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仏殿納牌堂建立記 (体育館落成記念号)

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(1)

導師の下に執行された。 前後四回三十九日間に一且って行はれたが、第一日の四月七日午後一時より仏殿納牌堂開堂入仏式が、法主日帰上人大 昭和二年六月一日、袖 延教報第十九巻十一号︶ 仏殿納牌堂︵以下納牌堂と称す︶は、遠忌報恩記念事業の最大なるものとして新築されたもので、着工から完成ま では短日月であったが、その準備期間は長年月を要した。 昭和二年六月一日、納牌堂建設願並に用材の伐採願を提出し、同十月廿八日附を以て両件の許可指令を得た、︵身 今より四十年前の昭和六年奉行の宗棚第六百五十遠忌法会は、 四月七日より一週間 同廿一日より一週間 五月一日より十五日 十月六日より十日間 日より十五日 昭和三年五月一日起工式

仏殿

牌堂建立記

是幹

("8)

(2)

同五年五月六日︵旧四月八日︶上棟式 同六年四月七日開堂入仏式。

工費金参拾壱万八千弐百拾五円覇難鑿ま

であった。当堂完成に就いて忘るぺからざるは、此の御遠忌事業の為め第八十一代杉田日印上人︵御入山大正十三年 十一月廿一日︶は、御在山七ヶ年の間︵御遷化昭和五年十二月七日七十六才︶七十余職の老躯を提げ全国に戒る為山 の御布教に依り、漸く此の壮大なる建築を成就し得たことである。 然し日布上人は完成を目前にして、昭和五年十二〃七日御遷化になり、翌六年一川付五日の御本葬は、木の香新ら しい当堂に於て、酒井日慎管長導師の下に執行された。 明治八年一月十日身延山大火以後納骨堂新築に関する記録は、身延山史に﹁明治十六年七Ⅱ鵜川日行帥︵内腸本成 寺歴代明治冊五年八月十八日化世寿七十五歳︶の発願にて、納什堂新築を建議し、之が許可を得、一時上ノ山に在り て俗に伽藤堂と称したる宝塔を本堂側に移して納骨堂に擬せんとせり﹂︵三○二頁︶とあるを蚊も初めと忠ふが、身 延山常侭委員会の議事録に就て見るに、納骨堂建設案の岐初は、 明治三十二年五月十二日の第六常置員議会にして、左の如く記録されている。 一、日月牌料積立の件一、 決議 同四年十一月八日立桃式 本年七月以降積立綴き満三ケ年を期し、納骨位牌堂を新築する事

(3)

爾後暫らく本件は議せられなかったが、下って大正九年十月七日開催の門末会議に於て、 ﹁未設堂宇建設の件﹂として、納骨堂新設及び水鳴楼改築案が再び提議された。当局の説明に依ると、今の釈迦堂 及納骨堂を取り払い、其跡地へ奥行十一間、間口十二間の大納骨堂を予算十三万三千余円を以て新築すること、水嶋 楼改築は約五万円の予算であった、資金及結構に就いて左記特別委員を挙げて調査することとした。 冷泉要惇、伊藤如音、志村要淑、吉橋日耀、松井錬静、下里是察、 委員会は左記の通り報告し可決を見た。 納骨堂新設には多額の資金を要するを以て、先づ納骨堂を建築し、水嶋楼の改築は時機を待って行ふこと、 建築資金の一時借入支弁は当局者に一任す。 翌大正十年十一月冊三日の臨時常侭会は、 納骨堂建設地選定は一往専門技師を招き選定すること、其位地採定は当局に一任す。 を決定し、同年十二月八日附を以て、中村是本僧正が﹁納骨堂新築工事司監﹂に就任した。翌十一年三月廿六日の定 期常置委員会は、納骨堂建築資金支出方法は、寄附勧募とし、其結果を見て適当の時機に若手する、と云ふことに決 した、準備は着々進められ、同年の教報誌上に中村司監は﹁身延山納骨紫新築に付て﹂と越し、身延山納什の由来、 納骨堂建設の必要性、及び今般新設f定の納骨堂の設計、工費、建設位地、等に関し談話を発表しているが、此時の 計画では左記の通りであった。 して居る。 然共当時の山情之を許さず、翌冊三年五月七日の第七常置委員会は、右月牌料積立実施は当分延期することを承認 (I20)

