公民教育の源流
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(2) . 昭和45年1月. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第 20 巻 第 2 号. 公. 民. 教. 高. の. 育. 山. 次. 源. 流. 嘉. 北海道教育大学函館分校社会科教育研究室. i TAKAYAMA: Source of Col ty Civics 1sugiyosl li l ・mul ・. は じめ に 小学校社会科の目標に, 公民的資質の涌養 が掲げられ, 中学校の政経社 分野を公民的分野と改 称 さ れ た こ と か ら, 公民 が論議の的にな っ てきた. 公民即 おおみたから 公民教育即皇民 教育だとする議論が多いけれども, いわゆる公民教育 がどのような経過を辿っ て成立し, どのよ うな歴史的性格をもっ たものであるかを正しく把えての論議は, 必ずしも多くはない. そこで, 公民教育の源流をなすものとして, 明治後半の法制・経済及び国民科の教育と 「国民道徳」 の教 育の生成展開 について論究したいと思う, 1, 政治的知識の啓蒙と排除 「学制」 頒布ころの小・中学では 「政体大意」 「記簿法」 「国体学」 「国勢学」 「経済学」 等 の科目を課 すことが規定されていた. 当時の低い就学率, 教科書の不備, 教師の能力不足等を考 慮するときこ れらの学科目が 国民の政治経済的教養の向上に大きな貢献をしたなどと考えること は で きな い, し か し 「国 家 ノ 以 、テ 富 強 安 康 ナ ル ユ エ ソノ モノ, 世 ノ 文 明, 人ノ 才 芸 大 二 進 長 ス ル モノ ア ル ニ ヨ ラ ザル ハ ナ シ ……普ク人民ラ シテ其方向ヲ大 定 シ其成ル事ヲ後始末二期シ文明ヲ世. ) 二浸沢シ」 ようとした維新政府の民衆啓蒙・文明開化の姿勢をうかがい知ることはできよう1 . 、抵抗を示して 返 鱒 愈 諸勢ヵや無知蒙昧の故に反動的な行動をとる農民などの反政府分子が 強し いた間は, 翻訳教科書や開明的民権論的な福 沢諭吉・加藤弘之・中村正直等の著書が小中学校の 教科書として使用されても支障 がなかっ た, むしろ反動的諸勢力を駆逐する上の頼もしき友軍で あり武器ですらあっ たといえよう. しかし反革命勢力の武力的反抗も西南の役を以て一応の終止 符 が打たれると, 絶対主義的な維新政府にとっ ての当面の敵は, 民撰議院の設立を要求し専制的 な政府を攻撃する自由民権派となっ た. ,民権運動の高揚に対しては新聞紙 条例・譲誹律や集会条 例等によっ て弾圧する 一 方, 国会開設に関する詔勅によっ てこれを鎮撫しようした. 民権運動の担い手は不平士族 が多かっ たが, 当時の小学校教員や師範学校生徒の大半は士族出 身者で占められていたから, 学校は民権運動の拠点となることも少なくなかっ た. 明治十年代前 期は 「民権は師範学校の深林中より生ず」 といわれた程教員や師範学校生徒の民権熱は高く, 小 ) 学生でさえも演説会を開くという状況にあ った2 . そこで政府は, 学校を政談演説等に使用する ことを厳禁するの令達を発し(明治1 2月) 4年1 , 集会条例第七条によ っ て教員生徒の政治集会・政治 - 断 -.
(3) . 公 民 教 育. の 源 流. 4年7月)を布いて, 「新聞 結社への臨会, 加入を禁 じた, そしてさらに, 教員品行検定規則(明治1 紙条例二拠り禁獄二処セラ レタ者」 も集会条例違反者も, 「総テ教員タルノ面目二関スル汚行ア ) ル 者」 と し て排 除 し よ う と し た3 ,. 一方, 教育内容についても統制が強化された, 教員心得, 教学大旨, 幼学綱要等の儒教主義の 復活強化の中で, 「学制」 時代に使用されていた翻訳教科書や 開明的教科書のうち, 生理学関係 の書物, 西洋倫理や 民権的政r体論を説く相当数の書籍を 「国安ヲ妨害シ風俗ヲ索乱 (シ) ……教 育上弊害アル書籍」 として使用を禁じた. 禁書の中には, 最もよく使われていた箕作麟祥の 「泰 西勧善訓蒙 後編.続編」 をは じめ, 中村正直の 「西国童子鑑」 加藤弘之の 「国体新論」・「立憲政 体略」 福沢諭吉の 「通俗国権論」・「通俗民権論」 のほかに, 阿部泰蔵 「修身訓」 大井鎌吉訳 「威 3年8 氏修身学」 小林儀秀訳 「政体論」 等文部省自らの 印行に係るものさえ含まれていた (明治1 ~9月).. さらに, 改正教育令に基 づく明治14年5月の小学校教則綱領においては, それまで下位にあっ た 「修身」 が学科目の首位に掲げられ, 「国体学」 「政体大意」 等の法制に関する学科目は一切 消え失せ, 僅かに高等科において 「経済ノ 初歩ヲ加へ, 殊二女子ノ 為ニハ経済二換へ家事経済ノ 大意ラカ ロフルモノ」(第四条) と経済だけが残されたにす ぎなかっ た. 同年の中学校教則大綱でも 初等中学科では 「経済」 と 「記簿」 が四学年で課せられたにす ぎない(第三条) . 明治19年の学校 令と各校の 「学科及其程度」 になると, それまで辛く も生き残 っ ていた唯一の政治・経済関係教 科 「経済ノ 初歩」「経済学」 が小学校はもちろん中学校からさえ消去され, 立憲政実施前の政治・ 経済的教養のいよいよ必要とされるこの時期に’ 全く逆方向の処置がとられたのである. このような教育と政治との隔絶政策は憲法発布後においても続けられた, 明治22年10月 には「教 員生徒学術ノ 講談演説ヲ為ス節現在ノ政務二関スル事項ヲ可否討論スル等 ……尚一層厳重取締可 致此段為念更二訓令」 を発し, 12月には集会条例に違反した者や政党に関係する者は,教員たるこ とを差止 べきことを省令を以て布達した, 翌23年7月 の集会及政社法でも教員生徒は政社加入は もちろんのこと, 政談集会会同も禁止されていた, 第一議会においても, 教員・生徒・未成年者 ,女子等の政談集会会同を認める改正案が提案され, 甲論乙駁の末衆議 院は通過したが, 貴族院 では警 保局長清浦杢吾等の強い 反対などもあって消滅してしまっ た, 以来, 毎年のように改 正案 3年) が上程され, 26年には改正法が成立したけれども結局は改善されないまま, 治安警察法(明治3 だけは認められたのである に引継がれ, 集会会同 . 5・7・省令第8号), そ 憲法発布, 教育勅語換発の直後, 師範学校の学科及程度が改正され (明2 れまでの 「倫理」 を 「修身」 と改称して 「教育勅語ノ 旨趣二基キテ 人倫道徳ノ要領ヲ授ク」 るこ とが明記され, 四学年 (男子) では 「更二帝国憲法ノ 要領ヲ授ク」 ることにしている. これが唯 一 の例外ともいうべ き法制教材である が, それがおかれた理由は, 憲法が 「臣民タル者皆常二遵 奉- 洛守スヘキモノ」 であり, 小学校の修身に 「国家二対スル責務ノ 大要ヲ指示スヘク規 定シタ」 ミ ロラ ツメ ソトス」 るものであ ので, 師範学 校 の修身は 「憲法ノ要領ヲ授ヶ主トシテ臣民ノ 責務ララ ヲ 忘 ル ガ如 キ コ トア ル ヘ っ た, そ れ ゆ え 「其 要 領 ヲ 知 ラ シム ル ニ 止メ 徒 二 法 理 ヲ 談 ツ修 身ノ 目 的. カラス」 (筆者傍点) との禁令が付され ており, 国民道徳修養上の効果はともかく, 憲政教育上の 効果は期待す べくもなかっ たと思われる. さらに明治27年1月 井上毅文相によっ て発せられたい ・政論二干預ッ……何等ノ党派 ・政論ノ 外二特立スヘキ者 ニッテ ……教員ノ わゆるキ 脊口訓令 「教育ノ 二向 テモ 直接二間接二選挙ノ 競争二関係スヘカラス」 として教員の被選挙権を剥奪した, この時 期におけるこのような強力な教育の政治からの分断 o 隔絶政策が, 教員をして政治を忌避させ あ 7- -1.
