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デカルトpdf 最近の更新履歴 京都大学哲学研究会

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(1)

デカルト

つかさ

平成 23 年 11 月 12 日

目 次

1 哲学史的位置づけ 2

2 総合的方法 2

2.1 総合的方法とは何か

. . . 2

2.2 総合的方法と普遍懐疑 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3

3 学問の基礎 4 3.1 明晰判明 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4

3.2 コギト . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4

4 神の存在証明の構造 5 4.1 コギトの不完全性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5

4.2 自然は原因ではない . . . 5

4.3 神の存在証明 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5

5 三つの神の存在証明 6 5.1 第一−表現的実在性(ア・ポステリオリな証明) . . . 6

5.2 第二−我の原因(ア・ポステリオリな証明) . . . . . . . . . . 6

5.3 第三−存在論的証明(ア・プリオリな証明) . . . 7

5.4 ア・ポステリオリな証明について . . . . . . . . . . . . . . . . 7

5.5 ア・プリオリな証明について . . . 7

5.6 普遍懐疑と存在論的証明 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8

6 デカルトからスピノザへ 8 6.1 デカルトの到達点 . . . 8

6.2 生じる矛盾点 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8

6.3 実体論による乗り越え . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 9

7 哲学への一撃 10

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1 哲学史的位置づけ

デカルトの理論の特色は

• 総合的方法を発見したこと

• 観念論を極致まで押し進めたこと である。

スピノザは、デカルトの方法論を用いて、デカルトの到達点を批判、より 先へ進んだ。その意味で、デカルトが整備した道を先に進んだだけであり、 哲学史的に真に偉大なのはデカルトだ、ということもできる。

2 総合的方法

総合的方法を発見したのは、デカルトである。

2.1 総合的方法とは何か

総合的方法とは、真の認識に至るための方法である。相手の持つ概念と原 理とを用いて議論すれば、それで絶対に一致することができるというのが本 質である。

分析は、事物が方法的に、そしていわばア・プリオリに見つけ出 された、その真の途を示すものであって、かくてはつまり、読者 がこの途にしたがい、しかもすべてに十分に注意する、ようにし たいと思うとするならば、この事物を彼は、自分自身で見つけ出 したという場合に劣ることなく完全に知解し自分のものとするこ とでしょう。が、この証明方法はしかし、あまり注意深くない、 もしくは敵対的な読者を信ずることへと駆りやるだけのものを何 ももっておりません。というのも、この証明法の提示するところ のもののうちにいささかなりとも何か気づかれないものがあると するならば、その結論の必然性はあからさまにはならなくなるし、 それにしばしばこの証明法は、十分に注意する者にとっては分明 であるという理由で、しかし特に注意しなければならない多くの ものに、ほとんど触れない、からなのです。総合は逆に、正反対 の、いわばア・ポステリオリに問われた途によって、なるほど明 晰に、結論されたところのものを論証するものであって、定義、 要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用します。が、そ れは、帰結のうちの何かがこの総合に対して否定されることがあ るとするならば、そのものが先行理由のうちに含まれているとい

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うことをただちに示さんがため、そしてこのようにして読者から、 彼がどれほど敵対的であっても頑迷であっても、同意をもぎとら んがため、なのではありますが、これは、分析のように、学び知 りたいと願う心を満たし鎮めるものではなく、それというのも、 事物が見つけ出されたその仕方を教えることが無いからです。(省 察第二答弁)

大抵の議論で一致しないのは、考えていることが異なっているからなどで はなく、単に議論の方法と、弁論術の方法とをごっちゃにしているから、と いうのが想定としてある。

そこで、弁論術をあらかじめ封じ、ただ真理に関する議論のみを強制する 方法を求めた。それを突き詰めた結果が、総合的方法である。

最初に相手に定義と公理を確認し、後の議論では、それのみを用いて相手 の主張を否定する。そして、相手がそれをごまかそうとしてきたときには、

「いや、君はさっきこのように同意したではないか」ということを言うことが できる。従って、たとえどのような者に対してであっても、この方法を使え ば同意を奪取することができる。

2.2 総合的方法と普遍懐疑

デカルト自身は、この区分に到達してはいたが、総合的方法を用いた議論 はあまりしていない。ただ、彼が実際にやっていることは、具体的に想定敵 を置き、その者の論理を用いて相手を否定しているという点で、総合的方法 と本質は同じである。

