• 検索結果がありません。

表象空間としての国立公園にみる風景の政治学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "表象空間としての国立公園にみる風景の政治学"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)論文. 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 西 田 正 憲 . 要 約 国立公園はひとつの表象空間である。19 世紀に国立公園はアメリ カの文化として誕生したが、アメリカにとって国立公園は、崇高で壮大な理 想の大自然<ウィルダネス>の表象空間であった。やがて国立公園は世界へ 波及し、各国に受容されていく。我が国においても独特の受容がおこなわれ、 営造物公園制度ではなく地域制公園制度として、1930 年代に 12 カ所の国立 公園が誕生する。我が国の国立公園は当初は自然保護空間ではなく自然観光 空間であったが、同時に国粋主義と帝国主義の表象空間でもあった。12 カ 所の国立公園のひとつ、瀬戸内海の風景は、国民国家と帝国主義のコンテク ストのなかで<日本の地中海>として表象を特化していった。瀬戸内海国立 公園の誕生は、古くからの名所旧跡<小豆島・屋島>を離れ、新しい多島海 景として<備讃瀬戸>を見いだすことによって、成し遂げられる。伝統的な <名所旧跡>の表象を避け、近代的な<自然景>の表象を求めたのである。 吉野熊野国立公園の誕生は、瀬戸内海とは全く逆向きのベクトルを示し、< 原生的自然>の<大台ヶ原>よりも天皇制と深く関わる由緒ある<国粋的自 然>の<吉野熊野>に傾いていく。吉野熊野国立公園もまた、たんなる自然 空間ではありえず、自然表象よりも歴史表象が重視され、当時のナショナル アイデンティティを示す文化装置となり、天皇制や大和魂などのある種のイ デオロギーをあらわす表象空間となっていた。. キーワード 国立公園 表象空間 風景の政治学 地域創造学研究. 15.

(2) 論文. はじめに 国立公園とは、ある特定の自然空間を切りとり、国家がオーソライズする 傑出した自然の風景地である。価値付けられ、制度化された自然空間であり、 自然保護空間であるとともに、自然観光空間でもある。さらに、国立公園は たんなる自然空間にとどまらず、時代の文化をあらわす表象空間でもあっ た。国立公園を誕生させたアメリカにとって、国立公園はなによりも<ウィ ルダネス>の表象空間であった。国立公園を創設したアメリカにおいても、 また、これを受容した我が国においても、国立公園の誕生には社会、文化、 経済、自然などのさまざまな要因が複雑に絡みついていた。国立公園の創設 という風景の評価には、社会的、文化的、経済的、自然的な諸力が作用して いた。風景の評価が否応なくある種の複雑な力学の場に組みこまれているこ とを、ここでは風景の政治学と呼んでおきたい。 本論は、主として自然風景地の国立公園がさまざまな表象をあらわしてい ることに着目し、この表象を明らかにするとともに、そこに作用する風景の 政治学を論じるものである。具体的には、国立公園のアメリカにおける誕生、 世界への波及、我が国における受容を論じることによって 1)、また、特に、 瀬戸内海国立公園と吉野熊野国立公園の事例を詳細にとりあげることで、表 象空間としての国立公園にみる風景の政治学を考察していきたい。. 1.国立公園の誕生. (1)理想の大自然ウィルダネス 国立公園(National Park)はアメリカが 19 世紀に生んだ偉大な理念のひ とつであった。20 世紀は、自然を原始的な姿そのままで後世に継承してい こうという国立公園のこの理念が、世界各国にあまねく伝播した時代であっ た。国立公園はいまや世界各国に普遍的な制度となっている。アメリカの国 立公園の誕生には、西部開拓による自然破壊、鉄道建設のための観光開発な どの社会的・経済的要因や、ウィルダネスを賛美する思潮、ナショナリズム を鼓舞する大自然などの文化的・精神的要因が働いていた。国立公園は、ヨー 16.

(3) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 ロッパ社会ではなく、アメリカにおいてこそ生まれた制度であった。 世界最初の国立公園がアメリカのロッキー山脈に誕生したのは 19 世紀後 半の 1872 年のことである。西部のワイオミング州、モンタナ州、アイダホ 州にまたがり、平均標高約 2500 メートルで、面積約 90 万ヘクタールという わが国の四国の約半分の大きさをもつイエローストーン公園である。公園専 用の国有地からなる営造物公園として、大自然を保護し、野外レクリエーショ ンの場として利用するため、永久にそのままの状態で残されることとなった のである。驚異の大自然は天与の恵みであり、国民が等しく享受すべき国家 の宝であって、永久に国民の公園として、国家によって保護されなければな らないという崇高な理念がその後国立公園思想として定着していく。近代に なって、国家が大自然を国民の宝として後世に残すという理念が生まれ、そ の理念は世界中に急速に広まり、国立公園制度が各国に普及していくのであ る。国立公園は近代国家にとって不可欠の制度となり、イエローストーンチ ルドレンと呼ばれる国立公園が世界中に生まれていく。国立公園は崇高で壮 大な<ウィルダネス>の表象空間であった。 アメリカにおいてはそれまでにも、1832 年にアーカンサス州のホットス プリングスが保護区(連邦保留地)となり、南北戦争の最中の 1864 年には、 連邦政府がカリフォルニア州に土地を譲渡して、ヨセミテ渓谷とマリポサ森 林を州立公園(州保留地)としていた。しかし、国家が広大な大自然を国有 地として国民のために保護しなければならないと考えたのはイエローストー ン公園が最初であった。イエローストーンは名実ともに最初のナショナル パーク(国立公園)にふさわしいものであった。ちなみに、ホットスプリン グスは 1921 年に、また、ヨセミテは 1890 年に、国立公園に昇格している。 アメリカには 2009 年末現在 58 カ所の国立公園があるが、これらは西部 29 カ所、中南部 16 カ所、東部1カ所、その他 12 カ所と西部に半数以上の 偏りをみせている。特に、1916 年に内務省国立公園局が発足し、国立公園 指定に新たな展開をみせるまでは、西部への遍在が著しい。1915 年までの 初期の国立公園はイエローストーン、セコイア、ヨセミテ、キングスキャニ オン、マウントレイニア、クレイターレイク、ウインドケイヴ、メサヴェル 地域創造学研究. 17.

(4) 論文. デ、グレイシャー、ロッキーマウンテンの 10 カ所であるが、このうち9カ 所までが西部となっていた。アメリカの国立公園は全体に西部を志向してい るが、特に初期の国立公園の西部への志向は顕著であった。西部への志向は、 人間の手が入っていない原生の壮大なウィルダネスを求めたことによってい る。国立公園の景観をみても、山岳、森林、峡谷、湖沼、氷河、砂漠、動物、 植物などが大半を占めているが、これらは大山脈、大峡谷、原生林、そこに 生息生育する動植物などであり、典型的なウィルダネスにほかならない。特 に 1915 年までの初期の国立公園はロッキー山脈や太平洋岸の山岳を中心に 西部に集中し、山岳、峡谷、森林などの壮大なウィルダネスを指定してい た。アメリカの国立公園は、遺跡のメサヴェルデ国立公園と温泉のホットス プリングス国立公園は例外的として、全体に壮大なウィルダネスを志向して いる。1980 年以降、アラスカの氷河や西部の砂漠を新たに国立公園に指定 する動きは、ウィルダネスへの志向をますます強めているといえる。アメリ カの国立公園は西部のウィルダネスの大自然を源流に、その後さらに壮大な ウィルダネスの景観を追求していったと指摘できる。<ウィルダネス>こそ が理想の大自然であった。. (2)国立公園の世界への波及 19 世紀に国立公園を創設した国は、アメリカ、カナダ、オーストラリア、 ニュージーランドなどの新大陸の移民の国であった。アメリカは、1872 年 のイエローストーン国立公園以降、1890 年代に、セコイア国立公園、グラ ント将軍国立公園(のちにキングスキャニオン国立公園)、ヨセミテ国立公 園、マウントレイニア国立公園などを生みだしていった。一方いち早く、カ ナダは 1885 年にバンフ国立公園を、また、オーストラリアは 1886 年にロー ヤル国立公園を、さらに、ニュージーランドは 1894 年にトンガリロ国立公 園を誕生させていた。移民たちもまた大自然賛美の思潮をもち、旧大陸には ない無垢の大自然こそが誇るべきナショナリズムの素材となったとみること ができる。ヨーロッパからの移民によって国家がつくられた国では、早期に 国立公園が創設され、これらの国々は、国家の象徴として大自然を保護しよ 18.

