〈研究ノート〉
取締役会の成立過程
一18世紀初期までのイギリスの
東インド会社を事例として一
及
川
古
日生
1 取締役会は資本的集団企業の最高経営機関である。したがって,取締役会の成立過程と 1) は,資本的集団企業における経営機構の形成過程に他ならない。このため,われわれの主 目的は取締役会の成立過程を明らかにしてゆくことにあるのだが,結局,これは資本的集 団企業における経営機構の形成過程として捉えてゆかなければならないことになる。ただ し,ここで資本的集団企業というものの法律形態が,わが国では(大規模)株式会社であ り,アメリカではコーポレーション(corporatiOn),とくにビジネス・コーポレーション (business corporatiQn)である。 アメリカのビジネス・コーポレーション(以下では単に会社という)の基本的な経営機 構を図示するとつぎのようになる。 図工 アメリカ会社の基本的経営機構 株主総会(the shareholders’meeting) u(選任) 取締役会(the board of directors) ↓(選任)〉儲役会の委員会(・㎏㎞・…m・ttees) 役員(the officers;president, secretary, treasurer, etc.,) 図工にみる各機関の職能関係(伝統的解釈ないし法的解釈による職能関係)は,アイゼ ンバーグ(Melrin A. Eisenberg)の言明を借用するならつぎのようである。「このモデル 1)本稿でいう経営機構とは,図1に示すような内容において捉えているものである。〈研究ノート〉取締役会の成立過程 1!7 においては,取締役会が会社事業を経営し,事業方針を決定する;役員は取締役会の代理 人(agents)として行動し,その意思を履行する;また,株主は取締役を選出し,“主要な 2) 会社行動”,あるいは“基本的”,’例外的”,または粗織的”変更を決定する。」 本稿では,アメリカ会社における取締役会がいつ成立したのかを明らかにすることを主 目的として,すなわち,図工のような経営機構がどのようにして形成されたかを明らかに してゆこうとする。ところで,この場合,われわれはつぎのような事情を理解しておかな ければならない。アメリカ会社は,18世紀に,当時のイギリスの会社をモデルとして輸入 し,これを基礎に出発したということである。しかも,18世紀に輸入されたモデルには, すでに取締役会は存在し.外形的には現代会社の基本的経営機構もほぼ成立してきてい た。したがって,アメリカ会社の取締役会の成立過程または経営機構の形成過程を明らか にしてゆくためには,眼を18世紀以前のイギリス会社に向けることが必要になる。 近代株式会社の成立は,大塚久雄博士によれぽ,1657年のクロムウェルの改組と1662年 3) のチャールズll世による改善とを経験した後の,イギリスの東インド会社においである。 東インド会社には.クロムウェルの改組によって民主的な株主総会が成立し,またチャー ルズ9世によって全社員の有限責任制が認められるようになった。さらに,イギリスの東 インド会社には,18世紀前半までに,現代会社のそれに近い経営機構の成立をみることが できる。とくに,その経営機構は,デューボイス(Armand B. DuBois)が18世紀イギリ 4) スの大企業にみられる一般型というものにほぼ同じである。この一般型が当時のアメリカ に輸出されたのであり,これがアメリカ会社の出発点である。したがって,われわれは, 取締役会の形成過程,すなわち会社における経営機構の形成過程を考察してゆくうえで, 事例としてイギリスの東インド会社をみてゆくことは有益と考える。ただし.本稿での東 インド会社に関する資料は専らつぎの文献に依存していることをお断りしておかなければ ならない。 William R. Scott, The Constitution and Finance ef English, Scottish and lrish Joint−Stock Companies, to 1720, (1912, Cambridge University Press) Reprint, 1951. 大塚久雄著,株式会社発生史論,中央公論社,昭和22年。 2) Melvin A. Eisenberg, The Strticture of the Corporation, A Legal Analysis, Little, Brown and Company, 1976, p. 1. 3) 大塚久雄i,株式会社発生史論,中央公論社,昭和22年,第二部,252頁。 4) Armand B, DuBois, The English Business Company after the Bubble Act 1720−1800, (1938),reprint, Qctagon Bocks 1971 p.287・この一般型については後述するg
2 取締役会とは取締役(director)を構成員とする会議体である。この会議体名と取締役 という職名との起源をみてみるなら,前者より後者の方が先に出現している。このため, 東インド会社の経営機構をみる前に,取締役という職名の起源からみてゆくことにする。 スコット(W.R. Scott)によれば,イギリスのジョイント・ストック・カンパニー (Joint Stock Company)の特許状(charter)に初めて取締役という職名を使用したのは, 1618年に設立されたアフリカ会社(The Governor and Company of Adventurers of Lo・ 5) ndon Trading to Gynny and Bynny)であったという。このアフリカ会社は西アフリ カのギニア沿岸から象牙,染料,香料,毛皮などをイギリスに輸入しようとして設立さ れたトレーディング・カンパニーであった。このアフリカ会社の経営機構とくに役員会 (court)は,1人の総裁(a governor),1人の副総裁(a deputy governor),および12人 の取締役(directors)から構成されていた・スコットは・取 図ff 1618年アフリカ会社 締役という職名を特許状において初めて使用したのはこのア の役員会 フリ子会社であるという。しかし,同時に,かれは,特許状 総 裁
