土佐国絵図について
I元禄国絵図を中心とした若干の検討−
大 脇 保 彦 ︵教育学部地理学研究言 目 次 はじめに 一 幕府諸国絵図作成と土佐国絵図 二 元禄土佐国絵図の成立に関する検討 三 元禄土佐国絵図︵高知市民図書館蔵︶の内容︵端絵図を含めて︶ について まとめにかえて はじめに 従来から、徳川幕藩体制下の治政上の基本資料の一つである慶長、正保、 元禄、天保の四大官撰国絵図の作成は、周知の事柄であり、多様な視点か らの論考もみられたが、黒田日出男氏の指摘ばよれば、その本格的研究は こゝ廿年来のこととされる。近時、その成立事情、各時期の特徴、現存状 況など、より具体的研究の蓄積がみられ、その研究の飛躍的進展がみられ る状況にあると考えられる。なかでも、国立公文書館内閣文庫蔵絵図を中 心とした黒田日出男、福井保、長沢孝三各氏の研究や歴史地理学畑では、 川村博忠氏の精力的研究などが寄与した面が多大である。川村氏の研究は ﹃江戸幕府撰国絵図の研究﹄︵一丸八四年︶、﹃国絵図﹄︵一九九一年︶など の労作に結実し、現時点における体系的な国絵図に関する知見を展望する ことが出来る。本稿でも、これら先学の研究成果に依拠七た面が多い。 ところで、かつて黒田日出男氏は国絵図研究推進にあたって、五つの範 躊の課題を提起されたことがある。すなわち、第一は現存国絵図の全国的 現存状況の調査、目録化、第二は現存国絵図そのものの検討、例えば田幕 府国絵図か、その他の目的で作成されたかの区別 ②幕府国絵図も献上図、 何図、相図、下図または写図などの区別の吟味、第三は、国絵図作成過程 を幕藩体制の特質の分析の一つに利用する研究、第四は絵図が幕藩関係の 内部でどのような機能を果したかの分析、第五は広域的な地域開発史の研 究への利用などを例示された。第一は、絵図の比較研究のために基礎的に して欠かすことの出来ぬ仕事であり、黒田氏自身も参加された土田真鎮氏 を代表とする﹃現存古地図の歴史地理学的研きなどの業績があげられる。 第二の課題は、いわば、資料吟味であり、絵図研究の深化にあたって欠く べからざる課題であろう。とくに、地方の現存絵図について、この面の研 究が今後さらに進められるべきである点の指摘は、川村氏も強調されてい る。第三課題以下は、絵図研究の歴史学研究への結びつきの提示と言いか えることが出来よう。 このような課題提示に従えば、本稿は第二の課題の分析、考察に力点を おくものを目指している。もつとも、歴史地理学的立場からは、川村氏の 諸論考にもその特徴がよく示されているように、地図学史、地図学的視点 が加えられるであろう。また、第三以下の課題でも、境界︵国、郡︶、村 制、交通路︵海路、港湾を含む︶、生産力、自然環境など地理学研究の面 からは、独自の視点や課題が当然設定されようが、本稿では、後述のよう に、必要な限りにおいて触れることにする。 さて、本稿では、高知市民図書館蔵元禄土佐国絵図︵山内神社宝物資料 館蔵の端絵図類を含めて︶を中心に、その意義を、主として前述の第二課 題の面から若干の検討を試みたい。後述のように、国立公文書館蔵天保土 佐国絵図︵国の重要文化財︶を除けば、現存が知られている官撰土佐国絵八四 高知大学学術研究報告 第四十巻 ︵一九九一年︶ 人文科学 図の唯一のものとして、極めて貴重であるにも拘らず、殆んどこれに関す る研究、記載は皆無に近い。限られた関連資料にも拘らず、敢えて若干の 分析、考察を試みる次第でもある。 一、幕府諸国絵図作成と土佐国絵図 前述のように、幕府は慶長、正保、元禄、天保の四期にわたり、諸国絵 図作成事業を実施したことはよく知られている。このうち、最後の天保国 絵図は、幕府側の直接編纂作成によるもので、江戸城紅葉文庫及び勘定所 から内務省図書局を経、内閣文庫へ伝来、現在は国立公文書館に所蔵され、 国の重要文化財︵元禄国絵図八舗を含む一二七舗︶に指定されており、そ の経緯は、詳細な報告により明らかになっている。