思想及び良心の自由
著者
川添 万夫
著者別名
Kazuo Kawazoe
雑誌名
東洋法学
巻
34
号
2
ページ
71-86
発行年
1991-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003528/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja思想及び良心の自由
∫
添
萬
夫
一 二 三 目 次 思想及び良心の意義 思想及び良心の自由の保障 憲法一九条と第三者効 一 思想及び良心の意義 憲法一九条 思想及び良心の自由は、 同法二〇条一項一文信教の自由は、 これを侵してはならない。 何人に対しても保障する。 粟 洋 法 学 七一思想及び良心の自由 七二 同法二三条 学問の自由は、これを保障する。 パき 以上の三か条は、基本的人権の中でも特に基本的なもので、人問の尊厳の基礎をなすものである。一九条は、﹁侵 してはならなど︵鴇毘き9の蕊○聾&︶となっており、二〇条一項、二三条の方は、﹁保障する﹂︵綻αQ舞舞馨①亀︶ となっているが、これは、おそらく言葉のあやで、法律上の意味に変りはないのであろう。 日本国憲法案を貴族院で審議した際、牧野英一議員がこの三つの自由の関係について質問すると、金森徳次郎国務 大臣は、﹁今お示しになりました三つの自由は、その考え方の中心の部分に於ては全然相異って区別し得るものと思 ハ レ います。﹂と答えている。その趣旨は、広い意味の思想から、宗教と学問を除いたものが、一九条の﹁思想及び良心﹂ になるという意味であろう。私もこの考え方に賛成する。信仰選択の自由は、信教の自由に含ませてよいと思われる。 憲法一九条の﹁思想及び良心﹂の意義について、学説は多様にわたるが、内心の考えのうち、論理的な側面をもつ ものが﹁思想﹂、倫理的な側面をもつものが﹁良心﹂とするのが多数説であり、このような説を﹁良心﹂に関する客 観説と呼ぶことができる。例えば、法学協会・註解日本国憲法上巻三九九頁は、﹁本条にいう良心とは、諸外国の立 法例におけるような宗教上の意味を有することなく、人の思想の中の多少とも倫理的な側面をとりあげて指称したも のであって、哩思想駈と哩良心恥とは程度の差異に過ぎず、広く欄思想の自由駈という言葉の中に包括することもできるも のである。﹂とし、宮沢俊義・法律学全集憲法H︹新版︺三三八頁、小林直樹・憲法講義︹新版︺上三五六頁、佐藤 功・日本国憲法概説︹全訂三版︺一六四頁、芦部信喜・国家と法−憲法九〇頁、佐藤幸治・憲法︹新版︺四三〇頁も、 ほぼ同旨である。
一方、佐々木惣一・改定日本国憲法論四〇五頁は、﹁思想とは人が或ることを思うことである。必ずしも、主張要 求に限るのではない、美感、理論をも含む。良心とは、人が、是非弁別を為すのに本性により、特定事実について、 右の判断を為すことである。﹂とし、いわゆる謝罪広告事件に関する最高裁昭和三一年七月四日大法廷判決︵民集一 〇巻七号七八五頁︶の藤田裁判官の反対意見は、﹁良心の自由﹂は、﹁事物に関する是非弁別の判断の内心の自由﹂で あるとし、伊藤正己・憲法二五〇頁は、﹁思想は主として人間の論理的・知的な判断の働きをいい、良心は主として 倫理的・主観的な判断作用を意味すると解される。﹂とし、清水睦・概説憲法一五六頁は、﹁ここに良心の自由とは、 信教の自由とは区別された、必ずしも体系的でない諸事象に対する個人の信念、心構えに関する自由を意味する。﹂ とする。これらの説は、﹁良心﹂に関する主観説と呼ぶことができる。 語源的に考察すると、日本語の﹁良心繍にあたるドイツ語 O①註。 。ω撃、英語、フランス語8霧息撃8、ラテン 語8霧9①馨一餌は、いずれも﹁ともに知る﹂という意昧である。﹁ともに知る﹂というのは、誰とともに知るのであ ろうか。