以外ではこの職名・・すでに使用されて・・た・とも翻してい 1
矯翻麟欝繋長齢ら1∴1
しかしながら,これに関して,スコットはつぎのような興 味ある言明をしている。すなわち,このアフリカ会社が取締役という職名を使用したの 6) は,その当時としては例外的であり,時機尚早であった,とかれはいう。後述するように, 取締役という職名が多く使用されるようになるのは17世紀納期,とくに1690年代になって からのことである。かれは,この時間的関係からこうした言明をしているのである。それ では,!7世紀のジョイント・ストヅク・カンパニーの代表であるイギリスの東インド会社 ではどのような経営機構になっていたのであろうか。 3 イギリスの東インド会社はクロムウェルの改組およびチャールズ■世治下での諸改善を 5) W. R. Scott, op. cit. vol. 1, p. 151, 6) lbid., vol. 1, p. 152,〈研究ノート〉取締役会の成立過程 119 7) 経て近代株式会社の始祖となるのであるが,それ以前に前史としての旧束インド会社があ る。この旧東インド会社(The Governor and Company of Merchants of London Trading into The East Indies)は!600年に設立が許可されたのであり その経営機構はつぎのようであった。1人の総裁,1人の副総 8) 裁,および24人の理事(committees)である。したがって,こ の旧東インド会社でも諏締役”という職名は使用しておらず, 9) これに該当するものが“理事”と呼ばれていた。 ところで,この旧東インド会社は,大塚久雄博士が明示され le) ているように,まだ会社企業と呼べるものではなく,外枠とし 図皿 旧東インド会社の 経営機構 総 裁
副 総 裁
24人理事
てのカンパニーと内容としての会社企業とを識別できるものであった。ここでいう外枠と してのカンパニーとは,よく知られている倒規組合(regulated company)に相当するも のであり,海外貿易でメンバーをギルド的に統制していた団体である。とくに,16Q1年か ら1613年までの個別企業制の時期にはこの点が明らかであり,その時期の東インド会社は 11) 制規組合といってもよいものであった。しかし,大塚博士は16!3年からの合本企業制の時 期のこの会社についても.まだ外枠としてのカンパニーと内容としての会社企業とが完 12) 全には融合していないものだったという。すなわち,組合員全員の資本を結合し(Joint Stock),このために内容としての会社企業と外枠であった制規組合とが規模的に完全に一 致するようになったのであるが,しかし,それは外見上のことであって,内容においては まだ両者の融合がなされていないという。いまだ,外枠としての組合Companyと内容と 7) こ前史としての旧東インド会社.という表現には問題があろう。しかし,ここでは近代的株式 会社になる以前ということの意味を示そうとするにすぎない。また,いわゆるロンドン旧東イソ ド会社(大塚,前掲書,下巻,339頁)の正式な社名は,設立時から1709年まで変更されることな く,同一であった。しかし,本稿では1662年以前のこれを国東インド会社と呼び1662年から1709 年までを東インド会社と呼ぶことにする。なお,新東インド会社については後述する。 8)W.R. Scott, op. cit, vo1. ll,pp.92∼93, g) ここで理事と訳した職名の原語はcommitteeである。イギリスの東インド会社では1709年 (新東インド会社と統一)まで取締役directorという職名を使用しておらず,これに該当する 職名がCOmmitteeであった。このCOmmitteeを理事と訳出することには正鵠を逸する恐れも ある。しかし,この職名がcommitteeからdirectorに変化したことを表明するため,前者を こ理事=と訳し,後者をこ取締役=と訳した。なお,1709年後,直ちに取締役会のcommittee が存在するようになるが,これは取締役会の委員(単人数),または委員会(複人数)である。 10) 大塚久雄i,’前掲書,301∼302頁。 11) 同書,264,および266頁。 12) 同書, 301∼302頁oしての会社企業とは識別できるという。17世紀中頃までのジョイント・ストック・カンパ ニーニはおよそこのようなものだったようである。ところで,規制組合と同じように,こ の外枠としてのカンパニーにもメンバーを統制する公的自治機関が存在していた。当時の カンパニーの自治機関の構造は,一項目,1人の総裁1∼2人の副総裁,および12または 13) 24人の補佐役(assistants)から成立していた。総裁らは,カン パニーのメンバーによって選出されていたのであるが,その性 質はギルド的な長老支配の体制を明らかに継承している。ここ で,上述した日東インド会社の経営機構をみてみるなら,外観 はカンパニーの自治機関によく似ていることが明らかであろ う。前者が“理事committee”といい,後者力い補佐役assis・ tant”という以外には,両者の構造は同じである。ところで, 図IV カンパニーの 自治機関 総 裁
