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与那国島海底遺跡説批判: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

安里, 嗣淳

Citation

史料編集室紀要(25): 155-178

Issue Date

2000-03-16

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8024

(2)

史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

与 那 国 島 海 底 遺 跡 説 批 判

安里 嗣淳☆ は じめ に 沖縄県八重山都与那国島南海岸地先の、海水面下にある方形面構成の巨岩は人間の活動 に基づ く遺跡である、 とい う主張は木村政昭氏 をは じめ とする複数の人々によって展開さ lい れている。厳密 にい うと、誰 も遺跡 と して明確 に断定 している訳 ではな く、「遺跡 ?」 と した り、「とて も自然 とは思 えない」 などと主張 しているだけである。その議論の展 開 も 人によってかな り異 なる。ある人はほ とんど印象のみで語 り、別のある人はそれな りに資 料 を分析 して科学的 に迫 ろうと努力 している。現在の ところは、いずれ も決定的な論拠 に 欠けてお り、当の主張者 たち自身 も

「?

」付 きで表現せ ざるを得 ないのが海底遺跡論の実 情である。 この ように、遺跡 と して断定 してい るので もな く、 また複数の主張者が印 象表現 か ら科学的検討 まで、あれ これ の方法で多岐 にわた る主張 を している のが与那国海底遺跡説 の特徴 である。 これ らのそれぞれの議論 に対 して、個 別 に分 けて批判す るのはなか なか面倒 なことである。 しか し海底遺跡説 はテ レビ番組、新聞雑誌 、 はては観光パ ン フ (「海底 遺 跡 ダ イ ビ ング ツ ア ー募 集」)な どで断定的 な印象 で流布 され てお り、同説の主張者 たちはそれ らに 対 しと くに異議 を唱 える様子 もない。 む しろ、同種 の番組 に積極 的 に出演 し た り、談話 を表明 した りして関わ りを もっている。ある面 では総体 として扱 えるのである。

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あ さと しじゅん (史料編集室) 図 1.与那国島の位置 -155・

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したが って、当方 は 「海底遺跡説」が存在するもの とみ な し、海底遺跡説 をめ ぐるあれ これの主張 について、特 に主張者 を特定せず に批判す る。周知の とお り、海底遺跡説の主 な主張者は木村政昭氏であるが、同氏か らはいつ もこの海底 「遺跡」 に関す る資料、文献 の恵与 をうけてい る。昨年 は、琉球大学 において実施 された海底遺跡 をめ ぐるシンポジウ (2) ムにおいて も、私 に批判の機会 を提供 して くださった。その時の議論 を通 して、同氏が真 にその科学的解明 を望み、かつ努力 されていることは十分 に承知 しているつ もりである。 その ご親切 に感謝 し、真 に与那国海底巨岩の正体 を科学的に明 らかに したい とす る情熱 に 敬意 を表 しつつ、同氏 らの説 を考古学の立場か ら批判 してい きたい。 与那国海底遺跡説 に対 して、 これ まで考古学関係者か らの反応 はほ とん ど示 されたこと はなかったが、 これ を機会 に議論 が広 く展 開されることを願 っている。

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「海底 遺 跡 も ど き」 の特 質 と批 判 の方 法 私 は、 この与那 国島南海岸地先海底 に存在する方形構造巨岩 は完全 に自然の造形 と見 て いるので、「海底遺跡」 とは呼 ばず に 「海底遺跡 もどき」 と称す るこ とにす る。批判 を進 め るにあたって まず第一 に確認 したいのは、 この海底遺跡 もどきを仮 に人工 とみた場合、 その特質は何か とい うことである。それは、海底 に横 たわる自然の基盤岩石 (大地)への 人間の 「造作」であるとい うことが指摘で きる。人間が、 自然の岩盤か ら切 り離 した岩石 をさらに加工 し、それ らを積み上 げた りした造形物ではないのである。すでに存在 してい た巨大 な自然の岩 山 を、あたか も彫刻で も施すかの如 く、人間が割 り取 った り、削 り取 っ た りした結果、残 された 自然岩盤があの ような壮大 な建造物 になった とい うことになる。 これが第-の特質である。 もう一つの特質 は、 この海底遺跡 もどきは現在 は文字 どお り海底 にあるが、人間による 造形物 とい うことであるか ら、建造時お よび利用時 には当然陸上 に存在 していたはずであ る。 なぜ なら、人間は水 中生活者ではない し、また現在で さえ も高度 の技術 を要す る水 中 作業 を、はるか数千年前 に行 えたはずが ないか らである。 したが って、 この海底遺跡 もど きは陸上 にあった時 に陸上 に住 む人間によって加工 され、かつ利用 されていた。そ してあ る時期 に陸地の沈降 または海面の上昇 によって海面下 に没 した とい うことである。 すでに述べ た ように私 は人工説 (遺跡説) を否定す る ものであるが、批判の方法 は次 の 点の検証 を進めることで、人工説の成立が困難であることを指摘 したい。 まず、構造物 自 体 に人間による造作作業過程 を示す痕跡が兄いだせ るのか、あるいは完成物 に人工物 とし ての規則性、文化 的造形 な どの人間社会特有 の特徴が表現 されているのか を検証 したい。 次 に、 この ような石造文化が与那 国島をは じめ とす る八重 山諸島や周辺地域 に存在す る のか、あるいはそれ を生み出す石造技術 の伝統が存在す るのか を検証 す る。再度強調 す る が、 ここでい う 「この ような石造文化」 とは自然岩盤 (大地) に造作 された建造物 の こと であ り、城郭の城壁 の ような石積 みの類 の ことではない。 さ らに木村氏が主張するこの海 _1

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56-史料 編 集 室 紀 要 第 25号 (2000) 底遺跡 も どきの推 定年代 と、八重 山先史時代遺跡 の年代 とを比較検討す ることで、 当時 に お ける海 面上昇 、陸地沈降の可能性 の問題 も含 めて、海底遺跡 もどき と、既 に確認 され て い る八重 山先史時代 の遺跡 とが整合性 をもつか ど うか を検証 してい く0 海底遺跡 も どきに人 間に よる文化的産物 としての痕跡や特徴がみ られず 、 しか も周 辺地 域 に類似 の文化 がま った く存在 しない こ とが明 らか になれ ば、海底遺跡説 はその論拠 を失 うこ とにな る。

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陸 (新川 鼻 )

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円 柱 トー テ ム (辛) 凡例 ⊂コ 困 【≡ヨ 八 重 山 層 群 琉 球 層 群 歯 の 方 向 は (砂 岩 ) (石 灰 岩 ) 傾 斜 方 向 図 2,与那国海底遺跡 もどきの見取図 (木村敏昭はかく注1⑤ >より) ∼157 _

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集会場?