第一に、神とともに知ると考えられるし、第二に、自己を、あるべき自己とありのままの自己の二つの人格 に分け、ありのままの自己の、あるべき自己に対する違いを、ともに知るとも考えられるし、第三に、社会の人々と ともに知るとも考えられる。憲法七六条三項では、﹁思想﹂と分離して﹁良心﹂の語が用いられている。 ゲオルク・イェリネツクは、二般国家学しにおいて、﹁国王と国民、世俗的権力と宗教的権力の二重の二元主義を 克服することにより、憲法によって組織された団体統一体として現われるところの近代国家が成立した。﹂﹁国家と教 会の対立は長い闘争の後、今日文化国家にひろくゆきわたっているつぎのような確信、すなわち国民の宗教的良心に
東洋法学
七三思想及び良心の自由 七四 ハ レ 対しては、国家は越えてはならない一定の制限を有するとなす確信をつくりあげた。﹂と述べている。至言である。 そこで、﹁良心繍を定義する必要上、キリスト教思想と憲法との関係のあらましを、見ておくことにしたい。その 献身的な布教によりキリスト教を世界的ならしめた使徒パウロは、ローマ人への手紙七章二二節ないし二四節におい うち おきて よろこ ほか のり て、﹁われ中なる人にては神の律法を悦べど、わが肢体のうちに他の法ありて我が心の法と戦い、我を肢体の中にあ とりこ からだ る罪の法の下に虜とするを見る。ああわれ悩める人なるかな、此の死の体より我を救はん者は誰ぞ。﹂と述べ、自 己の中における霊なる人︵あるべきわれ︶と肉なる人︵あるがままのわれ︶との矛盾、相克を披渥し、その救いを神 に求めている。パウロも、弱き人であった。 マルチン・ルタ⋮︵一四八三−一五四六︶は、そのテーブル・スピーチで、縄正しさ駄及び飛神の義臨という二つの 言葉は、私の良心を電光匹嘗のように打った。それらの言葉を聞いた時、私はぎょっとした。もし神が正しいなら、 へゑ 彼は罰するだろう。しかし、神の恵みによって、私はこのように過ごすことができた。﹂と述懐している。ルタ⋮は、 ﹁神の義﹂は、神が人に求める正しさではなく、信仰によって神から人に与えられる正しさであることを知り、﹁ただ 信仰によってのみ﹂の標語により表わされる信仰義認論を唱えて、敢然として伝統的権威であるカトリック教会にプ ロテストし、ツウィングリ、カルバンがこれに続いた。ルターは、一互二年四月一七日皇帝カール五世の召喚によ り、当時ヴォルムスに召集されていた国会に出頭し、弁明のための機会︵但し、殉教のおそれを伴う。︶を得たが、 翌一八日、求められていた自己の著書の取消を拒否し、﹁私が聖書の証言又は真実な理性によって論破され、説得さ れるのでなければーというのは、ロ⋮マ法王も宗教会議もしばしば誤謬をおかし、自分自身に嫌悪してきたことは、
明白な事実でありますから、私はローマ法王も宗教会議も信用していませんのでーー私が私によって引用、紹介され ている聖書の文言を確信し、私の良心が神の言葉に捉えられているかぎりは、私は何一つ取り消すことはできません し、また、取り消すつもりもありません。良心に反した行為をするのは、安全なことでも、感心したことでもありま レ せんから。恥と、断固とした決意を述べた。ルターは、ここで、﹁良心﹂を﹁神を選択する良心﹂として用いている。 のちの多くの権利章典の手本となったヴァジニヤ権利章典︵一七七六年︶一六条は、このルターの良心の用法を踏 襲したもので、﹁宗教あるいは創造主に対する礼拝及びその様式は、武力や暴力によってではなく、ただ理性と信念 によってのみ指示することができるものである。それ故、すべての入は、良心の命ずるところにしたがって、自由に 宗教を信ずる平等の権利を有する。互いに他の者に対してキリスト教的忍耐、愛情及び慈悲をつくすことは、すべて の人の義務である。﹂と規定している。 