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ヘルマン・ブロッホ『誘惑者』 : その3. 医師(語り手)論

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(1)ヘルマン・ブロッホ『誘惑者』 その3.医師(語り手)請 岩. 正. 切. BROCH:. HERMANN. TEII:. DRITTER. Masaki. 介. I)ER UBER. VERSUCHER DEN. ARZT. IWAKIRI*. SUMMARY I)er. alte Arzt um. und. mystische Traum, Eerzens Diese Schau. dad Weise. Liebe,. hat in der Mitte dab. ist in. und als Kliniker abgebrochen brennenden, seinem sich nit metaphysischen Einsamkeit Er wollte sich in der d6rflichen. deb Menschen. wissensebaftlicbe die Versenkung geh6rt,. des Romans). Karriere. eine erfolgreiche dorf gezogen, anderzusetzen. der Welt und. (der lch-Erzahler. in. die. Natur das. Er. iiberzeugen.. Erkenntnis,. sondern. schweigende, Suchen sein. Unerreichbare;. Pseudo-Sterben. und Es. er das Jenseitige: ahnt Grundstruktur letzte einheitliche die unter der heutigen Welt,. ein. glaubte,. mystisebes, Tiefe. unendliche begiinstigen durch. Schauen. die Versenkung ist. dad. wird・. AIpen-. Problem von. dazu. ausein-. den. Urbild. keine. direktes des. Lebens. seines kleine. rationale, Wissen dureb. eigenen. Herzens. Er erreicht Lauschen der. und in die. so. auf Natur,. Unendlichkeit. des. des Seins. totale Einheit ewige Seins ermiiglicht ihm positive eine Zwiespalt leidet・ allgemeinen. die des. den. この小説の語り手をつとめる医師は,独身で六十歳。上村の一軒家に住み,火曜と木曜 の十時から十四時,日曜の十時から十二時,下村のザベストの経営する商店兼旅館の一室 で村人の診療に当っている。十年ほど前,ある都市の病院のつとめを罷めてアルプスの山 村にやってきた。その病院でほ,院長代理をつとめるほどの地位にのぼり,医学の研究面 でもかなりの業績をあげた人物である。急に職を辞して田舎にひき移ってきた。都会の病 院の生活が耐えられなくなったのである。 そこでの生活ほ限りないあわただしさであった。昨日ほすぐ忘却のなかへおしやられ,. 代って新しい今日がやってくる。規則正しく一日一日が過去-追いやられていく。騒がし く,落着いた安らぎがない。どこか表面的である。人生の一種むなしい流失感がある。そ んななかで,ふと,自然の中へ逃げだしたくなる。こうした毎日では,自分の生の多様さ *ドイツ語教室(°ept.. of German).

(2) ヘルマン・ブpッホ『誘惑老』. 69. が,単調な流れに塗り込められてしまう感じがするoそして,何か人間的に大切なものが 沈黙の淵に沈みこんだまま置き忘れられていくような気がするoなおざりにしてきた自分 の.亡上の底も見つめてみたいoその沈黙のなかみをさぐってみたい。 jLの無限に対する憧れ がつのるのである。. それから,病院の治療体制の冷たさと間接性がたまらない。もっとじかに個人的な形で, 愛しながら患者の死と闘ってみたい。 まだ耐えられないことがある。こうした生き方をつづけていっても,生のすべて,世界 のすべてを知ることにならないのでほないだろうかo生とはどういうものなのか・究極の. 形において世界とほ?--・その基本的な輪廓と全体像がほしいo知的な焦燥がつのってく る。ところで,医学が認識の型として属する合理的科学的認識方法で,全体像を獲得する ことほ可能だろうか。それはだめらしい。この方法は,実証と論理で,部分的に世界像を っくりあげてゆく絶えざる発見と修正のプロセスであるoこの方法をとる限り,原理脚こ ほいつまでも最終の世界像というものは得られないo完全知-不動に確定した究極像の 獲得のためには,学的抽象的合理的方法でなく,経験的直接的非合理的方法への飛躍が必 要なはずだ。. 医師が,主に『前言』1'で記している脱都会の内面的動横のあらましは上のようなもの であるo医師をかりたてたものは,ある求知の焦燥とよべようoその求知の対象はすでに 拙稿その2.2,でみたギショソの世界(心の世界)である.見えるものでほないし合理的に 説明したり科学的に実証したりできない性質のものであるが,人間が根源において共通に 属するはずの原故郷である。医師の自然と田舎-のひきこもりは,およそのところ,文明 から自然へ,科学と「学」から心と直観と経験-といったある帰郷のこころみと解するこ とがゆるされようo同時に,この帰郷の試みにほ,. 『前言』にもみえるように,いくつか. の倫理的形而上学的な問題の解決もかけられていたoだから,これは問題解決のための・[上 の旅という側面も持っている。以下順を追ってこの帰郷の方法と内容をみていきたいo 人はなぜ,医師をとらえたような帰郷の思いにとらわれるのかoそして,その帰郷の方 法は?その原故郷の姿とはどんなものか?まず,この点から,医師の考えるところを 追ってみよう。. むろん,アルプスの山村が,そのまま,原故郷を体現しているわけではないo原故郷 ほ,ここでも求知努力の対象である。ただ,都会に比べてそれを捜しやすい条件を揃えて いる。何よりも自然がある。自然ほ,変らぬ人間の原故郷の姿をうかがわせてくれる瞬間 があるoそれから,自然と一体となって営まれてきた村の生活と長い伝統があるo祭りや. 習慣も示唆的である。地上的なものでほあるが,農耕という循環的な永遠もあるo村には, こうした構 単純だけれども静かにつづいてゆく全体的で包括的な秩序があるのである3'o 造の世界でこそ,其の不易の世界を知る手掛りをえやすいのでほないかo医師の期待は, 自然と村がもつその象徴性にあった。 たとえば,こうした自然と人事の一体となった村の姿は,復活祭のとき顕著にみてとれ る。復活祭のパンを焼くかまどの煙ほ,人間の営みをつつみ,逆につつみこまれて,早春.

