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マルクスにおける「人間的本質」と「生活」の概念

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マルクスにおける﹁人間的本質﹂∼と﹁生活﹂の概念

はじめに  本稿では、人格理論の基礎的カテゴリーを考えていくための基礎的作 業の一つとして、’マルクスが﹁人間的本質︵das  menschliche  Wesen︶﹂ と現実的諸個人をどのようにとらえ、彼らの﹁生活﹂を基本的にどのよ うなものとしてとらえていたのか、を明らかにしようと思う。人格を自

それはどのような構造をもっているかをまずもっ’てみておく必要がある、

と考えるからで札駆そのために本稿では、唯物論的見地に立ったとさ

 れる一八四三年の﹁ヘーゲル国法論の批判﹂から四五年の﹁ドイツーイ

 デオロギー﹂までのマルクスの諸論文を考察してゆくことにするが、と

 くに中心的に扱うのは﹁経済学・哲学手稿﹂と﹁ドイツーイデオロギー﹂

 である。︵したがって本稿はマルクスの全体的な理解を必ずしもめざし

゛てはいないことを、予めお断りしておきたい。︶

 最初にわれわれはまず﹁経・哲手稿﹂以前のマルクスを、その人間把 握・生活把握という視点から概観しておくことにしたい。  川でフイン新聞﹂時代のマルクスは総じ’て﹁類的本質︵Lrattungs- 一

 谷  壽  夫 ︵教育学部教育学教室︶ SI§︶﹂・ ﹁人間的本質﹂を主体的化人間の﹁自由﹂、﹁理性一般﹂のう ちにみており︵Bd. 1。47。51。57。︶'国家、法をこれら﹁自由﹂﹁理性﹂の     r¥       一      i   ÷咽現実化されたものとしてとらえていた。マルクスによれば、自由の実現 とは、’﹁人倫的な人間たちの自由な結合態︵eine  freieくereinigung sittlicher Menschen︶J ︵94︶としての国家を実現することであるから、 諸個人の本質とは、客体的に国家、法等々の﹁人倫的諸関係﹂において 具体化されている諸個人の﹁人倫的な理性﹂︷︸呂︶ということになる。 つまり、ここで゛マルクスは、国家を﹁人倫的理念の現実態﹂と﹂てとら え、そのうちに自由と理性の実現をみるヘーゲルの国家1 公、諸個人に 定位しつつ継承し、諸個人の﹁人間的本質﹂を﹁人倫﹂という共同的な ものどしてとらえているのである。       il       S   4` 口こうした人間把握は﹁ヘーゲル国法論の批判﹂に恚受廿継がれてい る。 ’  ここでのマルクスの人間把握でまず第︸に特徴的なことは、マルクス がフォイェルバッハのヘーゲル思弁哲学批判の方法に依拠して、理念を 主体化し、人間を理念の述語、理念の現実態の担い手として毫らえるヘー ゲルの人間把握を批判することを通して、現実的な諸主体として存在す る︿現実的な人間▽の立場に立っていることである。ヘーゲルが﹁人格 性(Personlichkeit︶Jを主体︵主語︶にし︵人格<Person︶Jを述語 とすることによって、﹁人格﹂の現実の存在形態たる家族、地方自治団 体、社会を抽象的なものにしてしまうのに対して、マルクスは、≒現実

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-高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学 的な人格が彼の現実的内容を現に存在するものたらしめ、自らを客体化 して︿人格としての人格▽という抽象を放棄するところの、諸々の類的 形成態︵Oattungsgestaltungen︶!が抽象的と呼ばれるこ恚になる﹂︵に謡︶。 と批判し、次のように自らの人間把握を展開している。−家族、市民 社会、国家等々という人間の﹁社会的現存様式﹂が﹁彼の本質の現実化、 客体化﹂とみなされるならば、これらはこの人間に内属する質として現 われることになる。人間こそがこれら家族、市民社会等々の本質の本質 でありっづけるのであるが、これらの本質もまた﹁人阻の現実的な普遍 態﹂、・﹁共通的なもの﹂としても現われる︵甘︷︸。ここに明らかなよう に、マルクスにとって人間とは、社会的な質をもった人間であり、その 類的形成態が家族、市民社会、国家等々なのである。 ’第二に特徴的なのは、マルクスが市民社会の土台をなすものとして。  ﹁無産状態﹂と﹁直接的労働、具体的労働の身分﹂︵路`︶つまり労働 者階級とを挙げていること、そしてさらに、市民社会にあっては個人的 生存が窮極の目的であって、﹁活動、労働、内容等々﹂がそのためのた んなる手段でしかないこと︵285︶'を見抜いていることである。つまりい 労働者階級とその労働とが市民社会の存立の基礎をなすこと、しかしに もかかわらず、労働が個人的生存の手段と化していること、を見抜いて いるのである。  さらに、マルクスが、市民社会が政冶的国家と分離せずに﹁現実的な 政治的社会﹂である場合には、代表的権力たる立法権がその意義を失う として、次のように述べていることに注目しよう。  ﹁ここでは立法権は次のような意味において代表である。すなわち各々の機能 が代表的であるという意味において、例えば靴屋が一つの社会的な必要・欲求 (Bedurfnis)をみたすかぎりで私の代表であるという意味において、各々の 特定の社会的活動が類的活動としてもっぱら類、すなわち私自身の本質の一規 定を代表するという意味において、各々の人間が他人の代表であるという意味 において、である。彼がここで代表であるのは、彼が表わすところのなにか他 のものによってではなくて、彼が現にあり行為しているところのもの︵das。 was er  ist  und   tut)!^よってである。﹂ ︵325︶  ここから次のことが読みとれよう。すなわち、人間が社会的な必要・ 欲求をみたす社会的活動を営む時、それは類的活動であること、類を代 表し存立せしめるものこそ、人間の社会的活勁にほか心らないこと。  以上のこIから、われわれとしては、i田現実的人間の本質はその社会 性・共同性にあること、閣社会的必要・欲求をみたす社会的活動こそ、 人間の類を代表し存立せしめるものであること、を確認することができ よう。  さて、このようにマルクスは現実的人間の本質を理解するのであ るが、実際の市民社会では、この人間は﹁今日の国家体制の私的人間  (Privatmensch︶J︵回巴でしかない。市民社会では個人の生存が窮極 の目的とされ、つまり個人の特殊な私的利益のみが目的とされ、社会的 活動としての労働がその手段におとしめられているからである。市民社 会におけ3濁人がこのようなものであるから、ヘーゲルが﹁原子論的な 抽象的観方﹂として批判する社会契約論的観方とは、実に﹁社会自身の 原子論的あり方﹂の反映でしかなく、﹁個人が現存している共同体、共 同団体︵das  Gemeinwesen。  das  Kommunistische Wesen︶、市民社会 が国家から分離され、あるいは政治的国家が市民社会の一抽象物である ことから必然的に生じてくる﹂︵283︶のである。  このように、一方で人間の類的形成態・共同体たる市民社会において 現実の人降が﹁個々人﹂ ﹁私的人間﹂として存在し、他方でこの現実的 対立−社会的・類的人間と私的人間とのIの結果として、政治的国 家が市民社会の一抽象物たる類的形成態として市民社会に対立している