これによると、土佐国 絵図は原本︵八五六×五六九 、重要文化財︶と縮写図︵四六七×二四二 ︶が所蔵されている。後者については、土佐を含めて一二舗が所蔵され、 天保図の縮写で、福井保氏は、その記載内容、描法、大きさ、装丁など簡 略が、作製目的や性質も明らかでないとされたが、長沢孝三氏は、原図の はご一分の一の縮尺で調整されたもので、これは明治元年十二月廿四日の 民部省通達による縮尺率と一致する点も考慮に含めて、明治期になって縮 写されたものではないかと推定されている。 一方、それ以前の三期はいずれも各諸藩が幕府の指示に基づいて、国絵 図作成にかゝわり、幕府に献上されたものである。この三期の諸国絵図作 成の流れの中で、以下、慶長、正保土佐国絵図を中心に、その作成や伝来 の現状について若干の考察を試み、元禄期については、次項で取り上げる ことにする。 まず、慶長期の国絵図の作成の経緯については、黒田氏の研究があり、 また、幕府への提出の慶長国絵図の現存は知られず、諸国大名の所持の控 図や後世の写図などのいくつかの現存が知られるのみであるが、これら現 存図の比較分析による地図内容、様式などについては川村氏の研究成果が ある。 黒田氏の研究には、土佐藩の史料も利用されており、それによると山内 氏の﹃御当家記年録﹄の慶長十年九月の条などから幕府は、土佐藩の伏見 詰役入沢勘右衛門を通じて、山内一豊に対して、国郡田畠高之帳、国郡之 絵図を各三通づヽ提出することが通達され、村形の図示方法、村高、郡集 計の記載、山川、道筋などの描写、彩色など絵図作成上の要領などが示さ れていることなど明らかにされた。しかし、現在のところ、その作成や献 上に関する資料や藩政期に慶長土佐国絵図の存在を示す資料も知られず、 写図を含め、伝来する図も知られていないので、実際にどのような国絵図 の作成があったかは、不明の現状と云わざるを得ない。 ところで、正保の国絵図は、一般に、正保元年十二月全国主要大名に、 郷帳、城絵図と ともにその調進 が命ぜられ、慶 安初年ごろまで にその収納を終 えたものとみら れている。この 点に対応する土 佐藩の資料とし て左のようなも のがある。 資料1 -日 レ國姶 −り斗ニ づ剛刈剔一 哺にドり Å出’ ジ晰。。ク ク ヲ 7 ク 出 孵劈紳月 λ仔心甲中斗1IT tn既’即七夕忠1μ。即切凧と以御川之臓 以閃仰溜々・ぶ中片ヤ几代∼戎富威超苅守叫 即.4’川沢吊岬両.■£'■ r.代.*-f' ・-- ^ -^'iH’同十’ハ ・= fir ;%■'.*'■^ ・'. i︵z^i^ ^門屁出即∼り’て皿 −−− 岬汽咋口上︻吟浅映発”こ?叶呵も凶而え玲 山内家史料 侯爵山内案 ■ ? ? ^ : ^ . -S ■ ^ . ' A ' ^ -■ ' ^ ' T T 之 ■ F ' ■ < I P " . V ' M 間 今 i ? y I − I I ︲ − − ︲ ︲ : A ■ ^ ' i ' l -^ -' i r ^ S : -” : ' - ・ ^ . 可 ` 咬 ‘ 成 成 心 a 戌 ゛ 仰 洙 ' -i A
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八五 土佐国絵図について I元禄国絵図を中心とした若干の検討− 夭脇︶ 資料3 ︹御手許文書︺ 右の資料は﹃山内家史料 忠豊公紀﹄の正保元年十一月十六日の気が記 載の部分に集められた資料の一部である。資料1と2から十一月十六日諸 国の留守居役が幕府評定所に呼び出され、口頭で国絵図差出の達しを受け、 その際、責付二通を写すよう渡されたことが分る。この書付二通は、絵図 作成の基準条目で﹃国絵図立党﹄︵二三ヵ条︶と﹃絵図書付候海辺之覚﹄ ︵一七ヶ条︶と思われる。