(4)

左の三師 ︵教報大正十一年七剛十七日ザ︶ 大正十四年三月廿五日定期常置委員会に、﹁本堂再建希望の件﹂が提案されたが、之は﹁委員三名を選び、委員会 に於て調査制案の上門末会に提出すること、但し委員は法主指命の事﹂と決議され、之に基き同年四月三日附を以て 内部 外部 位地 ノ 堀内妙法寺 横浜常清寺 内房本成寺 が﹁本堂再建調査委員﹂を職託された。 本委員会は四月廿四日小委員会を附き左記決議を行った。 一、間口十五間、奥行十二間の位牌堂を建築すること、 一、前項は木造と、コンクリート、二極の設計をなすこと、 一、前項は池上棟梁に委噸し、至急設計見積りを為さしむること。 一、建築費は大本願、本願及び月牌施主等縁故者を辿り募財すること。 一、設計図面出来の上は更に小委員会を召集すること。 鉄筋コンクリート造り 木造 現在の宝物館の処 岡田僧正 武田僧正 冷泉僧正

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尚右小委員会に客員として、東京善性寺の望月日謙僧正が参加しているが、同五月#八日に、甲府遠光寺志村玄誓 僧正と共に委員を眠託された。因みに五人の委員中、前山務朧督武田椎大僧正は、昭和三年十一月七日遷化されたの で、仏殿の完成を見る能はなかったが、他の四委員中、岡田、望月二帥は法主として、冷泉、志村二帥は執事長、同 次長として完成後の仏殿に於て幾多の法会を勤められた。 大正十四年十一月Ⅱ四日第九回定期門末議会に於て左記の通り決定した。 位牌堂建設の件 程度 と決議し、 一、雌工期日 一、建設街金 一心 、 場 所 大正十五年とす、︵註実際の完成は昭和五年となった。︶ 右は鉄筋コンクリート建築なること、大正十五年十二Ⅱ五日の臨時常慨委員会に、川本堂跡地へ本堂建設の件、 但し位牌堂兼摂の事が提議されたが、 昨年の門末会議の議決を尊電し、釈迦堂敷地へ建設のこと、但し内容榊造は当局一価とし、建設饗は弐拾五万円 金弐拾五万円也、月牌施主より勧募すること 現在の釈迦堂を取段ち其跡地に処没すること 同時に懸案の水嶋楼改築は一時保留となった。 (〃2)

(6)

昭和二年三月十日の定期常催委員会に於て﹁仮本堂位牌堂建築様式図而及設計﹂が承認された。 昭和二年六月廿八日の臨時常置会に左記議案が図られた。 位牌堂建築に付左の三項の変更承認の件 イ、構造に付て鉄筋コンクリート造りを木造とすること。 ロ、場所に付て釈迦堂の取段しを見合せ、仮納骨堂と共に、一時他に移転せる其跡地とすること。 ハ、名称に付て位牌堂の名称を改めて﹁仏殿納牌堂﹂とすること。 右に対し委員会は左記の如く承認した。 一、鉄筋コンクリート造りを木造に変更するも、弐拾五万円の予算を超過せざること、但し右変災は次期門末談会に 一、鉄筋コンクリート造り拳 拝啓時下愈々御健勝之段泰賀候 陳者当山位牌堂之儀は従来仮堂にて有之候処近来納骨納牌年を逐て益々墹加の傾向にて甚だ狭陥を感じ本建築之必要 に迫られ候先年曾て申上置候鉄筋コンクリート櫛造は他の諸堂宇に対照して不調和との批評も不少依之今回木造建築 に変更致し仏殿納牌堂︵納骨位牌堂ノ意︶と称し、宗祖大士六百五十遠忌記念事業の一として近々工事に着手致候然 以上の経過を辿って後舷に漸く久遠寺は左の念告を以て広く肚に告ぐるに至った。 一、名称に付ては追て協議決定すること、 一、場所に付﹁会所﹂︵註後に智寂坊庫裡として移転︶を他へ移砿し、其跡地へ釈迦堂を移して仮位牌堂とすること。 於て承認を求むること。