(4) . 高. 山. 次. 嘉. るいは無関心にし, 政治的経済的知識を貧しくさせ, 一般 国民の政治教養を不毛にし, 選挙を腐 敗させ, 立憲政の運用を低迷させたことは, 後の憲政 教育公民教育擁護論者 がひとしく指摘する と こ ろ で あ る,. 台頭 ロ. 憲政教育論のヰ 日清戦争を経過して産業 が著しく発展するのにともなっ て, 民党がその支 持基盤を斜陽不平士 族から有権者たる資産階級へと変えていく とき, 仇敵藩閥政府との間に妥協提携が成り立つ, さ らに, 元老に覚えの悪い党首を戴く民党員には, 権力の座や利権 にありつくことは永久にでき難 く思われたし, 他方, 超然主義を標議し 「かの ビスマルクを見よ」 と豪語した藩閥政治家も, 久 しい議会操縦に疲れ果て, いつ破綻をきたすかもしれない外様 との提携よりは, 意のままに動く 親藩を求めていたから, 民党と絶対主義の政治家との野合は, むしろ自然の成り行きですらあっ た, また, 三国干渉に対して臥薪嘗胆を合言葉に国力の増強を図り雪辱を期そうとする為政者に とっ て, 国民にサー ベルの威力に盲従させる対象であるよりは, 国事に関心を持 ち, 盛り上る愛 国心で為政者を支持してくれる力となることを期待するようになる. このような事態の変化は, 教育と政治の間の関係にも当然に影響する, 儒教風に忠孝などタテ 、 伊 の道徳を強調する傾向に加えて, 公徳心・愛国心な どヨコの道徳 が強調されるようになる4 , 藤内閣で二度文相を つとめた西園寺公望は, 儒教主 義に基づく, 固晒な上下道徳のみの教育勅語 をもっ とリベラルなものに改めようとして, 明治天皇・伊藤首相の内諾まで得 ていたのであった ) し5 , 国定修身書編纂の起草委員の中には 教育勅語の撤回を求めるような委員も参加していたの ) である6 . こうしたなかで, 最初の政党内閣たろ隈板内閣の文相, 尾崎行雄は, 辞職の因となり 憲政党分裂の因ともなっ た共和演説事件の直前, いわゆる箱口的諸訓 令を廃止する訓令を発し, 教員の被選挙権を回復させた. また, 集会及政社法に代るものとし て明治33年に成立した治安警 ) 察法では, 教員の政談集会参加だけは認めるようにな っ た? . 教育内容の面についても, 積極的に政治教材を教科書に編入しようとする意見 が現われるよう にな っ た. 明治31年5月, 衆議院に 「代議士選挙に関する心得方を小学校教科書に編入するの建 議案」 が利光鶴松らによっ て提出された. 利光は提案理由を説明し, 選挙の悪弊の因は選挙法 の 不備のほか, 人民の立憲的知徳の欠乏によるものであるから 「荷も立憲政体の世の中となります なれば 単に忠孝の二つのみ徳育の本源と致して愛国の本義と云うものを 之を以て徳育の本源と致 さずに打捨てて置くと云うことは決して宜しくない. ……殊に此憲法政治を行ひまして人民一般 に参政の権利を行ひまする」 上は どうしても此観念を養成する必 要があらうと思ふ…… (義理・ 人情や) 賄賂を取 っ て自分の意志に背く人に投票するなどと云ふことは 実に 憲政を潰し愛国の本 義に背くと云ふ筋合をも知らしめ」 ること が 肝要だと述 べ ている, 要するに利光は立憲的智徳と いいながらも智よりも修身徳育, 特に愛国心喚起の問題として提起したのであっ たが, この建議 案は保守革新双方から賛成を得られず, 否決されてしまっ た, 保守的な立場をとる人々は, 教則大綱に国家に対 する責務や廉恥を重んずべ きことを規定して あるから, 徳育の酒養を十分すれば 「特に選挙法のことを教へま せぬでも, 十分此弊害を避ける ことが出来る」 はずであるし, 元来, 教育と政治とは別ものであり, 「今日小学校あたりでは決 して政治の事は教科書どころでなく, 一般の談話にすら禁じてある位でございます. …… (それ を) 教科書に選挙のことを書くと云ふことになれば, 詰り教育と政治との混同すると云ふ )やぅな 嫌はありはしまいか」 それに第 一, 「三百の代議土中誰も賄賂を以て選挙されたものは一人もな - 18 -.
(5) . 公 民 教 育. の 源 流. い」 のにこのような建議をすると云うことは 「実に議場の神聖を滴することと考へますから 此案 ) を速に否決あらんことを希望致します」 と, この程度の建議にすら反対したのであっ た8 。 しかし, また 一方には 「此本案よりは一層進んだ修正案」 があっ た. 賄賂をとらないといっ た 選挙の心得だけを修身の教科書に入れたく らいでは 「立憲政体の完備を期すると云ふ に は ま だ 足らぬからして己むを得ず私は反対を致しました」 という門馬尚経は, 「彼の英吉利に公民読本 と云ふものがありますが, それには代議政体のことを書いてあります. さう云ふやうなものを編 成して……一部の書物を椿へて 高等小学の教科書にしたならば宜からぅ」 という意見を出した. 門馬の修正案は, 徳育の不足を認めつつも代議制や責任内閣制など立憲政治の制度一般 を修身か ら独立した公民読本で教えようとしている点では劃期的なものといえる. それから4年後の明治35年第1 6議会においては, この門馬の意見にも近い, 憲政上 の知識の教 が全会一致で可決されている 育を重視する建議案 , 根本正らは 「憲政の完美を期するに は国民を して政治上普通の智識を養成し 議員を選挙し以て其の生命財産及権利を保護せしめざるへ からず ……国民をして選挙権の重要なることを知らしむる為 憲政の要旨を普通教育教科書中に編入」 す るよう建議したのである, 根本は, 世にいう腐敗は人民自ら造 っ たものでなく, 政府の干渉によ り生じ, 教育の不足から起こったものであるから, 「立憲政治の何たるかを知らせて此選挙権の 大切なる事を教へ…… 如何なるものが人民の権利であるか義務であるかと云ふことを幼少のとき に教へたならは必ず立派な憲政が行なわれる訳であります。 …・ . ・教育のある地方には選挙 の時に 一文も金を使はぬでなる事が出来る」 と, 高知の植木枝盛の例をあげて説いている, 根本の建議 案が利光のそれと異なるところは, 門馬同様に憲政上の知識の教育を重視する点だけではない. それ以上に注目しなければならないのは, 個人の生命・財産・権利の保護を憲政の目標に掲げ, 権利・義務の教育を強調し, その発想の仕方の中に功利主義的社会契約説的な, あるいは ブル ジ ョワ的な国民国家論を感じさせる点であろう. 根本らの建議は可決され, 憲政の要旨が小学校教科書に編入されることになっ たその年の暮, いわゆる教科書疑獄事件 がお こった, 帝国議会でも一度ならず教科書国費編纂の建議がなされ, 修身と国語についてはすでに編纂の作業が進められていたが, 政府はこれを機会に, 小学校の主 要教科の教科書を国定することにしたのである. これについて, 根本正は 「僅かの役人・曲学阿 世的の学者が編輯したものを幾百万と云ふ愛する子弟に強て読ませんとするは 実に国の方針と云 ふものを誤まらしむる」 と, 官撰教科書に反対し, 民間で競争させ, 国民の与論を以て自然と良 いものが選ばれる べきだと主張した。 (明治3 8議会) 6年5月第1 国定教科書は明治37年度から使用され始めた. 教科書はたしかに3割以上も安くな り, 良質に はなっ たが, 教育の官僚支配と軍国主義的傾向, さらには国民思想の統制を一層強めることにな った. 国定教科書のうち尋常小学の高学年や高等小学の読本・修身には, 法制・経済・実業・社 会などのいわゆる国民科教材 (国民的教材) がかなり多く採り入れられ, その面での進歩改善は 否定す べか らざる事 実である. 例えば, 尋常小学読本の最後の巻第8巻には, 1 ,郵便, 2 .新聞, 工 3 貯金 5 武雄の入営 6 軍人 7 赤十字 1 3 明治維新の前と後 4 業 1 4 わが帝国 6 , , , . , , , . , . , . , ,1 .わ が国の物産, 17 8 ,選挙, 1 ,帝国議会などの課が設けられていた, m, 法制及経済と国 民料 日清戦争前後におけるわが国の産 業の発展はめざましいものがあり, それが教育の普及を可能 ・義務教育における就学率の にする一方, それはまた教育の一層の普及を強く望むものであっ た. - 19 -.
