L'evolution de la poetique de Francis Ponge
著者
横道 朝子
論 文 内 容 の 要 旨
横道朝子氏のフランス語による学位申請論文 L'évolution de la poétique de Francis Ponge(『フランシス・ポ ンジュの詩学の変遷について』)は、20世紀のフランス詩において特異な位置を占めるポンジュの詩学が、 どのように生成し発展したかを時系列的に検証したものである。
本論文は全体が二部構成となっている。第Ⅰ部 L'Itinéraire vers la poétique du Parti pris des choses(「『物 の味方』の詩学への軌跡」)では、『物の味方』以前の初期作品を検討して跡づけ、第Ⅱ部 L'évolution de la poétique des choses(「物の詩学の変遷について」)では、真の前衛となって行くさまざまな詩法の解体的構 築の展開を追っている。 第Ⅰ部は5章立てであり、第一次世界大戦前後の、ポンジュ 10代から20代にかけての模索期をとりあげ、 19世紀の詩作の影響と、それへの反発、彼独自の詩学の誕生までを述べている。第1章では10代の詩3編を 分析しつつ、詩人を詩作へと導く動機を解明し、第2章では従軍先のストラスブールでの友人たちとの出会 い、さらにはユナニミスム(一体主義)の主導者であるジュール・ロマンの影響、友人たちとの雑誌(『白い羊』) の発行等を通じて、流派になじまないポンジュ独自の傾向を抽出している。第3章、第4章では復員後の精 神的な危機を、最愛の父の死もまじえ、作品にあらわれた内面的な苦悩や詩作上の試行錯誤を解明する。そ して第5章で、ようやく危機状態を脱したポンジュが、どのように自分自身の新たな詩学を構築していった かを論じる。その際、1)樹をテーマとした作品群、2)マラルメの創作についての考察、3)物との出会い の3つを、詩人が精神の危機を脱出する契機だと指摘して分析している。 第Ⅱ部では、第1章で『物の味方』――「爆弾形式」とも「閉じられた形式」とも呼ばれる手法で書かれ、 詩人の名を一挙に高めた詩集――に収録されている作品を取り上げながら、彼を取り巻く社会的、文学的な 状況(とりわけシュールレアリスムやテル・ケル派との関係)を記述し、あわせて描写の特徴、作品の構成 や展開を分析する。そこでは、語るべきことを否応なく歪めてしまう――すなわちステレオタイプ化を強要 する「言語の力」に直面した詩人の「言い表し得ない」という感覚が軸になっており、そこから脱出するた めに、ポンジュは物を発見し、物につくと横道氏は指摘する。氏によれば、物に味方する詩人は、対象との 安定した遠近法を破壊して、対象を分解したのち新しいイメージで再構成するが、「曰く言い難い」という 感覚に陥らずに表現を確立して行くために、直喩を多用しながら、具体的なイメージで「物」を捉え、その 豊かさを、formule ――それに尽きる、あるいはそこで極まるとも言うべき安定表現――として表わすこと
になる。こうして、ポンジュは「絶対」よりは「相対」を、「抽象」よりは「具体」を選択する戦略によって、 マテリアリスムの書法に至るというのが、氏の捉え方である。 「物に味方をすることは、語について考えることだ」というポンジュの考え方をもとに、横道氏はさらに、 視点を一点に集中させないことによる書く主体自体の相対化、描かれる対象の微妙な変化に対する見方の多 様な分散化を指摘する。氏によれば、ポンジュがその対象を捉える言葉自体を、対象たる物と同じように音 や形といった物質的な要素に還元することと、対象の変化と同時に語自体が変化するというありかたは連動 しており、それは言葉に「身体性」を返す方法なのだという。そうした過程で、多くの研究者が指摘するこ の時期のポンジュの固体的なイメージに対して、横道氏は液体的なイメージの重要さにも言及し、それが結 局は「インク」に通じると述べる。樹木が「緑の嘔吐」(=葉)を吹きだし、カタツムリは「のろ(bave)」 を分泌し、オレンジは汁を出すというこのあり方は、インクによる表現と重なり合い、たとえばカタツムリ の「のろ」がつける痕跡が、インクによるエクリチュールとパラレルになるのだと。 それゆえ、横道氏によれば、ポンジュの名を世に知らしめたジャン=ポール・サルトルが、『物の味方』 の収録作品を「固体化」のイメージで捉えたのは当然であるにしても(固体化は作品を結びの句(chute) で終える完結した作品への願望にも通じる)、水がインクをも洗い流すことから、作品は同時に「流体化」(さ らなる展開への希望)をも示唆しており、それが「開かれた形式」への移行を予告するものだという。 