(3) 70. 岩. 切. 正. 介. のこだまさながら,大きい世界を溶けこませて,村の空を流れてゆく4)。 村人の典型と極致であるギショソが,どのようにして,不動の根源的な世界をつかまえ たかはすでに拙稿その2・でみた.ギションが飾らない言葉で伝えたその世界は,心の深 みにひらけるものであり,あらゆる区別のない一体世界であった。人間と自然の区別もな く'事物と人間,自己と他者,生と死,男性と女性,昨日と今日,近在と遠在,そして 「ある」. (存在)と「あるべき」. (当為ないし価値),これらあらゆる区別を解消せしめて含 む全体的な単一世界(Einheit)であ?た. 医師ほこの目に見えない真の世界を,原像という言葉で語るb'o. ギションの心的世界 は,医師の言葉では,原像の世界に該当するのである。医師の説明ほ,省察的で理性的で あるoその説明はこうである.原像の世界ほ一体的で一元的である。無時間的で静止的な 秩序をもっている。そこには,ものごとや人間,出来事,およそ人間の世界と自然のなか で起ることやそこに存在するあらゆるものの純粋で不変の存在形態つまりエッセンスがあ るoそれが,現実の世界に現象としてあらわれてくるo原像の世界ほ,現実の世界の源と いう性格をもっている.現実の世界ほ,原像の世界を映した鏡像(Spiegelbild)であるし, またそのこだま(Eebo),またその肖似物(Gleiebnis)ともいえる。二つの世界ほ密着した 対応の関係にたっている。むろんのこと,原像の世界は,事物やできごとの故郷の地であ るばかりでなく,人間の共通の出生の地(ロrbeimat,ロrsprung)でもある。. すなわち,そこが人間の故郷だということほ,次のような意味あいである。人間は,原 像の記憶というものを・bのなかに持って現実の世界にうみおとされる.人間ほこの生来固 有の記憶にもとづいて,現実の世界でコピー(Abbild)をさがす.ところが,次元の異る 世界では完全な複製がみつかるほずもない。人間ほ,さがす疲労と同時に失望を覚えるよ うになる.次卸こ,人間の胸中にほ等しく原像の世界への回帰をのぞむ憧傾が点ぜられ る。. さらに次の事情が加わる。人が,ある秋の風景とか柳という風物,愛とか哀しみとか友 情という人倫や感情,人間の争いといった出来事など,およそあることがらを理解するの は,各自が内心に持っているそれらの原像にてらし,一致を確認するという手続きを踏む からであるo原像の記憶像ほ,一般に理解という精神過程において不可欠の参照の枠組に なっている。ところが個々の人間が実際に記憶として持つ原像(個人原像)の問には限り ない個人差がみられる。各人の分有する原像の記憶には忘却もつきまとうし,かすれや変 形もさけがたい。個人的原像は個々の人のたどる人生行路のうち経験によって変容もする し深まりもするが,他者のそれと合致することほ,まずない。人それぞれ,春また秋山 や河,人や犬・柳や桜,愛と哀しみ,誕生や死,あらゆる事物事象や人倫について抱く原 像がちがい,イメージないし理解に差のあることほまぬがれがたいoこうした実情から, 個人的原像をいだいているままでほ,まだひどく「ひとりきり」. (einsamst)な状態にとど. まっているといえる。そこで,この点からも・人の心には共通の故郷であった普遍的原像. の世界に対する憧れがきざすoそれは,いうまでも・なく,生れ故郷で享受していた相互間 の完全な理解と一致,共生や一体性の回復をのぞむ気持からであるo.