八六 高知大学学術研究報告 第四十巻 二九九一年︶ 人文科学 資料2は江戸留守居役井上加兵衛、柴田覚右衛門から国元へ送られた書 状と推定されており、書付は二通について阿波藩留守居役ともども検討し、 不審な点を十九日井上筑後守側に確め、註を付けたこと、下図を作製し、 幕府側との検討を経た上で、絵図を完成させる必要があることなど急ぎ伝 えていることが分る。これらの点も他藩の事例と軌を一にしている。資料 3から正保四年四月廿三日、すでに、絵図は井上筑後守まで献上されてい ることが分る。この間、正保二年正月には、早くも下図に井上筑後守が絵 師に図化させているが、正保三年正月には宇和島藩との境目をめぐっての 問題が表面化し、有名な沖ノ島、篠山争論が万治二年まで続くことになっ た。ところで、後述のように、元禄国絵図作成の際、幕府から古国絵図 ︵正保国絵図︶を拝借することになるが、左の資料4 ド始め﹁正保三年に 差上げの御絵図云々﹂の記載が多くの資料にみられる。資料3は、正保三 年に提出したとしても矛盾はなく、或いは、正保三年差上げの可能性が強 いとも推測される。 資料4 徊 9 り &知 .L@ り. li峠 ・l゛ .t ヽ1’ 詣 固 J. 鴎1 指 出 眠 俘 公 桟 り 挨 抑 声 然 4a .出
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八八 図2 高知大学学術研究報告 第四十巻 二九九一年︶ 人文科学 図3 二 元禄土佐国絵図︵高知市民図書館蔵︶の成立に関する若干の検討 前項では、土佐国絵図の慶長、正保の場合を若干考察し、その現存が確 かめられるものが知られていないことも明らかにした。元禄国絵図の場合 はどうであろうか。 国立公文書館内閣文庫には、元禄国絵図原本八舗︵常陸、下総、日向、 大隅、薩摩、琉球国大島、同八重山島、同沖縄島︶、同模写本八舗︵山城、 河内、大和、摂津、和泉、近江、丹波、薩摩︶が現存するが、土佐国は含 まれていない。一方県内では、県立図書館に手写しの稚拙な暑図風の土佐 全図が二、三存在するのみで、第二次大戦前の目録︵県立図書館は戦災を 受けた︶でも、国絵図の下図、相図、写図に当るものは見当らない。その
うち、貴重書扱いの﹃土佐国全図﹄︵八一×コー五 ︶も租暑な図ではあ るが、郡別地高、境目、番所、一里塚、湊等の他、里程表などの記載がみ られ、郡色分けもなされ、境目、石高記載内容からみて、元禄図をペース に実用的に作成されたものであると考えられる。山内家資料中にも、前述 のように、或いは正保図の系統をひくかと考えられる可能性がある虫蝕、 破損の著しい図がある以外は、国絵図系統のものは知られていない。 ところで、高知市民図書館には、故平民道雄氏を通じて、山内家から第 二次大戦後入手したといわれる﹃元禄土佐国絵図﹄が現存する。前述の土 田氏を代表とする全国の国絵図の所存調査の報之Dには﹁上暑、色分目録は 安芸郡のみ欠けているが、残りは六郡とも残っており、石高、村数が前述 の郷村帳︵写こ冗禄十二年県立図書館蔵・筆者註︶と比較出来、数値は一 致する。全体は東西に細長い長方形に三等分して軸装︵市民図書館が入手 後、補修・軸装したもの・筆者註︶されている。それぞれ東西七六〇×南 北一八六 である。︵三軸あわせると東西七六〇×南北五五八 ︶描法は 元禄の国絵図のものだが、絵はさほどきれいでない。古城跡は無視されて おり、船番所、航路、国境︵傍示堂︶等は詳しい。古来、宇和島藩と境界 論の対象となって来た沖ノ島の部分が切れてなくなっており、この箇所の 扱いがどうなっているかを確認することは出来なかった。以下暑﹂とある。 元禄諸国絵図作成の意向は、元禄九年十一月に将軍網吉より発せられ、 翌十年二月四日に、主要大名の江戸留守居たちが評定所に集められ、寺社 奉行井上大和守正岑、町奉行能勢出雲守頼相、勘定奉行松平美濃守重長、 大目付安藤筑後守重玄が国絵図改訂の担当奉行となり、国絵図改訂ごとの 受持が割り当てられ、事業が開始され、二月二十二日には、幕府の正保古 国絵図の貸出しが始められている。