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經營存在の主体的構造について : 經營學批判の試み(開學記念)

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,経螢存在の主体的構造について

経管學批到の試み

’     り.

序言−本論の企囲

 何事にも何物にもそれ虚器の問い方があると同時に、それは問いに封し税角に訂し、しかもその限りに於てのみ開かれ る・それは封筒と方法、方法と封独との根本面繋である。これまでの問い方を顧みつ︾維螢をこれに固有な問い方として 主体的に根本的に問うてみること、いは馬下螢に固有な問い方の學としての経螢學σ批判、これがこ、での阻題である。        エ         経管學は生れながらにして里言學に旨して如何なる關係に立つかを問われ、継史的現像自体からその存在性を問われ、かくて纒菅學は 多かれ少なかれ自己を問う自己批鋼として纒螢言論的野に劃象論方法論的な形をとらざるを得なかった。か、る努力はこれまで繰返し試 みられ、我國だけに限つでも一々列督し得な.いほどであるが、その問いの中心は常に冠位及び技術に⋮封ずる輕管の世羅をめぐっての掛象 論であった。しかも、それは封象としての纏螢概念の問題であって、裡管存在の問題ではなかった。然るに、封象論がか、る抽象的な形 式的な認識論的な概念問題としてならば・この握濟−馬術・糎螢がどのようにも問い得られるところがら、そこには無敷の學読の可能が 生じこれを系統すけること自体が困難となったほどである。か∼る學読の体系化はこ、での問題ではないがbこれを問いの勤象という点    紹管存在の主体的構逡について       一〇七 り

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ρ .    握管存在の主体的構造について  ,      一〇八 から大貫すれば、脛馨経典學醗と纏管技術學説と企業経絶戸読との三つになh㌔若し第三を何等かの仕方で第一に記せしめると二つとな       鋤 るであろう。周知の如く、ドイツでは多くの場合、脛管は技術的に解せられるが、これを然るものとして封象とすれば、経瞥技術學とな        の るであろう。経管を正に技術的なるが故に捨象して專ら早る種の纒濟的なものに封象を限定すれば,例えば企業纏融解叉は私署濟學か個              別皿幽思かになるであろう。これまでならば問題は頗る翠純に見える。然るに﹁脛警は輕濟である﹂と解すか、纒管は旨く人間の目的行        ワコ      ヨ 爲の秩序的計書的毬行として懇々な形をとり得るが握濟の経密も語り得るとするか、逆に経管の経濟が考えられるとするか、とにかく纒 管脛瀦を流場とする脛管脛濟學が成立するに至って問題は複雑な檬相を呈するに至った。それはともかく、経螢纒濟學はニクリツシユの       の 合言葉を掲げて、肚會纏濟學綜合経濟學國民経濟學との濁立的併立を説き、その根無の確立に努力する。纏警學というが如きはそのもつ        ゆ 技術論的な意味の故に多くの場合反封せられ、用いられるとしても一の略聡にすぎない。       σ  こ、では個々の學説がそれ書体として問題となるのではない。上のところがら明かなように、経管學論の問題は、論拠の問い方の問題 をなしているから・こ、では、全体としτ糎瞥纒濟學や紹瞥技術學の纏螢に封ずる問い方が問題である。學者が意識するといなとに拘ら す、何れの卜居學も封象と方法、方法と籔象との統一として特有の問いの構造という性格をもつが・上の諸學説を問いに於ける親鮎から       11 すれば或は認識論的と存在論的とに分ち得るであろう。私は寧ろ爾者を共に意識の立場と規定して、これと行爲の立場とに分つのがよ         勒 り根本的だと考える。この鮎からして、胃管を箪に技術として、或は軍に経濟として箪に理論的輩に規範的に問う問い方は、意識の立場 の封象論理分析論理の問い方の特質であるがb正にか、る問い方が問題である。経螢を纒管著書として問う問い方も根本に於ては同様で ある。編密を分署的に間うはよい。しかし、それだけで絡ってはならす、その前に纏螢そのものを、存在そのものを問うことが間題ではな いか、しかしこれを製し得ないところに認識論的立場は元よりこれまでの存在論的立場の意識の立場としての制約性が見られる。断に問 い方が封象の性格を規定するからである。纏瞥を纒管存在とtて問うことは問い方を饗えねば、立場を言えねば不可能だということを意 昧する。私は、かくして、纏瞥學が輩なる技術學や糎濟學ではなく眞に経管學であるには、どうしても行爲的主体の立場に立たざるを得       動 ないと主張するのである。それは営って論じた如く箪に論理の問題ではなく、歴史の問題であり歴史的現實の問題であり、同時に脛管學

