卜ーマス・マンの「悩みのひととき」について : 共感と距離
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(2) 2. 藤. 井. 忠. 師と感ずるところから,彼らに何となくみじめで胡散臭い雰囲気をつきまとわせて舞台に のせるのである。そこで彼は自虐的ともいえるほど仮借なく彼らの内面を易U決し,このよ うな芸術家の二重性, 「芸術家の気高さと隈劣,その山師的性格と神聖な霊感,その軽蔑と ひそかな陶酔」2)を描き出すのである。 「悩みのひととき」ほこのような短編群の中のひと つで, 1905年シラ-没後百年にあたって,ジムプリチシムス誌のシラー特集号に掲載され た作品であるo. ここでも主人公ほ疲労しきった姿で,鼻風邪をひいて,炎症を起こした限を剖またかせ ながら現われる。彼ほ,自然の恵みを受けること少なく,病気・貧困・孤独と闘い,鍛錬 と克己とによって創作を続けてきた詩人である。時ほ十二月の雨風が吹きすさぶ深夜。索 漠たる部屋に,ひとり目覚めて,途方もなく困難な素材に取り組んでいるが,それがまた しても行き詰まった。彼の胸のうちにほ,これまでの自己酷使の報いを受けて自分ほいま. や死ぬほど疲れきっているのだという思いがみち溢れている。しかしこの絶望的な思いの どん底から,芸術家の野J[♪が燃えあがるのであるo恨博した漠にさっと赤味がさし,鼻を ぐすぐすいわせていた詩人が,いまや自己の苦悩を信ぜんとするパトスの中で,. 「苦悩ほお. れを偉大にせねばならぬ」と叫ぶのであるo精神の「世界征服」への欲求が彼の胸を突く。 作者ほこの作品に≫Schwere. Stundeiという題をつけた。これは「産みの苦しみの時」,. 「陣痛」という意味でも使われる言葉であり,密室で人目を避けて創造する,芸術家の苦 悩を,まさに生ま生ましく表現しているのである.しかも,主人公ほ単に「彼」という代 名詞で終始扱われているが,作中に散りばめられたカ/L,ロス,ケルナ-,イエナなどとい. う固有名詞や伝記的要素から,この詩人がまぎれもなくシラーその人であるということ′を, 読者はある感動をもって知るであろう。ゲーテも「ヴァイマルの男」としてシラーに対置 されている。つまり,この作品においてほじめて,「ドイツ人の心情が自分たちの英雄につ いてJLhに描いていた像にふさわしい」8、詩人の肉体を借りて,病患の詩人の苦悩が渦巻き, あのどこか怪しげなやつれた芸術家の胸の奥底にひそむ,高きものへの献身と結びついた 芸術家的愛我JLlの燃え上る様が措かれるのであるo この煩の中でト-マス・マンのイロニ-は焼き尽されたかに見えるほど,作者の対象に. 対する共感は強い。マンほ後に「略伝」の中でこの作品をみずから「非常に主観的」と評 している。にもかかわらず,杏,主観的投入の度が強ければ強いほど,対象に対して距離 を保たんとする作者の意志も強まり,それが文体の緊張となって表われるのである。この 共感と距離の緊張を文章の中に読み取りつつ,この小品が作者にとっていかなるものであ るかを見たいと思う。 ×. 貧困・苦悩・肉体的虚弱・悪徳・情熱・その他様々の障害にもかかわらず,歯をくいし ばって仕事を成就する人間,つまり「業績の倫理家Leistungsethiker」の像を,I-マ 2). 3) 4). "Wunderkind" und "Goethe "Betrachtungen. (Erz圭払1ungen, S. 346) (Adel des Geistes, S. 234) 1918 (S. 136) eines Unpolitischen". 1903. Tolstoi"L1922.
