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〈研究ノート〉白居易の墓誌銘からみた表現方法

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はじめに 白居易(AD 772 ∼ AD 846)は多くの詩を残している。詩を通して社会の混迷に苦しむ 人々を救い、天下を匡そうと努力した。彼にとって詩とは単なる花鳥風月を詠いあげるも のではなく、人々の窮状を訴え、政治の欠点を正そうとするものであった⑴。痛烈な政治 批判を含んだ諷諭詩には人間の生き様を描写しつつ人々の窮状を訴え、社会を改革しよう とする意気込みがみられる。一方、閑適詩の中には自己の生活の中に「足るを知り、和を 保ち⑵」自然を楽しむ姿もみられるが、総じて彼の詩には人々の幸せを願う姿勢が表れて いる。 墓誌銘は詩と異なり、第三者からの依頼によって筆を執るものが多い。その内容は作者 の感情を交えることなく、被葬者に関する情報発信に徹する文体が初期の通例であった。 唐の半ばになると、第三者として人物を描くのではなく、作者自身の考え方を前面に出し た作品が多くなる。白居易の書いた墓誌銘は、第三者からの依頼によるものは少なく、ほ とんどが知人の為に筆を執ったものである。ということは、彼は墓誌銘を書く際に、自分 の考え方を人物描写の中に反映させていた可能性も十分に考えられる。 白居易が筆を執った墓誌銘は、二篇⑶を除き、自撰墓誌銘も含めて『文苑英華』中に総 て収められている。同時代の元稹や柳宗元、韓愈と比較しても、執筆数に対する収録割合 が断然高い⑷。これは白居易の墓誌銘が宋代以降の模範となった証左になり得るが、どの ような点から彼の作品は多く収録されたのであろうか。 以下、墓誌銘に表れた人物像を通して白居易の人に対する考え方とその表現について考 察していく。 1.門地門閥へのこだわり 中唐文学の主題を一言で表現すれば、人間の生き方の追求だといえる。この時代、社会 をよりよくするために人はどうすべきか、どう生きるべきかを様々な角度から取り組んだ、 その一人が白居易である。彼の生きた時代は、社会構造が徐々に変わりつつあった時代で もある。それまでは門地門閥によって官僚ポストが決められており、官階で昇進するには 家柄が非常に重要であった。しかし、科挙を通過することによって高級官僚になる道が開 かれるようになり、固定されていた階層が変動し始めたのがこの時代である。

久田 麻実子

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墓誌銘を書く際、官僚としての経緯は重要な要素になり得る。門地、いわゆる家系と進 士及第とはどちらも当時の状況にあっては重要なファクターであり、白居易が人物を描写 していく上でもそれらは当然大きな比重を占めていた。 墓誌銘に記載される必須条項は、被葬者に関する情報、即ち諱・字・行績・官歴・卒 地・卒年・葬地・葬年等である。ここに人となりを加えて墓誌銘は書きあげられる。白居 易が書いた墓誌銘は、どれをとっても被葬者に関する記載事項は省略することなく、墓誌 銘の典型を踏襲した文体になっている。中でも被葬者の官歴に関する情報を詳細に記述す る傾向にある。 進士出身の白居易が科挙出身にこだわるのは至極当然であるが、門地についても実はこ だわりをもっている。何故ならば、家格によって朝廷でのポストが決定する社会が漸く動 きつつあったとはいえ、家柄も当時にあっては朝廷の官僚になるための重要な要素には依 然として変わりがなかったからである。 及第するというのは、自身の努力によって為し得ることではあるが、それを支える間接 的な要因として、周囲にいる人々の存在がある。白居易は、優れた人間はよい家庭環境に よって育まれるという考え方をもっており⑸、家族からの精神的な援助の重みを感じてい た。因って墓誌銘を書く際に、家族に関する情報にも重きを置くようになり、被葬者本人 に関する情報を直接記録していくというよりは、周辺情報によって間接的に人物を表現す る方法を採用していた傾向が窺える。 以上から、白居易が墓誌銘の中で被葬者を描写する際には、二つの因子を重要視してい たといえる。その一つは、官僚として絶対的な力を発揮するその家のルーツ、すなわち門 地である。いま一つは、官僚になるために幇助的役割を果たした者たち、すなわち家族で ある。中でも家系についての表現にこれまでとは違った書き方が見られる。以下、この点 について確認しておく。 唐朝は南朝の風潮をそのままに、門地門閥によって人生を左右される傾向が続いてい た。門閥観念の強さは『新唐書』中に宰相世系表が設けられているという点からも推察が つく。安史の乱を経て、世の中は大きく変化した。科挙出身者が次第に力をつけ、官僚と して高位に上る機会が増えてきた。当然科挙出身者と門閥出身者との間には軋轢を生じ る。白居易はまさにこの激突の真っただ中に生きていた。彼は両者に友人を持ちながら、 どちらに偏ることなく調和を保って過ごすことができた人物である。それについて『郡齋 讀書志』(巻 18)「白居易長慶集七十一巻」の項に次のような記述がある。   予按樂天嘗與禹錫遊、人謂之「劉白」、而不陷八司馬黨中、及與元稹遊、人謂之「元 白」、而不陷北司黨中、又與楊虞卿爲姻家、而不陷牛李黨中。其風流高尚、進退以義、