(4) 71. -ルマン・ブT,ッホ『誘惑者』. この原像の世界を知ることほ,きわめて困難であるoふつう,人間は,この故郷こふれ ることができない。直接にそれを見たり,聞いたりすることもできない。どんな姿のもの なのかわからないし,言葉でいい表せない。これほ「彼方なるもの」なのである。この彼 方なるものに対して,人間は,沈然と視る聴く驚くという種類の接し方しかできない。こ うした接し方において,神秘的な焦点にその彼方なるものを感知する(ahnen)のであるo このようにして,現実の人間は,個人原像の「差異」と「孤独」の世界を止揚してくれ. る一つの理想的な完全世界といっていい原革郷への憧れを胸にして,多くの存在層をゆき もどりするoつまり,故郷と異郷の問をさまようのであるo医師の想定する人間の存在様 式は,このように,故郷と異郷という二つの世界を背景において,帰郷志向という内的な ダイナミズムをもって構成される。 今みたように,医師の世界像においてほ,原像の世界と現実の世界ほ,消極的にほ忘却 という関係で結ばれ,他方積極的には記憶にもとどぐ陸憤的求知と帰郷志向という関係で 結ばれている。この構成法は二元的である。この二元的な世界構造といい,また,求知的 帰郷志向を核とする人間像といい,それほ,プラトンのイデア界とそこ-の帰入志向とい う構想をしのばせる。 医師ほこのようににつめた世界像のかなめである原故郷を次に自分の内的体験として確 認しようとはかる。帰郷のこころみをするのである。その帰郷方法はすでにみたギショソ の方法とやや趣きが異る。ギショソと同様,医師も,この原故郷を内在として実感し直接 的な体験で確めようとするが,そこにほ,ギションがいかにも自然であったのに比べると, 意志的な集中の努力がよみとれる。医師の帰郷方法にほ,自然観照の深まりによって生れ る融合体験の他に,心の底基部に深くおりてゆく方法がある。それから,愛による他者と の融合一致の体験があり,夢や近似的な死の体験による世界との発見的融合の方法をみる ことができる。この四つの方法ほ,いずれも,神秘主義的な性格の方法である。 医師の想定する世界構造において,自然ほ原像の世界の肖似物(Gleiehnis)という地位 が与えられている6).自然ほ,人間の限にとって,全体性,永遠性,一体性,静止といっ た原故郷の特長と状態をそのまま具現している可視物である。自然はこうして自然に眺め いる人間の胸深く帰郷への思いをさそう。医師が伝える幾つかの自然との融合体験ほ,こ. の小説の中で最も美しいものの一つである。それをみてみよう。 春。谷や山に春が吹きよせてくる。春ほ交流の季節である。天と地が呼びかわす。生れ てくるものと滅んでゆくもの,生と死が交流する。魂と世界の間の仕切りがとりほらわれ るo 内面世界と外界のひろがり,この二つの無限の問に交流が生れるo見えるもの見えな いもの,きこえるものきこえないものが呼び交しあう。魂と世界が相手のふところ深く歌 いかけあうかのようである。医師はこの春の宏大な息吹きにひたるア)0 夏の雲を見ていると,医師にほ,永遠のものが彼方から降りてくるのが見てとれるよう に思われる8).季節のありかは彼方である。その彼方なる世界から季節は村へおりてくる. しかし,また,季節は人間の内部に記憶として存在しているo季節(の原像)ほ,彼方な る世界にあって流れ,同時に我々の内部を流れている9)o. 医師が感じとるのほ,この彼方.

(5) 72. 切. 岩. 正. 介. を流れてゆくものの内在的な同時の流れである。 秋に訪れたある小春日和ほ,医師に,めく中る季節のもつ厳しさと優しさ,始めと終りを ふくむ全体性,まんなかの豊かさを感じさせる10).. 医師の自然との融合体験の極致ほ,自然と自我との融合感のなかで高次の一体性を予感 する次の場面であろう。. この場面をみる前に,一方の自我の構造をみておきたい。医師ほ次のように考える。自 我は,幾重にもかさなった層皮部分と中心の核からなっている構造物である。層皮を形成 するのほ,子供時代の自分,医師として活躍してきた自分,女性を抱擁した自分,老人に. なりつつある今の自分,つまり,現実の世界を経換し変容してきた自分である。その自分 には,その時々の確信や態度がおりかさなって付着している。核の部分ほ,原像の自我で ある。経験の時の流れに属さない内なる彼方の時間に属する不変のものである。無限・究 ●. ●. ●. ●. ●. ●. 極の自己であり,層皮部分の根源ないし故郷である。真の自我であるが,ふつう人間ほ, 生きている聞この自我をさぐりあて合致するこ■とはできない。この自我の原型ほー,現実の 自我のように言葉を話すこともないし,知性を分析的あるいは総合的に働かせるといった こともしない。ただ沈黙し,驚博し,視る。しいていえば,これがその活動形式である。 ここに要約した自我概念も,医師においては世界像と照応してひとまず二元性においてと らえられているといえよう。. 自我と自然が融合するクライマックスの場面はこうである。自然につつまれ,自然を見 (Schauen),自然に傾聴(Lauschen)していると,自我の幾重もの層皮を透かせて,自己 が,自然の山や風景,森や光に変身していくのがわかるoそうした状態で,層皮部分と核, 経験的自我と本来的自我両者の一点-の収欽のみならず,人間に固有の二重根源(後述) を克服して,一体存在-いたる予感にめく..まれるo. 自然と人間,また,日常生活のなかの. 自我と真の自我,またさらに,人間の内部を分ける天使性と獣性(二重根源)という滞を 越えた次元で,其の包括的な原故郷の一体性を感じとる.自然の奥と個我の心の隠れた深 みを重ねて,深みと遠方を見る,心のエネルギーの集中的な僚注ほ,普遍的な実在の世界 へいたる慶をひらくようなのである11)0 自然-の没入ほ,人間と自然の間にある壁を消去せしめるが,愛もまた,自分と他者の 問をへだてるものを溶解させてしまう。医師が伝えるその種の愛の体験は二つある。 医師ほ,都会の病院に勤めていたとき,パルバラという女医と短く真実な愛を体験し た12)o医師ほ42歳,. ′くルバラは28歳であったo二人の関係ほ運命的であった.パルバ ラほ医師に信頼と愛をよせた。医師もパルバラの説明しがたい魅力にひかれた。パルバラ. 紘,女性としてはむろんのこと,人間としても魅力的だったb医師としての力量もすぐれ ていた。このパルバラが,交通事故で入院してきたある子供の治療に当る一節ほ,彼女の. 真撃さの余りの憶件と直観的な正確さを伝え,パルバラの魅力を要約的につくしている。 パルバラと医師の間の愛の一夜を,医師はこう伝えている.魂の深み,世界の深み,人 間の深みで,. 「私」と「おまえ」は一体となった。その状態ほ,宏大にひらける一種の宇. 宙感につつまれていた。相互内包,全知感,再生感のまじりあったその深い状態ほ,言葉.