(3) 3. トーマス・マンの「悩みのひととき」について. ス・アンほ後に「現代様式の英雄精神」と呼んだが4),この形姿を求めてマンの作品を遡 るならば,トーマス・ブデソブロークにその原型を見いだすことができる。生への意欲を. 失うにつれて,精神的に洗練されると同時に肉体的には虚弱になって没落の道をたどる一 家の中にあって,ト-マスは,彼もまたすでに現実の生に疲れ,内的崩壊の緑に立ってい ながら,厳しい姿勢を保ち,疲労を隠し,自分の義務を果してゆくo. しかし,その彼も結. 局は,須廃に沈み異常な自己観察を弄ぶ道化者,弟クリスチャンの対応的存在であり,普 た,死の要素を含む音楽的幻想に没入して生きる力を全く失った息子の-ソノとも,底で は繋がっている。このデカダンスの刻印を押された三人が重なってできた像が,マンの長. 編短編■の中で種々の姿をとって出現するのである。ひとり椅子に腰かけて問を見つめてい るトーマスの限にほ,疲労と嫌悪のために醜くゆがんだ自分の姿のみがありありと浮かん でいるが,これこそ彼の正体なのである.この間を凝視する限ほ,ニーチェの言う「悩む. 者の認識」の光,デカダンス特有の光を帯びているでほないか。. 「長いこと病苦によって. 恐ろしく責めさいなまれてきたが,それにもかかわらず知性の曇ることのない病者の状態 というものほ,認識にとって無価値ではない。. I-重い病気に苦しむ老は,自己のその状. 態から,恐ろしい冷やかさをもって外の事物を見る。健康な老が見るときにほ,ふつう 事物がそのなかに漂って見えるある小さな欺隔の魔術が,彼の限からほ消え失せている. のである。否,彼自身がうぶ毛も色彩もない姿で自分の眼前に横たわるのだ。」 114). (曙光・. しかし,疲労と虚脱の中で演技する自分に嫌悪をもよおしながらも,自己意識や自己嫌 「業績の倫理家」 悪を押し殺してなお奮い立ち, 「精根の疲れる演技」を続けるところに, の特質がある.彼ほクリスチャツや-ソノのようにそのまま額廃に沈むことを欲しないの であるoだが彼の顔から実業家の仮面がずり落ち,姿勢が苦し捌こ崩れる時,生きること にも演技することにも疲れた彼ほ,むしろ自己崩壊を願い,死と解体に憧れる。このよう 「自己を演出するという盲目 な自己放棄の欲望を含んだ姿勢をなおも保ち続けるうちに, 的な陶酔」を覚える,いや,演技のこの「快惚状態こそ,彼にとって次第に最も快いもの」. となっていったのである。この緊張と虚脱以外の何ものでもない日常生活の連続の末, 彼はたった一本の歯がもとで死ぬ.そのグロテクスな死は,予感され抑圧されたが,決. して認識され克服されることのなかった,混沌たる意識下の世界の醜悪な噴出の図であ る。. マンは,生から脱落していながらなお生の中で演技する人間の,この反理性的世界をは. らんだ禁欲的形姿を,長編の半分の量を当てて,克明に措いた。彼ほ「体験し,かつ形成 した。. -しかし形成することによって,はじめてそれをつくづくと体験した」5)のであ る。そして措き尽すことによって,自己の内部に抱くその危険を克服した。しかしそれは 「片づけられた」のでほない。この長編を母胎にして次々と書かれた短編小説のなかのひ とつ,. 「ト-ニオ・クレーガ-」. (1903)においてほ,ブデソブローク氏の問題性は芸術家. ト-ニオの中に投影されるo彼もまた「冷やかに見る」病者の認識, 5). "Betracbtungen". S. 131. 「感情の涙のヴェ-ル.
(4) 4. 藤. 井. 忠. を通してまでも」なお観察してやまない認識の限のもとで,. 「鍛錬と克己」によって創作し. なければならない型の芸術家である。認識の限ほ彼をしてすべての事物や行為の背後に 「滑梧と悲惨」のみを見させ, 「認識の嘩吐」を催させて彼を一層生から引き離し,孤牧に するのみであるが,このように人間的なものに対する没交渉な関係に立ってほじめて,つ. まり暗く惨めな,認識の孤独に身を沈めることによってほじめて,. 「人間的なことを演じ. たりもて遊んだり,効果的に趣味よく表現したりすること」ができるという芸術家なので あるo. この意味でト-ニオほ,生から離脱していながら生の中で演技するトーマス・ブデ. ンブロークの後顧であって,彼もまた一人の「業績の倫理家」であるが,しかし,彼自身 「人間的なことに参加しないで人間的なことを表現する」芸術というものに疑いを抱き, そのような芸術を,いかがわしい「香具師」,. 「えらい人間をまねる猿」,. 「法王庁のわざと. 仕立てた歌い手」と同列に置く。自虐的ともいえる自己認識と自己の芸術性に対する疑惑 の底にほ,生への憧れがひそんでいる。しかしその感情は,生への嫌悪と内的荒廃の極に 発生するデモーニッシュな生への歓喜の欲望,否定の極に絶対的価値に引きあげられた生 への欲求でほない,つまりあの「街頭流行のニーチェ熱が結局ほ行きついたところの消耗. 性の力とく美)の崇拝」6)ではなく,制限され市民化された生への愛であり,. 「誘惑的な平. 凡さを見せている人生」. -のひそやかな憧れであって,しかも自己の憧侵そのものが認識 の光に浸されている。こうして主人公ほ精神と生との両方に対して,新たなイローニッシ ュな関係に立つことにより,業績の倫理家の反理性的世界の危険をはらんだ姿勢に硬直化 することを免れているのである。 そしてマンは再び「悩みのひととき」において,業績の倫理家の苦悩を大写しにするの である。内的枯渇に悩む彼は,芸悩のパトスによってその苦境を乗り越えようとする。ト. -ニオ・クレ-ガ-の「憂欝と中庸」は破られ,狂信的な「大げさな身振りと大げさな言 葉」7)に変っている。禁欲的精神は苦悩の渦の中で自己神格化を求めて身をよじる。こう して基本テーマは常に繰り返され,すでに否定的に,イロ←ニッシュに措かれた要素が, 今度ほ別の作品で圧倒的な力をふるうことになる。 ×. マンほここで芸術家を新たな状況の中に入れて措こうとする。第一に,彼を密室に閉じ こめる。第二に,しかし彼ほ結婚しており,愛する妻子(生の幸福)ほ同じ家の中で眠っ ている。第三に,また彼はたえず彼の対極的存在を思い浮かべなければならない。そ・のた め「生」ほ壁を通して密室の彼に影響を及ぼし,彼の内面の動きほそれによってある屈折 を受ける。マンほその心理的動きを集中的に措こうとするのである。 その結果ほ僅か9真の短編である,が9克という量ほ短さを示すのみならず,この量が 作品のあり方とも関わってくるのである。様々の要素を包含しつつ流れてゆくRomanに 対して,. 「中位の長さ」のNovelleほもはやそのような広い意味での叙事的物語の可能性. を持たず,従って,素材を広範囲に展開することも,単にHandlungとしてのみわれわ 6) "Betracbtungen" S.565 7)同上. S. 138.