(5) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 うとするのであり、ナショナリズムが強く働いていた。国立公園は新大陸が 生みだした<ウィルダネス>という理想の自然空間のモデルであったが、や がてツーリズム、ナショナリズム、さらに自然保護などのうねりのなかで、 世界に波及していった。<ウィルダネス>という表象空間はやがてその出自 が忘れさられ、各国に受容されていく。 20 世紀になって、国立公園は 1909 年のスウェーデン、1914 年のスイスと 続く。これらは、山岳地の渓谷や湖沼などのすぐれた自然景観が水力発電 のために水没し破壊されるという危機が背景にあったといわれ、自然保護 の問題が大きかった。1914 ∼ 18 年の第1次世界大戦以後になると、北欧や 南欧、旧ソビエト連邦、そして我が国を含むアジア、アフリカ、南米でぞく ぞくと国立公園が創設される。この第1次世界大戦から 1939 ∼ 45 年の第2 次世界大戦のあいだまでの急増期には、1930 年代に創設されたものが多い。 1930 年代は、我が国も含め、世界の国立公園が飛躍的に増加した時代であっ た。また、この時代は、一方で、大型客船の定期航路開設とともに、ハワイ やバリなどのようにエスニックツーリズムが周到な観光戦略のもとに推進さ れた時代であり、アジアの植民地において宗主国によって植民地観光が推進 された時代であった。これらの背景には、世界的不況のなかで国際観光を推 進しようという力が働いていた。我が国も国内への外国人観光客誘致のため に 12 カ所の国立公園を指定し、植民地の台湾に3カ所の国立公園を生みだ していた2)。 第2次世界大戦以後、国立公園はアフリカで急増し、東欧、アジア、中南 米でさらに増えていく。アフリカでは多くの植民地が独立していくが、この 過程で国立公園が創設されていく。アフリカは野生動物の宝庫として狩猟に よる動物の乱獲が進んだが、野生動物の保護区が設けられ、これらが国立公 園に転じていった。この背景には、ツーリズムや自然保護のほかに、国家の 独立や革命、民族意識や国家意識の高まりなど、複雑にナショナリズムの高 揚が絡んでいた。 ヨーロッパでは、第1次世界大戦以前のスウェーデン、スイスのほかに、 その後スペインの 1918 年 イタリアの 1922 年、ギリシャ、フィンランドの 地域創造学研究. 19.

(6) 論文. 1938 年と、国立公園が創設されていくが、これらの国々においても本格的 な設置は第2次世界大戦以後であり、ヨーロッパにおける国立公園の設置は 総じて第2次世界大戦以後となる。むしろ、国立公園の創設においては、ヨー ロッパの古い国は遅れ、オランダの 1950 年、イギリスの 1951 年、フランス の 1963 年、ポルトガルの 1970 年、旧西ドイツの 1978 年と近年の創設とな る。原生の大自然をそのまま保護するというアメリカの国立公園思想は、歴 史が古く、開発しつくされているヨーロッパにとっては受容し難かったとい える。また、国立公園の主たる成立基盤である山岳地が、ヨーロッパにはア ルプス、ピレネー、アペニン、スカンジナビアなどと少なかったことも一因 であった。結果として現在、国立公園はこれらの山岳地に遍在している。 国立公園の創設が遅れたことは、自然保護の分野において劣っているとい うことではない。イギリスや旧西ドイツなどは田園景観、湖水景観、河川景 観などを古くから守ってきている。都市文明や産業革命が世界にさきがけて おこった国であり、それだけ自然破壊の歴史も古く、むしろ早くから自然保 護思想を育んでいたといえる。旧西ドイツの自然保護公園は国土面積の約 18 パーセントに達し、オランダの自然保護地は国土面積の約5パーセント に達している。ヨーロッパにおいては民間の保護活動も熱心であった。イギ リスのナショナルトラストが 1895 年、オランダの自然保護協会が 1905 年、 スイスの自然保護連合が 1909 年と自然保護のために土地を買上げたり管理 したりする民間団体が早くから発足していた。自然保護思想は培っていた が、国立公園という制度としては結実してこなかったということである。ヨー ロッパでは、各国における国立公園の数は少なく、面積も小さく、国土面積 に占める割合も少ない。ヨーロッパの国立公園は自ずと国際自然保護連合 (IUCN)の国際基準に該当するものは少なくなっている3)。ヨーロッパにお いては、概して、国立公園創設のきっかけは、ツーリズムやナショナリズム ではなく、自然保護であったといえる。. 2.国立公園の受容. 20.

(7) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 (1)ナショナルパークの移入 世界最初の国立公園、イエローストーン公園がアメリカに誕生したのは、 ちょうど岩倉具視使節団がアメリカ合衆国を訪れている 1872(明治5)年 のことであった。明治新政府の欧米視察団は3月3日に首都ワシントンでグ ラント大統領に謁見したが、その2日前の3月1日にグラント大統領がイエ ローストーン公園法に署名していた。岩倉使節団の報告書である久米邦武の 『特命全権大使米欧回覧実記』には、ニューヨークの都市公園セントラルパー クについては、「センタラーパーク」は「人工ヲ以テ山巒ヲ築起シ、天然ヲ 欺ク名勝トナセリ」などと、詳しくしるされている(田中校注 1985)。セン トラルパークはフレデリック・オルムステッドらの設計施工で 1862 年に完 成していた。「パーク」の普及には、イギリスの王侯貴族の庭園・狩猟林で あるハイド・パーク、リージェント・パークの公園化などが寄与していたが、 1870 年代には、セントラルパークが世界的に知れわたることによって、 「パー ク」が「公園」をあらわす言葉となっていった。それまでは、パークは狩猟 林であり、パブリック・ガーデンがむしろ公園の意味に近かった。 我が国も、1873(明治6)年、従来の庶民遊観の地で高外除地(免税地) となっていた所に「公園」の名を冠することで、公園を誕生させる。明治新 政府は太政官布達によっていち早く我が国初の公園5カ所を生みだしたが、 それは江戸時代に賑わっていた浅草寺、芝増上寺、上野寛永寺、富岡八幡宮、 飛鳥山を公園にするものであり、江戸時代の遺産のうえに公園が成立した。 この太政官布達に基づく公園を太政官公園と呼ぶが、1873(明治6)年から 1887(明治 20)年にかけて、全国に 82 カ所が生みだされていく。1870(明 治3)年には、横浜の居留地の外国人のために、外国人設計の洋風公園であ る山手公園が誕生していたが、日本人が設計施工におよぶには、1903(明治 36)年の東京大学教授本多静六(1866−1952)設計の日比谷公園まで待たね ばならなかった。 我が国の国立公園が誕生するまでにはさらに歳月を要し、イエローストー ン国立公園誕生から約 60 年の歳月が必要であった。我が国の国立公園設置 の動きは、1911(明治 44)年の第 27 回帝国議会に提出された「国設大公園 地域創造学研究. 21.

(8) 論文. 設置ニ関スル建議案」、1912(明治 45)年の第 28 回帝国議会に提出された「日 光ヲ帝国公園トナスノ請願」などに確認されている。「国設大公園」とはア メリカの「ナショナルパーク」を念頭においたものであった。審議の過程で、 内務省のほかに、鉄道院からもまた、イエローストーンやヨセミテをあげ、 米国の国立公園について詳しく説明していた。この第 27 回帝国議会では同 時に「史蹟及び天然紀念物保存ニ関スル建議案」が提出され、このなかでも 「国設公園」についてふれられていた。 制度創設として具体的に検討されるのに先立ち、イエローストーンやヨ セミテの存在は明治時代の中頃から我が国に紹介されつつあった。1885(明 治 18)年のガイドブック的な地誌『世界旅行万国名所図絵』(青木恒三郎編 集)にはすでにイエローストーンが紹介されている。ただこの頃は国立公園 としての理解はまったくなかったであろう。明治後期になると、断片的であ るにせよ、国立公園の紹介がはじまってくる。宗教学者で文芸評論家の姉崎 嘲風(1873−1949)が、開発を制限し禁止するという現在の国立公園の姿を 示唆する「国園」制度を提唱し、東京帝国大学植物学教授の三好学(1861− 1939)はアメリカの「ナショナル、パーク」「国有公園」を紹介する。また、 旅行案内書を著していた坪谷水哉(1862−1949)は「国立公園」の訳語を用 いてアメリカの国立公園を説明し、小説家で童話作家の巖谷小波(1870− 1933)は「有名なエローストーン、パーク」としるしている。アメリカの「ナ ショナルパーク」は訳語を混乱させながらも明治後期に徐々に移入されてい た。しかし、国立公園設置の動きはその後下火となる。「国立公園」はその 概念が定着しないまま、ふたたび議論が盛んとなったのは大正中頃のことで あった。国立公園候補地の調査が、内務省衛生局保健課によって、内務省嘱 託の林学博士田村剛を中心に 1921(大正 10)年頃からおこなわれる。この 調査の初期の 1922(大正 11)年にはすでに国立公園の候補地 16 カ所が選ば れていた。この候補地 16 カ所とその後 1930 年代に誕生した最初の国立公園 12 カ所の関係は表−1のとおりである。 アメリカで誕生した「ナショナルパーク」(National Park)は、我が国で は翻訳語「国立公園」として定着した。明治末期に「ナショナルパーク」が 22.