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可想見矣。嗚呼、叔世有如斯人之髣髴者乎。   予れ按ずるに樂天 嘗て禹錫と遊び、人 之を「劉白」と謂ふ、而るに八司馬の黨中に 陷らず、元稹と遊ぶに及びて、人 之を「元白」と謂ふ、而るに北司の黨中に陷らず、 又た楊虞卿と姻家を爲す、而るに牛李の黨中に陷らず。其の風流は高尚にして、進退 義を以てすること、想見すべし。嗚呼、叔世に斯の如き人の髣髴する者有らんや。 白居易は劉禹錫や元稹と親しかったが、八司馬の党争にも牛李の党争にも巻き込まれるこ となく過ごした。この生き方は墓誌銘を書く際にも反映されている。 白居易は寒門の出である。「幼くして學を好み、長じては善く文を屬し⑹」て科挙に及第 することは、寒門出身者にとって最大の出世であり、大変な名誉である。「故滁州刺史贈 刑部尚書滎陽鄭公墓誌銘」(巻 42)の被葬者である鄭昈は進士及第者である。他の作者で あれば、家系にはほとんど触れず、進士出身という点を強調する。ところがこの墓誌銘で は書き出しで家系について多くの字数を費やしている。   周宣王封母弟桓公于鄭、厥後因封命氏爲滎陽人。鄭自桓公而下、平簡公而上、世家婚 嗣、咸詳于史諜、故不書。   周の宣王 母の弟桓公を鄭に封ず、厥の後 封に因りて氏に命じて滎陽の人と爲す。鄭 は桓公より而下、平簡公而上、世家婚嗣、咸く史諜に詳なり、故に書せず。 鄭公の祖先を周の宣王よりはじめ、加えて詳細については「咸く史諜に詳な」ので、記載 しないという逆説的に家系を強調する表現を使っている。 諱、字を述べた後、家系に触れるのは墓誌銘の通例であるが、白居易はより多くの字数 を費やす傾向にある。例えば「唐銀青光祿大夫太子少保安定皇甫公墓誌銘」(巻 70)では 微子から説き起こして族姓の成立過程を細かく記載している。   始封祖微子也。周克殷、封于宋、九代至戴公。戴公之子曰皇父、因字命族爲皇父氏。 至秦徙茂陵、改父爲甫。   始封の祖は微子なり。周 殷に克ち、宋に封ぜらる、九代にして戴公に至る。戴公の子 は皇父と曰ふ、因りて字を族に命じて皇父と爲す。秦に至りて茂陵に徙り、父を改め て甫と爲す。 また「唐故虢州刺史贈禮部尚書崔公墓誌銘」(巻 42)では炎帝をその始祖に据えて以下 のように述べる。

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  唐有通四科、達三教者、曰惟崔公。公諱玄亮、字晦叔。其先出於炎帝、至裔孫穆伯受 封于崔、因而命氏。   唐に四科に通じ、三教に達する者有り、曰く惟れ崔公なり。公諱は玄亮、字は晦叔。 其の先は炎帝より出づ、裔孫穆伯に至りて封を崔に受く、因りて氏に命す。 さらに「大唐故賢妃京兆韋氏墓誌銘」(巻 42)では次のように記述する。   嗚呼、惟韋氏代徳官業、族系婚戚、有國史家諜存焉。今奉詔但書地及時與妃之所以曰 賢之義而已。   嗚呼、惟れ韋氏の代徳官業、族系婚戚は、國史家諜に存する有り。今詔を奉じて但だ 地及び時と妃の賢と曰ふ所以の義とを書すのみ。 韋氏についての細かい系譜は「國史家諜」に任せてここでは書かず、被葬者である韋賢妃 自身に関することのみを記載するという。先に挙げた鄭氏もそうであるが、韋氏は門閥の 中でもいわゆる大族である。具体的に始祖を古い時代から書き記す方法とは別に、「國史」 「家諜」により優れた家系であることをいう。多くの字数を割いて膨大な系譜を網羅する よりは、一言で家格を持ち上げる効果をもつのが「史諜」である。系譜については「史 諜」を参照してほしいと示唆しておけば、それは書ききれないほど由緒ある家系という裏 付けになる。触れるべき家系、例えば、近い父祖についての経歴があればそれは記入する のが墓誌銘の通例である。しかし、家系をかなり古い部分から触れていくのは白居易の特 徴と言える。 門地を重視する傾向は神道碑にもあり、中には堯舜の頃から系譜を綴ろうとしているも のもみられる⑺。白居易自身、自らの家系を「其の先は太原の人なり、秦將武安君起の後 なり⑻」と述べ、友人の元稹については「後魏昭成帝の十五代の孫」という。これらは門 閥を極端に意識した表現である。 科挙により、実力があれば家柄に関係なく出世する道が確立されたとはいえ、白居易の 生きた時代は、牛李の党争に代表されるようにまだまだ門閥の強さも色濃く残っている家 柄重視の社会であった。このことは好むと好まざるとにかかわらず白居易の頭の中に強く 植え付けられており、白居易自身の大きな拘りとなっていた。故に、寒門の出であったと しても、少しでも家格が上にみえるようにとの配慮から、白居易にとって門地は墓誌銘を 書く際の重点事項になったのである。 家格を持ち上げる手法だけでなく、進士に及第して官僚になる栄誉を書くことにも当然 配慮した。家柄と本人の努力、両面から白居易は人物像を作り上げようとしている。業績

