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岡鹿門『観光紀游』訳注―その五

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鹿

――

  田

  清

  継

「日本語日本文学論叢」 第十三号 抜刷 平 成 三 十 年 二 月 二 十 日   発 行

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岡鹿門『観光紀游』訳注――その五

  

  

  

本稿は本誌第八~十一号に連載した岡鹿門 『観光紀游』 訳注の続編である。これまでとは異なり、 今回は私が独力で作成した。 今 回 訳 注 の 対 象 と し た の は、 巻 四「 滬 上 日 記 」 の 後 半、 九 月 十 一 日 か ら 同 二 十 六 日 ま で の 部 分 で あ る。 こ の 間、 鹿 門 は ず っ と上海に滞在しているが、この後、北へ向けて出発することになる。 底 本、 訳 注 の 形 式 等 に つ い て は、 本 連 載「 そ の 一 」 冒 頭 の 説 明 を ご 覧 い た だ き た い。 ま た、 参 考 に し た 文 献 の 主 な も の は 巻 末に掲げた。 (柴田清継、二〇一七年十二月八日記す) 原文   九月一日 〔十二日〕 与吟香訪王紫詮 ・ 袁翔甫、 皆不在。抵郭外一舎、 群工粧製銅版諸書。書多四書五経註解。曰 「銅版縮小、 挙生私携入試塲。 中土未有銅版。 此間所販銅版、 皆出于大坂書肆」 。 出示銅版地球図 ① 。 木村信卿所新撰、 極為鮮明。 信卿刻苦此図、 地名一用漢字訳、毎埠記航路距離。此別出手眼者。 【 注 】 ①「 銅 版 地 球 図 」 木 村 信 卿 著、 木 下 孟 寛 写、 結 城 正 明 鐫『 更 訂 精 撰 中 外 輿 地 図 』( 明 治 十 六 年 ) の こ と か も し れ な い。 た だ、 筆 者 は こ れ を国立国会図書館東京館の地図資料室で閲覧したが、 「各港に航路の距離を記している」点は確認できなかった。   吟 香 氏 と と も に 王 紫 詮・ 袁 翔 甫 の 二 氏 を 訪 ね た が、 二 人 と も 不 在 だ っ た。 城 外 の あ る 屋 舎 へ 行 っ て み る と、 工 員 た ち が 銅 版 の 書 物 を 装 丁 し て い た。 四 書 五 経 の 註 解 が 多 か っ た。 「 銅 版 の 縮 刷 本 は、 受 験 生 が こ っ そ り 試 験 場 に 持 ち 込 む の で す。 中

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国 に は ま だ 銅 版 が な く、 こ ち ら で 商 っ て い る 銅 版 は、 皆 大 阪 の 書 肆 で 出 版 さ れ た も の で す 」 と い う こ と だ っ た。 銅 版 の 地 球 図 を 出 し て 見 せ て く れ た。 木 村 信 卿 が 最 近 撰 し た も の で、 極 め て 鮮 明 だ っ た。 信 卿 は こ の 図 の 作 製 に 刻 苦 し た。 地 名 は す べ て 漢 訳を用い、各港に航路の距離を記している。独特な目の付け所と手法である。 原文   二日〔十三日〕馮耕三来訪、 曰「神戸別後航度朝鮮、 五日前西還」 。問朝鮮近事、 曰「是国民貧俗陋、 無足語者。買鶴載帰。 中土富貴家飼鶴。可以為奇貨」 。   夜 赴 耕 三 之 邀、 惕 斎 亦 在、 曰「 法 虜 滋 擾 以 来、 深 虞 子 異 服 触 衆 忌、 馳 書 勧 去 杭 」。 又 難 余 北 游 擬 取 途 内 地、 曰「 此 間 忌 外 人、 盍取捷海程 ① 」。言至懇々。小妓演歌曲。余問曲名、曰「出関曲。詠伍子胥遁楚者」 。余咲曰、 「果然蘇妓」 。上海尤重蘇妓。 一客胡姓、徽州胡開文 ② 族人、在此開墨荘。 【 注 】 ①「 取 捷 海 程 」 文 脈 か ら 見 て、 「 取 捷 径 海 程 」 の 誤 り か も し れ な い と 思 わ れ る。 ②「 胡 開 文 」 一 七 四 二 ~ 一 八 〇 八。 清 代 の 徽 墨 製 作 の 四 大名家の筆頭。   二 日〔 十 三 日 〕 馮 耕 三 氏 が 来 訪 し て、 言 う こ と に は、 「 神 戸 で 別 れ た 後、 船 で 朝 鮮 に 渡 り、 五 日 前 に こ ち ら に 帰 っ て き ました」と。朝鮮の近事を問うと、 言うことには、 「この国は、 民は貧しく俗は陋しく、 語るに足るものはありません。鶴を買っ て帰りました。中国では富貴な家が鶴を飼うから、奇貨だと言えるでしょう」と。   夜、 耕 三 氏 の 招 き に 応 じ て 出 向 い た と こ ろ、 惕 斎 氏 も そ こ に い て、 言 う こ と に は、 「 フ ラ ン ス の 連 中 が 騒 ぎ を 起 こ し て 以 来、 あ な た の 変 わ っ た 服 装 が 人 々 の 反 感 を 煽 る の で は な い か と ひ ど く 心 配 に な っ た の で、 杭 州 を 離 れ る よ う、 お 手 紙 を 出 し た の で す 」 と。 ま た、 私 が 北 へ 行 く の に 陸 路 を 取 ろ う と し て い る こ と を 難 じ て、 「 こ ち ら の 者 は 外 人 を 嫌 っ て お り ま す。 海 路 を お 取 り く だ さ い 」 と 大 変 ね ん ご ろ に 勧 め て く れ た。 若 い 歌 妓 が 歌 曲 を 演 じ た。 曲 名 を 問 う と、 「 出 関 曲 で す。 伍 子 胥 が 楚 を 逃 れ る 時 の こ と を 歌 っ た も の で す 」 と 答 え た。 私 は 笑 っ て 言 っ た。 「 や は り 蘇 州 の 藝 者 だ っ た の だ な 」。 上 海 で は 蘇 州 出 身 の 藝 者 が、

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人気が高いのだ。   胡姓で、徽州の胡開文の族人だという人がやっている墨の店が、その辺りにあった。   三 日〔 十 四 日 〕 紀 伊 鈴 木 梅 仙 ① 、 嘱 余 其 所 製 墨 数 笏、 求 中 人 品 評、 因 訪 胡 氏、 示 墨 鑒 定。 胡 氏 出 観 乾 隆 御 墨・ 李 中 堂 用 墨、 要 価 極 貴、 更 取 大 小 二 墨、 曰「 此 与 梅 仙 製 墨、 品 位 畧 同 」。 問 価、 曰「 四 百 文 」。 梅 仙 蕩 尽 家 産、 講 究 製 墨 之 法、 而 最 良 精 墨、 与 胡 氏 四 百 文 墨、 同 品 位。 此 亦 不 中 一 噱 者。 過 吟 香 談 是 事、 曰「 梅 仙 病 墨 無 光 沢、 至 和 海 草 自 誇 得 妙。 余 数 駁 其 妄、 梅 仙 怒不復通。余蔵古名墨二笏。有栖川親王 ② 遣侍臣購取。一笏価二十金」 。   梅問羹・祁楚材・張惕銘 ③ 来訪。惕銘経甫子。三人為余浄写文稿 ④ 。小楷為試業一、故業科挙者、無不能小楷。 【 注 】 ①「 鈴 木 梅 仙 」 一 八 三 六 ~ 一 九 一 八。 和 歌 山 県 秋 津 町( 現 田 辺 市 ) 出 身 の 墨 匠。 ②「 有 栖 川 親 王 」 幟 たか 仁 ひと 親 王( 一 八 一 二 ~ 八 六 )・ 熾 たる 仁 ひと 親 王( 一 八 三 五 ~ 九 五 )・ 威 たけ 仁 ひと 親 王( 一 八 六 二 ~ 一 九 一 三 ) の い ず れ か で あ る。 こ の う ち、 慶 応 三 年 に「 筆 道 師 範 多 年 励 勤 の 功 績 」 に よ り 一 品 を 宣 下 さ れ た 幟 仁 親 王 と、 明 治 十 三 年、 長 三 洲 に 入 門 し、 「 中 年 以 後 は、 唐 宋 の 書 風 を も 参 酌 」 し た 威 仁 親 王 が、 こ こ の 有 栖 川 親 王 に 当 た る 可 能 性 が 高 い よ う に 思 わ れ る が、 熾 仁 親 王 に も 書 道 の 嗜 み は あ っ た か ら、 結 局 は 未 詳。 ③「 張 惕 銘 」 陳 玉 堂 編 著『 中 国 近 現 代 人 物 名 号 大 辞 典 』 五 九 三 頁 に 惕 銘 を 字 と す る 張 在 新 と い う 人 物 が 立 項 さ れ、 一 九 〇 五 年 に 黄 佐 廷 と と も に ア メ リ カ の P.V.N. マ イ ヤ ー ズ ( Myers ) の General History を 翻 訳 し、 『 邁 爾 通 史 』( 山 西 大 学 堂 訳 書 院 ) と し て 出 版 し た と 説 明 さ れ て い る。 ④「 文 稿 」 あ る い は こ れ までの筆談の原稿を言うか。 訳文   三日〔十四日〕紀伊の鈴木梅仙氏から、 自ら製作した墨数笏を言付けられ、 中国人に品評してもらうよう頼まれていた。 そ こ で 胡 氏 を 訪 問 し て 墨 を 見 せ、 鑑 定 し て も ら っ た。 胡 氏 は 乾 隆 帝 の 御 墨 と 李 中 堂 の 用 墨 を 出 し て 見 せ て く れ て、 そ れ ら が 相 当 高 価 で あ る こ と を 言 っ た 上 で、 さ ら に 大 小 二 墨 を 取 り 出 し て 言 う こ と に は、 「 梅 仙 氏 製 の 墨 と 品 位 が ほ ぼ 同 じ な の は、 こ れ ら で す 」 と。 価 を 問 う と、 「 四 百 文 」 と い う こ と だ っ た。 梅 仙 氏 は 家 産 を 蕩 尽 ま で し て 製 墨 の 法 を 講 究 し た の に、 そ の 最 良 の