(6) ヘルマソ・ブロッホ『誘惑老』. 73. でいい表わせず,深い沈黙と安らぎと驚きでしか語りえない。それほ,感覚的であると同 時に超感覚的な体験であり,知り・感知する(wissend かを知りつつ,同時にすべての知が消えてゆくo. abnend)状態である。存在とほ何 「記憶も忘却もない」世界である18).. この記憶も忘却もないという一句は,決定的であるo医師の世界像と「自我」像におい てほ,記憶と忘却は,原像の世界に関係しそれを対象とする観念であった.それに加えて, 共に,原像の世界からの距離を前提にしたないし含蓄した観念である.だから,彼女との 関係において,内的な記憶も忘却もなくなったということは,この距離が消失したこと, つまり,原像の世界へすいよせられた,といった意味あいになるからであるo 医師ほ,地中海へ一人で休暇旅行に出かけたときにも,地中海の風光と「私」と「彼女」 が溶け合って,第二の現実をつくり出すという深い融合体験をする。それは,彼方と此方, 生と死を越えた多様な一元であった14)oっまり,自然にふれたことをきっかけにして,愛 の力が,私と彼女の心像を一つに溶けあわせ一つの存在にしてしまうのである.区々たる 個物と多元という現実の構造が,普遍一元という融合的な原像の世界の状態に打ち変じて いったのであるo (dasDu)杏, この施行から帰ってのち,医師ほ,他者なる人間存在のなかの「なんじ」 その魂の最後の一筋一糸まで残りなく感受し,力を受けとり,力を返すという「存在の平. 衡」状態も体験する15)0 愛によって,医師の自我をつつむ殻が溶け去るもう一つの例は,村のマクシィという病 弱な子供のベッドの傍で看護に当るときにみられる。この体験ほ,往診に出かけた夜11 時30分から午前4時30分までの約五時間のこととして語られている。このときの医師 には,自分の第二の自我ともいうべきものが子供の内に生れ,自分と子供ほ一体に感じら れる。医師はこの融合を子供を見守りながら半睡状態で体験するが,抗しがたい何か命令 と内発的な努力でそうなったのだ,と語っている18)。. 医師が,日常まぎれやすく到達の困難な心の奥にひそむこの隠れた次元に接近しその確 証をうる他の方法は,夢である。この夢は,ふつう人間が夜ねている間にみる夢そのもの とは違っていて,比愉的な洗練をほどこされたものである.いくらか厳密化された夢とい う言葉がある特別な意識ないし存在状態をさす言葉として使われるのである。この小説の 中で,この夢という言葉は,消極と積極と二つの方向に分れて使われている。 一つほ,覚醒状態に対置された消極的な意味あいのものである。ブロッホの処女大作 『夢遊の人々』における夢の意味系に属しているとみられるものである。この第一の夢ほ, 隠れた存在層にひそむ真の実在を知らない状態である。原像の世界ないし原故郷との知的 「風景のゆめみ」, 「季節 なへだたりを語る言葉である。人間の夢見,そして,比愉的に, 「世界ほ今, のゆめみ」といった表現ほ,原像の世界とはなれた状況をさし示すのである。 共通の夢か」という言葉も,同じ発想につらなっているo この夢の意味でほ,現実のあら ゆる人間と個物は,夢の状態にある,ということになる. 第二の意味の夢は,はるかに積極的な機能をもたされている.この例をみよう. 夜o医師は,夢と称する意識状態におちいる.夢みる「私」は,すべてのものをのみこ.