アメリカ合衆国憲法修正一条︵一七九一年Vは、﹁連邦議会は、国教を定め又は宗教上の行為を自由に行なうこと を禁止する法律⋮⋮を制定してはならない。﹂と規定しているにすぎないが、この規定は、自己の良心の命ずるとこ ろに従い信仰し、かつ、信仰を表明する自由を保障したものと解されている。 カリフォルニヤ州憲法︵一八七九年︶一条四節一文は、﹁良心の自由﹂︵訟び禽受無OO謬鼠雪8︶という表題のも とに、﹁この州では信仰の告白と礼拝の自由が永久に保障され、どの宗教、宗派も差別待遇を受けることがない。﹂と 規定している。 ヴァイマ⋮ル憲法二九一九年﹀=二五条は、﹁ライヒのすべての住民は、完全な信仰及び良心の自由︵く○濠 東洋法 学 七五
思想及び良心の自由 七六 臼遷竃霧ー毯傷○①鉱。 。。 。霞路9ぽ博︶を享受する。妨害を受けることなく宗教的行事を行うことは、憲法によって保障 され、国の保護を受ける。一般的な国の法律は、これによってその効力を妨げられない。﹂と規定し、﹁信仰﹂と﹁良 心﹂を一体として、同義語の如く用いている。 インド憲法︵一九四九年︶二五条は、﹁宗教の自由に対する権利﹂の表題のもとに、﹁ω 公序、風教、保健及び本 篇の他の規定の制限内において、何人も平等に良心の自由及び自由に宗教を信仰し、祭紀を行い、布教する権利を有 する。﹂と規定する。 ポツダム宣言︵一九四五年︶一〇項三文は、﹁言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立せらる べし3と規定し、﹁思想の自由しが特に挙げられているが、これは、国家神道とともに軍国主義的思想を一掃するこ とを目的としたものであろう。 ボン憲法︵一九四九年﹀四条は、﹁ω 信仰、良心の自由並びに宗教及び世界観の告白の自由は、これを侵しては ならない。ω 妨害を受けることなく宗教的行事を行うことは、保障される。⑥ 何人も、その良心に反して、武器 をもって戦争の役務につくことを強制されることはない。詳細は連邦法律をもってこれを定める。﹂と規定し、﹁信 仰﹂と﹁良心﹂を明確に区別し、別に﹁世界観﹂を保障の対象に加えている。 世界人権宣言︵一九四八年︶一八条は、﹁すべて人は、思想、良心及び宗教の自由を享有する権利を有する。この 権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及 び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。﹂と規定し、﹁信仰﹂と﹁良心﹂とをさらに明確に区別して取り
扱っている。以上のように﹁良心﹄が宗教への組込みから解放されたのは、ルネッサンス以降の合理主義的傾向に基 づくものと思われる。宗教的良心が保障されるならば、無神論的良心、自己の選ぶ世界観をもつ良心も同様に保障さ れなくてはならないという結論に到達するのは、自然である。世界人権宣言一八条は、このようにして生れたもので ある。 神とは、究極的、絶対的な価値の保持者をいい、信仰とは、神に対し全人格的に依存し、献身する心的態度をいう。 宗教とは、信仰の体系であり、一定の信仰個条と信徒の組織をもち、祈り、礼拝その他の儀式、布教を行う。宗教に とって、外部的な宗教行為の自由は、極めて重要であって、信教の自由に含ませるのが定説であるが、﹁思想及び良 心の自由の保障﹂にその表現を含ませるかどうかが、大きな問題となる。憲法二一条による保障は、別個の問題であ る。 ﹁学問の自由﹂は、ドイツ系諸国の伝統に由来するもので、体系的な知識である学問の研究及び教授の自由をさす。 私は、憲法一九条の良心を、﹁自己の思想及び行動に対する善悪の判断﹂であると解する。良心は、極めて主観的、 実践的なもので、単なる倫理思想というような一般的、客観的なものではない。