(9) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 表−1 国立公園候補地 16 カ所と最初の国立公園 12 カ所の関係 候補地. 国立公園. 候補地. ①阿寒湖. →①阿寒  ②大雪山. ⑥日光 ⑦富士山 ⑧白馬山 ⑨立山 ⑩上高地. ②登別 ③大沼 ④十和田湖 ⑤磐梯山. →③十和田. 国立公園 →④日光 →⑤富士箱根 →⑥中部山岳. 候補地 ⑪大台ヶ原 ⑫伯耆大山 ⑬小豆島屋島 ⑭温泉岳 ⑮阿蘇山 ⑯霧島山. 国立公園 →⑦吉野熊野 →⑧大山 →⑨瀬戸内海 →⑩雲仙 →⑪阿蘇 →⑫霧島. 知られはじめたころ、「国園」「国有公園」「国設公園」とさまざまに訳され ていた。アメリカで意味する「ナショナル」と我が国が理解した「国立」と は、その内実は大きく異なっていたであろう。「ナショナル」は「国民」 「国家」 を意味する「ネイション」に基づき、アメリカでは「ナショナルパーク」は 国民の公園、国家の公園という公共性の意味合いが強い。連邦政府所管となっ ているのはこの結果にすぎない。これに対し、我が国は国という国家権力が 指定し管理するという、いわば御上が決めた公園という意味合いが強い。中 央政府の上意下達が当たり前となっていた我が国においては、「国民の」「国 家の」を意味する「ナショナル」は「国家権力の」「御上の」の意味を内包 する「国立の」と理解せざるをえなかったのである。国民のあいだにもまた、 自然保護や文化財保護は、自分たちではなく、御上がすべきものという風潮 があった。アメリカの「ナショナルパーク」は国民の公園として定着してい るが、残念ながら我が国の「国立公園」は国民の公園にはなりえず、御上の 公園程度でしかない。 我が国の国立公園はアメリカのそれとは大きく異なるものであった。狭い 国土に多くの人口をかかえる我が国においては、国立公園は国が土地を所有 する営造物公園ではなく、土地を所有しない地域制公園の制度が採用され た。我が国においては、土地は多目的に使う必要があり、国立公園のためだ けに土地を専用することは難しいことから、区域を指定して、景観を損なう おそれのある行為を制限する独特の保護制度をとった。我が国は我が国なり に、アメリカで生まれた国立公園を変容させて受容したのである。国立公園 の表象もまた自ずと変容していく。. 地域創造学研究. 23.

(10) 論文. (2)国粋主義と帝国主義の表象空間 我が国の国立公園制度を理念と実務の両面で中心となって創出したのは田 村剛(1890−1979)であった。岡山県の倉敷に生まれ、岡山中学・第六高等 学校(現朝日高校)をへて、東京帝国大学の林学科で本多静六教授の教えを うけた田村は、林学博士として、また内務省嘱託として、さらに国立公園協 会の常務理事として、まさに国立公園の父と呼ばれるのにふさわしい活躍を した。のちに国立公園となる場所を隅々まで跋渉しているのには驚かせられ る。国立公園に関係する多くの郷土史に田村の足跡がしるされている。庭園 で博士号をとり、実際に庭園設計もおこない、庭園の著書も数多く残した田 村は、すでに 1918(大正7)年の著書『造園概論』でアメリカの国立公園 に少しふれていたが、1923(大正 12)年からの約1年半の欧米視察で国立 公園に対する考え方を深めていったと思われる。1925(大正 14)年の著書『造 園学概論』では世界の造園を紹介している。 我が国の国立公園は、地形地質を基本に評価する景観型式と、国公有地の みならず私有地も指定する地域制という日本独特の制度によって生みだされ た。さらに、造園学的であったのは、どこでどんな風景を見るかという視点 と視対象の関係が強く打ちだされたことであり、また、当時のツーリズムの 潮流をうけて公園の利用も配慮されたことであった。国立公園は当初は自然 保護空間ではなく自然観光空間であった。田村の大学の1年先輩であった造 園学の上原敬二(1889−1981)は利用の排除を主張したが、田村は利用や修 景を考えた。のちの国立公園は生態系や自然保護が重視されるように変遷し ていくが、当時、人々が楽しむ風景を国立公園にしようとしたことによって、 文化財などとは異なり、我が国で最も大規模な保全制度が可能になったとい える。田村はのちに海洋景を好むようになるが、当時は山岳景を重視してい た。日本三景などの昔からの伝統的な風景ではなく、尾瀬や上高地などの 人々を感動させる、当時としては新鮮な大自然に固執していた。38 歳のとき、 台湾調査の帰途、下関での船の事故で片脚を切断していたにもかかわらず、 かごに乗って、山頂からの展望を自分の眼で確認し、つぶさに現地調査をお こなった田村は、国立公園の区域決定という具体的な線引きで、我が国に新 24.

(11) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 たな自然景をオーソライズし浮かびあがらせていった。多くの建議・請願や 陳情に惑わされることなく、首尾一貫した景観を国立公園として選びだした 背景には、造園学徒としての田村剛のきびしいまなざしがあったといえる。 国立公園候補地の調査は、関東大震災の混乱をはさみ、1925(大正 14) 年までで一旦打ち切られるが、世界恐慌の 1929(昭和4)年頃から国立公 園創設の動きは本格化する。1927(昭和2)年に有志によって結成された国 立公園協会(1950 年に財団法人)が、1929(昭和4)年には本格的な活動 をはじめ、雑誌『国立公園』も発刊して、気運をもりあげていく。1930(昭 和5)年、内務省は国立公園調査会を設置し、国立公園誕生に向けて本格的 に始動する。この過程で多くの建議や請願があったが、1931(昭和6)年、 国立公園法が制定され、国立公園調査会も現在の審議会に相当する国立公園 委員会へと発展する。そして、1932(昭和7)年、この国立公園委員会の特 別委員会によって、12 カ所の国立公園が選定され内定した。この内定は広 く伝わり、世間においては事実上の指定とうけとめられた。この動きに平行 して、1930(昭和5)年には鉄道省に国際観光局が設置され、1931(昭和6) 年には国際観光協会、1932(昭和7)年には日本観光地連合会などが発足し ていた。 1934(昭和9)年3月に、我が国最初の国立公園として瀬戸内海、雲仙、 霧島の3カ所が指定され、12 月には阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇 の5カ所が、そして翌々年の 1936(昭和 11)年2月には富士箱根、十和田、 吉野熊野、大山の4カ所が指定された。このうち、中部山岳と吉野熊野は、 候補地段階では、日本アルプスと吉野及熊野であったが、国民からの公募に よってその名前が決まった。日本アルプスの名前が消えたことは、満州事変 から太平洋戦争に至る戦時下にあったことを物語るものである。 我が国の国立公園はこの 12 カ所がいわば第1期の指定であった。指定が 足掛け3年にわたったのは調整と事務手続きの遅れのためである。特に最後 の4カ所の国立公園については、陸軍の演習地、国営の開墾、林業などとの 調整に難問をかかえていたためであり、12 カ所の候補地そのものは早い段 階から決まっていたといえる。国立公園は戦後ふたたび新たな指定をはじ 地域創造学研究. 25.