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O の歴史的動洵の問題としで深くして明瞭な恩讐に立つ。いま留立的に併立するとせられるごつの経濟學の封象を封照して見よう。即ち、 脛管纏濟、商業経管脛濟などを融會纒濟、商業維濟などとの封照に鞭て、若しそれらが異質的だとするならばbそれは論者のいうように        粉 脛濟と経濟とのそれである前に既に骨節と二三とのそれに基くことが義定せられていることを見落してはならない。謂わゆる心霊纒濟な       覇 る概念構成が如何に形式論理の所塵であるか指毒するまでもなかろう。経書と経螢とが同一物の二面であるとしても、抽象的な二面が問        ゆ 題となる前に同一物そのもの、存在が問われねばならない。纏瞥の按術や経瞥の纒濟が問題となるにしても、輩に抽象的な一面として\ はなく、経瞥そのものに託て具体的に根源的に問題とせられねばならない。常に紳螢そのものが問題となる。けれども、糎瞥を存在とし て問うことは既に意識の立場を越える別の立場からの問いであることは明かである。それだけではない。今日、現實に問題となっている        恥 新図譜者問題や紹瞥革新の問題を問うことが、意識の立場を越えて正に行軍的主体の立場に於てのみ問い得ることも明かであろう。問い        ︸ 方の韓換、立場の韓換が問題だという所以である。立場の思子、問い方の出軍は同時に樹象の韓換を意味するのである。 思うに、素雪嵩物品評は埋論的、實謹的、規範的というも、抽象的な経濟に囚われ、糎瞥技術議論は純粋的、就會的どにうも、抽象的 な技術に囚われる。しかもより根本的には、それは意識の立場の抽象性と固定牲のゆえである。所詮、學問は何物にか囚われることなく しτは成立しないとしても、その囚われ方に問題があるとしなければならないし囚われつ∼しかも同時に囚われないような囚われ方が必 要である。かくて,七二墨・は假令誤つτも紬管存在に囚われるのでなければならない。経⋮営存在に囚われつ、しかも囚われないというこ        由 とは常に緬瞥存在の護展に即すということである。非蓮績の蓮績ということである。内在即超越し超越即談在ということである。紳管存 在は極々に璽つた。綿螢はわれわれの問い方に翻しては後に明かにするように六諭的宅休存在である。か、る群書存在に固有なる問い方 を護見してこれを震うのでなければならない。かくて、われわれのこ、での問題は、軍に細螢という言葉の解羅からではなくb動かし難 い輕螢存在の事實に直面し、糎螢を宅休的存在として問い、その主体的構造を根源的に把握し、以て近代劇瞥學を越えそこに於ける封立 の統一として眞に輕⋮営學的なる纏螢學の二恩を自蝿助ならしめる一、の端緒たらんとすることこれである。  ω周知の通り、一九一二年以後の私経濟三論孚もこれであり、じ口雪ぎご浴葺岸ξズー義挙轟ヨ涛ぎ謡霞=コ魯匡①ぴコ。二言ロ畠無げ姿す①”幹一α    経管存在の主体的構造について        一〇九

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「 経螢存在の主体的樗⋮造について

=○

 にて経管學の輕濟學に封ずるω尋霞象見乱。ξ国8旨鳥目養疏。ロ乱白雲ξ躍。肖a旨窪。コかの問題が軍要だといったが、明かに認識論的  立場からの問題といえる。 働池内信行b纏砂壁濟學副読、愚管至難學の基本問題、耳管経濟鞍懸など察照・北川宗藏、纏螢學批到、これらは存在論的立場からの  問題どいえる。      .      一 ㈹この設の源流は古いが特に酒井正三郎、爆管技術學と纏管経理學、大木秀男﹂緯螢技術學、鍋島達、技術及び技術學−経瞥學の本質  に關する一考察︵趣濟學論集六雀一二號︶など蓼照。 ㈹匹。碧さ票気欝三差一μ象①℃臥く跨乱日ぎ冨需肌巨匿、博国。詔旨鐸︻こぞ5尾ぎ一三け巴。ξφ号肖すξ一二昼ぎぎμd言①茸①剛臼9=長噂醗。げΦさ  Oび甘犀け琶儀南Oξ籾O暮員晃。・霜①一器缶㊤南①厚ざ穿’唄冒ヨO一覧鉱旨コ。ざ訂Oがこれに屠し、正統雷管纏寄書派からは異端者とされる。≦、卑げげ        ゆ  ⇔雷箕①。一三ロ跨く。罪囚●因一¢写q。さ田嵐鋳乱舞αqぎ︵嵩〇一、ユ導け乱舅ジ島黒邑魯﹃・”賦.句。寓●肉.B匂昌嶺・二閏①hけ・甫三ぴげロコ①㏄一︶お。嘗p揖騎  く。”中国・o自ごび①びOび冨答ロ巳︼W。窪舘身命碧蓄駐①良2国曾尾冨欝乱同け望﹃無邑。7多凶●露出・労N㎝賢7長”一〇國亀け・参照。   、 ㈲。Dα 匿β凶ξ寓㊦畠9。一。瞬ざ号円霞畏9三器畠茸雲町や≧島一︿ユ會宰寛ぎ巨e8び①け尾野菊三三ぎ︸ゑ葭刀自ぎ屋。冒晃ロ言  さ9猛●︽﹄鎗μ預・ 個松井辰之助﹂輕警経濟學原論、一九頁6咳ざ冠ぢ。7葺㊦﹂Wの留山直雇凶洋訟島餓﹃N>鼠一・ 働幣冠一〇5富。P。ξ①<。目≦﹁ごヨ9無ヨぴ。曳¢ぴ℃閣暑霞閑W琴﹃鉾譜∼認幽 捌大塚課、メレロウイツッ紹管紳濟學総論、二頁以下。 ㈲増地庸治郎、纏螢糎濟學序論、この説の反懸者としては特に中西蜜雄、倉皇紹網羅を墾げよう。 10健n同上書にτ賛同されなかったが、纏管學講話に於τ略欝とせられる。 ・    ・ 11 r丙信行、上掲書参照。 12 ル著、公赴企業と現代纏瞥學参照。 瑚上掲拙著参照。 燭松井辰之助、同上書、一九頁以下蓼照。 剛穿。し・鉾ρ竃・彼はこれを饗の嚢を以てか逸べているが・紹濟と奮とが纏濟警の二面であるといって・何かを読  明したことになるか、比喩は有効な場合もあるが、多くは論理の逃遽の如く見える。

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16 蝟リ秀男、纏管按術學、四六頁蓼照。 17R城章、企業者論一新蝋管者の性格︵曲管評論二二年一月︶焉場克己、新曲聾者論批到︵輕毒忌論ご三年八月︶柳川昇、新醤者と  纏螢擢︵輕管評論二四年八貝︶古川榮一、アメリカ紹瞥學及び新紹菅宝玉、その他、精根。こ∼では詳論出來ないが、今日の螢働問  題を経㎜醤存在との生ける欝欝に於て問題とするとせよもその馳のみからでも、紳管學の立場の樋管は不可避となるであろう。

