職場内での労働衛生対策は歴史的には進展しており今までに中毒を中心として多くの重
大問題が解決されてきた.オフセット印刷工の胆管がんなど隠れていた問題が間欠的に出
現することはあっても中毒事例件数はこれ以上下げることが容易ではない低値安定状態へ
近づいている.しかしその一方で注目を集めているのがメンタルヘルス,過重労働,腰痛・
熱中症の問題であり,メンタルヘルスに関しては近年幅広い視点から様々な研究が行われ
ているにも係わらず中々効果的な対策が見つからない現状である.一方現在の企業環境を
見ると,急激に変動する世界の経済状況の中で如何に効率的に企業活動を遂行するかが企
業にとって生き残りをかけた最も重要な課題となっている.すなわち,効率的に企業経営
を行い業績向上による株価の上昇により,企業の資産価値を高めることが企業にとって至
上命令となっている.そのために企業の社会貢献の意識が欧米程には育っていない環境に
あっては生産性に直接影響しない投資は最小限に抑える傾向にならざるを得ない.
話をもう少し進めると,近年の労働衛生問題は慢性影響が主となっており,急性疾患が
問題となることは極めて希である.すなわち,因果関係が目に見える形で出現しにくく
なっているため事業者自らが投資する意欲が低下するとともに,避ける傾向ともなる.近
年の非正規雇用職員の増加はこの傾向を助長することになる.行政はこのような困難な状
況の中で,欧米で開発されてきたリスクアセスメント手法の導入により事業者側の主体的
取り組みを促進することにより突破口を開こうとしている.一方のメンタルヘルスに関し
ては,問題となる頻度が高くまた因果関係は別として目に見える問題として顕在化し,明
らかに生産効率を阻害する上に扱いも難しいので企業にとっても非常に大きな問題となっ
ている.そしてこれに対する効果的予防法はいまだ確立されていないが,リスク要因とし
て重要なのが個人的要因ばかりではなく職場環境であり,中でも過重労働,パワーハラス
メントを含む人間関係であることは多くの研究により指摘されている.昔のよき時代の効
果的な風習として回想されている父性的人事管理をすることは,本当に効果的に管理でき
ていたかどうかの議論は別として,従業員育成の余裕が無くなっている現在の企業に求め
ることは非常に困難になっている.このように労働衛生の問題を職場内だけの対応で目に
見える形で効果を出すことは非常に難しくなっているのが現状ではないだろうか.
今までの労働衛生は主として職場の中に視点をおいていたが,それだけでも成果を挙げ
ていた.しかしながら近年においては,更なる推進には職場の外からも眺めて対応を考え
てみる必要があるのではないか.今回はこのような問題意識で特集を計画した.そして以
下
4 つの視点から論文執筆をお願いした.一つは,遺伝子情報を労働衛生対策に活用す
べきだとする潜在的な要望が,労働者の健康を守るという大義名分を突破口として現実化
することにより職業の自由が脅威にさらされるという可能性に関する問題を,個人遺伝子
情報活用の国際動向の視点から東京大学の武藤香織教授に論じて頂く.二つ目は,熾烈な
企業活動により労働衛生に関する費用を抑制しようとする動きを牽制するためにはどうす
特集にあたって
特集にあたって
小 川 康 恭
独立行政法人労働安全衛生総合研究所 理事
特集 社会の動向と労働衛生
特集 社会の動向と労働衛生
「労働安全衛生研究」, Vol. 7, No.1, p.1, (2014)ればよいのか企業会計の観点から公認会計士として企業監査を前線で担っておられる永井
道人先生に考察して頂く.三つ目は,近年職場でもクローズアップされている「新型うつ
病」の問題を,臨床経験が豊富で精神疾患の原因論に関しても日本で指導的立場におられ
る聖隷浜松病院精神科部長の生田孝先生に臨床現場からの視点で論じて頂く.そして最後
に,労働時間外の生活時間の視点で,労働安全衛生総合研究所上席研究員の高橋正也先生
に余暇の過ごし方と労働安全衛生に関して論じて頂く.今回取り上げた視点は限られてい
るが,特集責任者としてはこれが基となり議論が盛り上がることを期待する.
本特集論文著者の方々には大変お忙しいなか論文執筆をお引き受け頂きました.ここに
本特集責任者として御礼申し上げます.なお,残念ながら武藤先生の原稿は本号印刷には
間に合いませんでしたが,原稿が完成次第次号以降に掲載する予定です.
「労働安全衛生研究」, Vol.7, No.1, pp. 3-12, (2014) 特集総説
企業会計と労働者の健康について
-労働安全衛生に係る企業情報の開示状況-
†永 井 道 人
*1, *2 我が国では,金融商品取引法の法定開示制度のもと,上場公開企業は毎期決算日後3 か月以内に投資家の投 資判断材料に資する有価証券報告書を作成し開示する.有価証券報告書上絶対的記載事項の対象でない「労働安 全衛生」に言及している日本の企業・事業者数は,上場公開企業3,000 社超のうち 100 社超程度で,その割合は 約3%に過ぎない.その開示内容を見ると,非財務情報とはいえ企業間比較に資する情報を極力開示したくない理 由もあり,労働安全衛生分野の内容は乏しく,開示姿勢も消極的である.一方,労働分野における企業の社会的 責任(CSR)の風土・文化・価値観が既に醸成されている米国及び欧州では,それを配慮する機関投資家の存在 もあり,事情は一変する.日本企業の労働安全衛生に係る情報開示は,過去の雇用形態及び労働慣習に従い,ま た労働分野でのCSR の議論も起こることなく,これまで我が国にてクローズアップされて来なかった.今後金融 資本市場の国際化と会計基準の国際的な収斂(企業の国際会計基準の導入)に伴い,労働安全衛生に関する事業 者の取組みは,財務情報もしくは非財務情報の形で否応なく実態に応じた適切な開示が求められ,企業・事業者 の「より労働者保護」の記述観が必要となる.本論文では,日本企業の意外な盲点であり,看過されてきた労働 安全衛生分野の開示状況を,欧州企業と比較しながら現状とその背景に触れ,関連する諸課題の紐を解きながら, 最後に将来に向け考え得る方策を論じる. キーワード: 企業会計,情報開示,労働協約システム,CSR 報告,会計基準の国際的な収斂,社会的責任投資 1 はじめに 我が国の労働安全衛生法は,平成 11 年改正以来いわ ゆるマネジメントの基本要素である PDCA サイクルの 思想が取り入れられている.同法の適用をうける対象者 は,事業者,製造・加工・販売に携わる労働者のほか, 設計開発者・技術者など様々な利害関係者が含まれ,職 場及び事業場において労働災害を防止する総合的且つ計 画的な対策を事前的に確保することが求められている. 一方で,企業会計は,事業運営を委託された者(経営 者,事業主)が,資金拠出者(スポンサーやステークホ ルダー)に対し過去一年間の財政状態及び経営成績を明 らかにし,決算報告を行い,資金拠出者の承認をもって 事業活動の説明責任が解除される(アカウンタビリティ). 現状,財務数値を中心とする企業会計の目的からして, 労働者が享受すべき職場及び事業場における安全衛生は, 企業会計上積極的な開示対象とならず,上場公開企業が 作成する有価証券報告書においても労働者保護の観点で 言及されることはない. しかしながら,欧米先進諸国に目を向ければ,企業の 社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility) という観点から企業活動を評価する時代となって久しい が,同じ時代に日本はデフレ経済時代のなかにあり,少々 異なる事情が続いている. 本稿では,日本の企業と欧州,特にフランスの企業を 比較し,「労働安全衛生」に係る開示状況が異なる現状に ついてその背景を検討した. 以下,本誌における記事内容はあくまでも私見であり, 会計に関わる各種運営組織・団体を代表する公式意見で はないことを予めご理解いただきたい. 