(5) 5. トーマス・マンの「悩みのひととき」について. れの眼前で演じられるDrama的要素を直接描き出すこともできない8'。むしろ生の流れ を圧縮して措くか,あるいはその切断面を細密に措くことにその特色を持つ。とすると, この9真の作品ほ,一つの状況を設定し,集中的に瞬間の動きを拡大しつつ措くことに適 している,というよりもそう定められているともいえようo Er. 例えば,. Scbreibtiscb. vom. stand. auf.と書き出した文に続いて,主人公の鼻風邪. や暖炉の煙筒の中を吹きすさぶ風の音や六角形の彼の苦斉の描写を経て,彼が自分の原稿 am を眺めやる次の光景にぶつかる。 Ofen blickte (a) Er stand und nit eine皿 raschen er. und. geflohen. das. dieser. auszutrinken,. sein. Himmel. und. Katarrh eine. und. seine. unglnckselige. Last,. dieser. diesem. Druck,. furchtbaren. schon. der. und. dieser. (c). Oder. (d). Es. VerzweiAung. Das. das. den. zu. Werk,. Gewissensqual,. die. (2). war.. I. wieder. Madigkeit.. hindber. Aufgabe,. Verdammnis. seine. stand-schonwieder,. Blinzeln. angestrengten. schmerzlich war,. Stolz. sein. schleppte Wetter. Werk?. geweihte. diesem. war. Die Empfangnis. Meer,. seュn Elend,. und. sich,. dem. Yon. es. schuld Arbeit. es. stockte, und. sein Die. selbst?. war?これは小. 説の冒頭から第四番目の段をそっくり引用したもので,便宜上四つの部分に区切り,それ ぞれの頭に記号をつけてみた。. (a)は,マンの小説の書き出しがそうであるのと同じく,. ゆっくりと書き始められている。作者ほ,. 「彼が逃げだしてきた作品」という関係文を織り. 「机から立ち上った」という小説の冒頭の句の意味をここで明らかにしておかず. こませて,. にほいられないのである。一度述べたことを再び取り上げ,新たな光のもとに出現させた. り,解釈をほどこしたりすることは,マンのよく用いる技法で,読者は,それによってあ たかも網の目を道にたどらされる思いがする。後戻りする時に,先に通り過ぎてきた個所 を新しい状況のもとで再び理解し直すのである。このように先行するものを繰り返し問題. にする態度の底には,あくまでも事柄を認識の光に当て定義し尽そうとする作者の衝動が ある。それほ個々の単語についても同様で,ここでほ,. 「作品」という名詞と同格の名詞. を後に列挙して,先行する名詞を絶えず補足し,あるいほ覆す,そしてその並列の高まり の末に, 「彼の誇りにして悲jr象 彼の天国にして地獄」という,相反する概念をundで結 合した定義を置く。この内部で反発し合っている定義によって,. 「彼」の芸術家としての存 在の二義性が暗示されるのである.作者ほ一義的な定義に安住しえない認識の衝動をもっ て,このような文章を作り上げた。言いかえれば,作中人物の「病的に満足せぬ心」をも って害いた。そしてこの文の後半は単なる客観描写でなく,作者はすでに作中人物の内面 にはいりこんで,作中人物とともに,その頭に浮かぶ,自己の作品についての想念を名詞 の列挙によって固定してゆくのであるから,作者と作中人物との同一性および両者の問の. 距離の関係があい凱、になってくるのである。 その内部に認識への衝動をはらんでいながらも,名詞による想念の定着のた糾こ静的な 8). B・. Ⅴ・. Wiese:. II・ Diisseldorf K・. K・. P61heim:. Vom 1962. Spielraum. des. novellistischen. Erzahlens. (die deutsche. Novelle. S. 12). Novellentheorie. und. Noveilenforschung. (Dvjs, Sonderheft/1964. S. 216).
