この場合、私は自分の判断の妥当性を完全に把 握することはできていないということになる。これがフッサールの言うところの、1)誤謬 の可能性を含んでいるという意味での相対的な理性的判断にあたる。また、こうした誤謬の 可能性による相対性とは別に――いわば、その候補者を選んだ判断が実際に正しいか間違っ ているかというのとは別に――それが本当に純粋に理性による判断のみに従ったものなのか、 という意味での「相対性」がある。たとえばこれは、自分自身では至って客観的に候補者の 選定をしたつもりでも、候補者の容姿や性別、出身地など諸々の諸要素に対する嗜好や親近 性が判断に隠れた影響を与えている場合である。あるいは、「前回もその候補者に投票した から」という、以前の判断が習慣的になって現在の判断を補強しているという事例も考えら れよう。こうした場合、フッサールにとってその判断は、2)習慣的ないしは盲目的な傾向 性の影響を受けた「相対的な」理性によるものであるとされる。理性的判断における習慣の 関与の例としてはとりわけ、この2)の場合が該当するであろう17。習慣が意識にどこまで関

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与しているか線引きするのは難しいことは前節においても既に論じたことではあるが、フッ サールもまた、意識的・理性的な推論だと思われる思考過程の中にも、習慣的なものが入り 込む余地があると認めていることは留意すべきだろう。前節で紹介した坂本百大と同じく、 フッサールもまた、理性と習慣を絶対的に切り離すのではなく、双方の繋がりを意識しつつ 描いているといえる。 そして、他方ではまた、フッサールは習慣による衝動や本能の強化ないしは抑圧について も述べている。フッサールによれば、「ある衝動に従うことは、習慣的に従う衝動を基づけ る」(Hua IV, 255)とされる。たとえば、甘味を日常的に摂取することは、甘味の摂取に対 する衝動の習慣を強化する。これは極々一般的な意見に思えるが、興味深いのは、フッサー ルがこれに加えて、価値の動機づけにしたがってある衝動を我慢することは、その「衝動に 抵抗する傾向」を生じさせるとも述べていることである(ibid.)。すなわち、ある衝動を理 性的に我慢することは、単に当の衝動の抑制を意味するのではなく、「抑制する」という新 たな衝動の形成を意味し、その衝動もまた習慣化されていくとしているのである。ここでは、 「習慣と自由な動機づけが絡み合っている」(Hua IV, 255)とされ、理性的な諸判断もまた、 習慣化を通して「盲目的な傾向性」になりうることを表している。そして、この矛盾する二 つの習慣的な傾向性は、当然ながら互いに相争う関係にある。それはいわば、フロイトにお ける抑圧の構造にも例えられよう。 このように衝動や本能と結びついた諸習慣は、互いに自我の対向をうながす主導権を巡っ て抗争をするという、非常に動態的な姿を私達に示す。そこでは「あるものへの欲求」対 「それに対する抑制」のような抗争だけでなく、たとえば「パンを食べたい衝動」対「麺類 を食べたい衝動」という種類の類縁的な諸衝動間の抗争もありうる。しかもここで改めて強 調されるべきは、こうした諸衝動間の抗争は、意識化された心理的葛藤という形を取るだけ ではなく、そもそも意識化される以前からすでに始まっているとフッサールに考えられてい ることである18 フッサールによれば習慣的な動機づけは、「ほとんどの場合、意識の中に現に存在してい るにもかかわらず、それが浮上することはなく、気づかれずにいたり目立たずにいる(無意 識である(unbewußt)」(HuaIV, 222f.))ものである。人間の諸行為は「暗い基底において 動機づけられており、それぞれに心的な理由がある」(ebd.)が、それはいわゆる「精神分析」 によってのみ明るみに出すことが可能であるような性質のものだとされる19。フッサールは ここで、私達の判断のある部分が無意識のうちに動機づけられ、方向付けられてしまってい ることを強調している。そして当然ここには、二次的受動性ないしは受動的動機づけとして の習慣の活動領域が含まれているのである。 フッサールにおいて習慣化の効用はこのように、理性的判断と無意識的な衝動の両方に対 して働いているとされる20。前節で強調したように、ライルにおいて習慣は、身体行為にせ

