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地域創生の光と影 (伊東維年教授 退職記念号)

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地域創生の光と影 (伊東維年教授 退職記念号)

著者

金子 勇

雑誌名

熊本学園大学経済論集

23

1-4

ページ

113-138

発行年

2017-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1113/00003038/

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金 子   勇

要  約

 日本では子ども総数が 1605 万人になり、少子化が進み、高齢者総数 3435 万人の半 数以下となった。それに伴う全体的な人口減少と高齢者を除く全世代の縮小という二 重の人口動向が地方(ローカルコミュニティ)を消滅させるという議論が生まれた。 確かに地方を活性化させ、地域創生に始動する要因を明らかにして、その実現に具体 的に取りくまなければ、日本の先行きは暗いままである。  学問的に地域創生論は内発的発展論の系譜にあるが、世帯数が数十から数百程度の 集落での創生に向けた活性化の成功事例を紹介するだけでは、今後の地域消滅と創 生にとって建設的な議論とはいえない。社会学からの地域創生論には、使われた資源 の分類、歴史的な事例研究、主導したリーダーシップの構造、イノベーション理論、 QOL 研究、社会的ジレンマ論などの応用が期待される。私もそうすることで、地域 創生の成功事例を素材にして、コミュニティ DLR 論を試みてきた。  その結果、地方における定着者中心の創生の条件を、①「M モビリティ(移動と 前進)」、②「D ディバーシティ(多様化と個性)」、③「S セットルメント(定住 と日常の絆)」、④「I イノベーション(創意工夫)」に類型化できた。これらの汎用 性の確認が今後の課題となる。

第 1 節 地域創生活動の無限定性

 「文化は雄大なる一つの織物」・・・・・・(中略)「時代と社会を構成する各人が、めいめいに自 分のものを持ち寄って、休みなく織ってゆく宝の絹なのである」(柳田、1990:560)。  2014 年に増田寛也が主宰する日本創成会議(以下、増田で統一)が「地方消滅」を論じた根 拠の一つは少子化による人口減少であり、とりわけ全国的に見て 20 歳から 39 歳までの女性が 連続的に減少するという事実にあった(増田編、2014)。年齢的に産める女性が近未来の日本 で漸減するという人口変動予測の結果は 10 年以上も前から各方面で周知の事実ではあったが、

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そこで使われた「消滅」の響きが強く、しかも総務大臣経験者が直接に消滅自治体を名指しし たことで、この問題に関心が集まり、国策として「地方創生」も最重要課題になった。  それからの 3 年間、書籍や論文としてたくさんの消滅論批判や地方創生論が出版され、私も 従来のコミュニティ研究の応用としてやや理論志向の小著を刊行した(金子、2016a)。ここで はその後に読み込んだ文献と収集した資料を活用して、地方創生理論の全体像を点描してみた い。なお、中央政府から見た「地方創生」は、自治体側では「地域創生」と表現するのが妥当 であるというのが私の立場であり、本稿でもそのような使い分けを行う。  まず、増田「地方消滅」論のきっかけとなった「少子化する高齢社会」としての人口動態は 現在でも不変である。表 1 は 2016 年 8 月時点の 5 歳ごとの子どもと高齢者の数と比率である。  この表は、幼くなるほど男女ともに子どもの数が減少するという傾向を教えるが、これはか なり前から鮮明であり、私も繰り返し指摘してきた(金子、2006:72;2011:175)。加えて、 ゼロ歳から 15 歳未満の「年少人口」率でいえば、1975 年から実に 42 年間一貫して下がってき て、2016 年のそれは 12.6%(表 1 は 12.7% だが)にまで低下した。「年少人口」数もまた 1605 万人になり、1982 年から 35 年連続の減少となり、両者ともに日本新記録を更新し続けている。 それは、2014 年の合計特殊出生率 1.42 が 2015 年には 1.46 に微増しても、どうにもならない少 子化の勢いを証明するデータ群である。  反面で、高齢者総数は 2016 年 8 月時点では 3454 万人に増加して、その比率も 27.2% にまで 上昇して、こちらもデータが揃っている 1950 年の高齢化率 4.9% から実に 67 年にわたり持続 的な日本新記録が続いている。  単身の若者や高齢者、高齢者二人世帯の増加などを受けて、犬猫がペットとして愛玩されて いる。社団法人ペットフード協会による 2013 年 12 月調査によれば、犬が 1087.2 万頭(匹)、 猫も 974.3 万頭(匹)に達していて、合計は 2061.5 万頭(匹)になっている。協会がいうよう に、犬猫の家庭内飼育は世代を超えて「自分の生活に喜びを与えてくれる大切な存在」であ 表 1 5 歳ごとの子どもと高齢者の数と比率 (出典)総務省「人口統計」(2016 年 8 月 1 日現在)。数値は四捨五入なので多少の誤差がある。

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り、また「健康面や精神面、及び人と人とをつなぐコミュニケーションにおいても重要な存在 である」から、とりわけ高齢者向けのペットセラピーは今後とも成長する可能性をもつ。  しかし、子ども総数が 1605 万人になり、高齢者総数 3435 万人の半数以下となった日本 で、全体的な人口減少と高齢者を除く全世代の減少という二重の人口減少傾向を反転させ ながら、地方(ローカルコミュニティ)を新しく活性化させ、地域創生に始動する要因を 明らかにして、その実現に具体的に取りくまなければ、先行きは暗いままである(金子、 2011;2014b;2016b)。  増田にしてもそれを批判してきた山下や小田切にも、現状以上の予算を投入した少子化対策 を政府に迫る以上の方策があるわけではない(増田編、前掲書 ; 山下、 2014; 小田切、2014)。 全国知事会のように、少子化危機突破といいつつも、予算のより一層の投入以外に少子化対策 への独自の提言がなければ、それは画餅に帰すのみである1)。内発的地域創生関連としても、 世帯数が数十から数百程度の集落での創生に向けた活性化の成功事例を紹介するだけでは、今 後の地域消滅と創生にとって建設的な議論とはいえない。  なぜなら、山下や小田切が紹介した成功事例は、その土地的特性と地域文化、および集落独 自の伝統的な社会関係に制約されていることが多く、必ずしも全国レベルでの汎用性に富むと は限らないからである。もちろんその地域の歴史と文化を基盤にした産業活動や地域創生でな ければ、結局は長続きしないし、成功する見込みも乏しい2) 。  自らの事例の理論的一般化の試みがなければ、たとえば中国山地での成功事例がそのまま北 海道後志地方の参考例にはなりえない。以下の限定性と無限定性はパーソンズのパターン変数 によるが、増田批判者が提示した事例の多くは農業に限定され、農産物の加工に特化してい る。しかし、非農家が大半を占める地方都市での創生のきっかけとなる産業活動は可能な限り 無限定的に事例を集めたい(竹本、2016)。私も地方創生理論の汎用性を求め、農業だけに拘 らない無限定的産業活動も含める立場で、従来の地方消滅と創生の議論に欠如してきた理論的 総括を地域社会学の観点から継続してきた(金子、2016a)。  この論点を深める手がかりとして「地域開発」から「地方創生」までの論点の整理を試み る。大分県大山町から発信された「ウメクリを植えてハワイへ行こう」は 1980 年代の代表的 1)  予算の増額は必要だが、現行のような「少子化対策事業」ばかりをやっていても人口減少社会の反転 は不可能である(金子、2000;2014a;2016b)。根本的には日本社会全体での対応として、介護保険を 模した「子育て基金」制度を樹立して、全国民により人口減少に正対する姿勢こそが重要であると考え る。要するに包括的な思索力のなかで、少子化という社会変動を位置付けるセンスの問題が問われてい る。 2)  日本の産業化の歴史からも、金、銀、銅、石炭などの天然資源の鉱脈を掘り当てれば、そこに採掘の 鉱業が始まり、労働者が集住するようになることが分かる。しかし、鉱脈が無くなったり、国内に石炭