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を詳しく述べることで、出世するにふさわしい人物であるということを表現した。業績に 人となりを細かく付け加えることによって諛辞を避けようとした。寒門であれ、大族であ れ、評価に値する人物を描写する、すなわち社会をよりよくしようと努力した人物の業績 を白居易は描こうとしたのである。これについては後述する。 2.人物描写の方法 白居易の墓誌銘執筆時期は大きく二つに分けられる。翰林学士の任にあった時期と洛陽 勤務の時期であり、どちらも身近な人物の死に関係する。翰林学士の任にあった元和 6 年 (AD 811)に母陳氏が亡くなった。河南尹の職にあった大和 5 年(AD 831)には息子崔児 を亡くし、続けて友人元稹が急逝した。親友の為に彼は墓誌銘の筆を執った。太子賓客分 司、太子少傅分司として東都(洛陽)にあった時期には親しかった友人たちが次々とこの 世を去っている。家族の死、友人の死は人の生き様を見つめなおす契機となり、その思い は墓誌銘によって表現される結果となった。しかし文体には大きな変化はなく彼が描こう としていた人物像は一貫していたといえる。ここではその文体についてみていく。 人物像を作りだすのに最も有効な方法は、史書の形式を模すことである。人がどう生き ていたかを描く、現実に照らし合わせた描写というのが、白居易の基本姿勢であった。人 物を細かく観察し、どこを特出すべきなのかを決めて、記入要素を決定する。 「故滁州刺史贈刑部尚書滎陽鄭公墓誌銘」(巻 42)では、家系について触れ、続けて鄭昈 が「學を好み詞賦を攻る、進士にして第に中」ったことを述べた後、職歴について話を進 める。   時祿山始亂、傳檄郡邑、邑民孫俊・鄧犀伽敺市人、劫廩藏以應。公時已去秩、因奮呼 率寮吏子弟急擊之、殺俊・犀伽、盡殲其黨、繇是一邑用寧。朝廷美之、擢授登州司 馬。   時に祿山始めて亂し、檄を郡邑に傳ふ、邑民孫俊・鄧犀伽 市人を敺り、廩藏を劫して 以て應ず。公 時に已に秩を去り、因りて奮呼して寮吏の子弟を率ゐて急ぎ之を擊つ、 俊・犀伽を殺し、盡く其の黨を殲す、是に繇りて一邑用て寧す。朝廷之を美め、擢き て登州司馬を授く。 鄭昈が彭果に連坐して光化尉に貶せられ、後に北海尉に移った時の出来事である。安禄山 の乱の際に、賊である孫俊・鄧犀伽を討伐して邑を安定させた功績により、登州司馬に改 められた話であり、業績を述べつつ性格を付加して人物像を作り上げる描写になってい る。

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被葬者を称賛する場合、白居易は業績を書き連ねてその中で如何に素晴らしい結果を残 したのかを書き記す。「唐故虢州刺史贈禮部尚書崔公墓誌銘」(巻 70)では崔玄亮の職歴に ついて順を追って記述している。時系列に沿って行動記録を綴っていくと、業績を述べな がら被葬者の人となりにも触れやすい形にできる。崔玄亮は最後に湖州刺史となるが、そ の良政について次のように記述する。   政如密歙、加之以聚羨財而代逋租、則人不困。謹茶法以防黠吏、則人不苦。修堤塘以 備旱歳、則人不饑。罷氓頼之、如依父母。   政は密・歙の如く、之を加ふるに羨財を聚めて逋租に代るを以てすれば、則ち人困ら ず。茶法を謹み以て黠吏を防げば、則ち人苦しまず。堤塘を修め以て旱歳に備ふれ ば、則ち人饑へず。罷氓 之に頼ること、父母に依るが如し。 墓誌銘の形式が整理されつつあった六世紀頃は⑽、被葬者の籍里や官歴が中心内容であ り、具体的な人となりに繋がる内容を書くことは稀であった。埋葬に係わる情報を列挙 し、その後、人物称賛を韻文で付け加えるという形式が主流で、決して人物そのものの姿 にせまるようなものではなかった。庾信の登場によって、史書の文体を導入し、内容の変 化はあったものの、その文体は、内容よりも見た目の美しさを追求することがより重要で あった。人物についての習性を具体的に述べる際にも、ともすれば紋切型の称賛に終始 し、官歴についても称賛の対象となる部分のみをピックアップするというものであった。 唐代半ばになり、門地や官階からのみ人物を描写するのではなく、被葬者の普段の行 い、習性を通して人物像を作りあげる方法が徐々に浸透していった。墓誌銘は被葬者の人 となりに関する記述に重点を置き、人間性を織り込む工夫も加えられた。 墓誌銘の中に人間性を書くとはいっても、その文体は見た目の美しさを重視した駢儷体 を用いるのが主流であった。韓愈の登場で、墓誌銘の文体は駢儷文を排除した古文へと変 わるが、石に刻んで棺の枕上に置く墓誌銘は目で見た表現に重点を置いた方がわかりやす い。中国語の特性からいっても、均整のとれた対句表現は墓誌銘の文体には欠かせない要 素といえる。 白居易の墓誌銘を見る時、先にみた人となりを行動記録から描く方法、すなわち史書の 形式を踏襲する描写法よりも、実は見た目の美しさを追求する文体、すなわち対句に関す る文体に際立った特徴を見出すことができる。 白居易は墓誌銘を書く際、対句に細心の注意を払っていたことがわかる。しかし、彼の 使った対句表現には、これまでの墓誌銘とはやや異なった点が見出せる。以下、幾つかの 例をあげてその点を考えていくこととする。