(12) 論文. め、2009(平成 11)年末で国立公園は 29 カ所に達している。 この戦前の 12 カ所の国立公園は、阿寒、大雪山、十和田、中部山岳など の原始的な自然の風景地の保護を重点としたものと、日光、富士箱根、瀬戸 内海、雲仙などのように既存の観光地もとりこんだものの、二つのタイプが あった。また、自然景観だけでなく、史跡、神社仏閣、歴史的建造物、農山 漁村集落、農耕地などの人文景観をも対象としてこれを積極的にとりこんだ ものもあった。国立公園内では農林漁業が当然おこなわれていた。それがか えって、国立公園のなかで親しみのある風景をつくりだしていた面もあっ た。 国立公園法が公布された 1931(昭和6)年、雑誌『国立公園』は巻頭に 無記名の「風景立国の大本成る」という文章を載せ、皇土に東洋最初の国 立公園を誕生させねばならないと叫び、次のようにしるしている(無記名 1931)。 風景立国の国是はかの産業立国及び海洋立国の国是と共に我が国の現在 及将来に対し特に重要なる国策たるを失わず我が風景立国の大本を樹立 し皇土に東洋最初の国立公園を実現すべき重要使命を有する国立公園法 また、国立公園行政の中枢にいた内務省衛生局長の大島辰次郎は、国立公 園候補地を内定した 1932(昭和7)年に、雑誌『国立公園』の「国立公園 の使命と保存の精神」という文章に、国立公園を日本人の精神や文化の源泉 だとまでいいきり、次のようにしるしている(大島 1932)。 国立公園は吾人が父祖より継承せる国土の精粋である。我が神州の精気 の凝集せるものであって、日本の『本来なるもの』即ち国民精神の揺藍、 日本文化の培養床であると同時に亦其具現である。 国立公園はたんなる自然空間にとどまるものではなく、国粋主義と帝国主 義の文化装置でもあり、国粋主義と帝国主義の表象空間でもあった。我が国 の自然の風景は欧米に劣らず世界に誇るべきものだ、と志賀重昂の『日本風 景論』(1894)以来のナショナリズムが敷衍されていく。しかも、拡大して いく帝国主義のなかで、国立公園をも一つの方途とした覇権主義がみてとれ る。 26.

(13) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 1930 年代の我が国の国立公園は欧米の近代的風景観に照射されて浮かび あがったが、同時に、国粋主義や帝国主義のコンテクストのなかで新たな意 味付与がおきていた。観光のまなざしに射抜かれた国立公園は、結果的に、 意味を置換する文化装置として働いた。まなざしには、発見すると同時に隠 蔽をも可能にし、さらに新たな意味を付与して、螺旋状に展開していくとい う風景の政治学が内在していた。. 3.瀬戸内海国立公園の表象. (1)日本の地中海 近代になって瀬戸内海をとりまく状況は大きく変わり、それゆえに瀬戸内 海の風景は世界に普及していった。状況の変化の一つは、瀬戸内海が世界を めぐる交通網に組み入れられたことである。1868 年1月(旧暦慶応3年 12 月)、神戸港が開港され、アメリカのパシフィックメール社のサンフランシ スコ―上海間の定期船が横浜、神戸、長崎に寄港し、瀬戸内海を航行しはじ め、瀬戸内海は外国人が頻繁に往来する海の道となった。また、1869(明治 2)年の北米大陸横断鉄道とスエズ運河開通によって世界一周が可能とな り、グローブトロッターと呼ばれる世界一周旅行家が瀬戸内海を通るように なった。状況の変化のもう一つは、当時のイギリスの絵入り週刊新聞『イラ ストレイティッド・ロンドン・ニュース』でも伝えられたように、四国連合 艦隊下関砲撃事件など瀬戸内海が欧米列強の帝国主義と衝突する近代黎明期 の舞台となったことであり、それが新聞、図版、写真といったマスメディア の興隆にうまく乗ったことである。 『イラストレイティッド・ロンドン・ニュー ス』のようなビジュアルな新しいマスメディアに、瀬戸内海が格好の素材と してとりあげられるとともに、瀬戸内海の風景もまた極東の美しい風景とし て注目されたのである。 状況の変化のさらにもう一つは、瀬戸内海が新たに台頭してきた観光のま なざしに捉えられるようになったことである。瀬戸内海の風景は、当初、外 交官や軍人、御雇い外国人や調査遠征隊の科学者たちのいわば観察するまな 地域創造学研究. 27.

(14) 論文. ざしによって捉えられたが、1870 年代から 80 年代にかけては、世界一周旅 行のような観光旅行やルポルタージュを専門とする職業旅行家たちのいわば 観光のまなざしに捉えられていった。彼らの往来によって、瀬戸内海の風景 は、類型化された見方に収れんしたものの、より一層世界にひろまっていっ たといえよう。近代ツーリズムの産みの親トーマス・クック(1808−92)は 1872(明治5)年から翌年にかけて 222 日間の世界一周旅行をおこなう。彼 は万国博覧会の団体旅行やリゾート地の海外旅行など観光旅行業をはじめて おこなった人物であるが、彼が創業したトーマス・クック社は、世界一周旅 行を売りだし、クック自らが添乗し、イギリスから西回りで出発、日本にも 立ちより、瀬戸内海を通過して、瀬戸内海を絶賛していた。この年はジュー ル・ヴェルヌ(1828−1905)の小説『80 日間世界一周』が新聞に連載され た時でもあった。瀬戸内海は近代ツーリズムのなかでその風景が世界に普及 していった。瀬戸内海の風景は帝国主義、世界的交通、マスメディア、観光 のまなざしというグローバルな近代史のなかで世界に普及していった。 近代的風景を新たに浮かびあがらせた瀬戸内海は、国民国家と帝国主義 のコンテクストのなかで、新たな意味を生成していく。1906(明治 39)年、 評論家の塚越停春は、著書『瀬戸内海』で、瀬戸内海を「世界の中央公園」 とすべきだと論じる。瀬戸内海は「日本開化の揺籃」の地であり、「海の日 本の中心」であり、「経済日本の中心」であるので、将来の瀬戸内海は「太 平洋の中央市場」とし、「世界の公会場」「世界の共楽場」として「世界の中 央公園」としなければならないと説いていた(塚越 1906)。瀬戸内海をヨー ロッパ文明の発祥の地である地中海になぞらえ、日本の地中海だと喧伝しは じめたのもこの頃のことであった。 19 世紀の欧米人には瀬戸内海は島々の浮かぶ湖や川に見えることが多 かったが、そればかりではなく、欧米人は瀬戸内海を通してさまざまな風景 を想起し、さまざまな表象として捉えた。瀬戸内海を見て想起した風景とそ の紀行文の著者は表−2のとおりである4)。地中海、ギリシャ諸島、北方の 多島海、イタリアの湖、カトリン湖、ウッズ湖、スイスの山・湖・村、ライ ン川、セントローレンス川、カレドニア運河、ボスポラス海峡、ノルウェイ 28.

(15) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 表−2 19 世紀の欧米人が瀬戸内海に想起した風景 想起した風景 地中海. ギリシャ諸島 北方の多島海 ロフォウテン群島 バミューダ諸島 ノルウェイのフィヨルド アラスカの海岸・湾 デンマークの海 ナポリ湾 ウェミス湾 スマトラ海岸 ボスポラス海峡 カトリン湖 ウッズ湖 イタリアの湖. 紀行文の著者 …アンベール  コトー  ビッカーステス  シングルトン  ストラトン …シッドモア  リヒトホーフェン …ノルデンシェルド …シッドモア …トリストラム …スミス …シッドモア  バクスター …トリストラム …トリストラム …トリストラム …トリストラム …クライトナー  コトー …フォーチュン  トンプソン …シュワード …ヤングハズバンド  トンプソン. 想起した風景 ロモンド湖 スイスの山・湖・村. ライン川. セントローレンス川. ミシシッピー川 カレドニア運河 キール運河 スコットランド高原 ウェールズの山 ドイツの山と島 ワイト島 オランダの砂丘 リビエラ. 紀行文の著者 …フォーチュン …アンベール  ノリス  ヤングハズバンド  シングルトン  ストラトン …アンベール  ライン  ブラント  シングルトン  ストラトン …シュワード  バクスター  スミス …ノックス …トンプソン …フォーチュン …フォーチュン …トリストラム …アンベール …トリストラム …アンベール …ビッカーステス  ウェストン. のフィヨルド等々と瀬戸内海に多彩な風景を投影した。欧米人は<内海>< 多島海><湖><河川><運河><海峡>といった近代の豊かな地理的概念 を自由に駆使して瀬戸内海の風景を捉えたのである。 瀬戸内海の表象が<地中海>に特化していくことは帝国主義の進展と一体 となっていた。欧米人は瀬戸内海をさまざまな場所にたとえていた。欧米人 の風景の見方を受容した日本人は、しかし、その比喩のなかでも、特に<地 中海>を採用し、これを好んで用いた。それは、地中海が最も理解しやすかっ たこともあろうが、アジアの覇者になろうとする帝国日本にとって、ヨーロッ パ文明発祥の地中海が最もふさわしかったのである。 日露戦争の従軍記者として名をはせた小西和もまた、塚越の著書『瀬戸内 海』に影響をうけて、1911(明治 44)年、著書『瀬戸内海論』で、瀬戸内 海を「世界の公園」にすべきだと主張し、そのために「山水を保存し」、「外 地域創造学研究. 29.