2 先進諸国間における社会費用の比較 2010 年における我が国の労働安全衛生に係る費用を 含めた社会費用は,OECD(Organisation for Economic Co-operation and Development)基準にもとづく社会支 出 の 国 際 比 較 に よ れ ば , 先 進 国 の 対 GDP ( Gross Domestic Product)比ベースで,フランス,スウェーデ ン,ドイツ,イギリスの後に続き,米国の水準を上回っ ている状況にある(図1). 図1 対 GDP 比先進国の政策分野別社会支出の推移1) † 原稿受付 2014 年 02 月 20 日 † 原稿受理 2014 年 02 月 20 日 *1 (独)労働安全衛生総合研究所 連絡先:〒204-0024 東京都清瀬市梅園 1-4-6 *2 永井公認会計士事務所 連絡先:〒104-0045 東京都中央区築地 4-4-15 E-mail: [email protected]ちなみに,OECD 基準において,欧州のなかでもフラ ンスの国民一人当たりの税及び社会支出の負担率が高い ことは有名である. OECD 基準で算出した社会支出には多様な政策分野 が含まれている.具体的には,日本における労働安全衛 生に係る社会支出である労働安全衛生対策費,社会復帰 促進等事業費,独立行政法人労働安全衛生総合研究所運 営費及び施設整備費等が含まれている. 国立社会保障・人口問題研究所のホームページ(HP) で提供されている日欧米先進諸国間の「政策分野別社会 支出の対国内総生産比の国際比較(2009 年度)」は,下 記図2 のとおりである. (単位:%) 図2 社会保障費用統計(平成 22 年度)HP 資料から2) 3 労働安全衛生と企業会計 1) 会計的視点からの労働安全衛生に係る受益と負担 我が国において,労働者が享受する労働安全衛生等の 社会費用(労働災害補償給付金も含む)及び継続的・持 続的な労働環境の改善運動は,国,企業,労働者が各々 主体となり相互補完的に経済活動として機能しているこ とにある(図3).税金,保険料,組合費が法令等や規則 で定められた税率,料率等の一定の負担割合にもとづき 各会計へ収納され,諸活動のための原資を構成し,直接 的・間接的に労働政策,行政サービス,福利厚生,組合 活動等を通じて労働者に還元されている. 図3 労働者を取り巻く様々な会計制度(例) 2) 企業会計における労働安全衛生に係る開示について 日本における上場公開企業は,金融庁が定める開示基 準「企業内容等開示ガイドライン等」に基づき,企業の 財政状態及び経営成績等に関する情報をまとめた有価証 券報告書を,毎期決算日後3 か月以内に作成し開示する. 具体的な情報は,EDINET(Electronic Disclosure for Investors' NETwork:金融商品取引法に基づく有価証券 報告書等の開示書類に関する電子開示システム)で確認 できる. 欧米先進諸国において,各国の市場関係機関や金融行 政機関が開示ルールを定めており,企業の決算内容は適 時に公開されている.その開示される情報は財務数値を 中心に,事業の概況等の非財務情報を含めたナラティ ブ・ベースの説明情報が含まれている. 我が国の開示基準では,労働安全衛生に係る情報開示 に関する具体的な規制や開示ルールはなく,有価証券報 告書上の絶対的記載事項の対象でもない. 欧州の場合,日本と異なる開示基準が存在することは 勿論のことであるが,欧州企業のCSR(企業の社会的責 任)意識は高く,積極的な情報開示が行われている. 積極開示を促す社会的要因には,後述するように様々 あるが,ステークホルダー(利害関係者)の存在が大き い.なかでも,企業業績の推移と趨勢を確認チェックす るとともに,環境保護,エネルギー対策,健康,労働安 全衛生などCSR の諸点から,法令を遵守し社会に貢献 する企業を投資先に選択し資金運用する,保険会社,証 券会社,機関投資家等の存在である(社会的責任投資). また,社会的責任投資のなかでも,欧州諸国の機関投 資家の一つでもある公的年金制度,各国の社会保障財源 等の財源,並びに老齢年金の保険料収入・余剰金の一部 等のいわゆる公的機関投資家が,長期的に株式を保有し, CSR 活動状況をモニタリングし資金運用を行う活動を, 「持続的責任投資(SRI:Sustainable and Responsible Investment)」あるいは「年金 SRI」と称し,社会的責 任投資と区別して説明されることがある3). 本稿では,CSR の観点から,持続的責任投資や年金 SRI を広義の「社会的責任投資」であると捉え,以下取 り扱うこととする. 3) 日本企業の労働安全衛生に係る情報開示 我が国の上場公開企業のうち,平成24 年 4 月 1 日開 始事業年度で平成25 年 12 月末現在 EDINET 上に公開 されている100 社の有価証券報告書について,労働安全 衛生に係る開示状況(非財務情報)を調査した結果が下 記表1 である.なお,上場公開企業 3,000 社超のうち労 働安全衛生に言及している企業・事業者は 100 社超程度 である. 労働安全衛生に係る最も多い開示情報は,「事業等のリ スク」の項においてである.労働安全衛生法に遵守しな がらも,法規制等が業績に与えるビジネスリスクの一つ として開示している企業数は46 社であった. 企業会計 国・特別会計 労働組合会計 労働 者 ・組合活動による労働条件の改善 ・組合費 ・労働保険料 (労働者負担分) ・所得税 ・雇用契約に基づく労働力の提供 ・労働保険料 (事業者負担分) ・法人税 ・給料の支払、福利厚生 ・労働安全衛生改善対策 ・災害調査活動 ・基礎研究・プロジェクト研究の 成果を行政サービスとして還元 ・労働災害補償給付 高齢 遺族 障害、 業務、 災害、 傷病 保険 家族 積極 的労 働 市場 政策 失業 住宅 他の 政策 分野 合計 日本 10.99 1.45 1.15 7.19 0.96 0.43 0.39 0.16 0.25 22.97 米国 6.08 0.77 1.70 8.47 0.70 0.15 0.88 - 0.74 19.47 英国 7.34 0.10 3.03 8.08 3.83 0.33 0.65 1.45 0.22 25.03 独国 9.12 2.16 3.46 8.65 2.11 1.01 1.68 0.65 0.18 29.00 仏国 12.33 1.94 2.12 8.97 3.20 0.99 1.53 0.85 0.44 32.35 スウェー デン 10.24 0.55 5.42 7.33 3.76 1.13 0.73 0.48 0.71 30.86
Vol. 7, No.1, pp. 3-12, (2014) 5 表1 労働安全衛生に係る有価証券報告書の開示状況 有価証券報告書の記載事項(一部) 会社数 第一部 企業情報 第1 【企業の概況】 (略) 2.沿革 ・OHSAS18001:労働安全衛生マネジメント システム認証取得 9 ・労働安全衛生委員会の設置 1 ・職務行為規定:労働安全衛生法への遵守 1 3.事業の内容 2 (略) 第2 【事業の状況】 1.業績等の概要 ・企業の社会的責任を果たす経営の実践 2 (略) 3.対処すべき課題 (企業文化等の確立,内部統制の構築) 8 4.事業等のリスク (法規制等に係る業績等へのリスク) 46 (略) 6. 研究開発活動 2 7.財政状態,経営成績及びキャッシュ・フ ローの状況の分析 1 (略) 第 4 【提出会社の状況】 【コーポレート・ガバナンスの状況】 OHSAS18001(労働安全衛生マネジメントシ ステムの構築) 32 (略) 第 5 【経理の状況】 (略) 連結財務諸表・財務諸表の注記(資産除去債 務関連:アスベスト関連) 5 (略) (※)会社の判断で複数の記載事項について開示し ている会社もある 続いて,日本企業の場合の「法規制等に係るリスク」 が業績に与える影響について,具体的な開示の典型例と して,グローバル企業ではないM 社の例を図 4 に示す. 