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「大唐故賢妃京兆韋氏墓誌銘」(巻 42)は白居易が左拾遺、翰林学士在任中に手がけたも のである⑾。韋賢妃の家系について記述した後、次のようにいう。   貞元中、沙鹿上仙、長秋虚位、凡六十九御之政多聽於妃。妃先以采蘩之誠奉于上、故 能致霜露之感薦于九廟、次以樛木之徳逮于下、故能分雲雨之澤洽于六宮。其餘坐論婦 道、行贊内理。服用必中度、故組紃有常訓、言動必中節、故環珮有常聲。二十七年、 禮無違者、册命曰賢、不亦宜哉。   貞元中、沙鹿 仙に上り、長秋 位を虚くす、凡そ六十九御の政は多く妃に聽く。妃 先 に采蘩の誠を以て上に奉ず、故に能く霜露の感を致して九廟に薦む、次に樛木の徳を 以て下に逮ぶ、故に能く雲雨の澤を分けて六宮に洽くす。其の餘 坐しては婦道を論 じ、行きては内理を贊す。服用必ず度に中る、故に組紃に常訓有り、言動必ず節に中 る、故に環珮に常聲有り。二十七年、禮違ふ者無し、册命して賢と曰ふ、亦た宜なら ざるや。 韋賢妃の徳について述べた部分であるが、ここで使われた対句表現を抜き出すと次の三箇 所になる。  ①    先以采蘩之誠奉于上、故能致霜露之感薦于九廟、    次以樛木之徳逮于下、故能分雲雨之澤洽于六宮。    次以樛木之徳逮于下、故能分雲雨之澤洽于六宮。  ②    坐論婦道、    行贊内理。    行贊内理。  ③    服用必中度、故組紃有常訓、    言動必中節、故環珮有常聲。    言動必中節、故環珮有常聲。 ②は四字の単対、③は五字+六字の隔句対になっており、これまでの対句の範疇と考えら れる。注目すべきは①の対句である。隔句対であるが、一句の文字数が多い長句対になっ ている。さらに着目すべきは、同じ文字を用いて対句を構成している点である。「○以○ ○之○○于○、故能○○○之○○于○○」と、一句十九文字のうち、七文字に同じ字を用 いている。本来、対句は、同じ文字を使わずに、たとえ助辞であっても文字を変えるのが よい対句と言われてきた。それをここではわざと同じ字を使って対句を作っていることが

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わかる。同じような例をもう一つあげておく。 元稹の母に対する墓誌銘「唐河南元府君夫人滎陽鄭氏墓誌銘」(巻 42)では、母として の在り方を次のように描写する。   自夫人母其家殆二十五年、專用訓誡、除去鞭扑、常以正顔色訓諸女婦、諸女婦其心戰 兢、如履于冰。常以正辭氣誡諸子孫、諸子孫其心愧恥、若撻于市。由是納下於少過、 致家於大和、婢僕終歳不聞忿爭、童孺成人不識櫝楚、閨門之内煕煕然如太古時人也、 其慈訓有如此者。……若引而伸之、可以肥一國焉、則關雎・鵲巢之化、斯不遠矣。若 推而廣之、可以肥天下焉、則姜嫄・文母之風、斯不遠矣。豈止於訓四子以聖善、化一 家於仁厚者哉。   夫人 其の家に母たりてより殆ど二十五年、專ら訓誡を用ひ、鞭扑を除去す、常に顔色 を正して諸女婦を訓するを以て、諸女婦 其の心は戰兢し、冰を履むが如し。常に辭氣 を正して諸子孫を誡むるを以て、諸子孫 其の心は愧恥し、市に撻するが若し。是に由 りて下を少過に納め、家を大和に致す、婢僕は終歳 忿爭を聞かず、童孺は成人して 櫝楚を識らず、閨門の内 煕煕然として太古時の人の如きなり、其の慈訓に此の如き者 有り。……若し引きて之を伸し、以て一國を肥すべくんば、則ち關雎・鵲巢の化、斯 れ遠からず。若し推して之を廣め、以て天下を肥すべくんば、則ち姜嫄・文母の風、 斯れ遠からず。豈に四子を訓するに聖善を以てし、一家を仁厚に化する者に止まらん や。 先の例と同じ構造の対句は次の二個所である。  ①    常以正顔色訓諸女婦、諸女婦其心戰兢、如履于冰。    常以正辭氣誡諸子孫、諸子孫其心愧恥、若撻于市。    常以正辭氣誡諸子孫、諸子孫其心愧恥、若撻于市。  ②    若引而伸之、可以肥一國焉、則關雎・鵲巢之化、斯不遠矣。    若推而廣之、可以肥天下焉、則姜    若推而廣之、可以肥天下焉、則姜嫄・文母之風、斯不遠矣。 ①は一句二十字、構造は「常以正○○○○○○、諸○○其心○○、○○于○。」に、②は 一句二十二字、「若○而○之、可以肥○○焉、則○○・○○之○、斯不遠矣。」という構造 になっている。同じ字を用いながら○には対になる言葉を入れて句を作っているのは、先 の「大唐故賢妃京兆韋氏墓誌銘」と同じである。