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な一村一品運動の象徴であった3) 。またそれから 30 年後の「そうだ葉っぱを売ろう」は 2007 年の地域活性化の成果の一つであった(横石、2007)。同時に、観光を軸とした全国各地の 「グリーンツーリズム」が推進されるようになってから 20 年が経過した(田中、1999)。さら に平成の大合併を拒否して独自のまちづくりを実践している矢祭町(岡村、2007)の実状も各 方面で紹介済みである。  しかしそれらの作品は単発事例の紹介にとどまり、普遍的な地域創生論には至っていない。 その理由は、成功した地方事例の学術的な点検を行っていないからである。ここでいう学術的 点検とは、たとえば使われた資源の分類、主導したリーダーシップの構造、具体的な政策とそ の成果の確認、他の地域も使えるような汎用性の試みなどを指している。  2016 年に出された竹本の地方創生事例報告では、「勝ち組」として山形県東根市、千葉県流 山市、静岡県長泉町、長野県下條村、愛知県長久手市があげられている(竹本、前掲書:21-23)。いずれも首長のリーダーシップにより自治体主導型で、子育てしやすい環境づくりが軸 となった政策効果により、定住人口増加が認められる市町村である。これらを一般化すれば、 (1)定住人口の増加を最重要と捉え、人を呼び込む政策をいち早く打った、(2)子育て環境の 整備が決め手になるという着眼の良さ、(3)子育て世代の目線で継続的な政策を展開し続ける ということになる(同上:23)。  しかしこれら以外に竹本が集めた事例には「負のシンボル」が多い。まとめると、 ① 急増する空き家、空きビル ② 未活用のままに放置される廃校 ③ 余剰になった公共施設 ④ 増える一方の限界集落 ⑤ 際立つ農業の衰退 ⑥ 有害獣被害の広域化4) ⑦ 工場の閉鎖・撤退 ⑧ 悩ましい工場跡地活用策 ⑨ 大揺れの工業地帯 の鉱脈がたとえ残っていても採掘費用が相対的に割高になれば、外国産の天然資源(たとえば石油や天 然ガス)によってそれらはすべて駆逐される。そうすれば、労働者が四散するので、その地域社会では 急速な人口減少が発生する。これはシルクの原材料であるカイコの繭でも、かすりの着物が着られなく なってからのかすり製造業でも、零細企業による木製家具が事務用品の大企業によるスチール製家具に よって消滅してしまった現実からも看取される。時代に適した商品が持つ勢いと取り残された商品の後 退は歴史の運命のように思える。この反転を講じるには大局的な想像力が必要になり、制度の創造を核 とした対応を視野に入れておきたい。 3)  これらの代表的な事例についても竹本は独自の視点で現状を報告している。

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⑩ 深まる商店街、百貨店の苦悩 ⑪ 国内の鉄道、苦境深まる ⑫ 劣化しつつある地方政治 などが列挙されている(同上:23-25)。いずれも日本全国各地で直接に見聞できる現象であ る。  これらの「負のシンボル」は中山間地や過疎地だけではなく、2015 年の国勢調査による政令 指定都市人口で第 6 位である 153 万人の神戸市でも、都心の元町商店街などですでに顕在化し てきた。具体的にいえば、元町商店街 5 丁目から 6 丁目にかけては、アーケードの商店街でも シャッター通りが若干ながら増えてきたのである。神戸市元町商店街 4 丁目までと比べると 5 丁目以降は通過する人数が減少する。加えて、商店街全体としても商店主の高齢化と跡継ぎの 不在が顕在化してきたように思われる5)。ただし、これらの狭域的な人口反転については特効 薬が見当たらない。  商店街などの短い街区には、アマチュアの強みを最大限に発揮して、「すべて相関しあって 一つの有機体的統一体をつくる、相当数の要素を同時に扱う」(傍点原文 ジェイコブズ、 1961=2010:459)ことを試みたジェイコブズによる「都市の多様性」原理に関する有名な 4 条 件がある(同上:174)。その要約は、 ① 多機能:その地区や、その内部のできるだけ多くの部分が、二つ以上の主要な機能を果た   し、できれば 3 つ以上が望ましい ② 短い街区:街区は短い方がよく、角を曲がる機会は頻繁にあったほうがいい ③ 新旧建物の混在:古い建物が相当数あり、条件が異なる各種の建物を混在させたい ④ 十分な人口密度と集積:十分な密度で人がいることが必要であり、人口密度も含む となる。  ジェイコブズ生誕 100 年記念として企画され、2016 年 6 月に出た『ジェイコブズの世界  1916-2006』(藤原書店)でも多くの論者がこの 4 条件を紹介し、それぞれの立場でコメントし 4)  北海道ではエゾシカが増えすぎて農業被害が大きくなったため、環境省や北海道や札幌市役所はエゾ シカの狩猟を認め、その肉の加工による商品化を「エゾシカバーガー」として進めている。ここでの資 源(R)として想定しているのはエゾシカ肉であり、その活用に工夫がある。この商品には行政の積極 的な支援(道庁、札幌市)があり、エゾシカ肉の衛生面と安全面と安心面を認証する制度を作り、実行 している。また、毎月第4火曜日を「4(し)+火(か)」(シカの日)と定め、エゾシカバーガーの普 及啓発に取り組んでいる。同時にNPOのエゾシカネットはエゾシカ肉を使った料理教室や勉強会など を随時開催して、これらの動きを支援している。ただし、高齢化はここにも認められ、高齢化により現 役の男性ハンターが減少しており、そのなかで若年や中年の女性ハンターに期待が集まっている。なお、 女性ハンター数は都道府県で北海道が第 1 位(環境省 2013 年調査)になっている。 5 ) これは休日に行っている私の参与観察結果による。

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ている。この 4 条件は神戸や札幌などの 150 万人以上の人口を擁する大都市全体には該当しな いが、徒歩圏内の商店街だけならば今日でも通用する。  商店街を超えてもう少し広がった都市社会全体のレベルでの動きを求めるには、コミュニ ティ論を基盤とする社会学から、私は、 ① 地理的要因(交通の結節点か、どのような資源が近くにあるか) ② 主要な産業活動は何か ③ 主要産業を支える企業の有無(経営者は地域に関与か無視か、労働組合は地域に関与か無   視か) ④ 伝統継承したい固有の技術と知識、新規のイノベーションへの可能性 ⑤ 行政の意欲(首長の意向、議会の方向) ⑥ 交易、流通、販売関係者の意欲、意向(どのような方向性をもつ地域にしたいのか) ⑦ 消費者としての地域住民は、その力量により何をどこまで行えるか ⑧ 地域社会の勢力関係(コミュニティで誰が影響力を発揮しているか) などへの目配りがあれば、個別事例を超えた普遍性の手がかりが得られるとする。もっとも現 段階では③から⑧までの研究は手つかずの状態であり、ここでは①と②について略説するにと どまる。  まず、①地理的要因の重要性が指摘できる。環境社会学でも民俗学でも、人間活動の大半は 自然との関連で決まるとされてきたからである。「川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレー ネ山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である」(パンセ 294、パスカル:187)に象 徴されるような、川や山で正義の基準が逆転するという自然による社会的価値規範の分裂さえ も、フランスだけではなく日本の私たちでも経験済みであった。たとえば日本の明治期以降昭 和前期までは、研究された家族実態としては全国一律の長子相続ではなく、西南九州などの特 定地域社会では末子相続が顕著に認められた(内藤、1970)。  北海道での農業者は自然順応型で計画的な生産と生活を是とするが、自然の脅威が大きい漁 業者は刹那的主義ともいうべき冒険的な消費生活行動を示すことがある。正月の雑煮でさえ も、都道府県が違えば、あん餅、丸もち、切り餅などが使い分けられてきた6) 。  山、河川、海、大気、温度、土壌、そして東京までの空間距離と時間距離などが地方におけ る人間活動を制約するという事実から、地理への配慮は地方創生の要因としても当然である。 これについては「地理は幸いにして誘導の学であり、よく自然と人間との仲に立って、両者の 6)  民俗学的事実の比較もまた、資源活用に際して有効である。餅は神に供えた飲食物であり、正月の祭 における信仰の衰退により、年頭の正式食物にわざと雑煮の語をあてたのは、都市生活の産んだ感覚の 変遷による。(柳田國男監修・民俗学研究所編、1951:329)。