二経螢の紹螢性

“   以上に於て試みた近代維螢學の批判は根本に於て近代維螢學が経蔵を軍に概念として問題とするに止り、これを存在と  して認識し得ないという認識に基いている。そして維螢という存在が近代経螢學の意識の立場からの問い方では問い切れ  す把握し切れない存在であるという事實の認識に基づいていたのである。そこで、何よりも先ず経書がかくの如き存在で  あるという存在性を明かにしなければならないのである・私はこれを経螢の奇僻性の問題と呼ぶこと\する。新造語が許  されるならば切①尽目①びはごdΦ鼠①ぴ園丁津に於て把握せられる。私の見るところによると経螢が経螢存在であるところのも       笥  ,  の即ち眞の意味での経螢性は経論の主体存在性詳言すれば資本に媒介される事業活動の事業主休に於ける統︼性としての  存在性である。言葉ではなく、軍なる概念ではなく、維螢の事實を見よ、如何なる維螢もこの資本を媒介とせる事業活動  の事業主体に於ける統鴎性なくしては、企業.と事業との経螢に於ける統一性なくしては維瞥たり得す、これに於てのみ経 螢であり得る。経鼻はか、る意味での維螢性に於てのみある。経学は維螢性と共にあり経螢性と共になくなる。下意性は  経馨の統一性と共にその全体性乱立性を示す根本事實であるQ経螢はかく在るより外に在り方はない。それに・も拘らす、  近代維詳録はこれをか、るものとして問わないのである。問い得ないのである。これまでの凡ゆる経螢概念に於てまた凡  ゆる経螢研究に於てこの維欝の生命たるべき維螢性が意識的にか無意識的にか轟く捨象せられて、いわば経螢の形骸のみ        9     脛馨存在の主体的構造について      一一一

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       、    経螢存在の主体的構造についτ      露      一=﹂         が維螢として概念せられ概念として固定せられ、か、る構成概念としての経螢が問われるのを見る。人或はいうかも知れ ない。経螢の黒砂性は自明のことであり、 何れの、経管概念もまた維螢研究も凡てこれを前提としているのであって、 今 更ら問題ではない、そこではその一面の分析が問題だと。だが、その自明の前提は軍なる前提ではなく寧ろ経筒そのもの である。これを捨象して分析に経始するということそのことが問題なのである。なるほど、これまでの凡ゆる経螢概念を 槍討して見よ、経螢分析にせよ、適齢比較にせよ、経螢管理にせよ、維螢組織にせよ、経螢耐湿にせよ、凡ゆる維螢研究 を槍玉して見よ、それらは総べて維螢の維螢性を意識的にか無意識的にか、軍なる前提としてしまっているのである。前        σ       辱 提としてしまうということは閲題にしないということである。けれどもこれら凡ての概念なり、研究なりが眞に意義あり 生命あるものとなるのは明かにこの経習性に於て号ある・そして凡ての研究は結局そこへ・賜着せねばならないのである。        ノ     の いま、こ、でそれら凡てを槍慰する訟裕はないが、仕事を哺方に於て技術として、 組織として、 心志として概念するに せよ、 他方に於て何等かの意味にて維済として概念するにせよ、 或は君上の構造分析、 機能分析、 過程分析にせよ、 更に或は内部維螢、外部面罵の問題にせよ、それら凡ては経螢存在の一面の分析の仕方の問題、経螢存在の前提の下に分        の 析と綜合との統一の論理的問題である。それは経螢存在の問題ではなく、これを前提する経済軍位の認識の問題であった といえよう・維二軍位の国ぎげ。詳も軍に軍位といわるべきものではなく、多即日、一即多の統一、一の毫休であって、か        り 、る全体が他の全体の部分と見られる限りに於て血豆といわれるにすぎない。ともかく国βび①律は一つの杢体であり、同 時に一である。根本に於て有唾壷、無即有分域造をもつ。経螢存在自体一の国ごゴ①詫であるが各種経螢皇位の国ぎずΦ謬と 原理を異にし構造を異にすること上露の如くである。経螢箪位は経螢存在を前提し、これとの斎忌に於て意味をもち、そ の論理問題もこ、にて初めて根本的に解決せられる。例えば、維虚心の難問とせられる内部経欝、外部経由の問題、ニク リツシユのUdo銭。び鮎①胃①とく。葺。貯ω冨冨①の問題も、これを軍に内外という相室的概念に關らしめるとき、軍なる.論理 9

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ダ        ’智 問題とするとき難問となり無規定なものとなるが,内外の統一として主体に点て、存在に於て、山野性に於て、問題とす るとき直ちに解決出來るのである。そして、こ、からでなければ客観的には解決出忍ない問題なのである。かくの如く、 経営の脛螢として存在するのは維湿性に於て∫あり、凡ての研究が落雪存在を前提して居り、また當然前提すべきである ことは明かであるが、それが輩に前提たるに止り、これを存詫的に全体的に経論性に於て把握しないところに問題がある こと上述の如くである。分析と綜合との統一の仕方、原理が問題だというのである。然らば、何故にこの維螢の生命が近 代維欝に湿て問題とされないのか。われわれは考える。問題としないのは試し得ないからである。問題となし得るものし か問題となし得ないからである。何故に、その立場、その硯角、その問い方、方法の固定性のゆえに。これを明かにしよ        ’ .つ。      ρ  先ず、維連なる概念はドイツ語の切。嘗①ま①μから古る切。けユ。びという言葉の支配の下に問題となつ仁。 維螢維濟學は 我が國に於ては今日までコの外來科學となっている﹂ともいえるのである。勿論、これを脱脚するために種々の努力が試 みられ傷。それにも拘らす、維菅が維螢性に得て問題となり得ないのは何故か、こ、に根本問題がある。それは上述の如        の き近代維真玉の立場から由聾するのである。近代維螢學の封象規定の根本特質はこれを大体次の如くいうことが出來る。 同、︸律に立つ見方が先ず封象をこの見方に適関するように構成し、かく構成せられたる同一律の支配する封稼界を封象に 即しつ、封着的に分析綜合するのが戸主學の任務となるということである。そこでは一切が並置化せられるのである。主 体的なものも封象化されて封象となる。そこでは存在でなく概念が問題なのである。か、る見方に於て、生命とか生活と か主体とかいう合理性と非合理性、必然性と可能性、過去性と未來性、︸般性と個別性、類性と個性、連言と非連績、生成 と形成、實体と作用、煎毒性と膿皮性等々の矛盾的封立の統一がか、るものとして問題となり得る筈がない。いな、なし 得る筈がない・経螢の維螢性即ち事契の主体に於ける続一的存在性が問題外におかれる所以である。近代経螢の世界は同    脛管存在の主体的構⋮造について       州崎ニ 伸