副 総 裁
12人(24人)補 佐 役
OED(Oxford English Dictionary)などにも記されているように,当時の用語使用にお いてはassistant, cQmmittee, directorなどは同一職名に対して互換性をもって使用され ていたようである。したがって,assistantとcommitteeとが同一職能に対して互換性を もって使用される職名であるなら,旧東インド会社の経営機構はカンパ=一の自治機関と 全く同一物になる。個別企業制および合本企業制の時期の旧東インド会社は,上述のよう に,外枠としてのカンパニーと内容としての会社企業を識別できるものであった。この場 合,旧名インド会社の経営機構と呼んできたものは,実は,外枠としてのカンパニーの自 14) 治機関に他ならないのである。なお,この点に関して,旧盆インド会社には会社企業の機 15) 関である出資老総会が存在していたことも明らかにされている。旧東インド会社,あるい は外枠としてのカンパニーと内容としての会社企業とを識別できるジョイント・ストッ ク・カンパニーには,カンパニーの機関と事業体の機関とが共に存在していたのである。 ただし,旧東インド会社の事業は後者によってではなく,前者によってむしろ専制的に支 16) 配・運営されていたのであり,それゆえにカンパニーの機関が経営機関として前面にでて くるのである。このように,倉出インド会社の経営機構とみなされているものは,会社企 業の経営機構なのではなく,カンパニーの自治機関なのである。 ただし,この旧衣インド会社においても,つぎの点には注意することが必要である。上 13) W. R. Scott, op. cit., vol. 1, p, 151 and p. 339. 14)大塚久雄,前掲書,283,303,および305頁。 15)同書,274,283,および303頁。 16)同書,273,276,305,および314頁9〈研究ノート〉取締役会の成立過程 121 航したように,17世紀のジョイント・ストヅク・カンパニーはその自治機関を有していた のであるが,通常,それには補佐役(assistant)という職名を使用していた。当時として は,馬弓インド会社が理事(committee)という職名を使用したのは,アフリカ会社の取 17) 締役と同じように,用語使用において例外的であったという。しかも,この点について, スコットは,『補佐役として総裁を助けるために選ばれる人々』という表現は当時の両者 18) の関係をよく現わしているという。ギルド的特質の継承からか.当時の総裁には長老的権 限が認められており,補佐役らは名実ともに総裁のための補助者にすぎなかった。 つぎに,1662年以後の,近代的株式会社となった東インド会社には現代のような経営機 構が成立していたかどうかをみてみよう。 4 クPムウェルの改組やチャールズ9世の改善を経た後の,近代的株式会社となった東イ 19) ンド会社でも,実は,旧東インド会社の経営機構をそのまま受継いだのである。カンパニ ーの自治機関だったものを経営機構としてそのまま継承したのであった。すなわち,その 内実を別とするならJ外形的には近代的株式会社となった東イγド会社でも旧組織および 旧職名が継承されたのである。ただし,その内実をみてみるなら,もはや外枠としてのカ ンパ=・・一と内容としての会社企業を識別することができなくなってあり,両者は完全に一 体化(融合)している。したがって,実質的には外枠としてのカンパニーの自治機関はも 20) はや存在しなくなっており,それは会社自体の経営機構と変質していたのである。この点 をさらに詳しくみてみるならつぎのようになる。旧東インド会社では,カンパニーの自治 機関が内容である会社企業を専制的に支配していた。すなわち,この自治機関を構成する 重役ないし長老らが専捌的に他の社員(一般出資者)を支配していた。大塚久雄博士は, 重役団による専:制的支配が可能であったのは,カンパ=一の総会における重役選挙の方法 が民主的でなかったことによるとみておられる。選挙は無記名投票ではなく,挙手制が強 制されていたのであり,この方法によって:重役らは支配者としての地位を維持しえていた 2D という。しかし.クロムウェルの改組によって出資者総会が成立し,重役らはそこでの無 17) W. R. Scott, op. cit., vol. 1, p. 151. 18) lbid. vol. 1. p. 152. 19) lbid. vol. ll,p. 131. 20)大塚久雄,前掲書,305∼306頁および322頁Q 21)同書,273頁(脚注)および303頁Q
122 記名投票によって民主的に選出されることになった。すなわち,会社の支配権が一部重役 らから出資者全員の掌中に移ったのである。また,ここに,会社の主要事項は出資者総会 で決定し,重役らに執行を委ねるという基本的関係も形成されるようになった。この変化 を図示するとつぎのようにな 図V 旧東インド会社から東インド会社への変化
る・ 旧東インド会社[⇒東インド会社
なお.東インド会社の出資 者総会での選挙(とくに重役 の選挙)では,選挙人および 被選挙人についてつぎの資格 を要求した。ピューリタン革 命が成就した後,1650年に旧 東インド会社とコートン会社 が合併したのであるが,この 合併において「500ポンド以 組合員総会(A) (選挙)u 重役団=カンパニーの機関 誌 裁 1 副 総 裁 124人理事