(16) 論文. 客の招致とホテルの建設」を進めなければならないと主張していた(小西 1911)。この動きは、瀬戸内海にかぎらず、明治末の「国設大公園設置ニ関 スル建議」や「日光ヲ帝国公園トナスノ請願」など、富士山や日光などで もみられ、やがて、1930 年代の我が国の国立公園の誕生につながっていく。 ここには、国土を見渡す鳥瞰的視点が働いていた。この国土を俯瞰するまな ざしは、明治 30 年代には、すでに台湾、朝鮮半島、樺太、中国大陸にも拡がっ ていた。紀行文家坪谷水哉の 1905(明治 38)年の『日本漫遊案内』などを はじめとして、当時のわが国の旅行案内書には、「台湾」「朝鮮」「樺太」「満 州」が掲載されていた。いわゆる植民地観光であり、観光のまなざしは帝国 主義のまなざしと一体となって、視野を拡大していた。自然風景地を切りと る国立公園もまたこの潮流にのって拡がっていた。. (2)小豆島屋島国立公園から瀬戸内海国立公園へ 国立公園の選定にとって最も重要な要件は自然景観である。国立公園の指 定理由にはなによりも自然景観の傑出性がうたわれる。もっとも、国立公園 の選定にあたっては、自然景観のみで検討されるのではなく、そのほかにも 土地所有、産業、他法令、利用性、配置などが問題となってくる。特に、狭 小な国土で高度な土地利用をめざさなければならない我が国においては、私 有地を国立公園に包含せざるをえず、また、国立公園と農林漁業との共存は 当然であり、場合によっては、鉱業、電力産業、工業などとの共存も迫られる。 国公私有地の混在、産業との調整は、地域制公園であるかぎり、宿命的な課 題である。他法令とは、森林法、農地法、砂防法、河川法、海岸法、文化財 保護法、都市計画法などの規定を指しているが、我が国の国立公園には、国 立公園の目的とは相反する目的をもつ他法令の網が幾重にもかかっている。 二律背反的な法令との調整も、宿命的な課題である。しかし、国立公園の選 定にとってなによりも重要なのは自然の景観である。この景観は、広大な地 域で、雄大性に富んでいなければならず、原始的な景観核心地域を有してい なければならない。この景観は科学的に調査され分析され、地形、地質、地 被、特殊景観の観点から、景観価値が評価される。地形は景観型式として景 30.

(17) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 観の骨格を決めるものであり、地被は林相などであり、特殊景観は自然現象、 野生動植物、文化景観などを含み、これらは重要な景観要素となるものであ る。現在、国立公園にとっては、生態系、野生生物、そしてこれらを包含す る生物多様性の考え方が重要視されてきているが、根幹は依然として景観で あることに変わりない。 このような景観を捉える風景の見方は近代に特有である。近代の風景経験 は景観を捉えるという視覚経験に特化した。近代は景観で成り立つ視覚の風 景に偏った。それ以前の風景は、我が国では、信仰の風景、伝説の風景、歌 枕の風景であった。これらは、景観ではなく、景観の背後にある意味が大切 であった。意味とは人々の共通の観念に基づく場所のもつ隠喩であり、意味 の確認こそが風景経験であった。近世以前は観念で成り立つ意味の風景が重 要であった。この意味の風景から視覚の風景への変遷は、瀬戸内海の風景が よく示してくれる。瀬戸内海の風景は人々がいかにその見方を劇的に変えた かを端的に示してくれる(西田 1999)。 1930 年代の我が国の国立公園の最初の一群 12 カ所の選定においては、山 岳景が海洋景よりも重視されていた。海洋の国立公園は瀬戸内海が唯一であ り、ほかは吉野熊野国立公園の一部に熊野海岸を含むだけであった。瀬戸内 海と熊野海岸はむしろ例外的であった。当時の国立公園を選定した風景観は 山岳、森林、湖沼、渓谷などの山岳景重視にあった。アメリカの国立公園がロッ キー山脈で生まれ、原生自然を志向していたように、当時の風景観は、山岳 景重視、海洋景軽視にあった。そもそも、我が国に普及した近代的風景観そ のものも、山岳景重視であった5)。 瀬戸内海は世界の評価をえて、欧米人の観光客も多く訪れているというこ とから、瀬戸内海を国立公園に指定することは早い段階から決まっていた。 瀬戸内海国立公園は、当初の候補地段階では、小豆島屋島国立公園としてあ げられていた。小豆島は奇岩怪石の寒霞渓が評判になり、屋島は源平合戦の 地として名高い所であり、共に古くからの名所であった。しかし、広い瀬戸 内海のどの区域を選ぶかは必ずしも合意がなかった。淡路島か、和歌浦か、 小豆島か、屋島か、厳島か、それとも別の場所なのか、瀬戸内海には名所旧 地域創造学研究. 31.

(18) 論文. 跡が集積していた。瀬戸内海には要塞地帯という軍事施設が多く、その制約 はあったであろうが、それでもどの区域を選ぶかには裁量の余地があった。 1934(昭和9)年、瀬戸内海国立公園は正式に指定されるが、ここには、名 所旧跡という伝統的風景を離脱し、新たな内海多島海という近代的風景をと りこむ動きが読みとれる。古くからの名所旧跡として有名な伝統的風景<小 豆島><屋島>に伍して、新しい近代的風景<備讃瀬戸>が台頭してきたの だ。この第1次指定区域は備讃瀬戸の多島海景を核心としていた。 指定前の 1929(昭和4)年、田村剛とともに調査に従事した内務省嘱託 の林学士中越延豊は小豆島屋島国立公園候補地の当初の区域について説明し ているが、その主なものは小豆島、屋島、五剣山であった(中越 1929)。そ の後この小豆島、屋島の区域は備讃瀬戸に拡張され瀬戸内海国立公園が誕生 したが、近代的な国立公園<瀬戸内海>にとって、備讃瀬戸の塩飽諸島、直 島諸島からなる多島海景は核心をなすものであった。この瀬戸内海国立公園 の第1次指定区域は視点を定めたうえで視対象である多島海景を選ぶという 明確な意図をもったものであった(堀 1993)。指定の審議をおこなった国立 公園委員会でも多島海景が強調され続けた。1931(昭和6)年、第1回委員 会で瀬戸内海国立公園候補地について幹事田村剛は「所謂多島海岸トシテ本 邦ニ於テ傑出セルノミデナク夙ニ世界ノ公園トシテ賞賛セラレテ居リマス」 と報告し、1932(昭和7)年、第2回委員会では特別委員長藤村義朗が「千 姿万態ノ島嶼ヲ浮ベタル代表的多島海」であると報告している。また、1933 (昭和8)年の第3回委員会では区域決定について衛生局長大島辰次郎が「備 讃瀬戸ト称セラル多島海ノ風景型式ヲ構成スル部分」と報告している(国立 公園委員会 1931−33)。 瀬戸内海国立公園の誕生は、古くから名所旧跡として有名な小豆島・屋島 を離れ、備讃瀬戸の新しい多島海景を見いだすことによって、成し遂げられ たのである。伝統的な<名所旧跡>の表象を避け、近代的な<自然景>の表 象を求めたのである。この多島海景は、昭和初年、地質学の東京帝国大学教 授であった理学博士脇水鐵五郎(1867−1942)と前述の内務省衛生局嘱託の 林学博士田村剛によって発見され国立公園にとりこまれた。共に国立公園委 32.