これに応じて、土佐藩の場合、元禄十 年二月二十八日、小森善八郎︵普請奉行︶、森源右衛門︵郡奉行︶ に絵図 検合役命じ、幕府より古国絵図を拝借して写す体制を整えている。 この元禄土佐国絵図調整の概要を示す資料として、次のようなものがあ 八九 土佐国絵図について I元禄国絵図を中心とした若干の検討− ︵大脇︶ る。まず、資料6は、﹃南路志﹄︵天理大学附属図書館蔵写本︶の﹁御国七 郡郷村慨1 の内容の記載の部分に頭注のような形式で所載されている﹁御 国絵図奉書﹂で、前述のように、国絵図作成にあたり郷村帳の作成がセッ トとして義務づけられており、元禄十二年郷村帳はそのために作成された ことを示す編者か転写者の配慮で、同箇所に所載されたものであろう。但 し、その出典は不明である。 図4 また図4は、 山内神社宝物 資料館所蔵の はゞ完全な形 で現存する元 禄土佐国絵図 作成に関する 覚書資料で、 元禄十三年辰 十二月の年号 月入りのもの である。図は その一部を示 したものであ るし、読みづ らいので以下 に本文を転記 してみる。 ﹁諸国絵図正保年中差上候処其後変地等可有是條相改被差上之旨元禄十丑 春被仰出正保三年二被差上国古絵図郷村帳共口公儀御拝借於江戸御写被仰 付正保三年以後之新古替目元禄十年之春より悉相改御隣国御境目合形御雙
九〇 資料6 高知大学学術研究報告 第四十巻 ti喊t哺 慟養4ttt で息F再冬 l∼妥 'Vt 々Å祭∼1 ぶ吠り忿7冴 、∼4 書て映像爾 マ帳∼政痔東 漸7t→隻l 蔵ふtt侈t
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J6 二九九一年︶ 人文科学 4吸れ概屋か沁 々4、μ禾峯咽 ツ八俑か7依 ふfルt気叶L 々なkL櫛厳キ片 系t風1 タ1尤ら 鈴嗚︸帖を5琴 々なt&ぶ臥 か吟?L梅 矛ふぷ伶茅羊 々片き鏑ざ苓 '|o^^J1!!l-v^V^\≪:-^ 1凶伶覆欝寄 泣4営や良 ふt徊唄庸是 − F I四﹃t亥考公
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方一致二申合新御絵図之下書口此相調郷村帳井変地替目又諸書付文形之通 等副目録窺□□副井上大和守様江持来奉窺其御指図本郷御絵図小屋御役人 御改請候様二就其後御絵図小屋役人町野新兵衛殿平野次郎右衛門殿細田伝 左衛門殿江差上御吟味相済依其後大和守様下絵図改相済候間御小屋役人よ り清口下絵図之通請絵図二枚郷村帳二冊相調可差上旨被仰渡御献上御絵図 二枚狩野良信江仰付良信弟子共御上屋舗中二階にて辰六月十一日より七月 廿日まで来表間二合紙美濃紙式篇裏打仕也□□之通相調□□御指上候之ヤ 副剛剔劃彩色木立等゛清絵図を相透口方角国境道川諸書付二至迄違無之付 於江戸為入用新郷村帳写一冊相副品川御蔵江納置 尤於御国清絵図不相替 様相御絵図一通相調江戸江差越此絵図と差替申筈其内如此但正保古絵図郷 村帳写共此蔵二入置旦又御国許之抑絵図ハ間二合紙美濃紙一篇裏打仕御国 絵師共二申付良信弟子仕成之直木立影色等□ロー致相調させ相来指替仕也 但 清絵図士几禄十三年十二月差上也 − 此御窺絵図細工方絵役共 近森九兵衛 以下客 ﹂ 右文と資料6とは、内容文体とも酷似するが、文脈の前後関係も含め異 なる点もあって、若干の検討を要する。しかし、元禄土佐国絵図作成の過 程は大筋において一致し、両文書でその概要を知ることが出来る。