現状,M 社も含め多くの日本企業の開示内容に関する 共通点は,企業業績へのネガティブリスクであると捉え 記載する程度にとどまっていることである. 医療機器の開発・製造・販売を行うM 社 平成25 年 6 月期決算 (一部抜粋) 第一部 企業情報 (略) 第2 事業の状況 (略) 4【事業等のリスク】 (略) ⑤ 労働災害のリスク 安全を最優先して工事施工を行っておりますが,予期しない 重大な労働災害が発生した場合には,業績に影響を及ぼす可 能性があります. (略) ⑧ 法的規制によるリスク 当社事業は,建設業法,建築基準法,宅地建物取引業法,労 働安全衛生法等による法的規制を受けておりますが,これら の法律の改廃,法的規制の新設,適用基準の変更等がなされ た場合には,業績に影響を及ぼす可能性があります. (略) 図4 日本企業 M 社の開示例 4) フランス企業の労働安全衛生に係る情報開示 フランス電力会社(EDF:Électricité de France)は フランスで最大規模の雇用企業であり,政府が EDF の 資本の84.4%(2012 年 12 月 31 日現在)を所有してい る公営企業である. 同社は,日本の資本市場でも資金調達を行っており, EDINET にて日本語ベースで和訳開示している企業の 一つである.国際財務報告基準(IFRS: International Financial Reporting Standards)に準拠して決算書を作 成しているものの,日本の「企業内容開示ガイドライン 等」に準拠した有価証券報告書も作成公表している. フランス電力会社が行う情報開示は,M 社同様に同じ 日本の開示基準に準拠しているとはいえ,その質量とも に日本企業の開示内容をはるかに圧倒している.図5 に 示すとおり安全衛生政策,労働生活の質に関して方針及 び活動状況が詳細に記載されている. フランス電力会社 平成24 年 12 月期決算(一部抜粋) 5【従業員の状況】 (3) 安全衛生-職場生活の質-業務委託 ① 安全衛生政策 EDFグループは,リスクを伴う高度技術・高リスク分野にお いてその業務を行っている.したがって,その従業員および外 部の役務提供事業者の安全衛生は,当社の重要な責務である. EDFの安全衛生政策は,2009年3月に会長により調印されて おり,職業環境の発展,新たな職種およびさらなるキャリアの 長期化を考慮したものとなっている.これらの項目は,当該方 針の再配向を必要とする新たな懸念を生み出している.この新 たな政策は,様々な部署(経営陣,専門家,医師および従業員 代表者)による多くの専門分野にわたる広範な対話の成果であ る.かかる政策は,個人を尊重するという当グループの核心的
な価値観を反映するものであり,2008年にグループ・レベルで 策定された共通の安全衛生原則を拡大したものである. 2008年以降,当グループのグループ会社のすべてにより,6 つの共通の安全衛生指標が共有されている.その結果は,当グ ループの委員会による報告書の対象となっている. EDFの執行委員会は,当グループ全体の安全衛生状態の年次 評価を行う.また,EDFの業務部門により構成されている人事 管理委員会は,安全衛生政策を確実に導入し,関連する結果指 標を分析し,また規定の効率性の確認および改善の提案を行う ために,EDFの労働安全衛生政策の年次評価を行う. 社会的対話および職場の衛生 2010年11月に,職場における安全衛生に係る社会的な対話に 関する協約が締結された.この協約に従い,労働安全衛生グル ープ(2011年に設立され,2012年に4度開催された.)に参加 する8名の医師がその同僚により指名された. この多岐の専門分野にわたるグループは,4つのワーキング・ グループを設置し,それらは職業的医学の改善ならびにそれが 職場応急手当て組織,役務提供事業者の衛生,常習行為および 健康とより長きにわたる職業人生との関係性に与える影響に関 する調査に取り組んでいる.これらのグループによる活動は, 事業部門への提言へとつながる. さらに,協約に従い,2012年2月および12月に安全衛生およ び職場環境委員会のすべての委員による会議が開催された.こ の会議によって,委員会運営についての議論が促進され,訓練 の要件が指摘され,また法的問題および2012年の心理社会的リ スクなどの話題的主題の双方が議論された.設立期以降,会議 は今後毎年開催される予定である. グループ会社においては,職場の安全衛生に関する社会的対 話は,各国固有の法律によって,網羅される. この分野において,フランス法は専門的代表組織である安全 衛生および職場環境委員会に重きをおいており,委員会の仕事 内容には監視,情報分析および行動の提案が含まれる.当グル ープの異なるフランス国内の部門および会社は,職業リスク評 価文書および産業医の年次報告等の公開のためにこの組織を利 用している.もっとも,この分野における社会的対話はその他 の組織を通じても行われている. (略) 労働災害 10年間にわたる労働災害の防止および訓練に関する取組みによ り,EDFおよび当グループのグループ会社においては,休職につ ながる労働災害件数を大幅に減少することが可能となっている.当 グループの2011年の事故発生率(百万時間の労働時間に対して, 当期中における1日超の休職につながる労働災害件数)は3.9件, 2010年および2009年は4.5件であり,改善をみせている.2012年の 事故発生率は3.8件であり,この改善が確認された. EDFの2012年の事故の重要性の比率(1千時間の労働時間に 対する当期中における事故関連の休日数(前年までの事故によ る休日も含む.))は0.15件(2011年は0.14件および2010年は 0.16件)であった. 2010年および2011年の高所からの転落を含む,当グループ全 体での死亡事故数の増加に伴い,EDFは2011年には重大事故の 原因をグループ内で共有する政策を導入した.これによりこの 分野での前進が見込まれており,特に転落リスク,感電リスク および交通事故リスク等の「主要事業」リスクの管理について 効果が期待されている.2012年2月1日の議長の決議に従い,す べての死亡事故について即時の報告および徹底した分析が義務 付けられた. (略) 2011年 2010年 2009年 今年度中に社会保障部に 届け出された職業病件数 (EDF) 11 12 12 この社会保障統計の数値は,3年の下落の後固定したと認識さ れている. 主な疾患は,シリカ(塵肺症),アスベスト(胸膜炎,胸膜 はん),アスベスト(原発性肺癌),騒音(難聴),動作およ び姿勢(肩の疾患),動作および姿勢(腱炎,手根管)および 電離放射線による疾患を原因とするものだった.職業病の影響 を受けた従業員数は,2010年から2011年を通じて一定(約50 名)であった. アスベスト EDFグループは過去において,アスベストを含む製品,資材 および施設を使用していた.EDFの建物および設備におけるア スベストを含む資材の交換は,現行の規制に基づいて1980年代 後半に開始され,アスベストを含むすべての資材は処理された. EDFは,報告手段を策定し,従業員および当社で業務を行う第 三者を保護するための措置をとっている. 1998年7月,EDFはアスベストに晒されることの防止および 補償に関して,すべての労働組合連合と契約(2002年6月修正 済み)を締結した.この契約に伴い,EDFは,アスベストに関 連して労働疾病を患っていると正式に認定された従業員への早 期退職計画を実施しており,補償の過程において,疾病を患う 従業員およびその家族に対する情報および支援の提供により社 会的支援を行うため,EDF出資による自発的な財政支援および 補充助年金を設けた. (略) ② 労働生活の質 労働生活の質は,労働をする組織,職場の人間関係,専門能 力の開発,職場環境およびワークライフバランスの方針の実施 結果である.多様性の促進および差別の防止もまた,質の高い 職場環境の創出に貢献するものである.