(19) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 員会特別委員会の委員であり、また、欧米の留学経験や視察経験のある二人 であった。瀬戸内海国立公園は海洋景をもって誕生した唯一の国立公園で あったが、それは、干潟や白砂青松ではなく、遠景で俯瞰する多島海景を中 心に選定したものであった。国立公園を選定した脇水も田村も、多島海景を 追い求めていた。 この多島海景という遠景の俯瞰景の重視は、結果的に、近景として捉えら れる汀線という海岸景の相対的軽視につながるものであった。瀬戸内海国立 公園を選定したまなざしは、海岸景を捉える近景の視点を離れ、多島海景を 捉える遠景の視点に立ったといえる。国立公園は高山植物など近景の微視的 風景に注目する面はあるものの、大きな方向としては、雄大性、壮大性を志 向するものであり、遠景の巨視的風景を追求するものである。パノラマを捉 え、パノラマを楽しむ見方を、パノラマの視覚と呼ぶとすれば、我が国では、 パノラマの視覚は 18 世紀の江戸後期から徐々に普及しつつあったといえる が、このパノラマの視覚を最も追求し、人々のあいだに最も普及したのは、 国立公園であった。アメリカの国立公園はパノラマの視覚を追究し、人々に 大自然の広闊な俯瞰景を展望する喜びを与えていた。パノラマの視覚とは、 一方で、権力者が見下ろすかのように、一望のもとに広大な領域を捉えると いう、いわば支配のまなざしを内包していた。この視覚は、大自然への崇敬 を示すとともに大自然の支配にもくみしたが、国立公園に付随して世界に波 及した。国立公園の普及はパノラマの視覚をも普及するとともに、遠景の発 見が近景の隠蔽を招き、巨視的風景の発見が微視的風景の隠蔽を招いてい た。. 4.吉野熊野国立公園の表象. (1)原生的自然の大台ヶ原 戦前に誕生した国立公園 12 カ所にはさまざまな力学が働いていた。候補 地「日本アルプス国立公園」は、緊迫する国際緊張のなかで、その名を「中 部山岳国立公園」に変えた。候補地「大台ヶ原国立公園」も、天皇制と深く 地域創造学研究. 33.

(20) 論文. 関わる由緒ある地名を冠し、その名を「吉野熊野国立公園」に変えた。国立 公園はたんなる自然空間にとどまるものではなく、ある種のイデオロギーを あらわす表象空間でもあった。 「大台ヶ原国立公園」から「吉野熊野国立公園」への動きは、「小豆島屋島 国立公園」から「瀬戸内海国立公園」への動きとは、逆向きのベクトルを示 していた。すなわち、「大台ヶ原国立公園」から「吉野熊野国立公園」への 動きは近代的風景から伝統的風景への回帰を志向する動きをみせていた。 吉野熊野国立公園に位置する大台ヶ原は、近畿地方にわずかに残されたト ウヒ林、ブナ林などからなる原生的な自然の風景地であり、動植物の宝庫で ある。大台ヶ原は奈良県と三重県の県境に広がる隆起準平原の山群の総称で あり、その名が示すとおり広大な高原状の台地地形を呈し、「近畿の屋根」 とも呼ばれている。周囲を急峻な崖で囲まれ、カモシカとシカの生息域が逆 転するという特異な地形をなしている。標高 1400 ∼ 1600 メートルの山群を なし、最高峰に標高 1695 メートルの日出ヶ岳を擁している。大台ヶ原の西 方には鋭鋒がつらなる「大和アルプス」とも呼ばれた大峯山系が走り、東麓 には切り立つ岩壁と雄大な滝を有して深い渓谷をなす大杉谷がつながってい る。大台ヶ原はその原生的な自然景観から 1936(昭和 11)年に吉野熊野国 立公園に指定され、1991(平成3)年には、大台ヶ原北東部の西谷源流部と それにつづく大杉谷の国有林が大杉谷森林生態系保護地域に指定された。ま た、一帯は豊かな動物相を保護するため、大台ヶ原国設鳥獣保護区にも指定 されている。 大台ヶ原は、そのすぐれた自然環境を永続的に保護するために、1973(昭 和 48)年度と翌 1974(昭和 49)年度にわたり、奈良県の交付公債によって、 核心部 814 ヘクタールの民有地が買上げられ公有地化が図られた。我が国の 自然公園は、地域制公園という制度をとり、土地所有に関係なく指定される ことから、民有地の開発などに歯止めがかかりにくい状況にあるが、大台ヶ 原の民有地は買上げによって林業開発の危機を回避することができた。大 台ヶ原の買上げをおこなった交付公債はその元利償還が全額国の補助によっ てなされたため、10 年間の元利償還が完了した 1984(昭和 59)年と翌 1985 34.

(21) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 (昭和 60)年には土地の所有権が奈良県から環境庁(現環境省)に移管された。 大台ヶ原の核心部が環境庁所管の国有地となったことは、地域制公園の営造 物公園化であり、大台ヶ原に国立公園専用地域が誕生したわけである。2005 (平成 17)年、環境省は大台ヶ原自然再生推進計画を樹立し、衰退したトウ ヒ林などの森林生態系の保全再生と新しいワイズユース(賢明な利用)の山 をめざして、百年の計に向かって動きだした。大台ヶ原は我が国の傑出した 自然風景地であった。 大台ヶ原の記録は江戸時代の採薬登山にみられる。江戸時代には、幕府や 紀州藩の採薬登山がおこなわれ、幕府の採薬登山として、野呂元丈(1693− 1761) 、植村政勝(1695−1777)らが大台ヶ原に分けいっていたことがわかる。 彼らは本草学者であり医家であった。野呂元丈は 1721(享保6)年に、植村 政勝は 1726(享保 11)年と 1729(享保 14)年に大台ヶ原に入っている。元 丈は絵師であり登山好きでもあった池大雅ゆかりの人物であった。元丈は享 保年間に三名山をはじめ、妙高山など諸国の山に、採薬登山をおこなっていた。 宗教ではない、科学を目的とする登山がおこなわれていたのである。江戸中 期は、薬用のために動植物や鉱物を研究する本草学が儒学者・医家のあいだ で発達した。1709(宝永6)年には儒学者の貝原益軒が『大和本草』を著し、 本草学を確立していた。1716(享保元)年に八代将軍となった徳川吉宗は、 享保の改革を押し進め、実学を奨励したが、薬草調査を推奨し、薬園設置や 採薬登山を進めてもいた。植村政勝は、通称左平次といい、伊勢松坂出身の 本草学者で、吉宗の将軍就任にあたり江戸に付き添った人物である。1720(享 保5)年から 1753(宝暦3)年にかけて、薬用御用として全国の山野を跋 渉し、彼もまた三名山をはじめ、鳥海山など諸国の山に採薬登山をおこなっ ていた。江戸の駒場薬園の長を務め、朝鮮人参の栽培で功績を残している。 政勝の 1720(享保5)年からの諸国を調査した報告『諸州採薬記抄録』は、 のちの 1774(安永3)年に小野高尚の序文が付されて『本朝奇跡談』の書 名で流布するように、全国の珍しい名所や名物などを紹介する一種の地誌で あった。橘南谿の随筆『北窓瑣談』は、南谿の没後の 1829(文政 12)年に 出版されたが、その後編巻之二には、大台ヶ原が「王台山」として紹介され 地域創造学研究. 35.