(6) 6. 藤. 井. 忠. 「作品. 様相を呈している(a)の文章の後に,動詞と副詞の動的な激しい(b)の文が続く。. (c). がまたして停滞した」という苦しい事実が,静的な表面を破っておどり出るのであるo. の文でそれを受けとめ,作品の行き詰まりほ「天候とカタルと疲労」のせいだと,名詞を しかしその 各々undで結合してみずからのJbを納得させんとするかのように断定するo 断定は崩されなければならない。 (d)の省略文を重ねて,たたみ掛けるように問い返す疑 問形には,作品の行き詰まりを天候などの外的条件のせいにしてすますのでなく,自分自 身の内部-刃を向けずにほおかない,苦悩の中の認識衝動が,激しく波打っている。仕事 の停滞の原因を仕事そのものの中に見るということほ,芸術家としての自分のあり方を問 題化することだから,この疑問形に感じられる拒否の身構えは,その自己認識の苦痛の表 現でもある。こうしてゆるやかな客観描写でほじまったこの段は,激しい苦痛にみちた自 己認識の衝動を表現することで終ったが,これとともにわれわれほこの小説の中心問題とほいってゆく. プロプレマーティツシユ. 題. 「本来の自然な(素朴な芸術)ほ,生の賛美,生の祭典であった--その芸術を問. にし,その性格をこれほどまでに複雑イヒしたのは,芸術が精神,純粋精神,つまり批判的 否定的破壊的原理と結合したためである--芸術と文学は素朴であることを止め,古風な (知的)になった。芸術と文学はす 表現を用いると,く情感的)に,今日の言葉で言うと, でに,そしていまやもほや,単なる生ではないのである。生の批判でもある--」9)シラー の論文「素朴文学と情感文学について」を踏まえて,このように鋭く把握された現代芸術 の,就中マン自身の芸術の問題性ほ,この「悩みのひととき」の主人公の中にこれまでに. なく直接的に明瞭に形象化されている。. 「彼」ほ,あの苦悩者の認識,病的に満足せぬ心,ト. -ニオの「感情の涙のヴェールを通してまでも」はっきり洞察しなけ滋1ばならぬ限の「破. 壊的」作用のもとにあって,. 「内的芸術の,素材・材料・海流への可能性を求める最初. の律動的な衝動から」,この認識の苦難の道を通って, -」至らなければならない芸術家である。認識の眼が,. 「思想-,形象-,言葉へ,文章 「恐ろしい冷やかさで」外界の事物. に向けられ,それを包んでいる「小さな欺隔の魔術」を見抜くとともに,認識老自身の赤 裸な姿をあばき,彼の言語にも破壊的力を及ぼす時,芸術家の造形ほ可能であろうか。に. もかかわらず彼ほ創造しなければならない。自己を仕事へ駆るための興奮剤,徹夜,閉ざ した部星の濁った空気を吸って過ごした幾日,青年の血気にまかせた不節制と自己虐待, 芸術家以外の何者でもないものとしての非人間的存在の報いが,結嬉し生の幸福を受けた いまやってきて,彼ほ内的枯渇の極に達している。マンの措いてきた芸術家の状態の中で, これまでになく絶望的な局面がここに示されるのである。作者と作中人物の同一ノ性の予感 を,文体の分析においてすでに述べたが,このような悲劇的局面において,作中人物の絶 「自分がどんなに冷たい,窮乏した,純 望的状態は作者の芸術家としての問題性に繁る。 粋に表現者としての,純粋に代表者としての存在を多年つづけてきたか」を,マンほ未来 の妻に宛てた手紙(1904年6月)の中で訴え,このような存在者をいやすものはたったひ とつ, 「幸福・-あなたなのです! 」と愛を告白して幸福な結婚生活-入った。その結熔 ■. 9). "Betracbtungen". S・ 562-. 的.
(7) 7. トーマス・マンの「悩みのひととき」について. 第一作がこの作品であることを思う時,マンがなおかつ「悩みのひととき」の主人公をあ のような絶望的状態の中に置いて措かねばならないということは,却って問題の切実さを 示す。だがこのような人物への親近性の中でこそまた,. 事物によっても彼の内面を語らしめる」10). der. 「人物の口を通してだけでなく, erzahlende. Dichterの特質が生きてくる. のである。. われわれほ先ほど,あくまでも三人称単数を主語とし退去時称で善かれている文を読み 進むうちに,それを「彼」の頭に浮かぶ想念とし受け取っていた。すなわち作者ほ,客観 描写をおこないながら叙述文の時称と人称のまま,いつの間にか作中人物の内面の声を聞 かせる,いわゆる「体験話法erlebte. Rede」を用いるのであるo. 視点ほ作中人物自身の. 心の中に移し入れられ,読者ほほとんど直接内面の動きに参加する。しかも,客観描写と 内面の声との区別がつきにくい場合が多いが,この外面と内面との境界のあいまいさのゆ えに作品構成の緊密性が強まると同時に,. der. erzahlende. DicbterのSpielの可能が生. ずる。そこでは外面描写が内面-引き入れられ,単なる状況描写にとどまらず,人物の内 面から見た風景であると同時に,人物の内面を反映するものとなる。 を紡毛聖する魂のいやされぬ嘆き」のように抱える十二月の風も,. 「嵐の吹く夜の荒野 「精神的禁欲的みすぼら. しさ」をたたえた彼の部屋も,彼の内面の風景となって,彼が机から立ち上ったという書 き出しの後に続いて作中人物の内面の展開の準備をしていたのである。しかも作中でほ主 人公ほ自分のこの部屋に閉じこもっているのであるから,彼自身の内面の反映を受けた,. 彼自身の精神的風土ともいえる密室の中で,彼の内面が細密に描写されるのだ。これとほ 道に外面と内面の境界のあいまいさほ,また,内面への没入からひそかに抜け出て対象を 外側から描写することを,作者に可能にするo鼻風邪のた捌こ鼻で荒い息をすろことや, 炎症を起こした険や,苦しげな剖またきが,人物の内面の動きにくっついてまわる。こう して彼ほ外と内の両方から照明を受けているのである。 主人公の心の動きに身振りや表情がともない,精神の苦悩は,その肉体から切き離され ることがないた捌こ,苦悩ほイローニッシュな光を浴びる。. ・L理描写から抜け出て彼の姿 「白い首ほ,襟飾りから長く. に視力を集中し拡大して描いた彼の表情はこんな風である。. 突き出ていて,化粧衣の裾のほだけた聞から,内側に曲った両脚が見える。赤い髪は,高 くひいでたやさしい解からうしろへとなで上げられて,こめかみの上に青白い筋の走る禿 げあがりを残し,薄い巻き毛となって両耳をおおっている。先の方が白く尖った,大きな 鷲鼻のつけ板のところで,頭髪よりも濃い太い眉が,両方から押し迫まり,それが,窪ん でただれた限のまなざしに,何か悲劇的にものを見つめるような感じを与えている。彼ほ. 口から息をするよりほかにないので,薄い眉をあけている。閉めきった部屋の空気のため に土気色になった,そばかすのある頬ほ,たるみ,落ち窪んでいる-・」この表情描写ほ 残されているシラーの像や彼についての記述をもととしているが,こうして拡大されたも. のは,われわれの心に抱く毅然たる高貴な姿とは一致しない。これもまた,マンの小説に 幾度も現われる,病理学的認識の照明を当てられた,悩める人の慣件した姿であり,闇を 10). "Versuch. tiber. das. Theater". 1908. (Reden. und. Aufsatze. I., S. 81).