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   経管存在の主体的樗造について      一一四 哺律の支配する購成的な静的連績的な馬面であるからである。その深さに於て、その廣さに於て確かに近代経螢學の高峯の       の 一たるニクリツシュ経管學もその例外をなすもめではない。彼に於ては経螢學の封象は維螢と呼ばれる9のび。ぴΦ芝山葭 国ぎず。謬①β畠窪≦−剛昌の。甥2。坤とし、経螢生活空音濟生活と考え、此の繧螢生活を輩に表面に於て望はなく深く生の根本に於 て理解せんとするところに特質があるのであるが、維螢の維習性は毛。昌賃ヨ貯亀にあるとする外はないのである。か、る 債値循環が風なる蓮動と異るのは生活だからであり、主体の生活だからである。彼にあっては生活というも同一性、連績 性に於て抽敦的であって、主体の生活として具体的辮誰法的ではない。  以上述べた如くして、近代維螢學に於ては経螢というも眞の経螢即ち経塔存在ではない。それは経理の分析概念であ る。かく見れば、上里を経螢性に隔て歴史的就會的に具体的全休に於て把∼嬉し、 これを然るものとして問うところに眞 の維螢學が成立つといはざるを得ないのである。然るに若し経螢をかくの如く把握し得るとすれば、それはこれまでの意 識の立場を越える二選的主体の立場からであり、か、る立場の軸換に於てのみ経螢の全盤性は問題となり、この立場から 然るものとして経螢を問い得ること、なる。われわれにとっては何よりも経螢が二二性に於てあるということ、主体的統 一性と共にあるということ、経螢が一の存在として主体性をもつということの根本事寳の認識が重要なのである。、  ω宮田喜代藏、輕濟性と紳営佐、細僅學論集第二輯は謂わゆる郷三原則を規準として考えられた紹濟性を煙管性と呼ぶべきだとされ   る。こ、ではそれと全く異るのであるが、しかしこの紳管牲が當然に合理性を含む限り、根抵に看て關連あることを見.落してはなら    ない。  囲この事業なる概念は企業、紳管と共に経管學に於ける重要概念である。これはこれまで學術語として用いられなかったが、それだけ   に特に注意しておきたい。なおこれについては後を見よ。       、  ㈹後に明かにするように、ゴツトルの経管概念は技術に關らしめる経管単位であるが、これを上声に關らしめるか、生塵憶想に關らし   めるか、組織に關らしめるか、ともかく何かとしての純螢の一面として輕管主位と呼び得ると思う。それら原理を異にする輕螢箪位   がそれぞれ共に纏管と呼ばれるとしても、それは言輩⋮の問題である。 恥

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9 ㈲例えばb。冨三二ジ匿言①琶。∬①悪馬臨㊦誹類岸駅島無法一①げρコa・余∼㎝Oに於ける寓Φ巳多の年並を見ればbか、る論理が看坂出來るで  あろう。 ㈲例えば、松井辰之助、同上書=一五頁以下の﹁糎管﹂闘の研究を墾げよう。氏は研究の結果紳馨H意志糎濟説に立たれるが、この説  の出黒点は特定の主体ば即した三七たる個別緯濟であった。この主体が逡に意志になるところに問題があること上述の如くである。−  更に、例えば、爲場敬治、緯洋画方法論、糎馨學研究、導管學の基礎的諸問題等を見よう。氏に於ては贋値の流れの問題と組織の問  題との二大基本問題を論理的統一に於τ把握することの必要が繰返し述べられている。しかし、これら二大基本問題を五韻的に如何  に統一するか、そこに論理問題があるが、か∼る論理問題の前に樋管存在に於τは統一されて在るのである。主体的行爲的に統一さ  れて在るのであるσ導管が纒響性に於て在るというのはこのことである。論理というならば、か、る存在の論理でなければならない ㈲上掲拙著、池内信行、上掲魯。 ㈱諸ざ峯一深︸ポ一︶ざψ㊦汀一①芸無ぼ鍵07鉱rその方法論的基礎すけの試みとして、ロ臼。︸μ︹ゴ篭言η︾一︶塁7唄㊦序。亀9押葺。ご8巳一コ露①同国ぎ国9毛ユ?  。・島線琶①︸題①を學げねばならない。その批判については、北川宗藏、緯螢學批判、池丙信行、縛警経濟學史など身包。

三経螢の主体的構造

 以上に於てわれわれは維螢が経醤存在として主体性のものであり、然るものとして煙雲性のものであることを明かにし た。こ、ではその経螢存在の主体的構造が問題となる。  ところで、このような主体的構造は如何にして把握出要るか、何事も初めが大切なだけ困難でもある。問い方が凡てを 決するから。三聖がいわばスフィンクスの謎のように見えるのも問い方にあること上に示した通りである。例えばプリオ ンと共に言葉から出磯して夕雲を問うて見よ、そこでは無規定なものとなり何を経螢というかは主観的な約束となる。ま        た経螢を何かの機能或は作用として出聞してこれを問うて見よ、﹁一切の主体的なものが機能、作用の中に解消されてし       り まうのである。﹂といって、これを通常試みられるように何か實体的なものとして出没するとせよ、構造とか過程とか封        覧    経管存在の主体的構台について       一一五