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よ何らかの知的行為にせよ、条件反射的に作動するようになった行為ないしは知識という受 け身的な性格が強いものである。しかし、フッサールの場合は自我の活動の根本的な動因で ある衝動志向性に習慣の働きを認めることで、習慣概念に非常に動態的な性質を付与するこ とになっている。それはある意味においては正しく「自動的」ではあるが、機械的というに は非常に生々しい質感を持った習慣像であるといえよう。 b)意識経験における習慣の積極的関与――予期の志向 このようにフッサールにおける習慣概念は、衝動や動機づけといった主観的な生産物を伴 う志向的性格を備えており、自我の諸活動の動因としての役割をなしている。フッサールは、 「衝動志向性」ないしは「衝動的習慣性」をすべての生き生きとした現在を貫くものとして おり(vgl. Hua V, 148)、ある意味ではフッサールの習慣概念のもっとも重要かつ根本的な 規定はここにあるといっても過言ではないだろう。しかし、フッサールの習慣概念を単にそ の人の性格や心的な傾向性としてのみ解することは狭隘な見方となるだろう。また、今節で は衝動や本能の部分にまで習慣の働きを認めたことで、習慣それ自体の持つ力動性を強調し たものの、ライルが方法知の概念に割り当てたような知の可塑性や発展可能性と習慣の関係 という問題は依然として残っている。ライルにおいて習慣は、意識的制御から外れて条件反 射的に作動するものであり、いわば自我の活動を狭める不自由なものとして目されていた。 これに対し以下では、習慣と予期の志向との関係を見る中で、習慣がむしろ自我の自由な活 動を下⽀えする、いわば可能性の圏域として機能していることを強調しよう。 さて、それではそもそも予期とはどんな能作であろうか。簡潔に言えばそれは、未来に到 来する諸対象を眼差し、待ち受ける志向である。もっとも単純なところで言えば、カレンダ ーで一か月後の日付を見て、その予定についてあれこれ考えるというのも予期の一種といえ よう。しかし本稿ではそのように意識の顕在的な眼差しの下で行われる予期については脇に 置き、習慣の働きとより関連性の高い予期――ローマーが「志向的な期待に基づく予持」と 呼ぶ予期について論ずるとしよう21 現象学者のローマーは、フッサールの時間意識における本質的な構成層「原印象-過去把 持-未来予持」のうち、未来予持の性質をさらに二つに分けている。一方は裏返しの過去把 持として直近に把持された原印象の持続を期待する本来的な未来予持。もう一方は、習慣的 な知に根差した未来予持ないしは予期である22 まず押さえておきたいのは、本来的な未来予持は、今到来してきた感覚素材とその過去把 持とに依存しているということである。例えば手に持っている球体を回し見るという場面で 考えてみると、「たった今見えていた赤」の射映が、「次に見えるだろう背面の赤」を予持さ せるという構造を持っている。すなわち、本来的な未来予持は、現在の赤、たったいま過去 把持された赤から、次に来る赤を予持するのである。しかし、ローマーは、現在の知覚や過