デカルトが対象としているのは懐疑論者。自分が最も根源的に物事を考え ているといばっているやつである。そしてデカルトはこれを批判したい。懐 疑論は、ただの弁論術にすぎないと知っているからだ。

そこで、次のような方法をとる。デカルト自身が、懐疑論者よりも徹底し た形で懐疑を行うのである。

まず、感覚について疑い、ついで数学について疑い、身体について疑い、神 について疑う。

1. 日常的な感覚に基づく判断→遠くから見て丸い塔が、近くで見ると四角 2. 内的身体的感覚。服を着ている、紙を手にしている、この手、身体全体

が私のものであるという意識→夢を見る

3. 数学的真理。2+3=5。四角形は四つの辺よりなる→欺く神。我々が判 断するたびごとに欺いているかもしれない。

このことによって、懐疑ということが実際には何をしているのかを、目の 当たりにするというのが、デカルトの狙いである。実際に懐疑を行うことに

(4)

よって、懐疑というのは、ある主張にそれを否定する別の根拠を突き当てる ことだということを、示すのである。これは、逆に言えば、否定する根拠を想 起することができないものについては、真だと認めているということである。

今まで、懐疑を普遍的で、何にでも通用するとしていたのは間違いだった。 ただ、それが実際に何を行っているかを曖昧にすることで、不当に使用して きたものにすぎなかった。懐疑というのは、実際には、「否定の根拠を想起す ることができるもの」についてのみ言われるものにすぎず、それができない ものは真であると最初から認めているのである。

今まで、懐疑論者は、懐疑する能力が全ての人にある、そしてそれは普遍 的である、と考え、それを共通概念として今までやってきていた。だが、デ カルトによって分析され、「疑うということは、反対概念を想起することです よね。では、コギトについて、あなたはそれを否定するような経験を何かし たことがあるんですか?疑うというなら、具体的に反対概念として何を考え ているか教えてくださいよ。実は口だけじゃないんですか?」と問われるこ とになったわけだ。

3 学問の基礎

この普遍懐疑の成果は、二つにまとめることができる。一つが明晰判明。 一つがコギトの実体性。

3.1 明晰判明

私がこのように明晰に判明に認知する事がらが偽である、という ようなことが一度でも起こりうるとするなら、もちろんそういう 認知は私に真理を確信させるには十分でないことになるであろう。 それゆえ、いまや私は、私がきわめて明晰に判明に認知するとこ ろのものはすべて真であるということを、一般的な規則として確 立することができるように思われる。(省察3)

普遍懐疑によって懐疑することができないもの、すなわちそれを否定する ような根拠を想定することができないものについては、真であると認めても いい、ということが明らかになった。それを明晰判明、という仕方で表現し ている。普遍懐疑の結果として、懐疑よりもより根本的な原理として、真の 基準が明らかになった、そしてそれを明晰判明と呼んだ、ということである。

3.2 コギト

「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいい あらわすたびごとに、あるいは、精神によってとらえるたびごと

(5)

に、必然的に真である(省察2)

存在を疑うことができないもの。それを否定する根拠を想定できないもの として、実際に見いだしたのが精神の実体性である。それゆえ、これについ ては、個物のように、それは存在することもしないこともできないのではな いか、と言うことができない。

4 神の存在証明の構造

4.1 コギトの不完全性

ついで、このコギト、精神について考える。精神としてデカルトが言って いるのは、次のようなことである。

しかし、それでは私とはなんであるのか。考えるものである。で は、考えるとはなんであるか。すなわち、疑い、理解し、肯定し、 否定し、意志し、意志しない、なおまた、想像し、感覚するもの である。(省察2)

そして、精神の考察を進める中で、精神自体が、不完全なもの、他の原因 を要するものだということが明らかになる。ついで、その原因を求めること になる。これによって、精神の実在性を否定するような要素についてすべて 説明し尽くし、その実在を否定できないものにしよう、というのが狙いだ。

4.2 自然は原因ではない

通常の場合であれば、この原因として、自然を考えるわけだ。自然全体な り親なりなんなり、自分が存在するのは何か自然的な原因があったんだろう と考えるのである。

だが、自然を原因とすることはできない。自然については最初から、不完 全な実体と想定して議論しているからである。

4.3 神の存在証明

というわけで、精神の原因というのは、次のような条件を兼ね備えること になる。

• 自然ではない

• 同じ実体という性質を持っている

• 精神よりグレードが上である

(6)