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ここで白居易が用いた対句をまとめておく。彼は駢儷文のように文全体を対句構造には していない。焦点を当てたい部分、すなわち人物描写の中で用いることが多い。特に称賛 部分に積極的に使用する傾向にある。対句の構造については、構成する枠組みさえ同じで あれば、字数を揃える必要はないと考えていた。その例として「唐銀青光祿大夫太子少保 安定皇甫公墓誌銘」(巻 70)を挙げる。分司東都の職において白居易と同僚であった皇甫 鏞について、彼の処世を次のように対句表現を用いて言う。 當憲宗朝、公之仲居相位、操利權也、從而附離者有之、公獨超然、雖貴介之勢不能及。 及仲之失寵得罪也、 從而縁坐者有之、公獨皦然、雖骨肉之親不能累。 及仲之失寵得罪也、 從而縁坐者有之、公獨皦然、雖骨肉之親不能累。 この句の構造をみると、「□□□□□也、從而○○者有之、公獨○然、雖○○之○不能 ○。」となっており、□の部分は字数が揃っていない。しかし、内容的には対比した対句 構造になっている。字数が揃っていなければ厳密には対句とはいえない、さらに対句部分 を見つけ出すのも困難である。対比部分をみつけにくい字数の不揃いの対句でも、敢えて 同じ文字を使うことによって、対比部分を明確にすることができる。見た目の美しさより も内容重視という姿勢からこのような表現方法になったのであろう。白居易にとって対句 とは、美しさの追及ではなく、あくまでも自分の主張を相手により分かりやすく伝えるた めの伝達手段なのである。 これまでの墓誌銘には、文中に長句対を用いた文体はみられない。同時代の文学者たち が書いた墓誌銘をみてもほとんどない⑿。本来、長句対は議論文などに適した文体であり、 人物の歴史を綴る墓誌銘には適していない文体である。提示した先の二例と合わせて長句 対に共通するのは、骨子となる部分に対句を用いている点である。これは、対句によって 自分の主張を明確にしようとする意図からである。故に白居易は敢えて墓誌銘には不向き な文体である長句対を使ったのである。 時代が下ると、対句は見た目の美しさを追い求める文体となってしまったが、伝えたい 内容を的確に描写するのに優れた文体である。内容を対比させることによって、主張すべ きポイントを浮かび上がらせるのに大変有効だからである。なお、同じ文字を句中に用い て内容を対比させつつ議論を展開する対句法は、双関法と呼ばれ、後に八股文の基になっ た。ちなみに同時代においては韓愈が「書」や「序」の中で議論を展開するのに用いた手 法でもある⒀。これを白居易が墓誌銘の中に取り入れた結果、時代が下り唐の晩年になる と、墓誌銘の内容は人物そのものに照準を合わせるのではなく、議論のみを展開するとい う本来の墓誌銘とは全く趣旨の異なったものも登場することになる⒁ 対句を使用するという点からいえば、白居易の文体は従来の墓誌銘を踏襲した形式に

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なっている。しかし見た目の美しさを追求する従来の対句とは異なり、主張をはっきりさ せるという使用目的になっている。性格、行動、習性等を通して人物像を作り上げるため の手段として対句を利用している。それは被葬者の人となりに触れる部分に顕著な工夫の 跡がみられることからも明らかである。如何なる人物であるのかを字数制限のある中で内 容重視しようとすれば、そこに用いられる文体は自ずと決まってくる。韓愈は意識的に対 句表現を避けながら文体を作り上げた。個々の人物像を作り上げるのに『史記』を踏襲し た文体、すなわち、形式よりも内容により重点をおいていた。白居易は内容重視という姿 勢は韓愈と同様であるが、形式にも拘ったという点において、韓愈とは違った方向で墓誌 銘に独自性を出していた。 第三者のために書く文、なかでもそれを石に刻んで後世にまで残すとなれば、視覚上の 美的効果が重視されるのは当然である。更に墓誌銘は限られた字数の中で凝縮された表現 が求められるので、被葬者についての情報を提供するよりも修辞を使うことによって見た 目の美しさへ専ら意識が働く、駢儷文を用いた文体が主流であったのはこうした理由によ る。そこで極めて形式的な内容に終始し、結果、表現の類似した墓誌銘が唐代半ばまでは 多く作られてきた。 見た目の美しさに意識がいくと、修辞のための修辞になってしまい、内容が希薄になっ てしまう。これまでの墓誌銘はこの形に陥ってしまったものが多々ある。白居易は修辞に 気を配りつつ、如何に内容重視の墓誌銘をつくることができるのかを考えたのである。詩 文は人のためにつくるのであって「文の爲に作らざるなり」という立場に立って如何に人 物描写すべきかを考えた。駢文をもちいるということは、確かに見た目の美しさを満たす には十分であろう。しかし、もっとも言いたいことが曖昧になり、形式にとらわれすぎて 内容が薄く十分な描写ができない恐れも否めない。白居易の方法であれば、それらの短所 を補完することができる。この文体は見る側に被葬者の人物像をはっきりと訴えることが でき、称賛を含めて分かりやすく伝達する効果も生み出すことができる。 墓誌銘を書くとき、内容と見た目とを融合させることを念頭に置き、内容伝達において もっとも優れた文体、且つ見た目の美しさも損なうことのない文体を選択し、墓誌銘の描 写の中に取り入れ、人物を描写する際に自らが最も言いたい部分を読み手にわかりやすく 伝達する方法、それが白居易の選択した文体だといえる。 3.余慶について ところで、白居易は墓誌銘の中で被葬者のマイナスイメージに繋がる情報には決して触 れない。墓誌銘の果たす役割を考えれば当然であり、これまでの墓誌銘の形式も同様で あった。しかし、人間性を明確に表そうとするのであればこれは伝達情報に偏りを生じ