園 刑 @ コロシアム (競技場 ?)

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2.

海底 遺 跡 も ど きに加工 の痕 跡 、 文 化 的造 形 が 認 め られ るか 私 は海底遺跡 もどき付近の海岸の観察 を しただけで、実際 に潜 ってみた ことはない。 こ の こ とは、私が この議論 に参加す る上での大 きな弱点であ り、「潜 ったこともない人の論 はモ グ リの妄想 だ」 といわれて もやむを得 ない。 しか し、幸 いにも調査 団が詳細 な映像や 見取 り図お よび模 型 な どの情報 を提供 しているので、ある程度のことは間接 的に観察す る ことがで きる。 これ らの情報 にもとづ く限 りでは、調査者 も言 っていることではあ るが明 確 な加工痕 はみ られない。 また、その加工具 (おそ ら く石器)や削 られた剥片 も発見 され てい ない。木村氏 は近 くの巨岩のなかに、 クサ ビを打 ち込 んで割 るための クサ ビ穴が連続 ・ ∴い 的に残 されてい る と推定で きる地点がある と指摘 している。確かに穴が連続 して見 られる が、それはクサ ビ穴ではない と考 える。 この連続穴群 は、近 くのサ ンこヌ台 と呼 ばれ る陸 上の巨岩露頭 において無数 に観察 される自然穴群 と同類 と見 るべ きである。サ ンニヌ台の 自然穴群 を見 て もわかるように、 この穴群 は連続 してで きる部分 もある。木村氏が指摘す るのは、 この類 の連続穴群が都合 よ く巨岩 の端 に沿 って単一線 として並 んでいる ものなの である。 次 に、 この遺跡 もどきの形態 をみると、 きわめて不規則 である。木村民 らの作成 した見 取 り図をみ ると、対称形構造がほ とんどみ られない。周知の ように、人間に よる建造物の 多 くは、その部分 な り全体 な りを中心線か ら縦方向、あるいは横方向に二分 で きる対称形 構造 をもってい ることが多い。確 かにこの海底遺跡 もどきには直線構造が随所 に見 られ、 部分 的には対蘭こ形 になっていて、いかに も人間による加工の雰囲気 を漂わせ てはい る。 し か し、それは部分 的な形 か らくる印象であ って、全体の構成 として はあ ま りに も不規則 で あ り、対称形構造 に きわめて乏 しいのであ る (図

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)。それは巨大 だか ら都 城の ような対 称形 は造形 で きなか った ともいえそ うだが、 これほ どの壮大 な直線構造 を造 れるのである か ら、全体 的 に もっ と人間の意図が感 じられ るような構造 を造形 しそ うな ものである。 構造物 の形態や構成 に 「見せ る」あるいは 「表現す る」 ことを意識 した形 や装飾 な どの 文化的 な造形 が見 られないことも、遺跡 と しての要件 を欠いている とい うべ きである。そ もそ も、 これほ どの壮大 な規模の建造物 な らば、例 えば宗教 的願望 ・権威、 または政治的 権威 を演出す る装置 として、あるいは集 団 (社会)の習俗 の表現 としてかな り強い意図が 働 いているはずである。 ところが、全体構成 をみ る と巨大 な壁面 を造作で きるだけの技術 をもちなが ら、その構造 はなん とも稚拙 とい うべ きである。すなわち製作者 の 「意図」が つかめないのであ る。遺跡説の主張者が神殿 などと推定す るように、 もしも人工であ るの な ら、 これほ どの構造物 は個人的造作物 ではな く、社会的な産物である。それは何 らかの 宗教 的あるいは政治的 目的に突 き動か された営みであ り、意図や 目的が表現 され、ある種 の様式性 を も備 えているべ きである。 ところが、 この遺跡 もどきはまことに行 き当た りば った りともい うべ き構造 をもち、人為の結果 としては非合理的構造 に満 ちている。あれだ けの面構成 の造作技術 を もちなが ら、規則 的階段 さえ も建造で きないのであ る。周知の よ _1

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58-史料 編 集 室 紀 要 第

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うに、階段 は高 さ、幅が一定の調子で連続 していない と、歩行 に不調和 をもた らす。遺跡 説主張者が階段 と推定する場所 は、段差が不規則 に連 なっている。 これでは歩行者 にとっ ては不規則 に起伏す る山道 と同 じである。要するにこれは自然 にで きた段差構造 なのであ って、高度 な技術 をもった集団の営為ではない。 また、他の面 を見て も精微 な面形成技術 をもちなが ら、装飾 はまった く施 されてない。貧弱 な造形 とい うべ きである。 どこを見て も人間集団の造作の痕跡や、規則性、文化性 は確認で きないのである。 これでは組織 され た人間社会 において、この構造物 を 「見せ る」 ことによって期待 される人民の驚嘆、支配 者 または権威者への畏怖の念 は望めないであろう。 いったい、 この海底の巨岩は何 なのか。 ことは単純である。 この遺跡 もどきは、自然地 形 として巨大 な水平面、垂直面 をもち、 しか もそれが直角 になっている。事実はそれだけ である。人工的な遺跡だ と見 るのはまさにこの点の 「理解の しかた」の相違であ り、 この 域 を出る ものではない。「この ような大規模 な面構成の岩石は、 とて も自然の造形 とは思 えない、人工 としか考 えられない」 とい う、印象的な主張にす ぎないのである。 この巨大 な岩盤の形態 をどう理解す るか とい う議論 は、遺跡説主張者 との間ではおそ ら く水掛 け論 に終始 しそ うである。科学的な議論の展開を相互 に望みなが らも、 この現場の 範囲にとどまっていては、議論 は発展 しそ うにない。私の上記の指摘 さえ も 「印象論」だ と言われればそれ までである。 そこで、第二の批判の方法、すなわちこの ような石造文化 を生み出す社会が、歴史的、 地域的に存在するのか どうかの検証 を進めたい。なぜ ならば、 この海底遺跡 もどきが真 に 人間の残 した一大石造文化であるならば、当然その地域 における伝統的石造文化 を継承 し て成立 した もの と考 えるべ きであ り、与那国島をは じめ八重山諸島に類似の石造文化が存 在 しているはずだか らである。文化は歴史的伝統 とまった く無縁ではあ りえない し、完全 に周囲 と無関係 に、単独 に、かつ単発的に発生 し消滅するものではない。与那国島お よび 八重山諸島、あるいは近隣海外地域 に類似 の石造文化が存在 しないのであれば、その こと だけで も遺跡説 を疑 うに足 るのである。