(7) 岩. 74. 切. 正. 介. ち,道にのみこまれて,待つ(Warten)そのものという状態になるoそ羊に,過去のさま ざまな想い出が浮かんでくる。それらの想い出が,今,目の前にしている星々,月,暗闇, また,耳にする樹々のざわめきと結びつく。次第に,この融合状態は,記憶でも現存でも なく,それを越えたあるものに感じられてくる。それは,自我であり,世界である。存在 そのものでもある自我の,無限-の視と聴-めざめのような状態である1ア)o つまり,この第二の夢の機能は,現実の経験世界の中に個別にほめこまれている個物と 個我,さまざまの出来事がもつかたい固有のくまどりを溶け去らせる。ふつうの意識の状 態であれば不可能な,私と世界との融けあいや相互の受容と自由な流通を可能にして,「夢 の大陸」とか「夢の大洋」という形容がぴったりするような大きな空間をつくり,そこへ 誘いこむ。すると,夢は,医師のいうように,世界のすべての形象を保存(aufbewabren) しており,また,それを産みだす(erzeugen)ものともいえようし,この関係を逆にみて,. 世界は夢みる「私」を保存しうみだす18)ともいえてくる。第二の夢は,世界との融合的な 深まりによって,最終の原像の世界に近づく方法なのである。医師ほそこに一種の創造性 から発見性にわたる積極的な性質をみるのである。この第二の夢の概念は,あの集合的無 意識という概念をたてた深層心理学者C・G・ユングのそれと似かよっているともいえよ う。. また,別の例。それは,山の斜面をおおう森の道を降りてゆく途中の医師の「夢見」で ある19)。このとき,医師は,自分が露のしづくに変身し,郭公の鳴き声に変り,つくやみの さえずりに変身し,把みうるものの限界へつきぬけ,自我のほてを越えてゆくように思う。 夢についてほ,まとめて,こう言えるだろう.消極的な意味の夢の状態というのは,人 間がまだ彼方の原像の世界を知らない一種の無知の状態である。この意味でほ,我々人間 の世界の現実の姿や行動や意識ほ,夢の世界のものということになる。他方,経験と現実 の世界から,人間や事物が,本来の存在状態に対して模索的に近づいてゆくのが,積極的 な夢の状態である.それほ,探しの要素をふくみ,完全な実在に至る神秘主義的な接近方 法といえる。むろん,人が夢見つづけるのほ,生れながらに胸の中に,原故郷-の帰入志 向があるとされているからである。上のように二様の意味を与えられた夢という概念も, 先にみた世界構造と人間構造のなかに矛盾なくおさまる形で構成されているのである。と ころで,一方の忘却の夢も他方の求知の夢も,共に原故郷を離れてしまった人間がみる夢 である。異郷でみる夢なのである。とすると,それほやはり最終的には醒めることがのぞ ましい。夢の覚醒ほ,とりもなおさず,帰郷の実現をいみすることになるからである20). 以上みてきたように,中年をすぎた有能な医師のアルプスの村への突然の引退ほ,内面 的ないみあいで,. 「さまよえる人が故郷を求める」という性格のものといえるのである0. 『前言』の要約でもふれたが,この精神的な帰郷は,いくつかの形而上学的・倫理的な基 本問題を解決するというふくみをもっていた。今その複義的論点をとりだして整理してみ ると次のようになるだろう。. (1)より真の世界(生)の構造の発見と確証 (2)心の無限の尋求(心的全体的世界像の確証).

(8) 75. -ルマン・ブロッホ『誘惑老』. (3)科学的実証的合理的把握方法から心による求知方法への転換(直接的経験的神秘主 義的方法への転換) ;4)愛の椀能の確認 さらにこれから見てゆく. (5)死の問題の解決 (6)時間の克服 (7)都市と文明への懐疑 などである。. 実は,これから論じようとする(5). (6) (7)の問題ほ,原像の世界(静止的存在)とそこ. への求知的参入(運動)というものを設定したことによって,原理的にも構造的にもきわ めてストレートな形で解決をみることになる。その意味でほ,この解決ほ,きわめて論理 的といえよう.この解法を(5)の死の問題からみていきたいo 医師の人生転換の大きな要因となったものの一つほ,. 『前言』にもみられる通り,死と. いう問題をいかに解決するか,ということであった。 死を単なる生命の終了とできない気持ほ人間に固有のもの,と医師ほ考える21).これは, 死という生物的自然性を克服しようという憧慣が人間の基本感情の一つである,という考 え方といえよう。. この死のテ-マを老いるというテーマと論理的に深くつなげて論じる点が医師の考え方 の特長である。この点ほ拙稿2.で論じた。その要点は,老いるということの本質を経験 の蓄積という点でとらえ, ■老人ほ知(知識や経験)のつみ重ねにかけてほ,若い時若い人 問よりすく..れている,つまり知と齢ほ比例する,という考え方であった。 医師ほ,これを下敷きにして老人の知について語る一老人の知ほ,この世のすべての ものを原像の世界の肖似物とする見方を可能にする2皇)。老人の人生知にとってほ,このよ. うな観点こそがぴったりなのだ。今あることはかつてありまたこれからもあるであろう。 できごとの間の相似性の背後に共通するエッセンスの世界を想定することができる。この 世の出来事すべてほ,この変らない真の世界のあらわれ(現象)なのだ23)oこう考えると, 比例的につみ重ねられてきた老人の世界知が一つの極点に届く瞬間ほ当然にも老年の終り, つまりやがて訪れる死の時なのではあるまいかo る。つまり,. -こうして,医師ほ死観の核Jbへいた 「生者にあってほ肖似物であったものが,死にゆく老において現実となる。. 人間が生きている問,こだまや鏡像として知っていたことが,死ぬとき,現実となる」24) 「自然という一体的存在の具象的肖似物が現実となるのは死ぬときである.」25) のである. 死ぬとき,人間は生の全体(das. ganzeLeben)を根源の次元でさとることになるし26),. 生きている問,幾度も体験したような自然と自我との融合の夢見も,死ぬとき「覚めて」 正夢となるのである。. 医師が上のような論理の組立てから全知的な帰郷だとする死の内容を,実際にわが身の 上に実感として感じるのほ,病気のマクシィ少年のベットの傍で看病する夜の。ことである. 医師が伝えるこの死の近似体験の概略ほこうである。.

