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東京外国語大学学術成果コレクション

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Academic year: 2018

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たたかうことと

踊ること

増野亜子

ましの あこ / 東京藝術大学・明治大学他非常勤講師

インドネシアの伝統武術シラットは、 音楽の伴奏とともに芸能として

上演されることもあり舞踊とも関係が深い。 戦いのための身体技法と芸能の

思いがけない共通点について 考えてみたい。

音楽が鳴り、シラットが始まる  太鼓が鳴り、竹笛が鳴り、ゴングが鳴り はじめる。短く刈り込んだ白髪に、黒い道 着、裸足のタマさんはしずかに足を広げ、 腰を落とし、掌をたてて構えに入った。イ ンドネシアの伝統武術プンチャック・シ ラットの演武がはじまった。タマさんは70 歳、孫が3人いるおじいさんで、私は親し みをこめて「カ・タマ(タマ爺)」と呼んで いる。

 竹笛は一つの旋律を何度もくりかえし、 太鼓は細かいストロークを軽やかに刻み続 ける。交互に繰り返される大きなゴングの 重厚な響きと小さいゴングの鋭い響き。ぐ るぐると循環する音楽の中でタマ爺の手足 がゆっくりと前にのびたかと思うと、急に 空気が動いた。太鼓奏者がすかさず反応し て加速すると、合奏全体が高揚し、場の空 気がぎゅっと収縮する。タマ爺の手のひら が見えない敵を鋭く打ち、右足が、つづけ て左足がさっと宙を蹴った。回転して悠々 と振り向き、次の構えに移ると、とめてい た息を吐くように音楽も元のテンポに戻っ た。タマ爺の身体は静かに動き続けている。 ゆったりとしているが獲物の動きをみはか らう虎のように油断なく、隙がない。引退 して何年も経つから、往時のような素早い 動きは無理だというが、それでも一瞬の打 撃には緊張感が、ゆるやかな動きには優美 さがある。その動きにひきこまれ、導かれ るように音楽は鳴り続けていた。

 タマ爺はバリ島に住む私の師匠である。 といっても私が習っているのはシラットで はなくて太鼓。太鼓と笛、大小のゴング類 からなるググンタンガンという音楽の演奏 を実践的に学びながら調査している。タマ 爺はこのググンタンガンの専門家で、バリ でも屈指の太鼓奏者なのだ。太鼓を教える 時のタマ爺は温和で我慢強いが、村の人々 によると若い頃は短気でしょっちゅう喧嘩

していたらしい(本当はシラットを学ぶ者 はみだりに喧嘩してはならない)。実際にタ マ爺の技を目にして、いつも話半分に聞い ていた武勇伝をようやく信じる気になった。

シラットの多様な側面

 プンチャック・シラットは、単にプン チャックあるいはシラットと呼ばれること もあり、インドネシアからマレーシアにか けての東南アジア島嶼部で実践されてきた 伝統的な武術であり、身体修練の技法であ る。現在は一般に護身術と説明されること が多く、スポーツとして行われることも増 えている。しかし植民地時代以前のマレー 半島沿岸地域においてシラットは実戦と結 びついた兵士たちの戦闘術であり、鍛錬方 法であったはずである。シラットはもとも と地域により多様な実践や流派があり、技 法や考え方もさまざまであるが、単純な身 体トレーニングを超えたある種の「知識(イ ルムー)」の獲得をめざす側面がある。目に 見える肉体の力だけでなく、目に見えない もの、つまり精神的な、あるいは霊的な力 をも鍛え、極めること。シラットはその両 方の力で「敵」とたたかうための技法なの である。

 その一方で、シラットは音楽を伴って演 じられることも多く、芸能ともかかわりが 深い。最近はあまり見かけないが、かつて バリでは、ググンタンガンとよく似た編成 の音楽(使用するゴングの種類が若干異な る)でシラットを伴奏していた。タマ爺か ら太鼓を学ぶ中でそのことを知った私は、 シラットの音楽を再現して記録に残したい と考えた。それに、話に聞くタマ爺の技も 見てみたかった。そこで知人の音楽家たち を誘い、タマ爺の指導で伴奏音楽を復元し て、それに合わせてシラットを披露しても らうことになったのだ。若い頃のタマ爺は 遠くからシラットの音楽が聞こえてくると、