3。

与 那 国 畠 と周 辺 地域 の石 造 文 化 与那国島 。八重山諸島の先史文化の位置 海底 「遺跡」説 を主張す る人々は、その所属時代 を概ね

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年前 と想定 して いい いるようである。 この年代 の頃の琉球列島は、考古学的研究の成果か らす ると先史時代 で あ り、新石器時代 に属す る。与那国島を含 むこの時期 の八重山諸島には、右署即寺代の人間 (5) が居住 していたことが、すでに考古学的に も確認 されている。 したが って、海底 「遺跡

の推定年代 は、絶対年代 のみに関 しては整合性 をもつ といえる。問題 は、その ような石造 文化が この地に存在 しえたのか とい うことにある。具体的な石造文化 を検証す る前に、与 那国島 リヽ重山諸島が琉球列島お よび東 アジアの先史時代 のなかで どの ような位置にある -1

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59-のか を確認 してお きたい。 琉球 諸 島の新石器時代 は、大 き く二つの文化 圏 に区分 され る。一つ は奄美 ・沖縄諸 島 を 範 囲 とす る北琉球文化 圏で、九州 の縄文 時代 の人 と文化 を源流 に してい る。 もう一つ は宮 古 ・八 重 山諸 島 を範囲 とす る南琉 球 圏であ る。未 だ南琉球圏の具体 的 な系譜 はつかめない が、石器 ・土器 ・月器文化 の内容 か らみ る と、東南 アジアに類縁性 を もってい る。与那 国 島 を含 む八重 山諸 島は北 の 日本 の縄文文化 とも弥生文化 ともほ とん ど関連 を もたないので あ る。 したが って、石造文化 を検証 す る場合、南琉球文化圏お よび東南 アジア方面 におけ る石造文化 の様相 に重点 をお くのが妥 当であろ う。 なお、南琉球 の新石器 時代 は前期 と後 期 に時期 区分 され、前期 は概 ね

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年前 、後期 は

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(一部地域

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年前 に属 す る。 与那 国島の石造文化 (1)トウグル浜遺跡 (先史時代 ) まず先史時代 の与那 国島 をみ る と、現在確実 に先史時代 (新石器 時代 ) に属す る遺跡 と して知 られてい るのは、 島の北海岸、与那 国空港 の東端部 の海岸 にあ る トウグル浜遺跡で (7) あ る。 この遺跡 を残 した人々は、前面の海の月や魚 な どの 自然物 を採 って 日々の暮 ら しを 支 えてい た。農業 は まだ始 まってい ない。鉄 の道具 はな く、 日常生活 の主 な道具 としては 石器 を使 っていた。石斧 はか な りの数が 出土 してい る。その材料 と しての岩石の 自然分布 は与那 国島 にはほ とん ど見 られない ことか ら、かれ らは他 の島 との往来 の手段す なわち舟 を製造 、操作 す る技術 を もってい た と考 え られ る。石器のほか に、貝殻 を利 用 した道具や 飾 りもあ る。遺跡 の発掘状況か らみ る と、あ る程度 の まとまった集団の形成 は うかが える が、原 始共 同体 の段 階 にあ った とみ るべ きであろ う。階級社 会 にみ られ る ような権力 の装 置 と しての構造物 (砦 な ど)や他 と区別 された特別扱 いの墓 、人骨 、副葬 品な どは発見 さ れてい ないのであ る。かれ らが暮 ら してい た トウグル浜の石灰岩地帯 は離水 した礁原 で、 標 高5-7m程度 、岩場 の間にで きた赤土 の平場 であ る。一帯 の地形 を集 団の生活環境 の ため に、特 に改造 ・整備 した りした痕跡 はな く、 自然地形 の なかの適 合地 をその まま利用 しただけであ る。 この遺跡 において石 を素材 とした文化遺物 は、すで に述べ た ように石斧 な どの携帯可能 な小形 の生活用具 だけであ り、岩盤 や巨岩 を加工 した遺構、 あるい は石垣 、右列 な どの石 組遺構 は まった く存在 しない。原 始社 会 にあ って も、巨石墓 な どのあ る程度 の石造文化 は 発達 しうるのであ るが、 この地域 においてほそれ さえ も見 られないのであ る。

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) ス ク時代 それ では階級社 会形成後 は どうだろ うか。琉球列 島のほ とん どの地域 と同 じように、与 那 国島で も概 ね12世紀頃か ら農耕 や鉄器使用 が普及 し、外郭 との交易 も展 開 され るように なってい た もの と考 え られ る。-一般 に八 重 山地域 では、13世紀前後 に奄美徳 之島産の カム イヤ キ陶器 や長崎産の滑石製石鍋 、お よび中国産 の 白磁が、外 来の物 質文化 として流通す -160ー