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関係を具体化する」(柳田、1990:516)といわれており、民俗学の文献からでも「自然と人 間」の問題を考える際の手がかりが得られる。  たとえば、金、銀、銅、鉄、砂鉄などの鉱山、石炭や石油や天然ガスなどの化石燃料、暖流 と寒流の交錯海域、魚の水揚げに適した天然の良港、良質の木材の産地、その土地にあった農 産物や水産加工物などの特産品、大河の流域として確保された河川交通路、穏やかな内海での 養殖漁業、雪質の良さを活かしたスキー場や雪だるまの宅配などは、これまでの歴史でもすべ て地方の資産になり、地域の社会経済活動の軸になってきた7) 。これらの地理的な資源分布は 今後とも地域創生の原動力として意義を持つが、年少人口と総人口の減少により、その資源を 独自に加工し活かせる人材不足が顕著になってきたことの方がより深刻である。その意味で、 50 年前の宮本常一が指摘した「人材不足」が、全国的にみて今日ますます現実化してきたのは 事実である。「人材」をどのように創出するか。

第 2 節 地域創生とイノベーション

 竹本は全国の「負のシンボル」を克服する要件として、各地で行われている「ゆるキャラの 活用」や「B 級グルメのグランプリ大会」などが地域の課題からずれていて、一過性の話題づ くりにすぎないという青山学院大の宮副による批判に同調する。これには私も同感である。そ のうえで竹本は、全国各地から自ら収集してきた 193 の事例から、「新しい地域おこし」の 5 つの原動力を要約した(竹本、前掲書:31)。 ① 地域の資源に着目し、地域の課題から発想を広げる。 ② 住民が主体であり、行政依存では成果が限定される。 ③ 事業の成否は人材で決まる。 ④ 地域の実態を知らないコンサルタント依存では副作用を生み易い。 ⑤ 自主財源の確保が事業継続を保証する。  これら 5 点は実際に有益なところもあるが、ただし、「地域の資源」の重要性を指摘するだ 7)  資源(R)を雪とすれば、それを雪だるまに詰めて、郵便局からの速達小包を活用して、宅配する サービスがある。北海道安平町の「早来雪だるま郵便局」のオリジナルブランドであり、早来町時代の 早来郵便局長主導により、1986 年から「雪だるま」の発送を開始している。通常は年間 2000 ∼ 3000 個 を沖縄、東京、大阪を中心に速達小包で発送する。ただし雪の時期に限定されていて、注文受付は 12 月 から 2 月末までとなっている。電話やFAXによる注文があり次第、雪だるまに雪を詰めて発送してい る。価格は、雪ダルマ中サイズ(高さ 45 cm 3kg)、送料別で 5940 円、小サイズ(高さ 35 cm 2kg)、 送料別で 5400 円となっている。毎年約 2000 万円の売りあげを記録しているが、雪だるまの製作と雪づ めは高齢者ボランティアへの依存なので、数量的にはすでに限界に達している。ここにも高齢化現象が確認 できる。

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けでは不十分な面があるように、この具体的な定義と分類と活用方法についての配慮がなけれ ば、現場では使えない8) 。しかし、これまでの少子化対策や次世代育成支援の歴史を踏まえた ら、コンサルタント依存や会社任せでは成果が得られないとする意見は正しいし、この指摘は 地域創生論でも該当する。コンサルタントが出す金太郎飴的な内容の報告書は、次世代育成支 援でも地域創生でも個性ある地域の実状をしっかり踏まえていないからである。  その意味でこれらの「地域おこし」原動力批判は納得できるが、「住民主体」や「人材」に しても、これらを掲げるだけに止まってはならず、学術的にはより一層の精緻化が求められ る。たとえば、リーダーシップの PM 理論を応用して、「主体となる住民」や「人材」は P(実 行力)に特化している(Pm)のか、M(統率力)に恵まれている(pM)のかという分析が あったほうがより応用範囲が広がる。私のコミュニティ DLR 理論はこれらを念頭に置いたも のである(金子、2016a)。  なぜなら地元資源活用にしても人材の重要性にしても、すでに 50 年も前の宮本の時代にも、 30 年前の一村一品運動の時代でも内発的発展論の際でも、等しく合意されていた活性化要件だ からである。したがって今日の地方創生でも、日本現代史としての全国総合開発計画、一村一 品運動、内発的発展、地域活性化運動など、今日の地方創生論に直接間接に流れ込んでいる地 域おこし関連のいくつもの潮流とその価値意識と方法を理解して、それぞれにイノベーション 理論への展開を各自や各地域で工夫することが肝要になる。どこに力点を置くかは論者の個性 と問題意識で変化するが、私はイノベーションに拘り続けてきた。  一般にイノベーションとは既存のものを組み合わせて、それまでにはなかった新しい価値を 具体的に創造することであり、それはいわば非連続の成果として結晶化する。シュンペーター 研究者のいう「初期の与件と帰結との間には、単なる推論によっては架橋しがたい断絶」(大 野、1971:392)が新しいもの作りの原動力となる。したがって、イノベーションの日本語的 誤訳である「技術革新」に止まらず、その範囲はもっと広く、資源発掘、生産加工、流通方式、 販売、広告、消費などの全分野で非連続な成果物としてイノベーションの可能性がある9) 。 8)  地方創生には失敗事例もあるので、紹介しておこう。「地方創生交付金」は自由に使える財源として 国から地方の自治体に配られるもので、観光振興や産業育成、それにまちづくりなどの事業に使われ る。しかし、単なるバラマキを警戒するために、内閣府は事業の効果を検証する仕組みを導入してい る。具体的には自治体に経済効果や人口増加といった事業効果目標をできるだけ設定させることになっ ている。ただ内閣府が先進的事例として紹介する 75 の事業についての 2016 年 6 月 17 日放送のNHK調 査によれば、自治体がみずから設定した目標を達成できたものは 28 の事業(37%)にとどまっていた。 失敗例として報道されたのは電子マネーを発案し、その事業効果による地域経済の活性化を狙った会津 若松市の事例である。   NHKの放送によれば、会津若松市は地方創生交付金 1200 万円で電子マネーを導入し、会津地方の民 芸品「赤べこ」にちなんで「Becopo(べこぽ)」と名付け、2015 年の夏に専用のカードを市民1万人に

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 この分野は経営組織論で膨大な蓄積を持っており、最近でもたとえば野城によって、イノ ベーションが「何らかの新たな取り組み・率先(initiative)により、何らかの豊益潤福を創 造・増進し、現状を刷新するような社会的変革を生み出すこと」(野城、2016:9)や「異なる 種類の価値創成源(情報・知識・能力)を吸い込み、それらを紡ぎ合わせながら、前例のない 新しいモノ・コトを創造して、豊益潤福を生み出していくプロセスである」(同上:267)と定 義され、細かな議論が積み上げられている。ただし私は野城の造語である「豊益潤福」がなけ ればこの定義に同意するが、このままでは疑問が残る。  なぜなら、野城によって提唱された価値としてどの定義にも込められた「豊益潤福」がむし ろイノベーション論の新展開にとっては不都合を来たし、理論の入り口から一定の限界を引き ずると考えられるからである。これらについて、野城の定義は