(6) . 高. 山. 次. 嘉. 向上とともに, 中等諸学校への進学率も上昇し, 多数の中等学校が増設された, 政府はとりわけ 実業教育を奨励し援助 を与えたが 中学校より一足先に改善を企て, 明治32年2月には実業学校 商業等の各学校規程が発令され, 各学校の学科目が明 令が発布された, これに基づいて農・工・◆ らかになっ た. 産業経済の発展にともない, 実業者にとっ ては政治・経済・社会的知識が必要不 可欠になりつつあっ た, またすでに見たように,.選挙の悪弊を除去し, 立憲政体の完美を期すべ く, 小学校の教科書に国民料的教材を編入しようとする動きのあっ た時であるから, 学校令以来 久しく姿を消していた法制経済関係の教科 が当然に復活されることになっ た. しかし, 必修科目 となっ たのは農業学校の経済, 商業学校の経済と法規ぐらいの もので, 他は随意加設科目にすぎ なかっ た, 法制及経済が実業学校で必修科目となるには, 大正10年における各学校規程の改正に ま た ねを ならなかっ たが, その場合でもまだ女子には課されはしなかっ た.. 中学校についてこれをみると, 明治34年3月 の中学校令施行規則 によ っ て法制及経済が設けら れた. 「法制及経済ハ法制及経済二関スル事項二就キ, 国民ノ 生活二必要 ナル知識ヲ得 シムルラ 以テ要旨 トス, 法制及経済ノ ・現行法規ノ 大要及理財財政ノ ー班ヲ 授」 くる も ので, 最終学 年にお いて週3時間がこの科の教授のために割当てられていた(翌年省令で週2時間に改正) . けれども, 法 制及経済はいわゆる随意科目であっ たから, 大正の半 までもその実施率は3 分 の 1 程度であっ た. その後においても, 実業学校と違っ て公民科に変るまで必修科目とされることがなかっ たか ) ら昭和3年でも実施率は約4分の3であっ た9 , 女学校については, 漸く, 大正9年7月 の規則改正で法制及経済は随意科目として加えられた ) o が, 昭和3年の調査によると僅か4分の1の学校で設けていたにす ぎないl . 師範学校について みると, 男子にはそれまで修身に付帯して 「帝国憲法ノ要領ヲ授ク」 ことになっ ていたが, 明治 40年4月 学校規程を改正して法制及経済を新設し, 必修科目として本科第4学年において週2時 間宛これを課することにした. 女子については, 最終学年の修身に相当量の 「現行法制上ノ事項 ノ 大要ヲ加」 えて授けることにしたが, 大正i4年4月の改正によ っ て男子同様法制及経済を独立 し て課 す こ と に な っ た,. 5年2月 布令された. それは新設学 中学校の法制及経済の教授要目は, 他の学科目と共に明治3 科目であっ たためか明治44年7月 に改正された教授要目に較 べると, 詳細に項目を掲げ, 教授上 ;シテ ヂ i の注意も丁寧をきわめたものであっ た. 「理論二馳セズ学説二泥マズ日常生活ノ事実 二関耳 之ヲ授ヶ国民的経済的思想ヲ養ハソ」 とするこの教授要目の項目は, 国家の組織・機構・行政官 庁・地方制度・司法制度等の公法関係, 財産法・親族法・相続法等の私法関係, 生産・交換・分 配・消費・財政等の経済 一般 を網羅したものであ っ て, 近代的法治国家の国民生活に必要不可欠 の社会常識一覧と いっ た観がある, 明治44年の教授要目は, 整理されて簡略になっ たが, 憲法発 布ノ 勅語, 法ノ 重ソズベキ所以などの項目と, 注意に 「法文二拘 泥セス制度ノ精神ノ 会得」 など とは時イヒの風潮を多少反映しているけれども, この学科目の知識主義の傾向を覆すほどのもので な い.. 法制及経済は, 立憲政体の完美のために立憲国民たろの政治的教養を与えること が設置の主要 な理由の 一つであっ たのであり, それは国民教化の道徳教育ではなく, かつて ドイツの裁判官が 1 ) という観点 1 論じたように 「国民間に法律の知識を普及するのは政治運転上大なる経済である」 から 「国民ノ 生活二必要ナル知 識ヲ得」 させようとするもので, 制度そのものをそれとして教え 1 2 ) があ るものであっ た, 教授の現実が 「専門的知識ヲ授クル;傾キ実際生活二適切ナラザル嫌」 「 事実的説明ラナシ以テ遂二道 っ たばかりでなく, 制度そのものをそれとして教えるだけであり - 20 -.
(7) . 公 民 教. 育 の 源 流. 1 ) ことをせず, 「公共ノ 為二奉仕 シ協同シテ事二当ルノ 気風ヲ養ヒ公民的陶 9 義二帰結セシムル」 1 4 ) 冶ヲ為ス」 ところが不足であっ たから, すなわち, 知識中心で制度一般, 原理一般を説き, 徳 育・教化の要素に乏しく合理的ですらあったがゆえに, やがて公民科に取 っ て代わられねばなら な か っ た の で あ る.. このころになると, かつて教育界を風 摩したペスタロッ チやヘル バル ト派の教育学説に代っ て 社会的教育学が樋口勘次郎, 谷本富, 吉田熊次やその他の少壮学者によっ て紹介・唱導されるよ うになっ てきた, そして, 漸く教育学者の間にも小学校においても法制経済的教育がなされるべ きことを主張する者が現われた, 「国家社会主義新教育学」(明治3 7年刊)の中で, 「高等小学校を 出でたるものにても, 市町村の何たるを知らず, 国家の組織を弁ぜず, 行政・司法・立法の機関 を解せず, 殊に議員選挙の義務・権利と憲法政治の真正の意 味とを知らぬもの否之等に付 て漠然 たる思想だになきもの比々皆然るに非ずや ……教育界中一人の此事を大声疾呼して多数を警 醒し たるものなかりしを惜しまずんばあらず」 と慨歎したのは樋口勘次郎であっ た, 「富の教育」 を標議し, 実際的実利的教育を主唱していた谷本富も, 「新教育学講義」 (明治3 9 年刊) において, 国民教科の不備をつき, 特に小学校教育における経済思想酒養の急務を説 き, 小学校令を改正して国民的教科 を編入すべしと論じた, 森岡常蔵は, フラ ンスの Linstruction l Civique, ドイ ツ の Bt irgerkunde Gesel schaftkunde を国民科ないし市民料社会科と訳し 欧米 , , の 教 育 の 理 論 と 実 際 を 紹 介 し て い る, こ の 方 面 の 教 育 に つ い て は, フ ラ ンス が 最 も さ か ん で あ り. 国民科を特設して, 初等科では国民的志操を覚醒すべき事 実の談話説明, 中等科ではフランス国 制度の一般概念, 高等科では政治・行政・裁判の組織のやや高き概念 を教えていることを, その 教科案を掲げて紹介している. しかし ドイ ツの教育論義を紹介して, ドイ ツの教育界の大勢は国 民科的知識の必要を大いに認めながらも新しい教科目として特別に教授することには反対 で, 諸 料教授の際機会あるごとに修養すべきだとしていること, イ タリーでは, 歴史・地理の教授と共 に市民・国家及び政府に関する知識を与えることに勉め, 合衆国では, 歴史 に併せて国民として の道徳を教授すべきことに注意していることを紹介して, 「私は仏蘭西の制度に 倣って修身料と 密接に関係させて国民料を別に置くことは賛成せぬ. それよりも伊太利や合衆国の如く歴史或は 歴史地理の二科と結合して, この知識を主として授けやうと思ふ」 とその立場を明らかにしてい ) 5 る1 , 森岡は, 歴史教育が過去の史実を教えるだけで は 「現今の国民を作る」 ことにならないか ら 「各時代の国民生活を教ふる際にそれと比較することに因っ て 現今の国民的生活を覚らしむる こと」 が必要であるが, これのみ 、では国民科的知識は散漫に流れて統一する ことがないであろう 1 6 ) と説いている これは から, 「歴史の教授の終りに現今の社会組織を纏めて教授すれば宜い」 . 合衆国歴史学協会の任命しプこヒ人委員会が1 89 8年に答申した中等歴史教育改革案の教 材配列と構 ) 7 造 的 に よ く 似 て い る と い え る1 .. 吉田熊次は, ス トラスブル グ大学のチー グラー教授の演説を感動的に紹介している. 「二十世 紀の初頭に於いて新に加へらるべき学科は, 国民料と美術教育」 であると国民的教育の必要を論 じ, 「愛国心の修養は ……郷土科の如き最もそれが好材料」 であり 「この種の郷土料・国民科に よりてわが国民の将来は左右せらるべき」 である, 小学校では, 国民料はまだ課せらるべきでは 8 ) ないが, 学校生活全般を通ずる公民的訓練が必要なことを強調している1 , s 国民キ l ・特設については, 森岡の勤めていた東京高等師範学校の付属小学校で試みられていた, これは, フランスの国民料に倣っ たといわれ, 修身料の中に特設されたもので, その教授要旨は 「国民科は児童をして国民生活の有様・国家の組織等を知らしめ 以て社会の事情に通ぜしめ兼ね - 21 -.