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る。同時代の墓誌銘の中には、従来の称賛内容のみを書くのではなく、あくまでも事実伝 達をしようとして人物像を作り上げるものも登場する⒂。場合によっては、被葬者に対す る批判を墓誌銘の中に書き入れたものもある⒃。しかし、白居易に関して言えば批判的な 内容は含んでおらず、あくまでもマイナス要素は排除する態度を貫いている。これは白居 易の書いた墓誌銘の特徴というよりも彼の性格が反映された結果かもしれない。人物称賛 のみに終始するのではなく、周辺状況を記述することによって、結果本人称賛に繋ごうと する、これは積極的に人間を肯定しようとする姿勢の表れであり、白居易の人間に対する 考え方が具象化されたものということもできる。 「唐故虢州刺史贈禮部尚書崔公墓誌銘」(巻 70)では、被葬者である崔玄亮が臨終の際 に、自分は満足のいく人生であったことを振り返る場面を次のように記述する。   嗚呼、公之將終也、遺誡諸子、其書大略云、吾年六十六、不爲無壽。官至三品、不爲 不達。死生定分、何足過哀。   嗚呼、公の將に終らんとするや、諸子に遺誡す、其の大略を書して云ふ、吾れ年 六十六、壽無しと爲さず。官は三品に至る、達せざると爲さず。死生定分、何ぞ過ぎ て哀に足らん。 「壽」を全うし、十分な官に達したという思いを子に告げ、天命によって決められた生死 を受け止める姿勢を綴っている。一方、「唐故武昌軍節度處置等使正議大夫檢校戸部尚書 鄂州刺史兼御使大夫賜紫金魚袋贈尚書右僕射河南元公墓誌銘」(巻 70)では元稹の人生に ついて、白居易自身の感想として、次のように言う。   執友居易、獨知其心、以泣濡翰、書銘于墓曰、嗚呼微之、年過知命、不謂之夭。位兼 將相、不謂之少。然未康吾民、未盡吾道。在公之心、則爲不了。嗟乎哉、道廣而俗 隘、時矣夫。心長而運短、命矣夫。嗚呼微之、已矣夫。   執友居易、獨り其の心を知り、以て泣きて翰を濡らして、銘を墓に書きて曰く、嗚呼 微之、年知命に過ぎたり、之を夭と謂はざらんや。位 將相を兼ぬ、之を少と謂はざら んや。然るに未だ吾が民を康くせず、未だ吾が道を盡さず。公の心に在りて、則ち了 らざると爲す。嗟乎、道廣くして俗隘す、時なるかな。心長くして運短し、命なるか な。嗚呼微之、已ぬるかな。 位、人臣を極めたが、満足のいく結果を残すための十分な時間は与えられなかったが、そ れも天命として如何ともし難いと嘆き悲しんでいる。

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この二例、どちらも天によって人生が決められていることには共通点がある。前者は満 足のいくものとして受け止め、後者は受け入れざるを得ないものとして表現されている。 一見相反する状況にみえるが、不遇であったとは言っていない。後者の場合も仕方のない ものとしながらも決して不満を述べるような表現ではなく、与えられた生涯を肯定しよう としている姿が窺える。結局のところ、二例ともにプラス要素のみを表現したものであり、 人生を肯定する形で表現されている点では白居易の前向きな姿勢がここでも表れていると いえよう。 プラス要素しか書かないとはいっても、マイナス要素が生じた場合にそれを避けてし まっては正確な人物像を記述していくことにはならない。この点をどのように克服するの かが課題となるが、白居易はどのように対処していたのであろうか。 「唐楊州倉曹參軍王府君墓誌銘」(巻 42)では、才能がありながら、官位に恵まれなかっ た王恕について、次のように言う。   而才爲時生、道爲命屈、名雖聞於天子、位不過於陪臣、鬱鬱然歿而不展其用者、命矣 夫。古人云、有明徳大智者、若不當世、其後必有餘慶。今其將在後嗣乎。不然者、何 乃徳行・政事・文學之具美聚乎公之三子乎。天其或者殆將肥王氏之家、大王氏之門、 以甚明報施之道者也。   而して才は時の爲に生じ、道は命の爲に屈し、名は天子に聞ゆと雖も、位は陪臣に過 ぎず、鬱鬱然として歿して其の用を展べざる者は、命なるかな。古人云ふ、明徳大智 有る者、若し世に當らざれば、其の後必ず餘慶有りと。今 其れ將に後嗣在るか。然ら ずんば、何ぞ乃ち徳行・政事・文學の具美は公の三子に聚まらんや。天 其れ或る者 殆ど將に王氏の家を肥し、王氏の門を大にし、以て甚だ報施の道を明にする者なり。 才能がありながらも陪臣に過ぎない官位しか与えられなかったが、これも天命であるとい う。しかし、その人が「世に當ら」なかったとしても、「必ず餘慶あり」として、子孫が 御蔭を被ることができるのだという。王恕自身は恵まれなかったが、家門繁栄に繋がる役 割を担った人という位置付けをしている。 白居易は、人の一生を、その人だけの枠で捉えるのではなく、眷族という囲みで考えて いる。これは一人の人が持っている容量を使いきる前に亡くなった場合、残った量を子孫 にプラスするという考え方であり、もしマイナス要素に振れたとしても、次の世代にはよ り多くのプラスに振れることになり、大局的な目でみると、マイナスがプラスによって相 殺される。これは古から陰徳陽報という考え方のもとに脈々と受け継がれていたものを継 承している。こうして白居易は若し不遇な場におかれた人物であっても、決してそれは不

