ヘーゲル哲学の教育学的研究(その一) : 精神現象学における意識の発展
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(2) . 第. 6. 巻 第1号. 北 海道 学 聾 大学 紀 要 (第一部). 0年9月 昭和3. ヘーゲル哲学の教育学的研究 (その一) -- 「糟荊現象学」 における意識の発展-- 広. 正. 川. 治. 函館分校教育学研究室. ’ sho i 日[RORAWA : Pedagogi j i l c studi esof Hege1 s Ph osophy . No. 1 . loPr -- -- The Deve ] 〔 lent of Consciousness on the ”Phi ’ ’ ino1nenologi e des Gei stes. 目 ま. え. が. 次. き. - 1、 「精示 =現象学」 の教育学的性格 1 . 自覚的発展としての弁証法 2 , 意識の経験の過程. 且、 意識の発展過程 1 覚 . 感 2 . 知 3 . ず青. 覚 性. 3 . 精練の発達段階 ま. え. が. き. これまでヘーゲルの教育思想といえば、 主として 「法の哲学」(Grund i i l l n en der Phi osophi e des Re cht s) に示された 「陶冶」 (Bi l dung) の思想について語られるのが一般であ った。 「法の哲学」 は彼がベルリン大学 で試みた自然法・国家学の講義の手記を被みずから公刊 した最後の著作であり 、 しかも彼がフィ ヒテの後任と して、 当局からベルリン大学に招聴きれた理由が 国家概念の浅薄な若い学生に国家を学的に基礎づけさせる 、 ) ためであったといわれる1 。 政府当局が彼にそのような役を割りあてようとしたゆえんは、 いうまでもなく彼 の 「国家」 に対する考えを認めていたからにほかならないであろう 。 それ以前、 すなわちイ エナ時代における 彼の国家に対する本質的な考え方はいかなるものであったであろうか ik der t 。 「ドイツ憲法の批判」 (Kri Ver fassung De l t ands u s ch ) によれば、 国家正義の健全性は一股に平和の静穏の中 にはなくて むしろ戦 .1802 、 争の動乱の中にある、 といい、 あるいは国家の本質を、 人間集団が彼等の全所有の集団的防衛のために結合す る場合にみ、 さらに国家が国家であるか否かを決定するのは ただ巨大な試練戦争であるとし その立場から 、 ・ 、 司法・行政 ・経済政策・文化政策などを第二義的に、 防衛力をこそ国家にとって第一義的のものとしたのであ ) る2 2年の手稿 「人倫の体系」 (Sy i i t l i t t 。 また180 em der S t ) においては、 民族を 「精神」 と しての有 s e chk 機的全体国家と同一親し、 「悪法といえ ども法なきにまさり 悪しき団体といえども 団体なきよりは自由であ 、 る。」とする全体主義的な信条を示していたのである 。 したがって 「法の哲学」 は、 彼がかかる政府当局の信頼 に答えて、 国家主義的・全体主義的な立場を打ち出した復古的反動の傾向であることはいうま でもない 。 この ように 「法の哲学」 における 「陶冶」 の思想は、 全体主義的国家機構の中での教育なるがゆえに 必然的に国 、 家至上主義への強制的教育 とならざるを得ない。 ヘー ゲルの教育思想をただ 「法の哲学」 にのみ、 見ようとする傾向は 明らかに教育を単に意図的・具案的 、 な 「あえてする教育」 のみを教育とみる狭い立場からのものであって 教育の本質を 「おのずからなる」 作用 、 にみようとするわれわれの立場からすれば誤りでなければならない。 彼の教育思想は体 系づけられた国家機構 の中にみられるのではなくて、 むしろ精神の自覚的発展としての弁証法にこそ見い出されなければならぬもの . ・一・ 一 87.