そして、そのようなものとして神の存在が証明される。

だから、証明の構造は、「普通は自然を原因として認める」「けれど自然は 原因ではない」「だから神は存在する」みたいなものだと考えていい。非常に シンプルである。

5 三つの神の存在証明

では、実際にデカルトがどのようにして神の存在を証明しているかを見て みよう。デカルトは、三つの神の存在証明をしている。第一証明と第二証明 は、ア・ポステリオリな証明であり、第三証明がア・プリオリな証明である。 一般に有名なのは第三証明であり、カントが『純粋理性批判』で「存在論的 証明」と呼び、批判しているのもこれである。スピノザが『エチカ』で神の 存在証明に用いているのもこれである。

5.1 第一−表現的実在性(ア・ポステリオリな証明)

表現的実在性から、神の存在を証明する。私のもつ観念の内で、自分で作 り出したものではない概念があれば、私以外の何者かが存在する根拠になる のではないか、という証明である。そのような観念の特質を、表現的実在性 と呼んでいる。虚構されるものとは区別される何かがある、という程度の意 味である。

私が作り出したものではないもの=表現的実在性を持つ観念として、疑わ れているものがこの時点では二つある。一つが自然であり、もうひとつが神 である。そこで、実際にそれが私の作り出したものではないのかどうか、を 考察することになる。

まず自然について考察される。その本質は、実体性、持続性、数。これら は、実体としての自分が作り出せるものであるから、実在するとはいえない、 と結論する。

ついで、神について考察する。これについては自分では作り出せないもの だと認める。その理由としてあげているのは、同じ実体でも、私と比較して、 私よりも大きいということ。

このようにして、神の観念については、私は自由に作り出すことができな いとして、神の存在を証明する。

5.2 第二−我の原因(ア・ポステリオリな証明)

私の有限性から、神の存在を証明する。

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私は実体ではあるが、それ自体として持続はしない。また、疑うというこ とから、不完全であることがわかる。よって、その原因が他に求められなけ ればならない。

また、ここで想定している我は精神だから、両親やその他物体的なものが 原因ということもできない。物体は、精神の原因たり得ないからだ。

こうして、我の原因としての神の存在が証明される。

5.3 第三−存在論的証明(ア・プリオリな証明)

神の観念それ自体に、存在が属しているということからの証明。

この証明は、神概念が他の諸物とは異なっていることを元にしている。神 については、それが存在するかどうかを判断する自由が自分にはない。感覚 的事物と同じように、存在と本質とを分離して考えることはできない。

もし、神が何かについて曖昧であったなら、疑うことができるかもしれな いが、神が何かを一度知ってしまったら、もうその本質と存在を分離するこ とができない。ここから、神の概念のみによって、その存在を証明すること ができる。

5.4 ア・ポステリオリな証明について

第一、第二、どちらも自然が必然だ、それについては否定できないだろう、 というのと同じ論理である。

• 第一は、実際に存在する自然は否定できないだろうというもの

• 第二は、自身の原因として、自然を想定せざるを得ないだろう、という もの

というように見なすとわかりやすい。

ただ、デカルトは、自然を不完全なものと見なす立場のため、それが自然 だということを認めることができない。同じものを二つに分け、自然と神を それぞれ別のものとして考えているからである。そのため、この証明は一見 分かりにくいものになっている。

5.5 ア・プリオリな証明について

ここで言っているのは、必然的に存在する事物が存在するかどうか、とい う問題である。それが、「存在と本質が区分できるというのは普遍的か」とい う形で提起されている。

通常の事物であれば、存在と本質とを区分することができる。動物でも植 物でも無機物でも、同じ本質を持ち、複数の存在があるものはいくらでもあ

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る。だが、それを普遍的に適応することができるのか。すなわち、実体にも 適用できるのか?精神であれ自然であれ神であれ何であれ、それが必然的だ と思ったもの、その反対を想定できないようなものについても、これを適用 することができるのか。それが、ここでの問いである。

懐疑論者の立場であれば、「存在と本質が区分できる」という命題は普遍的 に適応できる。「必然的に存在するものなどない。全ての事物は、それが存在 するかどうかを疑うことができる」ということを前提にしているからである。