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幸なことではないと考え、ひいてはマイナス要素は墓誌銘の中に書かない、いや書く必要 がないという姿勢を貫くことになっていったと考えられる。更に祖先がより多くの善行を 残してくれた場合には、その恩蔭を子孫が受けるということも述べている。「唐銀青光祿 大夫太子少保安定皇甫公墓誌銘」(巻 70)では、長い間、僚友としてつきあってきた皇甫 鏞について次のように恩蔭のあったことを述べている。   公自將仕郎累階至銀青光祿大夫、自武騎尉累勲至上柱國、自布衣而佩服金紫、自旅食 而廟饗祖考。封爵被乎身、褒贈及乎先、官品蔭乎後、大其門、肥其家。儒者之榮無闕 焉。   公 將仕郎より階を累ねて銀青光祿大夫に至り、武騎尉より勲を累ねて上柱國に至る、 布衣よりして金紫を佩服し、旅食よりして祖考を廟饗す。封爵 身に被り、褒贈 先に 及ぶ、官品 後に蔭ふ、其の門を大にし、其の家を肥やす。儒者の榮 闕くる無し。 ここから考えるに、白居易は、人は須らく天から与えられた生を全うすれば、天はそれ に見合った命を人に与える、すなわち誰もが幸せな人生を送るはずであるというポジティ ブな考え方の持ち主であった。だからこそ起こった出来事をすべてプラス志向に捉えよう とし、そのままに人物を描いていたのだと言える。「餘慶」という考え方は、彼が墓誌銘 を書く際、人となりに触れるにあたって、すべての行動、出来事をプラスにもっていくた めのアイテムとなった。もちろん、そのためには天の存在を肯定する立場になければなら ないことはいうまでもない。 白居易の手掛けた墓誌銘を内容面からみてみると、友を憶い家族を想い、生きるものす べてを大切にする心が投影され、そこに書かれている人間に多くの愛情を注いで描いてい る点がみつけられる。この姿勢は彼の文学全体を通してみることのできる特徴でもあり、 ここから彼の人間に対する考え方もわかる。社会をよりよくするための努力を惜しまな かった人物こそ彼の求めた人物像であり、それが白居易の人間に対する思いでもあった。 白居易の周囲で夭逝した人が多いということも彼の考え方に影響を与えていると考えら れる。彼の兄弟の中では、末弟の白幼美が九歳という若さで他界している。また、白居易 には永い間男子がいなかったが、ようやく生まれた子が三歳で亡くなっている。それより 前に生まれた女子もやはり三歳で亡くなっている。家族を亡くした悲しみが、文学の中に 少なからず影響を与えるのは、白居易に限ったことではない。しかし、彼の場合には他の 人に比べてその部分が大きい。家族を失う悲しみを痛感している白居易は、墓誌銘を書く にあたって、残された人に対する配慮を忘れずにいた。人物を記録していく際に家族を事 細かに記したのも、夭逝する人々を送る悲しみを乗り越え、その人に備わった幸せ、それ