(3) . 広. 川. 正. 治. ) であろう。 われわれはさきに3 、 教育の本質を、 教育におけるおのずからなる作用面の表現として、 あえてな される教育活動にとらえたのであるが、 そうした教育の本質は、 ヘー ゲルの 「現象する精神」 の弁証法的発展 t der の中にとらえることができるのではなかろぅか。 かかる意味において 「意識の経験の学」 (Wissenschaf Er f i t ) といわれるヘー ゲルの 「精神現象学」 にこそ、 彼の教育思想を探究す べきであ ahrung des Bewu e ns s s s. ると思う。 (誌) 1) 武市健 人 「歴史存在論の研究」p .470 .471参照 7~439参照 2) 前掲書、 p .43 i 3) 本 「紀要」 Se t on A, Vol c .4 .i , No , 拙稿 「教育作用 の自然性」 1、 「精紳現象挙」 の教育的性格 1、 自覚的発展としての弁証法 教育活動の中核をなすものは、 これを単的にいうならば、 自覚の過程といいうるであろう。 自覚は何よりも まず、 自己の欲求に目をさますことでなければならない。 人間が人格的主体でありうるのは、 自己の願求を自 ノ i 己の責任として追求するところに存する。 ヘー ゲルもいっているように 1 ch には人間であるが 、 胎児も an s f i h しか し ar sc にはまだ人間とはいえない。 自覚的に人間といいうるためには、 理性にまで発展することを要 ) する。 ここで 「理性は合目的なる働きである 2 。」 といわれるように、 自己の欲求を目ざ した働き、 すなわち 自覚的発展を要するのである。 自然の理性化の過程という教育作用は、 ヘー ゲルにおいてもまた自覚的発展の過程 である。 しかして彼にあ っては、 主体は他者の中に自己を認識するもの、 さらにその他者の中から自己自身に復帰することのうちに成 り立 つ。 いきいきとした現実性をもつ精神は、 内に自己否定の働きによって媒介されつつ、 目働的に発展して 行くものである。 即目的自然から自 覚的理性に高められるためには、 精神が強められ深められるためには、 内 ノ f s en)を学(体系知)(Wi に自己消失という矛盾を克服 して行かねばならない3 t ) s ens s s cha 。 彼が単なる知 (Wi f i l ) を学 (Wi t ) に高めることを要求したのは、 客観的に我を否 ens e s s cha os oph に、 主観的愛知なる哲学 (Phi 定するものを肯定 し、 それとの闘争を克服することによってのみ、 単なる主観を主体たら しめうると考えたか らであり 残 そこにこそ人間形成の教育的贋理をみたからにほかならない。 彼にとって学はかかる意味におけ る弁証法である。 確かに、 その 「弁証法は逆立ちしていろ り」 と批判されるとしても、 少くとも彼としては、 今までの形而上学的な主観主義を否定 して、 客観的現実の基盤の上に立って、 襲撃なる態度をもって問いつつ 答え行くところに、 員の学問のあり方をみたのである の。 内に分裂の運動を蔵する自己 同一的全体としての主体 が、 みずから分裂対立しつつ自己同一を回復実現 して ゆく自己運動の過程が弁証法であり、 それは他在において精神が自己自身の自覚的認識に達する過程である。 現実の実在はす べて矛盾の自己運動として、 精神の自 覚の諸段階の形態であるが、 かかる精神の自覚の道が弁 証法である。 しかしながらここで注意せねばな らぬことは、 せっかく彼が単なる主観を克服しようと して、 学 的体系への知を強調 しながらも結局、 「ヘ← ゲルにとっては、 起ったこと及び今なお起りつつあることの一切 ) は、 まさしく彼自身の推理 の中で起るところのもの7 」 となる。 ヘー ゲルの弁証法的な努力 は過去の取扱いに おいては--観念的に歪曲されて解釈される危険性はあるとしても--大体肯定できる。 ところが、 現在につ いて論ずるにあたっては、 やはり形而上学化してしまう。 すなわち 「す べて外的な感性的交戦を純粋理念の交 戦にかえてしまう。 私の外に存在する実在的・客観的な鎖を、 たんに私のうちに存在する、 たんに観念的・主 8 ) 観的な鎖にかえる技術」 、 したがって 「あらゆる外的・ 感性的な闘争を純な思想闘争にかえる技術 」 をもって 概念の純粋に論理的な矛盾にかえて しまう 物質的現実性の客観的な矛盾を、 。 要するにヘー ゲルの現象学では、 人間的自己意識のいろいろの疎外された形態の物質的・感性的・対象的な 諸基礎は、 そのまま放置されていることを注意しておかなければならない。 「たぜなら、 この著作は、 対象的 な世界、 感性的・現実的な世界を、 一つの 「思想物」 に、 自己意識の一つのたんなる現実性にかえ、 またエー テル的になった敵対物を、 こんどは 「純なエー テル」 に解体 しうるやいなや、 ただちにこの対象的な世界を克 服したつもりでいるから か。 」 とはいえ、 矛盾は諸現象の運動発展の源泉であり、 活動への衝迫であるとする老 一 88 -.