j 出資者総会(B)÷会社の機関 (制規組合では A⊃BJ・S・Cでは A=B) 22)出資者総会
(選挙)u 重役団=会社の機関 総 裁 1副 総裁
t24人理事
下の出資者は投票に参加できない」とされた。ついで,1657年のクロムウェルの特許状で は「最低出資額は100ポンドであるが,しかし1票の資格を得るには500ポンドが必要で 23)あり,理事になるには1,000ポンドが必要である」とされた。選挙人には出資額500ポンド 24) ごとに1票が認められた。さらに,仁心に述べる内部対立から,1694年から1698年までは 投票資格がユ,000ポンドごとに1票となり,大株主支配の抑制のため10票を上限とする 25) と規定された。また,1693年には,被選挙人について,総裁および副総裁になるためには 26) 4,000ポンドの出資が要求され,理事には1,000ポンドが要求された。 22)W.R. Scott, oP. cit,vol. il,P.120.大塚同書,300頁。 23)Ibid., p.129.大塚同書,321頁0 24)スコット著の第3巻の未尾に“Statistics of the Chlef Joint−Stock Company……”が載 せられているが,その東インド会社に関する記述に「1694年から1698年までの投票権は1,000ポ ンド株に対して1票,10票を最大とする」とある。また,同時に,1698年の投票権は500ポンド 1票,1,000ポンド2票,2,000ポンド4票,そして4,000ポンド5票であったといい,5票以上は 認められなかったという。ただし,1698年の投票権について本湖中に詳しい説明は見られない。 W.R. Scott, op. cit., vo1.皿, p,465. 25) lbid., vol. 1, p. 158. 26) lbid., vol. M, p. 465 (Statistics),〈研究ノート〉取締役会の成立過程 123 5 近代株式会社の成立とみられている,1662年以後のイギリスの東インド会社でも,取締 役という職名や取締役会という経営機関名は使用されていなかった。しかし,その後,東 インド会社は,それの東インド貿易における独占権や輸出品目などをめぐって外部の反対 者らと対立・抗争し,あるいは会社内部での支配対立を生じ,つぎのような変貌を示し, それに伴って.その経営機構も変化させてゆくことになった。とくに,会社内部での支配 対立は,外部の反対者らとの抗争に一応の結着がついた1683年頃から表面化してきたので あり,それは総裁チャイルド(J.Child)派と副総裁パピィロソ(T. Papillon)派との対 立となって現われた。この状況を,スコットは,「それまで経営者らは注意深く国内政治 に関与しないようにしていた。しかし,チvイルドが国王に1万ギニーを新年の贈物とし て届けた頃から,彼は宮廷派と結びつくようになった。その行為は,反対の意見をもった 27) 多くの商人らから遺憾と思われた」という。この内部対立では,名誉革命(1688年)まで チャイルド派が圧倒的に優位であり,パピィロソの会社内での地位は低下し,その仲間の 多くは東インド会社の株を売却してもぐり商人(interloper)となったようである。しか し,名誉革命後になると,国王の支持を受けていたチャイルドらの勢力は弱まり,パピィ ロンら反対派の勢力が強まった。このため,1時は,東インド会社の解散がうわさされる ほどにもなった。しかし,その後も反対派(これをスコットはシンジケートと呼び,パピ ィロン派とかっての外部反対者との連合とみている)と東インド会社との激しい攻防は続 き,1698年越ではかろうじてチャイルド派が東インド会社を支配していた。だが,1698年 頃には事情が急変し,東インド会社内部の麦配および会社の独占権が変化するようになつ 28) た。これは,主に多額の戦費のためイギリス政府の財政が逼迫し,この資金調達が急務と されたことに関連する。政府は財源として東インド会社と対立していた反対派の商人らの 資金力に注目し,これら商人に東インド貿易の独占権を与えることによってこれら商人ら から資金を調達しようとした。ただし,この場合,この当時の東インド会社は経営不振で あり,政府がこれに資金を求めることは困難であったという事情が背景にあった。このた め,東インド会社はその独占権ないし存続が危うくなった。そこで,東インド会社は起死 回生のため,同年5月に,年利子4%で70万ポンドを貸付けうると政府に申しでた。他 27) lbid., vol. E, p. 145. 28) lbid., vol. g,pp. 163一一165,