「豊」:精神的・身体的・経済的な豊かさ(richness and fullness) 「益」:人や社会に役立つこと(benefit) 「潤」:精神的・身体的・経済的な潤い(amenity) 「福」:しあわせ(welfare) となっている(野城、2016:9)。  たとえ野城が注意深く「社会学・文化人類学をはじめとする人文社会学を踏まえた考察を展 開しなければならないが、これは、筆者の能力を超える」(同上:はじめに)と書いてはいて も、「どこでも誰でもイノベーション」を重視する一人としては、この概念のコモンセンスを 求める立場からも、以下の論点をどうしても指摘せざるを得ない。  まず、「豊益潤福」は単なる横並びで整合する概念ではなく、「複数の評価軸」から構成され るのではないか。これは QOL 研究の分野で常に論じられてきたテーマでもある。QOL 研究 では 10 程度の下位構成領域(所得、住宅、仕事、医療、教育、福祉、安全、健康、犯罪、余 暇など)がいちおう成立しており、そこでの達成点の評価軸も利便性、快適性、充足性、住み よさなどであり、相互に関連性は高いもののそれぞれに独立的であるとされる(金子、1982; 配った。これによって、地元での買い物だけでなく、健康診断を受診したり、ボランティアに参加した りしてもポイントが貯まる仕組みを目論んでいた。そして導入から 5 年後には、電子マネーカードの利 用が市内全域に広まり、経済の活性化にとどまらず、市民の健康増進や地域づくりが実現できると予想 していたが、2016 年 6 月現在でもその認知度は極めて低いものであった。また、NHK記者の取材では カードを使えるという飲食店を見つけるために街中を訪ねたが、レジにあるはずのカードを読み取る専 用端末がなく、たとえば裏の倉庫にしまわれていた事例も判明した。その理由は「利用があまりに少な いので撤去した」というものであり、その店で利用した客はこの 1 年でわずか 3 組ほどしかいなかった からである。   会津若松市は電子マネーの事業を地元の民間会社に委託して、1 年でカードが使える店を市内に 100 店 舗確保する目標は立てたものの、あとは会社任せであった。この判断ミスが致命的であり、電子マネー

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2014b)。  「豊益潤福」という価値理念は確かに野城の独創であるが、それぞれに独立軸をなしている ことが証明されていないために、実際にはいくつかの疑問が生じる。具体的にいえば、4 価値 それぞれの内部の構成要素間に横並びないしは並列化が無条件に想定されているために、理論 的にも実際の現場でも不自然さが目立ってくるという欠点がある。たとえば「豊」を構成する 「精神的豊かさ」、「身体的豊かさ」、「経済的な豊かさ」の三者間に正の相関があるとは限らな い。この三者は単に(and)で結び付けられるのではないからである。  20 年前に流行した中野のいう「清貧」は、「経済的な豊かさ」を放棄した結果としての「精 神的豊かさ」を象徴するものであった(中野、1996)。そこでは「精神的豊かさ」と「経済的 豊かさ」とはむしろ対立する範疇(or)に位置づけられていた。  また「福」(しあわせ)は素晴らしい音楽に堪能する時や世界的な名画を鑑賞する際にも得 られるから、個人の内面だけでも得られ、個人本位であることも多く、「益」(人や社会に役立 つ)に直結するわけでもない。さらに、同時に、「豊」であっても人のためや社会のために役 立つことを行わない人も多い10) 。  しかも社会的ジレンマ論を使えば、「人」に役立つことがそのまま「社会」に役立つとは限 らない。介護末期に登場する在宅死の問題では、「人」の立ち位置によって役立ち方が変化す る。要介護度が高く医療的にも末期症状の患者は最終的には在宅死を望むことも多いが、家族 としては金銭的負担や人的負担や肉体的負担を考えて、むしろその患者の入所入院の継続を希 望しがちである。なぜなら、高い介護度で病気の末期症状にある者の在宅支援には「人」や家 族としての経済的負担が大きく、生活介助全般が大変だからである11) 。  在宅介護・看護・治療では症状末期の介護費や医療費が入所入院での総費用よりもかなり少 ないために、厚生労働省が狙う高齢者医療費の抑制につながり、これは確かに社会に役立つか もしれない。しかし在宅の場合では、末期患者の食事をはじめとする世話のすべてを家族の誰 カードが普及しなかった原因であろう。    委託された会社は目標を達成しようと飲食関係など 400 カ所以上に営業に回ったが、操作が面倒だな どと断られ、結局、導入できたのは僅か 11 店舗という衝撃的な結果がテレビでは紹介されていた。せっ かく交付金 1200 万円を費やした会津若松市の電子マネーではあったが、カードを使った買い物の総額は これまで市内全域で 18 万円という結果に終わり、会津若松市商工課の見通しの甘さが指摘されるととも に、事業の継続の断念が報じられた。    ここには事業をめぐる委託先と自治体の乖離、実行する人材の不足、全体的な事業計画の不十分さ、 責任の所在と責任の取り方の不明確さなどがはっきりと浮き彫りになっている。 9)  もとよりイノベーション理論の包括的な検討はできないが、シュンペーターによる研究を敷衍するに とどまる。なお、簡便な要約を示した入門書として、安倍(2015)は役に立つところがある。シュン ペーター、ドラッカー、クリステンセンなどのイノベーション論を分かりやすく紹介しているからであ る。

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10)  他者の利益を真っ先に考える利他主義 (altruism) の浸透が困難であるのは、このような選択を行う人 の生き方もまた尊重しなくてはならないからである。 11)  ここでも個人と社会は相補的というよりも相対立の方向にある。 かが 24 時間で行わなければならなくなる。かりに患者が単身者で在宅を希望すれば、身のま わり全般の世話のために、家政婦を泊りで雇うことになる。その一日の費用は平均で 1 万 5 千 円くらいであるから、本人もしくは別居家族による月額の負担が 45 万円になる。これは社会 的費用として発生しないが、すべてを患者か家族の誰かが支払うことになり、在宅治療が長期 化すれば、患者としても家族員としてもこの個人負担には耐えられなくなる。これもまた社会 と個人の都合が衝突する事例である。  同じことは環境問題でも発生する。典型的には家庭におけるゴミ処理問題にそれは現れる。 たとえば分別収集をしない、ゴミ捨て日時を守らないことは野城がいう「煩わしさの解消」 (同上:12)につながり、個人のライフスタイル(人)に都合がいい。しかし、それではゴミ 収集車の円滑な作業に支障をきたすし、ゴミが未収集の状態になりやすく、結果的に地域社 会全体(社会)の景観を損ない、これもまた野城が指摘する「社会」の「居心地」(同上:12) にとってむしろ逆行する。  私の専門分野である少子化問題でも同じ事情にある。一般に、一人の子どもを大学卒業させ るまでの親の負担は三千万円であるが、それを嫌い、子育てしない人生を選択すれば、収入を 自分だけもしくは夫婦二人だけで使う自由を満喫できる。それは「自己実現のための機会創 出」(同上:12)にも役に立つ。  しかし、いずれ次世代や次次世代が減少して、人口減少が進み、社会全体の生産力も消費力 も縮減して、自分だけや夫婦ともどもの収入源となる職場や会社の営業成績が落ちて、自らが 失業する危険性が強まる。もちろん高齢期の年金財政も破たんするし、社会全体の「生活の 質」も低下する。ここにも個人と社会は相対立する方向にある。野城による独創的な価値理念 である「豊益潤福」にはこのような解決しておきたい大きな問題が残っている。  「豊益潤福」のような複合した価値理念を避けて、ともかくも動きを伴うイノベーションを 内発的地域創生論へ応用するには、まずは何が必要か。初発のイノベーションの引き金は何 か。それは宗教的教義か、堅実な初等教育の拡散か、高度な集中的な高等教育か、地域におけ る集合的経験か、伝統的な徒弟的熟練なのか。そして、イノベーションの持続可能性には何を どうすればいいのか。  持続可能性を高めるには、個人だけの力量でいいのか、あるいは集団的ないしは地域的な集 合的な支援を必要とするか。これらの諸問題もまたそれぞれに解決の見通しを得るには厄介で はあるが、野城がまとめたイノベーション・プロセスを駆動させる主体像は参考になるとこ