通常、個人の﹁思想﹂は、﹁良心﹂ を隅の首石とし、これに支持されて存在する。憲法七六条三項は、﹁すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその 職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。﹂と規定しているが、門思想﹂と﹁良心﹂の区別を﹁ニューアンス ハ ツ の差﹂というように曖昧にしたままでは、この条文の解釈ができない。同項の﹁良心﹂を﹁独立して﹂と同じ意味に 解する説︵宮沢俊義・日本国憲法六〇三頁︶は、良心の本来の用法から離れすぎた解釈である。最高裁大法廷昭和二 東 洋法 学 七七
思想及び良心の自由 七八 三年二月一七日判決︵刑集二巻二一号一五六五頁︶は、﹁裁判官が良心に従うというのは、裁判官が有形無形の外 部の圧迫乃至誘惑に屈しないで自己内心の良識と道徳感に従うの意味である。﹂としている。 次に、広い意味の﹁思想﹂と﹁信条﹂との異同について考察する。 憲法一四条、四四条、国家公務員法二七条、地方公務員法二二条、教育基本法三条、労働基準法三条に﹁信条﹂と いう語が用いられている。﹁信条﹄は、ドイツ語の9黛籔欝鷺幹鉱、英語のR①&、フランス語、ラテン語のR亀○ にあたり、本来﹁宗教的信仰個条﹂︵例えば、使徒信条、ウエストミンスタ⋮信条︶をいうのであるが、これら憲法、 法律の条文の用語としては、宗教的信仰及びこれに準ずる確固として容易に動揺しない世界観ないし根本的信念をい うものと解される。この意味において、﹁信条﹂は、﹁宗教﹂よりも広く、﹁思想﹂よりも狭い。国家公務員法二七条、 地方公務員法二二条は、ともに﹁政治的意見﹂を﹁信条﹂と並べて差別禁止の理由として掲げているので、少なくと も、これらの条文に関するかぎりは、﹁信条﹂の中に﹁政治的意見﹂が含まれていないことが明らかである。そして、 このことは、一般的に﹁信条しの中には単なる政治的意見は含まれないと解する実定法的根拠となる。ある外部的行 動︵例えば、大学在学中における団体加入、学生運動参加︶が、﹁信条しに基づくものか、﹁信条﹂以外の﹁思想﹂に 基づくものか、その両者に基づくものか、あるいは両者と無関係なものかは、当該事案における事実認定によるが、 通常、思想又は信条と無関係なものと見るのは、相当ではないであろう。外部的行動は、心ではないから、思想、信 条そのものではないが、その行動に照応する思想、信条を抱懐すること及びこれに基づく行動であることを、強く推 測せしめるものである。思想、信条の変化は、これを主張する者に、主張、立証責任がある。
二 思想及び良心の自由の保障 憲法一九条によって保障される主体は、日本人だけでなく、外国人を含む。自然人に限らず、法人その他の団体を も含むと解すべきであろう。法人自体には、思想、良心はないけれども、法人に名誉が認められるごとく、法人に思 想、良心を認めてもおかしくない。法人が慈善行為をするのは、法人の思想、良心に基づくためであろう。宗教法人 に信教の自由を認めない学説はないと思われるが、これとパラレルに考えてよいのではなかろうか。 憲法一九条の保障する﹁思想及び良心﹂は、内心の考えに限られる。思想、良心は、これを表現し、現実に行動し てのみ真に意味があるので、思想、良心の自由を良心に基づく行動の自由にまで拡張しようとする説があり、ボン憲 法四条の解釈としては、むしろこれが普通である。しかし、そのように解すると、内在的制約あるいは権利濫用等の ハヱ 法理による行動の制限を考えなくてはならなくなる場合が多くなるであろう。 日本国憲法の解釈としては、内心の自由のみを保障するとする説が通説である。例えば、法学協会・註解日本国憲 法上巻三九九頁以下は、﹁本条が特に設けられたのは、未だ表現の域に至らない内心の状態の自由を保障しようとす る趣旨であると解すべきである。即ち未だ表現の域に至らない内心の作用・状態はこれを侵すことは絶対に認められ ず、外部からの干渉に対して全く自由であることを保障するのが本条である。恥とする。これに対し、佐々木惣一・ 改訂日本国憲法論四〇四頁以下は、﹁思想及び良心の自由については、その内的関係と外的関係とを分つ。先ず、内 的関係とは、思想及び良心の内容に関するもので、国家は、人の思想及び良心が如何なる内容を有するかについてさ 東洋法 学 七九