124 方,反対派は年利子8%で200万ポンドを貸付けうると申しでた。1698年6月,議会はよ り多額の資金を要したため,その利子率にも係らず,反対派の提案を採択した。すなわ ち,東インド会社に替って,これら反対派に東インド貿易の独占権が与えられることに決 定されたのである。 このため,反対派は政府への貸付金の出資者を募集し,また東インド貿易を規制するた めの組織を準備することが必要になった。そこで,反対派の人々はこの目的のためにゼネ 29) ラル・ソサイエティ(General Society)を設立した。ゼネラル・ソサイエティではメンバ ーを募集し,メンバーには政府貸付金への出資が要求された。その代り,その出資額に応 じてメンバーには東インド貿易に参加する権利が認められた。すなわち,このゼネラル・ソ サイエティは東インド貿易のための制規組合なのであり,組合員資格を得るためには政府 貸付金へ出資することが義務づけられていたのである。そのメンバーには各人で東インド 貿易に参加することも,同時に,メンバーの何人かで共同して参加することも認められて いた。すなわち,後者の場合,特許状を得てジョイント・ストック・カンパニーを設立し, これに出資して東インド貿易に参加することも認められた。したがって,ゼネラル・ソサ イエティは制規組合であり,その中にメンバーとして個人記入とジョイント・ストック・ カンパニーとが共存するものであった。後者には,!698年9月に特許状が与えられ,新東 30)インド会社(The English Company trading to the East Indies)カミ設立された。ただ .し,この場合,ゼネラル・ソサイエティのメンバーのほとんどはこの新東インド会社に参 加したのであり,個人商人のまま参加するものの数は著るしく少なかった。また,政府貸 付金の募集に当っては,東インド会社へも出資を呼びかけており,結局,200万ポンドの 31) 貸付金はつぎのように出資された。 表1 200ポンドへの出資状況
このように・1698年9月に・東イソ新会社 £1,662, OOO(83.10%)
ド貿易への独占権は東インド会社か 東インド会社 £ 315,000 (15.75%) ら,ゼネラル・ソサイエティに移され他のメンバー £ 23,000 (1.15%) (制規組合の個人メンバー) ることが決定された。しかし,東イン ド会社の特許状には,その独占権が剥 合 計 £2・00()・ OOO (100%) 奪される際には3年目の猶予があると認められていたので,その実施は!701年9月と決め 29) lbid, vol. ll,p. 165. 30) lbid., vol. E, p. 166. 31) lbid,, vol. 1, p. 166,〈研究ノート〉取締役会の成立過程 125 られた(実行は1702年7月)。したがって,東インド貿易を独占してきた東インド会社は, 1702年後は制規組合のメンバーとして新東インド会社と競合する立場にたつことになっ た。 しかしながら,反対派のパピィロソらは,東インド会社との競合関係を望まず,新・旧 32) の両三インド会社の和解を計ろうとした。この結果,両会社は1702年から7年間の契約で 共同で事業をすることを決定し,東インド貿易トラスト(East India Trading Trust)を 33) 形成した。このため,両会社の間では,政府貸付金の分担を同額にするなどの調整が行な われ,その管理・運営を理事団(acommittee of management)に委ねることなどが決め られた。理事団は両会社から選出された同数(12名つつ)の代表者によって構成された。 この構造では,両会社は出資するだけの役割を担うことになり,資本の統一的な管理・運 営は全て理事団の権限とされることになった。ここでわれわれが注目すべきことは,この トラストの経営機構には東インド会社にみられたような1総裁,1副総裁,および24人理 事という構造がみられなくなった点である。ここでは,理事らによる集団統治ないし集団 経営といった体制がとられるようになっている。 東インド貿易トラスFの経営機構がこのようなものとなったことに重大な影響を及ぼし たとみられるのは新東インド会社のそれである。すなわち,新東インド会社の経営機構 は,株主総会とそれによって選出された24人取締役団(directors)から成立するという単 純なものだった。したがって・この新会社の構造には・「これ 図W 新東インド会社の までほとんどの会社にみられたような,1人の総裁,1人の副 経営機構
総裁(という職名)について,はじめて触れていないというこ 株主総会
とは臆すべき掲という鰍がみられる.また,。の糠イI U(選挙)
24人取締役 ンド会社では理事ではなく,取締役(directorS)という職名を 使用していることにも注目しなけれぽならない。 この新東インド会社(1698年設立)にみるように,17世紀末になると,とくに90年代に なると,補佐役(assistant)ではなく取締役という職名がしばしば使用されるようになっ てくる。この点について,スコットは,「ついに,初めて(1618年のギニア会社による例 外的な用語使用はあったが),取締役という名称が補佐役という名称にとって代っている。 32) lbid., vol. ll,p. 167. 33)東インド貿易トラストについては1bid,voL ll t pp 167∼171を参照。 34)Ibid,vo1. II,p.180,なおカッコ内は筆者による。126 これをイングランド銀行,スコットランド銀行が使用するようになり,デリアン会社が使 35) 題するようになっている……」と言う。かれは,この時期から取締役という職名が広く使 用されるようになったことについて,それはスコットランド人の影響,とくにイングラン ド銀行およびデリアソ会社の創設者であったパターソン(W.Paterson)の影響によると 36) ころが大であるという。イングランド銀行(The Governor and Company of the Bank of the England)は1694年trこ設立されたのであるが,その経営機構は1人の総裁,1人の 37) 副総裁,および24人の取締役から成立していた。このように,イングランド銀行では補佐 役ではなく,取締役という職名を使用するようになっていた。