すなわ ち、元禄十年春、新絵図作成献上の旨が仰出され、正保以後の変化を改め た絵図と郷村帳二部づゝの献上が命ぜられたこと、とくに国の境目につい ては、関係諸藩と合意、確認の端図を副えて提出すること、窺図、下図な ど検討のための本郷絵図小屋が設けられたこと、下図から清絵図に調整す る過程では、幕府の絵師狩野良信によるべき点などが記され、土佐国絵図 の清絵図調整は、元禄の十三年六月十一日から七月廿日にかけて、土佐藩 上屋敷中二階の間で、狩野良信の弟子達により行われ、同年十二月に献上 九一 土佐国絵図について I元禄国絵図を中心とした若干の検討1 ︵大脇︶ されたことが分る。下図改めで具体的にどのようなことが問題になったか などを明らかにする資料を見出し得ないが、図5に示すような御絵図小屋 宛文書の書式ひな形も残っている。下絵図は、品川土佐下屋敷の御蔵に納 められた後、土佐で調整された相図と差し替えられる筈という点は、図6 の資料によれば、L几禄十四年七月に実施され、下絵図、窺図など藩の御帳 蔵に保管されたことが分かる。 図5
九二 高知大学学術研究報告 第四十巻 二九九一年︶ 人文科学 図6 一方の、両資料は、前述のように、くい違いもみられ、若干の検討も要 する。資料6は﹃南路志﹄所載のもので、しかも、近代になっての写本で あるので、二回の写しの過程で間違いや省暑の可能性も含まれるであろう が、両者のくい違いは、それだけの原因に留まらぬ点が感じられる。筆者 の推論による結論をいえば、両者はそれぞれ別箇の元禄国絵図に付けられ た覚書でないかと考えられる。資料6の天理本﹁御国絵図奉書﹂は本文三 六行目に﹁相絵図是也﹂とあり、図4の山内家文書資料は十八行目に﹁下 絵図是也﹂とある。また、末尾に記載された関係者の署名は、人数、氏名 とも両資料とも全く同じであるが、その第一番目にあげられた近森九兵衛 の肩書が、資料6の天理木では、﹁此窺絵図細工方絵役共﹂となっている のに対し、山内家文書では、﹁此如絵図細工方絵役共﹂となって、前述の ﹁相絵図是也﹂﹁下絵図是也﹂と対応しているように考えられる。また、十 六人目の多賀安右衛門の場合、天理本では﹁伺絵図と此如絵図と校合の節 より御国江来不出合﹂とあるのに対し、山内家文書では付記がなく、伺図 と郷村帳の校合の役目にあったことが知られる。また、天理本では最後の 年号月が欠如するのに対し、山内家文書では、元禄辰十三年十二月の記載 がみられる。また、天理木にいう﹁此抽絵図﹂は国許の絵師を江戸に呼び、 良信弟子達が清絵図調整中に、それと同じように調整した節の文脈がある が、一方、土佐の国許でも相絵図を作成して、江戸品川下屋敷の蔵に保管 してある下絵図と差替えの点の記載もある。一方、山内家文書はこの部分 の記載が若干異なり、下絵図に清絵図の彩色、木立など写し取り、とあり、 また国許で相図を作成した際の文章に、良信弟子達がしたのと相変わらぬ 様彩色云々とある。しかし、前述して来たように、また、図5の﹁覚﹂な どの資料をも合わせてみる時、いずれにしても、本如、相、下絵図、その 他の伺図が存在したことが理解され、かつ、天理本の資料は﹁如絵図﹂、 山内家文書は﹁下絵図﹂︵元禄十三年十二月清絵図献上の時点の最終的下 絵図︶にそれぞれ付いていた資料ではないかと考えられる。しかし、図5
の資料にもあるように﹁本相﹂﹁相﹂﹁下図﹂の関係など、天理本、山内家 文書などのくい違いと関連づけて、なお検討を続けなければ明らかになら ない点があり、一方、現存伝来する﹃高知市民図書館蔵、元禄土佐国絵図﹄ はこれら各図のうちどれに当るかの検討も必要となろう。これらの諸点を 含めて、次項での検討を試みたい。 三、元禄土佐国絵図︵高知市民図書館蔵︶とその内容︵端絵図を含めて︶ について 現存する高知市民図書館蔵元禄土佐国絵図は極めて大きい絵図で、三組 の巻軸表装の全体を広げると、恐らく三十畳の間でも少しはみ程のもので ある。前述の報告書によると、東西七六〇 ×南北五五八 とされている。 