(8) 8. 井. 藤. 忠. 凝視するブデンブローク氏のまなざしを持っている。とにかくこの異様な顔ほ,創造の苦. 悩を何か純粋に精神的に気高いものとして賛美したい気持にブレーキをかけ,芸術家の創 造にまつわる幻想を裏切る。しかしこれこそ現代の芸術家の一面の姿であって,この慣博 した男の胸から,世の人を歓泣させ,暁笑させる精神的労作が生まれ出るのである. マンほ婚約者のカーチャに宛てる手紙の中で,二人がまだ知り合う以前コンサートホー. ルで,遠く産れた庸に腰掛ける彼女の表情や身振りをしばしばオペラグラスで眺めていた と打ち明けているが,マンの人物描写にはそういうところがある。物語の進行の途中でふ と限鏡をあて人物の動きを見る。その間だけ,区切られた音のない世界がレンズを通して 出現し,人の動の動きほパントマイムになり,あるいほ表情が大写しになって眼前に現わ れる。その観察の態度からしてすでに対象に対する距離があるo. しかし,眼鏡にうつる拡 「長く突き出ている」. 大された細部を,マンほ異常な閑Jbをもって凝視しているのである。 普, 「内側に曲った」両脚,. 「赤い」髪,. 「窪んでただれた」限等々,脚の形や髪の色をその. まま描写しているだけで,形容詞にも何の誇張もないし,凝視したものをありのまま丹念 に定義していこうとしているようである。しかし,このような描写から何かまとまった全. 体が浮び上ってくるであろうか。むしろ全体ほ,定義された個々に分解してゆくのである。 細密描写,つまり細部の拡大化は,ちょうど点描画に限を近づけて見るように,部分と部. 分との間隔が広がり,全体のまとまりが稀薄になってゆく。そして個々の部分がそれぞれ 全体を代表せんと自己主張するのである。つまり,首や脚や頼がそれぞれ思い思いにとび. 出してきて,どこか滑梧な,杏,グロテスクな印象を与える。拡大化から生ずる滑梧を, Prazision. R.バウムガルトは「細密描写によるカリカチュア る11)0. der. Karikatur」と名づけ. (たしかに音のない世界で動きまわる人間の姿は,手とか脚とか口とかのその時その. 時の動きに分離して,人間的個性的なものが失われるが,マンの人物にしばしば見られる 一種の没個性もこの諸概念へと分割する細密描写のためであろう。)しかし,個々の部分に 細分化されても,なおかつそこにほ個々の概念と概念とを結合してゆく連関の糸ほ張られ. ており,作者の個に対する注視力が強まれば,それだけ全体へ総括せんとする意志も強く なる.各々自己主張する個が一つのパ-スべクティブのもとで,すなわちここでは「喜劇 的細部描写」が絶望した男という「悲劇的パースペクティブ」のもとで総括され12),かく してこの人物描写は,一見ありのままに克明に描写していくような筆致を見せながら,す でにそれを越え,作品のテーマにしっかりと結びつくものとなって,小説の流れの中に据 えられているのである。. 「彼」の作品を「彼の誇りにして悲惨」と定義したのと同じように,マンほ主人公である 芸術家に絶えず二重の照明を与えて措かなければならないのである。そのように措かざる. をえない造形家の心の底にほ,観察し認識し尽さねばやまない衝動と同時に,トーニオが 「全体を傷つけることへの恐れ」13) 言った,言葉によって「片づけてしまう」ことへの嫌悪, ll). 良. Baumgart: 1964. Mtincben. 12)同上 13). Das. lronische. (S. 81). S.102. "Betracbtungen". S. 399. und. die. lronie. in. den. Werken. Thomas. Manns・.