このイングランド銀行の例 にみるように,17世紀末,90年代になると取締役という職名が広く使用されるようになっ たのであり,この実態はスコットの著書の第3巻に示されている“会社に関する統計”か らも明らかとなる。イングランド銀行の設立後,イギリスおよびスコットランドにおいて 特許状and/or議会立法(Act of Parliament)を得て設立された会社として1719年まで の12社が示されているが,この内の9社までが取締役という職名を使用するようになって いる。こうした数字から,この世紀の転換期頃に,補佐役という職名に代って取締役とい う職名が広く用られるようになったことは明らかなようである。 ところがsさらに,この時期にはつぎのような注目すべき変化がみられるようになって いる。すなわち,1695年にスコットランド議会から特許状を認められたデリアソ会社(the Company of Scotland trading to Afr三ca and the Indies)では,会社の統治,管理およ び運営に関する権限をほぼ全面的に取締役会(a court of directors) Vこ委ねるようになっ た。このデリアソ会社ではこうした主旨の事項を設立趣意書(preamble)に明記している のであ駐われわれは,。の会社の取綴の役慮りなどに齢する必要がある.デリアン会 社の設立(1695年)は新東インド会社の設立(1698年)より3年早いのであるが,すでに 当初から総裁,副総裁を統治者とするような経営機構を採択しなくなっていたのであり, このことは興味深い。デリアン会社では50人(当初は20人)の取締役から構成される取締 39) 役会によって集団統治ないし集団経営をするという体制をとっていた。ここでの変化は, ギルドないし制規組合から継承されてきた長老支配という体制が形式的にも消滅してきて 35) lbid., vol. 1, p. 339. 36) 工bidリvoL 皿,P.205. 37) lbid., vol. E, p. 205. 38) lbid. vol. ll,p. 212. 39) lbid., vol. ], p. 208.
〈研究ノート〉取締役会の成立過程 127 いることを示すものであると言えよう。そして,われわれには,このデリアン会社の経営 機構が新東インド会社のそれに影響を与えているのではないかとも考えうる。確かに.デ リアソ会社はスコットランド議会の承認によって設立された会社ではある。しかし,イギ リス議会の反撃に会うまで,その資本の半分はイギリス国内で調達されていた。この場 合,東インド会社の株主らも出資に応じているのであり,これの新東インド会社への影響 も充分にありうると考えられる。 なお,新東インド会社に関してつぎの点は留意しておぎたい。前述のように,この新東 インド会社は,チャイルドが統治する東インド会社とその反対派との対立・抗争の産物と して出現してきたものである。1683年頃から98年まで続いた抗争では,名誉革命後も,チ ャイルド派が支配力を握り,反対派の主張を退ぞけていた。この主理由は,チャイルドが 大株主であり,チャイルド派の出資額は大であったことにある。このため,チャイルド派 の投票力は大であり,出資者総会を制しうるほどであたらしい。したがって,これによっ て反対派の提案を出資者総会で否決することが可能であったようである。こうした事情か らと思えるのだが.新東インド会社では大株主による専制的支配に強く批判的であり,ま た警戒的であった。このため,新東インド会社では株主総会における株主の投票数に著る 40) しい制限を設け,大株主丈六を防ごうとした。すなわち,東インド会社では93年まで500 41) ポンドの出資(株)毎に1票を与えていたのに,新東インド会社では500ポンド以上の出 資者(株主)に1票だけを認めるようにした。出資額の多少にかかわらず500ポンド以上 の出資者には1人1票としたのである。このため.チャイルドは60票(スコットは誇張さ れた数というが)を持つ大株主であったが,かれのような大株主でも新東インド会社では 1票しか認められなくなったのである。このように,新東インド会社では大株主による専 制的支配に対して厳しい制限を設けたのであった。 6 1702年9月から7年間の期限付きで新東インド会社と東インド会社とは東インド貿易ト ラストを形成したのであったが,その期限の終了をもつ・て,1709年2月に両会社は完全に 合体したのであり,合同東インド会社(the United Company of merchants of England to the East Indies)を設立した。ただし,この合同東インド会社ではその特許状を新東 40)Ibid,, vol. ll,p.180.大塚前掲書340∼341頁。 41)東インド会社の投票資格については前述(122頁)したし,注24),25)を参照されたい。