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史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) る ようになる。先史時代 までほ とん ど通行 のなかった北琉球 との文化的共通性 も、 これ ら の交易活動 によって しだい に形成 されてい くようになる。同様 に外来の米や麦の栽培 も普 及す るようにな り、農耕社会すなわち生産経済への道 を歩みつつあった。 その ような経済 的変化 に動か されて、社会的には階級社会が形成 されてい き、各地 に首 長層が集落 を支配 していた もの と考 え られている。13世紀前後の資料 は考古学的に も不十 分 だが、14世紀以 降の遺跡、遺物 は比較的多い。生産経済、階級社会へ と展 開 したこの時 代 は、沖縄諸 島ではグス ク時代、八重山諸 島は 「ス ク時代」 と称 されている。 (8) 与那国島では、 この時代 の遺跡のひ とつ に、与那原遺跡がある。近 くに丘 陵 と崖地 を控 えた内陸部の赤土 の徴高地 に形成 されてい る。おそ ら くは農耕生産のために内陸部の開発 が進 んだ段階の遺跡 で、階級 的な統率者 によって まとめ られた集落 を形成 していた もので あろ う。一つの丘 を占拠 した構造 は、非常 時 における砦 としての機能 ももっていた と見 ら れ る。 しか し、石造構築物 は発掘の結果 まった く検 出 されなか った。石垣 さえ も存在 しな い 。 ((り それは西海岸の久部良にあるほぼ同時期、お よびそれ以降の慶 田崎遺跡や島内の他 の類 似遺跡 も同様 で、いずれ も石造構築物が ないのである。 中国産の青磁 、外来 の褐粕陶器 な どは豊富 に出土 している。外部世界 か らの渡来 による ものか、あるいは島の人々の渡海か については、おそ ら く前者が主流であった可能性 はあるが、いずれに して もこの時期 に東 アジア世界 の物質文化や情報 に直接 間接 に接 していたわけである。 したが って、外部世界 の石造文化の情報が伝 え られ る環境 にあった と考 えることもで きる。考古学 的にはグス ク 時代 と称 されるこの時代 の琉球列島には、沖縄島 を中心 に高地 に石垣積みの砦すなわちグ ス クが築かれていた。石垣 島のフルス ト原城跡や、隣の波照 間島の下 田原城跡 に も石垣積 みの城壁がある。 しか し、 この時期 の与那国島には、近隣地域 の石造構築物 に類似す る砦 さえ も存在 しないのである。スク時代 の与那国島に も、石造文化 はそれほ ど発達 しなかっ た と言 える。 それでは、 与那国島で石造文化が展 開 されるのはいつの ことであろ うか. 島には石垣囲 いの屋敷や拝所や墓 が今で も見 られ る。 これ らは どうや ら早 くて も15世紀、一般的には17 世紀以降で、硯在 の集落の前身であ るムラ跡 と同時期以降の ことであ る。現在の祖内集落 の束の墓地 は、 このムラの成立後 にで きた と見 られ るが、 自然岩盤 を一部取 り込 んで加工 を施 し、墓 を造成 した ものがある (写真1)。 これは海底 「遺跡」 の 「自然岩盤 (大地) への造作」 に部分 的 には該当す るといえる。 しか しこれ らは沖縄各地 に見 られる中国南部 の影響 を受 けた墓の基本的型式 を踏襲 してお り、近世以降の築造であるとい える。要す る に、先史時代 はおろか、14世紀頃 までは、与那国島には石造物 を建造す る文化は存在 しな か ったのであるO また、 これ らの石造構造物 は墓の一部 を例外 として、ほ とんどが大地か ら切 り離 された岩石 を加工 して積み上 げた りした ものであ り、海底遺跡 もどきの構造 とは 根本的に異 なるこ とも確認 してお きたい。 ところで、海底遺跡説 を主張す る人々が好 んで紹介す る与那国島の巨大石製容器 (水 夕 _ 16 1

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-ンク) は、現在 で も集落の屋敷の庭先 に置かれてい るのが散見 で きる (写真

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)。雨水 を 確保 して使 う島の人々の暮 らしのなか に、石造文化が根 を張 っているかの ように見 える。 砂岩 を くり抜 いた ものであるが、実 は与那国 における起源 はそれほ ど古 い伝統ではないの である。現在 の ところ、それが遺跡 において確実 に伴 っているのは

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世紀前後 に形成 され た集落 「島仲遺跡」 であ り、む しろ近世以降に盛 んになった ものである。島仲遺跡 はムラ 跡 として知 られ、 島の高台 に存在す る。屋敷跡が点在す るが、その一角 に砂岩製の容器が 今 で も残 されてい る (写真3)。 これはムラに属 していた もの と見 な して よいだろ う。そ れ以前のス ク時代 の遺跡か らは確認 で きないので、 この種 の石製容器 は現在 の ところこの 時期 までである。 なお、 この ような石製容器 は大 きさの差異 はあるが、沖縄諸島の農村地 帯 を中心 に、かつ ては広 くみ ることがで きた ものである。与那国島や粟国島では、特 にこ れが発達 した。 ところで、島の南側の比川集落 に近い海岸 に巨大 な砂岩が数個転が っていて、それに穴 列が ほぼ中央 に並 んでいるのがある (写真

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)。 これは明 らか にこの石 を割 るためのクサ ビ石の穴列である。海底 「遺跡」説 を主張す る人の なかには、 これ も古 い時代 か らの伝統 的な石造文化 の証拠 だ といいたい ような意味の発言が聞かれるが、 これ こそ島仲遺跡や現 在 の集落内でみ られ る類 の砂岩製容器の造 りかけなのである。時代 は当然、 島仲遺跡の時 期以降の ことであ り、主 に近世以降∼最近 に属すべ きものである。島の原始古代 とも、そ して海底遺跡 もどきとも、石造文化 としての系統的なかかわ りはない0 南琉球の石造文化 それでは範囲 を広 げて、八重山 ・宮古諸島の石造文化 は どうであろうか。隣の西表島、 、い[1 波照間島お よび石垣 島にはい くつかの先史 (石器)時代遺跡がある。それ らの多 くは海岸 近 くの低 い赤土台地か海岸砂丘 に形成 されていて、標高は3m-10m程度 である。 かれ らの 日常 の道具は石斧が主流 を占める。ほかにひと抱 えほ どの大 きさの砂岩 に研磨 溝 をもつ石器製作砥石や、舟の錨 とみ られる孔のあいた石環 などがある。 しか し、石垣積 みの文化 は未 だ始 まっていない。遺跡 。貝塚 か らは原始社会集団の暮 らしを窺わせ るもの だけで、特別の石造構築物 は存在 しない。 次 に 「ス ク時代」 をみ る と、内陸部 も含め小 高い丘 に遺跡があ り、一部 は

○スク」 (ll) (】

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)