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とすれば、現実的人間の立場に立つマルクスにとっては、この対立克服 の道をヘーゲルのように君主制に求めることはできない。問題は、市民 社会における私的人間としての現実的な人間が己れの社会的本質を実現 できるようにすることである。ここに﹁民主制﹂が提起される。マルク スは、君主制と対比しつつ民主制について次のように述べている。− 前者では国民は政治体制に包摂されている︵﹁体制の国民﹂︶のに対し て、後者では体制自身が国民の自己規定として現われる︵﹁国民の体 制﹂︶。すなわち、ここでは本質からばかりでなく現存からしても、体制 はそれの基礎である﹁現実的な人間、現実的な国民﹂の中へ連れ戻され ていて、﹁彼自身のなせる業︵だのに︶﹂、﹁人間の自由な所産というそ れ本来のもの﹂として現われる︵回︷︸。  ではこうした民主制を実現する方途は何か。それは、﹁選挙−選挙 権ならびに被選挙権−’の拡大とできるだけの普遍化﹂︵326︶すなわち 普通選挙を通じて、万人が個々に国家の能動的公民として、立法権に参 加すること、それによって万人の意志、﹁類意志﹂を実現することであ るI︵323/324。 261︶。マルクスによれば、これによって国家は現実 的社会的な人間の本質=﹁社会化された人間︵der sozialisierte Mensch)J︵回︶︶の本質の実現となり、﹁人間の最高目的のための人間 の﹂共同態﹂︵器巴になる。その際マルクスにあっては、ルソーの社会 契約の主権者と同様、万人が能動的公民になるためには、彼らの意識が それにふさわしく変革されていなければならないということが前提とさ れており、そのための武器が、﹁現存するいっさいのものの容赦のない 批判﹂としての﹁批判哲学﹂︵344 。 346︶なのである。ここには、人間 の意識変革と能動性・意識性が、﹁社会化された人間うの本質実現のた めに前提とされているのである。  旧マルクスはこのように類を実現せしめる方途を民主制の樹立という 政治的解放に求めていたが、﹁ユダヤ人問題によせて﹂においては、 三   、マルクスにおける﹁人間的本質﹂と’﹁生活﹂の概念︵池谷︶

 ﹁政治的解放﹂と﹁人間的解放﹂とを明確に区別すること把よって、政

治的疎外の克服の契機を市民社会とそこで生活している現実的な人間の

うちに探七求めていべようになる。

ここでのマルクスの人間把握で特徴的な

の人間把握の中心にすえられ、﹁他

徴的な点は、﹁類的存在﹂概念が彼

の人間との共同において類的存在と

してふるまう﹂︵356︶人間が現実的で真なる人間として、歴史を通じて

実現される、としていることである。この人間像は、政治的国家の理論

的分析と封建制から近代市民社会への歴史的発展の分析をベースとして

 ﹁人間的解放﹂を展望する中で、獲得されている。

 マルクスによれば、﹁古い市民社会﹂である封建制においては、人間は

利己的人間として共同体から切り離されてはいるか、﹁占有とか家族と

か労働の様式とかいった市民生活の諸要素﹂が﹁領主権、身分、職業団

体﹂などを介して直接に国家に結びつくことによって、彼の私的生活は

まだ政治的生活を保持していた。つまり、人間は私的人間でありながら

も、身分、職業団体等の共同体の一員として共同体へ組み込まれること

によって、国家に結びついていたのである。それゆえ封建制の下での人

間は、﹁共同的存在﹂ではあるが、いまだ自由な自覚的な人格とはいえ

ないのである。しかるに政治的解放は、封建制の支配権力の打倒によっ

て同時に、市民生活を束縛していた身分、職業団体などの紐帯を引き裂

き、封建制の基礎にあった利己的人間を政治的な範から解放するととも

に、市民生活に混在していた政治的機能をそこから自立化させて、諸個

人の普遍的な機能としての政治的国家・政治的共同体を確立する

︵368/369︶o

 こうして政治的国家と市民社会とが完全に分離されることによって、

人間は二重の生活を現実に営むことになる。一つは政治的共同体に自覚

的に参加する公民としての生活であり、ここでは人間は﹁類的存在﹂、

 ﹁共同的存在﹂とみなされる。もう一つは市民社会における物質的生活

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四 高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学

であり、亡こでは人間は私的人間として活動し、他の人間をも自分をも

手段におとしめている。つまり、人間は﹁現実的な個人﹂とみなされる

市民社会では、私的人間として﹁一つの真でない現象﹂であるのに対し

て、﹁類的存在﹂とみなされる国家では、﹁ある想像された主権の空想。

的な成員﹂として、﹁彼の現実的な個人的生活﹂を奪われているのであ

る︵355︶o

 とのように政治的国家の一員として共同体に参加する非現実的な人間

︵公民︶が禎如辻湖︰﹁類的存在﹂とみなされ、市民社会7生活する現

実的な人間︵私人︶が真でない人間とみなされるのであるが、現実には

逆にIマルクスが公民権と区別された人権の分析によって明らかにし

たようにI﹁公民たること、政治的共同体﹂が、私的所有を基礎とす

る利己的人間、共同体から切り離された人間の権利︵人権︶の保全のた

めのたんなる手段に押し下げられ、﹁公民としての人間ではなしに、市

民としての人間が本来のそして真の人間と理解される﹂︵366︶のである。

なぜなら、封建制の解体によって解放された利己的人間が、市民社会の

成員として、政治的国家の土台をなしているからである。近代市民社会

とは、﹁必要・欲求、労働、私的利害、私的権利の世界﹂︵369︶であり。

 ﹁自分に、自分の私的利害と自分の私的恣意とに閉じ込もって、共同体

から切り離された個人﹂︵s`︶、それゆえ﹁まだなんら現実的な類的存

在ではない人間﹂a宕︶が本来の人間︵人︶とみなされる。

 とはいえ、政治的解放によ’つてはじめて人間個人は、国家の成員︵公

民︶として政治的共同体へ自覚的に参加する﹁類的存在﹂ ﹁共同的存在﹂

と認められるのであるから、この意味に。おいて政治的解放は一大進歩で

あり、﹁人間的解放一般の最後の形式﹂ではないにしても、﹁今までの

世界秩序の内部での人間的解放の最後の形式﹂︵356︶なのである。ルソー

が﹁政治的人間の抽象化﹂を正しく述べている︵宕ご、とマルクスが評

価する所以である。

かくてマルクスは市民社会における現実的な個人の立場に立脚して、

﹁人間的解放﹂を展望する。マルクスは言う。  。

﹁あらゆる解放は、人間的世界、諸関係を人間自身へ取り戻すことである。⋮⋮  現実的な個人的人間が、抽象的公民を自分のうちに取り戻し、個人的な人間        sliχχs        14χχ41         χ tχ一として彼の経験的な生活において、彼の個人的な労働において、彼の個人的な ・諸関係において、類的存在となった時はじめて、人間が彼の﹁固有の力﹂を社 会的諸力として認識し組織し、それゆえ社会的力をもはや政治的力の姿で自分 から切ひ離さない時はじめてド人間的解放は完成されている・﹂︵i・︶   ¨

 ここでまず、マルクスが抽象的な公民を取り戻す場として、﹁経験的

な生活﹂、﹁個人的な労働﹂、’﹁個人的な諸関係﹂を挙げていることに注

目したい。ここにマルクスの基本的な﹁生活﹂把握が示されていると思

うからである。つまり、マルクスは現実的な個人の生活を彼の労働と諸

関係という二つの契機においてとらえているのである。︵先取りしてい

えば、この把握は後のマルクスにも一貫して受け継がれている。︶

 次にここには現実的な﹁類的存在﹂のメルクマールがはっきりと示さ

れている。すなわち、マルクスにあって﹁類的存在﹂は、剛認識し組織

し参加するという意識性、閤共同性・社会性、閣現実的個人の生活︵労

働と諸関係︶、という三契機を包括し、その中心に生活がすえられてい

るのである。

 こうして人間的解放の立場に至ったマルクスは、さらに﹁ヘーゲル法

哲学批判序説﹂の中で後進国ドイツの解放という課題に立ち向うなかで。

 ﹁突然やってきた産業の運動を通してようやくドイツにとって生成し始

めてい﹂︵SSたプロレタリアートを、人間的解放の担い手としてとら

えていく。

四しかし﹁独仏年誌﹂の時期には、多くの論者が指摘するよ’趾︶ヽ’

(5)