(8) . 吉 司 ー. 山. 法 (. セ 最. 9 ) て国民たるの志操を養ふ」 ことであ っ た1 , このような国 民科の特設という試 み は, あまり実行 に移されなかっ たようであるが, 国民料的教材という使われ方で 「国民料」 の概念が一般化して い つ た.. この種の教材を当時, あるいは国民教科といい, あるいは国民的教材と呼 び, あるいは法制経 済等に関する教材と称え, その教育を国 民的教育と称し, 立憲教育, 憲政教育, 政体教育と名付 けていたが, 国民的教材, 国民科教材と いう用語がかなりよく使われている. 例えば成田儀禄の 「国民教育資料配当愚案」 ( 7年7月) では 「国民的教材」 という語が用いら 「北海道教育雑誌」明治3 ) 0 れている. 北沢真・石田林蔵も 「法制経済等所謂国民的教材」 という表現をとっ ている2 . これ に対して, 愛知第 一師範学校付属小学校の 「実験各科教授法要義」 には修身料教授法の中に国民 料教材の一項が設けられ,「国民料教材とは兵役・納税・議員選挙等国民科に属する教材にして, 2 ) と記されている, 天王 1 国民として国家社会に対する自己の権利 義務を了知せしむるものなり」 寺師範学校長村田宇一郎も 「学校中心自治民育要義」 の中で, 「我国には国民科と云う教科は特に設 けられて居ないが, 修身科や国語科其他の教科の教材中には」 此方面の教材がかなり含まれてい て, 例えば 「自治団体の理事機関や執行機関のことを概説し自治体に対し各自が負ふ所, 並にそ のために尽す べき義務 を挙げ, 社会の秩序を 重んず べきこと, 社会の進歩に貢献す べきことから ……海外貿易のことなども教へられて居る のである. それ故に内にありては立憲思想を養ふと共 ) 2 に 外 に 対 し て は 対 外 観 念 を 養 は ん と し て 注 意 さ れ て あ る」 と の べ て い る2 .. 国定教科書編纂趣意書によっ てみても, 第 一次編纂では国民教科, 第二次編纂では国民的教科 という文字を二・三見るにす ぎない. それが第三次編纂では国語読本の各巻の教材分類表に修身 的教材……実業的教材, 文学的教材等々と並んで 「国民料的教材」 の項目があり, 中学年以上の 各巻では数個の謀が分類されている. 「国民料」 なる概念が文部当局によ っても公認され, 教育 界に市民権を獲得したものといえよう. ここで地方の実情にふれると, 北海道では34年に道議会開設のこと もあって 「少数の好雄其虚 に乗じて無限の欲望を遅しく」 することを防止するには 「自治制度を運転する知識に富める国民 を要す」 と政治教育への関心が高まり, 明治36年2月の庁訓令中● , 特に 「国民教育に関する材料 の集票」 を督励した. 空知支庁はこれに応じて同年 9月 「国民教育教授材料」 の成案を得た. そ れは 「国民的知識を与ふること頗る困難なるを以て」 教材を選択補充し, 「別に国民料の-科を 設け」 ることはせず-- 特に時間を設ける必要ある ものは 「相当教科の時間を取りて教授するも 差安なし」 -- 教師の適切な処置で知識分散の弊を除くことを期待 している. 尋常小学では主と 由象に」 の原則で学 して郷土に, 高等小学では- 国内に取材し, 「近きより遠きに」 「具体よりJ ) 3 年各科に配当している が, 高等小学の場合相当の量に及んでいる2 . 翌年には前述成田の教授私 案 が 発 表 さ れ る ま で に な っ て い る.. 大正初めに公民教育論が紹介され, 特に大正9年の実業補習学校規程改正に際し, 実業補習教 育の二大眼目の一 つが公民教育という概念で説明されると, これが急速に普及し,漸次 「国民科」 にとって代わり, 「国民科的教材」 に代わって 「公民教材」 「公民的教材」 の語が 一般的に用い られるようになる. しかし昭和10年代半ばになると再びこの 「国民科」 ということばが装いを新 にして用いられる. けれどもこの前後二つの国 民料はまさに二つであって, 文字は同じでもその 意味内容・概念には大きな違いがある, 後の国民料↓ま教育論上の概念である ばかりでなく, 現実 l k s ) であって, 「国 に存在した大教科の名称であり, その系譜から言って国民学校の国民 (Vo 体ノ 本義ヲ間明 シテ国民精神ヲ酒義 シ 皇国ノ使命ヲ自覚セシメル」 皇国民料 であり, 非合理 - 22 -.
(9) . 公 民. 教 育 の. 源 流. 的・情緒的で何か粘を つく 「血と土」 を想わせるものがあり, 民族精神科 であり, 国粋道徳教育 科であっ た。 明治大正の国民科はこれに較べて (といっ て同じ天皇制イ デオロ ギー支配の枠内の 比較上の問題にす ぎないが) ずっ と淡白で知的合理的にさえ思われる. 吉田の紹介 論文は徳 育へ の傾斜を示しており, むしろ後の公民教育に近いし, 地方改良運動 ・報徳運動に関 係する村田の 観点は公民科的である, しかし, 根本の建議も森岡の理論も東京高師付属小学校や空知支庁, 成 田の教授案も, ヨコの連帯を強調し国家観念の育成を目指す国家主義的傾向は認められるとして も, 立憲国民の国民科であり 「国民として国家社会に対する自己の権利義務) (筆者傍点) を教え ようとするもので 「国民生活の有様・国 家の組織等を知らしめ, 以て社会の事情に通ぜしめる」 という社会常識的生活技術 的傾向が比較的に強かっ たといえる. 徳育教化の傾向がまだあまり強 くなく, むしろ知育へのこのような傾斜は, さきにみた法制経済の 公民科との比較におい ても認 められたところであり, この時期の政経社教育の特徴とみなすことができよう. N. 閉塞の時代と国民道徳の酒養 日露の戦役は日清戦争の場合に較べ, はるかに大きな人民の犠牲の上に遂行されたのであった が, 賠償も得られず, 巨額の軍事公債をかかえた政府にとって, 戦後の経営は 実に困難を極め た 難事業であっ た. 戦争を契機として急激な発展を見せた近代産業も, 戦後の経済変動 で打撃をう け, 労働者農民も生活に苦しむ状態にあっ た. 戦争遂行中の犠牲が大きかっ ただけに, 戦勝一平 和-安楽への期待もまた大きかっ たから, 民衆の不満はあるいは爆発して焼打事件となり, ある いは銘沈して虚無的となり, あるいは頭廃の淵に身を沈め, あるいは覚醒して社会主義思想へと 接近していく, 後進国ゆえの急激な資本蓄積は厳しい搾取 を必要とし, その事が第四階級として の自覚を促す. 資本主義経済の発展とその農村への浸透は, 共同体的秩序の土台をゆさぶること と な る.. 戦後間もなく, 日本社会党が堺らによ って結成され, 「新紀元」 「直言」 などの新聞雑誌も次 々に出版されて社会主義運動は盛んになってきた. 39年の電車賃 直上反対市民大会は暴動化し, 0年の足尾・別子の銅山でも労働争議が暴動化し, 軍隊の出動さえみられた. 労働争議の参加人 4 4 ) 41年 に は い わ ゆ 員 も, 37年 の879人, 39年 の 2039人 が, 40年 に は 一 挙 に 9855人 に 増 加 し た2 . ,. る赤旗事件がおきたが, その前年の天長節, サンフランシスコの日本領事館に, 桑港平民社の手 になっ たといわれる 「ザ・テロリズム」 の無気味な ビラ-- 無政府党暗殺者の名を以て 「皇帝瞳 仁 君 足 下 爆 烈 弾 ハ, 足 下ノ 周 囲 ニ ア リ テ, マ サ ニ 破 烈 セ ン ト シ ッ ツ ァ リ … …」 が 貼 ら れ, ビ ラ は. 国内の社会主義にも送られたという. しかもこの ビラは, 3年後の宮下大吉らの爆弾製造・爆発 実験に端を発して アナーキス トの指導者幸徳秋水らを逮捕処刑したいわゆる大逆事件となって現 ) 5 実 化 し た の で あ る2 ,. 教員の間にも社会主義はかなり拡がっ ていっ た。 それは, 樋口勘次郎や, 谷本富などの教育学 説の影響でむしろ国家主義に近いものから, 平民新聞の小学校教員に対する積極的な活動に影響 を受けたものまで, かなりの中があっ た. 「教育実験界」 や 「実験教授指針」 など, 教員の間で よく読まれていた教育雑誌 が, ともに社会主義思想に理解 ある態度を示したことも, 教員の社会 ) 6 主義的開眼を促すところがあっ たと思われる2 . 絶対主義的な天皇制イデオロギーの下にあっては, 社会主義のみならず, 自然主義・個人主義 もまた危険思想であっ た. 臥薪嘗胆挙国一致のスローガンは色廻せ, 新しい時代を導く目標も理 想も不明のまま混迷L, い わ ば, アノ ミ ー の 状 況 に あ っ た. 生 存 競 争 は 激 し さ を ま し, 煩 悶 ・ネ ー ! キ - 23 -.