Vol. 7, No.1, pp. 3-12, (2014) 7 当グループ内のこれらすべての方針を考慮した上でさらに次 のレベルへ進むため,2007年にEDFは「労働生活の質に関する 全国監視委員会」を設立し,その倫理プランを強化し,地域の 管理を奨励するための手順を単純化した.同監視委員会は,医 師,管理者,社会的パートナーおよび外部専門家による対話の 場である.同監視委員会は,労働条件を監視し,調査を委託し, 提言を行っている. 2008年,同委員会は,EVREST(「職場衛生の改善と関係性」) プランの実施を推奨した.このプランは,会社に対して健康お よび職業に関連する指標システムを提供している.このプラン は,産業医により,任意で2009年に実施された.電力およびガ ス業界においては,2012年末には107名の医師がこのプランに 登録し,そのうち87名がすでに9,000(2011年末には4,808)の アンケートに回答している.2011年から2012年までのアンケー トの結果は,2013年1月に監視委員会において発表された. その設置以来,監視委員会は,従業員のワークライフバラン スおよび職場における世代間の協力を推奨するための提言を行 ってきた.経営陣に対して行われたこれらの多様な提言の導入 は,2011年に初めて経営陣によって検討された. 2011年および2012年には,国立労働条件改善機関(ANACT - Agence Nationale pour l' Amélioration des Conditions de Travail)による職業生活の長期化に係る困難に関する発表 に基づき,監視委員会はすべての年齢の従業員を対象とした専 門能力の開発を促す職場環境の促進に関する提言を行った.現 在は,会社がどのように変化を管理しているのかを検証してい る.最後に,試験的な協同的取組みである「より良い労働のた めの革新」スペースにより,マネージャーおよび人事スタッフ による優れた慣習の推奨および共有,専門的アドバイスの受け 入れならびに800名超のメンバーから成る「より良い労働のた めの革新」コミュニティの構築が可能となった. グループ・レベルにおいては,労働生活の質および安全衛生 の向上が優先されたことから,要請に応じて,各事業分野また はグループ会社において,経験の交換,データの比較およびプ ラクティスの観察が実施された.これらの情報交換は,フラン ス,英国およびポーランドで2010年以降毎年開催されている 「学習遠征」の期間中において,「安全衛生」コミュニティの 中で,職場での安全衛生を対象に,恒常的に行われていた. 各団体は,倫理担当者を指名しており,職場において困難な 状況に陥った場合には,無料の全国ホットラインが全従業員に 対して提供されている. 2008年以降,そのユニットにおいて衝撃的な出来事が発生し た場合には,被害者の親族および作業チームに対して助言を行 い,またあらゆる必要な支援を行うために,専門医によるサポ ートを週7日,24時間受けられるようになっている. 2010年11月にEDFが締結した「心理社会的リスクの防止およ び労働生活の質の向上」協約は,職場の状況および参加者の訓 練に重点を置く複合的な対話に関する様々なプロジェクトにつ いて定めている. 実施された主な対策においては,以下の事項が焦点となった. ・複合的グループの広範囲な導入およびこれらのグループの参 加者の共同訓練 ・規制により要求されている特別書面における心理社会的リス クのリスト化(これらのリスクを評価に組み込み,リストを 作成するためのガイドが公表された.) ・組織の変更が行われる前における,QWL面の影響研究への段 階的な統合 ・2012年度下半期から開始された,本協約の当事者との協約に 対する中間評価 さらに,EDFおよびERDFは労働生活の質および社会心理的 リスクの防止に関する行動計画の共有および公表を目的とし て,様々な参加者(マネージャー,医者,ソーシャルワーカー, 従業員の代表者,社内コンサルタント)が参加する統合的な分 析グループ(MAG)を各ユニットに設置した.現在,EDF全体 で50超のMAGが設置されている.この初期段階においても,こ れらのグループによる活動は成功と位置づけられる.社会的パ ートナーとのみではない,多岐にわたる議論を実現することに より,社会的対話のための環境を一新し,個人的および全体的 な問題への取組みが可能となり,いくつかの事案では経営上の 変化を促す役割を果たし,それによって衛生問題と経済実績を より深く結びつけた. 当グループの海外子会社においては,社会的対話は法律の直 接適用または社会的パートナーとの合意に基づく.ハンガリー (EDF Demasz)では,合弁安全委員会に対して法律が権限を 付与しており,この委員会はイタリア(Fenice)と同様に,安 全問題の議論のために定期的な会議を開いている.2012年に は,BEZRtおよびEDF Energyは,安全衛生に関する社会的対 話を行うための諸条件を特定する憲章に署名した.Edisonで は,2012年4月に安全衛生訓練に関する特別契約が締結され, その諸条件は対象者(企業,技術職,モバイル・ワーカー,経 営者)が誰であるかによって異なる.SSE(Slovakia)では, 新たな安全衛生政策が調印された. 組織および労働時間 1999年10月1日以降,フランスにおける1週間の労働時間は最 低5日間の稼動期日において35時間である. 2012年12月末現在,EDFおよびERDFの職員の11.6%が,給 与減に対する部分的な補償を受けつつ,または受けずに,全体 的または個人的な労働時間の短縮を選択していた.グループ全 体では,職員の9%が非常勤勤務者である. さらに,EDFおよびERDFの施設における継続的な運転を保 証するため,または技術的な障害が発生した場合にできる限り 短時間で電力の供給を復旧するため,EDFの職員の一部は年中 無休で継続的に業務に就いており,一部の人員は正規の労働時 間外に呼び出しに応じてサービスを提供している. (略) 図5 フランス電力会社の日本における開示例4)
4 社会的背景がもたらす企業情報の開示内容の違い 日本は,国際労働機関(ILO:International Labour Organization)が規定する国際労働条約の一つである「労 働安全衛生(155 条ほか)」について未批准の状態にある. また,フランス電力会社の事業規模,政府の関与度合, 産業別労働組合を基礎とする欧州の社会的事情等を考慮 すれば,本稿のように労働安全衛生に係る非財務情報の 開示状況に限定し,個別に日本企業と単純比較すること は望ましくない,という意見がある. たとえば設備投資額,労働者への福利厚生費,社会支 出の財源ともなる法人税等,企業・事業主が負担する様々 なコストを従業員数(労働者数)で除し,労働者一人当 たりの労働安全衛生コストなる指標を用い,財務情報も 加味し総合的に企業間比較を行う,という考え方である. しかしながら,経営上の事業コストは原則予算方針や 経営者の理解を前提に費消され,経営者(事業主)の影 響力は企業規模に関係なく非常に大きい.労働安全衛生 コストについても然りである. また,企業情報開示における非財務情報は,財務情報 の内容を補完し,財務数値で充分説明できないトップマ ネジメントの経営方針や経営姿勢を直接明示する部分で ある.たとえば,図5 のように多国籍に事業展開する企 業の場合,非財務情報は財務情報ともに非常に有益な開 示情報となり,読者でもある労働者も強い関心を持つ. 本稿の非財務情報に限定した企業間の比較分析が当を 得ないという批判はあたらない. 1) 労働協約システムと CSR 報告書 同じ日本の企業会計の開示基準において,有価証券報 告書上労働安全衛生に係る開示姿勢が外国企業と日本企 業とで大きく異なる事情は,その国で語られる長きにわ たる労働者の権利闘争たる労働組合活動の歩みや労働安 全衛生の歴史と呼応していると考えられる. 