思想及び良心の自由 八○ 束縛を為すを得ない。⋮⋮次に、外的関係とは思想及び良心の発表に関するものである。国家は、人がその思想及び 良心として有するものを発表することについて、束縛を為すを得ない。これは、人が純粋に、思想及び良心を示すこ とそのことを目的として発表することについていう。これにより他の目的を遂げようとして、発表する場合は、それ と公共の福祉との関係により、束縛され得る。人の共同生活においては、人々の純正な思想及び良心の存することが その社会生活の福祉となるのである。それには、人が純正な思想及び良心とするものを社会に示し合うことを要する。 それは社会に純正な思想及び良心を成立せしめる方法であって、即ち公共の福祉のために役立つ。右の意味での思想 及び良心として存するものが発表されることは、それ自身公共の福祉そのものである。﹂とし、条件付で外部的表現 が保障されるとする。佐々木説は、外的関係における思想及び良心の発表の自由を、言語的表現によってする場合に 限る趣旨か、それとも身体の行動︵作為、不作為︶によってする場合を含む趣旨か、明らかではないが、必ずしも後 者の場合を全面的に除外する趣旨ではないのではないかと思われる。 私は、内心自由説の立場をとり、外部に表現された思想、良心は、言語上のものであれ、身体の行動︵例えば、政 治的信念の結果としてなされたストライキのような作為、あるいは、軍備反対のための税金不納付のような不作為︶ であれ、すべて憲法一九条の保障の範囲外にあるものと考える。このように考えると、同法一九条の解釈と二〇条一 項の信教の自由の解釈との問に整合性を欠くことになるが、それは、次のような理由による。 宗教は、一般的に言って、魂の救済を目的とし、人々に生き甲斐と幸福をもたらす無形の真理を対象とするもので、 通常経典、︸定の信仰個条、組織を持ち、祈り、礼拝その他の定型的な儀式、布教等をその要素とし、長い歴史的伝
統をもって引き継がれてきたのであり、今なお人の心を崇高なものとする大きな力を持っている。これに対し、思想、 良心は、その対象が極めて広汎で、現実的な政治的、経済的、社会的問題を含み、しかも、多数の国民がそれぞれの 立場で、それぞれの自覚に基づく判断によって自由に形成するものであるから、極端な内容のものが生ずることが予 想される。 内心の思想、良心の自由を保障するというのは、法律的にどういう意味があるであろうか。 先ず第一に、思想、良心の形成の自由を挙げることができる。国家は、思想、良心の自由な形成を妨害してはなら へさ ず、また、特定の思想、良心の形成を強制してはならない。国家のこれらの行為に対しては、不作為請求権がある。 第二に、国家は、思想、良心の開示を強制してはならない。そのような強制に対しては、不作為請求権があり、ま た、黙秘の自由をもって対抗できる。 第三に、国家は、内心の思想、良心を理由として差別し、あるいは不利益を課してはならない。そのような処置に 対しては、無効、無罪を主張できる。 第四に、国家は本人の思想、良心に反する法律を強制することができるであろうか。この問題を解決するのは困難 を伴うが、憲法一九条は、内心の思想、良心を内心の状態で保障したのであり、法律上の作為義務を怠って義務を履 行しない行為、法律上の不作為義務に違反した行為は、内心の思想、良心との関連を無視できないとはいえ、一九条 の保障の範囲外であると考えるべきである。ただ、法律は、議会の多数決できめられたものではあっても、憲法の下 位に位置するものであるから、一九条の精神に適合しないものは違憲とされ、あるいは、一般的に違憲とされなくて 東洋法学 八一