川村氏が、幕府御用絵師狩野良信の控帳﹃元禄国御絵図仕立覚﹄を資料に 作製した諸国絵図一覧表によれば、元禄十三年献上の土佐国絵図の寸法は 二丈九尺六寸四分×一丈八尺八寸五分となっており、曲尺一尺の三〇、三 で換算すると八九八 ×五七一 となり、現存市民図書館蔵絵図よりやヽ 大きい程度のものとなる。しかし、現存絵図は、前述のように、沖ノ島を 含む土佐国西南端部が欠けており、元来は、狩野良信の記載した献上図の 寸法と同じであった可能性がある。もっとも、元禄国絵図は原則的に六寸 一里、約二、六万分一の縮尺に統一されたといわれるが、筆者の計算では、 原図の大きさを基準にしても三・七万分一程度であったことが推測される。 もし、六寸一里の原則が守られたと仮定すれば、五十町一里︵幕府は三六 町一里が原則︶で一里塚が描かれ︵設置?︶たとすれば、この大きさは説 明可能である。︵但し、この場合実際の尺度は、近代的に考えればやはり 三、七万分一程度となる︶いずれにせよ、本稿では、市民図書館蔵元禄国 絵図は、献上原図の大きさに近似している点に注目することで十分と考え る。 九三 土佐国絵図について 1元禄国絵図を中心とした若干の検討− ︵大脇︶ 次に郡別色分目録は貼付されたもので、前述の報告通り安芸郡の部分を 欠いている。ところが、実はこの欠けた部分と思われる断簡が、山内神社 宝物館蔵資料の中に存在し︵図7︶、両者合わせて完全なものとなる。高 都合及び各郡高、村数は、﹃南路志﹄所載の郷村帳写︵元禄十二卯年十二 月三日、元禄十四年六月十六日付の新絵図作成にあたって長宗我部地検帳 と対比させて郷村帳を作成した旨の文書が末尾に所載︶とも一致する。ま た、上下二段に示された卵形の郡色別の凡例が、図7の資料から、上段は 正保古国絵図の郡別け、下段が元禄新絵図のそれの対照を示すことが明ら かになる。最後の年号は元禄十三年辰年 月となっており、何月か不明で ある点が注目され、この点については後に再考したい。 図7 ところで、郡境が黒い太線、主要道が朱線、一里塚が主街道に記号で、 村は卵形の枠の中に﹁某村﹂の記載とその左側に郷村帳の石高が示される 点など、元禄国絵図の様式そのもので表現されている。とくに元禄新国絵 図では全国的に郷村の単位名様が﹁村﹂に統一されたといわれるが、土佐 の場合、長宗我部地検帳でも分郷、庄、浦などの呼称が多くみられ、近世 にも踏襲され慣用的に使用されていたが、国絵図、郷村帳︵長宗我部地検 帳の校合も行なっているが︶全て村に統一されている。た∼土佐藩では、 現実には山間部などを中心に郷1枝郷︵村︶が制度的にも生きていたので、 卵形の枠の外側右肩に、本村︱枝郷関係の注記が見られる。また、街道は
九四 高知大学学術研究報告 第四十巻 二九九一年︶ 人文科学 高知城下−安芸−野根山丿甲浦という参薪交替道の一つと高知城下−須崎1 窪川丿中村−宿毛のいわゆる幡多道の二つ、つまり、土佐国を東西に貫く 縦断道が、太朱線で描かれ、一里塚の標記が示されている。古代宮道に近 似する伝統的な北山道も藩政期にも重要視されていたが、国絵図には一里 塚の標記もみられず、普通の主要道として表現をみるのみである。山間部、 峠などにおいて曲折の表現もとられ、興味深い。主要河川は、河川名、渡 し、川幅、深さなどの注記がみられる。しかし、四万十川などでは、四万 十、渡川などの総様名はみられず、上山川、中村川など部分称の注記がみ られる点も興味深い。前述のように、船路、湊、入江など海上交通関係の 注記が詳しく、主要湊□では、風向きと安全性との関係の注記がみられる。 主要道が国境を越える地点では、国境の両村間の距離が示され、場合によっ 図 8 ては、牛馬不通のような道路状況の記載もみられる。山岳は、原則として 南側から鳥瞰したように絵画的に描かれ、立木が配されている。全図の外 側に東西南北の方角の注記もみられる。 以上のように、図は元禄国絵図の様式、基準に則って作成されたものと いえる。前述したように、市民図書館が入手した際には、断片化した状態 で、補修、表装化がなされたもので、三つの巻軸形態で伝来したものでは ない。