労働安全衛生に係る日本とフランスにおける事業者の 開示姿勢の本質的な違いは,単に政府の経営者(事業主) に求める開示基準が異なるだけでなく,今日に至るまで の戦中・戦後の民主主義運動や社会制度の変遷の過程で, 事業者と労働者の双方のあいだで合意された労働協約が 企業情報の開示ルールに影響を与えている. 日本企業の開示内容は,労働安全衛生法等の法規制を 企業・事業者の財政状態及び経営成績に影響を与えるリ スクと捉え,事業者の労働者保護という記述観はない. 一方,フランスの場合,様々な文献を通じても,政府 が事業者に対し安全衛生管理に対する広範な責任を求め, 労働者保護を色濃く映すフランスの特長は,欧州でもト ップクラスであることが確認できる5). フランスにおける企業の積極開示に影響を与えている 背景に,労働協約システムの存在,社会的責任投資に応 えるための CSR 報告書の作成,企業の IR(Investor Relations)活動を積極的に奨励する経営環境がある. (1) 労働協約システム フランスでは 1919 年から現在に至るまで,度重なる 法制度の改正を通じて,特定の地域,産業部門における 代表的な労働組合と事業者のあいだで合意された協約は, 労働大臣の命令等にもとづき原則として当該地域・当該 産業部門の労働者及び使用者に拡張的に適用される(労 働協約システム). 労働協約の対象は,賃金をはじめ,労働時間,法定有 給休暇,解雇手続,労働者の疾病の相互扶助のほか,労 働条件安全衛生委員会の設置など我が国の労働安全衛生 法で定める規定内容(12 条~18 条など)が産業部門単 位で設定されている.たとえば,銀行業の場合,「バカン ス補足契約」なる労働協約が存在する. フランスにおける労働組合の組織率は高くないが,こ の労働協約システムのもと,労働協約は労働組合に加盟 しない非組合員,少数組合員にも適用され,フランスの 労働者の約 90%が労働協約の適用を受けているとされ る6). 他のEU 諸国では制度に違いが一部あるが,ドイツ, スウェーデン等にも同様の労働協約システムがある. (2) CSR 報告書と社会的責任投資 CSR 報告書は,財務報告を中心とした報告書ではなく, 企業を取り巻く株主,一般投資家,債権者,国・自治行 政団体,労働者など多様なステークホルダーの視点に立 ち,企業の経済活動のほか,環境保護,地域社会への貢 献活動,企業倫理を含む幅広い企業の行動指針に関し情 報提供を行う報告書である.経営者(事業主)側にプロ アクティブな開示姿勢が期待され,積極的な開示を行う ことで企業価値の向上に資する企業レポートである. 最近,日本企業のなかでもIR 活動の一環で環境報告 書やCSR 報告書を作成している企業が散見される. しかしながら,我が国で社会的責任投資の文化が醸成 されていない現状において,CSR 報告書や有価証券報告 書で労働安全衛生等に関する記述は自然と乏しくなる傾 向にある. というのも,我が国でいわば“物言う”年金基金機関 投資家(又は年金SRI)は育ち難い.公的年金(国民年 金,厚生年金)に加算されるいわゆる 3 階建て部分の厚 生年金基金等の多くは,労働者の雇用先である母体企業 が現状掛金を負担する企業年金制度である.掛金が原則 事業主負担であること,また企業単位別労働組合を主と する我が国の労働組合法のもと,母体企業から独立し運 用とその管理を行う年金基金機関投資家は,我が国で生 まれない. また,資産運用方針に事業者の労働安全衛生に係る取 組み姿勢を追加し,年金資産を運用することで,投資先 である事業者が労働安全衛生の維持改善に取り組み,労 働生産性や収益性を高め,やがて配当・分配金を通じて 機関投資家に還元される,という労働分野の CSR 価値 観をもった投資活動が我が国で浸透していない. 一方,欧州の場合,詳細な事情は他の文献に譲るもの の,職業別・産業別労働組合及び前述の労働協約システ ムを前提とする社会制度があり,年金法・年金基金制度 の改革とあいまって企業の多様な CSR 活動を促す社会
Vol. 7, No.1, pp. 3-12, (2014) 9 的な土壌がある.2000 年代初めに,欧州では欧州委員会 雇用社会問題総局にて2 つのインパクトある報告書が提 起され,社会的責任投資に対し企業の積極的な CSR 活 動とその報告開示を促す環境が整っている7). 殊にフランスの場合,CSR 報告が法制度として義務化 されていないが,従前から企業に対し労働者の雇用条件 等に係る開示規定が設けられている.同国で社会的責任 投資が成立している経営環境のもと,CSR 活動の積極的 開示の取組みは金融資本市場における企業・事業者側の イメージアップに繋がっている. 端的な表現として,米国や欧州では事業者と労働者の あいだで,直接的でないにしても労働者の安全衛生の改 善に関し,資本市場及び労働市場の双方を通じ適度な緊 張関係を有する社会環境がある. 2) IFRS,統合財務報告の可能性について 会計を通じて公表される財務書類は,「事実と慣習と判 断の総合的産物」であると称される.会計に関わる利害 関係者の存在が,企業会計の報告仕様を決めていき,財 務報告の概念フレームワークが合意形成される. IFRS は,金融資本市場の国際化を背景に世界各国の 会計事情を収斂し,国際的に定めた企業会計の統一的基 準である.そこでは「従業員給付」という概念でもって, 労働者が提供した労働力に対し,企業が労働者に与える あらゆる対価を会計上捕捉するように定義している.す なわち,従業員給付には,賃金・給与,社会保険料,年 次有給休暇,賞与,退職給付,その他非貨幣性給付対価 (医療介護,社宅など)のほか,勤続年数に応じた死亡 給付金,長期勤続休暇,ボランティア休暇,解雇給付金, 疾病給付なども含まれる.しかし労働安全衛生に係る情 報開示の具体的な規制や開示ルールは明示されていない. 現在,我が国の上場公開企業に対するIFRS の適用は, 金融庁・企業会計審議会は平成23 年 6 月 19 日「当面の 方針」において任意適用の段階として示されている. ちなみに,欧州では2005 年から EU 域内の資本市場 に上場する企業に対し,一部例外事項がありながらも, 企業グループ全体の財政状態及び経営成績を反映した連 結財務諸表をIFRS に基づき作成することが義務付けら れた.また,世界最大の資本市場である米国における IFRS 適用の動向は明確でなく,強制適用の議論は現在 進んでいない8). 今後IFRS が強制適用となった場合,これら将来発生 するであろう労働者へ給付を,労働債務として認識し, 測定し,決算書にて表示することが企業に求められる. その金額を見積るにあたっては,日本企業の場合労働慣 習にもとづき合理的な方法で算出されることになる.日 本企業の開示レベルが労働安全衛生に関しても今後向上 することが期待される部分もある. また,新たな財務報告の概念フレームワークとして, 欧州を中心に「統合財務報告」なる形で自主的に情報開 示を行う企業が既に存在する.この考え方は,従来の財 務報告に環境報告書及び CSR 報告書を合体させたもの であり,2010 年 8 月に設立された国際統合報告評議会