︿必雄ロ

(7)

るに建築工費巨額を要し候に付ては多少に拘らず十方有志の御援助を請ひ完成致度候特に納付納牌に因縁ある月牌施 主各位には一段之御配慮願上侯 尚中央の仏殿は仮本堂として三宝諸尊奉安の遊場に充て諸種法要を修し併て納骨納牌回向の式場に致度候

右御依頼労得貴意候也敬

身延川久遠

昭和二年十月号教報に、 先に三月の定期術股会に承認されたる、

仏殿納牌堂設計図l縮尺百分ノーl

が発表されたが、概要左の通りである。 位地 櫛造 木造の殿堂式にして中央を仏殿とし、左右の楼閣及び廻廊の部分を納牌堂とす。 仏殿は屋根は入母屋、千鳥破風とし、正面は流向拝銅瓦葺軒廻りはニタ手先、桝組化粧垂木ニタ軒とす。 納牌堂は左右楼閣建とし寄せ棟、二重屋根造り、軒廻りは三シ斗出組ニタ軒とす、廻楼は中央仏殿を抱擁して軒廻 り三シ斗組一卜軒とし総て銅瓦葺なり、 本山境内御真竹堂と大客殿との中間、現在の釈迦堂と仮位牌堂とを取払いし跡地とす。

川久遠寺執事

︵教椴昭和二年十月号︶ (I24)

(8)

備考銅瓦は普通土瓦に変更された。 建坪 二百七十坪五合八勺 工費 金参拾参万円余 備考 建築に使川する久遠寺々有林の材木を約八万円に見積りたるを以て、 額となるが、エ事資金は即ち金弐拾五万円にて事足るなり、 仏殿︵仮本堂︶三宝諮尊を安臓し法要回向の式場とす

間、奥行坪数

七○尺一八六八尺九七一三八坪九○

向拝

一三尺四六一七、○○一四、八六

納牌堂月牌等十方志主の納骨及位牌を安侭す 廻楼の部

一五、○○二・二、五八九二、三二

納牌堂 上記金 0■0Ⅱ日Ⅱ刑ⅡⅢ ︺

IB│霞藝雪重重唇雪創鰯圏謡

§= h −7

(9)

左右共左右計

一二、○○一二、○○二四、五○

計建坪二七○、五八

昭和二年五月左の勧募趣意将を以て勧募に狩手した。 夫レ顕幽二界ヲ救済スルハ仏陀慈教ノ玄旨ナリ、祖先崇拝ノ美風ハ皇剛不朽ノ盛事ナリ、是ヲ以テ法界ノ群生ハ解 脱ノ消凉ヲ求メ、率土ノ衆庶ハ孝道ノ躰験ヲ期ス、宜ナル哉世尊ハ﹁我モ亦コレ世ノ父諸ノ苦忠ヲ救う者ナリ﹂ト 説キ、宗祖ハ﹁是経ハ内典ノ孝経ナリ﹂ト宣上給ヘリ、災クモ雁朝ノ至尊ハ専ラ叡慮ヲ祭祠孝道二用ヒラレ、範ヲ 四海二垂ル、依テ薫化兆臆二及上以テ千載不勝ノ美風ヲ至ス、足し実二国民道徳ノ大本ニシテ我民族ノ精華タラス ンハアラス回顧スルニ文永十一年六月宗祖大士ハ、大檀越南部︵波木井︶六郎実長公ト現当ノ契リヲ結ピ、居ヲ当 ぽく 山ニトシ西谷二草庵ヲ構ヘテ一乗妙典ヲ読訓論談ス、曾テ﹁聖賢ノー類ハ孝ノ家ヨリ出テタリ、何二況ャ仏法ヲ学 センモノ知恩報恩ナカルヘシャ﹂卜述懐アラセラレシ如ク片時モ忘レ給ハサリシハ故郷房州小湊ノ御両親ナリ、サ レ・ハ六十歳二垂ンダル老躯ヲ以テ時々北ノ方五十余丁ノ峻坂ヲ華チ山顛遙カニ故郷ノ空ヲ雲煙標紗ノ間二望ミ給上 追孝ノ涙ヲ澱キ報恩ノ御経ヲ捧ケラル、今ノ奥ノ院思親閣ハ虻避跡ニシテ実二吾祖大孝ノ活教訓タリ、鴫呼誰ヵ欽 仰セサランャ。 楼閣の部 仏殿納牌堂建築勧募趣意書 (〃6)

