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『失われた時を求めて』における遅れについて

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『失われた時を求めて』における遅れについて

著者

岩津 航

雑誌名

人文論究

57

3

ページ

151-169

発行年

2007-12-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/1327

(2)

『失われた時を求めて』における

遅れについて

『失われた時を求めて』は発見の物語である。有名なマドレーヌの挿話が示 すように,語り手は事物に閉じ込められていた過去を発見する。だが,それだ けではない。彼が発見したのは,何よりも事物によって喚起された同一の感覚 が過去と現在をつなぐ瞬間の幸福感である。それが幸福なのは,感覚を通じて のみ時間のなかにおける自己の統一性を確認できるからであり,それだけが唯 一疑い得ない真実だからだ。ただし,そのような結論に到達するまでに,語り 手は何度も真実を取り違える。それでも語り手は真実を飽くことなく探求す る。真実こそが彼の文学の目的だからである。 間違いに気づくことが発見だとすれば,人生とは発見の連続であり,新たな 発見による過去の修正の連続であると言えるだろう。それは感覚による究極的 な真実への到達とは別に,知性による現実把握の努力として,小説の基調をな している。ジル・ドゥルーズは,『失われた時を求めて』を「シーニュの習 得」の物語として読み解いた。恋愛や社交は,さまざまな記号の遣り取りとそ の解釈によって成り立っている。しかし,その記号の意味を思考させるのは, 記号そのものではなく,苦痛や快楽である。芸術は,記号を解釈しなければな らなくなる必然性をも内包しているという点において,最も真実を開示するの に適している。ドゥルーズの言葉を借りれば,「われわれは,無理に,強制さ れて,時間の中でのみ真実を探求する(1)」のである。ロラン・バルトもま 151

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た,プルーストにおける固有名詞を論じて,ひとつひとつの名前に「記号のス ペクトル」を見出そうとした(2)。記号は時間のなかでさまざまな意味を帯同 し,膨れ上がっていく。そのとき,記号は個人の発見史を要約するものとな る。 このように『失われた時を求めて』を記号の意味を発見していく物語と捉え るならば,最終的な,絶対的な真実の存在は措定されていると同時に,そこへ 到達できるかどうかについては,必ずしも保証されていないことに気づくだろ う。最後に「真実」があるかどうかは分からない。だが,あるとすれば,それ は過去の甦りを現在において感じ取ることでしかないだろう。過去は事物のな かに閉じ込められている。マドレーヌのように,その事物が発する匂いや味を 通して,過去が立ち現れる。ただし,過去を秘めた「事物に私たちが死ぬ前に 出会えるか,それとも出会えないかは,偶然に係っている」(I, 44(3))。実際 には,多くの人が「真実が開示される前に」(IV, 456),死ぬことになるかも しれないのだ。それでも,真実を欲するなら,探究を続けるしかないのであ る。 真実の探究は,真実の存在を仮定することから始まる。つまり,真実がある に違いない,という認識から出発して,真実へ到達する未来を措定する。これ はあらゆる探究の定義そのものかもしれない。一方で経験の意味を認識するま での遅延があり,他方で認識を実現するまでにかかる時間がある。そして,こ の二つの遅れは,それぞれの原因となっている。経験の意味が後になって理解 できるという事態があるからこそ,我々は未来における最終的な認識への到達 ──────────── 盧 ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ[増補版]』,宇波彰訳,法政大学出版 局,1977 年,p. 199. Gilles Deuleuze, Proust et les signes, 8eédition, PUF,

1993, p. 119.

Roland Barthes, «Proust et les noms»(1967),Degré zéro de l’écriture suivi de Nouveaux essais critiques, Paris, Seuil, coll. «Points», 1972, p. 121−134.以下,『失われた時を求めて』からの引用は Marcel Proust, A la recherche du

temps perdu, édition sous la direction de Jean-Yves Tadié, 4 vol., Paris,

Gal-limard, «Bibliothèque de la Pléiade», 1987−1989 に拠る。巻数をローマ数字 で,頁数をアラビア数字で表す。下線は引用者による。

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に期待するし,そのような認識があるからこそ経験の意味を問い直そうとす る。 本論文は,「遅れ」に注目することで,プルーストの作品に内在する時間感 覚の一端を明らかにすることを目的とする。とくに,二つの遅れが,小説の構 造にいかに係わっているかを考察する。そして,その背後にある文学の希望に ついても考えてみたい。