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   脛管存在の主体的構造﹂ついて      一一六 敦的なもの客体的なものは把握出盧るとしても、そしてこれを経醤と呼ばうとも、軍にそれ.嫁けのことではないか。経螢 存在はかくの如き問い方から問われ得ないこと上述の如くである。然らば如何なる問い方で可能となるか? それは経螢 存在への道は外から軍に超越的にではなく、内に這入って内在的でありながらしかも同時に超越的であるような仕方で現 實の捕手そのものに直面することでなければならない。ギ体.的でなければならない・近代維醤蝦のように輩に主観的なモ        リ ノロゴス、軍に客観的なモノロゴスでなく、正に経螢とのデイァロゴスであり、経国に於けるトポロゴスとして、経螢自 体との封話に於て経螢の論理を語らしめる外に道はないのである。  かくの如き問い方に於て初めて経螢は何よりも主体的存在としてその維螢性を示すのである。恐らく、ゴツトルほど経 膏を周密に分析し老察している學者は少いかに見えるが、しかし彼特有の野砲と経螢との戸立の故に、異骨は結局﹁諸適 程の捜術的に秩序づけられた被統合態﹂以上に出です、経濟構成体に構成さるべき要素であり、いわば経螢即位であって       の ﹁経濟構成体は一般に諸経管の﹁体系﹂である﹂とするが、寧ろか、る﹁体系﹂そのもの、存在そのものこそ正に勝義の経      ラ      ガ      リ      ヨ 螢なのである。経螢が一の主体的存在であることは以下に明かにせんとする事⋮貫の示す通りである。宅体といえば直ちに 人聞が老えられるほど、、入間は主体存在以外としては入間であり符ない。主体性の根本は人間にあること否定し得ない。 併し入間の主体的在方は梯々であり得る。維菅も根源に勝ては人間の宅体的在方の一つとして主体的存在といえよう。マ ーシャルは維紫煙を一等では入閣の學といったが、その意味では維螢學こそ入闇の學、人間存在、主体存在の學だといわ    妙 ねばならない。  思うに、先ず怪聞があって然る後生活があるのではない。生活に於て入開があるのである。入聞とは人間生活である。 ところで、その人間生活は一般に生命の毒生産といへるが、それを生活資料の蒔生産を媒介とせざるを得ないところに人 聞の根本的な有阻性があるQ入陶はか、る生活資料の再生産に撃て、或はか、る縫生産を媒介とすることに於てその生命

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の再生産を行う外に道はない。生活の佳麗は々様であり得るが、今Hのわれ・われの生活は就會生活といわれるように、か ∼る再生産を媒介とすることに煮て螢まれるQか、る人聞生活へ媒介せられる再生漆も、歴庚手署會的に種々の段階と形 態とをとったが、ともかくそれ票資本を媒介としながら7野猫立の主体的事業過程として主体的に一の統一的全体となり それ固有の生活を螢むときそれがまた一の畜生となる。か、る意味にてこ、では経螢は入聞生活へ媒介せられる再生産即       の       ロ ち資本による事業の維螢である。家計から猫立しつ∼しかも、連結せるゴツトルの謂わゆる﹁目的構成体しニクリツシユ の謂わゆる﹁派生的経螢こがこ、での経螢である。経螢は正に然るものとして一の入間生活であり、固有の人間生活へ媒 介せられるところに意義がある。経論は団有の入間生活℃於て正にあるべきが故にあるところのものであり、そこに経螢 存在の理念と共に根源を見るべきである9  経螢即ち事業維螢は或は生業として或は企業として様々な形態に於て書影せられようと、それは本塁人聞生活そのもの から、計會の事業或は杜會の生業として瀧會から杜倉の要求に基いて生成する。か、る黒影からすれば事業は経螢の主体 にして基体である・この黙からして、経螢は派生的、手段的、客体的存在であるとせられる。この鮎は特に重要である。 しかし経瞥は軍に就會から生成するのではなく、主体の形成作用に於て自らを形成するのである。生成というも形成を媒 介とする生成である。事業を主体的に、行爲的に、技術的に形成するものは、資本を媒介とするにせ.よ、ともかく喜平で ある。言々とは維螢の自己形威である。勿論、その際枇倉の事業を耽會の事業として形成するか私の事業として形成する かは主体の性格によって異り、形成が果して生成であるか、そこにこそ根本問題があるけれども、経螢が主体性のもので あるのは明かである。われわれが維螢を人減生活の根本事實だというのは、生成と形成、形成と生成との晶群に於て、そ れが輩に野駈生活に深い繋りをもっというに止らす、経楼自体がそこに於、て螢まれる人間生活に外ならす、所詮人間は維 螢から離れ得す、纒螢に於て生活する外ないということである。勿論、経螢が様々な形態をとり、複雑な構造と機能を螢    紹螢存在の主体的構造について       一一七        一

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   纒螢存在の宅体的構造について       一一囲 み様々に分析せられねばならないが、その前に何よりも骨牌存在のか、る客体的に主体的、主体的に客体的という主体的 構造を指摘せざるを得ない。よくいわれるように、群体は客体に干し、いな主体に平してのみ主体である。維螢は形成主 体として、事業遽行の,ための客体、即ち一方には資本その且ハ体化としての財産、要するに事業構造に、他方にば螢二一維 馨者や從業員、要するに事業組織に封怪しつ、統︸するのみならキ、他の主体に樹立し、しかも経豊平係を通して結びつ くに於て主体である。内外に於ける封立と矛盾とを越えて常に統一として自己形成するところに書体たる意味がある。経、 螢は正にか、る事業の事業に於ける自己形成といえる。経緯は明かに主体的構造をもつ。経萱が自律性や猫立性をもつと せられるのもか、る野立を統一に齎らし得る屯体存准たることの嘗然の鯖結である。曾孫は駅名的世界に於いて他の主体 に封立する主体存在といわねばならない。主学的に客体的、客体的に主体的というのが維螢の在り方である。  維螢が事業の経螢︻として一の統一ある生活を螢み得るのは、事業経螢の合理的自己形成が可能となるのは、経螢が一の 存在として主体性をもつのは、いうまでもなく、物に於てではなく入に於てぜある。物を資本を媒介とする入の作用であ る。入の組織に於てゴある。組織は多即一、一瞥多の形成であって、維螢は猫立の事業組織即ち経瞥組織として主体性を もつといわなければならない・維螢の主体的存在性を作用的に措うものは現實には維聖者、これを中心とする経度組織で あり管理作用に外ならない。経聖者が資本との關係に去てどのような形態をとるかぜ維螢存在の在方を決定するともいえ る。しかし逆に維螢存在の在方がまた経聖者の性格を決定するともいえるのである。雨湿は相五媒介的にきまるのである       の 。経世奢が歴皮的に様々な形態をとったし、現に種々なる形に於て存在し、それが極めて喧大な意義をもつことは既に指 摘した如く新維擦者や経螢革命が問題になっていることから明かであろう。それは後の問題とし、維管と維螢者とは互に 理想し合うものであって、経菅に於て経三者があり、維猛者に撃て経螢があるともいえよう。かくて経螢者の作用、組織 の作用も管理の作用も結局は経螢の作用忙るの意味をもち、かくて維螢とは事業経螢の自己形成であり、経螢[隼活であり