ルクスはまだヘーゲルの市民社会論の枠内に留まっ。ており、ヘーゲルと

同様、市民社会はΛ貨幣を媒介とした・個人的労働を営む・私的所有者

の世界▽としてとらえられている。したがって﹁人間的解放﹂によって

獲得される﹁類的存在﹂としでの人間も、﹃アプリオリに社会性をもった

 ﹁個人的な労働を営む社会的人間﹂とならざるをえない。これは、マル

クスが市民社会分析においてヘーゲルの論理の枠内に留まっていながら

も、彼とは逆に私的所有・貨幣の否定的側面のみをみて、その肯定的・

積極的側面をまだつかみとっていないこと、古典経済学を本格的に研究

していないごとと関係していると思われる。

 類と個を統﹁する実在的諸関係を市民社会のうちに、人間的諸個人の

現実的生活の場に見出さないかぎり、彼らが個人的労働と個人的諸関係

の中で﹁類的存在﹂となりうる実在的根拠を見出さないかぎり、彼らが

類的存在となることは、まだ要請の域を超えでるものではない。

 結局のところ、﹁独仏年誌﹂時代のマルクスは、市民社会における現

実的個人は私的利害にまとわりつかれた私的所有者でしかないといった

ヘーゲル的な市民社会的人間像と、人間的本質は類的存在・共同的存在

であるというアオイェルバッハ的な人間像とを真に克服する論理を確立

しえてはいない、といえるのである。この両者を克服する論理は、四四

年の﹁経・哲手稿﹂﹁ミル評註﹂において国民経済学の批判的分析とフォ

イェルバフハーヘーゲル両哲学の再検討を行いつつ、人間の本質的な生

活の把握を深めていくなかで、基本的に確立されてゆく。

 さて、﹁経・哲手稿﹂ ﹁ミル評註﹂におけるマルクスの人間把握・生

活把握を、われわれは﹁疎外された労働﹂断片、﹁ミル評註﹂、﹁私的所

有と共産主義﹂断片を中心に考察してゆくことにする。

五・   マルクスにおける﹁人間的本質﹂と﹁生活﹂の概念︵池谷︶

 ㈲﹁疎外された労働﹂断片においては、人間は、自然に対する人間的 活動の関係泡いう視角から﹁類的存在﹂と把握されている。  マルクスは、﹁労働者は、彼がより多く富を生産すればするほど、 彼の生産が力と嵩を増すほど、それだけ貧しくなる﹂ ︵新K凶0? I一2’旨己という現在の国民経済的状態の事実から出発し、この事 実を労働者の側から﹁労働者︵労働︶と生産とのあいだの直接的関係﹂ ’︵237︶という視角から分析することによって、労働の生産物の疎外 ︵﹁物件の疎外﹂︶と労働の疎外︵﹁自己疎外﹂︶︵にS︶とを導き出し、・ これを﹁疎外された、外化された労働﹂︵旨巴という概念で言い表わし ている。ここからわかるようにマルクスが労働と言う場合、それは国民 経済的事実における労働、すなわち諸対象から切り離された労働そのも の之 6ての﹁抽象的労働﹂︵回巴を指しており、﹁生産﹂とは明確に区 別されているのである。  マルクスは、現実の国民経済的状態において行われている労働者と生 産との直接的関係、すなわち﹁対象化﹂としての﹁労働者の生産﹂を、 次のように洞察している。剛﹁労働者は自然、感性的外界なしには何も のも創造できない。それは素材であって、彼の労働はこれのうちに現実 化され、これにおいて活動し、これから、そしてこれを用いて生産す る﹂。閣行使される諸対象なしには労働が﹁生きる﹂ことができないと いう意味において、自然は労働に﹁生活手段︵生産手段−引用者︶﹂ を提供するぱかりでなく、﹁狭い意味での生活手段﹂すなわち﹁労働者 自身の肉体的生存の手段﹂を提供する︵236/237︶ ° ここに明らかな ように、マルクスは生産を自然︵感性的外界︶と労働者︵労働︶との両 契機から成るもの、両契機の直接的な現実的統一態としてとらえ、これ に対して労働を自然からもぎ離された労働そのものととらるのである。 それゆえ労働の担い手たる労働者も、国民経済的状態においては、﹁わ ずかにただ肉体的主体としてのみ労働者である﹂︵旨﹁﹂。したがって労

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」 _ / X 高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学 働 者 が 労 働 の 生 産 物 か ら 疎 外 さ れ る と い う 事 実 は 、 彼 が そ も そ も の は じ め か ら 生 産 の 諸 対 象 か ら 切 り 離 さ れ て い る こ と 、 そ れ ゆ え ま た 生 活 手 段   ︵ 生 産 手 段 な ら び に 肉 体 的 生 存 の 手 段 ︶ を 奪 わ れ て い る と い う こ と を 表 わ し て い る の で む 妃 。 と こ ろ が 国 民 経 済 学 は こ の 直 接 的 な 関 係 を 見 な い こ と に よ っ て 、 ﹁ 労 働 の 本 質 に お け る 疎 外 ﹂ ︵ 同 ︶ を 隠 し て し ま う 。 と い う の は 、 そ れ は 労 働 を 、 生 産 と 区 別 せ ず に ﹁ 生 産 の 本 来 の 魂 ﹂ 。 ︵ 回 ︷ ︸ と し て も っ ぱ ら 肯 定 的 に と ら え る か ら で あ る 。   第 二 に 注 目 す べ き こ と に 、 マ ル ク ス は 労 働 と 区 別 さ れ た 生 産 を 。 ﹁ 活 動 ︵ T a t i g k e i t ︶ J と し て 、 し か も こ の 活 動 を ﹁ 労 働 者 の 自 分 の 肉 体 的 お よ び 精 神 的 エ ネ ル ギ ー 、 彼 0   人 格 的 な 生 命 ・ 生 活   ( d i e   e i g e n e p h y s i s c h e         u n d         g e i s t i g e         E n e r g i e         d e s         A r b e i t e r s 。         s e i n         p e r s o n -F h e s       L e b e n ︶ ﹂ と し て 把 握 し て い る 。 ﹁ け だ し 生 命 ・ 生 活 と は 活 動 よ り ︹ ほ か の ︺ 何 で あ る か ﹂ ︵ 回 巴 。   さ ら に 、 マ ル ク ス は ﹁ 労 働 の 外 化 は ど こ に 存 す る の か ﹂ と 問 う て 、 そ の 特 徴 を ほ ぼ 三 点 に ま と め て い る が 、 こ こ か ら 逆 に わ れ わ れ は マ ル ク ス の 活 動 の 本 質 的 な 理 解 を ひ き 出 す こ と が で き る 。 第 一 に 、 活 動 は ﹁ 自 由 な 肉 体 的 お よ び 精 神 的 エ ネ ル ギ ー ﹂ を 発 展 さ せ る も の で あ り 、 し た が っ て 第 二 に そ れ は 、 ﹁ 自 由 意 志 的 ﹂ な も の で あ る 。 第 三 に こ の よ う な 意 味 に お い て 、 活 動 は そ の 当 事 者 自 身 の 活 動 と し て ﹁ 自 己 活 動 ( S e l b s t t a t i g k e i t J ︶ で あ る 。 ︵ 2 3 8 / 2 3 9 ︶   こ の よ う に 、 マ ル ク ス に あ っ て は 活 動 は 、 人 間 が 自 ら の 意 志 で 自 由 に   ﹁ 自 分 の 肉 体 的 お よ び 精 神 的 エ ネ ル ギ ー ﹂ を 発 展 さ せ る も の と し て ﹁ 自 己 活 動 ﹂ で あ り 、 人 間 の 人 格 的 な 生 活 に 他 な ら な い の で あ る 。   さ て 、 こ う し て マ ル ク ス は 現 実 に 行 わ れ て い る 労 働 者 と 生 産 と の 直 接 的 関 係 ︵ 直 接 的 生 産 過 程 ︶ の 考 察 を 通 じ て 、 生 産 物 の 疎 外 、 労 働 の 疎 外 を 導 き 出 し 、 こ の 分 析 に よ っ ﹃ て 獲 得 さ れ た 結 論 ︱ 田 生 産 、 活 動 こ そ 労 働 者 の 人 格 的 生 活 で あ り 、 彼 の 自 己 活 動 で あ る 。 閣 そ れ ゆ え こ の 活 動 に  よっ’て生産される生産物は、﹁活動、生産の要約﹂︵238︶にはかならな  い。−から、さらに人間の普遍的な本質を抽象することによって、疎  外の第三規定、人間の﹁類的存在﹂からの疎外を抽き出す。   マルクスは人間の﹁類的存在﹂たる有りようを次のように把握してい  る。剛人間は自分自身に対して﹁現在の生きた類﹂に対してのように、  ﹁ある普遍的な、それゆえ自由な存在﹂に対してのようにふるまい関わ  る(verhalten︶がゆえに、﹁類的存在﹂である。摺こうした﹁類的存 ‘在﹂としての﹁人間の普遍性﹂は理論的には自然を自然科学、芸術等々  の対象として﹁人間の精神的な生活手段﹂とするところにあり、実践的  には、自然の一部である人肌が全自然を、彼の﹁直接的生活手段﹂ ︵肉  体的生存手段︶’ならびに﹁人間の生活活動︵Lebenstatigkeit)の材料、  対象、道具﹂ ︵生産手段︶というかたちで、﹁人間的生活と人間的活動  の一部分﹂に、﹁人間の非有機的な身体﹂にするところにある。こうし  て﹁人間の肉体的ならびに精神的生活は自然と連関している﹂。閣自分  の﹁生活活動﹂を、したがって自分自身の生活をも自分の意欲および意  識の対象としえる、﹁自由な意識的な活動﹂こそ、動物と区別される  ﹁人間の類的性格﹂をなす。㈲人間が肉体的欲求から自由な生産におい  て、諸対象をその法則に従って加工することは、﹁一つの意識的な類的  な存在﹂としての実を示すことである。生産を通じて自然は﹁彼のなせ  る業および彼の現実態﹂として現われるからである。それゆえ、生産は  ﹁類的生活﹂であり、労働の対象は﹁人間の類的生活の対象化﹂である。  ︵239/241︶   ここで特徴的なことは、剛﹁生活≒ ﹁活動﹂、﹁生産﹂が等置され、  ﹁生活活動﹂として概念的にとらえられていること、閣しかもこの活動  が自由な意識的活動として、精神的活動をもそのうちに含めて理解され  ていること、閣人間の肉体的ならびに精神的生活を自然との内的連関に  おいてとらえていること、および㈲人間の生産によって諸対象をその法