インド会社から受継いでおり,新東インド会社の特許状で設立されたのである。したがっ て,合同東インド会社の経営機構は新東インド会社のそれと同じであった。株主総会が取 締役を選出し,取締役団に会社の管理・運営が委ねられていた。ただし,スコットの記述 をみてみるならJこの合同東インド会社では取締役会(the court of directors)という表 42) 現もとられていたようである。 ところで,この合同東インド会社では新会社の経営機構よりもさらに整備されたものと 43) するための工夫がなされていたようである。たとえば,設立された当初は,株主総会で選 出された24人の取締役らは全て同格であり,報酬も同額であった。しかし,17!3年頃にな ると,取締役らは1人の議長(chairman)を選出するようになったのであり,その取扱い が17!3年6月の株主総会で問題とされた。結局,1719年6月の株主総会で1人の議長と1 44) 人の副議長(deputy chairman)が正式に認められるようになった。この両者への報酬は 他の取締役より高額になっている。したがって,18世紀初期の合同東インド会社には取締 役の中から選ばれる議長と副議長が存在することになった。この場合,われわれには,こ の会社の経営機構を図示しようとするなら,つぎのよ うな問題が生じてくる。すなわち,これら議長と副議 長は,取締役会の議長および副議長にすぎないのか, そうではなくてわが国でいう“代表取締役”といった ものに当たるのか,によってその位置づけが異ってく るという問題である。前者を(A図),後者を(B図) として表示してみるとつぎのようになる。 ところで,デューボィスの記述などをみてみると, その当時にはこの同一一Wa名にgovernor, chairmanお
図w
(A 図)株主総会
越
取締役会
議長らの位置づけの相異長長
一議議選
取盛役
(B 図)株主総会
u
取締役会
↓ 議 長副議長
よびpresidentが互換性をもって使用されていたようであり,その職能もchairmanと 45) presidentを兼ねるものであったようである。したがって,このchairmamは今日でもア メリカ会社の多くにおいて,同一人物が取締役会々長と社長とを兼任しているのとほぼ同 じ内容のものであるとみてよいと思える。しかも,このchairmanは,時間の経過につれ て経営執行者としての明確な役割をもつようになるのであり,この意味からは(B図)の 42) W. R. Scott, op. cit.. vol. ll,p. 192. 43) この点に関してはA,B. DuBois, op. cit., pp.283∼287を参照されたい。 44) W. R. Scott, op. cit., vol. ll,pp. 193−194. 45) A. B. DuBois, op. cit., Chapt,, N.〈研究ノート〉取締役会の成立過程 129 表示の方が適切といえるかもしれない。なお,議長の選出についてはUソドン生命保険会 社(the company of L◎ndon Insurers upon Lives)のつぎのような例が興味深い。「そ れ(ロンドン生保)は1709年4月に特許状によって設立され(incorporated),メン・ミ ・一 (株主)らは12名の取締役を選出する権限を与えられ,取締役らはその内から1人の議長 を選ぶ。……あらゆる会議において,議長は議決の1票(adeliberative vote)と,賛否 46) 同数の場合の決定投票(acasting vote)とを有していた。」すなわち,このロンドン生命 保険会社は,合同東インド会社と同じく1709年に設立されていたのであるが,当初から議 長の選出が決めてあったのである。 また,18世紀初期のイギリスの会社には,一般に,日常業務を担当するものとして各種 の取締役会の委員(committee;複数人から成る場 合には委員会であるが.本稿ではこれを単に委員と 呼んでゆくことにする)が設けられていた。これを (B図)に加えて表示するとつぎのようになる。な お,この取締役会の委員について,デューボイスは つぎのようにいう。「……1721年の東インド会社の 委員にはaccounts, correspondence, treasury, bu− ying, shipping, house, private trade, warehouse, 図魎 !8世紀初期の合同東インド 会社の経営機構
株主 総 会
旦取締 役 会
i\取搬会の類
.P 畿 長 1 副 議 長 and for preventing the growth of private tradeといった委員がいた。……ユ785年に. 委員らは3大グループに再編成された。すなわち1.Correspondence,それまでcorresp・ ondence, treasury, military fund, and lawsuitsの委員らの権限下にあった業務を扱う。 2,ShipPing,これまでのshipPing, private trade, government, troops, and storesの委 員らの業務を扱う。3.Warehouse,これまでのaccounts、 warehouses, buying, and house 47) を問題とする。……。」 このように.18世紀前半までにはイギリスの東インド会社には図示(田図)したような 経営機構が成立していた。ところで,この経営機構を:本稿の最初に示した現代アメリカ会 社のそれと比較してみるなら,会社の経営機構の大枠はほぼこの時代に成立してきている ことが明らかであろう。ただし,この比較からは,この当時の会社にはまだ役員(officer) の制度が成立していないことも明らかである。役員制の成立がみられるなら,それは今日 46)W.R. Scott, op. cit., vo1.皿, p.394なおカッコ内は筆者による。 47) A. B. DuBois, op. cit, pp 314−315, n 42.130 のアメリカ会社の経営機構と外形上は同じものが形成されることになる。すなわち,18世 紀初期のこの経営機構にみられる議長および副議長の位置に,重要な経営執行者を包括す る枠としての役員の概念が当てはめられるなら,それは今日のアメリカ会社における経営 機構と外形的には同じものとなる。