なぜ の ようにグス クの イメージで呼 ばれてい る。例 えば 「ビロースク遺跡」、「石城山遺 (13) (14) (15) 跡」 などが ある。一部 には、波照 間島の下田原城跡や石垣 島の フルス ト原遺跡の ように、 石垣 をもつ もの もある。 また、同時期 か どうかは未確認 だが、い くつかのス ク遺跡 におい て巨大 な板状 の岩石で墓 を構築 した もの もある. 中国陶磁器 も多数出土す る0-万、小高 い丘 とは別 に平地 にムラ跡や拝所があ り、ほぼ同時期 の中国陶磁器 も出土す る。 この時期 は、鉄器 と農耕生産の普及お よび交易 に支え られた階級社会が出現 し、地方首長層が統率 していた ようであ る。 しか しここに も海底遺跡 もどきの ごとき、 自然岩盤 を加工 して構築 物 を造 り出す とい う文化 は存在 しない。 -16

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2-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) (1() (17) 宮古諸島の新石器時代 の遺跡 としては、宮古 島城辺町の長間底遺跡、浦底 遺跡、多良間 、1.i、 島の添道遺跡 が知 られている。いずれ も砂丘地 に立地す る もので、石斧や貝斧 を主 な道具 とし、石造文化 は未 だ始 まっていない。ス ク時代 か ら近 酎 こかけては有名 な 「ミヤ-カ

と呼 ばれ る巨大石造墓が各地 にある (写真5)。一部 に自然岩盤 を取 り込 んで加工 し、 さ らに石組 を加 えた もの もあるが、多 くは巨大 な板状岩石 を削 り出 し、 これ を組み合 わせ た ものである。それ らのなかで規模が大 きいのは宮古平 良市内にある知利真 良豊見親 (トウ イ ミヤ)墓 、仲宗根 豊見親墓で (写真

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)、石灰岩の基盤 も取 り込みつつ、切 り石積み を 組み合 わせ た ものである。 また、砦の構造 をもつ石垣積みの遺跡 もあ り、在 地土器 ととも (1!)) に中国陶磁器 が多量 に出土する。例 えば、城辺 町の高腰城跡がある。集落の跡である元 島 (ム トウズマ)遺跡 も多 く、ほぼ同時期 の中国陶磁器 なども出土す る。すで に階級社会 に 入 っていた と考 え られているが、与那 国海底遺跡 もどきの如 き巨大石造構築物の文化 はみ られ ない。 台湾の石造文化 台湾 には、現在 のいわゆる原住民の祖先 とみ られ る人々が石器時代 か ら居住 していて、 各地 に多 くの遺跡 を残 している。主 に東南部 に石造文化が多 くみ られるが、結論 か らい う と自然岩盤 を加工 した巨大構築物の文化 はない。 しか し、南琉球 と比べ る と石造文化 はか な り発達 している。例 えば家屋 の壁や屋根 に至 るまで巨大 な板石 を組み合 わせ た もの を主 体 とす る部族 も少 な くない (写真 7)。 また住居 だけで な く、周 囲の屋敷囲 い を家屋 の庇 よ りも高 く積 み上 げ、 その上 を通路 にす る集落 も蘭峡 (紅頭峡) な どに存 在 す る (写真 8)O さ らに巨大 な石棺 を一枚 岩で削 りだ した もの、巨大 な容器 な どが餌 られ る (写真 (20)

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。先史時代 には有名 な卑南遺跡 に見 られ る ように、薄 くて巨大 な板石 を組み合 わせ た 石棺墓 が流行 した地域 もあった (写真11)。 この石棺墓 の板石 はあたか も人 間が石 を板状 に加工 したかの如 く見 えるが、頁岩の板状剥離 (節理)の性質 を利用 した ものである。他 に も石造物が あるが、いずれ も可搬性 の ものである (写真12)。台湾 におい て も、与那国 海底 遺跡 もどきの ような、 自然岩盤への加工 による構築物 は見 られないのである。 フィリピンの石造文化 台湾南東海域の蘭峡 (紅頭映)か らバ シー海峡 をはさんで フィリピンのバ タン諸島が連 (21) なってい る。 この島々には、海岸 に近 い丘の上 にイジャンと呼ばれ る遺跡が分布す る。一 見す る と沖縄 の グス クの如 きであるが、出土遣物 は今の ところ不 明で時代 的位置づ けはわ か っていない。石積 み によって区切 られている もの もある。丘の上 にはイジ ャン以外 に も 土器 や石器 を伴 う遺跡がい くつかあ り、表面 には円磯が多数見受 け られる。 これ らの円磯 は もともと海岸 に無数 に存在す る もので、おそ ら く人間によって丘の上 まで運 ばれ、敷 き つめ られた ものであろ う。 -163・

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CROSSISECTION OF SAVIDUG IJANG SHOVIING MAJOR FLOOR LEVELS OF DIFFERENT ELEVAT10NS .

THE SAVIDU6 lJAN6 1N PERSPECTIVE VlEW AS SEEN FROM ITS NORTHEASTEN 日ORDER。

図3.フ ィ リピン ・バ タン諸 島の 「イ ジャン」遺跡 見取図 (DIZOllはか く注21>よ り) _164

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-史 料 編 集 室 紀 要 第 25号 (2000) I. ∴ ∴ ∴ _ -ド

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図4.フィリピン ・バタン諸島の舟形配石墓 (上)と現在 に残 る石柱式倉庫 (下) (DIZOnはかく注21>よ り) また、バ タン島の伝 統的な集落では、家屋 に石製 の柱 を使 っていた。石柱 の上端 に孔 を 開 け、 これ に木 の桁 を載せ て屋根組 を結合 させ るので あ る (図4)。 その石 柱 を切 り取 っ た痕跡 が、今 でも海岸 の岩場 に残 され てい る。先史時代 の遺跡 には丘の傾斜 面に石積 み を 築 いた もの もあるが、大規模 な石造構 築物 はない。石斧 な どの石器 文化 は発 達 してい る。 _165 _

(13)