(7)

則に従って加工することが、﹁類的存在﹂の実を示す活動︱﹁類的生活﹂

にほかならず、これによって自然は彼の﹁類的生活の対象化﹂となると

ともに、彼の﹁生活手段﹂ ︵生産手段ならびに肉体的生存手段︶、﹁非

有機身体﹂として我がものとされる、と理解されていること、である。

ここから、﹁類的存在﹂とは、人間的生活ならびに人間的活動である生

産︵精神的生産をも含んだ︶を通じて自然を人間の﹁生活手段﹂ ︵生産

手段、肉体的生存手段ならびに精神的生活手段︶として我がものとする

という、人間の本質的な生活過程を表わす概念であることが推測される

であろう。

 ﹁類的存在﹂が以上のようなものであるから、労働者が生産物から疎外

されることは、彼から自然が疎外され、﹁彼の類的生活、彼の現実的

な類的対象性﹂︵2︶︶が奪われることを意味し、労働の疎外という事実

は、﹁類的存在﹂を証しする自由な意識的生活活動が、たんなる彼の肉

体的生存の手段としての労働に陥ることなのである。これが人間の﹁類

的存在﹂からの疎外である。このように、マルクスは国民経済的な状態

で営まれている、自然と労働者の結合の場である直接的生産過程︵生活

過程︶に着目し、そこに人間の﹁類的存在﹂のありようをつかみとるこ

とによって、﹁類的存在﹂からの疎外を明らかにしえたのである。

 さて、今までの疎外の三規定からの﹁一つの直接的な帰結﹂として、

マルクスは第四の﹁人間からの人間の疎外﹂︵に心︶を導き出している。マ

ルクスによれば ﹁人間が自分自身に対する関係は、彼が他の人間たち

に対する関係を通してはじめて、彼にとって対象的、現実的なのである﹂

︵243︶から、もしある人間が﹁類的存在﹂から疎外されているなら、

それは、剛﹁ある人間が他の人間から疎外され﹂、また関﹁彼らの各々

が人間的本質から疎外されている﹂ ︵242︶ことになる。ここには明ら

かに、人間の自分ならびに自然に対する関係は同時につねに人間の人間

に対する共伺的・社会的関係を含むこと、それ。ゆえ人間の﹁類的存在﹂

 七   マルークスにおける﹁人間的本質﹂と﹁生活﹂の概念︵池谷︶

たることは、他の人間たちの真の共同的関係を通してはじめて、彼にとっ て対象的、現実的になること、が前提されているのである。それゆえこ こから、﹁類的存在﹂という人間の本質的な生活過程は、人間の社会的。  xx s% 一lsxli s  ・共同的関係という生活関係をも含んでいる、と推測してもよいであろう。  そこで、これまで労働者の側から﹁労働者と彼の生産との疎外﹂︵242︶ という事実を分析してきただけのマルクスは、今度は現実の中で﹁他の 人間たちに対する実践的現実的な関係﹂︵243︶を通して現われてくる労 働者の自己疎外を考察する。まず上述の田の他の人間からの疎外は、労 働者に対する資本家の敵対的関係としてとらえ直される。すなわち。  ﹁外化された労働のそれ自身に対する関係﹂の所産として、﹁非労働者 の労働者および労働に対する所有関係﹂が、つまり﹁私的所有﹂が導出 される。また閣からは、人間的本質の疎外が労働者にあっては﹁外化の、 疎外の活動﹂として、資本家にあっては﹁外化の、疎外の状態﹂として 現われることが導出される︵2`︶。  このように私的所有者は。﹁外化された労働﹂という事実の分析を通じ て、その必然的帰結として出てくるのであるから、私的所有は先の剛閣 の両関係を包括するものとして、自然に対する人間の意識的な生活活動 の疎外された関係であると同時に、他の人間に対する人間の共同的な関

係の疎外態にほかならないのである。

         一一χS 3 3S41在﹂という人間の本質的な生活 といえよう。 それゆえ、  SSSXSX X S IX4S3一過程ならびに生活関係の疎外態である、 私的所有とは﹁類的存 14−13一