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去把持との関係における直接的な類似性だけでは、私達の日常生活において機能している予 持は説明しきれないとして、本来的な予持とは異なる予持の性質について、交通信号の色の 変化を例にして論じている。 まず、私達は、交通信号の赤を前にして停止している。生き生きとした現在の視点におい ては、原印象として今与えられている色は赤であり、過去把持されている色も赤である。先 の球体の例に即せば、私達が次に来る色として予持するのは、赤の色の持続のはずである。 しかし、実際に私達が赤信号を前にして待ち構えているのは、その信号が青に変わる瞬間な のは言うまでもないだろう。しかしでは、先の球体の例と、交通信号の例の場合の差異とは どこにあるのだろうか。この青の予持は何に由来する予持なのだろうか。これについて、ロ ーマーは、この予持は「世界を伴った私たちの経験に依存している」23 と述べている。そして ローマーは、それを「志向的な期待に基づく予持」24と呼称し、「それは、これまでの経験に 基づく期待であって、本来的にはもはや予持ではないのである」25として本来の意味での未来 予持からは区別する。すなわち、先の球体の場合の予持と、交通信号についての予持(志向 的な期待としての予持)の違いは、私達が以前にそれについての経験をしたかどうかという ことであり、私達は過去の経験の結果から、交通信号の赤が青に変わるのを期待しているの である。 この「志向的な期待としての予持」を以下では予持2と呼び、本来的な意味での未来予持 (予持1)と区別しよう。予持2もまた、「経験に依存する」という以上、予持1と同様、そこ に過去把持が関与しているのはたしかである。しかし、この予持2は、生き生きとした現在 において未だ知覚の直観性をある程度有している過去把持に依存するのではなく、既に沈殿 化した過去の経験連関全体を地盤として働くのである。たとえば、先に挙げた交通信号の変 化を待ち受ける場合もそうだし、石ころを窓ガラスに投げつけようとする人を見て「ガラス が割れる音」を予持するのもそうである。予持2はたった今の過去把持に依存するのではな く、今までに過去把持された自己の経験全般の集積、すなわち習慣的知に依存し、それが現 在の知覚によって再覚起されることによって可能となるのである。ローマーは、このことに ついて、「変化する予持はすべて、日常的な経験に依存している」26とし、「誰かがこれまで一 度も交通信号を見たことがなければ、彼は色の変化を期待することはできないだろう」27 と論 じる。また、フッサールは、『受動的綜合の分析』において、習慣と予期の関係について、 「この統覚的な予期の力は、諸般の例の数に応じて――あるいはそれと同じことだが、習慣 によって増大する」(Hua XI, 190)と述べている28。このことは、知覚対象の構成において 予期が働くとき、どの経験が優先的に活用されるかは、単に感性的与件の類似性の程度だけ ではなく、自我が如何に多くそれを反復的に経験したかが大きく関与していることを示して いる29 以上のように、経験の集積としての習慣的知は、予持2を基づける地盤として働き、本来

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的な未来予持においては不可能な、「変転する知覚の予持」を可能にする役割を果たしてい る。それは言うに及ばず、私達が日常生活を送る中では、予持1に劣らず不可欠な能作であ る。というのも、もしも直近の過去把持に依存する予持1しかなかったとするならば、私達 は様々に変転する知覚情報の中で絶えず予期外れに苛まされることになり、この世界を自分 にとって日常的な世界と見做して生活を送ることなど到底不可能なものになってしまうから である。 ここにおいて、習慣性は、「既知性」という面に焦点が当てられている。しかし、ここで 重要なのは、それは一般的にイメージされるような「知識」として考えられているのではな いということである。別の論⽂でローマーが指摘するように、習慣的な既知性は自我によっ て自覚的に思い出されて活用されるような「知識(Wissen)」としてあるのではない。むし ろそれは自我の対向以前に、自我の「認識(Erkenntniss)」そのものを作る構成の側に立つ ものである30。そして、この既知性の領野は自我が生きている限り、完成することはない。 過去把持は未来予持や予期の志向の充実・非充実(予期外れ)そのものをも含蓄し、習慣的 な知の妥当性はその都度更新されていく。もしも予期外れが起きたならば、以前の予期は破 棄ないしは無効に付され、新たな予期の志向が構成される。そして、その予期が何度も妥当 したならば、それは新たに習慣的な予期(予持2)となる31。こうして予期のシステムは、過 去の様々な経験を是正したり類型化したりする習慣の再構成を介して絶えず更新されながら、 到来する新たな知覚に備えるのである。 このように、習慣的となった既知の地平は、予期の可能性の範囲を規定している。事物に 慣れ親しみ習慣化していくとは、より細かく規定された予期の連鎖的システムの形成を通し て、自我が世界と関わるにあたっての効率性を高めていくことと解することができる。習慣 にはたしかに、その妥当性を失った後でさえも自我の活動を制限してしまうような強力な固 着性があり、厄介な側面がある。そしてそれゆえに、習慣はときに、「もはや意識の注意を 受けないがために不自由で機械的になりがちである」32とか、「習慣的な行動は洞察力を伴っ て顧慮されないがゆえに「盲目的」に映る」33というようにその負の側面を述べられることも ある34

結語

本稿においては、ギルバート=ライルにおける機械論的な習慣の解釈と対比する形で、フ ッサールにおける現象学的見地に立った習慣論を見てきた。方法知との区別によって、ある 種の機械的・反射的活動に限定化されたライルの習慣の解釈は、概念の明確化という意味で は一理あるものだが、実際に意識と習慣はどこまで切り離しうるかと考えてみると実態とし ては曖昧さが残る。ライルの方法知はいわば職人の技のようなものだが、私たちの日常生活 の大半はそうした高次の注意を要するようなものではなく、ライルの言うところの単なる習