(22) 論文. ている。明治時代になると、1885(明治 18)年に探検家・著述家の松浦武 四郎(1818−88)が入山、1891(明治 24)年に神道の古川嵩(1860−1930) が入山する。1903(明治 36)年、日本画家の高島北海(1850−1931)が著書『写 山要訣』に「大台ヶ原山」の山水画を載せる。大台ヶ原の図絵は、江戸後期 の南画家の野呂介石(1747−1828)と松浦武四郎も描いていた。野呂介石は 池大雅の弟子であり、紀州藩士として銅山方などを務めている。 明治時代から大正時代にかけて、大台ヶ原は登山道が整備され、その名 が知れわたっていく。1922(大正 11)年の内務省の国立公園候補地 16 カ所 が選ばれたとき、その一つにあげられる。当時の国立公園選定の風景観で ある原生的な山岳景にかなっていたのである。そして、1927(昭和2)年の 東京日日新聞・大阪毎日新聞の「日本八景」の百景に選定される。「日本八 景」は八景、二五勝、百景の3ランクで合計 133 カ所が選ばれた。こうして、 1936(昭和 11)年には吉野熊野国立公園として指定されていく。大台ヶ原 はその後 1964(昭和 39)年に深田久弥の『日本百名山』に選定され、1980(昭 和 55)年にユネスコ MAB 計画生物圏保護地域に指定され、1987(昭和 62) 年に読売新聞の「新日本観光地百選」に選定されたりしている。これらは、 大台ヶ原が<原生的自然>を示す場所として評価されたためであった。. (2)大台ヶ原国立公園から吉野熊野国立公園へ 昭和初期において、国立公園候補地「大台ヶ原国立公園」が国立公園「吉 野熊野国立公園」へ変化していく過程を雑誌『国立公園』の文章から追って みたい。1930(昭和5)年、内務省嘱託林学士の中越延豊は「国立公園候補 地概観(10)大台ヶ原山」と題する報告を載せているように(中越 1930)、 この時国立公園候補地は「大台ヶ原」であった。中越は内務省で田村剛の 下にいた国立公園選定の実務者であった。中越は大学も田村の2年後輩で、 1917(大正6)年に東京帝国大学の林学科を卒業、田村と同じように卒業 後明治神宮造営局に勤めた。1921(大正 10)年には、衛生局保健課に転じ、 田村と共に国立公園候補地調査を開始したわけである。中越は病弱で、残念 ながら国立公園が呱々の声をあげようとしている 1931(昭和6)年に他界 36.

(23) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 する。おそらく 30 歳代後半であったろう。田村は中越の追悼文で「君は国 立公園候補地十六箇所をば悉く踏破してゐる。恐らく君ほど国立公園候補地 に親しみ、且つその地方に知人を有する者はないであらう」と述べている(田 村 1931)。 1930(昭和5)年、国立公園候補地として、大台ヶ原よりも広域を示す案 が出てくる。仏教史の文学博士鷲尾順敬(1868−1941)は「史上の大峰山」 なる文章を寄せ(鷲尾 1930)、また、国立公園協会評議員・大阪電気鉄道㈱ 取締役種田虎雄(1884−1948)は「国立公園候補地としての吉野群山の価値」 なる文章を寄せ(種田 1930)、国立公園の区域が大台ヶ原から大峯山、吉野 群山へと拡大していく。種田はのちにいくつかの鉄道会社が合併して生まれ た近畿日本鉄道の初代社長を務める人物であり、さまざまな思惑があったか もしれないが、この時期、国立公園候補地の中心はあくまでも自然景観であっ た。種田は次のとおりしるしている。 斯くの如く吉野より抱擁する地域には大台ヶ原の高原美あり、大峯山脈 の山岳美あり、森林美あり、岩石美あり、瀞七里の峡谷美あり、加之木 の本より潮の岬に至る熊野海岸の絶勝あり、一地域にして斯くもあらゆ る風致を網羅充実せるは、全く他に比類を見ざる処なり。 しかし、徐々に国立公園候補地の中心が自然から歴史へと変位しはじめる。 1931(昭和6)年の内務省神社局嘱託梅田義彦(1906−80)の「大和アルプ ス概観」は次のとおりしるしている(梅田 1931)。 大峯山・大台ヶ原山を中心とする公園を計画するに当つて是非考慮せら るべきは吉野山と熊野地方とである。之らをも併せ入れることは、公園 として、より多く自然と歴史とに恵まれる事となるに外ならない。 歴史への傾斜は徐々に加速しはじめる。同年、考古学の柴田常惠(1877− 1957)は「国立公園候補地史的概観(9)大峯山と大台ヶ原」と題して、史 的概観をしるす(柴田 1931)。さらに、国立公園を内定した翌 1932(昭和7) 年には、「神武建国以来の貴重なる史蹟伝説」の地だと説かれる。第2次国 立公園委員会総会の記「吉野及熊野国立公園候補地」なる文章は次のように しるす(第2次国立公園委員会総会の記 1932)。 地域創造学研究. 37.

(24) 論文. 本候補地は大峯山、大台ヶ原等の吉野群山、北山川及熊野川並びに熊野 海岸に亘る一帯を含むものである。(中略)本候補地は神武建国以来の 貴重なる史蹟伝説に富み、利用方法としては史蹟、社寺巡礼、自然研究、 観光、舟遊等に於て特色がある。 1933(昭和8)年、この神武天皇東征の地は一層強調されていく。さらに 吉野山の大和魂をあらわす桜花、南朝の歴史も引き合いに出されてくる。我 が国は 1931(昭和6)年から戦時体制にあった。そのような緊迫したなかで、 国立公園もたんなる自然空間ではありえず、さまざまな意味が付与されたと いえよう。<原生的自然>よりも<国粋的自然>に傾き、ある種のイデオロ ギーをあらわす表象空間となっていくのである。登山家の藤木九三(1887− 1972)は、当時『屋上登攀者』(1929)『雪・岩・アルプス』(1930)という アルピニズムの著書を出した人物であるが、「国立公園を語る(2)吉野群 山と熊野」では神武天皇東征、大和魂を表徴する桜花、南朝の歴史を引き合 いにだし、次のようにしるす(藤木 1933)。 第一に古事記その他に載つてをります「神武天皇の御東征」に関する、 大和御討入りの次第は、この国立公園の地域全範に亘つて深い関係があ ります。(中略)この外、大和魂を表徴する「桜の花」で有名な吉野山 に関する南朝の歴史は、一々説明する迄もない事と存じます。 この時期、桜花はますます戦争で国のためにいさぎよく戦死していく象徴 として称揚され、吉野山の桜花はそれだけ重要なものとなっていった。また、 吉野山は、1333(元弘3)年に建武の新政を打ち立てた後醍醐天皇の南朝の 地であり、墓所の地でもあった。後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡によって、政 権を武家から取りもどした人物であり、それは徳川幕府から大政奉還をなさ しめた明治新国家になぞらえることができ、崇敬すべき人物であった。南北 朝以後、北朝が残り、南朝は絶えるが、一部には明治維新を南朝末裔の革命 に見立てるような考え方さえもあった。 「吉野熊野」は帝国主義を拡大していく天皇制国家にとって重要な地であっ た。時代は、「大台ヶ原国立公園」の自然派よりも、「吉野熊野国立公園」の 歴史派に圧倒的にくみしていた。自然表象よりも歴史表象が重視された。こ 38.

(25) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 の時期、吉野熊野国立公園はナショナルアイデンティティを示す場であり、 ナショナリズムの高揚を図る文化装置となっていた。もっとも「吉野熊野」 の名称が観光振興にとっても圧倒的に有利であったことは否定できない。 しかし、国立公園の指定理由は基本的に自然景観にあった。1936(昭和 11)年、国立公園委員会の委員であり、国立公園の選定に深く関わっていた 東大名誉教授・理学博士脇水鐵五郎はじつにうまくその説明をする。第3次 指定記念号の「吉野熊野国立公園概説」で次のとおりしるしている(脇水 1936)。 吉野熊野国立公園は我国に於ける海と山との両風景を包含する唯一の国 立公園たると同時に水成岩の山岳風景を代表する唯一の国立公園であ る。(中略)本公園の区域は北部の山岳部と南部の海岸部とその中間の 渓谷部の三区に分たれて居る。 ここには風景の組み替えともいうべき再統合がおこなわれている。吉野と 熊野はその歴史性によって結ばれていたが、そのことは表に出さず、海と山 の風景が結合された唯一の国立公園として、自然性によって意味付けられ価 値付けられていく。 風景の再編はつねにおきている。2004(平成 16)年、修験道の霊場「吉 野・大峯」、熊野信仰の霊場「熊野三山」、真言密教の霊場「高野山」の三霊 場は、大峯奥駆道、熊野参詣道、高野山町石道などの参詣道(巡礼路)とと もに、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。これらの三 霊場は宗教も時代も場所も異なるが、ひとつの表象<紀伊山地>に再統合さ れていった。いま、吉野・大峯も、熊野も、高野山も、そして大台ヶ原も、 新しい表象<紀伊山地>に覆われようとしている。国立公園の選定は、風景 の評価が否応なくある種の複雑な力学の場に組みこまれていることを、先鋭 に示してくれる。表象空間としての国立公園からはこのような風景の政治学 を読みとることができる。. おわりに 国立公園の表象を事例に風景の政治学について論じてきたが、最後に世界 地域創造学研究. 39.