(23) フィリピンの先史時代 は洞穴遺跡が多い。八重山に近い カガヤ ン州は、カガヤ ン川沿い 、.■1■ や、近 くの石灰岩 の丘の傾斜面 な どに大月壕が残 されてい る。いずれの タイプの遺跡 も、 巨石の構築物の文化 は存在 しない。 フィリピンの首都マニ ラには有名 なサ ンチ ャゴ要塞が あ り、周囲は高い石垣 で囲 まれた都城 を形成 している。河 口に面 した場所 に壮大 な石造の 砦が構築 されてい る。 また、 ミンダナオ島サ ンボアンガの ピラール要塞 も壮大 な石垣積み の城郭である。ほか にネグロス島の ドウマゲ ッテ ィ市 に も石垣積みの城砦がある。 これ ら は西洋のスペ インが、 フィリピンの植民地統治 を貫徹す るめに築いた ものである。 さらに南の国々にい くと、カンボジアのアンコールワ ッ ト、 タイのス コー タイやアユ タ ヤ王朝 時代の ワッ ト (寺院) (写真

1

4)

、ジャワのジ ョグジャカル タのボ ロブ ドール (写真 15)その他 の遺跡 な どがあるが、いずれ も巨大 な石造 またはラテライ トの構築物で、石積 み構造 である点が共通 している。 これ以上の例 を挙 げるの を控 えるが、 これ までに見て きた石造構築物 は、すべて 自然岩 盤か ら切 り離 され た岩石 を加工 して、 これ らを組み合わせ て構築 した ものであるとい うこ とが指摘で きる。 まさにこの点 こそが、与那国海底遺跡 もどきとの決定的な相違点であ る ことを強調 してお きたい。 沖縄の クスク 北琉球圏の沖縄 諸 島にグスクと呼ばれ る城郭 をもつ砦が多 く分布す るが、 これ らも石垣 を築 くための基礎 部 として部分的に自然岩盤 を削 ることはあって も、それ 自体 を全体的に 加工 して構築物 を形成す ることはない。は じめの頃

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世紀前後) には

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セ ンチ前後 の 自然 の石灰岩塊 を積み上 げていたが

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世紀頃か ら切石積みの高い城壁が築かれ、アー チの門 も出現す る。城 門付近の石積みは特 に布積み になっていることが多 く、長方形の比 較的大 きな切 り石 を赦密 に積み重 ねている。-一部 に石垣積みでな く城壁 に相 当す る崖部が 掘 り切 り構造 (長 く延 びた丘陵の基部側 を人工的に掘 り切 って大 きな溝 とす る) になって いるグス クもある。 これは主 に奄美地域 において よ く見 られ る。

5.

海 底 遺跡 も ど きの推 定 年 代 をめ ぐって 木村民 らは、与那国海底遺跡 もどきに付着 したサ ンゴ類 による年代測定値 などを参考 に して、遺跡の年代 を約

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年前 と推定 してい る。 この年代 の幅はち ょうど八重 (25) 山先史時代 (新石器時代)の前期 にあたる。す なわち隣の波照間島の下田原遺跡か ら与那 国島の トウグル浜遺跡の時代 にかけて とい うことになる。単 に年代 だけについていえば、 海底遺跡 もどきと与那国島を含 む八重山諸 島の石器時代 とは並行す るので、年代上の矛盾 はない。 ところが、実 はその こと自体が重要 な問題 とな り、矛盾 をは らんで しまうのである。そ の矛盾か らも、 この遺跡 もどきは人工 ではあ りえない とい うことが言 えるのである。す な -1

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66-史 料 編 集 室 紀 要 第

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)

わち、人間の作 りだす文化 は単独で、近隣 と何 のかかわ りもな く成立す る ものではないは ずである。 また、前後の時代 に何の脈絡 もな く突然天か ら降 って湧いた ように出現 し、 し か も後 の時代 に文化 的影響 の痕跡 も残 さない、 などとい うことはあ りえない。 しか しなが ら、 これ まで見 て きた ように、与那国島をは じめ周辺地域 には、 この ような類の 自然岩盤 構築物 は、推定 されている上記の時代 にはまった く存在 しない (写真

1

6-2

0)

。それ どこ ろか、その後 のいず れの時代 にもまった く存在 しない し、その物質文化の伝統の片鱗 も残 されてい ない。仮 に この ような石造文化が真 に存在 していたならば、それ を出現せ しめた 当時の社会の さまざまなこ とが らも含 めて、せ めて口碑伝承の類で も残 されていそ うな も のであるが、それ さえ も確認 されていない。 この ことか らも、海底遺跡 もどきの存在 は疑 うべ きであ り、明確 にい うな らば否定 されるべ きであ る。 次 に、 この海底遺跡 もどきの下限年代が約

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4

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年前 だ とす る と、水没 したのはそれ以 降の時代 とい うこ とになるoそ うす る と、一帯 に約

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年 前以降の陸地の部分 的沈降 を 示す断層 があるはず であるが、木村氏 も認め るようにそれは未発見 である。 ここで強調 し てお くが、陸地の沈降はあ くまで も部分的であって、与那国島全体であってはな らない。 なぜ な らば、約

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0

年前以 降 も反対側 の北海岸の トウグル浜遺跡 は存在 している し、 さ らにその後 はス ク時代へ と継続 しているか らである。す なわち、海底遺跡 もどき一帯以外 は (それが真 に遺跡 であればだが)、新石器時代 以降 は島全体が まった く沈降 して しまっ た とい うことはないのである。木村氏の期待 す る部分 的断層 は存在 しない と見 るべ きであ る。 それでは逆 に、海面が上昇 した と考 えることは可能 だろうか。それ もまた否である。 な ぜ ならば、すでに述べ た ように海底遺跡 もどきと時代 が重 なる (とい うことになる)波照 間島下 田原遺跡 。大泊浜遺跡お よび与那国島 トウグル浜遺跡 は海岸 に存在す る遺跡 で、標 高は

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程度 で ある。現在の砂丘 につ なが る文化層 をもち、現在の海水面 とほ とん ど 変 わ らない環境 下で生活 していたことは明 らかである。 つ ま り

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年前 は現在 の海水面 とほ とん ど同 じなのであるo与那 国海底遺跡 も どきが真 に人間 と関 わる遺跡 だ とす る と、当時 はその遺跡 もどき付近の海水面だけが、段 差 をな して約