1

経験に対する認識の遅れ

人生が発見の連続だとすれば,それは経験から認識に至るまでの遅延の連続 だということができる。『失われた時を求めて』は,こうした遅れに満ちてい る。たとえば,語り手は「翌日になってようやく」,「後から振り返って」,ア ルベルチーヌと過ごした時間の意味を理解する。

Seulement le lendemain, ce temps passé que j’aimais et détestais tour à tour en Albertine(comme, quand il est le présent, entre lui et nous, chacun, par intérêt, ou politesse ou pitié, travaille à tisser un rideau de mensonges que nous prenons pour la réalité)il arrivait que retro-spectivement une des heures qui le composaient et même de celles que j’avais cru connaître , me présentait tout d’un coup un aspect qu’on n’essayait pas de me voiler et qui était tout différent de celui sous lequel elle m’était apparue.(III, 890)

物事の意味に気づくのは「翌日」ばかりとは限らない(4)。それは「何年」

────────────

盻 あるいは「二日後」になることもある。«Tellement distrait dans le monde que je n’appris que le surlendemain, par les journaux, qu’un orchestre tchèque avait joué toute la soirée et que, de minute en minute, s’étaient succédé les feux de Bengale, je retrouvai quelque faculté d’attention à la pensée d’aller voir le célèbre jet d’eau d’Hubert Robert.»(III, 56)ここでは,経験そのも ! 153 『失われた時を求めて』における遅れについて

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も先になることもある。とりわけ幸福は,すぐには気づかないものである。

Si, au lieu du malheur, c’est le bonheur, il peut arriver que ce ne soit que plusieurs années après que nous nous rappelons que le plus grand événement de notre vie sentimentale s’est produit , sans que nous eussions le temps de lui accorder une longue attention, presque d’en prendre conscience, dans une réunion mondaine par exemple, et où nous ne nous étions rendus que dans l’attente de cet événement. (II, 226)

言葉による心の傷も,ちょうど毒が身体を廻るように,感じられるまでに時 間がかかる。

Le mal que m’avaient fait ses paroles concernant Albertine et Andrée était profond, mais les pires souffrances n’en furent pas senties par moi immédiatement, comme il arrive pour ces empoisonnements qui n’agissent qu’au bout d’un certain temps.(III, 193)

このように,プルーストは,幸福も不幸も,認識するまでに時間がかかるこ とを再三強調する。

写真と映画の比喩をめぐって

あるいは,認識には時間をかけなければならないのかもしれない。たとえば 次の写真の比喩は,遅れることの必要性を主張している。

Ce qu’on prend en présence de l’être aimé, n’est qu’un cliché négatif, on le développe plus tard, une fois chez soi, quand on a retrouvé à sa

────────────

! のではなく,経験しなかったということを遅れて認識している。 154 『失われた時を求めて』における遅れについて

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disposition cette chambre noire intérieure dont l’entrée est «condam-née» tant qu’on voit du monde.(II, 227)

ブラッサイによると,プルーストが写真に見出したのは,ポーズと瞬間性と 細部の拡大である(5)。確かに,プルーストは建築の部分拡大写真に魅せら れ,また写真が一瞬を定着させることに感動している。しかし,プルーストと 写真との関係を論じる際にあまり注目されることのない上記引用文では,作家 は現像と暗室のイメージに魅了されている。展開=現像を意味する développer という動詞が,ここではとても効果的に使われている。語り手は,社交の場か ら戻ってきて,ひとりきりになってから,その日の会話の意味をあれこれ分析 し,ネガを現像するように仮説を展開する。経験と認識の時差を見事に表す比 喩である。と同時に,これは芸術創造が必要とする時間の比喩でもある。 ところで,写真についてはこのように時差の意義を認め,芸術創造の一つの 型を認めていたのに対し,撮影と編集作業によって,経験と認識の時差や現実 の再構成をさらにラディカルに体現しているはずの映画については,プルース トは十分な理解を示したとは言えない。自ら書簡で告白しているように,プル ーストは,映画の上映に立ち会ったことはなく(6),映画を,現実を同時的に 写し取るだけの機械だと考えていた。『見出された時』には次のような有名な 一節がある。

Quelques-uns voulaient que le roman fût une sorte de défilé

cinéma-────────────

Brassaï, Marcel Proust sous l’empire de la photographie, Paris, Gallimard, 1997. Voir aussi Jean-Pierre Montier, «Un photographe lecteur de Proust : Brassaï», Proust et les images : peinture, photographie, cinéma, vidéo, sous la direction de Jean-Pierre Montier et Jean Cléder, Presses universitaires de Rennes, 2003, p. 139−183.