(10)

古来全国ノ善男善女当山二納骨納牌シ、父母祖先ノ重恩二報シ子々孫々ノ菩提二資ス、闘宗信徒ノ美風ハ兼シボ机大 孝ノ高風ト門下ノ聖教体験トー濫腸ス、即チ外護ノ大檀越中山ノ富木胤継公ハ母ヲ喪ヒテ悲哀一一堪ヘス逝骨ヲ頸二懸 ケ、雲山万里遥カニ吾山二納骨ス、宗祖之ヲ称ヘテ﹁悲母ノ為メ存スル所ハ孝心ノミ﹂卜又佐州ノ大信士阿仏腸ノ 嗣子遠藤守綱ハ父阿仏房ノ遺骨ヲ持シ海山悠々遠ク吾山二詣テ納骨回向ヲ乞フャ、宗祖乃チ之ヲ悦可シテ﹁子二過キ タル財ナシ子二過キタル財ナシ﹂卜讃歎シ給フ、是し本化宗徒万代不易ノ教訓タリ誰力感激セサランャ、爾来六 百五十年ノ今日一宗ノ信徒尊祖報恩孝養菩提ノ純情以テ当山二納骨納牌スルノ淵源実二舷二存ス。 然ルー当山ノ納骨納牌堂ハ明治八年不幸回禄ノ災二罹リ以来仮堂ノ侭ニテァリシカ、法運ノ発展ト時代ノ趨向ト 共二今ャ潮ク狭隙ヲ告クルー至しり、是ヲ以テ大正十一年六月鉄筋コンクリートニテ改築センコトヲ発表セシヵ其 ノ後発起者ダル日慈上人ノ遷化二遡上震災後各種ノ措慨並二宝物館建設等ノ為メ遂二納骨納牌堂ノ建築事業ハ遅滞ノ 止ムナキニ至しり、然ルー昭和六年ハ恰モ宗祖ノ第六百五十遠忌二相当スルヲ以テ其準備事業トシテ該堂建築ハ益 々緊急ノー事タルニ至しり、依テ現法主日布上人ハ諮問機関ヲ召集セラレ再上審議ノ結果全部木造ニテ別紙図面ノ如 ク純堂宇式二建築スルコトニ確定セリ、即チ中央ヲ準本堂トシ諸尊ヲ安置シ回向ノ道場ニ充テ之ヲ囲続セルモノヲ納 骨納牌堂トスルノ様式二改ム、方二是レ当山環境相応ノ様式ニシテ謂ユル﹁為供舎利厳飾塔廟﹂ノ経意二副フモノナ リ、而シテ此工費ハ実二金参拾七万余円ノ巨額ヲ要ス、斯ル巨額ダル当山現時財政ノ鬼ク支弁シ得ルトコロニアラス 依テ結縁ノ為メ汎ク全国信徒各位ノ賛助ヲ仰キ別シテハ納骨納牌セラレシ信徒各位ノ賛助ヲ諸ハントスルモノナリ、 庶幾有縁深厚ノ各位燕テ丹精ヲ抽ンテ此事業ノ成就二貢献セラレンコトヲ南無妙法蓮華経 昭和二年五月

(11)

同用材伐採願︵全廿五日出露 信徒諸氏へ御通知に及び候也。 ︵全廿五日出願 並に之に附随せる 前日左記案内す 費へ支出の件を可決した。 仏殿納牌堂起工式昭一 昭 和 仏殿納牌堂建築工事促進のため昭和三年四月以後に於ける特別部積立金を随時建築費中へ借入れ使用の件、但し仏 殿納牌堂寄附金を以て漸次返済する事を可決し更に昭和二年度迄の積立金中より金一万円也仏殿納牌堂建築 昭和三年三月三日の常縫会は 就ては本日を以て仏祖へ御報告申上げ即日伐採着手の式挙行致し建築起工の第一歩に入り申候 来る六百五十大遠忌報恩事業の随一として企図せられし当山仏殿︵仮本堂︶納牌堂建築願︵本年六月廿一日出願︶ 同年十一月建設許可に就いて左の発表を行った。 昭和二年十一月二日 念告 ︶の両件は愈々去月︵十月︶廿八日附を以て本県庁より許可指令に相成候条此段寺院 三年五月一日