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精 墨 が、 胡 氏 の 四 百 文 の 墨 と 同 程 度 だ と い う。 物 笑 い の 種 に も な ら な い。 吟 香 氏 の 所 に 立 ち 寄 っ て、 こ の 事 を 話 す と、 言 う こ と に は、 「 梅 仙 氏 は 墨 に 光 沢 が な い の を 苦 に し て い た が、 海 草 を 混 ぜ た も の が 絶 妙 だ と 自 慢 す る よ う に な り ま し た。 そ れ は で た ら め な や り 方 だ と、 私 が 何 度 も 批 判 す る と、 梅 仙 氏 は 怒 っ て、 連 絡 を 取 っ て こ な く な り ま し た。 私 は 古 名 墨 二 笏 を 所 蔵 し て います。有栖川親王が遣わされた侍臣から買うよう頼まれたものです。一笏二十金でした」と。   梅 問 羹・ 祁 楚 材・ 張 惕 銘 の 三 氏 が 来 訪 し た。 惕 銘 氏 は 経 甫 氏 の 子 で あ る。 三 人 は 私 の た め に 草 稿 を 清 書 し て く れ る の だ。 小 楷は試験勉強の科目の一つであるから、科挙合格を目指す者に、小楷を善くしない者はいない。 原文   四日〔十五日〕為先妣忌辰、請僧無適誦経、設浄 鐉 、招惕斎及二宮 ・ 平野二姓。是日扶桑艦饗在滬邦人、余以忌日不会。 晩間与二宮姓及濯散歩、 望見扶桑艦燈火星羅、 棹小舟往観。会賓六七十名、 艦卒創意、 以凡百器具、 模造人物 ・ 故事 ・ 花卉 ・ 蟲魚状、 意匠極巧、 張帷帳、 設戯臺、 衆代份粧就塲、 演雑戯。艦卒遠航苦無事、 故時挙此等戯。因思往年俄国使節布恬廷 ① 抵長崎、 饗筒井 ・ 川路 ② 諸官、演戯以観。当時衆訝軍艦無演戯之理。何知此等事、為軍艦常事。 【注】①「布恬廷」プチャーチン(一八〇四~八三) 。ロシアの提督、 政治家。嘉永六(一八五四)年一月、 長崎に二度目の来航をして、 開国 ・ 通商等を求め、 幕府が派遣した筒井政憲 ・ 川路聖謨らと会談を重ねたが、 交渉不調のまま去った。②「筒井 ・ 川路」筒井政憲(一七七八一 ~ 一 八 五 九 ) 幕 末 の 旗 本・ 行 政 官。 川 かわ 路 じ 聖 としあきら 謨 ( 一 八 〇 一 ~ 六 八 ) 幕 末 の 勘 定 奉 行。 プ チ ャ ー チ ン 来 航 の 際、 筒 井 政 憲 と 共 に 応 接 掛 に 任 じられた。   四 日〔 十 五 日 〕 亡 母 の 命 日 で あ る。 無 適 氏 に 頼 ん で 誦 経 し て も ら い、 精 進 料 理 を 用 意 し、 惕 斎 氏 及 び 二 宮・ 平 野 の 二 氏 を招いた。この日、扶桑艦が在上海の邦人をもてなしてくれたが、私は命日のため参加しなかった。   日 が 暮 れ て か ら、 二 宮 氏 及 び 濯 と 散 歩 し、 扶 桑 艦 の 燈 火 が 星 の よ う に 連 な っ て い る の が 見 え た の で、 小 舟 を 漕 い で 見 に 行 っ た。参会している賓客は六、 七十名だった。艦員の創意で、いろいろな器具で人物 ・ 故事 ・ 花卉 ・ 虫魚の形状が模造してあった。

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そ の 意 匠 は 極 め て 巧 み で あ っ た。 帷 帳 を 張 っ て 舞 台 を 設 け、 た く さ ん の 人 が 代 わ る が わ る 白 粉 を 塗 っ た 顔 で 登 場 し、 い ろ い ろ な 芝 居 を 演 じ た。 艦 員 た ち は 遠 出 の 航 海 で 暇 を 持 て 余 す た め、 折 々 こ の よ う な 芝 居 を や る の だ。 そ こ で 思 っ た の だ が、 往 年 ロ シ ア 使 節 プ チ ャ ー チ ン が 長 崎 に 来 た 際、 筒 井・ 川 路 ら の 役 人 が も て な し、 芝 居 見 物 を さ せ た と こ ろ、 軍 艦 で 芝 居 を や る の は お かしいのではないかと多くの人に不審がられたが、このようなことは軍艦では当たり前のことなのである。 原文   五日〔十六日〕尾崎行雄 ① ・ 本多孫四 ② 来訪、 皆新聞社員、 聞中法之警、 来観者曰、 「我邦福州変後、 海陸練兵、 不避三伏、 発 軍 艦 各 港、 為 局 外 中 立 之 備、 而 此 間 晏 然、 却 不 似 我 之 騒 擾 」。 余 曰、 「 安 禄 山 之 乱、 厳 太 宰 府 之 戍 ③ 。 狡 焉 思 逞、 蕃 有 其 徒 ④ 、 如之何、可無所備」 。 【 注 】 ①「 尾 崎 行 雄 」 一 八 五 八 ~ 一 九 五 四。 明 治・ 大 正・ 昭 和 の 政 治 家。 咢 堂 と 号 し た。 ②「 本 多 孫 四 」 本 多 孫 四 郎。 長 崎 県 士 族 の 出 身 で、 明 治 四 年、 十 五 歳 で 慶 應 義 塾 に 入 学、 十 三 年 ご ろ、 三 田 政 談 社 に 属 し て い た。 十 七 年 当 時 は 時 事 新 報 社 の 特 派 通 信 員。 尾 崎 行 雄 と と も に 前 日、 上 海 に 着 い た。 ③「 安 禄 山 ~ 之 戍 」 天 平 宝 字 二( 七 五 八 ) 年、 渤 海 か ら 帰 国 し た 小 野 田 守 が 朝 廷 に 対 し て、 反 乱 の 発 生 と 長 安 の陥落等を報告し、 これを受けた藤原仲麻呂政権は反乱軍が周辺諸国に派兵する可能性も考慮し、 大宰府に警戒態勢の強化を命じた( 『続 日 本 紀 』 天 平 宝 字 二 年 十 二 月 十 日 条 に よ る )。 ④「 狡 焉 思 逞、 蕃 有 其 徒 」「 狡 焉 思 逞 」 は 康 有 為 の「 上 左 曾 二 公 論 時 事 書 」 の 語 句。 「 蕃 有 其徒」は『左伝』昭公二十八年に見える「悪直醜正、実蕃有徒〔直を悪み正を 醜 にく むも、実に 蕃 おお く徒有り〕 」に基づく表現か。 訳文   五日 〔十六日〕 尾崎行雄氏 ・ 本多孫四氏の来訪があった。いずれも新聞社員である。中仏間が急を告げていることを聞き、 様 子 を 見 に 来 た の で あ る。 彼 ら が 言 う こ と に は、 「 我 が 国 で は 福 州 の 変 後、 夏 の 暑 さ も い と わ ず 海・ 陸 軍 と も 練 兵 し、 軍 艦 を 各 港 に 差 し 向 け、 局 外 中 立 の 備 え を し て お り ま す の に、 こ ち ら は の ん び り し た 雰 囲 気 で、 大 騒 ぎ に な っ て い る 我 が 国 と は、 え らい違いです」と。私は、 「安禄山の乱の際も、 太宰府の守りを厳しくしたといいます。侵略を企てる輩はたくさんいますから、 備えをなすのは当然のことですよ」と言った。

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  六 日〔 十 七 日 〕 与 関 口 姓 ① 訪 経 甫。 経 甫 示 時 事 芻 言、 及 上 左・ 曾 二 公 論 時 事 書 ② 。 議 論 切、 唯 其 論 外 事、 猜 疑 大 過、 中 人論事、 多不得外情、 不独経甫然。共過子源不在。観也是園 ③ 。宋人旧趾、 有園池之勝。啜茶雅談、 雲気忽悪、 恐雨至、 辞帰。 比 出 城、 果 大 雨。 二 宮 姓 来 話、 曰「 李 中 堂 請 帑 蔵 四 百 萬 金、 率 四 方 富 商、 開 招 商 局、 通 各 埠 輪 船、 将 以 収 外 商 壟 断 之 利、 挙 行 不幾、 弊竇百出、 遂得五百萬金、 売之米商旗昌号 ④ 。 各 埠 海 関 税 局 、 雇 外 人 督 税 務 曰 、「 若 用 中 人 董 之 、 則 姦 濫 随 生 、 不 勝 其 弊 」 。 此等事与我旧幕末年、開長崎伝習所・横須賀造船局 ⑥ 、糜財巨萬、茫無其功、一般。 【注】 ①「関口姓」 関口隆正 (一八五六~一九二六) 。号耕堂。漢学者。明治十七年、 清国に留学し、 兪樾に教えを受けたことがある。② 「時事芻言、 及上左 ・ 曾二公論時事書」 「時事芻言」 は張経甫の著。 「上左 ・ 曾二公論時事書」 は康有為作成の書簡文。③ 「也是園」 上海城南 (今の凝和路 ・ 喬 家 路 ) に あ り、 南 園 と も 称 す る。 明 の 天 啓 年 間、 礼 部 郎 中 の 喬 煒 が 建 て た 渡 鶴 楼 が そ の 後 拡 張 さ れ た も の。 清 初 の 蔵 書 家、 銭 曾( 也 是 翁 と 号 す ) が こ こ を 蔵 書 室 と し、 『 述 古 堂 書 目 』 や『 也 是 園 書 目 』 を 編 ん だ。 清 初 に は、 こ こ を 買 い 取 っ た 曹 垂 璨 が 道 士 に 管 理 を 委 託 したため、 道観となり、 道光八(一八二八)年にはここに蕊珠書院が創設された。④「米商旗昌号」 「旗昌号」はアメリカ系の貿易会社、 ラ ッ セ ル 商 会 の 中 国 名。 上 海 を 主 な 拠 点 と し た。 ⑤「 各 埠 ~ 其 弊 」」 『 郵 便 報 知 新 聞 』 明 治 十 七 年 十 月 四 日 所 載 の 尾 崎 行 雄 記「 特 別 通 信 」 第 四 回( 尾 崎 の 上 海 か ら の 通 信 ) に も 次 の よ う に あ る。 「 清 廷 は 外 人 嫌 ひ に て 何 事 も 皆 な 自 国 の 人 物 を 挙 て 之 に 任 す れ と 独 り 海 関 税 徴 収 の 一 事 に 至 て は 全 く 之 を 英 仏 人 に 委 托 し 全 国 二 十 餘 箇 所 の 税 関 長 及 ひ 其 重 立 た る 役 人 は 皆 な 外 人 を 以 て 之 に 充 つ 支 那 人 は 下 等 の 書 記 訳 等を勤むるに過ぎす是れ清人は廉恥心に乏しく之を税関なとに置く時は妄に賄賂を貪り為めに非常の弊害を生するか為めなる乎」 。⑥ 「長 崎 ~ 造 船 局 」「 長 崎 伝 習 所 」 は 長 崎 海 軍 伝 習 所。 安 政 二( 一 八 五 五 ) 年、 幕 府 が 海 軍 士 官 養 成 の た め 長 崎 西 役 所 に 設 立 し た 教 育 機 関。 同 六年閉鎖された。 「横須賀造船局」は横須賀造船所。幕府が横須賀に開設した造船所。   六 日〔 十 七 日 〕 関 口 氏 と と も に 経 甫 氏 を 訪 ね た。 経 甫 氏 は「 時 事 芻 言 」 及 び「 左・ 曾 二 公 に 上 たてまつ り て 時 事 を 論 ず る 書 」 を 見 せ て く れ た。 論 じ 方 は 適 切 で あ る が、 た だ 外 国 に 関 す る 事 柄 を 論 ず る 際 の 猜 疑 心 が 過 剰 で あ る。 中 国 人 は、 外 国 の 事 情 を よ く 知 ら ぬ ま ま 物 事 を 論 じ る こ と が 多 い。 だ か ら、 経 甫 氏 だ け で は な い の だ が。 一 緒 に 子 源 氏 を 訪 ね た が 不 在 だ っ た。 也 是 園 を