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ろがある(表 2)。なぜなら、50 年前から絶えず望まれてきた「人材」についてより精細な議 論が可能になるからである12) 。  この主体性論は、結局これまでの地域開発論、一村一品論、内発的発展論、そして地方創生 論で繰り返されてきた「人材」論に有益である。従来の地方創生論に登場する「人材」は野城 が分類した変革促進者はもちろんのこと、ユーザーかデザイナーか構成則戦略者が該当するの か。変革促進者をはじめこれらの諸主体はどうすれば誕生するのか。「多様な役割を果たす主 体を輩出する」(野城、前掲書:271)は当然だが、 それには ① 行きつ戻りつの共創プロセス ② やりながら学んでいく(learning by doing)プロセス ③ 創造された人工物(製品、仕組、サービス)が受容され普及していくプロセス   なのか(同上:271)。   あるいは、引用された ④ 参加することによる魅力(さまざまな斬新な知識や見方に触れる可能性の高さ) ⑤ 敷居の低さ(既存の境界・仕切りに拘泥されない加入容易性) ⑥ 組織の新陳代謝度 か(同上:271-272)。 12)  人材は human resources であり、この場合はむしろ「人財」といったほうがよい。なぜなら、同じ 人材でも人材派遣の場合は staff になるのだから。派遣での人材は「働く人々の集まり」以上の意味は なく、資源の観点から言及されることは少ない。 表2 イノベーション・プロセスを駆動させる観点から見た 価値創世網に参画する主体の役割 (出典)野城、2016:272 (注)ここで Promotor と表記してあるのは野城の思いが入っているからであろう。

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 もしそうならば、全国どこでも行われている「リーダー養成講座」は不要となる。なぜな ら、それらすべてが現場主義のイノベーションリーダー像に収斂するからである。「人材」と してのリーダーは短期間の講座で養成されるのではなく、現場で自然発生すると見るのが実際 には適切である。「行きつ戻りつの共創」でも「やりながら学んでいく」のでも、「参加するこ とによる魅力」の発見でも、すべて地方創生の現場では周知の事実である。  野城の整理を踏まえて、地方創生論の原点として、宮本常一の「日本列島にみる中央と地 方」で指摘された、たとえば「ただ地方人口の減少だけが問題にされている」(宮本、1967: 50)や、「地方振興の大きな癌になっているものは人材の不足である」(同上:51)や「今地方 がもっとも必要としているのは人材であり、 知識であり技能である」(同上:52)などに出会 うと、「人材」のイメージが大きく膨らむ。これらは野城の分類では「変革促進者」が該当す るであろう。  そして、それらは 50 年の時空間を超えて現在の地方創生論でもまったく同じようにのべら れていることに驚く。なぜなら、2016 年でも「地域産業を支える礎は人づくり」(竹本、前掲 書:116)や「若者が地域おこしの助っ人」(同上:200)、「基軸は人材育成策である」(同上: 389)、「多様な分野から担い手を育て、農業従事者の絶対数を増やす」(同上:496)、「増える 定年退職者を少しでも農業分野に誘導し、農業の新しい担い手になってもらう」(同上:680)、 「モノづくりの中核人材を育成」(同上:740)などが、この分野では依然として結論とされて いるからである。  これらの「人づくり」、「人材」、「中核人材」を野城のイノベーション主体群に合体させて、 再分類してみることは有益な試みとなる。  私の立場は、これらに三隅二不二のリーダーシップの PM 理論を応用して、「人材」をより 精緻化しようとするものである。野城の細かなイノベーション主体としての「人材」論をリー ダーシップの PM 理論と接合することもまた、地域創生ないしは地方創生の現場でも有効であ ると考えられる。  この数年間、私は自他ともに収集した地域創生の成功事例を素材にして、コミュニティ DLR 論として彫琢する傍らで、「人材」をめぐっては、リーダーシップの PM 理論をコミュニ ティ DLR 理論に組み込もうと努めてきた(金子、2016a)。地方の現場でも理論地域社会学で も、「人材」補充に関する汎用性を高めるきっかけとして、リーダーシップ論からのまとめが 「人財」への飛翔を約束する。野城がいう「多様な役割を果たす主体」には PM 理論を適用し て、実行力に富む主体か、統率力に優れた主体かという類型がほしい。そうすることで、まず は「変革促進者」のイメージがより膨らむからである。なぜなら、地方創生の起動は「変革促

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進者」の存在いかんに係っているからである。  もちろん並行して、少子化が進む人口減少社会の原因追究のための都市と過疎地の比較分 析、および少子化克服の独自の政策提言も、コミュニティ DLR 論の主柱になることは当然で ある(金子、2016b)。  消費者のニーズを見極め、人口構造の変化に即応し、産業構造の国際的分業システムに配慮 することにより、イノベーションは商品生産方法だけではなく、その販路の開拓や流通の方 法、原材料となる資源や供給源の変更、製造・流通・販売する組織の改編などでも等しく認め られるようになる。  そのうえで、地方創生に不可欠だが、現代日本では停滞しがちなイノベーションを 4 種類の 機能不全として理解する(野城、前掲書:320)。私はこの延長上にその打開案を模索する。  ① 始まらない:変革創始不全  ② 繋がらない:価値創成網形成不全  ③ 動かない:変革駆動不全  ④ 拡がらない:イノベーション展開不全  これらのうち、どこからでも開始することから新時代の地域創生が芽生えるはずである。地 元資源の種類、用意可能な「人材」から「人財」への展開、地理的な条件などを勘案して①か ら④までのどれかを始めるか、繋げるか、動くか、拡げるか。それの優先順位は、地方がおか れた事情により左右されることはいうまでもない。

第 3 節 地理的イノベーション盛衰の歴史社会学

 イノベーションを始めるにも繋ぐにも動くにも拡げるにも、時代背景としてのその当時の最 新の技術水準と国民の価値意識がその成果を左右する。いわば時代とその地域における地理的 な環境が産業化の内容と水準を決定するのは、石炭産業をはじめとした日本の鉱山業が示す通 りである。また、明治期から昭和前期まで、桑を育てて蚕を飼い、その繭からシルクを作り出 し、各種の製品を輸出品に仕上げた歴史からも、時代と地理的制約が産業化の方向性を決定す ることが分かる。  同時に、石油資源に全く恵まれなかった日本が 1960 年代に京浜から瀬戸内にかけて太平洋 沿岸ベルト工業地帯を作り上げ、サウジアラビアをはじめとする中東からの格安の原油を輸入 することにより、未曾有の高度成長を成し遂げた秘訣もまた、石炭から石油へのエネルギーの 転換と中東に面した太平洋岸に工業地帯を形成したという地理的な特性を活用した成果であ 13)  古厩(1997)のいうように「裏日本」は単なる地理的な概念ではなく、むしろ歴史に富む概念であ る。