(10) . 高. 山. 次. 嘉. 経衰弱・自殺の語 が流行し, 青年学生の頗廃・堕落・性病が話題とされた時代であっ た, 勧善懲 悪の説話こそ文学であると考える保守主義者には, こうした時代の風潮を助長しているものは, 現存在たる人間の姿を赤裸々に表 現し, 人間の醜悪さ, 欲望, 獣性を描きながら, 解決を与え た うとはしない自然主 義文学にほかならないと映 っ たのである. その自然主 義の小説が, 教育雑誌に多数掲載され愛読されたばかりか, 自然主義の影響をうけ た小説を投稿する 教師も多く, 「廃頒的人生観が彼等の間に流行し…… 自然主義的小説の如 き今 日に於て最も之を愛読し耽読し居る者 は, 青年学生にあらずして, 寧ろ学校教員なら ず ん ば 非 7 ) ず, 塞に寒心す べき次第」 と慨嘆された2 . こうした時代の風潮に対し, 内務・文部の両省は, 戊申詔書や 教育上の諸訓令を発 し, 青年会 ・報徳会・在郷軍 人会の奨励, 地方改良事業の推進 によって, 国民思想の善 導を試みる。 戦後の 教育は, 晶子の 「君死に給ふことなかれ」 にみられる 人間自然の感情や国家・天皇の力への疑問 をきれいに払拭あるいは圧殺し去って, 「我国体ノ 精華ニシテ国民ノ 特長」 たろ 「忠君愛国ノ精 神,…・ .ヲ 基 礎 ト シテ 諸 般ノ 教 育 ヲ 施 シ … … 挙国 一致国運ノ発展二尽サシメ ……安逸遊 惰;傾キ或 ・騎 倣 著 修 二 陥 ル カ 如 キ コ ト」 の な い よ う に す る こ と に あ っ た (明38・18・18 , 戦後教育ノ心得), と. 多二流 し或ハ 空想二煩悶シテ処世ノ 本務 ころが, 「……現二修学中ノ者ニシテ或ハ小成ニ安 シ著1 ヲ 閑 却 ス ル モノ ア リ 甚 ツキ ハ 放 縦 浮 摩 ニ ツテ 操 行 ヲ 繁 り 活 ト シ テ恥 チ サ ル 者 ナ キ ニ ア ラ ス」 と い. う状態である. しかも青年を惑わす急激の言論, 厭世の思想, 晒劣の情態を描き教育上有害な図 書があるので 「不良ノ結果ヲ生スヘキ虞アルモノハ 学校ノ内外ヲ問ハズ厳二之ヲ禁過スルノ方法 ヲ取ラサルヘカラス」, また社 会主義のような 「建国ノ 大本ヲ競視シ社 会ノ 秩 序ヲ紫乱スルカ如 キ 危険ノ 思想教育界二伝播 ツ 我教育ノ 根抵ヲ動力スニ至ル コトアラ バ国家将 来ノ 為最モ寒心ス ベキ ナ リ」 で あ る か ら 「矯 激 ノ 僻 見 ヲ 斥 ヶ 流 毒 ヲ 未 然 二 防 クノ 用 意 ナ カ ル ヘ カ ラ ス」 と厳しい訓令を 発 し た(明3 9・6・9教育上時弊矯正二関スル心得).. 自然主 義,社会主義と社 会不安に, 天皇の権威を籍りて対処し, 難関を乗切ろうとする桂内閣 1年10月 「宜シク上下心ラーニ ッ忠実業 二服シ勤倹産ヲ治〆 惟し信惟し義醇厚俗 によっ て, 明治4 ,…, 」 という戊申詔書が換発された. 学校に対しても, 記念会・運動会 ヲ成 シ華ヲ去り実ニ就キ・ の 「脂粉ヲ施 ジ仮装ヲ為ツ往々演劇興行二近キモノ ハ…… 風紀ヲ弛ウ シ浮薄ノ 弊風 ヲ助長」 する 最寅会記念会運動会等監督方) と 厳 禁 さ れ た. (明42ol・9地方学校計 学校規程) 教 員 に 対 し て は, 「規 律 ヲ 守 り 秩 序 ヲ 保 チ 師 表 タ ル ヘ キ 威 儀 ヲ 具 フ ル」 (明4004師範‘. こと が求められ, 一個の人間として目覚め, 赤裸々に自己を表現することは誠に困 っ た事とされ た. 恋は御法度 「総ての教師は 人格を第 一に重きを置く……少くとも校長たる べき者は学力より ・…・給料を増 ,…・切売教師 が沢山になるかも知れませぬ (から)・ も人格に重きを置く (べきで)・ 7議会) ” , 教員給の国庫支弁化 加すると云ふこ とは教員優 遇の趣旨ではない」 とし(村松区一日 , 第2 ,でて地方改良事 2,小松原箱口訓示) , し かも, 教師は校門を出 を求める 建議すら封 じていた (明4 業に挺 身することを求めら れ, 「労多くし て酬妙なきを以 、て寧ろ至幸至福の天職なりとの信念を 8 ) 有」 つ こ と が 強 要 さ れ た2 .. 政治に発言権を得つつあっ た財界にとっても, これとの結びつきを深めつつあっ た桂内閣にと 著 多の矯正よりも重要なことば, っても, 危険極まる思想は社会主 義であった. 安逸遊惰, 瞬倣 1 社会主 義の撲滅であっ た. 大逆事件発 生後 「荷も社会と云ふ二字を冠 ったものであれば悉く発 売 禁止せ ざるものなしと云ふやうな有様」 であり, 僅か数ヶ月 の間に120以上の書物が処分され, 教授田島錦治の 「経済原論」 までが参考書閲覧 学術」 二 .の評論として社 会主 義を取扱 っている京大 - 24 -.