 以上を要約するならば、次のようになろう。出﹁類的存在﹂とは、他

の人間との社会的・共同的関係のなかでの意識的で自由な生活活動を通

じて、゛全自然を理論的ならびに実践的に我がものとするとい。う、社会の

基礎をなしている人間の本質的な生活過程を表わす概念であり、主体的

には意識的で自由な社会的生活活動を、客体的にはそれの対象化された

世界を表わしている。閣国民経済的状態においても﹁類的存在﹂は、主

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八 高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学 体的には個人的な生存の手段たらしめられた類的活動︵疎外された労働︶ として、客体的にはそれの所産である私的所有として疎外されたかたち であれ、現存する。閣それゆえ﹁疎外された労働﹂の止揚によって、人 間は現実的に真の﹁類的存在﹂となることができる。㈲以上のような意 味においてみれば、﹁類的存在﹂とは、なんら抽象的な実体概念ではな くて、人間の歴史を貫通しその発展の展望をもさし示す概念なのである。 ドロ﹁ミル評註﹂ではヽ﹁どのようにして人間は彼の労働を外化しヽ疎 外する゛にいたるのか?﹂︵245/246︶という﹁疎外された労働﹂断片 の問題提起が﹁なぜ私的所有は貨幣体制へと進まざるをえないのか?﹂ ︵Bd.  40。 446︶という問いに置き換えられ、この見地から私的労働に もとづく私的所有者の交換関係が分析されるが、同時にそこでは﹁疎外 された労働﹂断片の﹁類的存在﹂概念のうちに示唆されていたΛ他の人 間との共同的・社会的関係▽の側面がとり出され展開されている。その 鍵概念が﹁欲求︵∽&印?r︶﹂、﹁交換(Austausch)J 。﹁交通︵く∼r丁︶﹂ である。 。  ここでマルクスは人間たちを﹁現実的な、生きた特殊な諸個人﹂とし てとらえ、彼らの﹁人間的本質﹂を、次のように﹁共同的存在﹂として 把握している。出﹁生産そのものの内部での人間的活動の交換﹂も﹁人 間的生産物の相互の交換﹂も﹁類的活動と類的享受﹂に等しく、これの  ﹁現実的な、意識的な真のあり方﹂が﹁社会的活動と社会的享受﹂であ る。ぼ﹁人間的本質﹂とは﹁人間たちの真の共同的存在﹂であるから、 人間たちは﹁彼らの本質を活動させること・ (Betatigung︶Jによって、  ﹁人間的な共同体︵9ヨeinwesen︶﹂を、すなわち﹁各々の個人の本質、 彼自身の活動、彼自身の生活、彼自身の享受、彼自身の豊かさであるよ うな社会体 ︵das eesellschaftliche  Wesen︶﹂ を創造し産出する。 閣それゆえ﹁真の共同的存在﹂は﹁反省﹂によって生じるものではなく て、﹁諸個人の必要とエゴイズム﹂を通じて、すなわち﹁彼らのあり方 そのものを活動させること﹂を通じて直接生産されたものとして現われ る。㈲しかし人間が自分を人間として認識しておらず、ぞれゆえ世界を 人間的に組織しおえていないかぎり、この﹁共同体﹂は。疎外の形式のも とに現われる。なぜならこの共同体の主体たる人間が﹁自分自身から疎 外された存在﹂だからである。︵450/451︶  ここで注意すべき点は次の諸点である。田マルクスにあっては﹁人間 的﹂、﹁類的﹂、﹁社会的﹂が等置されて用いられている。口マルクス は﹁生産そのものの内部での人間的活勒の交換﹂=協働と﹁人間的生産 物の相互の交換﹂を﹁類的活動と類的享受﹂としてとらえている。交換 を活動と享受としてどらえているのである。そして、閣この交換に着目 することによって、﹁人間的本質﹂を﹁真の共同的存在﹂ととらえると ともに、㈲この﹁共同的存在﹂をたんなる人間の内面的特質としてで はなしに、この主体たる人間的諸個人の﹁必要とエゴイズム﹂を通じて。  ﹁彼らのあり方そのものを活動させること﹂によって、つまり活動と享 受という彼らの生活を通じて生産される、普遍的で歴史貫通的な﹁共同 体﹂・﹁社会体﹂−人間的であれ疎外されたものであれIとし紅 らえている。この意味で﹁共同的存在﹂は人間の﹁生活そのもの﹂である。  実際、この﹁共同的存在﹂はマルクスによれば、私的所有のもとでも 私的所有の相互外化・譲渡を通じて、また﹁労働の分割︵分業︶﹂にお いて、疎外された形態で形成されている。たしかに私的所有の交換主体 たる私的所有者とは、﹁排他的な占有﹂によってのみ自らの﹁人格性﹂ を確証する排他的な占有者であり︵`認︶、私的所有は他の人間を排除す るがゆえに﹁人間的所有﹂︵忿ごではないから、彼は﹁共同的存在﹂か ら疎外された存在と。いえよう。しかし、他人の私的所有に対する﹁必要 ‘︵zo’︶﹂゛﹁欲求︵Bedurfnis)Jから私的所有を交換し合う時、彼ら は自分で田︸つているような私的所有者という﹁特殊的な存在︵das besondre Wesen︶﹂ではなくて﹁一つの全体的な存在︵ein  totales

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  測 S l ︶ ﹂ で あ る 。 と い う の は 、 彼 ら は ﹁ 必 要 ・ 欲 求 ( B e d u r f n i s ︶ J   を 介 し て 他 人 の 労 働 生 産 物 に 対 し て 、 ﹁ そ の 物 件 が 私 の 本 質 に 属 し て い   る こ と ﹂ 、 ﹁ そ の 物 件 が 私 の た め に あ る こ と ﹂ 、 ﹁ そ の 物 件 を 自 分 の も   の に 所 有 す る こ 。 と が 私 の 本 質 を 自 分 の も の 、 に 所 有 す る こ と で あ り 、 私 の   本 質 の 独 自 な あ り 方 で あ る ﹂ と い う ﹁ 内 的 所 有 ﹂ の 関 係 に 立 っ て い る か                                   I   l     χ 一       一 一   l   χ 一   ゝ   ら で あ る ︵ ` S ︶ 。 こ の よ う に ヽ ﹁ 必 要 ・ 欲 求 ﹂ G 社 会 的 本 性 を 把 握 す る こ   と に よ っ て 、 マ ル ク ス は 私 的 所 有 の 相 互 外 化 ・ 譲 渡 ︵ 交 換 ︶ を 、 し た が ・ つ   て 私 的 所 有 者 ゛ の ﹁ 社 会 的 関 係 ﹂ ‘ を 、 ﹁ 私 的 所 有 の 内 部 で の 人 間 た ち の 社   s s x   x   i     s   x   s 4     x x   4   3   x     x x   4   x 1   4   s   x   x   会 的 な 行 為 、 類 的 行 為 、 共 同 的 存 在 、 社 会 的 な 交 通 と 統 合 ﹂ ︵ ︷ 回 ︸ と し   て と ら え 返 し て い る 。 そ れ ゆ え 、 国 民 経 済 学 の い う 交 換 と 取 引 は 、 ﹁ 人   間 の 共 同 的 存 在 、 あ る い は 自 分 を 活 動 で 確 証 す る 人 間 本 質 、 類 的 生   活 、 真 に 人 間 的 な 生 活 の た め の 人 間 の 相 互 的 な 補 完 行 為 ︵ d a s   ︵ j e m e i n w e s e n       d e s       M e n s c h e n 。       o d e r       i h r       s i c h       b e t a t i g e n d e s       M e n -’ n s c h e n w e s e n 。           i h r e         w e c h s e l s e i t i g e         E r g a n z u n g         z u m           G a t t u n g s -ニ e b e n 。   z u m   w a h r h a f t   m e n s c h l i c h e n   L e b e n ︶ ﹂ ︵ ` 認 ︶ の 疎 外 態 に ほ か な   ら な い の で あ る 。 こ こ ﹃ に 明 ら か な よ う に 、 交 換 と は 7 1 ル ク ス に と っ て   疎 外 さ れ た か た ち で あ れ 人 間 た ち の 相 互 的 な 社 会 的 な 活 動 と 享 受 で あ り 、   社 会 的 な 相 互 的 な 補 完 行 為 、 社 会 的 な 交 通 な の で あ る 。     し か し 、 私 的 所 有 の 外 化 に よ っ て 私 的 所 有 は そ の 占 有 者 の 人 格 性 で あ   る こ と を や め 、 他 の 私 的 所 有 と の ﹁ 等 価 物 ﹂ と し て ﹁ 交 換 価 値 ﹂ と な る   か ら 、 人 格 性 の 確 証 た る 労 働 も 交 換 価 値 を 得 る た め の ﹁ 直 接 的 な 営 利 労   働 ﹂ = ﹁ 疎 外 さ れ た 労 働 ﹂ と な り 、 生 産 物 ぼ も っ ぱ ら 交 換 1   値 と し て 生   産 さ れ る よ う に な る 。 こ れ に よ っ て 生 産 、 欲 求 は ま す ま す 多 面 的 に な る   が 、 他 方 で は 生 産 者 の 諸 履 行 は ま す ま す 一 面 的 に な る 。 そ う な れ ば な る   ほ ど 、 私 的 所 有 者 に と っ て ﹁ 活 動 、 労 働 の 行 為 ︵ A k t i o n ) そ の も の ﹂   が ﹁ 彼 の 人 格 性 の 自 己 享 受 、 彼 の 自 然 素 質 と 精 神 的 な 目 的 の 実 現 ﹂ で あ   る か ど う か は 、 ま っ た く 非 本 質 的 な 事 柄 に な っ て ゆ く ︵ 合 ` ︶ 。 と の よ う   九       マ ル ク ス に お け る ﹁ 人 間 的 本 質 ﹂ と ﹁ 生 活 ﹂ の 概 念 ︵ 池 谷 ︶