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る。その結果としての「裏日本」の後退はあるが、今は問わない13)。  以上を考慮して、ここでは事例研究として、地理的特性を活かした産業化に成功して一時期 を作り上げながら、二度にわたる鉄道環境づくりというイノベーションに失敗したため、その 後の時代にはそぐわなくなり、低迷している福岡県大川市の木工業をとりあげる。筑後川とい う自然条件に順応して始まり、上流の大分県の日田地方の杉材を巻き込んで福岡県の大川市へ と広がった 150 年近くの歴史をもつ木材資源と家具工業を素材にすることで、何が見えてくる か(大川市誌編集委員会編、1977)。天領だった日田の豊富な森林資源からの木材を筑後川経 由で有明海に面する河口の大川市に運び、そこで加工して、家具工業や建具工業を繁栄させた 歴史に何を学ぶか。  これは地方の盛衰に関するイノベーションの地理学の事例であり、地理システムのうち水と 木材がその素材であり、それはまさしく「1 つとして同一の場はなく、すべての場は特異であ る。独特の都市化、地域化、多様化の様相を呈する」(野城、前掲書:274)事例になる。  大川の木工業の特徴として、明治大正昭和前期の時代における筏流しによる原材料の運搬が あるが、これは格安の河川木材輸送の方法であった。これは当時の一般的な水運技術の一つで あった。  大川市誌には江戸時代からの「日田の筏流し」が詳細に記載されている(大川市誌編集委員 会、前掲書:392-395)。本格的には明治になってから、「筏師」により、丸太材を長さ 28m、 幅 4m 内外にカズラで筏に組み、これを一枚として、日田から浮羽郡の荒瀬まで櫂と竹竿 3 本 で操りながら、岩石とたたかい急流を一気に下った。中間点の荒瀬で四枚を一組に組み替え、 さらに下流に下り、久留米市善導寺、瀬ノ下、城島町にあった「筏乗りの宿」に二・三泊しな がら、現在の大川市鐘ヶ江などにあった材木問屋まで流した。問屋に買い取られた材木は鐘ヶ 江の「筏まわし」(20 名程度)によりさらに筑後川を下り、最終目的地の筑後川支流の花宗川 両岸にある若津や榎津や小保に運ばれて、家具や建具用に製材された。平成の現在でも花宗川 の両岸には製材所の名残が多く残っている。この筏流しは日田に大規模な夜明けダムが建設さ れ始めた 1952 年まで続いた。  その後トラック輸送になり、とりわけ高度成長期以降に安い外材が大量に大型船で輸入され るようになると、日田からの国産の杉材の輸送はまったく消えてしまった。これは時代ととも に交通環境が変化した産業化の例である。  加えて大川市の場合は、イノベーションとしての鉄道の敷設に二度の失敗があり、これが 後々まで尾を引いてきた。最初は 1891 年(明治 24 年)に九州鉄道(国鉄鹿児島本線)が門司 と黒崎、久留米―瀬高間を開通するとき、表 3 のように、当時久留米市と大牟田市に次いで筑 後地方第三位の人口を持っていた大川町で、その若津港を経由する計画が会社から示された。 にもかかわらず、当時福岡県内で博多港や小倉港を抑えて県内一位の輸出入額があった若津港

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の海運業者の賛同が得られなかった(同上:1144)。そのために、国鉄の鹿児島本線ははるか 離れた瀬高町経由となり、大川市は鉄道の恩恵が皆無の都市になった。  しかも、西鉄大牟田線の久留米から大牟田までの敷設の際にも、大川鉄道がその権利を持っ ていたにもかかわらず、大牟田線に西鉄大川線(大川市明治橋から大善寺まで)として接続し て電化することが果たせなかった。この取り決めはいったん約束されたにも関わらず、筑後川 改修工事の障害になる危険性や大川鉄道路線の経営上の問題から、1951 年以降はレールが取り 除かれて、今日まで 65 年間バスの運行が続いている(同上:636;1047)。  大川市がイノベーションとして新しい鉄道への転換という交通環境の変化を二度も読み違え た結果、西鉄大牟田線が通過した三橋町(現在は柳川市と合併)に隣接した柳川市に比べる と、1960 年代まではどちらの都市も 5 万人台の人口を維持していたのに、柳川市は周辺の大和 町と三橋町との合併効果で 2010 年国勢調査では 71000 人を維持しているのに、どことも合併 ができなかった大川市の人口は 37000 人に減少した。  その意味で、地域創生では地理的特性としての土地環境に密接する交通路線の利用やそこで の事業が増えるようであり、資源としての地理的な特徴を活かすところから地域創生は始まる といっても過言ではない。それらが地元の資源、交通環境、働く人の定着性と移動性の問題に 結びつき、かつての内発的発展の条件をも満たすようになる。  産業活動を担う企業組織の規模は次第に大きくなり、機械化が進み、大量生産が普遍化する 一方で、個別的に熟練度が高い職人の位置づけもまた難しくなる。大川市の事例では、時代の 推移で高度成長期に徒弟制が崩壊したので、分業を維持するために、技術者の養成まで職業訓 練学校経由となった。これもまたイノベーションの一つとはいえ、職業訓練学校で育成された 専門家が職人レベルに到達するという保証は何もない。技術者養成も働き方も多様化は避けら れないが、その変化がそのまま地場産業や地域社会の現状の満足度を高め、未来への期待を増 表3 明治 34 年の筑後地方の自治体人口 (出典)大川市誌編集委員会『大川市誌』大川市役所、1977:1143

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加させるという訳でもない14)。  産業化の初期においては、どこでもいつの時代でも地域人口移動が活発になり、それは就業 機会の増加を導き、個人レベルでは熟練の機会が増える。大川市の木工業では 1960 年まで 100 年間以上続いてきた徒弟制が崩壊して、高度成長期以降では木工業志願者は職業訓練学校で学 び、一定の技能を身に着けたら、契約により木工所へ就職して働くという方式に変化した。当 時の私は小学生であったが、自らが見聞した経験では、そのころまでの徒弟制度は家具や建具 の製造技術だけではなく、木工業全般の知識、製品の価値理念、人生への態度や結婚相手の紹 介などもすべて親方が徒弟を丸抱えして、直伝するものであった。以下、一連の歴史的叙述は 『大川市誌』による。  徒弟制度は、手工業者同業組合において、技能の後継者を要請するための制度であり、「親 方、職人、徒弟(弟子)の階層組織に立脚し、親方・徒弟関係を一定の基準によって処置し た」(同上:605)。主に農家の二男三男が弟子入りして木工所の徒弟となった。家具の修業に は 5 年か 6 年、建具は 3 年から 4 年、塗装は 3 年以内の訓練が慣習となっていた。  この就業期間は親方の家に起居し、食事と夏冬の仕着、盆と正月の休みと若干の小遣い銭の 支給しかなく、休む暇もなく働くことになる。夜業(よなべ)も通常は夕食後 10 時から 12 時 まであったが、朔日と 15 日だけはそれを休んだ(同上:606-607)。これは民俗学的に説明で きる。  『日本民俗事典』(1972)によると、日本の休日は元来節供・節日として存在しており、「各 月の中では、概して、一五日(望)・上弦(七日か八日)・下弦(二三日か二四日)が選ばれ た。それに次第に朔幣(さっぺい)などといって朔日(一日 ついたち)を用い、さらに月末 の晦日かその前日の二八日も選ばれ易かった」(大塚民俗学会編、1972:384)。すなわち大川 市という木工業都市でさえも、1960 年代までは日本文化本来の節供・節日が生きていたのであ る15) 。  とりわけ近所にたくさんあった木工所や家具店の多くが、休日を毎月の朔日と 15 日(つい たち、じゅうごにち)に設定していたことを私は鮮明に覚えている。つまり、義務教育学校や 市役所などは週休 1 日制で日曜日を休みにしていたが、家具や建具の製造販売関連の事業所で 14)  伝統産業と企業革新については林(2014)に詳しい。 15)  柳田國男監修・民俗学研究所編(1951:636)では「都市の職人などが一日・十五日を定休日とする」 と記されている。なお、「明治以来西欧の七曜の制が採用され、日曜が週期的な休息日として官庁・都 市の生活の基準となったが、村には古来の生活の伝統が律動的に保たれている」(同上:637 ただし 当用漢字に金子が修正した)。この辞典が 1951 年刊行であったことを想起すると、福岡県の筑後地方 の小都市では依然として「古来の生活」が「家具職人」を軸として維持されていたことが分かる。な お、この事実を補うものとして「新暦正月が主流になるのは、高度経済成長期以降のことであった」 (福田編、2015:193)もあげておこう。