虫蝕、破損の部分もあり、前述のような一部欠如もみられる。 さて、元禄国絵図関係のものとして、山内神社宝物資料館に﹃伊慄国江 出謐文之縁絵図控﹄﹃阿波御国境土佐国端絵図相﹄﹃土佐国境阿波国端絵区 ﹃土佐国境阿波国裁旦絵図﹄︵図8︶等の端絵図類が伝来している。前二者 は、土佐藩から伊慄と阿波へそれぞれ呈出した相図であり、後二者は、阿 波藩から土佐藩に呈出された図である。元禄国絵図作成の特徴の一つは、 正保国絵図作成にあたって諸藩間の境目問題が続出した経験から、とくに 隣国間の境目確認とその地図作成が義務づけられ、端絵図や裁1 図が作成 されたことである。土佐、阿波藩の場合、図9から、元禄十三年七月に両 端絵図を交換して、その確認を互に行っている。国境の注記は、道路に添っ 図 9
たものが主で、基本的には某村より土佐国︵阿波国︶某村道何里何町と同 じ地点聞か互に表記されている。︵図10︶目立つランドマークがある場合、 図10 例えば嶺、谷、川、磐、などを利用して、線的境界の表記もみられる。例 えば、阿・土・予国境をなす三傍不山の場合﹁此三榜示嶺国境、但此所よ り境谷迄の間の山国境嶺通﹂の記載があり、海岸部では﹁浜中傍示ばえ伊 慄土佐為国境﹂︵図H︶のような場合や、川が国境に選ばれた場合には、 単に﹁国境は川中﹂といったものと吉野川のようにやゝ幅のある谷の場合 九五 土佐国絵図について I元禄国絵図を中心とした若干の検討︱ ︵大脇︶ 図11 は﹁川の中央﹂という原m記載がみられる場合がある。また、正保以来、 永らく争論のあった沖ノ島の場合には図12にみられるような厳密な境界図 がとくに示されている。裁1 図は、端絵図の境界の部分を切り抜いたもの で、お互いに境界が接し、重なり合う部分のないことを図形的に確認する ためのものである。 以上、元禄土佐国絵図、端絵図類の内容を若干紹介して来たが、元禄土 佐国絵図も、ごく最近まで山内家に伝来のものであり、このような絵図類 や郷村帳、さらに図4、資料6などの資1 頚も含めて、元禄国絵図作成に あたっての一連のものであったと考えられる。 ところで、図4の資料は、前項でも述べたように元禄国絵図の最終的窺 図、下図に付した資料ではなかったかと推定される。また、端絵国類も幕 府献上の相図ではなく、各藩へ渡した図の抽図であったと思われる。︵但
九六 図12 高知大学学術研究報告 第四十巻 二九九一年︶ 人文科学 し、幕府献上図の相図の作成は不要であったかも知れない︶では、市民図 書館蔵元禄土佐国図は、前述の図4に示した資料か資料6のどちらに対応 するものであろうか。すなわち、伺図、下図なのか抽図なのか。前述の図 6の資料﹃覚﹄によると元禄国絵図には、土佐国の場合、献上図、下図、 本相図、相図があったように読みとれるが、前項で述べた資料6は、いず れにせよ相図に付した覚書であり、繰返しになるが、図4の資料は下図の 覚書であると考える。資料6は山内家史料にその伝来が認められていない。 現存土佐国絵図は、内容的にみると下図的要素が強いと感じられる。和図 は、いずれにしても献上図︵完成図︶を同じように模写することがその目 的にかなっている。ところが、現存図に付せられた土佐国高都合併郡色分 目録の部分をみると、図7のように上下二段の色別けに対する貼紙の注が あり、上は正保、下は元禄図という説明がつけられている。その末尾の年 号のあとの月の数字も空白である。これらのことは、完成図の忠実な模写 とはいゝ難く、少なくとも元禄十三年十二月以前のものと考えられる。ま た、破損状態も含めて実用性も感じられる。絵図様式、基準を含めて、内 容的には清絵図︵上納図︶と殆んど同一であることは推測出来るが、現状 では、図4の資料に対応する下図でなかったかを推定する。資料によると 下図も、清絵図の彩色、木立を写して絵図化している。 