さて、 第2章では、第二次世界大戦をめぐる従軍、疎開、対独レジスタンス活動を経て、ポンジュの詩法 が「開かれた作品」「詩的日記」という形式のもとに、新たな展開に入ってゆく点を問題とする。横道氏は、 マテリアリスムの描写方法こそ変わらないが、対象を分解し細部に分け入るというやり方から、それを新た なイメージで描き直す方向へとポンジュは向かうと指摘。対象の描写は、二重、三重に重ねられて行き、閉 じられた作品と違って、対象の輪郭が次第にぼやけて行き、撞着語法の多用とあいまって、いわば「擦筆」 による描写のようになると言うのである。何度も対象に戻ることから、書く主体である「私」も絶えず登 場するが、それは「曰く言い難い」とする感覚に執拗に立ち向かい、それを乗り越えようとする姿勢となる。 そのため、書く主体は、徐々に作品の統一性を支えるものではなくなって行く。「主体」であるゆえ、本来 は何らかの「意味」を生成する運動の源であるはずなのに、「私」はいつしかその「意味」から身を引き離 して行き、かえって意味を破壊しようとする否定的な運動の源にもなる。氏は、こうした主体が、意味の定 立と破壊(生成と解体)という両義的な往復運動の中にあり、そのため意味の生成と廃棄、さらには再生と いう「現場」が出現すると述べる。 若い頃のポンジュは「太陽」を忌避した。横道氏によれば、それはポンジュにとって、すべてをくまなく 照らし出す、あらがいがたい「言語の力」(=自明の理)の象徴でもあり、自分の無力さをあばく「絶対的 なもの」と見ていたからだという。しかし、開かれた作品の手法を試みることで、詩人は太陽に敢然と立ち 向かい始め、ついに作品「深淵に置かれた太陽」において、太陽を書くことの原動力として描くことになる と氏は述べる。 つづいて、第3章では、自分の詩がもっぱら哲学的に解釈されることに対するポンジュのいらだち、同時 代の画家たちとの交流、彼らから受けた刺激などから、やがて「口頭表現の試み」に向かう詩人の姿勢が取 り上げられる。ポンジュは、まったく原稿を用意せぬまま講演会に臨み、即興的に話をするのをくりかえす。 そのとき、言葉は文字通り、その場で生成して、どこへ行くかも分からぬまま漂い始める。この即興性は、 生まれつつある状態のテキストの提示であり、練り上げた作品よりも、ずっとスピードの速いものであって、 こうしたエクリチュールのあり方は、画家の絵筆のタッチと同じで、重要なのはその動きだと横道氏は言う。 さらに、詩人が次々と連続してやってくるイメージに、その場で身をゆだねることから、ジャコメッティの 彫像と同じく、主体はどんどん痩せて行き、主体たる「私」は、もうテキストを統べる者ではなくなり、言 葉に主導権を譲ってゆくとも付け加える。
こうした傾向は、語の同義語的なレベルでの展開を呼び、ついで語の音(=語音類似)のレベルでの別の 展開を招来するなどして、指示対象とは必ずしも対応しない自律的な語彙の増殖を生み、ついにはシニフィ アンの戯れ(あるいは横滑り)に至る。その結果、シニフィアンをシニフィエに従属させる伝統的な記号シ ステムが撹乱されることになり、意識の源である「私」はますます分散、消失してゆくが、それが逆に、や せ細り切った末に、なおも残る「身体の根源」とも言うべき主体を浮上させると横道氏は論じ、そこには語 それ自体が語の意味とは独立して展開するポンジュ独自の objeu(物あそび)のありようが見られるとする。 主体はこうして記述者になって行くのだというのである。 第4章では、文学的な前衛集団であるテル・ケル派との関わりと離別とが述べられ、一般言語学にも関心 を示したポンジュのテキストは、語が自らのうちに含んでいる形式と響きという物質的な要素によって対象 =物をあらわすと指摘される。言葉は言いよどみ、表現は微妙な言い換えがカッコつきで並べられるなど、 削除もなく、書きつつある草稿状態がそのまま詩として提示されるのだと。そのとき、ポンジュは読者の参 加を要請し、読者がどのように読むかで、作品が出来上がって行くように仕向けてゆくのだと横道氏は述べる。 それは結局、ポンジュがエクリチュールの足場、エクリチュールを機能させるような根源を捉えようとし ているのだと指摘した上で、氏はその根源的なテキスト生成のありようが、くりかえされる垂直性と水平 性のイメージによって把捉されるとし、そのような運動体としてのテキスト、あるいはテキストの運動性を、 ポンジュは完成された作品であるモニュマン monument に対し、モヴィマン moviment(強いて言えば、動 く建造物)という造語に集約させると言う。そして、こうしたエクリチュールの冒険の行き着いた先が、相 対的に生きることの肯定(=幸せ)だと締めくくっている。
論 文 審 査 結 果 の 要 旨