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見 物 し た。 宋 人 の 旧 跡 で、 庭 園 と 泉 水 が 見 所 だ っ た。 茶 を 啜 り な が ら 高 雅 な 話 を し た。 突 然 雲 行 き が 怪 し く な っ た。 雨 が 降 り 出 し て は 困 る の で、 辞 去 し た。 城 を 出 る 頃、 果 た し て 激 し い 雨 が 降 り 出 し た。 二 宮 氏 が 来 て 言 う こ と に は、 「 李 中 堂 が 国 庫 の 四 百 萬 金 を 出 さ せ、 四 方 の 富 商 を 集 め て 招 商 局 を 開 き、 各 港 の 汽 船 を 行 き 来 さ せ て、 外 国 人 商 人 が 壟 断 し て い た 利 益 を 取 り 返 そ う と し た も の の、 実 行 後 い く ば く も な く、 悪 弊 百 出 し、 か く し て 五 百 萬 金 を 得 た も の の、 招 商 局 を ア メ リ カ の ラ ッ セ ル 商 会 に 売 っ て し ま い ま し た。 各 港 の 税 関 は、 外 国 人 を 雇 っ て 税 務 を 監 督 さ せ て お り、 『 も し 中 国 人 に 監 督 さ せ た ら、 た ち ま ち 不 正 やでたらめが発生し、 その弊害で大変なことになるだろう』と言ったとのことです」と。このような点は我が国の旧幕末期に、 長崎伝習所・横須賀造船局を開き、巨萬の財を費やしたにもかかわらず、さっぱり功績がなかったのと同じである。   七 日〔 十 八 日 〕 抵 公 署、 見 安 藤 領 事。 領 事 游 学 法 国、 渉 外 情、 曰「 東 洋 各 邦、 毎 与 洋 人 生 事、 必 賠 償 了 局。 今 中 土 不 肯 賠 償、 可 以 少 吐 気 者。 余 畧 渉 欧 学、 会 此 大 変、 真 百 年 不 再 者。 唯 中 人 承 大 平 之 餘、 百 度 弛 廃、 未 知 此 事 何 所 帰 着 」。 勧 余 北 游。 余本擬待法事平定、而後北発。而平定不可期、乃决北游。   七 日〔 十 八 日 〕 公 署 に 行 っ て、 安 藤 領 事 に 面 会 し た。 領 事 は フ ラ ン ス に 遊 学 し た こ と が あ り、 外 国 の 事 情 を よ く 知 っ て い る。 彼 は、 「 東 洋 の 各 国 は、 西 洋 人 と 揉 め 事 を 起 こ す た び に、 必 ず 賠 償 し て ケ リ を つ け ま す。 だ か ら、 今、 中 国 が 賠 償 を し よ う と し な い の は、 多 少 は 憂 さ 晴 ら し の 種 に な る も の で す ね。 私 は 西 洋 の 学 問 を ほ ぼ 渉 猟 し ま し た が、 今 回 の よ う な 大 事 件 に 出 く わ す の は、 ま こ と に 百 年 に 二 度 と は な い こ と で し ょ う。 た だ、 中 国 人 は 太 平 の 名 残 で、 あ ら ゆ る 点 で 箍 が 緩 ん で お り、 今 回 の 事 件 が ど の よ う な と こ ろ に 帰 着 す る の か 分 か っ て い ま せ ん 」 と 言 っ て、 私 に 北 遊 を 勧 め た。 私 は も と も と フ ラ ン ス と の 一 件が収まった後で北に向けて出発するつもりだったが、鎮静化の見通しが立たないので、近々北遊することに決めた。 原文   八日 〔十九日〕 訪紫詮小酌。 曰「余欲再遊貴邦。 不復為前回狂態 ① 。 得買書資、 則足矣」 。 余笑曰、 「先生果能不復為故態乎」 。

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紫詮大咲。紫詮不屑縄墨局束、以古曠達士自処。李中堂曰、 「紫詮狂士也、名士也」 。六字真悉紫翁為人。   訪吟香、 有一客、 見余序濶、 曰「薩商岩村氏 ② 」。問来故、 曰「上海以法事殷、 物価下落、 余将就米商購木材」 。上海仰木材米国、 猶 我 国 仰 鉄 英 国。 中 日 豈 乏 鉄 与 木 材 乎。 而 仰 之 隔 海 殊 域、 無 他、 由 以 人 力 与 以 器 械 之 異 而 己〈 已 〉。 過 本 願 寺、 見 無 適。 出 飯、 共訪関口姓、夜話。 【注】 ①「前回狂態」 明治十二年の訪日時の好色的な行為等を指すものか。 『扶桑遊記』 四月三十日 (陰暦) の条に、 「日東の人士」 に「五十歳にもなっ て も な お 色 を 好 ま れ る が、 中 国 の 名 士 は 昔 か ら 皆 そ う な の か 」 と い う 疑 問 を 呈 さ れ て、 「 酒 を 嗜 み 色 を 好 む の は、 本 性 に 従 っ て 行 動 し、 天 真 を 流 露 す る 所 以 で あ る 」 と か「 世 の 人 は 色 を 好 ま ざ る 偽 り の 君 子 し か 知 ら ず、 色 を 好 む 真 の 豪 傑 を 知 ら な い 」 な ど と 答 え た こ と を 記している。彼の好色的な面については、 例えば神戸滞在中の三月十五日の条や、 京都での同月二十日の条にその記載が見られる。② 「薩 商岩村氏」 薩摩出身で、 東京銀座に薩摩物産販売店 「薩摩屋」 を営んでいた岩谷松平 (一八五〇~一九二〇) の誤りである可能性がある。 こ の 年 の 九 月 二 日 の『 郵 便 報 知 新 聞 』 に「 清 国 行 」 と い う 見 出 し の「 丸 十 印 の 広 告 に て 人 も 知 り た る 銀 座 三 丁 目 の( 薩 摩 屋 ) 岩 谷 松 平 氏 は 商 用 に て 昨 日 横 濱 出 発 の 玄 海 丸 に 搭 し 清 国 へ 出 発 せ り 」 と い う 記 事 が あ る し、 尾 崎 行 雄 も「 遊 清 記 」 の 九 月 九 日 の 条 に「 銀 座 薩 摩 屋の主人岩谷松平氏来る、余驚て渡航の意を問ふ、氏答ふるに商況視察の為めに来れるを以てす」と記している。 訳文   八日 〔十九日〕 紫詮氏を訪ねて、 ちょっと一杯やったのだが、 彼が言うことには、 「もう一度貴国に行ってみたいと思うが、 二 度 と 前 回 の よ う な 狂 態 は 演 じ ま せ ん よ。 本 を 買 う 元 手 さ え 得 ら れ れ ば、 そ れ で 結 構 」 と。 私 は 笑 っ て、 こ う 言 っ た。 「 先 生、 さ て 旧 態 を さ ら け 出 さ ず に 済 み ま し ょ う か な 」 と。 紫 詮 氏 は ハ ハ ハ と 笑 っ た。 紫 詮 氏 は こ せ こ せ し た 世 間 の し き た り を 潔 し と せ ず、 古 の 曠 達 の 士 を 以 て 自 任 し て い る。 李 中 堂 が「 紫 詮 氏 は 狂 士 で あ り、 名 士 で あ る 」 と 評 し て い る が、 こ の 言 葉 は 真 に 紫 翁の人となりを言い尽くしている。   吟香氏を訪ねたところ、 一人の先客がいて、 私を見ると、 「薩摩の商人で、 岩村です」 と挨拶した。来意を問うと、 言うことには、 「 上 海 で は、 フ ラ ン ス と の 一 件 が 激 し さ を 増 し た た め、 物 価 が 下 落 し ま し た。 私 は ア メ リ カ の 商 人 か ら 木 材 を 買 お う と 思 う の

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で す 」 と。 上 海 が 木 材 を ア メ リ カ に 仰 い で い る の は、 我 が 国 が 鉄 を イ ギ リ ス に 仰 ぐ の と 似 て い る。 中 国 と 日 本、 そ れ ぞ れ 鉄 や 木 材 に 乏 し い わ け で は な い。 に も か か わ ら ず、 そ れ ら を 海 の 向 こ う の 殊 域 に 仰 ぐ の は、 ほ か で も な い、 人 力 に 依 る の と 器 械 に 依るのとの違いのためなのだ。本願寺に立ち寄り、 無適氏に会った。食事を出してくれた。一緒に関口氏を訪ね、 夜のひと時、 話をして過ごした。   九 日〔 廿 日 〕 見 奥 書 記〔 清 輔 〕 ① 曰、 「 奉 命 視 察 各 国 商 况 」。 与 吟 香 午 酌、 就 床 臥 談。 会 経 甫 率 范・ 姚・ 梅 三 氏 来 訪。 吟 香名藉此間、四人大悦、再酌。吟香問左相有何勝算。経甫曰、 「左公老将、福州多恩旧部下。此一事大足恃」 。   夜伊東少佐〔蒙吉〕 ② 来、曰「福州砲臺誤撃英艦、傷士官一名水夫四名。英観法事方急、不復論是事。 【注】 ① 「奥書記 〔清輔〕 」 農商務省の書記官。前日、 上海着。② 「伊東少佐 〔蒙吉〕 」 一八四二~八九。薩摩藩出身の海軍軍人。明治十三年四月、 清国へ派遣されて、中国各地の調査に従事し、同年十一月海軍少佐に任じられた。埴谷雄高の祖父。   九 日〔 廿 日 〕 奥 書 記〔 清 輔 〕 に 会 っ た。 彼 が 言 う こ と に は、 「 命 令 に よ り、 各 国 の 商 況 を 視 察 し て い ま す 」 と。 吟 香 氏 と 昼 か ら 一 杯 や り、 ベ ッ ド に 寝 そ べ っ て 話 を し た。 た ま た ま 経 甫 氏 が 范・ 姚・ 梅 の 三 氏 を 連 れ て や っ て 来 た。 吟 香 氏 は こ ち ら で は そ の 名 が 知 れ 渡 っ て い る の で、 四 人 は た い そ う 喜 び、 再 び 酒 を 酌 み 交 わ し た。 吟 香 氏 が、 左 宗 棠 大 臣 の 勝 算 は ど ん な も の か と 問 う た。 経 甫 氏 が 言 う こ と に は、 「 左 公 は 老 将 軍 で、 福 州 で は 昔 か ら の 部 下 に 多 く の 恩 を 売 っ て い ま す。 で す か ら、 今 回 の フ ラ ン ス と の 戦 い は、 か な り 見 込 み が あ り ま す 」 と。 夜、 伊 東 少 佐〔 蒙 吉 〕 が 来 て 言 う こ と に は、 「 福 州 砲 臺 が 誤 っ て イ ギ リス艦を撃ち、 士官一名、 水夫四名を負傷させました。イギリスは、 清仏の一件はまさに急を告げていると見てはいるものの、 その事件について再度あげつらってはいません」と。 原文   十日〔廿一日〕王夢薇書至、 評余劫灰 ・ 在吟二集、 曰「造詣極深、 唯有間不洽律処。竟是東国通病。老師曲園亦屢言此事。