思想及び良心の自由 八二 も、当該事案への適用が違憲とされることがありうる。一九条は、通常の場合は、自分の出番ではないとして眠って いるが、自己に重大な攻撃を加えられた場合には、目を覚すわけである。しかし、そういう場合はまれであろう。一 夫多妻を信条としている者にも、重婚罪が成立するし、また自衛隊を違憲と信ずる者も、税金の支払を免れない。問 ハヱヤパセ 題は、多数者の幸福と少数者の幸福とを、如何に調和させるかにある。 民法七⋮二条の、被害者の請求に因り損害賠償に代へ又は損害賠償と共に名誉を回復するために裁判所が命じる適 当な処分は、被害者の請求によって裁判所がその許否を決するものであって、私人相互間の法律関係にかかるから、 憲法一九条の直接適用はないように思われるが、その点はさておき、右処分として謝罪広告を命じた事件につき、最 高裁大法廷昭和三一年七月四日判決︵民集一〇巻七号七八五頁︶は、﹁右放送及記事は真相に相違しており、貴下の 名誉を傷け御迷惑をおかけいたしました。ここに陳謝の意を表します﹂という謝罪広告を新聞に掲載すべきことを命 ずる判決が、憲法一九条に違反しないとした。田中耕太郎裁判官は、その補足意見で、﹁謝罪広告においては、法は もちろんそれに道徳性︵竃R&糞︶が伴うことを求めるが、しかし道徳と異る法の性質から合法性︵い①αQ巴一鐵け︶ 即ち行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足するのである。内心に立ち いたってまで要求することは法の力を以てするも不可能である。﹂としている。 私は、この判決の多数意見は、掲載を強制する広告文の内容及びその執行方法︵代執行に親しむ。︶に検討を加え たうえ、これを合憲としたもので、結論的に妥当であると思う。藤田、垂水両裁判官の反対意見及び入江裁判官の中 間的意見が付せられているが、これらの意見は、あまりにも加害者の心情に重きを置きすぎて、加害者が先に名誉殿
損行為をした点及び被害者がこれによって加害者の広告文掲載にまさる苦痛を受けた点を軽視しているのではなかろ うか。 ポスト・ノーチスは、労働委員会が、不当労働行為の原状回復をはかるために、使用者側に命じる救済命令の一形 式であるが、﹁不当労働行為を行ったことを認め、これを謝罪し、今後繰り返さないことを誓う。﹂といった謝罪型と、 ﹁労働委員会にょって不当労働行為と認定された、よって、今後同種の行為を繰り返さないように留意する。﹂といっ パユ た事実報告型の、二つの型がある。後者は、﹁謝罪﹂、﹁誓う﹂といった言葉を嫌ったものであるが、その分だけ、現 状回復力が弱い。 東京高裁昭和五七年五月一九日判決︵判例時報一〇四一号二四頁︶は、公立中学校長が校内の秩序に害のある生徒 の行動を高校入試の内申書に記載し提出することは、思想、信条の自由の侵害ではないとする。 三 憲法一九条と第三者効 憲法の自由権的人権保障規定は、国家︵又は地方公共団体︶と国民との間に適用されるだけでなく、国民相互間の 私法的法律関係にも適用されるか。直接適用説は、これを肯定するが、その難点は、私的自治を広い範囲で奪ってし まうことにある。平等の原則を厳格に適用すると、友人も、配偶者も、自由に選べなくなる。これに対し、間接適用 説は、憲法は国民相互間の私法的法律関係に直接適用されるものではなく、民法九〇条、七〇九条等の私法規定の意 味を補充し、意味補充を受けたそれらの私法規定を適用することにより、間接的に適用されるというのである。すな