(11) . 公 民 教 育. の 源 流. 禁止の処分 をうけ, 専攻がたまたま社会政策であるというだけの教授に 皇室観を問い質したり , するという狂奔ぶりであっ た2 ) 9 , 教員の人物・志操については一層きびしくなり, 師範学校生徒 の選抜に ついてさえ 「生徒ヲ収容スル二方リテモ第一人物性行ノ如何二留意 シ考査ヲ慎重ニ シ」 入学後も 「平素/ 行 状 ト志 操 ノ 如 何 二 注 意」 す る よ う に 指 示 さ れ た (明43,11府知事の師範学校長宛 翻す { ) . このようなきびしい選別と訓練を経ていない代用教員 に対する当局の 不信感は根強く, f e 用教員は正教員の職務を助けるものであって独立して児童の教育をしてはならず , 本科正教員 の 指 導 下 に お く よ う に と い う 通 牒 が 発 せ ら れ (明43 10 2 . , 4) 「其 ノ 選 任 ヲ 慎 マ シメ 優 良 ナ ル 人 物 ヲ. 得」 るため, 従来郡市長 にあっ た代用教員の任免は 府県知事の権限とされた (明4 4 1 ) , 。 .7 .3 貴族院はこのときに当り, 「本を忘れ末に趨るの弊……国 民道徳の大本たる忠孝の観念に動 揺 を来すが如きこと」 がおこらないよう 「益々我が 国体の精華を発揚するの要 頗る切なるものある を覚ゆ…・ ・ ・結局教化の力に須つの外なかるべし…… 向後一層重きを国民道徳 教育に置き庶政皆其 の方針を一にし 以て風教の維持振 作上 万一遺筆な きを期せざるべからず」 という建議をな し ( 明 治4 4年3月第2 7議会) , 政府の文教政策の反動化 に, 一層の拍車をかけたの である, かくて学校は, ますます徳育強化の傾向を強めていき, 学問の府たるよりは国民道徳訓練所あるいは忠孝感 化院 の方向 へ進んでいく. V. 「我国道徳ノ特質」 の教育 高等師範学校・高等工業学校等の官立高等専門学校 の学科目中 倫理を修身に改める ための省 , 令が明治43年から44年にかけて多数出されている 「 修身の教科書 ならば君臣の関係がなくては , ならぬ. 倫理学の教科書だからない」 と説明した能 勢栄に 森文相と湯本武比古は 「名は倫理 , , 学でも実は修身だから是非入れた方がよいと主張した結果 とうとう六 行も かり君臣の関係とい ふ ) そして明治2 3 0 事を書いて入れた,」 5年の師範学校学科及基程度の改正に際し, 「倫理 ハ動モス レ ハ之ヲ倫理学ヲ 授ク ル学科目ナリト誤解シ 学理ノ 講究ヲ以テ主眼 トスルノ恐ナキニアラサリキ 抑モ学理ノ 講究ノ ・ 高等学校ノ専攻二属 シ尋常師 範学校二於テハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ徒 二理論二馳セス期行実践ヲ目的トシテ人倫道徳ノ 要領ヲ 授クルラ以 テ主眼」 とするものだから修 身と改めた, さらに大逆事件 直後 「修身科 ハ・ ・ ・…単二知識トシテ倫理ノ 学説ヲ授クヘキモノニ非 ス, 其ノ 之ヲ授クルハ我国道徳思想ヲ 間明確保スル所以」 であることを改めて各師範学校長に訓 示している. これらを考え合わ せるとこの時期にあえて 「倫理」 を 「修身」 とする意 味がは き っ りしてくる. 高等専門学校 も 「学理ノ 講究」 の場であるよりは卵行実践の修練の場となり 遠慮 , がちに 六行ばかりの君臣関係を説くの でなく 堂々と終始一貫忠君愛国忠孝一致の我国道徳 の特 , 質を説くためには, 「倫理」 を 「修身」 と改めねば ならなか っ たのである , すでに修身となっていた中 学校でも, 教授要目が改正され 従来 第5学年で課せられていた , , 「倫理学一班」 を廃し, 「人類二対スル責務」 「万有二対スル責務」 を除き 「教育勅語」 「戊 , 申詔書」 の項を特に設け, 新に 「我国道徳ノ特 質」 の項をおこして 我国道徳ノ 由来 祖先尊 , , 崇, 忠孝一致, 愛国奉公の目をおいた 条約改正や国際的地 位の向上や 「黄禍論」 を背景として . 国交の項が新設されたが, 皇室・家に関する徳目や忠孝一致・祖先尊崇の我国道徳の特質 国民 , 道徳の酒養に重点がおかれ, 自己二対スル責務などは軽く扱われること に な っ た (師範学校も 同様の改正が43年に行なわれている), 法 制 及 経 済 に つ い て も, 前 に 触 れ た よ う に 徳 育 へ の 傾 き が み ら. れる, 時代の進達に相応して, 自治ノ 本旨, 条約附国際関 係が加わり 報徳運動と関 係をもつ産 , - 25 -.
(12) . 高. 山. 次. 嘉. 勅語 罪及刑, 法ノ 重ソズヘキ所以などが新し 業組合にもふれるように 指示された, 憲法発布ノ , , ノ 義務・選挙権ノ 行使二関スル事 義務・納税兵役 く設けられ, 臣民ノ 権利・義務 が臣民 (服従ノ 項等) と変わり 「法文二拘泥セス制度ノ精 神ヲ会得 セシムルコ ト」 が特に注意されている. 臣民 ろ の義務については特別 詳しく掲 げながら, 権利については選挙権の行使以外は何 等ふれるとこ る がない. 績末な法文より制度の精神 の理解が肝要な事は言うを挨たない が, 義務のみ強調され がある 1 . ところではそれも憲法発布 の勅語同様, 恩恵・感情・報恩の教育でしかなくなる 昇れ 亀一 8 議会で村松 第 2 た事ではない 済に限 っ 。 ところで憲法発布の勅語の重視は中 学校の法制経 郎は, 前年初等教科書 に政治経済 法律等の事項を増加させるよう建議し たが, 改訂された国定修 身書にほぼ満足し, さらに憲法発布の勅語を載せ, 紀元節には生徒の外住民をも集めて憲法発布 の謝恩会を催 し, 総選挙間際に も各種団体 を集めて 憲法発布の勅語 を奉読し, 深く聖旨の存ずる 所を講演して, 鴨大無 量の聖恩に奉謝し, 憲法を忽緒に付す べからざる所以を会得させる べきこ とを提案している. 天皇の権威をかりて政治的智徳の欠陥 を補い, 選挙の浄化 ・国家意識の高 揚 為之 をはかり, 同時にその天皇への 忠誠を強化しようという主旨 なのである, 第30議会では石橋 い で支持して 3 9頁) 肋が同様の建 議をなし, それを井 上哲次郎が 「中央公論」(大正2・春期付録号1 る. ここでは批判さる べき欽定憲法がむしろ 欽定なるが故に 美化され, 主権者天皇に深謝し臣民 の務を果さす べく機能してい る. 10年前の根 本の建議では政治上の知識養成のため憲法の要旨を ていな 小学教科書に編入しようというものであり, 憲法発布の勅 語--‐国体教育はまだ考えられ か っ た の で あ る,. 村松は改訂 修身書の 政治経済的事項について, 「これ以上之を増加す べきや否やと云ふことは 教育学に不適なる吾輩の不得手なところ」 と一応満足 の意を表 わしている, しかし, 果してそう 事 だ ったのだろうか, 確かに明治43年に発 行された新制高等小学3年用 書には 政治経済に関する が当 講習員の多数 項はかなりある. しかし43年暮のこの 修身書の編 纂趣旨説明 講習会におい て, また 局者の面前で 「曲学阿世 の似而非 憲法論」 とか 「徹頭徹尾御用的」 と批判したといわれる. し 藤井鰹治 郎は翌年の2月, 特に研究会を 開いて忠孝, 愛国の解釈及其応用 があまりに偏狭に失 ,…,皆国家の為にやれといふ偏狭な愛国心は 個人の潤達進取の気象を妨 「何で も蚊でも国家の 為, 1 ) と批判した が,その通りの代物であっ た. 義務教育6ヵ年の修身を見ると, 国政・ く 虞がある」3 国民の務に関する課は増すどころか, 1期の修身書では尋常料四年 に5課, 高等科巻二に2課の i g ものが, 2期では 巻四に1課, 巻六に2課と減っている. 2期巻六第23課の国民の公務は, 13 体よりも簡略であ 四年では 独立してい た兵役, 納税, 議員選挙を1課にまとめているが, 旧版全 る こ と は 否 め な い, .. 2期修 身書は 「我力国民道徳ノ 枢軸タル 忠孝ノ 念ヲ灘養スルコ トハ 旧修 身二於テモ大イニ意ヲ 2 ) たもので, それは1期国定修身書に対 3 用ヒ シ所……今回ノ 修正ハ一 層其ノ 精神ノ 養成二努メ」 に, 直接相対の謝恩と同 が国体の精華であるの する束久世通頑らの, 忠孝の大 義は万古不易の我 様に扱い 「精神 主義ノ 一貫セサル日常ノ 行儀作法ノ 心得書」 にす ぎないとの批判, また日本弘道 申崇祖の徳, 家族親族に対する徳の 滋養上に遺憾 の点があり, 会の皇室及び国家に対する徳, 数ネ ・根本二於テ, 一二 ツテニナラザル 国家即皇室 である から忠君即愛国 であるのに 「忠君 ト愛国 トノ 3 3 ) であるとい う批判に応えたもので もある, 以下, 暫く国定修身書の コ トラ説明スル ニ不充分」 て よ う. 1 期 (尋常お目 ヵ年と高等科1・2年の164課) と 2 期 (尋常料巻1~6の161課) に つ い て 比 較 し み. し この表で明らかなことは, 天皇・皇室・ 聖徳・忠君等天 皇と国体に関するものが著しく増加 人 て個 また, 家庭・ 孝行・崇祖等家族制度に関するもの がふえていること である. それに伴なっ - 26 -.