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慣で成り立っており、また、職人の技や知というものもそのような生活の場の中からしか立 ち上がりようがない。その意味ではフッサールの習慣概念の分析は、概念的な曖昧さは残る ものの、人間活動をまさにその根底から⽀えるものとして、習慣概念をより豊饒且つ拡張性 の高いものとして扱ったと言える。ライルにおいて自己の発展可能性や世界との真の関わり を閉ざすものとして扱われた習慣は、フッサールにとってはまさに逆様に、自我の活動を下 ⽀えし、世界との関係を円滑化するという仕方で必須なものとして評価されているのである。

凡例

『フッサール全集』(Edmund Husserl. Gesammelte Werke (Husserliana). Aufgrund des Nachlasses veröffentlicht unter Leitung des Husserl-Archivs Leuven, Den Haag.)からの引用は(Hua 巻数, 頁数)の略号を用いた。また、『経験と判断』(“Erfahrung und Urteil”: Untersuchungen zur Genealogie der Logik. Hrsg. von L. Landgrebe. Prag: Academia / Verlagsbuchhandlung)からの 引用は、(EU, 頁数)の形で示した。さらに『フッサール資料集』第八巻(Husserl, E. (2006). Späte Texte über Zeitkonstitution (1929-1934). Die C-Manuskripte. Hrsg. Von D. Lohmar. New York: Springer.)からの引用は、(Hmat VIII, 頁数)の略称を用いた。 また、既に訳書が出てい る⽂献に関しては、訳出に際して邦訳を適宜参考にした。

参考文献

Andreas Zhok, “Habit and Mind. On the Teleology of Mental Habit”, Phenomenology of Mind, edited by Matt Bawer and Emanuele Calminada, IUSS Press, pp. 117-129, 2014.

Anne Graybiel & Smith Kyle, “Good habits and bad habits”, Scientific American. 310 (6), pp. 38–43, 2014.

Christian Ferencz-Flatz, (2014). “A Phenomenology of Automatism”, Phenomenology of Mind, edited by Matt Bawer and Emanuele Calminada, IUSS Press, pp. 65-83, 2014.

Dermot Moran, “Edmund Husserl’s Phenomenology of Habituality and Habitus”, Journal of the British Society for Phenomenology, Vol. 42 no. 1, pp. 53-77, 2011.

Dieter Lohmer, “Type and Habit”, Phenomenology of Mind, edited by Matt Bawer and Emanuele Calminada, IUSS Press, pp. 48-64, 2014.

Gilbert Ryle, The Concrpt of Mind, edited by Taylor & Francis, Routledge, 2009. (邦訳:『心の概 念』、坂本百大 他訳、1987年、みすず書房)

James McGuirk, “Phenomenological considerations of habit: reason, knowing and selfpresence in habitual action”, Phenomenology of Mind, edited by Matt Bawer and Emanuele Calminada, IUSS Press, pp. 147-160, 2014.

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naturalization of mind”, Analytic and ontinented Philsophy: Methods and Perspectives. Proceedings of the 37th International Wittgenstein Symposium, De Gruyter. pp. 203-214, 2016. Victor Biceaga, The Concept of Passivity in Husserl’s Phenomenology. London: Springer, 2010. 坂本百大、『人間機械論の哲学』、勁草書房、1980年。 榊原哲也、『フッサール現象学の生成』、東京大学出版会、2009年。 田口 茂、『現象学という思考』、筑摩選書、2014年。 ディーター・ローマー、「フッサールのベルナウ草稿につながる予持の分析」、『フッサール研究』 Vol. 2、浜渦辰二訳、pp. 191-206、2004年。 ラリー・スクワイア 、『記憶と脳』、河内十郎訳、医学書院、1989年。 1 Ryle, [2009], pp. 31-32. 2 スクワイアは、『記憶と脳』において、記憶分類の黎明期における研究として、他の研究者と共 にライルの名を取り上げている(スクワイア、[1989]、河内訳、171-172頁)。無論、各研究者の 分類の内実はまったく同じというわけではないが、いずれにせよ記憶がいくつかの過程や性質に 区分されるべきという見方は共通している。本⽂の図表はそれら研究者達による記憶区分をスク ワイアが纏めたものである(同書、172頁参照。なお、ライルの区分は図表内では「事柄の知識」、 「やり方の知識」と表記されている)。 3 同書、171-172頁。ミシュキンは視床内側部に障害を受けた患者の臨床研究やサルでの実験例を もとに、認知可能な「純粋な記憶」と、条件反射のように繰り返しの学習で得られた「習慣の記 憶」とでは、貯蔵される脳の部位が異なることを指摘している(Mishkin, “Memory in Monkeys Severely Impaired by Combined but not by separate Removal of Amygdala and Hippocampus”, Nature Vol, 273, pp. 297-298, 1978.)。 4 Ryle, [2009], p. 18. 5 ここにおいてライルは、この「理知性(intelligene)」と「知性(intellect)」を区別して考えてお り、たとえば九九の暗唱は一般に知的(intellectual)なものと解されるが、それはかつて習ったこ とを機械的に反復しているだけであり、理知的な活動としては見られないとしている(Cf. Ryle, [2009], P, 28)。 6 なお、ここでいう「批判的な吟味」とは必ずしも言語を用いる必要はない。たとえば、氷上を転 ばないように注意深く歩くというだけでも、それは理知的な行為たりえる(Cf. Ryle, [2009], P, 28)。 7 Ryle, [2009], p. 30. 8 Ibid. 9 McGuirk, [2014], pp. 204-205. 10 Cf. Mcguirk, [2016], p. 206