(IIRC:International Integrated Reporting Council) にて現在その開示方法の開発が進められている. 5 むすび:社会的責任投資の勃興への期待 1) 現状の年金運用資産の運用方針 日本の社会環境は少子高齢化で生産人口が減少し,高 齢・長寿化のもと,年金財政は総じて逼迫している. たとえば確定給付企業年金に積立不足が生じれば, IFRS の「従業員給付」概念に従い,事業者負担として 企業会計にのしかかっていく.IFRS に倣い,我が国の 退職給付会計が見直され,それに伴い2013 年 4 月開始 事業年度から経営者(事業主)は確定拠出企業年金への 移行に着手している. 企業年金は,年金加入者が従業員(労働者)であるた め,仮に年金制度の見直しを行う場合労働組合の同意を 要する.しかし,前述のとおり,母体企業である事業主 の掛金が原則企業年金の原資となっているため,年金資 産の運用方針に関し労働組合が CSR の観点で言及する ことはない. 日本の金融資本市場の資金の貸し手である民間及び公 的な機関投資家,その受託者たる資産運用会社の運用方 針に,環境保護を記したものはあるが,「労働安全衛生」 を明記したものは存在しない9). 2) 経営環境の変化と労働組合の組織率の低下 事業者は,国際競争の生き残りをかけ業績の安定化, 維持拡大を目指す.労働生産性を上げ,グループ企業が 負担する労働債務を減らし,経営の合理化,企業再編(事 業再編及びM&A)をさらに加速化して行くであろう. それに伴い,日本の企業別労働組合も事業者同様に再 編される.やがて既存の日本式産業別労働組合ではなく, 欧米のような職業別・産業別労働組合に近い形へと,労 働組合法の改正を重ね,その姿を変えていくことが予想 される.事実,前述の企業再編の影響のほか,労働の多 様化及び非正規雇用者の増加,さらに少子高齢化社会に よる労働人口減少もあり,様々な要因で労働組合数及び 組合員数は減少傾向にある. 労働組合の組織率が低下するなか,災害事故の予防と 良好な労働安全衛生環境の維持改善はいかなる就業形態 においても普遍的に確保される必要がある. 3) 「労働安全衛生」に係る情報開示へのジレンマ IFRS のような財務情報に関する会計基準の国際的収 斂化が実現していく時代に,日本企業は未だ CSR 文化に 晒されていない. 仮にIFRS 強制適用となった場合,決算書上反映すべ き「従業員給付」以外の非財務情報を,日本の雇用慣習 及び労働環境も含めて適切に利害関係者に伝えることは 企業情報の開示上重要な対応作業である. しかしながら,前述の企業の経営環境が厳しさを増す なか,賃金・報酬以外の労働者への給付を一企業で負担 することが難しい時代を迎えつつある. 具体的には,CSR の観点から企業会計上切り離すこと が難しく,海外投資家の日本企業への評価を左右する,
事業者が負担すべき広い意味での従業員給付及び労働債 務である.それはまた本稿で取り上げた欧米の事業者が 積極開示に取り組む「労働安全衛生」に係る非財務情報 の事柄でもある. 日本企業の労働安全衛生の情報開示モデルは何か,或 いはどうあるべきか併せて議論する必要がある. 4) 労働安全衛生法の視点をもった社会的責任投資 以上より,企業・事業者に対し,CSR 活動はもとより 労働安全衛生に係る積極開示を勧奨するステークホルダ ーの存在が我が国でも必要になってくるであろう. これまでの企業年金を基盤とする年金基金制度でなく, 欧州のように職業別・産業別労働組合がより積極的に関 与する年金基金制度である.行政機関による監督だけに 頼らず,「労働安全衛生」の運用方針を持ち併せモニタリ ングする,企業の新たなステークホルダーとしての年金 基金機関投資家の存在である. 勤続年数に応じて蓄えられた巨額な労働者年金資産の 運用受託を受けた機関投資家や資産運用会社が,長期的 に株式を保有しながら,時に議決権を行使し,事業者に 対して CSR の一つである労働協約に基づく安全衛生を 求めていく.運用対象先には,スポンサーに近い立場に ある職業別・産業別労働組合等の労働者側の意見等を反 映した,労働安全衛生の観点から格付け評価の高い企業 を選択し,ステークホルダーの立場を鮮明にする. 今後,我が国における労働安全衛生分野の社会的責任 投資(年金SRI)を喚起するための,黎明期の方策とし て下記の2つが考えられる. 一つは,たとえば公的年金の運用を担っている年金積 立 金 管 理 運 用 独 立 行 政 法 人 (GPIF :Government Pension Investment Fund)にて,一定の運用対象資産 である株式銘柄の管理運用方針の一つに「(運用対象)企 業の労働安全衛生への取組み姿勢」を加えてもらう,と いうビルトイン・アプローチである10). もう一つは,東京証券取引所において「労働安全衛生 分野100(仮称)」なる新株価指数を創設し,当該指数の 対象企業には労働安全衛生に係る有価証券報告書上の情 報開示を定性的な要件として課すことで,当該企業への 社会的責任投資と事業者へ労働安全衛生に対する取組み を促す,いわゆるインセンティブ・アプローチである. 事業者が CSR 活動を行い,労働者は年金基金等を通 じて社会的責任投資を実践する,他人頼みでなく双方が 共に賢くなるような環境を整備する時機が近付きつつあ る.多くの労働者を抱える公共サービス産業や巨大企業 グループは CSR 活動とその積極的情報開示を行い,機 関投資家は当該事業者に投資する.事業者と労働者が一 緒になり永続的且つ理想的な労使協調型の共生社会や職 場等を実現していく. 労働安全衛生法の観点からみても,社会的責任投資が 企業・事業者に促す労働安全衛生に係る積極的な情報開 示は,マネジメントの構成要素であるPDCA サイクルの C(Check)& A(Action)を事業者に求めていくこと に繋がる.すなわち,事業者自らモニタリング活動の実 効性を高めることになる.近年では,労働者の健康増進 が企業経営の活性化につながり,その結果労働生産性が 飛躍的に高まるという経営組織論と関係した研究も行わ れつつある.労働安全衛生がもたらす企業経営への効用 の研究についても今後益々期待される. 日本企業の生産技術,労働者の教育水準や勤勉性を考 慮すれば,労働安全衛生法の視点をもった社会的責任投 資とそれに応える企業の CSR 活動に係る経験及び実績 は,ひいては将来の国際的な財務報告の概念フレームワ ーク(非財務情報も含む)の見直しやその合意形成の場 面における,日本の積極的な意見材料となるであろう. 文 献 1) 国立社会保障・人口問題研究所. OECD 基準による我が国 の社会支出-社会保障費用統計2010 年度報告- 社会 保障費用統計プロジェクト. p.65「図 2 政策分野別社会 支出の国際比較(対国内総生産比)」の図を引用している. 2) 国立社会保障・人口問題研究所. ホームページの社会保障 費用統計(平成22 年度)にて掲載されている「政策分野別 社会支出の対国内総生産比の国際比較(2009 年度)」を一 部修正し引用している. 3) 福山圭一. 年金 SRI-持続的発展に資する年金資金運用を 目指して-. p.3 に「国際標準化機構で 2010 年に国際規格 ISO26000 が取りまとめられている.それによれば,社会的 責任は次のように定義されている.『組織の決定及び活動が 社会及び環境に及ぼす影響に対して,次のような透明かつ 倫理的な行動を通じて組織が担う責任. ・健康及び社会の繁栄を含む持続可能な発展に貢献する. ・ステークホルダーの期待に貢献する. ・関連法令を順守し,国際行動規範と整合している. ・その組織全体に統合され,その組織の関係の中で実践さ れる.』」とある. 4) EDINET 公開資料. なお,フランス電力の有価証券報告書 に「EDF グループは,フランスの電力市場における中心的 な事業者であり,欧州(英国,イタリア,中東欧)におい ても確固たる地位を有しており,当グループは世界におけ る主要電力公益事業会社の1 つで,かつガス産業において 定評のある事業者となっている.」と記載されている.また, フランス・エネルギー法に従い,フランス政府によるEDF の資本保有割合が70%を下回ることはできない. 5) 社団法人日本建設業団体連合会・独立行政法人労働安全衛 生総合研究所. 建設業の安全衛生における国際比較に関 する調査研究報告書. 2009; 64. 6) 労働政策研究・研修機構. 労働政策研究報告書 2013; 157(2). 現代先進諸国の労働協約システム-ドイツ・フラ ンスの産業別協約-(第2 巻 フランス編), p.18 .ま た,p.242 に「フランスにおいては歴史的・社会的背景から, 独特の人工的・政策的なシステムのもとで,産業別労働協 約が集団的労使関係における規範設定(労働条件決定)に おいて極めて重要な役割を果してきており,現在もなおそ の影響力は大きなものである.」と記載がある.