(13) . 公 民 教 育. の 源 流. 国定1期修身書 尋 ‐ 1~2 3~4 個人としての心得 対人関係の心得 (除家・国等) 家族としての心得 国民としての心得 (国家法制) 臣民としての心得(国体皇室等) 総. 括. 国定2期修身書. 亀2. 計. 号~. 61. 16. 20. 20. 1 6 ‐ 4. 15. 49. 4. 18. 18. 19. 24. 22. 17. 19. 58. 18. 8. 14. 2. 14. 10. 3~4 5~6. 計 56. I. 6. 2. 9. 0. 2. 2. 4. 2. 6. 7. 15. 5. 10. 11. 26. 3. 2. 2. 7. 2. 2. 4. 8. 課数. 的社会的道徳が 減少してい る その個人的倫理についても 拾得物を届ける-- 所有権 反省, , , , 心のとがめる ことをしない --良心 僕倖を求めない 自立自営・勤 勉,勤労等が削減され , , ,ま た, 同じ教材でも学問・沈着・胆力などは 自己の修養が公益や忠君愛国におし拡げられる傾 向 , にある, 対人倫理のうちでは, 人身の自由 嫉妬 迷惑 礼儀 人助け などが削減され 師弟 , , , , , , 報恩, 謙遜などが ふえている 4年 「召使」 には 子守のおっなが子供を身をも て犬から庇ひ . , っ そのために死んだという惨酷ともいえる話さえ載っ ている これを要するに 市民的 倫 理 の 後 , , 退, 儒教的倫理の強化 といえよう . ところ で, 増加している天皇・ 国体及び家族道徳についてであるが 既に多くの研究者によ , っ て指摘 されているように, 第2期国定 修身書においては 家族国家論が展開されている 義務教 , , 育最終学年となっ た尋常6 年の修身書はまず 皇大神宮から始め 四課にわた て明治天皇の維 , っ , 新の大業, 学制, 教育勅 語, 憲法発布 版図拡大 救飽などの事 蹟を讃え 「至仁至慈にわたら , , , せられて我等 臣民を憐ませ給ふ……大御心の有りがたきに感泣せざらんや」(巻6 5課 と説いて ) , いる. 忠君愛国という題名は, 1期では高等小学4年に1 回使われていたにすぎないが 2期に , なると尋常 4年以降ずっと使用されている 世界に類なき万世一糸の 「天皇は臣民を子の如く愛 . し給い我等の祖先は皆皇 室を尊びて忠君愛国の道をつくせり」(巻5 1課) と皇室即国家 忠君即 . , 愛国の日本弘道会の論理はこの2期修身書ではすっかり定着している . 「我が大日本帝国の如く万世ー系の天皇をい ただくものは他 に存せざるなり…… かかるあ りか たき国……かかる尊き皇室」(巻5 第1課) というその 天皇の皇統に暖味 なところが少しでもあ , っ てはならない筈である. しかるに, 改訂された国定歴史教科書においても南北朝併立説を採用し ているのは, 忠好正邪の別を索し国民思想の動 揺を惹起し 国体の基礎を危くするものであると , して政府を窮地に追い込んだのか, いわゆる南北朝正閏問題である 社会主義と自然主義に対し . て, 国民道徳・国体擁護を旗印に容赦のない弾圧を加えていた桂内 閣が 逆にその旗 印で攻撃さ , れる破 目とはなっ たのである, 小松原 文相さらには桂 首相自らがひそかに藤沢元造代議士に会 っ て懐柔し, 質問の取下げと議員の辞職に成功し危く 総辞職の難を免れ得たのだ た3 4 ) っ . 家族国家のもう一つの柱である忠 孝の一致については 新に巻6の第7課に忠孝がおかれてい , る. この忠孝は, 1期4年の第6 課忠君の楠公 父子の教材に 正行の行為について少しく書き加 , え表題を改めたもので, 「君に忠義を尽し奉れ, これ汝が我に尽ず第一 の孝行なり」 を強調して いる. 皇室は臣民の宗家, 一国一家を説くには 直接・相対の親・祖父母に対する孝行だけでは , 足りず, 祖先・ 家 の観念の灘養が不可欠となる そこで新に 祖先と 家が巻6の第8課に設 , , けられ 「一 家に一人不徳の者ありても其の家の不名誉を来すものなれば …… 祖先の名を汚すは恥 ず べ き」 こ と と諭 し て い る.. - 27 -.
(14) . 宵. 山. 次. 嘉. いっ たい家族 主義に何を期待し, また, それは 現実社会の中でい かに機能したのであろうか, 人民の権利が保障されず, 参政権 が著しく制限されて, 国家を目 的社会として意識することので きない民衆には, 自然発生的 な愛国心は期待し難い. 開明的専制君主の慈愛・ 恩恵・聖徳を讃え てみても, それだけでは下層の民衆にまで, その権力を合理化し, 忠誠心を求めるこ とはできな い. 民衆にとっ ては遠い存在でしかない君主との関係を, 血縁という 非合理的運命的な, そして ・父子論を ・君臣情ノ 最も身近な家族・親族関係に 擬することによっ て, 一国一家, 皇室宗家, 義ノ 導入することによ って, 忠君と愛国とを同時にしか も権力の譲 歩--‐民衆の権利拡大を伴わずに 擬制的親子関 手に入れることができる. 同様のメ カニ ズムで, 一村一家, 事業 一家が唱えられ, となっ て現わ 係が近代的権利, 義務関係を排除し, まさに 「日本社会の家族的構成」 ○=島武宜) れ る.. 情 家族主 義は, うるわ しき温情,和 衷協同主 義を説く, しかし, それは上位者の気まぐれな温 ブラートで包みこむ 作用を とそれに対する下位者の絶対的服従と無定量の奉公と を, 愛と和のオ し, 社会主 義を キを罪悪視 有する. そして, それは民衆が権利 を主張す ることを封 じ, ス トライ の中で, 「我労働者 予防する 「健剛なる障 壁」 ともなる のである, 伊藤博文は 「開国五十年史」 と労働者との間には は他国に於けるが如く精神 死滅の動物たるに至らず, 今日に於 ても尚資本家 想の侵潤に対し将 保 護者被保護者 の温情ある関係白から存するを見る, 我国に於て社 会主義的思 “) と家族的温情の効能を説いている, しかし 来健剛なる障 壁となる べきものは実に此温情なり」 た 中島力造は, 明治 時代は移り労働者に精神死滅の傾きが見え, ス トライ キも頻発 するに至っ , を編入したことに言及して 4 4年の 実業学校修身教授要目中に, 特に 「雇者・被 雇傭者間の 本務」 ・唯々 ・ ・ がなくなっ た ご・ 次のよ うに述 べている. 「今日分業 が発達して…… 所産物に 対する快楽 ・便はれる者 も… 給料を取 る為に 働く. …… 使っ て居る者は気の毒に思ひ出来る丈 の事をする…= 感じがあっ た, . .成る べく忠実 に働い て 其の主人に利益になる様に努めなければならぬ 斯う云ふ . の雇人を取扱 .=.所が人情と云ふものは欠けて了 って給料を取る 為に働く事になる,」 「日本古来 . . ・斯う云ふ事をやっ ておれば 不平家が ・ う美はし き風習 が段々と今日は無くなる傾 きであります …・ も限らぬ…… 沢山出来乱 暴者も沢山出来て社 会の安 寧秩序を保つ上に 困難なる結果を 生じないと 6 3 ) と す 」 ありま . . 日本古来 の美風を幾分か保存 したいといふ 処よりおかれた課で とそ 会主義の高まり 主義・社 人主義・自然 産業経済の発展, 社会の進 歩に伴って生じてきた個 主義的な温情・ れに基 づく社会の危機に際会して, 家族 主義・家族国家論によっ て武装し, 家族 度の批判者は 許し 共同体的秩 序によっ て切り抜けようとし ていた官僚・財界にとっ ては, 家族制 族」 と題する講演の中 難い存在であ った. 京都大学教授岡村司が, 岐阜県 教育会での 「親族と家 んだので, 政府は で, 平田内相の家, 門閥を重んぜよとい う訓示を批判し, 民法家 族制度にも及 r婦人問題」 は文部省 これを 不謹慎の故を以て謎責処分に付した, 京都大学の河田嗣郎助教授の 家庭の良 風をそこなうと から絶版 を求められ, 当時, 大当りだ っ たズー デルマソ作 「故 郷」 は, 作を条件に続演を許され して 上演禁止を 命ぜられ, 親のきめた結婚をきらって家出する部分の改 7 ) た と い う3 .. がらも夫婦・親子の間の権 このような我国古来の家族制度の 美風を強 調する傾向 は, 不十分な 臨時教育 会議におい て 利・義務関 係を 認めてい る民法とは相容れないものがあっ た. そして遂に モデテ忠孝亡 ブ」 ともいう べき, 「我国固 「教育ノ 効果ヲ完カラ シム」 ためにと, 大正版 「民法は. 有ノ淳風美作 ヲ 維 持 シ 法 律 制 度ノ. 之 二 副 ハ ザ ル モノ ラ 改 正 ス ル コ ト」 が 建 議 さ れ る に 至 る の で あ. をとろうとしたも る. この2期国定修身書の編纂に おいて, 一 つだけ 社会の進 展に前向きの姿勢 - 28 -.