眇 Lettre à Jean de Pierrefeu, peu après le 15 janvier 1920. Correspondance de

Marcel Proust (以下 Corr . と略記),édité par Philip Kolb, Plon, t. XIX,

1991, p. 76 : «Je ne suis même jamais − ce que je regrette davantage car cela m’a toujours tenté − entré dans un cinéma. Je n’en ai jamais vu.»

155 『失われた時を求めて』における遅れについて

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tographique des choses . Cette conception était absurde . Rien ne s’éloigne plus de ce que nous avons perçu en réalité qu’une telle vue cinématographique.(IV, 461) プルーストの映画批判は,第一に,映画が個人の仕事ではないこと,すなわ ち個人のヴィジョンを映し出すものではないこと,第二に,即物的な記録が比 喩の力を欠いていることに向けられている,と指摘する研究者もいる(7)。だ が,「映画的行列」という言葉から察するに,プルーストは,映画において は,見たままの姿が記録される,つまり経験と認識が同時的に進行するもので ある,と理解していたようだ。遅れが感じられない,ということも,おそらく プルーストの映画批判の一因だったのではないだろうか。そしてまた,プルー ストの作品の映画化の難しさも,この遅れの感覚を映像化する難しさに通じて いるように思われる(8) デジャルダンの引用と芸術の意味 経験と認識の間の時差を示すものとして,「コンブレー」のルグランダンに よる引用は,とりわけ興味深い。夕暮れ時,散歩の途中で,まだ少年の主人公 に出会ったルグランダンは,ポール・デジャルダンの «Les bois sont déjà noirs, le ciel est encor bleu» という詩句の一節を二度も暗誦してみせる(I, 118, 119)。それより前にも,彼は少年に,「あなたの人生の上にいつも空を広 く保っておくよう努めなさい」(I, 67)と忠告している。それこそが「芸術家 にとって必要なもの」だからだ。1908 年 11 月の書簡で,プルーストはジョ ルジュ・ドゥ・ローリに対して,「あなたには,これから何年もの間,まだ光 があります。仕事をしてください(9)」と書き送っている。この言葉は,光の ────────────

眄 Peter Kravaja, Proust à l’écran, Paris, Lettre Volée, 2003.

眩 Voir l’article de Thanh-Vân Ton-That, «Du livre au film imaginaire : les scé-narios d’A la recherche du temps perdu», Bulletin Marcel Proust, Société des amis de Marcel Proust et des amis de Combray, n°47, 1997, p. 157−171. 眤 Corr., t. VIII, p. 286 : «Vous, vous avez la lumière, vous l’aurez de longues! 156 『失われた時を求めて』における遅れについて

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比喩と仕事の関係において,ルグランダンの忠告によく似ている。もちろん, 「光あるうちに光の中を歩め」という新約聖書とトルストイの影響を指摘する こともできるだろう。 しかし,ここで注目したいのは,この引用に見られる光と影が,時差の表現 でもあるということだ。黄昏どきは,英語で twilight,つまり二つの光と表現 するように,昼と夜という二つの時間に同時に属している。昼が終わって夜に なるということは,ルグランダンにとっては,青春が終わって壮年期に入る, ということである。本来,空の時間と森の時間は同時には存在しない。そこに は時差があるはずだ。にもかかわらず,なぜ二つの時間が同時に存在するのだ ろうか。それは,まさにそのような瞬間こそが芸術の特権的時間だからであ る。昼と夜を,空の光と森の闇を同時に見つめること,それは過ぎた時の光を 再び甦らせるということにほかならない。そう考えると,ルグランダンの「空 を保っておきなさい」という勧めは,年月を経てから認識できるように,経験 をしっかり保持しておきなさい,という忠告とも解釈できる。確かにそれこそ は芸術家,あるいは文学者にとって必要なものである。空の時間とは,終わっ てしまった時間,経験の時間,失われた時であり,これに対して,森の時間と は,真実に触れる時間,認識の時間,時を見出す時期である。ただし,森がな ければ,空の意味も理解できない。ダンテに倣って言えば,詩人(あるいは作 家)は人生半ばの暗い森を潜り抜けてこそ,明るい真実の光に再びたどり着く ことができるのである。 二度も引用されたデジャルダンの詩句は,『失われた時を求めて』全体が語 っていることに通じる。先に紹介した写真の現像をめぐる比喩についても指摘 したことだが,芸術は,その原動力となる体験から否応なく遅れて生み出され る。体験を表現するためには,まず体験を理解しなければならないからだ。し かし,体験は,さまざまな人生上の発見によって,その意味を新たにされてい く。 芸術は作り出すだけでなく,理解するのにも時間がかかる。「急いでいる時 ──────────── ! années, travaillez.» 157 『失われた時を求めて』における遅れについて