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は 1 週間単位での休みではなく、月に 2 日しか休みがなかったのである。これが次第に変化し て、1970 年以降になると、事業所の大半で週休 1 日制の日曜日が休みとなり、この方式が定着 した。  しかし家具産業に新しい原材料が開発され、机や椅子やテーブルが木材以外の材質で可能に なると、大川の零細木工所が製造した家具は全国区の事務機メーカーが大量生産方式で作った スチール製の家具製品に負けてしまう。さらに一戸建てやマンションの建築時に部屋の中に造 り付けられるようになったクロゼットのために、洋服ダンスが売れなくなった。新市場の開発 は木工業からではなく、全国展開する事務機メーカーのスチール製の家具から始まり、こちら が比較優位となった。そこには、大量生産されたスチール製の家具が持つ価格面での優位性、 製造面での能率性、堅牢性などが国民に評価されるようになったという時代背景がある。  大川市の家具産業の停滞を一般化すれば、大きな時代の変化が休日の在り方や熟練者の養成 や商品の原材料に関する伝統を弱めたといえる。そのうえ原材料の変化は家具工業のイノベー ションには結びつかず、逆にスチール製の家具製造販売で成功した事務機メーカー、そしてク ロゼットや整理タンスまでも造り付けとする住宅産業の建設方法が主流化した。その結果とし て、伝統的な木製家具はこれらに敗北したと総括できるであろう。  この時代動向に、大川市では政治も無力であった。さらに徒弟制の崩壊という労働慣行の変 化は大きかったが、土地利用面でも資本面でも木工所の組織面でもイノベーションは起きな かった。  総論的にいえば、日本では高度成長の時代にイノベーションはあらゆる領域で生まれ、そこ から急速に諸分野が連動して変化が続き、それは生産製造過程、交易分配過程、販売消費過程 を問わない(金子、2011)。この動きに対応できた地域とできない地域の差異は大きく、社会 全体のイノベーションに乗り遅れると、地方都市の主力産業の様相を激変させるに十分な威力 をもった。  以上、大川市の木工業史からまとめると、江戸時代からの伝統であった国産木材加工による 零細企業である木工所主導の家具製造の時代は、1970 年代からわずか 20 年程度で過ぎ去った。 代わりに原材料のイノベーションとしてスチール製の事務用品としての机とテーブルとロッ カーが学校、企業、家庭にまで浸透した。そこでは、大企業による大量生産方式が適合する。 大川市では並行して徒弟制が崩壊して、木工関連の職人や熟練者が少なくなり、全国的企業に おいて製造ラインの一部を受け持つ労働者に取って代わられたのである。   この歴史過程を検証すると、新商品には新規の目的として追求されて完成する場合とは別

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を歩むが、たとえば手工業生産から機械生産へ、畜力や自転車による配送から鉄道や自動車に よる配送へ、店舗販売からネット通販へというような構造的で不可逆的な変動が付随する。す なわち新しい産業化は、生産製造、流通配送、販売消費に関わる原材料、動力源、そしてエネ ルギーの変化、ならびに日常生活の規則でさえも変えてしまう16) 。歴史を通してアシュトン は「産業革命は工学上の出来事であると同時に、経済学上の出来事でもあった(アシュトン ,  1948=1974:108)とみた。  これら両者に社会学的な実態を付加すると、地域創生のための生産町のイメージが得られや すい。すなわち、技術と土地利用という工学・地理学的手法、資本と労働それに組織という経 済学の基本に加えて、価値規範と人間行動と社会集団という社会学の文脈でいう生活様式のす べてが連動して、進歩や前進それに発展や改善という文脈で評価される方向に社会全体が変化 したのが産業革命である。  なお、「工業生産における多くの発明の背後には体系的な思想が横たわっている」(アシュト ン、前掲書:23)という指摘は重要であり、今日の地方創生の掛け声の背景にどのような思想 があるかの点検も不可欠である。なぜなら、地方創生の方向付け(D:ディレクション)には 必ず特定の思想が存在するからである。これまでに顕在化してきた地方の思想には、ローカリ ズム、個人主義、コミュニタリアニズム、内発的発展などがあり、私はローカルチャー(金子、 2000;2014a;2016a)を標榜してきた。  政治学を除いてこのような認識を地方創生論に応用すると、創生活動が始動するのも工学、 地理学、経済学、社会学などの諸分野からになり、その方向も進歩や前進それに発展や改善と さまざまに位置付けられる17)。そこでは「企業はより大規模に、取引はより広汎に、分業は より細密になり、さらに、輸送や金融はより専門化し、かつより能率の高いものになる」(ア 16)  産業化と社会変動については富永(1965;1986)を参照してほしい。 17)  なお、ここに政治学を加えないのは、その主張にあまりにも実態離れが多いからである。たとえ ば、1978 年当時の「地方の時代」では「市民参加」がもてはやされていた。その筆頭論者の篠原一に 象徴されるように、「主体性をもった市民による地域社会の建設」(篠原、1978:39)が目標というだけ で、「市民」にも「地域社会の建設」にも何ら具体的な言明がなく、当時から議論が空転していた。驚 くことに、「市民参加」を行政系列だけではなく、議会系列でも行えるように変えていくことが強調さ れ、「地方議会における市民参加は、こんご市民参加論の重要な柱とならなければならない」(同上: に、それまで無縁だとされていた領域から、発想の転換により応用されて完成したものが存在 する。後者にはコクヨファニチャーというコクヨ事務機の子会社が作られて、スチール製の事 務用品として専業化されていった歴史が事例となる。あるいはニトリに象徴されるように、格 安の木材と現地労働力を使って家具を製造して、日本に輸入する方式しかない。  大川市木工業を踏まえて、柳田のいう生産町を再度考えてみよう。それは広義の産業化路線

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シュトン、前掲書:108)。これは時代を超えて現代日本の地域創生でも応用可能性に富む。

第 4 節 産業発展と地域創生

 通常、産業の発展には、①土地、労働、資本、②組織、リーダーシップ、③初等教育水準の 向上、④高等教育の普及、⑤熟練者、専門家の存在、⑥上昇移動の機会増加、⑦明るい将来展 望、⑧政治の安定による社会的調整力の増大、などの相乗効果が期待される。