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若与中土作者、 游従時月、 便自知其三昧。 」余見蔭甫先生、 請反棹日、 小留門下受教。先生忻然不敢拒。惜匆卒帰棹、 不達是志也。 夢 薇 善 書 画、 贈 画 附 潤 筆 例。 此 録、 曰「 寿 序・ 碑 文・ 堂 記 六 元、 駢 体 倍 之、 伝・ 序・ 銘・ 跋、 別 議、 隷 書 扁 聯、 両 元、 屏 碣 画 屏三元、 扇面半元、 同郡石渠老人鑒定。 」嘗観陳笠庵潤筆例、 亦畧同。一便面半元、 文字活計亦豊、 而夢薇蕭然、 恐嘱者不多乎。   十 日〔 廿 一 日 〕 王 夢 薇 氏 の 書 簡 が 届 い た。 私 の『 劫 灰 』・ 『 在 吟 』 の 二 集 を 評 し て、 次 の よ う に 書 い て あ っ た。 「 極 め て 造 詣 が 深 い。 た だ、 ま ま 韻 律 に 合 わ な い 箇 所 が あ り ま す。 そ れ は 結 局、 日 本・ 朝 鮮 等 の 通 弊 で す。 老 師 曲 園 も し ば し ば そ の こ と を 指 摘 し て お ら れ ま す。 中 国 の 漢 詩 文 作 者 と 数 か 月 付 き 合 え ば、 す ぐ に そ の 要 訣 が 自 得 で き る で し ょ う。 」 と。 私 が 蔭 甫 先 生 に ま み え、 そ の 後、 上 海 に 引 き 返 す に 当 た り、 門 下 に し ば ら く 留 ま っ て 教 え を 受 け た い と 願 っ た 時、 先 生 は う れ し そ う な 顔 を さ れ、 拒 も う と は さ れ な か っ た。 倉 卒 と し て 引 き 返 し て し ま い、 そ の 志 を 果 た せ な か っ た の は、 残 念 で あ る。 夢 薇 氏 は 書 画 を善くする人で、 書簡に併せて画もプレゼントしてくれた。潤筆例を附してあったので、 それをここに書き留めておこう。 「寿 序・ 碑 文・ 堂 記 は 六 元、 駢 体 は こ れ に 倍 す る。 伝・ 序・ 銘・ 跋 は、 別 途 相 談。 隷 書・ 扁 聯 は、 二 元、 屏 碣・ 画 屏 は 三 元、 扇 面 は 半 元、 同 郡 石 渠 老 人 鑑 定 す。 」 陳 笠 庵 の 潤 筆 例 を 見 た こ と が あ る が、 ほ ぼ 同 様 だ っ た。 一 枚 の 扇 子 で 半 元 な ら、 文 字 を 書 く 仕事も実入りは悪くない。それなのに夢薇氏はひどく貧しそうだ。恐らくは注文者が多くないのだろう。   十 一 日〔 廿 二 日 〕 定 教 邀 飲 奥 書 記。 松 野〔 直 之 〕 ① ・ 福 原〔 英 太 〕 ② ・ 鈴 木〔 忠 視 〕 ③ ・ 岡〔 正 康 〕 ④ ・ 峰〔 貫 一 〕 ⑤ ・ 吟 香 及 余 与 焉。 酒 半 小 眩、 偃 臥 別 室、 始 復。 我 邦 人 貿 易 海 外、 上 海 為 最 盛、 而 三 井・ 広 業・ 大 倉 三 氏 以 外、 推 吟 香 氏 楽 善 堂。 吟 香 廿 年 前 游 上 海・ 寧 波、 熟 中 土 事 情、 其 開 楽 善 堂、 販 漢 洋 薬 方、 及 東 刻 書 籍、 開 別 店 漢 口・ 福 州、 其 業 日 盛。 方 今 欧 米 諸 国、 盛 通商道、日致富強。安得能達商事、如我吟香氏、而通商各埠、網海外大利、如欧米人之所為乎。 【 注 】 ①「 松 野〔 直 之 〕」 長 崎 出 身 の 松 野 直 之 助(?~ 一 八 八 九 ) の こ と か。 明 治 十 七 年 に 上 海 に 渡 り、 活 字 製 版 と 印 刷 を 業 と す る 修 文 書 館 を 開設した。② 「福原 〔英太〕 」 慶應義塾卒の三井物産社員、 福原栄太郎のことと見られる。後に小野田セメント第三代社長となる。③ 「鈴

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木〔 忠 視 〕」 一 八 四 九 ~ 一 九 〇 七。 静 岡 県 賀 茂 郡 岩 科 村( 現 在 の 同 郡 松 崎 町 ) の 出 身。 明 治 十 五 年、 上 海 で 日 本 人 と し て 初 め て 写 真 館 を 開業して、 大成功を収めた。④「岡〔正康〕 」一八五一~八七。熊本県の出身。明治十年、 上海に渡航し、 東京日日新聞の通信員となり、 か た わ ら 上 海 三 井 物 産 会 社 支 店 の 相 談 役 を 務 め、 支 店 内 で『 上 海 商 業 雑 報 』 と い う 雑 誌( 明 治 十 五 年 七 月 創 刊 ) の 編 集 を 江 南 哲 夫 と と もに行った。⑤「峰〔貫一〕 」奥書記の随員か。 訳文   十一日 〔廿二日〕 定教氏が奥書記を酒席に招いた。松野氏 〔直之〕 ・ 福原氏 〔英太〕 ・ 鈴木氏 〔忠視〕 ・ 岡氏 〔正康〕 ・ 峰氏 〔貫一〕 ・ 吟 香 氏 と 私 も お 相 伴 し た。 酒 席 半 ば で 多 少 の め ま い が し た。 別 室 に 横 に な っ て い る う ち に 回 復 し た。 我 が 国 の 人 が 貿 易 を 営 む 海 外 の 町 と し て は、 上 海 が 最 も 盛 ん で あ る が、 そ の 上 海 で 三 井・ 広 業・ 大 倉 の 三 氏 以 外 と な れ ば、 吟 香 氏 の 楽 善 堂 を 挙 げ ね ば なるまい。吟香氏は二十年前にはや上海 ・ 寧波を見て回り、中国の事情に精通している。楽善堂開店以来、中国 ・ 西洋の薬方、 及 び 日 本 刊 刻 の 書 籍 を 商 い、 支 店 を 漢 口・ 福 州 に 開 き、 日 増 し に 商 売 が 繁 盛 し て い る。 方 今、 欧 米 諸 国 が、 盛 ん に 通 商 の ル ー ト を 広 げ、 日 々 富 強 に な り つ つ あ る。 吟 香 氏 の よ う に 商 売 事 情 に 通 暁 し た 人 材 を ど こ か か ら 得 て 各 港 で 通 商 さ せ、 欧 米 人 の よ うに海外の大利を網でさらうように手に入れたいものである。   十 二 日〔 廿 三 日 〕 熱 甚。 読『 救 時 芻 言 』。 初 余 観『 窳 子 』 引 経 甫 条 陳 書、 請 一 見。 経 甫 曰、 「 此 張 香 濤 ① 任 両 広 総 督 時、 草 意 見 所 進、 与 今 稍 異 持 論。 其 培 材・ 経 武・ 裕 用・ 治 民 諸 篇、 適 切 時 弊、 大 為 有 見。 唯 其 策 外 事、 大 旨 猶 我 三 十 年 前 儒 先 論 海 防、未為得其要、其言与今異持論。或指之歟。此游見士人亦多、語及外事、茫如霧中。唯経甫慨然用心時事、真難得之士。   館人供西瓜。色白、一嚼頓覚其冷肌骨。 【 注 】 ①「 張 香 濤 」 洋 務 派 官 僚 と し て 重 要 な 役 割 を 果 た し た 張 之 洞( 一 八 三 七 ~ 一 九 〇 九 ) の こ と。 香 濤 は そ の 号 の 一 つ。 彼 が 広 州 で 両 広 総 督 の 任 に 就 い た の は 光 緒 十( 明 治 十 七 ) 年 七 月( 陽 暦 ) の こ と で あ る か ら、 張 煥 倫 が 張 之 洞 に 意 見 を 草 し て 進 め た の は、 さ し て 時 間 的 にさかのぼらぬ頃のことだったことになる。

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  十 二 日〔 廿 三 日 〕 ひ ど く 暑 か っ た。 『 救 時 芻 言 』 を 読 ん だ。 も と も と 私 は『 窳 子 』 に 経 甫 氏 の 上 申 書 が 引 用 さ れ て い る の に 気 付 い た が た め に、 願 い 出 て 面 会 さ せ て も ら っ た の だ が、 そ の 時、 経 甫 氏 は こ う 言 っ た。 「 こ れ は 張 香 濤 氏 が 両 広 総 督 の 任 に あ っ た 時、 意 見 を 草 し て 進 め た も の で、 今 の 持 論 と は 少 し 異 な り ま す 」。 培 材・ 経 武・ 裕 用・ 治 民 の 諸 篇 は、 時 弊 に 照 準 が 合 っ て い て、 確 か な 見 解 を 十 分 に 具 え て い る も の の、 た だ、 対 外 的 な 問 題 に 対 す る 対 策 は、 概 ね 我 が 国 の 三 十 年 前 の 儒 者 が ま ず は 海 防 を 論 じ た の と 同 様 で、 そ の 要 所 を 突 い て い る と は 言 え な い。 今 の 持 論 と は 少 し 異 な る と い う の は、 そ の 点 を 言 っ て い る の か も し れ な い。 こ の 旅 で は 士 人 と の 面 会 も 多 い が、 彼 ら は 対 外 的 な 問 題 に 話 が 及 ぶ と、 さ っ ぱ り 要 領 を 得 な く な る。 そのような中で経甫氏だけは慨然たる心境から、時事に関心を向けている。まことに得難い人士である。   宿の者が西瓜を食べさせてくれた。白くて、一口頰張ると、にわかに骨まで冷たさが染みとおるような感じだった。   十 三 日〔 廿 四 日 〕 余 充 三 百 元 蘇 杭 游 資、 中 途 反 棹、 猶 贏 百 餘 元、 乃 嘱 吟 香、 購 取 宋 金 元 明 諸 史 以 下 五 十 餘 種。 是 日 粧 為 両匣、 托輪船東致。余老矣、 且眼不明、 多購書不必読。唯三世書香、 不可不培殖、 待従游子弟、 不可無書籍。余常語諸姪曰、 「余 無望当世、 将得千金重修鹿門精舎、 擁萬巻擬萬戸侯 ① 」。他日能達斯願乎否。中土書院、 皆大官豪富、 捐資営築、 以聘名師教子 弟者。我邦無此等事。唯天使余有寿七十、此願不難達也。 【 注 】 ①「 萬 戸 侯 」 漢 代 の 制 度 で、 食 邑 を 一 萬 戸 以 上 擁 す る 侯 爵。 後、 一 般 に 高 官 貴 爵。 な お、 こ の 部 分 は 蔵 書 数 だ け 萬 戸 侯 に 匹 敵 す る ほ ど になりたいという願望を述べたものと解釈すべきであろう。   十 三 日〔 廿 四 日 〕 私 は 三 百 元 を 蘇 州・ 杭 州 の 旅 費 に 充 て て い た が、 中 途 で 引 き 返 し た た め、 百 元 以 上 餘 っ て い た。 そ こ で 吟 香 氏 に 頼 ん で、 宋 金 元 明 の 諸 史 を は じ め、 五 十 餘 種 の 書 籍 を 買 い 込 み、 本 日 梱 包 し て 二 つ の 箱 に 入 れ、 日 本 に 届 け る よ う 汽 船 に 託 し た。 私 も も は や 年 を 取 り、 視 力 も 低 下 し て き た の で、 た く さ ん 本 を 買 っ て も 読 む と は 限 ら な い。 た だ、 三 世 に わ た り 読 書 人 の 跡 継 ぎ を 育 て て い か な い わ け に は い か な い し、 弟 子 入 り し た 子 弟 に 相 あい 対 す る 場 合 も、 書 籍 が な く て は 困 る。 私 は 平