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主体存在であるということが出來るのである。いな、いわねばならないのである。  要するに、資本を媒介とする事業経螢を息休として老察し、か、る経螢を維端者の経管作用を中心に行爲的主体的に形 成せられる事業生活即ち経螢生活に於て把握し、主体性の滲透せる統一的構造、他の主体との封立に媒介せられつ、もそ の故に主体的に形成的に作用するものとして主体存在というのである。内外に矛盾的言立を含みつ、常に統一を形成する 主体存在というのである。そして経蔵存在は種々な性格をもち得るが経醤の形成的ネ休が耽會の生成の主体としての自畳 に徹するとき眞に歴史的に主体的といえるのである。経管存在は軍に働くのでなく歴史的に働くのでなければならない。 心置の目的性、計書性、意志性が論ぜられるけれども、それは行爲主体の一の作用であって、こ、に統一せられるのであ る。これを軍に抽象的に機能化し封象化するところに問題があること上述の如くであるQ経螢者を直ちに主体だというの ではない。維螢者は彼自体人闘として主体ではあろう。しかし彼は虚血機關であって、経瞥そのものが一の猫立的全体と して主体的構造として主砲的存在だというのである。経螢は﹁経螢ということ﹂と﹁翠黛というもの﹂との主位的統一、緋         助 誰法的統一であるQか、る考え方に封しては種々の上封が起るであろう。特に、企業の主体性と経管の主体性との問題と して、われわれはこれを老察しよう。   ω噂ほ。∼♪・艶O●融・NN∼Nω松井辰之助同上書、一九〇頁参照。   働酒枝義旗、ゴツトル纏濟學入門、六四頁、そこでは近代機能主義の批判がなされている。纏菅を﹁糎管すること﹂として問題とする    のは根本的にか、る問い方である。   ㈹これに反して・佐々木吉郎、纏管概念についての一考察︵盲管紹濟研究第五冊︶は、・愚管を﹁紹管すること﹂から切り離して﹁纏管    することの本体﹂即ち﹁輕管というもの﹂として問うのは輕管輕結言に一般の問い方であるが、これは、豊富的な問い方である。    ﹁纏管すること﹂を離れて﹁輕管というもの﹂があるか、この亡者の統一こそが問題だ、後を見よ。   ㈲柳田謙十郎、場の哲學参照。     .     纏管存在の主体的構造について       一一九 、

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纒管存在の主体的構造について 一二〇 ㈲酒枝氏上掲書。 ㈹ゴツトルは技術的に統合されたもの、みを纏螢とし、その濁立性を認めないが、その根櫨は箪に技術的というだけであって㌻この制  約さへとれば︵それが問題だが︶彼の意味で血管の統合としての輕濟構成体こそ輕螢の輕螢というべきである。かく解することが出  來れば、彼の経濟學はわれわれには最も勝れた纒管學の一と思われる。      ・ ㈱本源的構成体︵ゴツトル︶本源的経管︵ニクリツシユ︶としての家の趣濟が纏馨であるか否か議論の分れるところであるが、上のと  ころから明かな如く、それが経管であることは當然認めなくてはならないが、こ︾では問題の外におく。 ㈹上掲、拙著b一一一頁以下蓼照。       . ⑨從來紹毒口経濟學の努力は、糎管を謂わゆる糎濟的に解する爲に、既に指摘した如く纏管は﹁経⋮営すること﹂と別なもの、實体的なも  の﹁専管することの本体﹂﹁裡菅というもの﹂とされている。そこに、近代糎席亭の限界を見るべきである。佐々木吉郎経警概念に  ついての一考察、経管纒濟研究第五冊を蓼照。

四 企業の主体性と経螢の主体性

 企業の主体性と経螢の主体性との問題は企業経螢と事業経書との鱗茎、事業、企業、経螢の關係を明かにすることであ り更には主体性の攣化を通じて根源的主休性の問題へ導くこと、なる。    、  先ず、事業、企業、維螢の關係であるが、これは七って論じた如く認識の方向を示すと同時に存在の方向を示すともい えよう。経螢概念や企業概念ほど論じ古されしかも明瞭とならない概念も少いが、われわれは簡素に企業は事業重富に於 ける、資本の所有風息乃至結合里諺の方向から認識せられる概念であり、事業は企業維誉の内容を瀧前袖に敢禽生活に封 ずる励會副作用の方向に於て、耽會的毒生産の方向に於て認識せられる概念であり、維螢は私的資本を媒介にするか公的 写本を媒介にするかを問わす、暁會的機能としての事業を富む主休学形成的作用從って素心的技術的方向に成立する概念 である。経書主体性の根源が企業か事業か、個人か融會か、資本か勢働かということは淋會的に歴史的に存在論的にきま