Vol. 7, No.1, pp. 3-12, (2014) 11 7) 労働政策研究・研修機構. 労働政策研究報告書 2007; 88:121. 諸外国において任意規範等が果たしている社会 的機能と企業等の投資行動に与えている影響の実態に関す る調査研究. 2 つのレポートは,2001 年発表のグリーンペ ーパー「企業の社会的責任のための欧州レベルの枠組の促 進」と2002 年発表の通知「企業の社会的責任:持続可能な 発展への企業の貢献」である. 8) 日本公認会計士協会. 会計・監査ジャーナル. 座談会「我 が国におけるIFRS 適用の方向性を探る~「国際会計基準 (IFRS)への対応のあり方に関する当面の方針」等を読み 解く~.2013;10. 9) 企業年金連合会. 年金資産運用の基本方針及び年金資産運 用に関するガイドライン. 10) 年金積立金管理運用独立行政法人. 管理運用方針. 平 成18 年 4 月 1 日制定 平成 25 年 8 月 6 日最終改正. 11) 飯野利夫著. 財務会計論三訂版. 同文館. 12) トニー・ジャット著, 森本醇訳. ヨーロッパ戦後史 上巻 みすず書房;2008: 1945-1971. 13) P・F・ドラッカー著, 上田惇生訳. ネクスト・ソサエテ ィ ダイヤモンド社. 14) 労働政策研究・研修機構. 2013 データブック国際労働比 較. 15) 労働調査会. 改訂 3 版労働安全衛生法の詳解-労働安全衛 生法の逐条解説-. 16) 労働省安全衛生部安全課. 新版労働災害の事例と対策. 中央労働災害防止協会. 17) 安全技術応用研究会編著. 安全システム構築総覧[増補改 訂版]. 日経 BP 社. 18) 日本公認会計士協会. 会計・監査ジャーナル, 座談会「統 合報告の現状と今後の課題」.2013. 19) 厚生労働省・労働基準局. 平成 23 年 3 月改定「社会復帰 促進等事業に係る目標管理に関する基本方針」. 20) 厚生労働者. 「平成 25 年度第 1 回社会復帰促進等事業に関 する検討会資料」「【議題】社会復帰促進等事業に係る平成 24 年度成果目標の実績評価及び平成 25 年度成果目標につ いて」の資料.
Corporate Accounting and Worker Health
-Recent Circumstances of Disclosure of Occupational Safety and Health
Information in Financial Statements Reported in Japan-
by
Michito N
AGAI*1,2According to the Financial Instruments and Exchange Act, publicly-traded listed corporations in Japan are required to disclose their financial reports to financers and the public within three months after each account closing date. Occupational safety and health (OSH) status are not statutory entries on the financial reports, and hence are disclosed by only 0.3 % of approximately 3,000 listed publicly-traded corporations. Even disclosed information on OSH is poorly indicated. The very limited number of companies and limited OSH content illustrates the negative attitude of Japanese corporations regarding disclosure of information that could be used for comparisons despite non-financial issues. In contrast, corporations in the U.S. and Europe exhibit quite a different attitude on disclosure, since both corporations and institutional investors respect the culture, value, and philosophy of corporate social responsibility (CSR). Many Japanese corporations believe that the information on OSH is a matter of labor customs or legal regulations rather than a financial issue, a fact that has disrupted disclosure on OSH from the CSR viewpoint. Globalization of financial and capital markets and the future introduction of international accounting standards will lead Japanese corporations to properly disclose all kinds of information, whether non-financial or financial. Corporations or business operators will also need to develop the ability to express their views on worker protection. Comparing the disclosure of OSH information on financial reports of Japanese and European corporations, this paper explores the potential strategies that we should take to improve worker safety and health via improved practices of corporate accounting.
Key Words: corporate accounting, disclosure of corporate information, labor agreement system, CSR report, conforming to international accounting standards, socially responsible investment
*1 National Institute of Occupational Safety and Health, Japan *2 Nagai public accounting firm, Tokyo
「労働安全衛生研究」, Vol.7, No.1, pp. 13-21, (2014) 特集総説
臨床現場における「新型うつ病」について
†生 田 孝
*1 いわゆる「新型うつ病」が近年世間に広まり,産業保健の現場でも「新型うつ病」の社員にどのように対処 すべきか,多くの企業で喫緊の問題となっている.しかしながら,精神医学的に見ればいわばこれは「ゴッタ煮」 概念であり,そこには,疾患としてのうつ病や軽度の精神病,神経症,ある種のパーソナリティ障害,適応障害, 怠業や逃避行動,あるいは健常者における一過性の不適応行動まで含まれており,学問的な信頼性と妥当性を有 した疾患概念ではない.しかしながらそれは,いわば現代日本の時代精神を反映している.その意味で「新型う つ病」は,極めて流動的であり,数十年の時間スパンに耐えうるかどうかは疑問である.その内実を知るには, 精神疾患の成因論的視点が不可欠であり,少なくとも当該者の対応には,経験を積んだ精神科医による詳細な生 活史の把握と成因論的(つまり,心因性・内因性・外因性の)見方,および状況因と性格因的視点が不可欠であ る. キーワード: 新型うつ病,職場のメンタルヘルス,内因性,心因性,生活史,双極Ⅱ型 1 はじめに 近年,いわゆる「新型うつ病」というものが,世間や マスコミをにぎわしてきており,産業保健の現場でも, 「新型うつ病」の社員をどのように処遇すべきか,多く の産業医が頭を悩ませている問題となっている.この「新 型うつ病」なるものは,精神医学的に見ればいわば「ゴ ッタ煮」であり,そこには,疾患としてのうつ病や軽度 の精神病,あるいは神経症,ある種のパーソナリティ障 害,適応障害や一過性の不適応行動,さらには健常レベ ルでの怠業や逃避行動まで含まれており,学問的な信頼 性と妥当性を有した疾患概念ではない.だからあくまで も括弧付きのうつ病である.それは,いわば現代日本の 時代精神を反映した一種の文化結合症候群とまで言える ものをも含んでいる.