ところで,一般に,今日のアメリカ会社では少くとも 社長(president),総務部長(secretary),および財務部長(treasury)は役員である。こ れまでの記述にも触れたように,18世紀の議長が今日の社長の祖先であるようなので,こ れに総務部長や財務部長を加えることによって役員制が成立することになる。また,上述 の取締役会の委員にみるように,それら委員の中に総務および財務の担当者をみることが できる。したがって,推測にしかすぎないが,!8世紀当時の議長を中心として,これに重 要な取締役会の委員を包括するものとして,後年に,役員制が成立してくるようである。 このような形で役員の祖先を18世紀初期の経営機構の内にみることができるなら,われわ れは,この時期頃(18世紀初期)に現代アメリカ会社にみられる経営機構の外形ないし枠 組はほぼ成立したと考えうるように思える。本稿の主目的は取締役会の成立過程を明らか にすることにあるのであるが,この点からするなら,18世紀初期の会社にこれが成立して いたことは明らかである。ただし,ここで,デューボイスのつぎのような指摘には充分注 意しなければならない。すなわち,「会社組織の歴史にとって17世紀の重要性は枠組み (Framework)の完成ということにある。18世紀の貢献は内部組織の細部を決めたことに 48) ある」とかれはいう。17世紀を通して,18世紀の初期頃までには株式会社における経営機 構の外形ないし枠組はほぼ成立してきているのであるが,それはあくまでも外形だけのこ とであって内容のことではないのである。 7 以上みてきたように,イギリスの東インド会社では17世紀末期から18世紀初期にかけ て,現代会社にみられるような経営機構の枠組みをほぼ成立させてきていた。この点は, また,デューボイスが「明らかに,18世紀には,イギリス大規模企業の組織はもはや不定 49) 形なものなどではなく,明確な一般型をもつようになっていた」というように,その他の 大会社にも共通のことであった。ここでかれがいう一般型とは図示するとつぎのようにな る。ただし,このように図示することについて,前述したような問題はある。すなわち, 48) lbid., p. 307. 49) lbid., p. 287.
W図で取り挙げたように,総裁 および副総裁らの位置づけをど のようにするかによって図示の 方法が異るという問題である。 このIX図では,デューボイスが 「株主総会によって選任され, 総裁および副総裁によって統轄 50) される取締役会」と言うところ がら,W図の(A図)に示した 方法をとった。しかし,この場 合, 〈研究ノート〉取締役会の成立過程 131 図凪 デューボイスが示す18世紀イギリス企業の 経営機構 株主総会(the general court)
耳(選任)
取締役会(acourt of directors or assistants) 総 裁…… (governor) T 副総裁……(Sub−governor) 1 取締役……(directors) ↓(選任) 取締役会の委員(会)(committees of the directors) もしも総裁らの経営執行者としての役割を重視する 図X 18世紀イギリス企業 経営機構 なら,このPt図でも総裁らをW図の(B図)でとった方 1 法で表示することもできる。すなわち,X図のようにな る。 このように,】X心あるいはX図のいずれを適切な表示 方法とみるかといった問題は残るものの,!8世紀初期頃 までには株式会社にみられる経営機構の外形ないし枠組 みはほぼ形成されてきていた。しかしながら,これはま さに字義通りの枠組みの形成にすぎないのであって,株主総会
具 取 締 役 会lx
【 取締役会の委員 ・ 総 裁 副 総 裁 その内容である内部の職能関係, 権限と責任の関係などは今日の会社のそれと著しく異るものであった。とくに,18世紀の 会社では株主総会と取締役会との職能区分.権限と責任の関係などは明確でなく,これ らは各々の会社によって異っていた。しかし,そうではあっても,殊主総会が非日常的 な重要事項を決定し”,“取締役会が日常的活動を担当する”という大まかな関係は成立5D
していたようである。株主総会の決議事項を定め,これ以外は取締役会が決定できること 52) を定款などに明記した会社もあったという。この場合,18世紀の会社で,株主総会が問題 53) としたのはおよそつぎのよう事項であったという。その典型的な議題は新株の発行(増 50)Ibid., P.287.ただし,ここでいう総裁および副総裁とは,東インド会社でみた議長および副 議長とほぼ同義語である。 51) lbid. p. 291. 52) Ibid., p.292 aエ1d p.323, n.81. 53) lbid., p, 291.132 資),社債の増加,高額財産の購入,競争会社の吸収による規模の拡大などであり,資本 の追加出資命令,配当の宣言,高給役員の人事なども株主総会で問題とされることが多か ったという。ただし,この当時では株主総会と取締役会の関係は明確でなく,両者の職能 などを一般型として明示することはできない。とくに,取締役会に大幅な権限委譲を認め ている場合であっても,当時では,「株主総会の干渉と支配の可能性とは忘れることので 54) きない要素であった。」このように,18世紀の会社が現代会社にみられるような経営機構 の枠組みを形成し,また取締役会制を成立させていたのではあっても,当時の会社におけ る経営機構内部での職能関係,権限と責任の関係などは今日のそれらとは著しく異ってい たのであった。 54) lbid., p, 292.