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11 Ibid. 12 坂本、[1980]、171頁。 13 同書、172頁。坂本の指摘は、内観としては意志的と思えることでもその背景において習慣によ る影響を被っている可能性は否定できないということになる。 14 Cf. Johnstone, [2009], p. 56. 15 ドイツ語で「習慣」に類する語を、フッサールはその草稿で何種類か用いているが、その区別は 厳密に定義されたものではない。傾向から言えば、特別な意味を込めずに一般的な意味で習慣を 語る際には(あるいは、自然的態度において無反省的に受け入れられている習慣を語る際には)、 フッサールはHabitusやHabitualitätではなく、Gewohnheitという語を使用する傾向がある。たと えば『イデーンI』において、フッサールが現象学的還元の対象として習慣を挙げた際には Gewohnheitという語が使用されている(vgl. Hua III, 67, 69)。そして、『イデーンII』において改 めて自我の習慣性が現象学的分析の対象として挙げられた際にはHabitusやHabitualitätという語が 多用されている(vgl. Hua IV, 111, 266, 277, 295)。とはいえ、先述したようにフッサール自身がこ の術語の定義について明記した箇所は確認できず、その使い分けの仕方も必ずしも厳密なわけで はない。また、一部には、アリストテレスからの伝統に倣ってHexisというギリシャ語を用いてい る箇所もある(vgl. Hua XIV, 195)。このように、術語的な見地から言えば、フッサールにおいて 習慣という語はいささか曖昧に使用されている感があるが、使用頻度や汎用性から言えば、フッ サールはHabitualitätという語を一番好んで使用していたように思われる。 16 フッサールは、理性による動機づけを「理性の諸規範に⽀配される領野における積極的な諸作用 による積極的な諸作用の動機づけ」と定義する(Hua IV, 220f.)。ここにおいて重要なのは、「私が 自分でコギトする」ことであり、また、「すでに私が別のコギトをしていたことによって決定的に 影響される」ことである(vgl. Hua IV, 221)。そのため、理性による動機づけは、「態度決定によ る態度決定」(Hua IV, 220)と言われ、コギトによる定立作用間の関係だと考えられる。 17 ここで習慣は、理性による明晰性に混入した不純物として記述されているといってよい。 18 フッサールは『受動的綜合の分析』において、自我の対向を促す諸触発の抗争について論じてい る。そこにおいて触発の現象は色や音のような外的な事物が中心に述べられているが、過去の記 憶の産物である空虚表象が自我を再覚起する力や、感情の領域についても触発の現象に含めてい る(vgl. Hua XI, 150)。 19 この「精神分析」は原⽂では「"Psychoanalyse"」というように括弧で括られており、それがい わゆるフロイト的な精神分析を直接示すものなのかは判断が難しい。とはいえ、フッサールはこ の前後において「無意識」や「抑圧」などフロイトの精神分析における象徴的な概念を使用して おり、フロイトを意識している節が見られる。 20 ただし、これによってフッサールが全ての理性的判断に、習慣が関与していると考えられていた かは議論の余地が残る。何故ならば、フッサールは、「純粋な」理性の領圏についてもそこで顧慮