に私的所有のもとでは、人間はますます利己的で没社会的なものとなる

から、﹁人間的労働の統ことしての﹁活動自身の相互的な補完と交換﹂

も﹁労働の分割︵分業︶﹂として現われる︵`g︶。こうして結局、私的

所有の下では人間の﹁共同的存在﹂は、私的所有︵者︶の社会的関係と

しての交換価値=貨幣の関係ならびに分業として、疎外ざれた形態で存

在することになる。

 こうした事態はすでにみたように、人間が自分を社会的人間として認

識し、世界を人間的=社会的に組織しえていないがゆえにおこる。では

人間が私的所有を廃棄して世界を人間的=社会的に組織したらどうなる

のであろうか。マルクスによれば、その時﹁共同体﹂ ・ ﹁社会体﹂は人

間的なものとして、すなわち﹁各々の個人の本質、彼自身の活動、彼自

身の生活、彼自身の享受、彼自身の豊かさ﹂︵︷叩︸として現われる。そ

してそこでは、マルクスによれば生産物の相互交換、私と君という生産

者の相互関係は次のような意味をもってくる。田私は私の生産において

 ﹁私の個性、個性の独自性﹂を対象化している。したがって活動の間私

は﹁個人的な生活表明﹂を享受し、対象を眺めては﹁私の人格性を対象

的な、感性的に直観されうる、それゆえまったく明々白々な力として知

る﹂。閣私の生産物を君が享受したり使ったりするなら、私は私の労働

において﹁一つの人間的な必要・欲求﹂を充足するとともに﹁人間的本

質﹂を対象化し、それゆえ﹁ある他の人間的存在の必要・欲求﹂に、そ

れにふさわしい対象を供給している。閣これによって君にとって私は。

 ﹁君と類との間の媒介者﹂となっており、君自身が私を﹁君自身の本質

の補完﹂、﹁君自身の必要な一部﹂として知り感じる。㈲かくて、私は

 ﹁私の個人的な生活表明﹂において直接的に﹁君の生活表明﹂を創りだ

し、それゆえ﹁私の個人的な活動﹂において﹁私の真の本質、私の人間

的本質、私の共同的本質﹂を活動で確証し実現している。しかもこの場

合の私の労働についていえば、。それは剛﹁自由な生活表明﹂として﹁生

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一〇  高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学 活の享受﹂となっており、閣またそこにおいて﹁私の個人的な生活﹂が 肯定されているがゆえに、﹁私の個性の独自性(Eigentumlichkeit)J が肯定されるのであり、この意味で労働は﹁真の、活動的な自分のもの としての所有(wahres。  tatiges  Eigentum︶﹂となっている。︵︷丞ぷ丞︸ このようにマルクスは人間の﹁共同的存在﹂を展望するのであるが、こ こでも生産=活動=生活の視点が社会的関係の中で貫かれている。生産、 活動は個性の独自性の対象化として、自由な生活表明であるとともに、 他の人間の生活表明をも創り出すのである。  以上にのべたことからマルクスの﹁共同的存在﹂概念を要約するなら ば、次のようになろう。田﹁共同的存在﹂とは、諸個人の協働ならびに 交換・交通という社会的活動および社会的享受として現存する、人間の  ﹁社会的生活﹂そのもの、﹁社会的・共同的﹂という人間の本質的な生 活関係を表わす概念である。ぼ諸個人が私的所有者として立ち現われる 私的所有のもとでは、この﹁共同的存在﹂は諸個人の相互的な補完行為 の疎外された形態として、交換価値=貨幣関係、分業という形態をとる とともに、生産、欲望の多面性が生みだされるから、閣諸個人が彼らの 本質にふさわしく自らを社会的=共同的人間として認識し組織するなら ば、真の﹁共同的存在﹂る取り戻すことができる。㈲以上のような意味 をふまえるならば、﹁共同的存在﹂とは歴史貫通的概念であるばかりで なく、歴史の発展の展望をもさし示す概念であるといえる。  目﹁私的所有と共産主義﹂断片においてマルクスは﹁疎外された労働﹂ 断片での﹁類的存在﹂、﹁ミル評註﹂での﹁共同的存在﹂という概念で 別々に考察してきた﹁人間的本質﹂把握を統一的にとらえ返し、私的所 有の歴史的発展、歴史の全運動を、自己疎外の止揚の理論=共産主義理 論の生成の基礎ならびに﹁共産主義の現実的な産出行為﹂新K凶oy、 263︶としてとらえ、私的所有の積極的な止揚として共産主義を、そ してさらにその発展として﹁社会主義﹂を展望している。  ずでに見てきたことから明らかなように、マルクスにとって私的所有 とはたんなる物ではなくて、田自然に対する人間の意識的なI物質的 ならびに精神的なI生活活動の関係、生活過程︵﹁類的存在﹂︶の疎 外態であるとともに' (M必要・欲求の社会的本質にもとづいて行なわれ る人間たち相互の補完行為という共同的・社会的関係ないしは生活関係        sχ l ssliss%ss4  ︵﹁共同的存在﹂︶の疎外態として、ぼ人間の本質的な生活そのものの 疎外態としてとらえられている。マルクスが私的所有を﹁疎外され た人間的生活の物質的感性的な表現︵der   materielle   sinnliche Ausdru ck  des   entfremdeten  menschlichen   Lebens︶﹂(263/264)と とらえるのはこのためである。  マルクスによれば、人間的生活の運動たる﹁生産と消費﹂は﹁これま でのすべての生産の運動﹂、すなわち﹁人間の現実化ないしは現実態の 運動﹂の感性的な開示である。というのは、宗教、家族、国家、法、道 徳、科学、芸術などは﹁生産の特殊な諸様式﹂にすぎず、﹁生産の一般 的法則﹂に従うからである︵S︷︸。つまり、生産と消費という人間的生 活は宗教的、社会的、政治的、理論的等々の生活の基礎をなすものとし て、これらの生活をも規定している、というのである。それゆえ私的所 有の積極的な止揚としての共産主義とは、出人間の自然に対する関係の 疎外態の止揚、ならびに閣人間たち相互の共同的・社会的関係の疎外態 の止揚として、ぼ﹁人間的生活を我がものとすること﹂であり、人間が 宗教的、国家的等々の生活から﹁彼の人間的な、すなわち社会的なあり 方﹂へ帰ることなのである︵同︶。  ところで、マルクスによれば、﹁人間的な本質と生活﹂を感性的に我 がものとすることは、たんに﹁占有するという意味、持つという意味﹂ においてのみ理解してはならない。彼によれば、﹁人間は彼の全面的な 本質をある全面的な仕方で、それゆえ一個の全体的な人間として我がも のとする﹂からである。ここでは見る、聞く、思考する、感覚する、活

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動する等々の人間の世界に対する人間的関係行為は、対象を我がものと することであるし、他の人間たちの諸感覚と享受さえも、私自身が我が ものとすることとなっている。︷こうして、例えば他の人々との直接的 な社会における活動等々は私の生活表明の︸器官となっており、人間的 生活を我がものとする一つの仕方なのである。﹂︵269︶このようにマル クスは﹁人間的生活を我がものとすること﹂それゆえ﹁全体的な人間﹂ の形成を、他の人々との共同の活動の中でとらえているのである。   そしてこのような意味をもった私的所有︵人間的な本質と生活の否定︶  の否定としての共産主義を基礎として、。マルクスはさらに積極的・肯定  的な人間的生活に基礎をおく﹁社会主義﹂︲を展望している。マルクスに  よれば、そこでは﹁現実的な生活は、’もはや私的所有の止揚、共産主義  によって媒介されていない、人間の現実態﹂︵274︶となっているのであ  る。   このように私的所有の積極的止揚としての共産主義および﹁社会主義﹂  においてはじめて、人間は真に社会的存在として現われ存在してくるの  であるが、それはマルクスによれば、﹁社会的性格﹂がこれまでの﹁運  動全体の普遍的性格﹂であったからにほかならない︵回︷︸。ここで7 ル  クスは﹁社会﹂を、各個人が互いに手段となり合うかぎりでのみ現存し 。ている﹁市民社会﹂としてしか固定的にとらえることができない国民経 済学者たち︵回巴に反対して、歴史の全運動を貫いている人間の社会 性・共同性の見地に立ち、これを﹁社会﹂という概念で括っているので ある。すでに﹁ミル評註﹂でみてきたように、この概念は、田歴史貫通 的な人間の本質であるとともに、閣私的所有のもとでも、それは疎外さ れた姿︵交換、分業︶で現存するのであるから、閣私的所有の止揚によっ て人間は社会的なあり方へ還帰することができるという、三重の意味あ いをもったものとして、人間的本質の発展の展望をも指し示す概念なの でなぞ -マルクスにおける﹁人間的本質﹂と﹁生活﹂の概念︵池谷︶  こかした﹁社会﹂の見地に立つ時、社会自身が人間を生産すると同様、 社会は人間によって生産されていること︵g︷︸、人間の活動と享受は他 の人間との直接的な共同として現われなくても社会的なものであること、 個人の生活表明は、﹁社会的生活の表明と確証I. eine   Ausserung und  Bestatieune des  gesellschaftlichen   Lebens︶J︵鴎ごであるこ とが明らかになってくる。それゆえ、﹁なかんずく避けられるべきこ とは、△社会▽を再び抽象物として個人にヽ対して固定することである。 個人は社会的存在︵das gesellschaftliche  Wesen︶﹂ なのIである。﹂  ︵同︶  ここで再び注意すべきは、このようにマルクスが述べる場合、人間の 生活︵活動︶と意識、存在と思考とがつねに一体のものとしてとらえら れていることである。すでにみたようにマルクスにあっては人間の生活 活動は理論的ならびに実践的生活を含みもったものとしてとらえられて いたが、この見地はここにも貫か但べ川る。  マルクスによれば、﹁私自身の現存在が社会的活動である﹂から、そ の時、﹁私か私からつくるものは、これを私は私から社会にとってつく        shttp://www.のであり、’社会的存在として私の意識をもってつくるのである。﹂し たがって一般的な意識が今日でぱ﹁現実的生活からの一つの抽象﹂とし て、現実的生活に敵対的に立ち向かうとしても、﹁私の一般的な意識と は、実在的な共同的存在、社会的存在を自分の生きた姿としているもの の理論的な姿にすぎない﹂のであり、また﹁私の一般的意識の活動﹂も また﹁社会的存在としての私の理論的な現存在﹂にほかならないのであ る。︵267︶かくしてマルクスによれば、﹁思考と存在﹂はなるほど区別 されてはいるか、同時に﹁相互の統二︵に宙︶ の中にあるのであって、 理論的な対立そのものの解決も﹁人間の実践的なエネルギー﹂によって のみ可能であり、人間の︻︼つの現実的な生活課題﹂ ︵回︷︸ なのであ る。