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素 よ く 甥 に 次 の よ う な こ と を 話 し て い る。 「 私 は こ の 世 に 望 み は 特 に な い け れ ど も、 た だ、 ど こ か か ら 千 金 を 得 て 鹿 門 精 舎 を 修 理 し、 た く さ ん の 書 物 を 擁 し て 萬 戸 侯 に 匹 敵 す る よ う な 生 活 を し て み た い の だ 」 と。 将 来 こ の 願 い を か な え る こ と が で き る だ ろ う か。 中 国 の 書 院 は い ず れ も 高 官 や 金 持 ち が 金 を 出 し て 設 立 し、 高 名 な 教 師 を 招 聘 し て 子 弟 を 教 え る 所 で あ る。 我 が 国 で はそのような形での教育がなされていない。天が私に七十の寿命をくだされば、この願いもかなえられぬことはないのだが。 原文   十四日〔廿五日〕昨来下瀉、 上厠五六次、 稍疲。過楽善堂晩飯。余語中土城市隘陋。吟香曰、 「吾思中土上古、 盗賊横行、 寇害不止。故聖王之治、 首築城壁、 以護人民。人民巳〈已〉虞寇害、 争家壁内、 勢不得不隘陋。余曰、 「車並九軌、 見于『左氏』 、 四 墉 百雉、見于『毛詩』 ① 、周時豈同今時隘陋乎」 。吟香微笑曰、 「子亦酔六経毒者」 。不覚噴飯。 【注】①「車並九軌、見于『左氏』 、四 墉 百雉、見于『毛詩』 」いずれの言葉もそれぞれ『左伝』 、『毛詩』に見えない。 訳文   十四日〔廿五日〕昨日から腹を下し、 五、 六回も厠に行って、 ちょっと疲れた。楽善堂に立ち寄り、 晩飯を御馳走になっ た。 私 は 中 国 の 都 市 は 狭 く む さ 苦 し い と い う 話 を し た。 吟 香 氏 が 言 う こ と に は、 「 私 が 思 う に、 中 国 で は 上 古、 盗 賊 が 横 行 し、 強 盗 事 件 が 止 み ま せ ん で し た。 そ の た め、 聖 王 が 治 め る よ う に な る と、 ま ず 城 壁 を 築 き、 人 民 を 保 護 し よ う と し た の で す が、 人 民 は 強 盗 の 害 を 恐 れ る 気 持 ち が 抜 け な く な っ て い た た め、 争 っ て 城 壁 内 に 家 を 建 て ま し た。 勢 い 狭 く む さ 苦 し く な る し か な か っ た の で す 」 と。 私 は 言 っ た。 「『 車 は 九 軌 を 並 ぶ 』 と、 『 左 氏 』 に あ る し、 『 四 墉 百 雉 』 と、 『 毛 詩 』 に あ る か ら、 周 代 は 今 のように狭くむさ苦しくはなかったのでしょうね」 。吟香氏が頰を緩め、 「あなたも六経の毒に酔っていますよ」と言ったので、 思わず噴き出してしまった。   十 五 日〔 廿 六 日 〕 奥 書 記 設 饗 宴、 会 者 九 人。 衆 論 陳 所 以 盛 貿 易、 各 有 所 見。 吟 香 曰、 「 東 貨 来 此、 不 過 石 炭・ 薬 品・ 海 帯・ 乾 魚 数 品、 皆 天 産 物、 算 人 工 労 力、 所 贏 幾 何。 不 如 盛 開 百 般 器 械、 以 製 作 品、 充 貿 易 之 為 大 益 」。 余 以 為、 盛 開 百 般 器 械、

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製造物品者、欧米諸国之事、非得其術、則不可為。方今急務、在尽力国本 ① 、盛開天産物以充貿易也」 。   飲 入 夜、 忽 見 四 坐 明 如 白 昼。 衆 皆 曰、 「 扶 桑 艦 試 電 燈 」。 披 戸 出 観。 林 立 帆 檣、 鱗 次 市 街、 瞭 如 白 昼、 而 光 影 青 晶、 与 電 光 一 般。電燈供暗夜照敵営、正砲準之用。役電光為斥候、奪造化之秘、至此而極矣。 【注】①「国本」ここでは、具体的には第一次産業を言うものと見られる。   十 五 日〔 廿 六 日 〕 奥 書 記 が 饗 宴 を 開 い て く れ た。 参 会 者 は 九 人。 皆 が 貿 易 を 盛 ん に す る 方 策 を 論 じ た。 考 え 方 は 各 人 各 様 だ っ た。 吟 香 氏 が 言 う こ と に は、 「 こ ち ら に 来 て い る 日 貨 は、 石 炭・ 薬 品・ 昆 布・ 干 し 魚 の 数 種 に 過 ぎ ず、 み な 天 然 の 産 物 で す が、 人 件 費 を 差 し 引 け ば、 い く ら の 儲 け に も な り ま せ ん。 い ろ い ろ な 器 械 を 動 か し て 作 っ た 物 を 貿 易 に 充 て た 方 が、 は る か に 大 き な 利 益 に な り ま す 」。 私 の 意 見 は こ う で あ る。 い ろ い ろ な 器 械 を 動 か し て 物 品 を 製 造 す る の は、 欧 米 諸 国 の や り 方 で あ り、 そ の 技 術 を 身 に 付 け な け れ ば 実 行 で き な い。 方 今 の 急 務 は、 国 の 大 本 に 力 を 尽 く し、 天 然 の 産 物 の 生 産 量 を も っ と 増 や して貿易に充てることにあると。   宴 が 続 い て 夜 に な る と、 突 然、 満 座 白 昼 の よ う に 明 る く な っ た。 参 会 者 全 員 が こ う 言 っ た。 「 扶 桑 艦 が 電 燈 点 燈 の 試 験 を し た の で す よ 」 と。 戸 を 開 け、 外 に 出 て み る と、 林 立 す る 帆 柱、 密 集 し た 市 街 が、 白 昼 の よ う に は っ き り と 見 え、 光 は 青 い 水 晶 よ ろ し く、 電 いなずま の 光 と 同 じ よ う な 感 じ だ っ た。 電 燈 は 暗 夜 に 敵 営 を 照 ら し、 大 砲 の 照 準 を 合 わ せ る た め に 使 わ れ る。 電 光 を 斥 候 として役するわけである。造化の神秘を奪うこと、ここに極まっている。 原文   十六日〔廿七日〕訪士源不在、 過子讓、 見其叔則夫及毛南坪〔文彬〕 ・ 徐古春〔円成〕 ① 。古春老医、 好交文士。 俱 出西門、 雇 車 就 城 湟 而 馳、 四 望 塍 田。 過 招 商 局 見 耘 劬。 夜 平 野・ 武 田 二 姓 来 過、 曰「 法 事 方 急、 外 商 以 商 賈 不 行、 開 会 議、 請 各 国 居 間 調停」 。又曰、 「中土不宣告開戦、 故法艦入香港、 買薪炭糧食、 繕軍艦、 不異平時」 。余曰、 「公法不行東洋、 仮令中土宣告開戦、 不得禁局外各国売兵器、且局外各国、固持中立法 ② 、中土亦将買兵器何国」 。