(15) . 公 民. 教 育. の 源 流. のがある, それは, 男尊女卑の弊風の改善である, 根本的には, 日本古来の美俗 (?) 夫唱婦随 と抵触すると思われるのであるが, とにかく一応, 男尊女卑は 「大いなる心得違なり, 女子も男 子も同じく万物の長にして, ただ其の務を異にするのみ,」 (巻6, 第2 4課) と本質的平等を説いて いる. そして, 例話の取材についても女子をつとめて多く採用する方針をとり, 1期に較べてか な り 多 く な っ て い る の で あ る。. こうした2期国定修身書に対する教育界の反応はどうであったろぅか, 大正の初め全国の師 範 学校から寄せられた意見をみると, 忠孝の大義中心の編輯や軍人勅諭の引用に賛意を表わし, 戊 申詔書, 神勅の編入を求める意見もあるが, 「国家及家族二対スル徳目二偏重スル傾」 を批判す る意見 (長野師範大4) もあり, 忠君愛国の例話を平時にも求むべしが 多く, 立憲国民養成のため ) やはり 時イヒは徐々に動きつつあっ たので 8 の国民科教材や公徳教 材の増加を求める声も強い3 . , ある, こうした意見や大正民本主義を反映し, 第3期国定修身書では儒教主義がやや後退し公民 教材が多くなっ ている. むすびに かえて 公民教育の源流を探っ て, 明治30年代に始まる法制経済・国民料の教育と, 明治末に高ま った 国民道徳の教育について, 生成・発展とその背景をみてきた, 知育と徳育, 縦と横の人間関係の 教 育, か な り 異 質 的 な こ の 二 つ の 教 育 を, 欧 米 の 公 民 教 育 論, と く に, ケ ル シ ェ ソ シ ュ タ イ ナ ー の 理 論 (それはリュールマソと異なり知育ょりも感情の教育と作業,訓練を重視する) の 受 容 と, 明 治 末 以. 来の地方改良運動, それとつながる 実業補習学校を中心とする 「公民の心得」 自治民育実践の経 験とによっ て統一をはかり, さらに, 憲政擁護, 大正デモクラ シー, 国際協調などの時}代思潮や その反動を動力として, 法制経済・国民科の実際化と徳育化, 修身の生活化として, 日本的な公 民教育・公民科が成立をみるのである. この過程の論究は次の機会にゆずりたい, 註 1) 文部省の太政官宛伺 (明治5) 明治以降教育制度発達史第1巻, 3 40頁 (以下法令の出典は特記しない限 りは本書各巻による.) 2) 石戸谷哲夫, 日本教員史研究, 昭和41 4~7 4頁, ,6 3) 田中正幅編, 教育典令, 明治17 , 愛知県同への指令. 4) 明治3 4年の小学校令施行規則中, 修身に 「公徳ヲ尚ハシメ」 が入り, 同年4月全国聯合教育会に公徳心養 成方法如・ 何の諮問を発している, 第12議会利光の説明. 5) 石田雄, 明治政治思想史研究, 昭2 9 , 43頁. E緒 6) 安部井砦根, 勅語撤回説は事実か, 第15議会. 哲学館事件渦中の人物中島徳蔵のこと. 安部磯を i 言 , 帝国 議会教育議事総置第2巻, 昭和8, 以下帝国議会の記事は皆本書, 7) 学生生徒の政社加入, 集会会同は依然禁止されていた, 2議会, 8) 堀家虎造・高橋松斎・北島伝四郎, 第1 9)10 ) 羽田隆雄, 公民教育の根本問題, 昭和6, 2 43頁. 11) 森岡常蔵, 各科教授法, 明治38 1 9 頁 , . 12)1 3) 昭6・1・2 0 , 文部省訓令中の公民科についての解説, 1 4) 昭3・9・28 , 文政審議会への諮問中の公民科設置趣旨. 15)1 8 6) 森岡前掲書, 9 6~7頁, ,9 17) 7人委の答申は9学年から古代, 中近世, 英国史を学び12学年で米国史と政治一般を学ばせようというも . 18) 吉田熊次, 系統的教育学, 明治4 1 32~7頁. ,7 19) 森岡前掲書, 88頁. 2 0) 北沢真・石田村 く蔵, 国定小学読本国民的教材教授資料, 大正2, 90頁, 21) 愛知第一師付属小学校, 実験的各科教授法要義, 大正3, 90頁, 22) 村田宇一郎, 学校中心自治民宵要義, 明治4 3 2~3頁. , 18 9- -2.
(16) . 高. 山. 次. 嘉. 7頁. 23) 北海道教育研究所, 北海道教育史全道編二, 昭和35 , 122~12 3 8 6 頁. 2 4) 岡崎次郎・褐西光速, 日本資本主義発達史年表, 昭和24 , 5~8頁. 2 5) 鶴見俊輔, 日本の百年7, 明治の栄光, 昭和42 , 29 2 6) 石戸谷前掲書, 354~5頁, 村松巨一郎第27議会の質問. 2 1頁所載の読売新聞, 明43・11・22論説. 7) 同上, 33 1 28) 田子一民, 学校を中心とする地方改良, 大正5, 30~3 , 15頁. 29) 第2 7議会における沢来太郎・関和知の質問. 1 30 ) 湯本武比古, 教育五十年史, 大正1 , 115頁. 31) 石田前掲書, 10頁より転載. 32) 帝都教育研究会編, 国定教科書編纂趣意書集成全, 昭9, 40頁. 33 ) 石田前掲書, 15頁より転載. 34 ) 藤沢元造君辞職の理由, 第27議会, 32~3頁. 35 ) 伊藤博文, 帝国憲法制定の由来, 開国五十年史, 明治40 ,1 36) 中島力造述, 実業学校修身教授指針, 明治45 , 218~9頁. , 26 3 6~7頁, 37 ) 磯野誠ー富士子, 家族制度, 昭和3 ,3 38 ) 女部省普通学務局, 国定教科・書意見報告菓纂, 第2~ 頬母 , 大正3, 4, 5. 0- -3.
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