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代には,高速の芸術がぴったりだ(10)」と言う人に対して,語り手は疑問を呈

する。すぐれた芸術作品を一度で把握することはできないからだ。さまざまな 印象を一度に記憶することはできない。ミラン・クンデラがいみじくも要約し たように,「遅さの度合いはそのまま記憶の強度に比例する(11)」からである。

ヴァントゥイユのソナタをめぐる理解の過程は,まさにその好例である。

Seulement je n’avais encore jusqu’à ce jour rien entendu de cette Sonate, et là où Swann et sa femme voyaient une phrase distincte, celle-ci était aussi loin de ma perception claire qu’un nom qu’on cher-che à se rappeler et à la place duquel on ne trouve que du néant, un néant d’où une heure plus tard , sans qu’on y pense , s’élanceront d’elles-mêmes, en un seul bond, les syllabes d’abord vraiment sollic-itées. Et non seulement on ne retient pas tout de suite les œuvres vraiment rares, mais même au sein de chacune de ces œuvres-là, et cela m’arriva pour la Sonate de Vinteuil, ce sont les parties les moins précieuses qu’on perçoit d’abord.[. . .]Pour n’avoir pu aimer qu’en des temps successifs tout ce que m’apportait cette Sonate, je ne la possé-dai jamais tout entière : elle ressemblerait à la vie.(I, 520−521)

ヴァントゥイユのソナタを最初に聴いたとき,語り手は「どうでもいい箇 所」にまず最初に注意がいき,すぐには作品の独創性を理解することができな い。ソナタの重要なフレーズを区別できるようになるのは,まるで思い出そう としても思い出せない名前が「一時間後に」,ひとりでに思い出されるのに似

────────────

眞 «On disait qu’à une époque de hâte convenait un art rapide, absolument comme on aurait dit que la guerre future ne pouvait pas durer que plus de quinze jours.»(III, 210)

眥 Milan Kundera, La lenteur, Paris, Gallimard, «Folio», 1994, p. 52 : «Le degré de la lenteur est directement proportionnel à l’intensité de la mémoire ; le degré de la vitesse est directement proportionnel à l’intensité de l’oubli.» 158 『失われた時を求めて』における遅れについて

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ている。芸術作品の把握は,その遅れにおいて,人生に似ている,と語り手は 指摘する。 こうした遅延を,プルーストは自分の小説にわざと仕掛けた。1919 年 8 月 の手紙で,プルーストは「もし私が記憶の糸をたぐっているように見えるとし たら,それはわがヴェルデュランが何者でシャルリュスが何者か,すぐに知っ ている様子を見せないためです,人生においてそうであるように,彼らを少し ずつ発見していくように見せかけるためなのです(12)」と書いている。遅れこ そは,人生の条件であり,『失われた時を求めて』という小説の条件でもあっ たのである。

2

認識に対する経験の遅れ

以上に指摘してきたのは,経験に対する認識の遅れである。しかし,逆の場 合もまた,プルーストの作品には頻出する。すなわち,ある事態をすでに想定 していながら,経験が追いつかないというケースである。別の言い方をすれ ば,認識に対して経験が遅れるということだ。このような遅れは,まず待つこ とを通して感じられる。 待機と先延ばし 小説のごく最初の方で,主人公はママのおやすみのキスが欲しくて,フラン ソワーズに伝言を託す。しかし,フランソワーズは「5 分間ものあいだ」(I, 29)封筒を見つめて,なかなか持っていこうとしない。これは実際に 5 分間 の時間が過ぎたというよりも,そのように遅く感じられたということである。 このことを別の箇所では,次のように要約している。

C’est qu’en général, plus le temps qui nous sépare de ce que nous nous proposons est court, plus il nous semble long, parce que nous lui

────────────

眦 Lettre à Abel Hermant, le 24 août 1919. Corr., t. XVIII, p. 383.