(9) 9. トーマス・マンの「悩みのひととき」について. があるからにほかならない。(この人問性の全体を求めんとする衝動は後期のマンにおいて 「窪. 一層明白になるのである。)だからマンの滑倍化は冷酷な噺笑とは無縁のものである。 んでただれた限のまななざし」に「何か悲劇的にものを見つめるような感じ」という,苦 悩を苦悩として受け取るいたわりのような表現が添えられている。. だがこの客観描写の一部として置かれた,やや悲壮な表現は,作中人物の自己の状況に 対する悲壮な気持の反映でもあって,やがて生ずる自己の苦悩への熱狂的帰依に繁ってゆ 絶望的な自己認識-の く。すなわち,絶望的な思いがその極限に達した時,一つの軌免 反駁,. 「にもかかわらず」による反抗が起こる。. 「自分ほ生きねばならぬように生きてきた. のだ」と言い,生活をうまく営んでゆく知恵とか冷たい紀律などよりも,必然的な危険に 身をゆだねることをよしとする時,彼は「苦痛」という言葉に突き当った。. 「苦痛-この. 語が彼の胸を何と広やかにしたことであろう。彼ほからだを伸ばし,腕を組み合わせた.」. 彼ほ無意識のうちに自己の存在に誇りと尊厳を与えるものを探していたが,それほ「苦痛」 という一語でよかったのだ。この語こそ彼自身の存在そのものであるとともに,自己の存 在を擁護せんとするパトスを燃え立たせるもと火でもあったo 「信ずること,苦痛を信ず ることができなければならぬ。」. 「才能そのものが-苦痛なのではないか。」. 「根底におい. て才能ほ,欲求であり-・苦悩によってはじめてその能力を生み出し高めるところの満足 せぬ心である。」. 「そして,最も偉大な人々,最も満足せぬ人々にとって,自己の才能は最. も鋭いむちなのである。」. 「言葉が口をついてひょいひょい飛び出すのは,才能の圧力と規. 律とのもとに生きていない,すく小に満足してしまう無知な連中の場合だけだo」-まさし. くトーマス・マン自身の芸術家としての資質がここに述べられているのだ。破壊的認識の 重圧のもとで,マンほ,生得のドイツ市民的・十九世紀的・手工業的勤勉と忍耐とをもっ て創作に取り組んだのであり,この小説の文体もまたその産物といえよう。. 「リューベッ. ク市民の息子特有の保守主義が,視力を集中して細分化しつつ事物を認識する,現代的観 察者にしてJL理学者の細密主義と結合している。」 (F.マルティ-ニ)作者自身の資質が 作中人物によって熱狂的に擁護される時,共感と距離の関係ほ微妙な振幅を見せる。 「そして名誉心ほ言う,苦悩が無駄であったなどということがあってよいものか。苦悩は. おれを偉大にせねばならないのだ」と彼が思った時,その大きな鼻の両翼ほ張り切り,普 なざしは眠むようにけわしくさまよい,右手が激しく化粧衣の折り返しにさしこまれ,左. 手は握りしめたままたれ,やせた頼に赤味がさすのである。絶望的な自己認識の極に,易り 扶された内面のなお奥底にひそんでいた芸術家的エゴイズムが噴出し,自己の苦悩への狂 信的帰依の中で絶望的認識を自己への愛に転換し,苦境を乗り越えんとしている。マンほ, この「精神のグロテクスな,熱病的専制的大胆さ」14)に,ぎごちない身振りをともなわせ ることにより,苦悩の中のオルギェの姿,ディオニゾス的陶酔をはらんだパントマイムの ごとき光景を描き出しているのである。その上さらに,この認識の光に侵され,克明に描 かれ拡大化された熱狂の姿に対して, 悩の渦を新たな局面へと導き入れる。 14). "Goethe. und. Tolstoi". S. 218. 「もう一人の男」の姿を出現させることにより,苦. -.
(10) 10. 藤. 井. 忠. ×. といっても「彼」ほ密室におり,. 「もう一人の男der. andere」,自然の恵みを豊かに受 けた「ヴァイマルの男」のことが,彼の胸の内に瞬間的に現われるのみであり,その上男 ほただ形容詞の名詞化等をもって簡単に定義されているにすぎない。一般に,マンの作品 の中核となる精神と生との対立関係においてマンの心理的追求ほもっぱら精神の世界に往 む老の内部に向けられ,それをえく小り出し問題化するが,その反面,健康な生の世界の人 間ほそのような追及を受けることがなく,一つのタイプとして簡単に要約され,あるいは メ-ル-ソのような薄紗につつまれている.ト-ニオ・クレーガ一においてほ,このぼん. やり措かれた対象に対する,一切の実現から身を引いた憧慣,成就されないエロスが,. 「自. 由に遊戯しつつその永遠性を享受する。」15'しかしこうして幻滅を味うことなく心に生き つづける憧慣のゆえに精神はまた不断に緊張し,動揺しなければならない。 さて「彼」に「ヴァイマルの男」を対置させた背景には,シラーの論文「素朴文学と情 感文学について」が存在していることほ明らかである。シラーは,古代ギリシャ人を囲む. 美しい自然と,その自由な自然と一致して自己の内部に分裂を知らない彼らの姿を想起し, そのような自然との幸福な一致を失い,自己自身と相魁する近代の人間の運命を考える。 しかもゲーテと親交を結んでからほ,そこにギリシャ精神の体現を見. その豊かな天分を. 前にし自己の貧しさを痛感するのである。しかしこの貧しい自己にも存在理由があるんだ とし,その理由を探し求めんとする切実な欲求の中で,近代詩人の置かれている状況を認. 