身延

身延

lll 111

久遠寺執事

︵教報昭和二年十一月号︶

久遠寺

(〃8)

(12)

一、法味久遠偶、冗陀羅 一、法主訓辞一、大衆退場 来賓諸職人へ折詰と正宗、院 院 手執事 鮒妙 差定 朝来旧本堂屋敷地︵祖師堂横︶へ壇を設け幣束を立て、神酒鏡餅等供物を為し、四方に峻幕七五三繩を張り敷物 等用意万端調ひたるを以て午前十一時三十分半鐡太鼓、法主は大玄関より大傘差しかざし、冷泉中村両監督川

手執事保科会計渡辺録事内野普記望月識記及来賓として一名、党林坊消水坊武井坊竹之坊綱脇

施妙信徒総代三名譜職人約三十名其他大衆参川す

五月一日 信徒総代三名は事務所より通知、諸職人は池上棟梁より辿知す。 度御案内二及候

拝啓予而御配

予而御配 一般着席一、法主及大衆入場

一、法味久遠偶、冗陀羅一、玄題三唱一、祈念一、釿初ノ礼一、供物供酒ノ礼

︵綱脇龍妙︶以上六名 一老︵恵菩坊︶覚林坊 覚 林 坊 案内者 意相願居候本山仏殿納牌堂起工式着手之為め明五月一日午前十時手斧始メ式執行致候条御参列相願 ︵望月是本︶武井坊︵小松海浄︶消水坊︵内野日遮︶竹之坊︵佐野尭普︶深敬園 内役員へも同様、 院内一般へは赤飯を供す。

本院執事

艸々

(13)

棟梁池上鶴三郎氏は烏幅子素抱、副棟梁は撒かず、大工元老として池上新助秋山雄次郎の両人は麻上下を着し、其

他鵜川倉吉望月勝顔池上友一田中義之宇佐美泰造竹之内岸之助千須和近治井出心治今村要二一望月

猛夫等は羽織袴其他杣木挽鵡職等参列し一般参詣人も参観し盛大なりき前後の斡旋は工事坦任望月万次郎行ふ 註、脇棟梁鵜川氏は内房の人、時の冷泉監督及工事坦任望月万次郎氏の推薦を以て本工事に関係したが、同氏は鵜 川日行師の養子なれば万更身延に無縁の人ではない。 望月万次郎 三、西谷製材所 在来の製材所に大修繕を加へ七月以来機械の運転を始め職人二十余名を以て日々数十本歩の製材をなしつつあり 既に松材五百本歩は造材済み、尚山内各方面に伐採の数千本部の用材は大部分搬出を了った。 ︵教報昭和三年八月号︶ ︵教報第十八巻七号一九頁︶ 大正十五年三月廿五日

二、作事小屋の建設昭和三年七月

工事進行に伴い旧本堂跡地へ建設せられし五間十五間の建築作事小屋は狭院を告ぐるに至ったので更に十五間に八 間の作事小屋を増築した 製材機購入費壱万余円 工事担任を噸託す (130)

(14)

工場建設費六千円であった

︵御遠忌収支決算書︶ 四、仮軌道と巻揚機械︵ウィンチ︶設置 西谷製材所は低地の為め用材集中には便利なるも、造材を使用地に運搬するは不便なる故、同地より本院に至る間 一三五間の仮設軌道を敷設した。右軌道中樋ノ沢川に沿ふ百六十間は梢々平坦なるも此の沢を越ゆる六十五間は 非常な傾斜地であったので其の上部に電力利用のウィンチを設侭して巻揚げた、尚此の製材貯木場として祖師堂裏