横道朝子氏の本論文は、19世紀末に生まれ、20世紀に新たな独自の詩学を打ち立てたフランシス・ポンジュ の詩的創造の軌跡を跡づけたものである。これまでのポンジュ研究では、この詩人の全体像が明らかにされ ることがなかった。とりわけ10代に始まる初期作品への言及はほとんどなされなかったと言ってよい。理由 の一つには、ポンジュの作品の全貌を示す校訂本が未刊行だったということが挙げられる。それが、1999年 と2002年に、ガリマール社からプレイアード叢書2巻として、2005年には初期作品を収めた作品集が Pages d'atelierというタイトルで刊行される運びとなり、そのことによって本研究の成立が可能となった。その意 味で、本研究はポンジュの初期から最晩年にいたるまでのほぼ全テキストを視野にいれて書かれたポンジュ 論のさきがけとなるものであり、今後のポンジュ研究の重要な基本文献となるといえる。フランス語で書か れているゆえ、その利用範囲は広いと思われる。 本研究は、詩人の詩的創造の過程を時系列的に追っているので、その時間軸が一本の大きな幹をなしてい る。内容自体は「論文要旨」に譲るとして、ポンジュと言えば、サルトルのポンジュ論以来、物を描く詩人 というイメージが定着しすぎてしまったが、横道氏は、それも一面に過ぎないとして相対化し、初期作品の 分析から、それを前半期の集大成である詩集『物の味方』に連結させた。これが何よりもまず評価に値する 点である。そこからさらに、氏はポンジュ後半期における前衛的なエクリチュールの冒険にむかう詩人の方 向性を抽出した。それは後半期の「開かれた作品」あるいは「詩的日記」といった表現形式に結実し、横道 氏によれば、最終的には19世紀の絶対的なもの(神・究極・無限・永遠、等々)への希求を非神話化する詩 的営為となるという。その結果、近現代のフランス詩史の中に占めるポンジュは、同じような試みの先駆者 であるステファヌ・マラルメの真の後継者として位置づけられるというのが氏の捉え方である。 語は詩にとっていわば材料であり、属性であるが、本論文で問題にされているのは、非神話化をめざす中 で、副次的な要素である言葉の属性的性格が、言葉による絶対への希求に向かうのではなく、それ自体が相対的に動き続けることで、表側に浮き出して来ることである。属性が属性として、いうならば音や形といっ た物質性として機能し出すと、太陽のようにすべての物をくまなく照らし出して、自明の理として支配する 伝統的な言語の力を殺ぐことになる。そうなると、あらためて語の意味作用の仕組みに眼が行かざるを得な い。横道氏の研究は、そうした射程をも含んで展開する。この点も評価されてよい。 「結論」において、「書く行為とは、つねにわれわれの思考機能を決定するすべての価値体系が含む抽象化 の作用との闘いである」と横道氏は書き、「戦士に等しい作家」というポンジュの観念を援用しつつ、その 企ての敵は詩人の創造を阻害する既成の権威やあらゆるイデオロギーだとつづけている。人間の力を越えた 何かに対する無力感を、内面に抱え込まずに捨て去ること、それは意外なことに、行動主義者の原理である。 行動する者が宇宙の神秘や絶対的なものなどに対峙して、自身の無力さに押しつぶされたりしていては、行 動にならないからである。その意味で、横道氏が本論文で浮き彫りにしたのは、行動の人ポンジュの姿でも あった。そうした行動に賭ける決意こそが、同時にこの世の生の肯定につながる。それは相対的に生きるこ とであり、それが幸せに生きるための原点となる。この「肯定の詩学」は徹底して地上的なものなのである。 横道氏がなんどもくりかえすマテリアリストたるポンジュはそこにいる。氏がポンジュの詩に対する姿勢か ら受け取るものは、表現不可能なものに挑みつづけたマラルメの凄惨なまでの高貴さに伴う苦渋を180度反 転させて生きる詩人の姿であり、それを十全にとは言えぬまでも氏は示し得た。この点も評価に値するだろう。 以上は、本論文の長所から見た観点であるが、当然問題点もある。ポンジュを取り上げながら、詩史的な 流れも同時に捉えようとする欲張った展望のため、この詩人と対峙する詩人や作家への言及が十分とは言え なかった。多くの概念が提示されるが、その定義に関する詰めの甘さも見られた。説明が不徹底なまま、引 用に語らせる部分もあった。念を入れすぎたためか、扱うモチーフやテーマなど、似たような事項説明の反 復も見られた。 こうした問題点は、今後きちんと埋めて行く課題として残るが、研究上どれもプラスにこそなれマイナス になるものではなく、氏の研究をさらに実り豊かにする課題ばかりであり、審査委員四名は論文審査と2009 年7月3日に実施した口頭試問の結果から、横道朝子氏が本論文によって博士学位(文学)を受けるに値す ると判断し、ここに報告する次第である。