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0m

ほ どの海水 の崖があった、 などとい うマ ンガみたいな話 になって しまう のである。海水面上昇 に原 因 を求め ると、陸地の変動 はなかったわけだか ら、海底遺跡 も どきの位置 はその まま (硯海水面下約

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であ り、なおかつ北海岸の トウグル浜遺 跡 や波照 間島の下 田原遺跡 は硯海水 面 よ りも上 の

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0m

とい う条件 を同時 に満 た しつ つ、なお も海底遺跡 もどきが水面下 に没 した とい う、混乱 して しまいそ うな展 開になる。 これ を満 たす には、 その頃海底遺跡 もどき付近のみが海水面の巨大 な窪み になっていて、 約

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0

年前以降 に窪み に海水が入 って付近 と同 じ面 になった とい う、お よそ理解 で きな い現象 となる。 この ことか らも、海底遺跡 もどきは人工 ではあ り得 ない。 ところで、最近木村氏 は与那国島海底遺跡 もどきの近 くの陸地 にある 「サ ンこヌ台」の 水平面 ・垂直面構造 の地形 の一部 も人工だ と主張 している。現在 も造形作用が進行 中の 白 .167

(15)

-然現象 さえ も人工 だ とす る主張 は、い ささか度が過 ぎるのではないか (写真23)。私 も現 地 を何度か踏査 したが、 この岩石は水平 ・垂直方向に割れる性質 をもってお り、 また縁取 りを残 して窪みが形成 された り、小穴が連続 的に形成 され る特徴 も備 えてい る。視覚的に はいか に も人間 に よる造形 を感 じさせ て興味深 い (写真21-26)。 しか し、それだけの こ とである。 また、サ ンニヌ台の現在の岩石表面 にある焚 き火跡 も、当時の もの と推定 した が っているが、資料 の取扱 いの方法 としては安易す ぎる。 この場所 は釣 り場 として親 しま れてお り、かれ らが暖 を とるために焚 き火 を した り、魚 を焼いた りした痕跡の可能性 の方 が大 きいので はないか。そ うで ないに して も、そ う反論 しうる余地 を残 した推定方法 は、 単 なる印象論 に終 わって しまうのである。

6

. お わ りに 一 時空 を越 えた議論への疑問 木村氏が真 に科学的 に海底遺跡説の検証 を進め ようと努力 されているこ とは承知 してい るが、氏 を と りま く人々を含 めた全体的な議論 は時空 を越 えた安易 な類似論 になっている ように思 う。 ただ単 に各地の珍 しい もの をあれ これ並べ て、与那国の海底遺跡説 に結 びつ ける傾 向があ る。一部 には階級社会における都城 的機能 まで推定す るなど、社会 ・経済の 発展段階 を軽視 した議論 さえある。 また、沖縄本 島の グス クの城壁 に似 てい るな どとい う の も、時代 や文化 の系統 を無視 した印象論 である。やれムー大陸だ とか、古代 の ロマ ンだ な どとい う発想 に与 した り、最近流行 り (

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)の 「超古代 史」 なる ものの枠組みで議論 し た りす る方法か ら脱 して、真 に科学的な議論 を共有 したい ものである0 木村氏 も参加 して複数の人々によって書かれた、海底遺跡 もどきと他 の珍 しい素材 など を扱 った本 が出版 されている。た しかに各章 は別 々の人間が責任 をもって執筆 してい る。 例 えば沖縄本 島で発見 されている刻画石 に関す る論文は、 よ くまとめ られた優れた内容 を もってお り、刻画石その もの を理解す るの にたい- ん貴重 な情報 を提供 している。 しか し なが ら、 この本 の項 目の多 くは海底遺跡 もどきを遺跡 と信 じ、かつそれ を強化す るために あれ これの珍 しい現象 を扱 っているように思 うのである。沖縄 の歴史 と文化 に関す る関心 が高 ま り、 よ り多 くの人々がその調査研究の場 を共有す ることは、民主的 な学問 を振興す る うえで重要 な ことではある。 しか し同時 に、単 なる古代史 ブームに浮かれ、あや しげな 「超古代史」論者 たち と同次元 だ と誤解 されかねない参加の しかたを憂 えるのであ る。 今後、与那 国海底遺跡説が人類史や地域史 における社会 ・経済の発展段 階 をふ まえた議 論 と して展 開 され ることを期待 したい。ただ し私 は 自然 の造形物 だ と確信 してい るので、 む しろ自然 の造形作用 の面 白さ、素晴 らしさに関心 を もっている。 どうい う仕組みでその ような壮大 な景観 がで きるのか、ぜ ひとも自然科学の分野 で解明 していただ きたい と願 っ てい る。 -1

(16)

68-史料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 註 (1)木村政昭① 「与那国島沖の海底 遺跡調査」 『NEWTON ア-キオ』vol.3 1999年 ② 『太平洋 に沈 んだ大陸 ・与那国島海底遺跡 の謎 を追 う』第 三文明社 1999年 ③ 「対談 ピラ ミッ ドと海底遺跡 の謎 を追 う」『第三文明』vol.471, (吉村作 治 と の対談 )1999年 ④ 「琉球弧地殻変動 の研 究」『琉球大学広報誌 なかゆ くい』 第105号1999年 ⑤ 「与那国島海底 の遺跡様地形 の調査 ・研 究」『月刊 地球』通巻248号 ,vol.22, No.2, (新嵩喜八郎 との共著)2000年

「与那国島海底 の遺跡 ポイ ン トの形成人工 か 自然 か」『月刊 地球』通巻248号 vol.22,No.2,2000年 圧)南 山宏編著 『海底 の オーパー ツ』1997年 (2) この時の発表 要 旨集 は 『月刊地球』通巻248号 vol.22,No.2,2000年 に掲載。 (3)註 1の⑤ に同 じ (4)註 1の(丑に同 じ (5) ① 鳥居龍蔵 「八重山の石器時代 の住民 に就て」『太陽』11巻5号 1905年 ②滝 口宏編 『沖縄 八重山』1960年 (彰多和 田真 淳 「琉 球列 島の貝塚分布 と編年 の概 念