(4) . ヘー ゲル 哲学の教育学的研究 (その一) え、 矛 盲こそ対象を運動させ、 変化させ、 その対立物へと轄化させる生命の力であるとする考えは、 正しく教 育哲学の中核といわなければなら ・ないであろう。 o ) ヘー ゲルにとっては、 虞理は自己自身によって運動するものであったl 。 現象を静止的にとらえるのではな く、 絶対普遍のものと してとらえられるのではなく--したがっ てこの立場からは、 彼の絶対的客観精神の体 系は否定されなければならない--否定を媒介とする弁証法的発展過程と してとらえるのでなければならない。. 具体的現実には、 虞な るもの (das wahre) と偶なるもの (dasFal ) とが契機として含まれているの であ che s って、 偏なるものとは虞なるものの他者であり、 否定的なるものとして・ 哲学的員理においては、 「いかなる 偏なるものにおいても、 ある贋なるものがある」 といわれるように、 贋なるものと傭なるものとは惨透しあっ 1 ) て発展 して行くものである1 . 。 i … i ー) P1 ) S,22 ・ non ・ enol og e .(Lassons Ausg . .. 2) Ebenda . 金子武蔵訳、 岩波書店版、 上巻 p.27. i 3) Ph… nomenol ogi e .S .25 . 4) ibid. S.12 . 5) Marx: Das Kap i l t i a t en Au l f )長谷部訳、 青木書店版 p age .18 ,S , Bud・1 , (Nachwortzur zwe . .86 . i 6) P1 S 1 2 e ・節omenol og . . . i ides Marxi 7) Marx: Das E1end der Phi l ini osophi e chere ‐Len ) S.129 smus smus . (Bi . Band2 . . 岩波 丈庫版 P.116. 8) 扉I P聖家族」 大月書店版、 マルクス・エ ンゲルス選集補巻5 ,p ,278 , 9) マルクスのヘー ゲル 「現象学」 批判、 大月書店版、 マルクス・エ ンゲルス選集補巻5 .p .380 . なお「純 l i l な エ ー テ ル」 に つ い て は Ph nomeno e ogi . .S.24 .. i o) Ph… l non ・enol e ogi .S,40 . 11 ) ibid.S,34 .. 2 、 意識の経験の過程 「精神現象学」 は 「意識の経験の学」 (Wi f tder Erfahrung des Bewusstseins) と い わ れ る も の ens s s cha D であり 、 自然的意識が漸次、 教育活動を展開 しつつ贋実の知に達するま での教育の過程である。 その 意味で 人間精神の教育史である。 すなわち贋理に ついて哲学することを知らない無教養者を して 哲学的な立場にま 、 で高めるための内面的教育の歴史を叙遮することが、 現象学の課 題であると考えられる 2) 。 それなら、 彼にとって哲学的知とはいかな る性質のものであろうか。 それは絶対的な「他たろの有」(Ander - s i $ ) における純なる自己認識であり、 いわばエーテルそのもの n e the l l h ra ss である ) oc er 。 彼のいう知の エ レメ ントは単純なる直接態という形をもてる一般者としての純なる精神性であり、 しかもそれは学の生い立 f i i つ地盤なのである。 哲学の始め (An angごPr nz p) は、 意識がこのエ レメントの中で生存することを予想 し、 且つ要求するものなのである。 そして. さらに、 彼は 「教育上の進歩は世界の形成的発歴史の影絵 (素描)3 ) 」で あるという。 世界の形成史というのは彼にとっては、 世界におけるエーテルそのものと しての一般的精神が 、 世界に自己を実現することにほかならない。 かく してこの内面的教養の過程は かかる世界の歴史を自己に先 、 行するものとして、 前提するのでなければならないであろラ。 個人的意識はこの世界の中におかれて 一般的 、 i i 精神がす でに経験した道を、f rsich に自己のものとするために、 再び彼自身の道として経験しなければなら i lトge ない。 すなわち世界精神 (We t ) のうちに 「内化されて」 ( i s ) いる諸契機を、 世界精神自身の運 e r nne r t 動としてではなく、 彼の教養の過程として経験しなければならないのである。 そのためには 彼 は世界におい 、 て、 一 般的精神がすでに内化 したものを、 被自身のものとして、 再びこれをとりあげて それの f i i i rs ch に 、 ある姿において経験しなければならない。 個人的意識は一般的精神の経歴を彼自身のものと して再経 験するこ とを要する。 ここでヘ ーゲルは、 教育を世界精神の再経験としているのはよいと して、 問題は世界精神とか 一般的精神 、 といわれるもの自体にある。 この点は批判されなければならない。 意識は対立する両契機が何らかの形で統一する ところに成立する。 意識することと意識せられるものとが 、 対立するところに意識の本来の姿があるが、 .かかる両契機が媒介止揚を通って、 より高き綜合の立場に進み行 - 89 -.