識し,この歴史的制約の中で近代詩人(情感詩人)が,そして自己が,歩むべき道をこう 見定める。すなわち,自然ほ素朴詩人に,常に不可分の統一体として作用するという「恵 み」を与えているが,情感詩人には,抽象によって彼の内部から失われたあの統一性を, 再び自己の内部からつくり出し,制限された状態から無限の状態へ移りゆく「力」という よりもむしろ「活発な衝動」を自然から授けられているのだと。この論文を書き終えたシ ラーほ,歴史・哲学の研究から文学の分野に復帰し,その研究において身につけ鍛えた理 論をもって,彼本来の領域である劇作に取り組む。史劇「ヴアレンシュタイソ」である。 しかし一方肉体的にほ,五年前に肺炎にかかってから幾度も病気が再発するという悪条件 のもとにあった。病いと闘い, はこの時期のシラ-の姿の中に,. 「海を飲み干すような」仕事と格闘することになる。マン 「破壊的」認識のもとで病気・貧困・内的欠乏にもかか. わらず「鍛錬と克己」によって創造する詩人の典型を見たのであった。だが作中でほ単に. 「彼」として扱われ,すでに見たようにマン独特の心理学的病理学的な照明を受け,あの 論文の雰囲気にくらべ暗く,絶望的な恰降した姿を与えられ,まさにあの疲労困葱のきわ で働く業績の倫理家の形姿となるo一方ゲ-テも「もう一人の男」として「彼」の対極的 存在に単純化される。これにより対立関係の緊熟ま増大し,しかも, 「彼」ほ自己の精神 的風土を反映した部屋の中でヴァイマルにいる「もう一人の男」を思うのであるから,こ. の遠ざけられた対極ほ却って彼の心を絶えず刺激する。それに「憧れのこもった敵意で愛 している男」という風に憧憤はそれ自身の内に相反する方向を含み,彼の胸の中での自我 15). 良. Baumgart.. S.. 112.
(11) ll. ト-マス・マソの「悩みのひととき」について. と他との対立はほじめから緊張をはらんでいる。. 「 もう一人の男」は作中でほ二度現われる。最初ほ,自虐的生活を行ってきた「彼」に対 「彼」は して,生きることと創造することを心得ている詩人として出現しすぐに消えるが, それによづて一層自己の絶望的な状態を認識せざるをえない。そして二度目ほ,自己の存 在への絶望的な思いを,この苦悩こそ偉大さと結びつくのだというパセティックな信念に 「彼」の胸に出現し,激情に一つの屈折を ょって乗り切ろうとする,あの熱狂の瞬間に, 「両手で限をおお 与えるのである。その出現を予感した彼の姿は痛ましく滑梧である「あの い,上半身をなかば横に向け,避けるような,逃げだすような身構えで。」しかし, 明るい, 官能の喜びを享受する,感覚的な,神々のごとく無意識的な男」の姿はいやおう 「またもやいつものように」,自. なしに殊. ように胸をさし,そして貧しい病患の詩人ほ,. 己の本質. 芸術性とをあの男のそれに対し主張し,境界をつける作業を無意識に始めてい. る。だがひとたび苦悩の中で奮い立った彼の心の方向ほ定まっているoあの男の朗かな, 苦悩のない,神のような豊かさに対して,自分は認識の苦難という英雄の道を歩み創造し. なければならない。一つの文章を作るのにどれほどの鍛錬と克己を必要とすることか。し かしこの「困難なものへの意志der. Wille. 由があるのだと。/業績の倫理家においては, なされるのである。」. Schweren」の中にこそ,自分の存在理. zum. 「一切の決定が夢にもかかわらずiによって. (ベルトラム「ニ-チェ」). 彼はこの過程で変ったであろうか。否。しかし,. 「ヴァイマルの男」の姿に駆られ,そ. れと張り合いつつ自己の存在理由を問う中で,自分の作品ほ,. 「あの男の明るい世界への. 憧れ」が生み出す奇蹟なのだと思う。そして自分の胸の奥底に「音楽として,存在の純粋 な根源的像として」生まれている詩,. 「その故郷を*)レフォイス的深みに持っているある 「明る. もの」の存在を自覚し,それを混沌たる深みの中から,認識の苦難の道を通って, い世界へと引き上げて」ゆくことに自己の使命があると悟るのである。マンが主人公にも う一人の男を対置させ,悩みの過程の中で彼に体験させたものほ,あのシラーの論文と同 じく,自己の存在の再確認と自己の使命の再認識であったo. 熱狂の渦の静まりかけてゆく途中で,最後にマンほ主人公の心理過程にもう一つの屈折 を用意していた。彼の苦悩を見た老にとっては胸の痛くなるような愛の告白が彼の口から 洩れ出るのだ。あの男との張り合う中で自分の困難な道をまざまざと思い描く彼は,悲壮 な思いから,. 「幸福からの--あの絹のようにやわらかい束縛からの自由」とつぶやいた. 時,いつの問にか隣の部屋の,妻の眠っているベッドの枕もとに立ち,身をかがめてささ 「わたしの妻o 恋人.お前はわたしの憧憶について釆て,わたしの幸福に やくのである, なるためにわたしのそばへ釆てくれたのか。お前ほわたしの幸福なのだ。安心おし。そし てお眠り。. --神かけて,神かけて,わたしはお前を非常に愛している。」この言葉ほ, 彼が先に絶望の中でたどりついた思い,つまり「少しばかりの幸福がくだって釆たいも 精神の冒険を出て,いくらかまともな生活と市民的な関係の中へ足を踏み入れ,. -・妻子. を持つにいたったいま,自分は疲れきって駄目になっている」という思いとどう繁ってい るのであろうか。彼ほ自分の肉体を離使して作品を生み出してきた。しかし生の暖かい幸.