『文化財 要覧』琉球政府 文化財保護委 員会 1956年 (6)安里嗣淳(∋ 「南琉球先史文化 圏 における無土器新石器期 の位 置」第二 回琉 中歴 史関係国際学 術 会議報告 『琉 中歴史関係論文集』1989年 (参 「商琉球 の原始世界」『海洋文化論 ・環 中国海の民俗 と文化』1993年 (7)沖縄 県教育委 員会 『与那 国 島 トウグル浜遺跡- 与那 国空港 整備工事 に伴 う発 掘 調査報告

1985年 3月 (8)与那国町教育委員会 『与那原遺跡』1988年3月 (9)与那国町教育委員会 『慶 田崎遺跡』1986年3月 (10)沖縄県教育委員会 『竹富 町 ・与那国町の遺跡一 詳細分布調査報告』 1980年3月 (ll)沖縄 県教育委員会 『グス ク分布調査報告書 (Ⅰ)』 1994年3月 (12)石垣市教育委員会 『ビロース ク遺跡』1983年3月 (13)沖縄 県教育委員会 『石城 山緊急発掘調査概報』1978年3月

(

1

4

)

註 (ll) に同 じ (15)註 (12) に同 じ (16)沖縄県教育委員会 『良問底遺跡発掘 調査報告書』 1984年3月

(17)TheGusukubeTownBoal・dorEducatiollHTHEURASOKO SITE"March,1990 (18)多良間村教育委員会 『多良間添道遺跡』 1996年3月

(19)城辺 町教育委員会 『高腰城跡』 1989年3月

(20)末文薫 ・達照美 『台東願卑南遠地発掘報告 (-)』1983年12月 『卑南遠地 第 9-10次発掘工作報告』1987年9月 『卑南遺祉 第1ト13次発掘工作報告』1988年12月

(21)EusebioZ.Dizon

&

ReySantiago'PreliminalYReportontheArchaeologicalExplorationsinBatan,

SabtangandlvuhosIslands,Bata-nesProvince,No州1ernPhilipplneSf"Archaeologyln Southeast Asia東南亜考古論文集 "香港大学美術博物館 1995年3月

(22)UniversityofKumamoto"BATAN ISLANDANDNORTHERN LUZON H1983 (23)ど.L礼ndaJocanoHPHILIPPINEPREHISTORY''1975

(24)YojiAoyagi,MelchorL.Aguilera,Jr.,IlidefumiOgawa,KazuhikoTanaka"ExcavationofHill TopSite,MagapitShellMiddeninLaHoShellMiddens,NorthernLuzon,Philippines."1993 (25)註 (6)の① に同 じ

(17)

-写真 1.与那国祖納集落東の墓 前庭部の基盤岩石 を一部加 工

写真2.与那国の家庭で使用 されていた石製容器

写真 3.与那国島の集落跡 「島仲遺跡」に残存す る石製容器

(18)

史料編 集 室紀 要 第 25号 (2000) 写真 4.与那国島比川海岸 の砂岩転石 に残 されたクサ ビ穴跡 石製容器製造 のための ものであろ う。 写真5.宮古の ミヤ-カ 平良市久松 (左)伊 良部島 (右) 写真 6.宮古島の仲宗根豊見親墓 (左)知利真 良豊見親墓 (右) 『沖縄 の文化財』沖縄県教育委員会 1987よ り 171

(19)

-写真 7. 台湾原 住 民 の石造家屋 千々岩助太郎 『台湾高砂族の住家』1960年 より 写真8.台湾 蘭喚 (紅頭 喚 ) の集 落、石垣 を屋根 の高 さまで築 き、石垣 の上 を通路 とす る。 石垣 は 海岸 の 円磯 を用 い てい る。 地上の小屋 は住家 ではな く、涼 を とる休憩所 で あ る。 浅井恵倫教授撮影集 『台湾原住民族映像』1995よ り 写真9.台湾 の巨大石棺 白守蓮遺跡 (左 )新社遺跡 (右) 宋文薫他 『台嘩地区重要考古適地初歩評値 第--段階研究報告』1992よ り _172 _

(20)

史料編 集 室 紀 要 第 25号 (2000) 写真 10.台湾 の巨石壁 と容器 八桑安遺跡 (左 )月眉 工遺跡 (右) 宋文薫他 『台湾地区重要考古遠地初歩評値 第一段階研究報告』1992より 写真11.台湾卑南遺跡 の板石組合石棺墓 宋文薫 ・連照美 『卑南適地第11-13次蟹掘工作報告』1988より 写真12.台湾 ・卑南遺跡 の石造物 (左 ・中) と石積遺構 (右) 宋文薫 ・連照美 『卑南適地第11-13次騨掘工作報告』1988より 173

(21)

-写真13.フィ リピン ・/1タン諸島の 「イ ジャン」遺跡 の景観

熊本大学 「バタン諸島と北部ルソン」1983より

写真 14. タイ国、ス コー タイ (左)、アユ タヤ (右)の王都跡

写真15.イ ン ドネ シアのボ ロブ ドール

(22)

-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000) 写真16.与那国島の慶 田崎遺跡 (左) と与那原遺跡 (右) いずれ も石造建造遺構はなく、礎石 とみ られ る石が検出された程度である。 写真17.与那国島 (左)黒鳥 (右) 八重山諸島の集落に残 る伝統的な石垣。 写真18.八重山諸島 ・竹富島の遠見台の石積 (小城ムイ)

(23)

_175-写真19.八重 山諸島 ・黒 島の遠 見台の石積 (フズマ リ)

写真20.八重 山諸 島 ・黒 島の遠 見台の石積

写真21.与那国島サ ンニヌ台

表面に無数 の 自然孔がある。 これが列 をな した ものが、 クサ ビ跡 に見 えるのだ ろ う。

(24)

-史 料 編 集 室 紀 要 第25号 (2000)

写真22.与那国島サ ンニヌ台

写真23.与那国島サ ンニヌ台

写真24.与那国島サ ンニヌ台 方形状剥離が進行中 (中右、右)

(25)

-写真 25.与那 国島サ ンニヌ台

写真 26.与那国島サ ンニヌ台 両側 に溝 と壁 、一見道路 に見 える自然の造形.

図 3. フ ィ リピン ・バ タン諸 島の 「 イ ジャン」遺跡 見取図 ( DI Z O l lはか く注21 >よ り)

参照

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