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【 注 】 ①「 徐 古 春〔 円 成 〕」 朱 徳 明『 浙 江 医 薬 史 』( 人 民 軍 医 出 版 社、 一 九 九 九 年 ) に 湖 州 の「 中 薬 医 学 家 」 と し て 記 載 が あ る。 ②「 中 立 法 」 中 立 に つ い て 規 定 し た 国 際 法 規 の 総 称。 自 国 領 土 を 交 戦 国 に 利 用 さ せ な い こ と、 及 び 交 戦 国 に 対 し 援 助 を 与 え な い こ と な ど、 戦 時 に お ける中立国の義務を主な内容とする。但し法律制定は一九三五年。 訳文   十六日〔廿七日〕士源氏を訪ねたが、 不在だった。子讓氏の所に立ち寄ると、 彼のおじの則夫氏及び毛南坪〔文彬〕氏 ・ 徐古春〔円成〕氏がいた。古春氏は年配の医者で、 文士との交際を好む人だという。一緒に西門を出て、 車を雇い城の堀に沿っ て 走 ら せ た。 ど ち ら を 向 い て も あ ぜ 道 で あ る。 招 商 局 を 訪 れ、 耘 劬 氏 に 会 っ た。 夜、 平 野・ 武 田 の 二 氏 が や っ て 来 て、 「 フ ラ ン ス と の 一 件 が 急 を 告 げ て い ま す。 外 国 人 商 人 は、 商 売 が う ま く い か な い た め、 会 議 を 開 き、 各 国 が 間 に 入 っ て 調 停 し て く れ る よ う 頼 ん で い ま す 」 と 言 い、 ま た、 「 中 国 が 宣 戦 布 告 を し て い な い た め、 フ ラ ン ス 艦 は 香 港 に 入 っ て、 薪 炭 や 食 糧 を 買 っ た り、 軍艦を修繕したりしており、 平時と変わりません」とも言った。私はこう言った。 「東洋では公法が行われていないのです。 た と え 中 国 が 宣 戦 布 告 し た と し て も、 局 外 の 各 国 が 兵 器 を 売 る の を 禁 ず る こ と は で き な い し、 局 外 の 各 国 が 中 立 法 に 固 辞 し た ら、中国はどの国から兵器を買うのでしょうか」 。 原文   十 七 日 〔 廿 八 日 〕 聞 梶 山 少 佐 ① 北 航 、 往 見 、 請 同 航 、 曰 「 余 先 発 告 公 署 、 掃 舘 舎 以 待 」、 乃 約 与 奥 書 記 継 発 。 杉 田 〔 定 一 〕 ② ・ 秋山 〔鑑三〕 二姓来見。秋山為藤田一郎 ③ 義子。曰 「家翁憂中土開釁、 命児赴北京、 見醇親王 ④ 、贈金表微志」 。余曰 「善。此亦忠類。 子輩来此、又曾見中土士人乎」 。曰「未」 。乃使濯伴二姓、詣正蒙書院見張経甫。 【 注 】 ①「 梶 山 少 佐 」 梶 山 鼎 介( 一 八 四 八 ~ 一 九 三 三 ) の こ と か。 梶 山 鼎 介 は 山 口 県 出 身、 明 治 十 三 年、 清 国 公 使 館 附 武 官 に 補 し、 清 国 駐 在 武官並びに留学生の管理を命ぜられて北京に駐在、 十四年、 その職掌を以て数か月にわたり清国各地を視察して回った。② 「杉田 〔定一〕 」 一 八 五 一 ~ 一 九 二 九。 福 井 県 坂 井 郡 波 寄 村( 現 在 の 福 井 市 ) の 出 身。 号 は 鶉 山。 明 治 八 年 か ら 十 四 年 に か け て、 新 聞 等 の 筆 禍 に よ り 三 度 投 獄 さ れ た。 十 七 年、 清 仏 戦 争 が 起 こ る と、 東 亜 の 前 途 に 深 憂 を 抱 き、 日 中 提 携 の 力 で こ れ に 当 た ろ う と、 同 年 八 月 単 身 上 海 に 渡 り、

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張 煥 倫 と の 議 論 を 経 て、 新 時 代 の 教 育 の 必 要 性 を 痛 感 し、 同 志 と 共 に 上 海 に 東 洋 学 館 を 設 立 し、 志 士 の 養 成 に 努 め た。 ③「 藤 田 一 郎 」 一 八 四 七 ~ 一 九 〇 一。 こ の 年 八 月 二 十 九 日 の『 朝 野 新 聞 』 に 次 の よ う な 記 事 が あ る。 「 藤 田 一 郎 氏 は 此 ほ ど 清 国 公 使 館 に 赴 き 金 五 十 円 に 雖 二 些 少 一 痛 悲 二 貴 大 清 国 目 下 之 国 難 一 謹 而 表 二 芹 之 微 衷 一 々 と の 書 面 を 添 へ 進 呈 さ れ し に 公 使 は 箱 根 の 温 泉 へ 赴 か れ し 由 に て 留 守 し て 居 た る 呉 某 が 書 面 を 請 取 り 金 円 を ば 返 し て 深 く 厚 意 を 謝 し た る 趣 昨 日 の 明 治 日 報 を 見 る に 藤 田 氏 は 猶 鑑 三 氏 を 北 京 に 遣 は し 其 国 難 を 信 問 し 聊 か 方 物 を 呈 せ む と 思 へ ば( 後 略 )」 (『 明 治 日 報 』 の 記 事 は 未 見 )。 藤 田 の 著『 日 本 経 国 論 』( 明 治 二 十 三 年 ) に は、 自 身 が 明 治 十 八 年 に 清 国 に 渡 り、 李 鴻 章 に 面 会 し、 東 洋 の 将 来 に つ い て 語 り 合 っ た と い う 次 第 が 紹 介 さ れ て い る。 ④「 醇 親 王 」 清 朝 宣 宗 道 光 帝 の 第 七 子 で あ る 奕 譞 (?~ 一 八 九 〇 ) の こ と。 そ の 妃 は 西 太 后 の 妹。 同 治 十 一( 明 治 五 ) 年、 醇 親 王 に 封 ぜ ら れ た。 醇 親 王 の も て な し に 感 謝 し た 上 で、 日 清 両 国 の 以 後 の 国 策 の 在 り 方 に つ い て 私 見 を 述 べ て 協 力 を 求 め る 藤 田 一 郎 の 漢 文 体 の「 清 国 醇 親 王 ニ 送 リ タ ル 信 書 」( 明 治 十八年一月)が『秘書類纂   外交篇』中巻に収載されている(一九一~一九六頁) 。 訳文   十七日〔廿八日〕梶山少佐が北方への航海に出ると聞いたので、 会いに行った。彼は一緒に航海しようと私に持ち掛け、 「 私 が 先 に 出 発 し て 公 署 に 告 げ、 客 舎 を 掃 除 さ せ て、 先 生 を お 待 ち し ま し ょ う 」 と 言 っ た。 そ し て、 私 が 彼 の 後 か ら 奥 書 記 と と も に 出 発 す る よ う 取 り 決 め て く れ た。 杉 田〔 定 一 〕・ 秋 山〔 鑑 三 〕 の 二 氏 が 会 い に 来 た。 秋 山 氏 は 藤 田 一 郎 氏 の 義 子 で あ る。 秋 山 氏 は こ う 言 っ た。 「 中 国 で 戦 端 が 開 か れ た こ と を 心 配 す る 義 父 の 命 令 で、 北 京 に 赴 い て、 醇 親 王 に 見 え、 金 を 贈 っ て 寸 志 を 表 し て 来 る こ と に な っ た の で す 」。 私 は こ う 言 っ た。 「 結 構。 そ れ も 忠 の 一 つ で す よ。 あ な た は こ ち ら に 来 て か ら、 も う 中 国 の 士 人 に お 会 い に な り ま し た か 」。 「 ま だ で す 」 と の 返 事 だ っ た。 そ こ で 濯 に 言 い つ け、 二 氏 を 伴 っ て 正 蒙 書 院 へ 行 き、 張 経 甫 氏に会わせることにした。 原文   十八日〔廿九日〕聞曾根氏帰自福州、 往見問戦事。曰「法将狐抜将六艦進戦、 次将利士卑将五艦、 在後策応、 事出匇卒、 萬 砲 電 発、 中 兵 不 遑 一 発 砲、 死 傷 千 百、 二 将 奏 全 捷、 徐 々 率 諸 艦 出 海 口、 戦 後 二 旬、 海 面 死 尸、 無 一 撿 収 者。 洋 人 見 之 曰、 『 殆

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無 国 政 也 』。 問 何 子 峩、 曰『 造 船 局 兵 火 蕩 然 』。 見 子 峩 於 一 舎、 顔 無 人 色。 其 棄 局 而 遁、 有 官 金 三 十 萬、 為 潰 兵 所 攫 去。 其 漫 無 紀律、 槩 是類」 。   十 八 日〔 廿 九 日 〕 曾 根 氏 が 福 州 か ら 帰 っ た と 聞 い た の で、 会 い に 行 っ て 戦 争 の 状 況 を 尋 ね た。 彼 が 言 う こ と に は、 「 フ ラ ン ス の 将 軍 ク ー ル ベ ー は 軍 艦 六 隻 を 率 い て 進 み な が ら 戦 い、 次 将 レ ス ペ ス が 軍 艦 五 隻 を 率 い て、 後 方 で 策 応 し ま し た。 倉 卒 の 間 の 出 来 事 で、 た く さ ん の 砲 口 が 稲 妻 の よ う に 火 を 噴 い た た め、 中 国 兵 は 一 度 も 発 砲 す る 余 裕 が な く、 何 千 何 百 と い う 死 傷 者 が 出 ま し た。 二 人 の 将 軍 は 完 全 な 勝 利 と 上 奏 し、 徐 々 に 諸 艦 を 率 い て 海 口 を 出 ま し た。 戦 後 二 十 日 に な り ま す が、 海 面 に 浮 か ぶ 死 体 を、 引 き 上 げ よ う と す る 者 は 一 人 も い ま せ ん。 そ れ を 知 っ た 西 洋 人 は、 『 国 政 が な い に 等 し い 』 と 言 っ て い ま す。 何 子 峩 氏 に 尋 ね ま し た と こ ろ、 『 造 船 局 は 兵 火 で 跡 形 も な く な っ て し ま っ た 』 と い う 返 事 で、 子 峩 氏 に 面 会 し て み る と、 顔 に 血 の 気 が あ り ま せ ん で し た。 造 船 局 を 放 り 出 し て 逃 げ た た め、 官 金 三 十 萬 が 敗 残 兵 に 奪 い 去 ら れ て し ま っ た の で す。 以 上 の よ う な次第です。中国兵の規律のなさは、概ねこの調子ですよ」 。   十 九 日〔 八 月 一 日 〕 松 村 少 将 来 過、 曰「 米 人 已 刊 福 州 戦 記 ① 、 拠 其 言 云、 法 艦 不 絶 突 烟、 凡 三 日、 而 中 艦 不 敢 為 備。 凡 海 軍 与 敵 艦 対、 将 校 毎 十 五 分 時 間、 運 器 械、 不 令 敵 乗 間。 中 艦 懈 備 如 斯、 宜 其 取 大 敗。 法 艦 新 創 大 砲、 毎 一 秒 時 発 四 百 弾、 勢 如 百 雷 並 発。 故 烈 戦 僅 十 五 分 時 間、 能 砕 七 軍 艦・ 三 砲 臺・ 一 造 船 局。 勝 敗 速 决 如 此、 実 古 今 史 乗 之 所 未 曾 載 記。 先 戦 諭 中 人 及 各 国 人 在 埠 者、 曰 不 抗 者、 不 敢 害、 戦 畢 発 哨 船、 報 捷 各 国 諸 艦、 諸 艦 皆 遣 将 賀 捷、 狐 抜 引 見、 作 図 指 示 戦 畧、 泰 然 如 常。 放 水 雷 火、 尤 為 危 険。 将 校 任 是 事 者、 皆 分 必 死。 米 艦 見 五 兵 士 僵 水 雷 火 船、 遣 水 夫 救 出。 気 末〈 未 〉 絶。 其 人 曰、 「 隊 将 傷 在 下 室、 義不可独免」 。隊将亦曰、 「寧死不離此船」 。将士之重義如此。 【 注 】 ①「 福 州 戦 記 」 尾 崎 行 雄 が『 郵 便 報 知 新 聞 』 明 治 十 七 年 十 月 六 日 所 載 の「 特 別 通 信 」 の 冒 頭 で、 福 州 戦 争 に つ い て「 昨 今 は 米 国 軍 艦 エ ン タ ー プ ラ イ ズ 号 の 士 官 が 現 に 其 塲 に 居 合 せ て 実 際 見 聞 せ る 所 を 記 述 せ る 著 書 さ へ 出 版 に 成 」 っ た と 記 し て い る。 ア メ リ カ 海 軍 の