過去にもいわゆる「神経衰弱」や 「多重人格」などが,比較的最近でも「青い鳥症候群」 や「テクノストレス症候群」などの言葉が人口に膾炙し たが,それらは時代とともに拡散して,ほとんどは消え 去り,ある部分のみが何らかの病態に帰着した.その意 味でも「新型うつ病」は,現在も極めて流動的なもので あり,数十年の時間スパンに耐えうる概念ではない.こ のようなものに惑わされないためには,精神疾患の成因 論的視点が不可欠であり,少なくとも当該者の対応には, その生活史の把握と成因論的(つまり,心因性・内因性・ 外因性)視点と状況因および性格因的視点が不可欠であ る. 2 「新型うつ病」の歴史 いわゆる「新型うつ病」が言われるようになったのは, 「新型」と名がついているにもかかわらず,それほど新 しいことではない.日本における従来のうつ病の典型例 は,中高年発症に見られるような内因性うつ病であった. それは,一般的に言うと,几帳面・徹底性・強い責任感・ 自責的・自罰的・刻苦勉励などに代表される病前性格を 持った人が,多少の状況因はあるにせよ,ある時点でそ れでは説明のつかないほどに抑うつ的となり,日常生活 や社会生活に支障をもたらすほどの心身の変調を来たす 状態,つまりうつ病に陥る病態であると理解されていた. そしてこの「それでは説明がつかないほどの」が,後に 述べる内因性の指標の一つとなるのであった. ところがそのような従来の(内因性の)うつ病理解と は異なる病像が指摘され始めたのは,本邦では広瀬の「逃 避型抑うつ」(1977)1)を嚆矢とする.1990 年代以降に は松浪の「現代型うつ病」(1991)2),阿部の「未熟型う つ病」(1995)3),加藤の「職場結合型うつ病」(2002) 4),樽味の「ディスティミア型うつ病」(2005)5)などの ように,非定型うつ病とか非精神病性うつ病としか分類 できないような新型病像が,次々と指摘されるようにな ってきたからである.また笠原の提唱した「退却神経症」 (1988)6)も現代的視点から見れば,「新型うつ病」を多 く含んでいると考えられる. 先に述べたような古典的(内因性)うつ病は,戦後の 高度成長の時代には優位を占めていたが,経済バブルの 崩壊とともに次第に減少してゆき(もちろん,今でも少 数ながら発病しているが),それとは病像をまったく異に する新しいうつ状態が優位を占めるようになってきたの である.後者を総称して,世間やマスコミでは「新型う つ病」と呼ぶようであるが,明確な概念規定を内包した 学術用語ではない. 3 「新型うつ病」の特徴と症例 「新型うつ病」をどの様に捉えるかは諸家によって異 なるが,その特徴は,①比較的若年層の人に多い,②従 来の(内因性)うつ病に比して几帳面な職業人が少ない, ③訴えに自己中心的な印象がある,④罪業感が薄く,責 任回避行動が主体で,⑤自罰・自責的よりも他罰・他責 † 原稿受付 2014 年 01 月 29 日 † 原稿受理 2014 年 01 月 30 日 *1 聖隷浜松病院 精神科 連絡先:〒430-8558 静岡県浜松市中区住吉 2-12-12 聖隷浜松病院 精神科 生田 孝*1 E-mail: [email protected]的,⑥抑うつ感とならんで自己不全感と心的倦怠が優位, ⑦パーソナリティ発達上に未熟さを認める等々が,大方 の首肯するところであろう.具体的症例で見てみよう. 症例1 K(23 歳,男性) 一部上場の機械メーカーに勤務している会社員であ る.首都圏に生まれ育ち,某有名大学経営学部を卒業. 在学中はイベント企画サークルのリーダー的存在であっ たという.会社の大きな広告塔が,通学する電車の中か らいつも目に入っていたが,就職活動を機にその会社の 業績を調べたところ,世界規模で展開している会社であ ることを知り,自分が「世界で活躍すること」をイメー ジしていたK は,自分の才能を生かすにはこの会社がふ さわしいと「直感」した.幸い就職試験にも受かり入社. 勤務初年度の前半は研修主体で,東京の本社研修と,地 方での工場実習や支店営業などの研修を受けた.2 年目 に入り,地方支店の配属となった.K 自身は,同期入社 の人たちと比べても「自分の企画力,実行力,プレゼン ティション能力には自信があったので,当然本社に配属 されるだろう」と予想していた.地方配属は,「最初はガ ッカリしたが,でもドサ回りも,いずれ上に行くために は必要な体験だろう」とも思い直し,自分も納得して赴 任した.しかし実際に来てみると,K の目にそこは「上 司も含めて凡庸な社員ばかりで,この会社は俺の才能を 生かし切れていない」と感じるようになった.かといっ てK は,それほど仕事を覚えてこなしているわけではな かったが,「こんな仕事は現場事務レベルなので,高度な 総合力を必要としない」と半ばバカにしていた.上司は, 何かとK には声かけをしてくれて指導熱心であり,K と の意思疎通を図ろうとしていたが,それもK にはうっと うしく感じられるようになってきた.勤務時間内ならま だしも我慢もできていたが,上司が「しつこく」週に何 回も食事に誘い奢ってくれることが苦痛になってきた. 最初は,ありがたく,また断るのも失礼かと思っていた が,徐々に終業後の自分の時間を「拘束されること」に 腹が立つようになった.「これは一種のパワハラだ」と思 い,段々と誘いを断るようになった.そうすると,会社 の同僚も,何かしら自分を避けているように感じられ出 した.徐々に夜も余り眠れなくなり,休日は好きなアニ メやバラエティ番組を視聴して気分転換できるのだが, 月曜日の朝になると会社に行くのが億劫になってきた. それでも何とか出社を続けていたが,ときに休みがちと なり仕事も滞りだした.当初は見下していた同僚が自分 よりも仕事をこなしている現実を見ていると,「こんなは ずはない」と,無性に腹が立ってきた.心配になってイ ンターネットで自分の現状を調べていたら,うつ病の自 己採点サイトが見つかり,それをやってみたところ「う つ病の疑いがあるので医師に相談するように」と出た. 当該項目は,イライラ,不安,意欲低下,不眠,易怒性 などであった.そのため,自ら精神科を希望して,当科 を受診するにいたった. 初診時にK は,一方的に「会社が不適切な人事をして, しかも自分は上司からのパワハラを受けてうつ病になっ た,「うつ病」の診断書を書いて欲しい,うつ病で脳内の セロトニンが不足しているから新型抗うつ薬SSRI (selective serotonin reuptake inhibitors)の A(商品 名)を出してほしい」と一方的に主張した.その時点で K は,かなりの欠勤を重ねており,会社の人間関係も相 当にこじれていることが推察された.この時点で本人に 出勤を促すことは困難である,と筆者は判断した.K は 「うつ病の診断書」を希望していたが,それを留保し, しかしながら「うつ状態にあり,約1 ヵ月の休養を要す」 として,本人の希望するA を処方した.ただし,このこ とが,抗うつ薬を飲んで一ヵ月休養すれば軽快すること を保証するものではないこと,うつ状態にあることは認 めるが,うつ病と診断するにはもっと経過をみる必要が あることなどを説明した.また,対人関係は相互関係で あるので,一方的に会社を非難するK に対しては,K 自 身の過去の言動を再度見直すことを,次回診察の課題と することを提案した.これは初診時から,K 自身のもの の見方・考え方・生き方に対する内省的視点の不足を感 じ取ったからである.しかし,以後の診察においても相 手の立場に立って自らを顧みようとする視点を欠いてお り,ひたすら会社と上司を非難するだけで,ずるずると 休み続けるために,診断書はその後も結果的に1 ヵ月毎 の更新となって,「病欠」は半年近くにも及んだ.この間, 心身の不調を訴えながらも,食欲は旺盛であり,好きな ドライブに行ったり,上司と会社の「不当な処遇」を遠 方にいる大学時代の友人に訴えるために出かけることも あった.K の考えは,さらに「自分の才能を生かそうと しない会社に問題があり,自分をうつ病に追いやった会 社と上司を訴える」と先鋭化していった.抗うつ薬の効 果に不満を抱いたK は,何回かの処方変更を要求した. しかし,筆者は,最低1 ヵ月以上の使用歴がないと,効 果判定はできない旨を告げて,その期間内での変更はし なかった.しかし,結果的には数回の薬剤変更がなされ たが,著変はなかった.K の「うつ病」診断の要求に対 しては,うつ状態という状態像診断はできても,うつ病 という疾病判断はできかねる旨を再三繰り返し伝えた. その後K は,「自分の人生を台無しにされたので,会社 を訴える」と,首都圏の弁護士に相談にゆき,その後訴 訟準備に入るために,実家に戻っていった. 本症例は,「新型うつ病」の一例と見てよいであろうが, これがそのすべての要素を包含しているわけではない. しかし,かなり多くの特徴が示されている.そこでK を も含めた,「新型うつ病」の諸特徴を,それ以外のものと 対比しつつ,以下に見てみよう. 「新型うつ病」では,古典的うつ病で例外なく認めら れたような悲哀感,制止症状(感情,行動および思考全 般にブレーキがかかること)が乏しい.しかもK も含め て,古典的うつ病者とは対照的に,よく喋るし,自己主 張も強い.とりわけ特徴的なのは,古典的うつ病が自責