 これらをパーソンズの AGIL 図式に当てはめると、①②は A(適応)機能、③④⑤は I(統 合)機能、⑥⑦は L(文化)機能となり、⑧のみが G(目標達成)機能として政治の出番になる。 換言すれば、産業化でも地方創生でも、①②は経済学と経営学、③④⑤⑥⑦は社会学、教育 学、社会心理学などに含まれることになり、政治学や行政学はあくまでも条件整備に止まる。  ①と②による産業化は、地域創生でも消費財や嗜好品奢侈品を作り出す変化ではなく、必需 品や資本財を生み出すことが期待される。結果としてその変化は消費財にも波及した。すな わち、地域創生でも生産財(producer goods)、資本財(capital goods)、消費財(consumer goods)などの区別が可能であり、地域創生活動でも生産財を輸出や移出して、消費財を輸入 移入したりできるし、逆もまた存在する。  たとえば、陶磁器の製造面でのイノベーション事例として、新しく混入された原材料、焼く 温度の工夫、うわぐすりの改良などで、商品が多様化して、販売の対象者が拡大する。しか も、時代の推移による所得水準の向上は、陶磁器を安価な実用目的から観賞用にまで広げるの 45)と結論された。政治学者が選挙の結果選ばれた議員が構成する議会に、何の資格もない「市民」 を参加させる方式を強調しても、どれほどの意味があるか不明である。「市民参加がすすめられていけ ば、市民はやがて自らを治めるだけの主体性をもつ存在に転化せざるをえない」(同上:45)とは、ど れくらいの人員と能力を想定した発言であったか。   さらに「このような負担に堪えられない人は、市民自治を語ることはできないし、地域が自立するため には、このような市民自治が不可欠になる」(同上:46)に至っては、何の参考にもなりえない。どの 地域でもこのように「負担に堪えられる」人は絶無に近いし、そのような「主体性」だけの人のみが 「参加」するような地域社会が「開花」しても、それを「地方の時代」の幕分けという訳にはいかない からである。これでは、同じ時期に小室直樹が痛烈に政治学を批判し、「理論も操作化も実証も、なん ら存在しない」(小室、1991:240)に対して、抗弁できないであろう。やや過激ではあるが、「政治学 者が重視するのは、(研究者自身の)感覚と問題意識であり、業績評価の基準となるのは、作文能力で ある」(同上:240)とまで書いている。ここでは文庫本からの引用であるが、初版は 1976 年 10 月に出 されているので、篠原論文の 1978 年とほぼ同時期ということができる。   なお、宮本常一が「一般の大臣で古典になるような書物の書けた人がどれほどあっただろうか。つまり 大臣はどんな人物でも勤まる国なのである」(宮本、前掲書:41)とのべ、柳田國男もまた、「もともと 政治の学問などをしたことのない者に、間違ったことをしたと言って攻めるのは無理」(柳田、1990: 250)といった。二人の碩学にとって、政治はどのような意味をもっていたのであろうか。

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で、高額な商品展開も可能になる。  モノづくりのイノベーションが、ベブレンの誇示的消費(conspicuous consumption)や ボードリアールの記号消費(consommation du signe)へのルートを持っていることはいうま でもない。  さらにまた少子化研究や人口減少社会の観点からすると、⑥上昇移動の機会増加と⑦明るい 将来展望が重要である。なぜなら、合計特殊出生率が日本でも 2.00 以上であった 1960 年代か ら 72 年までの高度成長時代では、この両者もまた国民が認知していたからである。そこでは 「明日のために今日も頑張る」という将来への信頼があり、その結果として上昇移動の機会も また多方面で開かれていた18) 。  広い意味では文化の質に該当する社会の開放性は社会システムの L 機能の一翼を担う。開放 性により成員の能力達成機会は拡大するので、それは産業化や地域創生にもそして少子化克服 にも大きな意義をもつ19) 。そこではジャパニーズドリームの可能性もまた強くなる。  しかし、90 年代のバブル経済崩壊により、社会の開放性は失われ、さらに国民による未来へ の信頼感も消滅して、1970 年半ばから続いてきた国民総中流意識は 90 年代には崩壊した。そ の後は格差社会が顕在化するに至り、格差の度合は今日ではますます強まっている。とりわけ 格差の二極分解が定着している中で、研究者レベルでは格差の原因の追究ばかりがなされて、 肝心の格差是正についての議論が乏しい。格差是正のための政策的な提言に関わる言明が少な いのは、日本の社会科学の宿命なのであろうか。  その意味で歴史学上の「産業革命は観念の革命」(アシュトン、前掲書:31)という指摘は 正しい。現代日本における地方創生を地方の産業化と読み替えても、この古典的定義は活かさ れるであろう。なぜなら、「産業革命は一つの期間ではなく、一つの運動と考えられるべきも のである」(同上:159)という理解がそこにあるからである。産業化の勢いは期間限定の運動 であることが多い。歴史的に見ると、弱い産業化の時期も強い産業化が目立つ時代もあるが、 いずれもこれらは波動的に交互に社会現象となりうる。産業革命期には強い産業化、発明発見 が集中して起きた 19 世紀後半から 20 世紀前半もまた、科学革命の運動の時期だと考えられる。  これらの時代背景として、人口の増大、科学の技術への適用、金融資本や産業資本の一層の 集中ないしは大規模化がある。その結果として、社会成員レベルにおける初等教育水準の向上 18)  移動論では階層移動と地域移動が合体することが多いので、階層的上下移動の分析には必ず地域移 動への目配りを伴いたい(鈴木、1970)。いわゆる栄転と赴任地、左遷と赴任地もまた、日本の公務員 の世界や民間企業ではかなり定番化されている。 19)  いろいろな少子化対策事業ではなく、若い世代に将来像がきちんと描ける労働条件を内包する雇用 形態を拡充すれば、未婚率は低下して、合計出生率は漸増するにちがいない(金子、2016b)。

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と高等教育の普及を原因として、神から人への力点が移動した結果、そこに宗教の世界から科 学の世界へという「聖から俗への価値意識」の推移を読み解くことは困難ではない。  さて、宮本は、「明治以来の政策が地方資本を壊滅させ、地方文化発展の芽をとめ、地方の 生産エネルギーをうばい、やがて国内植民地をつくりあげて来たのである。植民地における文 化は定着性のないのを特色とする」(宮本、前掲書:46)とまとめ、発展における住民の定着 性を強調した。同じく「都市文化そのものも浮動性のつよいもので未来をはらむ永続性をもっ たものはまだ伸びはじめていない」(同上:46)とみなされ、1960 年代においてすでに浮動性 の強さが指摘されたが、逆説的にいえば定着性の弱さが取り上げられたことにもなる。  すなわち、地方文化の基本は第一次産業から生み出されたものであり、そこには俗的世界と しての自然環境との対話、自然環境への順応、自然環境からの恵みの享受、自然環境を活かし た生産物、年中行事が規則的に営まれ、個性重視やハンドメイドなどの価値が優先されてい た。  一方、都市文化の基本は第三次産業を契機としており、それは俗的世界としての都会人によ る技術、自然の克服、生産・製造―交易・流通―販売・消費などの経済活動の循環を招来す る。階層移動も地域移動も激しく、社会全体が大量生産に移行すると、全国各地から集まって きた人々が受け持った機械型生産による普遍性と画一性が追求された。休日の設定でさえも 「朔日・15 日」から 7 曜制に移行して、日曜日を休日とするようになった。ただし都市に住む この人々のルーツは、大川市の事例でものべたように、明治大正昭和の中期まではふるさとと しての農山漁村であった。  柳田國男はそれを以下のように表現した。すなわち、「日本の都市が、もと農民の従兄弟に よって、作られた」(柳田、1991:336)。また同じように宮本は、「もともと日本の都市の多 くは農民の集合したものであり、個々の都市民と農民との間には、大きなつながりがあった」 (宮本、前掲書:91)とした。いずれも農漁業という第一次産業の文化で育まれた若者が明治 大正昭和前期にふるさとから移動して、いわゆる「群化社会」としての大都市にそのまま定着 して、3 代目 4 代目が昭和の後期から平成の時代にみられるようになった。  ただし、都市への移動後 60 年が経過すれば、「僻地の村落共同体は多くの共有財産を持っ た。共有山、共有牧野、共有耕地、海水面の共同利用などがそれであり、その共有財産がある ことによって、貧しくはあるが破産からまぬがれることができた」(宮本、前掲書:94)とい うふるさともまた無くなっており、都市への移住者にはもはや農山漁村との断絶しか残ってい ない。  したがって、ふるさとの農漁村でも移動先の都市でも、日常的なコミュニティ関係が崩壊し

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