従って、下絵図といっても、地図的内容は、清絵図、抽図との違いは殆 んどないものと考えられる。前項の資料6の関係者名は付記﹁伺絵図と此 相絵図との校合云々ま﹂の文脈などから資料6に対応する相絵図は、この 下図より前後関係が後であったように考えられる。或いは、図6の資料で 示される翌元禄十四年に作成された相図に付された覚が資料6であるかも 知れない。天理本郷村帳の末尾の元禄十四年六月校合の文もこうした点の 傍証になるかも知れない。しかし、これらの点は、まだ、検討しなければ ならぬ点が多く残っている。 まとめにかえて 本稿は、現高知市民図書館蔵元禄土佐国絵図を幕府の諸国絵図作成の流 れの中での位置づけを試みたものであるとともに、土佐国絵図に関する研 究が殆んど皆無に近い状況を何とか一歩でも切り開きたいという意図から 始められた。幸い、山内家資料のうち、従来、未整理分のものが整理され、 ﹃土佐藩主山内家歴史資料目録﹄が出版され、資料閲覧を許される機会を 得、若干の未見の絵図に関する資料にも接したので、若干の分析を試みる ことが出来た。 本橋の段階では、現存元禄土佐国絵図は、最終段階の下図が伝来したも のという可能性が強いが、内容的には、上納︵清︶元禄土佐国絵図と殆ん ど変わらないもと推定する。しかし、なお、多くの検討を経て再考の必要 性が多く残った。
註 田黒田日出男﹁現存慶長・正保・元禄国絵図の特徴についてI江戸幕府国 絵図一郷帳管見︵二︶ 東京大学史料編纂所報一五 一九八〇年 ②黒田日出男 前掲註 剛 目 ﹁江戸幕府国絵図郷帳面管見O﹂ 歴史地理 九三上一 一九七七年 福井 保 ﹁内閣文庫所蔵の国絵図について﹂北の丸︵国立公文書館報︶ 創刊号 一九七二年 福井 保 長沢孝三 ③川村博忠 ㈲川村博忠 ㈲前掲註剛 ﹁内閣文庫所蔵の国絵図について﹂北の丸一〇 一九七八年 ﹁国立公文書館内閣文庫所蔵国絵図・郷帳の重要文化財指定 について﹂ 北の丸一六 一九八四年 ﹃江戸幕府撰国絵図の研究﹄古今書院 一九八四年 ﹃国絵図﹄ 吉川弘文館 一九九一年 ㈲土田真鎮他一九名﹁現存古地図の歴史地理学的研究﹂東京大学史料編纂 所報一五 一九八〇年 剛前掲註②の長沢孝三氏論文 ㈲前掲註⑦ ㈲前掲註②の黒田日出男氏論文 I前掲註咄倒 I山内神社宝物資料館﹃山内家史料 忠豊公記﹄ 一九八二年 三三二頁 上二三六頁 I前掲註I I前掲註I 六〇七頁∼七五五頁・ I前掲註I 七三三頁 I松野尾章行 ﹃皆山集﹄第九巻︵県立図書館刊本︶三三三頁土二三六頁 九七 土佐国絵図について I元禄国絵図を中心とした若干の検討− ︵大脇︶ I山内神社宝物資料館の資料は﹃高知県歴史資料調査報告書−土佐藩主山 内家歴史資料目録−﹄ 高知県教育委員会 一九九一年に詳 しい。 ㈲前掲註Iの資料中に﹁御国絵図訓様事﹂の項があり、その中に廷宝九年 図では、﹁角に白くいろどり其内に中村を城跡有と書付井山内大膳亮在所 と記候事﹂とある。三三六頁 I前掲註㈲ I山内宝物資料館﹃山内家史料・豊昌公記﹄ I武藤致和﹃南路志﹄巻八十八 京大本・国会図書館本には﹁郷村帳﹂の次に全く同内容の記述があ り、頭註の形をとらない。 剛川村博忠 ﹁元禄年間の国絵図改訂と新国絵図の性格について﹂人文地 理二九−六 一九七七年 五九三頁 付 記 本橋の執筆にあたり、山内家資料の調査整理の労をとられた秋滞繁氏、 荻慎一郎氏から多くの御教示を頂いたほか、絵図一史料閲覧にあたり、高 知市民図書館の橋田憲明館長、吉村淑甫︵現県立歴史民俗資料館長︶氏、 山内神社宝物資料館の松山剋太郎氏にいろいろと御便宜御助力を頂いた。 誌上を借りて、深く感謝申し上げる。 ︵一九九一・九こ二〇︶ 追 記 本稿執筆後、安芸五藤家に国絵図︵一図︶所蔵が判明した。この絵図と の関係については、別の機会に検討したい。 ︵平成三年九月三十日受理︶ ︵平成三年十二月二十七日発行︶