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James F.Roche と L.L.Cowen の 共 著 で、 一 八 八 四 年 に 上 海 の “Celestial Empire”Office で 印 刷 さ れ た と い う The French at Foochow が こ れ に 当 た る 可 能 性 が あ り、 そ の 偕 行 社 に よ る 邦 訳 が「 清、 仏、 福 州 戦 争 見 聞 録 」、 「 清 仏 福 州 戦 争 見 聞 録 」、 「 清、 仏、 福 州 戦 争 見 聞 記事」という題で、 それぞれ『偕行社記事』第百三十七号(明治二十七年七月) 、 第百三十八号(同年八月) 、 第百三十九号(同年同月) 、 『 精 華 』 第 三 十 二 号( 同 年 同 月 )、 第 三 十 三 号( 同 年 九 月 )、 第 三 十 四 号( 同 年 十 月 )、 第 三 十 五 号( 同 年 十 一 月 )、 第 三 十 六 号( 同 年 十 二 月) 、第三十七号(二十八年一月) 、第三十八号(同年二月) 、『東邦協会々報』第二号(二十七年八月)に掲載されている。   十 九 日〔 八 月 一 日 〕 松 村 少 将 が や っ て 来 て、 こ う 言 っ た。 「 ア メ リ カ 人 が『 福 州 戦 記 』 を 刊 行 し ま し た。 そ の 中 に こ う あ り ま し た。 フ ラ ン ス 艦 は 三 日 間、 煙 突 か ら の 炊 煙 が 絶 え な か っ た が、 中 国 艦 は 備 え を な す こ と が で き な か っ た。 お よ そ 海 軍 は 敵 艦 と 対 す れ ば、 敵 に 隙 を 突 か れ ぬ よ う、 将 校 が 十 五 分 ご と に 器 械 を 運 ぶ も の で あ る。 中 国 艦 は 備 え を 怠 っ た の だ か ら、 大 敗 を 喫 し た の も 当 た り 前 だ。 フ ラ ン ス 艦 は 新 た に 大 砲 を 造 っ た と こ ろ で、 毎 秒 四 百 弾 を 発 射 す る。 百 の 雷 が 同 時 に と ど ろ く よ う な 勢 い で あ る。 だ か ら、 僅 か 十 五 分 の 激 し い 戦 い で、 七 軍 艦・ 三 砲 臺・ 一 造 船 局 を 粉 砕 す る こ と が で き た の だ。 こ の よ う に 速 や か に 勝 敗 が 決 し た 例 は、 実 に 古 今 の 史 書 に 記 載 を 見 な い も の で あ る。 戦 闘 に 先 だ ち、 中 国 人 及 び 各 国 人 の 在 住 者 に『 抵 抗 し な い 者 に は 危 害 を 加 え な い 』 と 諭 し た。 戦 闘 が 終 わ り、 哨 戒 船 を 差 し 向 け て、 各 国 の 諸 艦 に 勝 利 の 報 告 を す る と、 諸 艦 い ず れ も、 将 軍 を 祝 福 に 遣 わ し た。 ク ー ル ベ ー が 将 軍 た ち を 引 見 し、 図 を 描 い て 今 回 の 戦 略 を 説 明 し た。 そ の 態 度 は い つ も と 同 じ く 泰 然 と し て い た。 水 雷 を 放 つ の は 極 め て 危 険 で あ り、 こ の 任 務 に 当 た る 将 校 は み な 必 死 の 覚 悟 で あ る。 ア メ リ カ 艦 は、 五 人 の水卒が水雷艇の攻撃を受けて倒れているのを見て、 救出すべく救助員を遣わした。水卒はまだ息絶えておらず、 こう言った。 『 司 令 官 が 負 傷 し て 下 の 部 屋 に い ら っ し ゃ い ま す か ら、 自 分 た ち だ け 免 れ る こ と は で き ま せ ん 』。 司 令 官 も こ う 言 っ た。 「 死 ん でもこの船から離れません」 。将兵の義を重んずること、かくの如くでありました」と。   二 十 日〔 二 日 〕 経 甫・ 問 羹 来 過。 携 詣 本 願 寺、 見 孝 順 ① ・ 無 適。 吟 香 及 秋 山・ 杉 田・ 松 本・ 関 口 諸 人 来 会、 暢 談 半 日。

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過 滬 報 館 ② 、 見 蔡 紫 茀 〔 爾 康 〕 ③ 。 中 土 法 不 得 刊 日 報、 唯 滬 報・ 申 報、 洋 人 雇 中 土 学 士 所 編、 故 不 得 禁 止。 二 報 日 刊 三 萬 紙、 可 知播布之盛、唯議論無一定旨義、且閲記雞籠 ・ 福州二変、道聴塗説、訛謬極多、足見探訪之粗。紫 茀 、姚子梁故人、滬報鉛槧、 出是人手。 【 注 】 ①「 孝 順 」 孝 純 の 誤 り か。 ②「 滬 報 館 」『 滬 報 』 の 社 屋。 『 滬 報 』 は 光 緒 八( 明 治 十 五 ) 年 五 月 創 刊、 総 主 筆 は『 字 林 西 報 』 の 総 主 筆 で あ る イ ギ リ ス 人 の フ レ デ リ ッ ク・ H・ バ ル フ ォ ー が 兼 任 し、 別 に 戴 譜 生 と 蔡 爾 康 が 華 人 主 筆 と し て 招 聘 さ れ た。 後 に『 字 林 滬 報 』 と 改 称された。③「蔡紫 茀 〔爾康〕 」蔡爾康(一八五八~一九二三頃) 、字は紫黻等。初期の『申報』の編集者も務めた。   二 十 日〔 二 日 〕 経 甫・ 問 羹 の 二 氏 が や っ て 来 た。 連 れ 立 っ て 本 願 寺 へ 行 き、 孝 順・ 無 適 の 二 氏 に 会 っ た。 吟 香 氏 及 び 秋 山・ 杉 田・ 松 本・ 関 口 の 諸 氏 が や っ て 来 て、 歓 談 し て 半 日 を 過 ご し た。 滬 報 館 に 寄 っ て み る と、 蔡 紫 茀 〔 爾 康 〕 氏 が い た。 中 国 で は 日 刊 紙 は 出 せ な い こ と に な っ て い る の だ が、 『 滬 報 』 と『 申 報 』 だ け は、 西 洋 人 が 中 国 の 知 識 人 を 雇 っ て 編 集 し て い る ものであるため、 禁止できないのだ。この二紙は一日三萬部を発行している。その広く流通していることが知られよう。ただ、 議 論 に 一 定 の 方 向 性 が な く、 且 つ 鶏 籠・ 福 州 の 二 変 に つ い て の 記 事 を 読 ん で み る と、 道 聴 塗 説 や 誤 り が 極 め て 多 く、 取 材 の 大 雑把なことがよく分かる。紫 茀 氏は、姚子梁氏の旧友で、 『滬報』の記事は、この人の手に成るものである。 原文   廿一日 〔三日〕 微陰雨意。余来上海日、 投陳理事 〔養源〕 ① 書、 求見邵道臺 〔友 溓 〕 ② 不報。経甫屢言道臺。是日従経甫往謁、 入 轅 門 下 轎。 侍 者 通 剌〈 刺 〉、 筱 村 ③ 礼 帽 出 迎、 儀 容 甚 粛、 延 就 別 席、 饗 点 心・ 洋 酒。 請 作 書 紹 介 輦 下 名 士、 曰「 諾 」。 問「 沈 梅史 ④ 官何地」 、曰「梅史為僕郷友、今官陝州、音書不絶」 。余約梅史是游、乃嘱遞致一書、一酌辞出。礼節至殷。   更過経甫。余曰、 「僕本擬見邵公陳所見供採択、 又恐交浅而言深、 重罪左右、 黙而退。盍姑退左右、 使僕終其説」 。経甫曰「諾」 。 余曰、 「法寇日深、目下岌岌、如坐漏船入深淵。不知李中堂公策将何出」 。   曰「中堂任重寄廿年、 糜国財不知幾百萬。而富強之功、 茫乎捕風、 如吾兄所見。朝廷特以其平粤匪功大、 不敢鈇鉞而己〈已〉 。

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其所任用、皆奔竸小人、軽 儇 俗吏、人心日離、国事日非、今日之事、皆此人之所為」 。   余曰、 「此豈中堂公一人之罪乎。中土承平二百年、 文恬武熙、 人事苟安。中堂公欲振刷弛廃、 奮起頽綱、 興富強之治、 而滔滔皆是。 何 処 得 人 材 任 大 事 乎。 僕 尤 所 服 於 中 堂 公、 一 聞 朝 鮮 乱 徒、 火 弊 邦 使 館、 授 旨 一 二 腹 心、 直 発 軍 艦、 擒 大 院 君、 坐 使 日 韓 二 国、 寂然無事 ⑤ 。此所謂疾雷不及掩耳。霹靂手段者、 非中堂公、 則誰思及此等策乎。顧法人以中土、 為無能為。若使中堂公决大策、 以 霹 靂 手 段、 出 彼 意 料 之 表、 則 可 以 得 要 契 也。 伝 曰、 国 有 大 事、 則 大 臣 越 彊〈 疆 〉 而 謀。 今 也 国 事 方 急。 中 堂 公 盍 奉 醇 邸 若 恭 邸 ⑥ 、 使 於 法 国、 見 大 統 領、 詰 責 中 土 何 所 負 法 国、 而 出 賠 償、 法 国 何 所 怨 中 土、 而 寇 鷄 籠・ 福 州、 就 条 理 之 所 在、 而 究 曲 直 之 所帰、 則可不衂〈 衅 〉兵而領局也」 。曰、 「曾侯在法国、 廷争此事、 窮言極論、 無所不至、 而彼侮慢愈甚、 無復為於此也」 。曰、 「此 輩 紈 袴、 直 為 法 人 所 玩 弄。 中 土 有 大 事、 委 樽 俎 大 任、 一 二 紈 袴、 此 所 以 愈 至 不 可 為 也 」。 曰、 「 曾 侯 謹 敏 達 洋 学 明 外 情、 大 為 可 取」 。曰、 「僕外人不知曾侯為人如何。唯曾氏論争曲直、 法廷不省。此僕之所以策中堂公奉醇邸若恭邸、 使于法国、 以霹靂手段、 出彼意料之表也」 。曰、 「子策非不妙、唯醇邸今上生父、不肯賠償、実出此人。恭邸矜貴、専対非其人。豈任大事乎」 。   曰、 「奉醇邸若恭邸、 特借親王名号而己〈已〉 。親王尊降皇帝一等、 可与彼抗礼無讓。若夫折衝樽俎、 以辨彼此曲直、 中堂公之任。 且法人服我言知所悔、 則固善矣。若不服我言、 則姑請休戦、 直赴普英二国、 説法人乗中土承大乱初収、 上下困弊之餘、 無故構難、 悍然逞虎狼之欲、 不特為中国之巨患、 抑又非英普之長策。法為普深讐、 英亦不悦法人得志東洋。彼固思立功於中国、 以勢圧法人。 况 中 土 命 親 王 陳 国 情、 請 其 居 間 為 謀、 豈 有 坐 視 彼 無 故 搆 難、 魚 肉 中 土 之 惨 乎。 若 彼 不 肯 所 言、 則 直 航 米 国、 見 大 統 領、 虚 心 問 策所出、 則米国強大、 殆敵全欧、 観中土窘窮、 命親王大臣、 萬里問策、 不敢軽答、 必開国会、 問策国内紳董。蓋米致強大無他、 以 新 築 七 千 里 鉄 道、 盛 開 桑 港、 通 東 洋 之 貿 易 也。 故 彼 待 中 日 二 国、 特 為 懇 至、 策 投 事 変、 為 英 普 之 所 不 為、 所 以 厚 交 中 土 也、 必矣。此三者一得要契、 則不傷一卒、 而中法帰好也。若夫鑿斯池、 築斯城、 与民致死不去 ⑦ 、 此忠臣義士百策共尽、 進退維谷、 而 後 所 為。 若 是 三 者 不 一 得 其 要 契、 此 天 事 人 事、 一 至 此 極 者。 於 是、 率 天 下 之 義 士、 鳴 法 虜 之 罪、 委 成 敗 於 天、 大 義 之 所 在、 致 死 無 貳、 出 今 日 之 所 為 ⑧ 、 末〈 未 〉 為 晩 矣。 抑 僕 所 畏、 有 大 焉 者。 粤 匪 雖 乱 賊、 要 之 中 国 人、 彼 興 此 亡、 所 謂 楚 人 失 之、 晋