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  一 二     高 知 大 学 学 術 研 究 報 告   第 三 二 巻   社 会 科 学     丿     四 以 上 に 述 べ て き た こ と を 、 こ こ で も う 一 度 総 括 し て お こ う 。 マ ル ク ス   は 出 ﹁ 人 間 的 本 質 ﹂ を 対 自 然 と の 関 係 と い う 視 角 か ら ﹁ 類 的 存 在 ﹂ と と   ら え 、 こ れ を 、 他 の 人 間 と 共 同 し た 社 会 的 な 意 識 的 生 活 活 動 に よ っ て 自   然 を 自 ら の 非 有 機 的 身 体 と し て 我 が も の と す る と い う 、 人 間 の 本 質 的 な   生 活 過 程 と し て と ら え る と と も に 、 口 対 人 間 と の 関 係 と い う 視 角 か ら は     ﹁ 共 同 的 存 在 ﹂ と と ら え 、 こ れ を 、 社 会 的 本 性 を も つ 必 要 ・ 欲 求 を 介 し   て 営 ま れ る 人 間 た ち の 相 互 的 な 補 完 行 為 と い う 、 人 間 の 本 質 的 な 生 活 関   係 と し て と ら え て い る 。 そ し て マ ル ク ス に よ れ ば 、 ぼ 私 的 所 有 と は 剛 閣 ・ 両 関 係 の 疎 外 態 と し て ﹁ 人 間 的 な 本 質 と 生 活 ﹂ そ の も の の 疎 外 態 で あ り 、   そ れ ゆ え 、 ㈲ 私 的 所 有 の 積 極 的 な 止 揚 と し て の 共 産 主 義 と は 、 こ の ﹁ 人 、 間 的 な 本 質 と 生 活 ﹂ を 我 が も の と す る こ と 、 す な わ ち ﹁ 現 実 的 な 人 間 的   生 活 を 人 間 の 自 分 の も の と し て の 所 有 と し て 返 還 請 求 す る こ と ( d i e   V i n d i c a t i o n         d e s         w i r k l i c h e n         m e n s c h l i c h e n         L e b e n s         a l s         s e i n e s   E i g e n t h u m 巳 ﹂ ︵ 呂 ︶ ︶ に ほ か な ら な い 。 閤 こ う し て マ ル ク ス に お い て   は ﹁ 人 間 的 本 質 ﹂ と は た ん に ﹁ 活 動 性 ﹂ 、 ﹁ 意 識 性 ﹂ 、 ﹁ 社 会 性 ﹂ と い   う 人 間 の 本 質 的 特 徴 を 表 わ す だ け で な く 、 ま ず な に よ り も 、 他 の 人 間 と   共 同 し た 人 間 の 意 識 的 な 生 活 活 動 に よ っ て 不 断 に 創 出 さ れ る と こ ろ の 、     一   x   x   一 一   1   4   s x x i x 4   s s   i s   4   x   人 間 の 本 質 的 な 生 活 ︵ 生 活 過 程 と 生 活 関 係 ︶ を 表 わ す 概 念 で あ り 、 し か   も こ の 意 識 的 な 生 活 活 動 に よ っ て 不 断 に 形 成 ・ 発 展 し 、 つ い に は 人 間 自   身 に よ っ て 現 実 的 に 我 が も の と さ れ る と い う 意 味 に お い て 、 歴 史 貫 通 的   で あ り 、 か つ 歴 史 の 発 展 の 展 望 を も さ し 示 す 動 態 的 な 概 念 な の で あ る 。   ㈲ し か も こ こ で マ ル ク ス が 人 間 的 生 活 と い う 場 合 、 生 活 ︵ 活 動 ︶ と 意 識 、   存 在 と 思 考 と は つ ね に 一 体 の も の と し て と ら え ら れ て い る こ と 、 理 論 的   な ら び に 実 践 的 生 活 が 一 体 の も の と し て と ら え ら れ て い る こ と 、 そ し て   こ の 人 間 的 生 活 こ そ が 他 の 生 活 を 規 定 す る こ と 、 が 忘 れ ら れ て は な ら な   い 。 そ れ ゆ え マ ル ク ス に あ っ て は 理 論 上 の 対 決 の 解 決 は 現 実 的 な 生 活 課   題 と し て 提 起 さ れ 、 人 間 の 現 実 的 な 生 活 に お い て 解 決 さ れ ね ば な ら な い のである。 Ⅲ  こうしたマルク又の人間把握・生活把握は﹁聖家族﹂を経て、﹁フォ イェルバッハにかんするテーゼ﹂、﹁ドイツーイデオロギー﹂︲にも基本 的なものとして受け継がれ、より唯物論的・歴史的に深化させられてい る。 ヽ ︲エングルスとの初めての共同作業の成果である﹁聖家族﹂・では、マ ルクスは自らの立場を﹁実在的人間主義︵der  reale Humanismus)﹂と 呼び、﹁現実的な個人的人間﹂︵Bd. 2。7︶の立場に立っている。そし してブルーノーバウアーの﹁批判的批判﹂を批判する中で、歴史を﹁生 活そのものの直接的な生産様式﹂︷︸S︶としてのその時代の産業を基礎 にして認識する必要性を説いている。  ブルーノーバウアーが﹁自己意識﹂こそが︷唯︸の、排他的な、もは や外界などの外見に煩わされることのない存在﹂︵︷合︸だと宣言し、こ の原理にもとづいて自らの外にいる労働者の意識や思考を﹁批判的批判﹂ によって変更させようとするのに対して、マルクスは生活、実践の原理 に立って次のように述べている。 ﹁彼ら︵イギリスとフランスの労働者︱引用者︶は存在と思考との間の、意 識と生活との間の区別を痛切に感じている。彼らは所有、資本、貨幣、賃労働 などがけっしてなんら理念的な妄想ではなくて、彼らの自己疎外のきわめて実 践的な、きわめて対象的な産物であり、それゆえ、思考、意識においてばかり でなく、大衆的存在、生活において人間が人間になるためには、これらが実践 的な、対象的な仕方で止揚されなければならないことを知っている。﹂︵g、留︶

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 このようにここでも、生活・実践の原理が貫かれているのである。