(12) 12. 藤. 井. 忠. 福に触れた時,彼の精神は弛緩しまいとして硬直する,と同時に,これまで痛めつけられ ていた肉体という生は生の幸福に反応して彼に復讐を始bf',内的枯渇のきわ-と彼を追い やったのでほないだろうか。ヴァイマルの男は生の高き観念像としてかなたに置かれ,彼 の胸の中に去来するのみであったが,隣の部屋に眠る妻は身近な生の実体としてある。彼 があのように自己の絶望的状態を見た時,同じ家の中にほ愛する妻と子供たちが眠ってい るのであるから,そして生の幸福に対するあのような反応は,. 「人間になり,感じ始めた. らもうおしまい」である芸術家としての彼の存在の仕方に原因があるのだから,彼の苦悩 ほより一層切実である.眠れる妻を見る彼の限ほ苦悩の色を帯びていても,ト-ニオのイ ロニーほこもっていない。それゆえに,. 「生きることと創造すること」の両方を心得てい. るもう一人の男の姿を思い浮べざるをえないし,また,自己の存在の根拠を「困難なもの への意志」にあるとして幸福からの自由を心に決めた時にほ,眠れる幸福に愛を告白して おかずにほいられず,自分の存在の反映である部屋を出て,彼女の枕もとに立ったのであ. る。幸福が目を覚ますのを恐れつつなされた彼の告白ほ,愛の告白であるとともに,生の 幸福に対して距離を置かざるをえない自己の存在の告白でもあるo. -「そしてわたしほ 決してお前のものになりすぎることほ許されないのだ。お前の中で幸福になりきってほい. けないのだ,わたしの天職であるところのもののために。」そして彼は「そのまどろみの 好ましい暖かさに別れ」,仕事部屋へ戻り,ペソを握った。これがあの絶望的な思いの帰 結である。あの暗い思いほ,生に触れて一層自己の状況を知った精神の苦悩の表現であっ た。そして,それによって生との関係が絶たれてしまったのでなく,生への感情ほ,自己 認識の光を受けたひそやかな愛として,限定されて彼の心の中で生きる。 ×. 先に描写の仕方の中に作者の対象に対する共感と距離を感じ取り,その緊張をはらんだ. 二重の照明のもとで,恰障とは裏腹の芸術家的エゴイズムの燃え上りと偉大を求める激情 が,グロテスクなまでに集中的に拡大化されて措かれるのを見た。そして次に,その狂信. 的煩のまっただ中に,彼の対極的存在を出現させるという構成的効果を見た。人物の内部 で自己を問題化させることにより,作者は二重に距離を得るのだ。破壊的認識の圧力のも とに苦しむ「彼」が, 「神々のごとく無意識的な男」と競いつつ,苦悩と自己主張の渦の中 で獲得したものほ,自己の奥底にある創造力の暗い根源の自覚と,そこに生まれている詩 杏,まさに彼の認識の道を通って明るい澄みきった世界へと引き上げてゆかねばならない という考えであった。苦悩の渦の中での大きな一回転。すべてほ再確認であったのかも知 れぬ。しかし,混沌の中へ「降りてゆく」のではなく,混沌の中に「とどまる」のでほな. く,混沌の中から「光の世界へ引き上げる」のだという認識と,坐-のひそかな素朴な愛 の告白によって,この悩みの瞬間においては彼はトーマス・ブデソブロークの,あの暗い 反理性的世界への墜落の危険をはらんだ姿勢に硬直化することを免れているのである.ト 「彼」の姿は内的枯渇と苦悩の爆発に醜くゆがみなが -ニオの認識の「憂馨」にくらべて, らも,なおかつ認識の雄々しさを感じさせる。 「彼」ほやほりシラーである。激しい共感 をもって対象に投入しつつも距離を保つ意志を貫き,このシラーを形成しえたマンは,ゲ.
(13) 13. トーマス・マンの「悩みのひととき」について -テヘの道を歩みほじめる。しかしたえざるテーマの繰り返しにおいて彼はさらにまた 「ヴェニスに死す」 (1912)の中で,暗い混沌の深みと絶縁したつもりでいながらこの深淵. にのみこまれてしまう業績の倫理家の悲劇を措かねばならないのであって,このように決 して直線的ではない歩みの中で, 「悩みのひととき」は独特の光を放つひとつの通過点で もある。. 特に参考Lた文献 大谷垂彦「トーマス・マンのく悩みのひととき〉をめくやって」 長橋芙美子「トーマス・マンにおけるLeistung-Etbikの展開」 R.. Baumgart:. Das. lronische. und. die. lronie. in. den. 1964 F.. Martini:. Das. Wagnis. der. Sprache.. Stuttgart. 1954. (ドイツ文学31). Werken. (ドイツ文学15) Tbo皿aS. Manns.. Mlincben.
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