(26) 論文. 遺産の風景の政治学に言及しておきたい。周知のとおり、世界遺産の登録に は、欧米中心という風景の政治学が働いている。世界遺産は、「顕著な普遍 的価値(Outstanding Universal Value:OUV)」を登録基準とするが、この 基準は基本的に欧米の基準であり、その登録は欧米に偏るものであった。世 界遺産の登録が、欧米に偏在し、キリスト教関連の文化遺産が多いことは、 世界遺産会議で大きな議論となったところである。キリスト教の教会建築は 高く評価されても、他の宗教建築は評価されないのである。2008(平成 20) 年、平泉の文化遺産は浄土思想が理解されず、登録されなかった。顕著な普 遍的価値(OUV)の評価基準は 10 クライテリアと文化遺産にあってはオー センティシティ(真実性)が、自然遺産にあってはインティグリティ(完全 性)が重視される。 文化遺産のオーセンティシティの考え方については、我が国の部材を取り 替え、部分的に更新していく木造建築に対し、なかなか理解がえられなかっ たが、それは根本的にヨーロッパの朽ちない石の文化と日本の朽ちていく木 の文化の相違に基づいていた。古代ギリシャや古代ローマの石の建造物は、 壊れてそのまま放置されていても世界遺産になりえるが、木の建造物は壊れ てそのまま残存することはありえず、くりかえし補修が加えられた建造物を 世界遺産にすることには疑問が投げかけられてきた。かといって、柱の礎石 や埋蔵文化財では全く理解がえられない。街並みも同様に、石造建築の街並 みをもつ都市は世界遺産になりえても、木造建築の街並みをもつ都市は世界 遺産になりにくい。それは、文化遺産の基準が、欧米人の考えるオーセンティ シティだからだ。オーセンティシティについては 1994(平成6)年の「オー センティシティに関する奈良ドキュメント」で多様性の尊重がふれられたと ころである。 自然遺産のインティグリティもまた、源流はアメリカ発信の原生自然重視 のウィルダネス思想にある。国立公園思想にしても、原生保護思想にしても、 アメリカ発信であったが、自然遺産もまたこの延長線上にある。2005(平成 17)年に世界自然遺産になった知床も、わずかな治山堰堤や周辺の海域でお こなわれる漁業が問題視された。また、欧米並の保護制度を国内法に求める 40.

(27) 表象空間としての国立公園にみる風景の政治学 世界遺産のあり方は、発展途上国にとっては基本的に不利であった。発展途 上国にとっては、経済成長や生活安定こそが最大の課題であり、文化財保護 や自然保護に手が回らないのは当然である。 1992(平成4)年に世界文化遺産のなかに新たに加えられた文化的景観も また、その登録はヨーロッパへの偏りを強く示している。文化的景観は人間 の営為が加わった自然、あるいは、文化的な意味を担った自然を指し、文化 の産物としての自然を指している。このなかに農林漁業景観があるが、農業 景観として、1995(平成7)年、世界初の世界遺産の文化的景観となったのは、 フィリピン・ルソン島のコルディレラの棚田であった。しかし、これをきっ かけに堰を切ったかのように相次いで生まれた世界遺産の文化的景観は、 ヨーロッパの主要ワイン生産地のブドウ畑などであった。1997(平成9)年 には、イタリアの地中海にのぞむ急斜面階段状のブドウ・柑橘類の畑地であ るポルトヴェーネレ、チンクェ・テッレ及びその島嶼、1999(平成 11)年には、 フランスのボルドーワインの生産地であるサンテミリオン、スウェーデンの スカンジナビア半島海岸域の砂州の農業地帯のエーランド島南部、2001(平 成 13)年には、ポルトガルのポートワインの生産地であるアルト・ドウロ 地域、2002(平成 14)年には、ハンガリーの東ヨーロッパにおける銘醸ワ インの生産地であるトカイワイン地域が文化的景観として登録されていっ た。また、文化的景観としてではないが、世界文化遺産として、ヨーロッパ の干拓地の農業地帯が登録されていった。1995・97(平成7・9)年のイタ リアのフェラーラとポー川三角州、1999(平成 11)年のオランダのベエム スターの干拓地である。さらに、ヨーロッパの文化の回廊となった河川とそ の沿岸の農業景観が、一部文化的景観を含む世界文化遺産となり、2001(平 成 13)年のフランスのロアール渓谷、2002(平成 14)年のドイツのライン 川中上流域渓谷が登録された。これらは、営々と持続可能な土地利用がなさ れ、ヨーロッパらしい独特の風景を紡ぎだしていた所であり、その美しい風 景には誰しも感嘆するところである。しかし、ここには、世界を制覇した文 明をもつヨーロッパ社会の奢りを感じざるをえない。ヨーロッパ社会の価値 観や美意識は絶対であり、その景観も絶対なのであって、アジアやアフリカ 地域創造学研究. 41.

(28) 論文. の農業景観は人類の遺産とならないのである。 世界遺産もまたヨーロッパ文明のひとつである。世界遺産は 2009(平成 21)年末現在、文化遺産 689、自然遺産 176、複合遺産 25、合計 890 に達し ているが、このうち半数近くがヨーロッパに位置し、世界遺産の偏りが明ら かにみてとれる。世界遺産にみる風景の政治学のさらなる考察は今後の課題 としたい。. 注 1)国立公園と世界遺産に関する記述は国立公園史と世界遺産に関する次の研究を参 考とした。田村(1948)、田村編(1951)、田中(1981)、中村(1983)、中村(1985)、 丸山(1986)、丸山(1994)、堀繁(1993)、伊藤(1990)、伊藤(1992)、伊藤(1997)、 宇野(1970)、高橋他(1994)、福富・石井(1985)、環境庁自然保護局計画課監 修(1989)、Frome(1981)、National Park service(1979)、本中・佐々木(1997)、 奥田(1998)。 2)1934( 昭和9) 年から 36( 昭和 11) 年にかけての 12 カ所の国立公園の指定を終えた 翌年の 1937(昭和 12)年、台湾の国立公園が指定される。台湾の国立公園も誕 生に向けて早くから着々と準備が進められていた。1928( 昭和3) 年、台湾総督府 は、林学博士田村剛に新高阿里山一帯の調査を依頼するとともに、東京大学教授 本多静六に大屯山一帯の調査を依頼していた。田村はのちに我が国の国立公園の 父と崇敬される人物であり、本多は田村の恩師である東大教授であった。台湾総 督府はその後、1933( 昭和8) 年に国立公園調査会を設置、1935( 昭和 10) 年に国 立公園法を施行、そしてついに、1937( 昭和 12) 年、 「大屯」「次高タロコ」「新高 阿里山」の三つの国立公園を誕生させる。当時は、我が国の国立公園をこれらを 含めて 15 カ所と数え、3950 メートルの新高山主山(玉山)を日本一の山だと称 していた。 3)国際自然保護連合(International Union for Conservation of Nature and Natural Resources:IUCN、The World Conservation Union とも呼ぶ)は、1994(平成6) 年、保護地域管理カテゴリーを発表し、自然環境保全地域の世界的な基準を示し た。カテゴリーは次のとおりⅠからⅥの6分類が示され、カテゴリーⅡで国立公 園の基準が示された。     Ⅰ Strict Nature Reserve 厳正自然保護地域       Wilderness Area 原生地域     Ⅱ National Park 国立公園     Ⅲ Natural Monument 自然記念物     Ⅳ Habitat Management Area 生息地管理地域       Species Management Area 種管理地域. 42.

参照

関連したドキュメント

いう仮説を立てる。ここでとくに著者が注目するの

アフリカ政治の現状と課題 ‑‑ 紛争とガバナンスの 視点から (特集 TICAD VI の機会にアフリカ開発を 考える).

伝統的な実践知としての政治学の問題関心を継承している。

中国の国内エクスプレス市場と内外資系物流企業の 競合状況 (特集 アジアにおける航空貨物と空港).

るにもかかわらず、行政立法のレベルで同一の行為をその適用対象とする

5 歳児 リレー 5 歳児 体操. お家の方に向かって、よーいドン!ゴールのあとは 抱っこしてもらい、笑顔いっぱいの

Homma, Miki, “The Influence of Chinese Art on Persian Paintings in the Saray and Diez Albums,” Waseda Rilas Jornal 5 (2017), pp. 44-77; Wang, Ching-Ling, “Iconographic Turn:

政治エリートの戦略的判断とそれを促す女性票の 存在,国際圧力,政治文化・規範との親和性がほ ぼ通説となっている (Krook