東洋法学 八三
思想及び良心の自由 八四 わち、間接適用説は、憲法を一たん私法規定のフィルターを通過させることにより、希釈化し、相対化し、無害化し たうえで、私法の土壌に軟着陸させようとするものにほかならない。 最高裁大法廷昭和四八年一二月一二日判決︵民集二七巻二号一五三六頁︶は、社員採用試験に合格し三か月の試 用期間を設けて採用された者が、採用試験に際し、身上書に虚偽の記載をし又は記載すべき事項を秘匿し、かつ、面 接試験における質問に虚偽の回答をしたことを理由に、本採駕を拒否された事案︵いわゆる三菱樹脂事件︶について、 憲法一九条は私人相互間の関係に適用されるものではなく、企業者が特定の思想、信条を有する労働者をそのゆえを もって雇い入れることを拒んでも、それを当然に違法とすることはできない、とした。 この事件の第二審判決は、試用期間を三か月とする雇傭契約の性質について、管理職要員として不適格であると認 めたときは、それだけの理由で雇傭契約を解約しうるという内容の、解約権留保特約つきの雇傭契約であり、右特約 による解約権の行使は、雇入れ後の解雇にあたると解し、政治的思想、信条に関係ある事項について秘匿しても不利 益を課すことはできず、解雇は、憲法一四条、労働基準法三条に違反して無効であるとした。この第二審判決は、法 律論のみで結論を出し、解約権を行使するに至った具体的事情につきなんらの事実認定をもしていない欠点がある。 第二審としては、法律解釈だけで結論を出すのは、危険である。 労働者の労働契約は、憲法二七条、二八条により保護され、労働基準法三条も、違反につき罰則の適用があり、公 法的規制が強いが、なおかつ、最高裁がこれを私法的法律関係と見ている点は、注目すべきである。ここで問題とな るのは、雇入れ拒否の不利益があることを無言の強制として用い、思想、信条に関係する事実の開示を求めるのは、
黙秘の自由を侵すもので、公序良俗に反しないかという点であるが、最高裁は、企業者の雇傭の自由を強調し、それ は違法な強制ではないとし、憲法一九条の聞接適用を認めなかった。こと雇入れに関しては、自由主義経済組織のも 露︶ と、終身雇傭制が行なわれているのであるから、企業者の自由を大幅に尊重する考え方は、正しいと思われる。 ︵i︶
65432
鼠鼠ぎい黛訂♪類る G・イェリネック・一般国家学 三二三、三二八 芦部信喜、阿部照哉他訳 二六三頁、二六七頁 清水伸編集・逐条日本国憲法審議録 訂正版 二巻四〇二頁 心の自由の意義﹂ 今村成和教授退宮記念論文集 二二五頁以下参照。 久保田きぬ子・﹁思想・良心・学問の自由﹂ 清宮四郎・佐藤功編集憲法講座2 一〇六頁以下、笹川紀勝・﹁思想・良 。oぼ&Φp︾5αqΦ姦濱ξ泣げ㊦碧ぴΦ一馨<○口甘品霧鎖Φpξωω﹂G 。 菊盛英夫・ルターとドイツ精神史︵岩波新書︶ 二一二頁 憲法七六条三項の裁判官の﹁良心﹂が、憲法一九条の鴨良心﹂と周一であるかどうかについて、学説が分かれている。団 藤重光・法学入門一七七頁は、﹁裁判官は、鴨これが客観的に正しい法実現である﹄とみずからの良心によって信じるところ にしたがって裁判をするべきである。かように、鴨裁判官としての良心駄は、本来の主観的良心を中核としながらも、客観的 要請との関係で、変容を受けたものである3として、客観的良心説をとる。しかし、私は、事実認定、法律の解釈、適用 を公正に、客観的になすべき義務は、憲法七六条三項の﹁この憲法及び法律にのみ拘束され﹂るという文言から生ずる、法 律上の義務であり、懲良心に従う﹂以前の問題であって、憲法一九条の良心とは異なる憲法七六条三項の良心があるとは、 考えない。裁判官の良心は、事実認定、法律の解釈、適用が主観的にならないように、その裁判官を監視、督励するもので ある。 東 洋 法 学 八五9 8 7 ︵10︶