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しているからである。この純粋な理性による動機づけは「明証性の枠内での動機づけ」と考えられ、 とりわけ「論理的な基礎付けの諸例」がそこに該当するとされる(Hua IV, 221)。この純粋な理性 による判断は、先述の相対的な理性による判断とは違って、「理性が…とりわけ洞察によってのみ 動機づけられている場合であり、しかも、その場合に限られる」(Hua IV, 221)と言われる。この 観点から見た場合、純粋な理性的判断を自我が遂行する最中において、自我の判断に潜在的に影 響を及ぼす習慣は徹底的に排除されるべきものと見なされているように思われる。しかし、他方 でフッサールは、純粋な理性による動機づけによって成り立つ最たる例ともいえる現象学の営み においてもそこに習慣の関与を認め、「現象学的還元の習慣」という語を使用したりもしている。 どちらにせよ、純粋な理性の動機づけによる行為は学問的営為などごく限られた範囲ともいえる。 その意味では私達の通常の生活において習慣の関与しない場面と言うのはほぼ存在しないと言い うるだろう。 21 ローマー、[2004]参照。 22 通常のフッサールの術語の使用法に照らしてみた場合、未来予持は受動的志向性の領分に属し、 自我の能動的な作用である予期とは明確に区分される。しかし、ローマーはここで自我の諸経験 の影響を被った未来予持という様相を考察することによって、その境界を敢えて曖昧にしている。 それは原印象とその過去把持にのみ根差す能作はないという点において本来的な未来予持からは 外れているが、自我の対向以前の受動性の次元において作動するという意味では正しく未来予持 的に働いているといえる。この関係は先述した原受動性と二次的受動性の関係と類比的であると 言えよう。 23 ローマー、前掲論⽂、201頁。 24 同上。 25 同論⽂202頁。 26 同上。 27 同上。 28 このことはすなわち、類型が予期の内容に一定の形式を与えている一方で、習慣は、どのような 類型が、到来するヒュレー的対象と結合するか、その傾向を方向付ける力を持っていることを意 味している。類型概念は「習慣的な所有物」と言われているように、あくまでもより包括的な概 念としての習慣性の一成素として考えることによって真にその機能を理解できるのである。 29 また、フッサールは、過去地平に沈殿した空虚表象がもつ触発の力の強さを決定するのは、「広 義の意味での、または広い意味での<関心>、すなわち特定の情緒がもつ根源的な価値づけや、獲 得された価値づけ、本能的な衝動、あるいはそれより上層に属する衝動であろう」(Hua XI. 178) と述べている。前項において述べられた、習慣と衝動的志向性との関係を想起すれば、予期ない しは予持2が働くに際して習慣が果たす役割の大きさは今や言うまでもないだろう。 30 Lohmar, [2014], p. 52.

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31 フッサールは斉一的な知覚の流れが予期外れによって断絶されることで様相化が生じるとする (vgl. Hua XI, 25)。 32 Ferencz-Flatz, [2014], p. 74. 33 Zhok, [2014], p. 125. 34 フッサールも、衝動と結びついた習慣を「盲目的な傾向性」(Hua IV, 221)と称したり、注意を 払わずに衝動に応答する、「対向以前の行い」(EU, 91)について考察を展開している。また、『イ デーンII』においては、諸行為の連合的ないしは習慣的傾向について語る中で、煙草を「思わず (unwillkürlich)」手に取るという事例を挙げている(vgl. Hua IV, 258)。

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The dynamic Significance of the Concept of

Habit in Husserl’s Phenomenology

MASUDA, Hayato

Abstract

Habit tend to be thought of as actions in which the free exercise of reason is deeply attenuated, as mechanical responses conditioned over time which are triggered by the environment such that we act ‘before we know what we are doing’. In this paper, I want to reflect about the nature of the relationship between habitual action, freedom and abilities. In doing so, I will (1) sketch an outline of thought of Gilbert Ryle as the negative viewer of habit that tends to dominate specialized and ordinary understandings of the matter before, (2) looking to phenomenological analysis that offer a more positive view by integrating the concept of habit with discussions of motivation and protention. Here, I will refer to the work of Edmund Husserl for whom habit is an irreplaceable function for our various behaviours.

参照

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