(9) 岩. 76. 切. 正. 介. この意識状態の始まりほ,疲労ではなく,精神面と肉体面にわたる一種のまひ(Lahmung)である。耳や目がきかなくなる。周囲のもの,つまり感覚的なもの・可視的なも の・可触的なものから五感が離れる。代って内奥の限と耳がめざめ,意識が尋常になく明 瞭になる.感覚的で同時に超感覚的な感受力が生れる.その不思議な感覚の中心ほ,耳あ るいは頭のどこかにあると感じられる。この状態でほ,遠方のものと近くのものが同じよ うにはっきと把握されると共に,四囲の世界と底の大きい存在全体が同時にじかに生き生 きと感じられてくる。このとき,. 「つかむ」. (把握)は「創りだしてゆく」. (創造)過程と. も感じられる.こうして,ふだんの感覚と現実のなかではえられない深い世界に達するo この神秘状態でえられるものこそ,死にゆく老だ桝こめぐまれる最大の世界知なのであ る27).それは,生に関する知の極致なのだ。. 医師は,創世という考え方によせて,死にゆく老の知の性格を次のようにもいっている。 死にゆく者の意識のなかにひらかれる世界知は「(世界)知のはじめの誕生のときに伴う 駕きに似ている.永遠の創造行為のほじめと終りに伴う,ほじめの磨きに満たされてい る。」28). 医師が発見した死の解決法ほ,拙稿2.でみたギショソの方法と同じなのであるo死を. 単なる消滅と見ずに,積極的な文脈のなかに直く。死を原故郷への帰郷の成就とみるので あるoそこで死は,原故郷-の帰入によってタ「我々の深い願望である休息(Ausruhen)」29' を用意するものになる。 ところで,この帰郷は,ひとまず個人的なものといえるだろう。だが,死に対して医師. が与える積極的な意味づ桝こほ,個人の帰郷を越えるものをふくんでいる。死にゆく人の 帰郷ほ,さらに,他者(生者)との間で,ある能動的な関係において生かされるoそれは, 世界知の伝達という横能であるo死にゆく者には,特殊な意識状態で知った究極の世界知 を生残る老に与え返すという役割がわりふられるのである。死にゆく者は,隠れた深みを こめて世界の全体像をつかむ。その「創造的な」全知を生者に残すとされるのである。そ して,この知的遷元には大きな意味がある。それは,人類(人間の世界)の魂の基本運動 と考えられる原故郷発見的な再生というものに貢献するはずであるoここにほ,一種の救 済という意味あいがみてとれるのでほないか,と医師は考える。この救済という観念ほ, 医師の世界像の体系内で使われており,夢つまり現実の世界(のぞましくない異郷)から 理想的な本来の原故郷-すくい出される,という意味である.医師はこういうo. 「死にゆ. く者の与え返しという行為には,人額の絶えざる救済と再生が含まれてはいないだろうか○ どんなちっぽけな人間も(世界ないし生)の救済者として死ぬ(Er16ser-Tod)のでほ?」BO'. 故郷の姿を異郷に伝え,異郷が故郷の姿に近づくことに寄与する点に医師ほ,死の能動的 な側面をみたのであるo医師は,死の救済性をすべての人の胸にひそむ愛という固有の)b の機能を背景にして考えつくのである。 死は原故郷を知りその情報を与える横能とされる。すると死と生は断絶ではなくて有機 的な連続にかわるo生は,原故郷からの出奔をいみし,死は,帰郷を意味する。そして, 原故郷の姿を何がしか伝えてよこす-このような死観は,たとえば,神の存在を証明す.