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9 る問題である。      、  以上の如くして、企業維螢とは三食者が、.業者叉は資本家或は企業であるところの事業経螢のことである。それは事業 脛螢の一の歴史的形態である。企業主体性と流量主体性の問題は幻Φ誤謬σ濠感けに關らしめるか♂<葺ωo冨h慈。ず犀①諜に關ら しめるか養本の所有面に關らしめるか機能面に關らしめるかの認識論的問箏あり・いな・これも結局は存在論的ξ まるという慧味にて、根本的には存在論の問題、イデオロギーの問題であると共に血忌震展の動向の問題である。後の問 題として見れば、経螢構造の獲展は企業経螢から事業経螢への動向を示すことが明瞭に看取せられる。企業主体性から維 螢主体性への獲展であったといえる。下露主体性の問題は資本が支配する限り幻想だとか倫理化だとか批判せられるけれ ど存在號展の動向としては否定し得ないと思う。これを詳論することはこ∼での問題でないから、こ、では企業経螢の事          ●        ゆ 業疏外と事業維螢の企業疏外としてシエマ的に蓮べるに止める。  資本主義の成立獲展は事業経菅から企業維螢への蛮展であったが、か、る焚合は新たな意味での事業経螢の生成過程で ある。先ず、謂わゆる自由競孚の段階に於ては私的利盆の自由なる追求を媒介とすることによって却って敢倉的利益を堀 湿せしめ得るという意味にて、企業は合理的存在と考えられた。有意、資本主義駄會に於ける生活の向上は個人の螢利を 媒介に有位利釜を實現するという耽會機構の結果であってか∼る制度の歴衷的意義は否定し得ない。それはともかく、そ こでは螢利主義の故に事業維螢は手段となり、必要悪とさえ見られる。企業維螢という言葉はか、惹事業疏外の歴史的性        ゆ 格を示す。そこでは、社會の事業は資本家の私的事業として採算のとれるもの、みが事業として形成せられる。馳會的な 生成が個人的な形成を媒介とするという所以である。ところで事業の疏外は維螢の從屡である。企業は経螢の所有体、支 配体など、いわれるように一の甥詰物となる。しかしながら、事業の疏外は企業の螢利主義の見方の故であって、その疏 外にも拘らす、事業を媒介することなくして螢逆なく企業はあり得ない。いわばヘーゲルの﹁理性の巧智﹂ともいうべき機    脛管存在の主体的構⋮造について      .       一二一

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   糎螢存在の主体的構造について      =一二 構を通して事實上事業は予言し大規模化し就魯的利釜を増進する結果となつ江。何事でもそうであるが、事業繧螢も大規、 模化し高度化し、岡定化すればするだけ自律性をもち企業に封ずる作用力を得る。そして、事業の大規模化高度化の要求 に賢慮しきれなくなるとき、企業の存在は形式化し、非合理的存在となり、批判せられるに至る。謂わゆる猫占段階の資 本息遣は事業経螢の吹規模化に件う自然生成的な自律性に封任すものであるが、それは同時に事業の運筆を束縛すること       え 、なる。か、る關係の下に事業の大規模化自律化は實現されるが、途には事業経衣が一の自律的存在と見なし得るに至

る・企業はもはや響の外にあるのではなく・却って中に見ら恩讐の一華であり財無理の叢とさえなる・象

経螢は一の事業維螢ポの形態である。われわれはこれをヒルフアーヂイングの擬制資本乏機能資本との雑輩としても把握出 來ると思う。機能資本の凪會化として見得る。  か、る事實は、株式會耽企業に於ける謂わゆる所有と虚誕との分離傾向との關連に於て企業概念と経書概念との問題の 基盤となる。勿論、分離とはいつ町も、形式的のことで小鷺の大資本家が経螢者乏してある限り、企業脛螢は依然企業経 螢である、けれどもこの分離傾向が更に強くなり、小敬の資本家の結びつきは強くなるにしても、反面企業主体性の形式 化が進み、それだけ経螢の自律化が強まれば、謂わゆる経螢の猫自性さえも問題となり得る繹である。アメリカに於ては か、る分離傾向の強化と事業の大規模化を基礎にして資本家古経螢者に代って総門的経選者さえ現われ、既に古くから勢 資の中聞に経町の言立が問題とされたことは周知の通りであり、経螢學は本來的にか、る基盤に立つともいえるのであ る。今日か∼る傾向の必然性を基礎に新たな意味での経螢革命が問題となっているが、それは要するに心添の主体的存在 の問題に外ならない。資本はそ亜自体のうちて自己疏外に陥いるべき性格をもつ。か∼る資本の自己疏外として経螢の濁 立性が問題となるのである。  経螢の猫立性は企業が維螢の一機關と見られることであり、企業経螢が事業論難となることであり、私の事業から瀧會 馳

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の事業に果ることである。私企業に封ずる公企業は事業の私的化に封律するその公的化道導化であるが、われわれは職前 及策応申公私混合企業としての特殊會灘に於て進んでは公私統旧の差響に於て所有と経螢との完全な分離を経験し忙が、 それはいわ読経評者維螢として経螢の主体性を物語る。企業の疏外としての事業維管である。今日、それらは凡て解体さ れ、戦時申の諸説験は非常時の異例として顧みられないのを常とするが、非常時は異例であり、極端であるが故によきに せよ、悪しきにせよ、却って事物の本質を最も赤裸々に示すものであることを忘れてはならない。現在、経螢の復興が問 題となっているが、復興は軍に過去︵の復瞬ではあり得ない。尉面は根源︵還って出直して來ることであり、かくて復興 は革新であり得る。謂わゆる民主語義的経螢の問題は何等かの形に於ける從業員の経螢参舶の問題即ち経虚者構造の革 新であると同時に経螢存在の存在構造の問題といわねばならない。それは面的資本を媒介としつ∼如何にして事業を職會 の事業として経写し得るかの問題である。それは維螢の主体性の軍に静的な賓本家的性格から、より根浜的な性格への深 化の問題を含んでいる。経得なる個的宝体存在の問題は自む歴史的主休として、歴史的に規定せられつ、歴史を作る歴史 の奉れに立つことである。就心的主体として個的論蔵的性格から種的位會的性格に進み出で、蒔石の事業の合理主義的経 螢に徹し、維醤生活を入聞的たらしめることに於いて同時に入間生活を豊富ならしめることである。しかし、経螢の根源 的主体性への自恕は維螢の内外に於ける詳言と闘雫とを媒介にして深められる外はないであろう。そして、それは経螢存 在そのもの、問題を越えて、根本的には脈倉の問題である。翼の経筒の主体性、事業の耽愈化は何等かの意味に於ける資 本の肱會化である。  ω上掲拙著一二頁以下、從來、企業と輕螢とが中心問題であったが、しかし、それが事業との楼門を明瞭にしないから、企業と糎管   とをも明らかにし得ないのであって、事業概念は今日まで忘れられたる基礎嶽念の一と思う。馬場敬治、産業言替口理論はこれを窟業   として販扱った唯一のものといえよう。村本幅松、事業、企業、経警︵経濟學雑誌=一巻四號︶は事業を媒介にして三管と企業の概   念を問題とするが、そこでは依然後者が中心で嘉業は輩なる附け足しに終っている。この黙につき山城章、事業國管と公共會駄︵経    輕螢存在の主体的携造について       =一三