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がどんなに些細なものであっても、それを喜びとして表現しようとした結果である。 おわりに 白居易の書いた墓誌銘には人への優しさ、暖かさが満ちあふれている。被葬者について 書き進めながら、その中に彼自身の考え方が投影されて人物像が作り出された結果であ る。この点は詩作の場合と根本は同じである。 書き手の判断の上に人となりを表現する、すなわち自分の共感できる部分をピックアッ プして人物像を作り上げるのが白居易が書いた墓誌銘の文体である。その中で使われたの が対句法であるが、決して美しく飾り立てようとするものではなく、自分の主張したい部 分にのみ対句を使用した。対句を排除して古文へ戻ろうとした時代背景には、内容が希薄 になり修辞のための修辞に陥ったことが挙げられるが、白居易はこれを内容重視の修辞法 として墓誌銘の中に取り入れたのである。そこには墓誌銘本来の役割、被葬者についての 情報ももちろん遺漏なく記入されている。更に、人となりに触れる時、マイナスイメージ に繋がる情報は書き入れない、かといって、被葬者への称賛のみにも終始しない、諛辞に 陥るような歪めた人物像を作らない、従来の文体を基にしながら新たな形式を作り出し た。 既存の枠組みを壊すことなく、それでいて自らの考えを相手に伝えやすい形式の文体を 白居易は作り上げたといえる。だからこそ宋代以後の範として彼の墓誌銘は受け入れられ やすく、その多くが『文苑英華』に取り入れられたのであろう。 明の王行は『墓銘舉例』の中で、墓誌銘の典型例として韓愈を挙げている。それは内容 重視という点と、史書の形式に基づいた文体という点からである。しかし、内容重視とは いっても、時には本人についての情報を全く書かない場合もある韓愈の文体よりも、内容 重視の文体でありながら駢儷文的要素を含んだ白居易の方が、模倣しやすい文体であると 考えられる。墓誌銘の形式が出来あがったのは北魏時代半ばであるが、内容重視の墓誌銘 に変わったのが中唐である。ここに至って、古文の形式に基づいて書き手の個性を前面に 出した墓誌銘と、内容重視でありながら駢儷文的要素を含んだ墓誌銘とに分かれ、次の時 代へと進んでいった。その一翼を担ったのが白居易である。

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 白居易の墓誌銘は上海古籍出版社『白居易集箋校』(朱金城箋校 1988 年)を底本に用 いた。 ⑴ 白居易の文学論については、興膳宏氏「白居易の文学観」(勉誠出版『白居易研究講 座』第一巻 1993 年)に詳しい。 ⑵ 巻 45「與元九書」 ⑶ 弟の幼美と外祖母に対する墓誌銘。母の死を機に、元和8年(AD 813)、一族の墓所 を下邽に移し、異郷に殯していた父をこの地に迎え入れている。この時、先に亡く なっていた外祖母と弟のために自ら墓誌銘を執筆した。墓誌銘は巻 42「唐太原白氏 之殤墓誌銘」(弟白幼美のもの)、巻 42「唐故坊州鄜城縣尉陳府君夫人白氏墓誌銘」 (祖母のもの)。この二つの墓誌銘は下邽に一族の墓所を定めた時に、改めて作られた 墓誌銘である。 ⑷ 白居易の墓誌銘がほぼ『文苑英華』に収録されているのに対して、柳宗元は、執筆し た墓誌銘約 50 篇中、収録されているのは、約 17 篇である。韓愈に至っては、執筆数 約 75 篇中、収録されているのは「李元賓墓誌銘」と「柳宗元墓誌銘」の二篇のみで ある。 ⑸ 白居易をとりまく環境について言及したものには平岡武夫氏「白居易の家庭環境に関 する問題」(『東方學報』第 34 号 1964 年 3 月)がある。 ⑹ 巻 70「唐故銀青光祿大夫秘書監曲江縣開國伯贈禮部尚書范陽張公墓誌銘」 ⑺ 巻 69「唐故湖州長城縣令贈戸部侍郎博陵崔府君神道碑銘」には「公諱孚、字某、古 太嶽胤也、今博陵人也。唐・虞之際、因生爲姜姓。曁周封齊、分類曰崔氏。」とあ る。 ⑻ 巻 71「醉吟先生墓誌銘」。また一族の墓誌銘の中でも「秦武安君起裔冑、北齊五兵尚 書建五代孫也」(巻 70「唐故溧水縣令太原白府君墓誌銘」)と表現している。 ⑼ 巻 70「唐故武昌軍節度處置等使正議大夫檢校戸部尚書鄂州刺史兼御使大夫賜紫金魚 袋贈尚書右僕射河南元公墓誌銘」。元稹が姉のために書いた墓誌銘の中にも「始祖有 魏昭成皇帝」(『元稹集』巻 58「夏陽縣令陸翰妻河南元氏墓誌銘」)とあり、白居易は これに基づいて元稹の墓誌銘を書いたと思われる。 ⑽ 拙稿「墓誌銘の成立過程について」(『中国学志』大有号 1999 年 12 月)参照。 ⑾ 白居易の翰林学士在任は元和 2 年(AD 807)∼元和 4 年(AD 809)まで。この作品 は元和 4 年に書かれた。

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⑿ 柳宗元の墓誌銘の中には、例えば彼の姉のために書いた「亡姉前京兆府參軍裴君夫人 墓誌」(『柳宗元集』巻 13)など若干類似の長句対をみいだすことはできる。 ⒀ 拙稿「韓 の雙關法について」(『中国学志』師号 1992 年 12 月)参照。 ⒁ 唐末になると、墓誌銘の中に記すべき事柄、官階・人となりなどが欠落するものが多 くなる。例えば羅隠が書いた墓誌銘は議論に終始しているものがある。 ⒂ 拙稿「柳宗元の人物描写と天」(『集刊東洋学』第 108 号 2013 年 1 月)参照。 ⒃ 韓愈は「故太學博士李君墓誌銘」(『韓昌黎集』巻 34)の中で、被葬者に対する批判 にとどまらず、同様の過ちを犯した人物を列挙しており、墓誌銘本来の意図からはず れたものもある。

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