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appliquons des mesures plus brèves ou simplement parce que nous songeons à le mesurer.(II, 677−678) 時間の長さは主観的なものである。ある事柄の実現までの時間が短いほど, 実現までの時間は長く感じられるという逆説を,主人公=語り手は,社交の場 で何度も経験する。たとえば,つまらないおしゃべりを止めたいと思っていて も,相手の気を損ねたくないばかりに,会話を続けてしまう。

J’aurais bien voulu ne pas répondre pour ne pas prolonger cet entre-tien, mais je sentis que je désobligerais le prince d’Agrigente, lequel avait fait semblant de savoir à merveille de qui était Salammbô et de me laisser par pure politesse le plaisir de le dire mais qui était dans un cruel embarras.(II, 780) あるいは,聞き出したい些細な情報があるのに,なかなかそれを得られない ために,サロンに居残ることもある。アルベルチーヌが帰宅する前に家に帰る ためには,「いつまでもこんなやりとりを引き延ばしている時間はない」と語 り手は苛立つ(13) 子供部屋からサロンまで,語り手は,他者によって待機を余儀なくされる。 しかし,遅れはいつも他者のせいで起きるわけではない。ときには,主人公 が,自らの意図に反して,引き延ばすこともある。小説の冒頭で,半覚醒の語 り手は,サン=ルー夫人宅での夕食の時刻を過ぎてしまったのではないかと心 配する。 ────────────

眛 «Malheureusement, je n’avais pas le temps de prolonger indéfiniment ces visites car je voulais, autant que possible, ne pas rentrer après mon amie.» (III, 547)Cf. «Je songeai que Swann devait se fatiguer à m’attendre. Je ne voulais pas, du reste, rentrer trop tard à cause d’Albertine[. . .]»( III , 100)

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. . . mon Dieu! il est au moins dix heures, on doit avoir fini de dîner! J’aurai trop prolongé la sieste que je fais tous les soirs en rentrant de ma promenade avec Mme de Saint-Loup, avant d’endosser mon habit. (I, 7) ここでは,認識に対する経験の遅れと,経験に対する認識の遅れが,ほぼ同 時的に現出している。夕食を逃してしまった,という経験の認識は,それまで に目覚めるべきだったという認識と対をなす。この二つの遅れは,一見同じこ とのようだが,構造的には別の種類の遅れである。いずれにせよ,小説の始ま りから遅れの意識が見出されることは興味深い。 また,病気やショックによる不可抗力的な遅延がある。たとえば,サン=ル ーの訃報を聞いた語り手は,しばらくパリ行きを延期する。

Mon départ de Paris se trouva retardé par une nouvelle qui, par le chagrin qu’elle me causa, me rendit pour quelque temps incapable de me mettre en route.(IV, 425) これも,パリに行くという意図(認識)に対して,行動(経験)が遅れる例 である。というよりも,遅れを意識するということは,到達すべき状態の予測 なしには生まれない,と言うべきだろう。 こうした,いわば本人の意図に反する遅ればかりではなく,語り手自身が事 態を遅らせる場合もある。たとえば,語り手は小説をなかなか書き出せずにい るが,「何年も待ったのだから,三日間遅れるくらい耐えられなければおかし い(14)」と言い訳する。もちろん,先延ばしは三日くらいでは済まず,何十年 ────────────

眷 «Si j’avais été moins décidé à me mettre définitivement au travail j’aurais peut-être fait un effort pour commencer tout de suite.[. . .]De la part de qui avait attendu des années il eût été puéril de ne pas supporter un retard de trois jours.»(I, 569)

161 『失われた時を求めて』における遅れについて

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にも及ぶことになる。それは人生の本質を自ら生きながら理解することができ ないからだ。作家になるイメージを抱きながらも,そこへ到達する方法が見つ からない。『失われた時を求めて』においては,人生を理解することの遅延 (経験に対する認識の遅れ)が,作家になることの遅延(認識に対する経験の 遅れ)を引き起こしているのである。 文学創造と並ぶ意図的な遅れの代表例は,アルベルチーヌとの別れの決意で ある。主人公は,おやすみを言う時刻を故意に「遅らせながら」(III, 860), 翌日家を出ていくというアルベルチーヌに,もう何週間か延ばさないか,と切 り出す。

«Ecoutez, Albertine, vous dites que vous êtes plus heureuse ici, que vous allez être malheureuse. − Bien sûr. − Cela me bouleverse ; voulez-vous que nous essayions de prolonger de quelques semaines? Qui sait? semaine par semaine, on peut peut-être arriver très loin , vous savez qu’il y a des provisoires qui peuvent finir par durer tou-jours.»(III, 861) 「とりあえず,がずっと続くことだってある」という言葉は,語り手の人生観 を要約している。先延ばしにしている間に何かが変わるかもしれないし,先延 ばしにすることで,何らかの変化が生まれるかもしれないと空想することがで きる。現実の認識に平行して,空想が進展するとき,その想像は現実を受け入 れるための訓練となる。それは行方不明者の生還を待ち続ける場合に似てい る。客観的な希望の根拠がなくても,待つこと自体が希望を紡いでいくのだ。