5.6 普遍懐疑と存在論的証明

だが、普遍懐疑の過程において、この立場は既に否定されている。あるも のの存在を否定するには、それを否定するような何らかの根拠を示さねばな らない。そして、それができないものが存在することが、確認されている。 そうして得ることができたのが、コギトであった。これについては、それが 存在するかどうかを自由に決めることができないのである。

つまり、「存在と本質を区分できる」というのは、普遍的ではないのであ る。従って、このようなものにおいては、概念のみから、その存在を導くこ とができる。

そのような意味で、この証明は、実体を見いだすまでの過程を経たからこ そ理解できるものであって、字面だけみても理解できないものだということ がわかる。逆に言えば、この過程を経たものにとっては、この証明は証明さ れるまでもなく当然のことだ、とも言える。

6 デカルトからスピノザへ

6.1 デカルトの到達点

懐疑論的な立場を、根本的な仕方で否定することで、精神の実体性を証明 することができた。

また、精神の根拠として、神を証明することができた。かつ、このあと、神 から他の実体が産出されたのだ、という仕方で、個々の実体の関係を位置づ けることになる。

ここにおいては、もはや、精神の実体性を理論的に脅かすものはない。そ のような意味で観念論の極致に至ったのである。

6.2 生じる矛盾点

だが、いろいろ本当か?と思うことが出てくるはず。

(9)

• 産出というのはいったい何なのか。そこにおいて、実体という認識にお いても存在についても最初のものを考察しているにもかかわらず、個物 に見いだすものの類推を用いているのではないか

• 実体概念。最初に実体として、人間精神を規定しているのに、後で神の 存在証明の時、それが不完全なものだとしている。矛盾していないか。 その時々で、都合のいいように定義を変えているだけではないか その上で、一般になされているような

• コギトについても疑えるのではないか

• 神をただ、勝手に想定した観念から導いているだけではないか などの批判というのは、的はずれだということがわかる。

6.3 実体論による乗り越え

そこで、デカルトがたどり着いた地点、すなわち

• 実体は存在し、それは個物よりも先である

• 神は存在する

ということをスタート地点として、それらを再び総合的方法によって批判 する、ということをスピノザは行う。

スピノザは、これらの矛盾は、実体概念について未批判であることに起因 する、と整理した。

1. まず、実体概念を整理する。ここにおいて、実体として理解している特 質として、それが独自の原理だということ、他の原理を要しないこと、 などを導く。

2. 神について整理。それは、第一の実体で、そこから産出するもの、とい うように定義されることになる。しかし、産出するということが、実体 という概念、つまり1において整理された、実体に認めていた諸特質と 矛盾していることを示す。

結局、精神が実体だという想定が間違っていたことになる。そして、唯一 の実体のみが存在し、それについては否定することができない、ということ が導かれる。

このようにして、神概念を批判することによって、自然のみが存在する、 という唯物論にたどり着くことになる。

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7 哲学への一撃

最後に、デカルトとスピノザとが、どのような哲学史的価値を持っている かを見てみよう。

デカルトとスピノザの特色は、次の点にある。

• 総合的方法を発見したこと。弁論術の手法を、哲学から完全に分離し、 その方法論を作り出したことにある。このことによって、どのような主 張に対しても、総合的方法で説明することが要求されることになる。主 張に対してはその根拠が問われ、それをごまかすことが不可能になる。

• 総合的方法を用いた上での理論的洗練が、デカルトとスピノザによって 行われている。これにより、自然の必然性、自由意志の否定が理論的に 精緻に証明されている。今後、これを否定しようとする場合には、彼ら が到達した地点をさらに総合的方法で批判する以外にない。

だから、デカルト、スピノザ以外の哲学者は、彼らの結論に不一致である 場合には次の問いに答えることが要求される。果たして君は、総合的方法を 取っているのかどうか。取っていないのであれば、君は君の真理性をどこに 依拠しているのか。ただ適当に、弁論術でごまかしているのではないか、と。 そして、総合的方法について認めるとしたならば、ついでそれを用いた上で デカルト、スピノザの不備を指摘しなければならない。

このような要求を突きつけられたとき、たいていの哲学というのは不可能 になると思われる。

参照

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