側に間口廿八間、奥行三間の設備を椛築した。︵教報昭和三年九月号︶

ウインチは十馬力、製作者は埼玉県川口市の篤信森藤惣吉氏であった。

此の軌道ウインチの据付費は五千弐百円であった。︵前記決算書︶

註此当時の製材所は現在の洗心洞入口附近にあったものである。 五註 、

六、工事記事省略

木材運搬の為め林道の開設を行った。 此の経費四千参百円 林道開設 ︵昭和四年門末議会山林部報告譜︶ ︵教報昭和三年十月号廿八頁︶ ︵教報昭和三年十月号︶

(15)

十一、工事記事 十、工事状況

九、工事写真用材集積状況二葉

八、同建設概要

七、工事記事省略

納牌堂建築のため従来の納牌堂を大客殿前庭に移すべく五月廿二日より地搗中なりしが六月一日より引移工事に 従って工費支出も多額にのぼり、昨年の支出は用材代金を除きて金八万円余本年度予算は金十万円なりと。 月頃には素建位は行ふ計画にて、毎日諸職人一百五、六十人の多勢をもって、孜々として作業に従事している。 谷寮を取り払った跡へ移転すべく基礎工事中なるが六月大会前后には移転完了。引続いて新仏殿納牌堂は本年九 連ね、大小の用材は山の如く積まれてあるが、此の頃は細工に取り掛り中である。尚現釈迦堂は、御真骨堂前鴬 るが、すでに用材全部︵約一万石︶の伐採、搬出製材悉皆を終了し、今や本山境内一面に数棟の工事小屋を建て 其の後、該工事については御遠忌も愈々明後年に切迫せる折柄、本山は全力を傾注して之が進捗をはかりつつあ ︵教報昭和四年第四号十六頁︶ 仏殿納牌堂建設趣意書 ︵教報昭和四年第四号巻頭及同裏︶ ︵教報昭和三年十二月号廿三頁︶ ︵教報昭和三年十一月号三十頁︶ (132)

(16)

十四、工事記事 註 仕事は坪井重太郎請負にて工事費は金七千五百円を要した。 右上屋工事写真は同年第九号表紙に在り。 十三、工事記事 移転した釈迦堂 十二、工事写真 完了す、日誌 着手、五日完了︵日誌︶尚釈迦堂は六月十一日より移転開始し駕谷寮の跡へ引移し中であったが六月二十日移転 西小屋の北へ製材所を設け運転開始するに付川手執事へ岩尾雷記読経に行く 迄の日数を要する由 ている、右は商さ 仏殿納牌堂上屋工事 上屋工事 同裏に説明あり 旧御釈迦堂移転の後地ならし工事も済んだので目下は、足場、上屋工事に蒜手しようとし 右は商さ七十五尺坪数六百坪の商大なるものにて毎日十数名乃至二十名の人夫にて来る九月下旬頃 ︵教報昭和四年第七号十六頁︶ ︵教報昭和四年第六号巻頭︶ ︵四年五月三日日誌︶ ︵御遠忌決算書︶

(17)

十六、教報五年六月号に 十一月八日立柱式を行って以来、着々工事進捗中なる該堂は十二月廿日には本殿の丸柱全部約四十本を建て終

る。教報昭和四年

十五、工事記事教報昭和五年四月号表紙﹁工事中の納牌堂の内部﹂写真後裏に納牌堂建築上棟式の運びとなる。 昨年十一月立柱式を挙げ、以後該堂工事は予定の通り進渉し本殿向拝塔屋等の柱は全部建て了り虹梁、屋根等の 組立ても完了し尽したので、いよいよ来る五月六日釈尊降誕会を卜して上棟式を挙行することに決定した、当日 は本山関係者篤志信徒大工諸職人を招待して盛大に祝うべく目下準備中である。 尚本山は上棟式の件を同号に広告した、同じく教報五月号表紙後裏に、上棟式の﹁当日の最況﹂﹁大工諸職人﹂ 十七、工事記事 当山明年御遠忌準備の仏殿工事は五月六日上棟式を挙げ、以来日夜全力を傾注して工事進渉中の処、七月二日か らは屋根土居葺を行い、近日中にはいよいよ瓦葺に取かかるべく、すでに瓦は京都から到着しているので目下山 下より山上に運搬している状態である。屋根坪は七百坪からあり広大なものである。この調子でゆくならば九月 中には瓦葺を終了、十月中には上屋をすっかり取り除けて本年中には大略の建築を終了する見込である。 毎日発動機の音と大工のテフナや金槌の音が山上の森厳を破り、参詣者に対して大建築の将に生れんとする努 力と苦闘とを語るが如くである。 の二葉が掲載してある。 仏殿納牌堂工事の近況 (I3J)