Pour les femmes qui ne nous aiment pas, comme pour les «disparus», savoir qu’on n’a plus rien à espérer n’empêche pas de continuer à at-tendre.[. . .]Et cette attente, selon la force du souvenir et la résis-tance des organes, ou bien leur permet de traverser les années au

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bout desquelles elles supporteront que leur fils ne soit plus, d’oublier peu à peu et de survivre − ou bien les fait mourir.(I, 581)

先延ばしにする間に,現実の時間と空想上の仮定的な時間が交錯する。これ こそが『失われた時を求めて』の最も特徴的な時間であることを,私はかつて 『消え去ったアルベルチーヌ』に出てくる手紙や電報のやりとりを分析しなが ら,指摘したことがある(15)。語り手は,決して自ら事態の決着をつけようと しない。彼はただ事態の推移を待ち,分析し,推測する。現実を形成していく のは,いつも他者の振る舞いであり,彼は最終的な結論を後回しにして,それ を追いかけ続けるしかない。このように受け身の姿勢と待つこととは,切り離 せない関係にある。 遅れを気にしない人たち ところで,『失われた時を求めて』では,誰もが遅れを気にするわけではな い。たとえば,アルベルチーヌの来宅を待つ語り手は「アルベルチーヌ嬢はな ぜこんなに来るのが遅いんだろう?(16)」と言う。これに対してフランソワー ズは,「来ないより遅れる方がいいでしょ(17)」と皮肉で答える。彼女は髪を整 えるのに手間を取って,迎えにやらされたフランソワーズをもいらだたせ る(18)。アルベルチーヌには,遅れの意識は稀薄なのだ。彼女の行動に遅れを 感じ取るのは,いつでも語り手の方である。 ゲルマント夫人はどうだろうか。病気のスワンが暇乞いに訪れても,彼女は 立ち止まろうとしない。「また今度」があることを信じて疑わず,出発を急ご うとする。一方,瀕死のスワンにとって,もう次回はない。だが,友人の死よ ──────────── 眸 拙論「『消え去ったアルベルチーヌ』における手紙の三つの時間性」,『フランス 語フランス文学研究』第 83 号,白水社,2003 年,p. 46−55 を参照。

睇 «Comment mademoiselle Albertine vient-elle aussi tard?»(III, 132) 睚 «Mieux vaut tard que jamais!»(III, 133)

睨 «Si elle n’est pas restée une heure d’horloge à se pommader, elle n’est pas restée cinq minutes. Ça va être une vraie parfumerie ici.»(III, 183)

163 『失われた時を求めて』における遅れについて

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りもパーティーに遅れないという社交上の礼儀の方が大切であることを,スワ ン自身も理解している(19)。夫のゲルマント公爵は,追い打ちをかけるよう に,「オリアーヌがいつも遅れる」ので,あと 5 分で次のパーティー会場へ着 かなければならない,と釈明する。しかし,いざ夫人が「もう遅れてるんだか ら(20)」と,色の合わない靴を履き替える時間を惜しむと,公爵は「8 時半に なっても連中は待ってるさ」と今度は平然と遅れを是認し,夫人に靴を履き替 えさせる。この挿話は,彼らが,待つことにまつわる焦りや,消極的な先延ば しとはおよそ無縁であることを示している。 あるいは,彼らは焦燥をもつような主体として登場することがない,と言う べきかもしれない。遅れは,誰よりも語り手が感じている。これは,『失われ た時を求めて』の時間構造にも係わることだが,経験と認識をめぐる時差は, すべて語り手の視点からのみ把握されるのである。第一に,過去の経験の意味 を認識するまでにかかる時間は,語り手の記憶のなかでしか感得され得ない。 第二に,あるべき事態の認識に経験が遅れるということも,語り手の意識のな かでしか理解し得ない。したがって,他の登場人物が,経験と認識をめぐる遅 れに翻弄されるようなことは,原理的にあり得ないのである。

3

遅れと未来への希望

死を前にして 『失われた時を求めて』は,真実を発見するのに手間取り,小説執筆も先延 ばしにしてしまう主人公の物語である。しかし,人は永遠に人生を先延ばしに するわけにはいかない。死が待っているからだ。 死によって作品が未完になってしまうことを,語り手は予見していた。「偉 大な書物には,素描するだけの時間しかなかった箇所や,建築家の設計の規模 ────────────

睫 «Mais surtout je ne veux pas que vous vous retardiez, vous dînez en ville» [. . .](II, 883)