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人得之 ⑨ 者、 無所得失也。今也凜乎坐漏船、 偸一日之安、 無出一偉策、 済目下之急、 則分裂為五胡之割拠、 統一為蒙古之臣虜、 唐虞三代、 礼楽制度、 文武周孔、 文物典章、 蕩然掃地、 代六経以新旧約書、 代五教以十戒、 代聖廟以礼拝堂、 駆億萬直道之民、 行洗礼、 拝十字架、 猶今三印度 ⑩ 奉英、 安南奉法、 此豈食其土之毛 ⑪ 者所忍為乎。僕在日東、 目撃欧米事興以来、 治乱興廃之故、 畧 知 東 洋 所 以 致 今 日 之 難、 己 以 疎 狂、 為 当 路 所 外、 常 思 一 遊 中 土、 見 一 有 心 之 人、 反 覆 討 論、 以 求 中 土 為 西 人 所 凌 轢 之 故。 今 夏始航此、 会法人開是変、 窃以為凡事皆有機会、 唯一二見幾之士、 乗擾乱之機、 投風雲之会、 奏廓清之功、 如敝邦承積弊之餘、 一 掃 立 国 三 千 年 之 陋 習、 建 明 治 中 興 之 基 也。 然 則 法 人 開 是 変、 天 実 降 一 大 幸 運 於 中 土 也。 葢 中 土 承 平 日 久、 国 初 良 法 美 意、 一 変 為 徒 文 徒 法、 凡 百 敝 害、 無 所 不 至。 此 殆 天 使 有 為 豪 傑 之 士、 得 一 出 施 其 力 也。 抑 中 土 大 病、 在 在 上 大 臣、 矇 於 域 外 大 勢、 知 中 土 為 礼 楽 文 物 之 大 邦、 而 不 知 域 外 礼 楽 文 物 之 大 邦、 如 中 土、 隣 並 相 望。 今 中 堂 公 奉 醇 恭 二 親 王、 一 周 游 域 外、 目 撃 彼 之 致 強 盛、 皆出講格致之実学、 開工藝励政治盛教化之餘。文明之治、 政法之懿、 風俗之美、 人材之良、 非中土之所能及、 則其奮然勃然、 師 帥 百 僚、 淬 励 群 司、 謀 所 以 転 禍 為 福、 翻 危 為 安、 果 為 如 何。 欧 米 各 国、 亦 嘉 中 土 重 隣 誼、 恤 国 難、 不 敢 私 議 国 家 大 事、 特 発 親 王 大 臣、 虚 心 降 巳〈 己 〉、 諮 詢 同 盟 各 国。 仮 令 其 所 請、 或 不 相 諧、 亦 将 感 其 信 輸 其 誠、 為 中 土 善 後 之 計 也。 此 亦 千 歳 不 再 来 之 機、 亦 惟 在 中 堂 公 為 二 百 年 宗 社、 三 千 億 蒼 生、 一 出 决 大 計 靖 大 難 而 已 」。 経 甫 黙 然 久 之 曰、 「 僕 為 此 事、 寝 不 安 食 不 甘、 懵 焉 如 有 所 失。 今 聞 先 生 言、 始 知 国 事 猶 可 有 為、 僕 且 思 之 」。 余 曰、 「 先 生 既 嘉 僕 所 、 盍 以 此 坐 所 筆、 示 邵 道 臺、 謀 所 以 実 施 」。 曰「敬諾」 。   余策是事有日、将得其人而尽其底蘊、不敢告人。今経甫一聞、諒余心所在、中土固不乏有心之人也」 。酒飯、更深帰寓。 【注】 ①「陳理事 〔養源〕 」陳允頤、 字は養元。明治十五年二月十四日から十六年二月三日まで清朝横浜理事府の正理事官であった。② 「邵道臺 〔友 溓 〕」 邵 友 濂(?~ 一 九 〇 一 )。 字 は 小 村。 光 緒 九( 明 治 十 五 ) 年、 蘇 松 太 道 と な っ た。 ③「 筱 村 」「 筱 」 は「 小 」 と 音 が 同 じ。 邵 道 臺 の ことであろう。④ 「沈梅史」 明治十年十二月から二年間、 清国駐日使節の随員を務めた沈文熒のこと。梅史はその号。浙江省姚江の出身。 ⑤「 一 聞 ~ 無 事 」 明 治 十 五 年 七 月 二 十 三 日、 大 院 君 ら の 扇 動 を 受 け て 漢 城( ソ ウ ル ) で 起 こ っ た 閔 氏 政 権 及 び 日 本 に 対 す る 大 規 模 な 朝

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鮮 人 兵 士 の 反 乱( 壬 午 軍 乱 ) の 際、 日 本 は 軍 艦 四 隻 と 千 数 百 の 兵 士 を 派 遣 し た が、 清 国 も 朝 鮮 の 宗 主 国 と し て 属 領 保 護 を 名 目 に 軍 艦 三 隻 と 兵 三 千 を 派 遣 し て 反 乱 軍 を 鎮 圧 し、 大 院 君 を 天 津 に 連 行 し、 朝 鮮 に 圧 力 を か け て、 閔 氏 政 権 を 復 活 さ せ た。 ⑥「 醇 邸 若 恭 邸 」 醇 邸 は 醇 親 王 の こ と。 恭 邸 は 宣 宗 道 光 帝 の 第 六 子 で あ る 奕 訢( 一 八 三 一 ~ 九 八 ) の こ と。 宣 宗 が 没 し、 そ の 第 四 子 で あ る 咸 豊 帝 が 立 つ や、 恭 親 王 と な り、 政 治 に 参 与 す る よ う に な っ た が、 そ の 後、 西 太 后 に 推 さ れ て 醇 親 王 の 子 載 が 光 緒 帝 と な る( 一 八 七 五 = 明 治 八 年 ) と、 西太后の妹を妃とする醇親王が西太后の腹心となったのに対し、 恭親王は政権の圏外に落ちた。⑦「鑿斯池、 築斯城、 与民致死不去」 『孟 子 』 梁 恵 王 下 篇 の 言 葉 に 基 づ く。 ⑧「 出 今 日 之 所 為 」 意 味 不 明。 や む を 得 ず 訓 読 し て お く。 ⑨「 楚 人 失 之、 晋 人 得 之 」『 孔 子 家 語 』 好 生 に「 楚 王 失 弓、 楚 人 得 之、 又 何 求 之 」 と あ る。 ⑩「 三 印 度 」 ほ ぼ ヒ ン ド ゥ ス タ ン 半 島 の 全 体 を 言 う と 思 わ れ る。 世 界 地 理 を 記 し た 明 治 初期の書として松山棟菴訳述 『地学事始   初編』 (明治三年) があるが、 この書は 「印度」 を今のインドシナ半島に当たる 「遙東印度」 と、 ヒ ン ド ゥ ス タ ン 半 島 に 当 た る「 院 土 須 丹 」 に 分 け、 「 院 土 須 丹 」 を さ ら に「 英 国 所 領 の 部 」「 英 国 の 保 護 を 受 る 部 」「 独 立 の 部 」 の 三 つ に 大 別 し て い る。 そ の 大 半 が イ ギ リ ス の 影 響 下 に あ っ た た め、 こ の 三 部 を「 三 印 度 」 と 総 称 し た と 思 わ れ る。 ⑪「 食 其 土 之 毛 」『 左 伝 』 昭 公七年に「食土之毛、誰非君臣」とある。   廿 一 日〔 三 日 〕 薄 曇 り、 雨 模 様。 上 海 に 着 い た 日、 陳 理 事〔 養 源 〕 に 書 簡 を 投 じ、 邵 道 臺〔 友 溓 〕 と の 面 会 を 求 め た に も か か わ ら ず 返 事 が な か っ た の だ が、 経 甫 氏 が 何 度 も 道 臺 に 話 を し て く れ た お か げ で、 今 日、 経 甫 氏 に 連 れ ら れ、 会 い に 行 く こ と が で き た。 正 門 を 通 り、 轎 か ら 降 り る と、 侍 者 が 名 刺 を 通 じ、 礼 帽 を か ぶ っ た 筱 村 氏 が 迎 え に 出 て き て く れ た。 大 変 丁 重 な 物 腰 だ っ た。 別 席 に 案 内 し、 点 心 と 洋 酒 を 振 る 舞 っ て く れ た。 都 の 名 士 へ の 紹 介 状 を 頼 む と、 応 じ て く れ た。 「 沈 梅 史 氏 は ど ち ら に お 勤 め で す か 」 と 尋 ね る と、 「 梅 史 氏 は 私 と 同 郷 で す。 今、 陝 州 で 勤 め て お り ま す が、 手 紙 の や り 取 り は 欠 か し て い ま せ ん 」 と 答 え た。 私 は 梅 史 氏 に 今 回 の 北 京 行 き を 約 束 し て い た の で、 彼 あ て 手 紙 を 書 い て お い て く れ る よ う 頼 ん だ。 ち ょ っ とだけ酒を酌み交わして、辞去した。非常に心のこもった応接であった。   さ ら に 経 甫 氏 の 所 に 立 ち 寄 っ た。 私 が、 「 私 は も と も と、 邵 公 に お 目 に か か り、 所 見 を 申 し 伝 え て 採 択 に 供 し た い と 思 っ て

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社会福祉法人 共友会 やたの生活支援センター ソーシャルワーカー 吉岡

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