(18)

満山の桜花燗慢として咲き宝樹多華果の金文其儘の陽存に際し吾山は立正大師宗祖日蓮大菩薩の六百五十遠忌 を奉行す法悦之に加ふるものなし殊に本日は当仏殿納牌堂の入仏会を修せんが為め虞で香花灯燭を厳備し歌讃 の音律天童の儀容を整へ清浄の大衆と共に醍醐の経王を識諭し以て開堂入仏供養の式典に擬す翼くは別頭の を奉行す法悦之に加、﹂ の音律天童の儀容を種 十九、開堂入仏式 十八、工事写真 夫れ惟るに往古吾山の諸堂宇中三堂の一として位牌堂ありしが明治八年不幸焼失す爾来仮堂にて全国信徒 の遺骨霊牌を回向供養せしも時代の趨勢頓に狭陰を告ぐ依て本年の御遠忌記念事業として断然該仮堂を徹廃 三宝哀感納受あらせ給へ 昭和六年四月七日午后一 二十、仏殿納牌堂造作成る 建築工事は財界不況に拘らず、全国十方有縁信徒諸賢の儲助と、本山当局為山の熱誠と相俟って、既に工事の七 分通りまで到達することを得た。屋根瓦葺は殆ど完了し、︵十月廿二日完成日誌︶目下上屋足場を取毅中であ

るから近日中には御堂の魏然たる姿を拝することが出来るであろう︵教報五年十一月号︶

完成に近づく仏殿納牌錐 入仏式慶讃文 時岡田法主大導師の下に奉行された。 ︵教報昭和六年九月号二十六頁︶ ︵教報昭和六年五月号三十一頁︶ ︵教報昭和五年十二月号表紙︶

(19)

工事完成 納牌堂は勿論昭和六年を以て悉皆完成した訳ではなく其後も造作が続けられて居たが、昭和十三年七月廿六日臨 時常置会に於て特別部よりの一時借入金等の不足額累計金一万七千参百八拾五円也を特別部より繰入れて之を滴

霊仏道増進証大菩提総じて有縁無縁六通四生法界含識平等利益

天長地久刷土安泰当山繁栄当堂厳浄火盗公私諸縁吉祥ならしめ給へ亦当堂建立に付大小施主志す所の諸精 寺十方檀信徒の援助を俟ち弥々大成して種々宝荘厳の実現を期せんとす仰き願くは仏祖三宝這般白善を証誠し て俄然遷化せられしは本末一統の痛惜措かざるものあり舷に老衲乏きを八十二世に継承せり因て更に全国の末 惜身命の結晶たり上人は当堂建設の為め一気呵成的に東奔西走して募縁に従事せられ略其の竣工を告ぐるに先立 た哀愁に禁へざるものあり当堂は前述の如く宗祖大士六百五十年の報恩記念事業たるも亦先師日布上人が実に不 る先師苦心の構造なり鴫呼誰か称讃せざらんや然るに老衲今落慶の式を挙ぐるに臨み讃歎の声を聞くと共に転 要回向の式場とす左右の廻廊及び楼閣を納牌堂とし十方志主の納骨位牌を安置す室に環境に応じ時代を酌みた 後の工程魔事なく畢了して今正に入仏の盛式を挙るを得たり抑も当堂仏殿は仮本堂として三宝諸尊を安慨して法 して当堂の建立を企劃す而て建設を宣言せしは昭和二年の六月なり全四年十一月立柱式全五年五月上棟式前 南無妙法蓮華経 昭和六年四月七日 《

総本山身延法主n

帰 和 南 (I36)

(20)