睛 «Oriane est toujours en retard[. . .]» ; «puisque nous sommes en retard . . .» (II, 883)

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の大きさそのもののせいで終わることのできない箇所がある。どれだけの数の 大聖堂が未完に終わったことか!」(IV, 610)これはプルースト自身の告白だ ろうか。確かに彼は,家政婦のセレスト・アルバレに,ある日「今日,完とい う文字を書き入れた。これでいつでも死ねる(21)」と,告げたという。作品を 完成させる意志はあっただろう。しかし,『失われた時を求めて』は,遅れる ことを義務づけられた作品,未完でなければならない作品だった。それはごく 単純に,プルーストの場合,作品は人生についての発見の成果を報告するもの であるのに,人生は作品より先に終わるからだ。「プルーストのような遅れた 創造者は,作品を長きにわたって豊かに肉付けしていくことができる(22)」と リュック・フレッスが指摘するとおり,遅れはこの小説の膨張において,決定 的な役割を果たしている。 だが,死がいつ訪れるかは,誰にも判らない。1907 年,36 歳のときに書い た手紙で,プルーストは「ラ・フォンテーヌは 40 歳で書き始めた,ハルスの 傑作は 80 歳以降のものだ,コローも 60 歳を過ぎてから最良の作品を描い た(23)」と言い,真実は逃げないのだから仕事に時間をかけても構わない,と 述べている。これはジャン=イヴ・タディエも指摘するように,『見出された 時』で語り手がたどり着いた結論に似ている(24)。語り手は,過去の体験を理 解し書くことのできる未来の時間があるかどうか自問する(«N’était-il pas trop tard?», IV, 621)。一方,プルーストは『失われた時を求めて』を書き上 げつつあった。ここに語り手と作者の違いがあるわけだが,先の書簡における プルーストの楽観ぶりは,あたかも彼には作品を書き続けることができる,と 考えていたかのようである。どんな作家にも言えることだが,自分には作品を 書き上げる時間があるのだという確信なしには,誰も長編小説を書くことはで きない。プルーストは,病身にもかかわらず,生きているかぎり,作品として ────────────

睥 Céleste Albaret, Monsieur Proust, Paris, Plon, 1973, p. 402. 睿 Luc Fraisse, L’Esthétique de Marcel Proust, SEDES, 1992, p. 64. 睾 Corr., t. VII, p. 58−60.

睹 Jean-Yves Tadié, Marcel Proust : Biographie, t. II, Paris, Gallimard, «Folio», 1996, p. 17.

165 『失われた時を求めて』における遅れについて

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自分の過去を回収し続けることができると思っていたように見える。過去を未 来において回収する。その運動が『失われた時を求めて』のテクストを編み上 げていったことは,膨大な草稿が証明するとおりである。 遅れと資本主義 未来における過去の回収ということを,プルーストは文学創造以外の面でも 実感していたはずだ。作家の主収入が株式投資だったことはよく知られてい る。その株式投機は,決して真剣に儲けを狙ったものではなかった(25)が,昨 日高かった株価が今日には下落する,ということは日常的に経験した。たとえ ば 1915 年の投機では,持ち株を担保に他の株を買い,支払いを延期するほど 負債が増大するという失敗を,身をもって経験している(26)。経済が彼にあら ためて教えたのは,時間のなかで物の価値が変わるということと,未来を先取 りする必要性だった(27) ここで株の話を持ち出すのは,いくぶん唐突に思われるかもしれない。だ が,資本主義が本質的に「遅れ」を含んでいることを思い返せば,この連想は 決して強引なものではない。投資とは,未来の利益を期待することだが,それ 以上に,到達点をもたないのが資本主義の特徴である。投資の回収は,そのま ま次の投資の始まりである。常に先へ先へと最終利益を先延ばしにするのが, 資本主義的態度である。これは果てしない推敲で知られる『失われた時を求め て』の生成過程にも通じるところがある。社会学者の大澤真幸は,この先延ば しの反復が可能になるためには,二つの視点が組み合わされなければならな い,と指摘している。それは,投資前の「事前の視点」と,投資回収後の「事 後の視点」である。 ──────────── 瞎 Ibid., p. 78. 瞋 Ibid., p. 257−259. 瞑 湯沢英彦は,プルーストの戦時中の株取引を論じて,株式仲買人オゼールとの遣 り取りから,いかに作家が国際情勢と株価の変動を予測しようとしたかを確認し ている。『プルースト的冒険』,水声社,2003 年,p. 90−95. 166 『失われた時を求めて』における遅れについて