(10) 77. ヘルマン・ブロッホ『誘惑老』. るいくつかの論証法を同じように,いくらか強引さが伴うo. しかし,このやや強引な論理. を組立てた裏には,一種の形而上学的な心情がひそんでいよう。その中にほブロッホ特有 の大いなる静止への愛好もみてとれる。けわども一番深いのは,あるうれいである。この 点についてほ,また,のちに述べる。. 医師の田舎-の引退ほ,さらに,都市・文明・技術の問題性を背景の一つにしていた。 このことほ,耐えがたい都会生活という言葉で『前言』でふれた。この現代の問題に対す る医師の解決法については,マリウス事件に対する医師の思索と関連させて述べたい。こ の解決法も,実ほ,単一実在への還元方式である。 原故郷とのへだたりという点からみれば,都会に比べ,示唆性において,そこに近い距 離にあるアルプスの山村でマリウス事件が起った。そこにも,人間の世界にふつう見られ る相互理解の障害に由来する憎しみあいがあったからである。異郷の人マリウスが煽りた てたのほ,世界のこの内的常態である。医師の観察によれば,この事件の背後には,村人 の内面構造そのままの鏡像であるマリウスに認められる原故郷の喪失・人間性忘失という 病理がひそんでいた81).原故郷を忘れ,人間の原像をつかみえないでいる「夢の中」の人. 達の構造は,人間の堺像が一元的であるのに対して,二元的であるというのが医師の発見 である。医師ほこの人問構造をひとまず二重根源性として語る。. その仮の,といって誤解があれば,現実の人間は,中間的な存在である。ほるかな上方 (Uber-H6he)とはるかな下方(Tiefe)につながっている0. 日に見えず把接することもで. きない上の岸と下の岸のあいだともいうべき地上に住みついている32).その「超」上方も 「超」下方も,見えない通さ深さのた捌こ,人間の一応の故郷と呼ぶことができるほどで ある。このことが,人間の内部構造に分裂(Zerrissenheit)と多様(Vielfalt)を与える原 田となっている。この二重性が果して,その先の延長で,共通の根基層につながっている かどうか見定めがたいはど,分裂のみぞは深い。それだからこそ,人間の内部には一体性 -の深い願望がある。しかもその願望は空しく仮空の対象を追っているとはいいきれない。 やはり,二重性のもう一つ底にほ共通の層があり,そこが,人間を人間たらしめている次 元である38)oこの統一が人間の原像の姿である.一元性が人間の其の構造なのであるo のことは,たとえば,ギショソが教えてくれる。人間の心という構造物について,飾りな くすなおに知ろうとしたときわかることなのである。人間ほひとまず,天使性(上方)と 獣性(下方)という二重の故郷をもつようにみえるけれども,なお底で,原故郷に属し, 一体的な存在である-これが医師の人間像の要約といえよう.人間の構造において宿命 的にみえる天使性と獣性(人間ほ残虐なことを実にたくさんしてきたと医師ほ思う)ほ, こうしてまた,原故郷という想定の中で,原理的にほポジティヴな結論をみることになる。 医師が逃れてきたのは,都市・技術・文明の世界であった。自然のふところに抱かれた 村で遭遇したのほマリウスの嵐であった.拙稿1.でみたように,マリウスが鼓吹した価 値体系は,原始-の後戻りを意味していた.逃れてきた文明の世界とまちかまえていた原 始の世界一医師の思索はこの点をめく・る.医師は,このいほぼ人間の歴史の両端に対し て,人間らしさという観点をもちだす。そして,こう考える。人間らしさの確保という点. こ.