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  経螢存在の主体的醸⋮造について      一二四  管志集一八巻一一六合併號︶は現實が事業概念の重要性を要求することを示すものといえよう。 ㈹企業経濟學派は前者を根管糎濟詐言は後者を主張すること上に示した通りであって、それは同時に根抵に於て存在的なものに關蓮す  る。      ・ ㈹ピ筈巳g∼﹀●曽・O●oロ・ま噺h・村木幅松、墨壷撃調戯再論︵紹管纏濟研究第五朋︶。       五 結言一経螢學の性格      、       ●  以上の如く、経螢は暇なる物や技術ではなく、また輩に目的活動の体系でもなく、 一つの人聞生活であり、人間生活か       ﹁ ら一心離れながらしかも同時に根源的に結びつく一つの人聞生活、事業生活、経螢生活であり、それは然るものとして歴 史的敵倉的に自己形成する主体的存在である。それは輩に勝景経濟として軍に注置技術として抽象的分析的に問題とすべ く鹸りに内容的であり、訟りに人生的である。しかも遊里を然るものとして問題とするものこそ正に維螢學でなければな らない。経螢學の存在理由はこ、にあるといわねばならない。併し、それは如何にして可能であろうか? 如何なる性格 の學問として可能であろうか? こ、に経雄志の根本問題がある。これらについては別に詳論すること、して、こ、では 一懸の見透しに止めよう。謂わゆる理論論叢學のように霞継を外から影野的に外観するだけでは構造や機能や蓮動は把握 し得ても主体存在としての経説を理解することは出愚ないであろう。それは経螢凝望學その黒表下刷邊の墨であり撃ても 経螢學ではないであろう。ま忙、謂わゆる規範維螢學のように維螢に外から理念や規範を與えてこれを批判するとしても それは論教にすぎないといわれるであろう。これは下説倫理學ではあり得ても経螢學ではないであろう。何れにせよ、そ れは封象的なモノロゴスか主観的なモノロゴスたるにすぎない。それらが維螢存在自体から如何に離れているか明かであ ろう。要するに、経螢を自然として封象化し︸般化的に観照すれば自然科學的なものとなる風なく、これを文化として封

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か ノ 象化しその意味關連を追求すれば丈単科貧的となるであろう。然るに、経管は素体的存在であるから、封象化して封象と すれば維瞥というも既に経瞥でなくなるから、封象とすることは出雲ない。しかし封象なくして學問がある筈はない。と すれば、山雲學には経螢を封象とすることなくして封象とするというような仕方しかないこと、なる。しかしそれはどの ようなことであるか? それは一実青馬學が、先命、軍装の立場に立つということである。経螢の立場に於て内在的に主 体的に経螢の自己形成を内観するということである。しかも同時に脂手の立場から超越して、しかも根源的に超越して封 書的に外観するということである。維螢學の立場が謬論の立場に内在的でありながら同時に超越的であるということであ る。維螢に於て維惜を、いな維螢的世界に於ける経螢の自己形成を理論的に形成するということである。経緯を封書的に あくまで封稼的に観照する繁華的諸法則を媒介に献會的接術的に自然に働きかけて事業を慰む維螢の實践理論を形成する む ことであるっ経螢學は他の維管の形成を媒介しつ、自己を形成する経螢の形成理論である。経螢學は維螢の自己形成の學、 端粛存在の論理化の學として規定せられるであろう。経螢學の論理は経螢の論理、從って存在の論理、端番存在の論理で ある。大雑把にいって哲婦が歴史的現實を謬論に即してどこまでも主体的に自督するとすれば、科學はこれをどこまでも客 観的に封象的に観照するといえよう。経螢學はこれを主体的に客休的、客休的に主体的な経螢形成の實践を問題とする特 殊な科學といえよう。客体を封象的に把握することが徹底すればするだけ主体は確立される。維害毒はか、る封禅知や狡 下知に關する措置の威勢を媒介に就會的歴史的に技術的主体的な維螢形成の理論を形成する。経螢経濟學派は嫌うであろ うが、経螢學を技術學というならば、緯螢技術學のいう抽象的な技術學ではなく、事業の歴史的泣會至愚術的形威の理論        の 學として、寧ろアリストテレスやカントのいうアルヒテクトニツシユなものでなければならないと思われる。経堂経濟學 といわれる學問もその研究の古品を見れば論者の主張するが如き経濟學的なものであるよりは経螢學的なものであること        の       げ を見出すのである。経螢學は品等漸落學の略構ではなく正に、その歴史的に論理的な磯展の齢結であるとしなければなら    糎螢存在の宅体的携逡について       一       =一五

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経管存在の主体的構造について 一二六 ない。経螢學はかくして近代経螢経替身や弾幕技術學を越え、これを統一的に含みつ、経濟學から正立であり得る根絶を もつのである・維螢學は言葉にさえ囚われなければ正に切廻ユ。びωミ冨ωoロ97既けとして適切な表現をもつ。  ωか、る経管學を入は直ちに政策學的と考えるかも知れない。政策學は人によって色々に解繹され得るが、どのように解繹されるにせ   よ・これは政策學ではなく、何よりも理工學でめる。純管政策學や輕瞥三里はこ、では別問題とされる。それはしかしt小島昌太郎   纏瞥學論にいう實學ではない。箪に緬瞥に必要な知識の集成ではない。  囲天野貞砧鐸、純粋理性批判下巻六〇〇頁以下蓼照。  ㈹われわれはか、る例を幾らでもあげることが出來る。一般的な形でいえば、例えばb纏管組織問題、管理問題、成果問題など纏管學   の申心問題となるが、それは如何なる意味にて経濱學的であるのかbその費用問題、儂値問題にしたところで、言葉は維濟學的では   あるが、内容は理論的性質は似てもっかぬものではないか、正に紹管學的なものである。経管の糎管性の問題である。 嚇 , , O

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