 □﹁フォイェルバッハにかんするテtゼ﹂でわれわれにとっ。て注目す

べきは、第八テーゼである。そこでは次のように述べられている。

   XIIXXISIちS411SXIISI一 ︷あらゆる社会的生活は本質的琵実践的である。観照と神秘主義へ誘うあらゆ        Sχ1 4 一一︸一I4 S41`i゛alる神秘はそれの合理的解決を人間的実践とこの実践の概念的把握とのうちに見 出す。﹂︵∽a・FJ      。・   ここでマルクスははっきり之生活を実践としてとらえているのである が、この﹁生活﹂概念をわれわれは﹁経・哲手稿﹂の延長線上において 理解すべきである。すなわち﹁生活﹂を自然に対する対象的な活動およ び人間相互の行為として理解すべきである。   ‘  日﹁ドーイデ﹂ではこうした﹁生活﹂把握が﹁生活過程‘︵der bebensprozeyff︶﹂論として展開され‘ていく。ここでは﹁生活過程﹂論 に佐点を絞ったかたちで﹁ドーイデ﹂第︸章を考察してゆくことに1 記。   ﹁ドーイデ﹂で歴史=人間把握の出発点となるのは、純経験的な方法 で確かめられるような﹁現実的な諸個人、彼らの行為︵Aktion︶およ び彼らの物質的生活諸条件−眼前に見出される生活諸条件ならびに彼 ら自身の行為によって産み出された生活諸条件−﹂︵回︶という現実 的な諸前提で﹃あり、﹁感性的活動﹂としての﹁現実的に実存している活 動的な人間﹂︵呂︶である。ここから彼らの生活手段の生産、物質的生 活そのものの生産が、動物から区別される人間の﹁最初の歴史的所業  ︵g’︶﹂︵s︶ととらえられる。マルクスとエングルスによれば、この  ﹁生活手段を生産する様式﹂には次のような意味が含まれている。  由諸個人の生産の様式はたんに諸個人の肉体的生存の再生産であるば かりでなく、むしろすでに、﹁諸個人の活動のある規定された様式﹂、  ﹁彼らの生活を表明するある規定された様式﹂、・﹁彼らのある規定され  一三  マルクスにおける﹁人間的本質﹂と﹁生活﹂の概念︵池谷︶ た生活様式﹂である。閣諸個人が彼らの生活を表明する仕方が﹁彼らが 存在する仕方﹂であるから、彼らの何たるかは彼らの生産と﹁致する。 それゆえに、閣彼らの何たるかは、﹁彼らの生産の物質的諸条件﹂に依 存する。︵a︶      ≒   一      ヽ     j一  このように、﹁ドーイデ﹂でも生活=生産∼ 産の様式=活動の様式0生活表明の様式=生活様式︵生き方︶という等 式で受け継がれているのがわかる。そしてこのような生屎の意義をふま えて、マルクスとエングル‘スは、﹁物質的生活の産出﹂としての生産を  ﹁自己活動︵Selbstbetatigung)jという概念で表わしている。﹁、ド・ イデ﹂でマルクスは・︽日緊縮r’︾とCBetatigung︾を同義として用 いているとこ、ろからみれば︷︸S︶へ ﹁自己活動﹂概念を﹁経・哲手稿﹂ における﹁自己活動 ︵Selbstttatigkeit︶J 概念と同義とみなしてか まわないであろう。すでにみたように﹁経・哲手稿﹂では生産としての。 活動は個人の﹁自由な肉体的および精神的エネルギー﹂を発展させる  ﹁自由意志的﹂なもの、その意味で﹁自己活動﹂であったが、この視点 が﹁ドーイデ﹂へと受け継がれているのである。この点でも﹁経・哲手 稿﹂から﹁ドーイデ﹂への連続性が窺えるのである。  ところで、マルクスとエングルスによれば、生命・生活の生産は労働 における自分の生命・生活の生産ばかりでなく、生殖における他人の生 命・生活の生産をも含んでいるのであるが、このいずれの生産もはじめ から﹁自然的な関係﹂としてばかりでなく、同時に﹁幾人かの諸個人の 協働(das  Zusammenwirken  mehrerer Individuen︶J と。いう意味で  ﹁社会的関係﹂としても現われてくる。︵Z`S︶生産においてはそもそ ものはじめから、﹁人間たち相互の唯物論的連関﹂︵S︶が見られる のである。このように生命・生活の生産がつねに諸個人の協働によって 成り立っているのであるから、そこには同時にまたつねに﹁諸国人相 互の交通﹂︵斟︶、諸個人の関係行為(Verhalten︶が行われているので

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 一四  高知大学学術研究報告 第三二巻 社会科学 ある。したがって先の生産=活動=生活という規定もこの交通を前提に した規定であることを忘れてはならない。生産はつねに他の個人との協 働と交通の中で行われているのである。  ではこの諸個人の﹁交通﹂は何にもとづいているのか。彼らの﹁必要・ 欲求﹂にてある。マルクスとエングルスによれば、諸個人は‘﹁彼らの諸 必要・欲求、それに彼らの自然・本性およびそれらの必要・欲求を充足 する仕方﹂によって、﹁性関係、交換、分業﹂というかたちで、相互に交 通しあわざるをえないのである︵Bd. 3。 423)°このように﹁ミル評註﹂’ の﹁必要・欲求﹂の社会性にもとづく。﹁交通﹂という考え方が﹁ド‘・・イ’ デ﹂にもはっきりと受け継がれているが、前者では﹁交通﹂が交換とい う人間たちの相互補完的行為としてとらえられていたのに、後者では性 関係、交換、分業、そしてすぐあとでみるように、人間たちの精神、思 考の交流などを含んだ広い概念として用いられているのである。  ところで生産と交通の関係についていえば、物質的生活の生産は人口 の増加とともにはじめて現われてくるのであって、後者は﹁諸個人相互 の交通﹂を前提にしているが、しかしまたこの交通の形態は生産によっ て制約されている。︵斟︶  こうしてマルクスとエングルスにあっては、出発点とすべき現実的に あるがままの諸個人とは、﹁活動し︵ぎ冷∼︶、物質的に生産し、それ ゆえ、一定の物質的なそして彼らの恣意から独立した諸制限、諸前提、 諸条件の下で活動している﹂︵9︶諸個人であって、彼らの存在とはま さに、﹁彼らの現実的な生活過程﹂︵咀︶にほかならない、とされるの である。今まで見てきたことからすれば、この﹁生活過程﹂は基本的に は生産︵活動︶と交通︵関係行為︶とから構成されている、とみてよい であろう。︵ここで活動を生産と等置したが、それは狭義の意味であっ て、この概念は生産と交通を含み込んだものとして広義の意味でも用い られていることに注意する必要がある。︶  ところで注目すべきは、この生活過程から、そして’この過程との一体 性のなかで意識の発生・生成、イデオロギーの発生が説明されているこ とである。   マルクスとエシゲルスによれば、言語は意識と同じように古いもので あって、。両者は﹁他の人間だちとの交通の欲求、必要︵Bediirfnis。 Notdurf︶﹂︵S︶から生じる。﹁諸理念、諸表象、意識の生産﹂は最 `       ls Iχ一 1 4χχ 3 χχs   一 sχχ 一一初は直接的に﹁人間たちの物質的な活動と物質的な交通、現実的生活の 言語﹂に編み込まれており、﹁表象すること、思考すること、人間たち の精神的交通﹂はここではまだ﹁彼らの物質的な関係行為の直接的な流 出﹂として現われている︵S︶。その後生産性の向上、欲求の増大、お よびこれら両者の根底にある人口の増大によっヽて、自然生的な分業から  ﹁物質的労働と精神的労働の分割﹂が現われるや否や、意識は﹁存立す る実践の意識﹂とは別物であるかのように思い込むことができるように なる︵宕︶。  このように、マルクスとエングルスにあっては、意識は、それが実践 の意識であれ、イデオロギーであれ、本源的には諸個人の現実的な生活、 すなわち物質的活動と物質的交通のなかで、その生活の一契機として生 成されているものとしてとらえられているのである。それゆえに諸個人 の意識や表象は、剛﹁自然に対する彼らの関係﹂についての表象か、閣  ﹁彼ら相互の関係﹂についての表象か、あるいは閣﹁彼ら自身の性質﹂ についての表象かであって、﹁これらいずれの場合にも、これらの表象は、  xxx x sx ix s sssxs      % xsx x  sxxx 彼らの現実的な諸関係と活動(Betatigung︶'彼らの生産、彼らの交 通、彼らの社会的および政治的関係行為、これらのもののI現実的な いしは幻想的なi意識的な表現なのである﹂︵9︶。マルクスが﹁現実 実に活動している人間だちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程 から、この生活過程のイデオロギー的反映と反響の展開をも叙述する﹂  ︵沢︶と述べる根拠もここにあるのである。

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