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二つの視点とは,「終わり」を規準にして,そこに追い着いていない視点 (事前の視点)と,それを通り越してしまった視点(事後の視点)であ る。投資がなされるとき,人は,むろん,事前の,未だに追い着いていな い地点に立っている。が,同時に,「今ここ」での充足(貨幣を使用して しまうこと)に対する禁欲が維持され,さらなる投資の決断へと人を促す ためには,貨幣が増殖して還流してくることへの予期が,あるいは(単な る予想を越えて)そうした還流が──現在(今ここ)の現実に拮抗しうる ──現実であるかのような想定が,どうしても必要になる。つまり,投資 するときには,投資が回収されてしまった後の視点が,つまり未来完了的 な「既に追い越してしまった視点」が,同時に,前提されているのであ る。投資が反復されるためには,未来の「追い越してしまった視点」が, 実際に「終わり」(投資の回収)に到達する度に,今度は,新たな「追い 着かない視点」へと転換しなくてはならない。資本主義は,言ってみれ ば,「最後の審判の後の視点」を含みこんだときに,成立したのだ(28) これを『失われた時を求めて』に即して考えるならば,語り手にとって「終 り」とは,真実への到達であり,作品の完成を意味する。「事前の視点」と は,作家というかくあるべき自分がイメージできているのにもかかわらず,そ の実現に手間取るということだ。これは認識に対する経験の遅れにあたる。こ れに対して,「事後の視点」とは,時間をかければいつか現実は把握できる, という経験に対する認識の遅れに対応する。こう考えると,遅れとは,じつは 未来との関係から規定される二つの異なる時間感覚だということが分かるはず だ。作品は「最後の審判」として,最終的な発見の「決算」として成立するだ ろう。 別の言い方をすれば,経験に対する認識の遅れは,過去の解釈に係わる時差 であり,認識に対する経験の遅れは,より真実に近づける未来までの時差であ ──────────── 瞠 大澤真幸「サッカーと資本主義」,『性愛と資本主義』増補新版,青土社,2004 年,p. 265−266. 167 『失われた時を求めて』における遅れについて

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る。ただ,いずれの場合も,それを遅れとして意識するためには,現在が充足 していないことが前提となる。 資本主義化社会における「遅れの思考」を,フィジーの近代化を例に論じた 春日直樹は,経験に対する認識の遅れとは批評であり,非日常的,内省的な契 機となるのに対し,認識に対する経験の遅れは「問題を未来において解決す る」という発想のなかで先へ進もうとする日常的な良識の範疇に属する,と指 摘している(29)。これをプルーストの場合で考えるならば,まさに批評と日常 (小説をかたちづくる人生の物語)の総合という『失われた時を求めて』の構 想そのものに,遅れの意識が係わっている,と言えるかもしれない。

以上の考察から,遅れとは,単なる過去と現在との時差ではなく,未来から 規定される時間感覚であることが明らかになってきた。フランク・カーモード の『終りの意識』の枠組みを借りるなら,遅れはクロノスではなくカイロスに 関係している。 クロノスは「過ぎゆく時間」あるいは「待ち受けている時間」──ヨハネ 黙示録によれば「もはやなくなるであろう」時間──であり,カイロス は,季節的時間,すなわち終りとの関係から生じる意味を充頡された,意 味に満ちた一時点である(30) プルーストは時間をただの連続体として捉えるクロノス的時間観を拒み,度 重なる発見により意味を規定されたものとしてのカイロス的時間を解釈しよう とした。終りとは,『失われた時を求めて』においては,語り手の死まで常に 先延ばしされ続けた作品の完成であり,それは同時に,究極の真実が開示され ──────────── 瞞 春日直樹『〈遅れ〉の思考』,東京大学出版会,2007 年,p. 23 et seq. 瞰 フランク・カーモード『終りの意識』,岡本靖正訳,国文社,1991 年,p. 62. 168 『失われた時を求めて』における遅れについて

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得る瞬間でもある。語り手は,人生の最後にあって生涯を回想しているのでは なく,あくまで生き続ける時間のなかで,遅れを感じていた。遅れの意識と は,まだ生き続けられるという希望の裏返しでもある。たとえ森のなかに迷い 込んだとしても,いつか明るい空を見出すことができる。時間をかければ,経 験の意味を認識することができる,あるいはイメージに経験が追いつくことが できる。それこそは真実への希望,つまりは文学の希望であり,語り手の生き る意味でもある。『失われた時を求めて』における遅れは,失われた時を再び 見出すことができる未来への希望と密接につながっているのである。 ──大学院文学研究科研究員── 169 『失われた時を求めて』における遅れについて

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