たたかう 

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14 FIELDPLUS 2017 07 no.18

シンガパドゥ村

バ リ 島

イ ン ド ネ シ ア

シラットの演武を披露するタマ爺(バリ島南部 ギャニアール県、シンガパドゥ村、2012年8月)。

撮影前に見本を見せるタマ爺と若手のシラット演者(バ リ島南部ギャニアール県、シンガパドゥ村、2012年8月)。

シラットの伴奏に用いる 太鼓とゴング類。これに 竹笛や小型のシンバルが 加わる(バリ島南部ギャ ニアール 県、 シン ガパ ドゥ村、2012年8月)。

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沸々と闘志が湧き、いてもたってもいられ なくなって試合の場に駆け付けたという。 音楽は武術を行う人の心と身体に働きかけ るのだ。一方、その身体の躍動と優美さは 音楽によっていっそう際立つ。シラットは たたかうための技術であるだけでなく、見 る人の心を動かし、魅惑するという点でも 音楽や舞踊と接点がある。

ムスリムのシラット芸能

 タマ爺をはじめとするバリのヒンドゥー 教徒社会では、音楽つきのシラット上演が 減っているのに対し、ムスリムの集落では 預言者ムハンマドの生誕祭(マウリッド) の際などに、今もシラットを演じている。 枠太鼓ルバナがいっせいに打ち鳴らされる 中、男たちが次々に観衆の前に進み出て、 技を披露し、また互いに技をかけあって競 う。シラットは舞踊と同様、祝祭をもりあ げるエンターテインメントの一つであり、 格闘技であると同時に芸術(スニ)でもあ る。人々にとって武術と芸術の近接性は何 の不思議もないことなのだ。

 同じくムスリムの芸能であるルダットは ミリタリー風の衣装に身を包んだ男たちが、 隊列を組み、シラットの型をつなげるよう に踊り、行進するものである。ルバナと大 太鼓の伴奏で預言者ムハンマドを讃える歌、 あるいはイスラムの歴史にちなんだ歌がに ぎやかに歌われる。ルダットは武術の身体 動作が集団舞踊に再編された芸能である。 戦いに明け暮れた時代が終息して実戦的な シラットが不要になった時、かわりにシラッ トの美しさを強調したルダットが生まれた という説もある。ルダットの衣装や行進の 様子、武術的な動作は勇敢な兵士のイメー ジと結びついているものの、敵を倒す、技 を競うという格闘技の攻撃的な側面は抑制 され、むしろ集団としての動きの統一感や 一体感が強調されている。

「たたかい」と芸能

 そもそもインドネシアの芸能において 「たたかい」はポピュラーな要素である。イ ンド起源の叙事詩マハーバーラタやラー マーヤナを題材とする影絵芝居ワヤン・ク リットも、その上演の約1/3は戦争の場面 に費やされる。ワヤンの登場人物は弓矢を 使ったり、超能力的な「知識」によって炎 を燃やしたり、巨大な龍に変身したりして たたかう。あるいはバリの儀礼的舞踊劇 チャロナランでは、人に災厄をもたらす黒 魔術の象徴としての死の女神ランダと、人 を癒す白魔術の象徴としての聖獣バロンが 終わりなきたたかいを繰り広げる。影絵芝 居やチャロナランにおける「たたかい」は しばしば、真理(ダルマ)と不正義(アダ ルマ)、白と黒、ネガとポジのように、相反 する力の拮抗として描かれる。スピーディ な動きと高揚する音楽を伴うスリリングな 戦闘場面は上演全体のクライマックスでも ある。しかし多くの物語は単純な勧善懲悪

で決着しない。なぜなら世界は常にそのよ うな「たたかい」のダイナミズムの中にあ ると考えられているからだ。

 インドネシアの芸能に限らず、多くの映 画や演劇には戦闘場面があり、観客を釘付 けにする。それはたたかう行為の中に、死 への恐怖とその克服という強烈で普遍的な 要素があるからであり、また人々がそうし た「たたかい」に自らの体験するさまざま な対立や、困難、葛藤を重ねあわせるから だろう。終わることのない戦いに挑み、鍛 錬された身体のわざによって死や痛みを超 越しようとすること、そこに人は美しさを 見出す。そもそも「美」とは、そのような 際立った生命力に対する肯定と称賛から生 まれるものではないだろうか。そう考えれ ば、本来はたたかうための技法である武術 の、洗練された身体の動きを美しいと感じ るのも不思議はない。その身体が生み出す 躍動感と輝きにおいて、武術と舞踊はたし かに交差しているのである。

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ム スリム 集 落 に お けるルダットの上演 (バリ島東部クルン クン県、ゲルゲル集 落、2015年12月)。

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