算する事を承認して絃に仏殿納牌堂建築を完成した。 納牌堂安置の三宝諸尊 右は伊豆玉沢妙法華寺久保田日遥上人の寄附なり本件参考記事左の如し 祖山にては去る明治八年焼失以来十界の諸尊像なく久しく遺憾に堪へざる折柄弦に本山玉沢妙法華寺の宝庫に一組 の尊像お在しければ同山貸主久保田日遙僧正並に門末総代等の諸師祖山へ寄附せんと凝議一決して其趣を祖山へ知 照ありければ祖山にては豊永法主を始め満山の踊舩響るにものなく旧臘︵明治三十六年︶下旬金塚監督井上執事 等奉迎として全山へ出張し受領の上新しき函に容入し祖山へ迎へ奉りしは全大晦日なり、祖山にては当分大客殿上 段の間に安置して供養敬礼すと云ふ右御尊像は何れも雄大にして光明荘厳完備し居れは法主を始め満足に思召し 玉山の厚意を感謝し居らるるなり因に記す此の諸尊は諾永五年の彫刻に係り寄附者は其昔江戸神田御玉ヶ池に紺 屋業を営める柏屋鈴木金蔵なる者にて至極護法鱒志の者なれは当時の玉沢貰主並に槌叡上人等に帰依し身は商家な がら折々其識席に列りて法義の研究に余念もなかりけるが玉山本堂再建の挙を識し一手にて金三千両を寄捨し同 諸尊を彫刻奉納し残余は再建資に供せり然るに鈴木金城なる者は目下八十有余才の高齢なるが故ありて去明治二十 七年の頃より今日に至迄腸州の本山小湊誕生寺祖師堂の守捜番となり今尚ほ健在なり小湊へ至って以来読緬せし 妙経は二千余部に及くりと彼此を思合すれば殊勝なる金城翁の為人を想見され肢も尊とし 教友雑誌明治三十七年二月十六日号二十七頁 前の比企ケ谷の祖堂再建材の事と云ひ又玉山の寄進と云ひ窪に床しき事である 十界諸尊像の寄附

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祖山常世員会は之に感激して明治三十七年四月廿一日の第十一期会縦に於て左の決縦をなした ﹁玉沢山より三宝諸尊御寄附に付返礼の件﹂ 本山大客殿に仮奉安する三宝蒲尊御寄附に付本山は返礼として、宝蔵中の狩野探幽の三幅対、外に一幅寄臘する事 補記 ︵常置会決議録︶ 以上仏殿納牌堂建立に就いて概述したが、本より完全な記録ではない、別に棟札に依る工事関係者名とか、関係者 の手記、談話等幾多補記すべき点多々あることは勿論であるが一往掴筆する。 ︵昭和四十五年一月十三日御頭会の朝︶ を決議す。 祖山棟梁 総本山代々の棟梁番匠の名跡を継ぐ先代池上亀之砿氏は大正七年十二月十三日︵行年七十三才︶逝去し、後継者た る池上保次棟梁︵亀之皿二男︶亦大正十年六月八日四十才を以て逝去︵久遠寺日誌大正十年六月九日、天鼓十三巻 七号の三頁︶したる後、屯之亟三男鶴三郎氏が、大正十年七月一日付を以て新に棟梁職に任命された。鶴三郎氏 は明治四十年二月東京工手学校卒業、同三月大蔵省建築部雁を命ぜられ、専売支局建築綣督となり、大正二年二 月埼玉県庁建築係拝命、又は国会識事堂建築工事に従事し、大正七年四月東京神田淡路町木田建築部主任となり、 翌八年三月、東京伊藤平右衛門氏の嘱托を受けて北海道函館別院の建築工事せる外、銀行、会社等の建築に従事し た 。 (I38)

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先に身延山宝物館建築、︵大正十五年︶今亦納牌堂建築に従い爾来、日謙上人御代を通じて各種工事に関係した。 ︵昭和十九年十一月九日︵行年五十七才︶逝去す︶ 尚同氏は業務上祖山に常住しなかったので、其間の代理は今村要三氏︵池上保次氏の弟子︶が勤め、要三氏が 昭和十三年八月十三日︵行年四十五才︶逝去の後は要三氏の実弟文二氏が之に代った。 ︵昭和廿六年一月廿三日︵行年五十四才︶逝去︶ 因に現在の久遠寺棟梁職池上正彦君は鶴三郎氏の長男である。 尚、身延町山田屋旅館主望月伊織氏方に歴代池上棟梁家の遺品記録等多数を伝えている。

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