(11) 78. 岩. 切. 正. 介. からすると,この両極端ほ共によろしくない。技術・文明も,原始と獣性も,その体系と 論理をそのまま許せば,人間が犠牲になる.これらは,原理的にも現実的にもi人間らし さと敵対的である。そのいずれをとってみても,人間が無警戒にのめりこんでゆくには余 りにも危険な領域である。人間らしさは,この両端に対する自制によって確保されるだろ うo真の人間らしさの所在は,どちらにも偏らないまんなかにあるといえる35)o 医師のこの「まんなか」という言葉のうらには,人間の原像が置かれている,と解して いいであろう。 医師もギショソと同じように,思索のキ-ワードとして,. 「まんなか」. (Mitte)という. 言葉をよく使う.医師がこの言葉をどういう意味あいで使っているのか,ここで整理して おきたい。まず,まんなかとは天使性と獣性という人間構造の軸で考えられたまんなかで あるo. さらに,文明性と原始性という軸で考えたまんなかである。そして,拙稿2.でみ. たと同じく,時間の上のまんなかであり,空間的な意味あいのまんなかである。こうした. 重合によって,まんなかという言葉の内容は綜合的になる。それはすべての存在をつつむ ものとして使われる言葉なのである。 このまんなかの世界が,原像の世界を意味し,また,原故郷と同じ内容のものであるの は明らかである。だから,このまんなかの世界とほ,人間と世界存在のすべてを集めて要 約した永遠の本質をいい表すものといえるだろう。そして,その本質は,決して悲観的な ものでないこともわかったのである。むしろ,それほ希望を与えてくれるものであった。 医師が,自然の村へやってくる際に心に期していたのは,人間と世界の存続に対する永 遠の希望の根拠を確認するためであったとみることがゆるされよう。この個人的な試みは, 医師にとって,それまで順調に歩んできた人生をすてさせるほど重要なことだったo転身 40歳すぎまで有能な実 のうらには,深いうれいがあった。この転身と焦眉のうれいは, 業家であったブロッホのそれをうかがぁせるものがある。その決定的なうれいとは次のよ うなことである。さまざまの不幸と残虐を織りこんできた人間の歴史は,今また構造的な 不幸にゆれている。ブロッホが一元的な価値体系の喪失と語る近世釆の状況である。先の 第一次世界大戦も,時代の相対的な-ということは当然に相対立するというふくみをも つ一多元的価値秩序の反映ないしその現象とみられよう。戦争の中で噴火のように解放 される憎悪と残虐行為も同じである。世界は今も崩れたままである。このままゆくと,世 界ほ滅びるのか続くのか.人間の世界ほ悪くなる一方なのかそれとも良くなるのか。楽観 していいのか悲観せざるをえないのか。現代は終末なのか希望の発端なのか。解答の鍵を にぎっているのは,ひとえに,世界の一元的構造の可能性である。もし,世界が根源にお いて,一元的なものであるなら,希望の根拠になる。もし,世界がもともと,多元と分裂 を本質とするものなら希望はないだろうo医師(ブロッホ)ほ,問題をこんな形に詰めたo 医師の転身のいみほ,ある意味では単純な根源に還元されたこのような問いに解答を与え ることにあった。すなわち,およそ世界の何たるか,また,人間の何者なるか,その原型 を確認することがその核心であった,といえよう。その答えほひとまず出た。しかも,結 果は希望であった。.

(12) 79. -ルマン・ブロッホ『誘惑者』. これで,人間は,ひとまず前向きの態度をとれるかもしれない,と医師は考える。しか し,と医師ほいう,先はまだ,気が遠くなるほど長い. それほこういうことである。世界と人間の良き原型の確認ほできた。しかし,その原型 と現実の姿の間の落差をどう埋めるか.それほ,きわめて難しい,ということなのである.. この落差をうめるということが,先にもふれた救済(Er16sung)の意味するところであ る。この言葉ほ解き放つという元義をもっている。すると,のぞましくない悪い状態から のぞましい良い状態-解き放つというのが,救済のおよその意味といえよう。医師が予定 した世界の救済法ほ,原型確認にとどまらない。それは,出発点である。原型を知る,吹 に実現の努力をはかる,といった段取りである。医師(ブロッホ)にほ,それだけの責任 の論理が徹底しているからである。けれども,この救済方法の前半をなす原型確認-し かも生き生きとした内的体験として-すらいかに難しいか,マリウスの事件が教えてく れる。原故郷を知ることができたのは,まがりなりにも医師の他に,ギション,それに後 継者のアガーテを数えるにすぎない。村人の多くは,夢の中にそのまま残る。この村の 姿ほ,広い現実の客観的な縮図とみていいであろう。救済という課題の解決はいかにも 難しいo. 「人類はその道程のはじめに位置しているにすぎない」36)と医師は嘆くのであ. る。. 注 1). Gesammelte. Werke. 参照. 2)独文学研究誌『飛行』 S. 130参照. 3) Bd.4, 4) ib. S. 64-5参照. 5) il). S. 140参照. 6) ib. S. 372-3参照. 7) 8) 9). in 10. B孟nden,. 1955,. Rhein. Verlag,. Bd。. 4,. S. 5-7,他にS.. 555-6. 1971年春第4号所収。. ib. S. 62-3参照. it). S.. 240-1参照. 199参照. 10) ib. S. 520参照. ll) ib. S. 325叉37-8参照. 12)パルバラほ医師と結婚し子供も欲しいと思いながら,理念的ないみあいからひそかにコミュニ. 13) 14). ib. S.. ストとして活動をつづけ,矛盾に悩んだ。共産党が外国のある都市で計画した蜂起に加わり, 失敗のあとホテルで自殺した。 ib.S. 387-8参照. ib. S. 372-3参照.. 15) 16) 17) 18). ib. S.. 19). ib. S.. 20). ib. S.. 21) 22) 23). ib. S.. ib. S. ib. S. ib. S.. ib. S. ib. S.. 374参照. 359-60参照. 276参照. 208参照. 203参照. 208参照. 553参照. 73参照. 140参照..

(13) 岩 24) 25) 26) 27). ib. S.. 543参照. 325参照. ib.S.8参照. ib. S. 358-9参照. 28) ib. S. 359参照. ib. S. 323参照. 29) 30) ib. S. 360参照. 31) ib. S, 32-3参照. 32) ib. S. 36参照. 33) ib. S. 322-3参照. 34) ib. S. 293参照. 35) it). S. 293参照. 36) ib. S. 323参照. ib. S.. 切. 正. 介.

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参照

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