(5) . 広. 川. 正. 治. く弁証法的運動こそ 「意識の経験」 である。 それはつまり、 知 (意識すること) が対象 (意識せられるもの) となり、 精神が自己自 身を否定 して、 自己に対立的な対象、 すなわち他在となり、 次にこの他在を止揚して自 己自身に復帰するという、 自己疎外と自己内反省との運動である。 意識が自己自身において、 両契機 (知と対 象) によって行われる弁証法的運動 --この運動から意識にとってあらたな贋実の対象が発生するかぎりにお ) いて--が経験といわれるもの である4 。 「自己において」 が、 「自己においての意識」 に対す る 存在となる 6 ) 意識の経験である ) ことが (we 。 rden--弁証法的移行 ところが、 かかる弁証法的運動という対立の克服が、 実はヘ← ゲルにあっては、 純粋思想のエーテルのうち で行われる。 自己内反省という否定作用が、 自己内で媒介として働きうるのは、 客観的に自己の外から、 意識 の主観的働きとは無関係に、 現実的対象として、 感性的に否定 して来るからにほかならない。 しかるにその感 性的.現実的,対象的世界を自己意識の単なる規定性に変ずるや否や、 それを克服されたものとしてしまうの である。 正しくは克服 しえたのではなく、 ただ一般的精神という 「純な ≠-テル」 の中で、 エーテル的存在者 に化したにすぎないのである。 したがって、 ヘー ゲルのこの意識の経験も、 もし広 い意味で、 身体的実践とい うタ ト的な 感性的な闘争の体験を経るのでなければ、 観念的塞轄に纏るであろう。 ) 」 ないようにするためには、 学 (知の そしてまた彼はさらに、 自然的意識が 「逆立ちして歩くことを企て6 エ レメ ント) に高めなければならない、 と注意する。 その場合、 r学」 は直接的なる自己意識 (自然的 意識) にとっては他者であるという。 その 「他者」 とは、 客観的な外的対立者という意味を含ませているのでもあろ bs i l ) であり、 「自 t e う。 しかもこの直接的自己意識は 「自己自身についての確信」 (d e Gewissheitseiners i 体」 (Ans ch) と しての内容ではあるが、 内的なるものにすぎないのであって、 いまだ精神とはい われないも のである。 感覚的なる意識たるこの 「自体」 は自己の外に現われて、 自己に対するもの、 すなわち自己を自覚 ) するものとならなくてはならない。 そのためには 「労苦の長き道を経なければならない7 」 と注意しているの ではあるが、 上達のようにその労苦は考えられた労苦であって、 感性的な現実の労苦として体験されずにしま っている。 ヘー ゲルによれば、 形成的発展は個人の側からみれば、 個人がこの自己の前にあるも のを獲得し、 外的自然 を内に儒駁して、 わが物となすことであり、 実体としての一般的精神 の側からいえば、 実体がその自己意識を ) え、 その生成と自己省察とを生産することであるといい8 、 個人の側からのものと実体の側からのものとを同 一顧しているのであるが、 も しも個人の側としての意識の経験の過程の背 後にあって、 それを成立させている 基盤と考えられる一般的精神の自覚的限定面 (実体としての面) を、 外的自然及び現実的世界の必然性として とらえなおすならば、 彼の 「意識の経験の過程」 はそのままわれわれの教育哲学の原理としてとらえることが できるであろう。 そう した修肥において、 ヘー ゲルが 「現象学」 において指摘 した次の点は、 教育学的成果と いわなければならない。 ) まず 「贋狸は自己自身によって運動するものである9 」 ということである。 現象は否定によって媒介される ことによって、 かえって本質・虞選であるとされなければならない。 「現象とは生滅であるが、 しかしこの生 ま生滅することなく、 目同性を保って現実性と贋理の生命運動とをな している1の」 彼が精神 現象学 滅それ自身1 ′ で明らかにしようとする贋理 (それはわれわれにとってまた教育的贋理 でもある) は、 かくの如く現象とその 否定とを通 して、 経験のあ らゆる過程に惨透するところの運動であり、 同時にかかる運動の中にあって自己に とどまるものでなければならない。 教育の目ざす人格的員蓮は、 バツ コスを祭る狂乱であり、 その狂乱の中に i 1されている主体的なものこそ r nne r - 同時に存する澄明・純一の静けさでもある。 変化する運動の流れの中に e i i ch へ移行する過程と しての意 ch から Fars 形成的に発 展 し行く 人格的 員選でなければならない。 さらに Ans i i rs ch に ch、 すなわち Fi 識においては、 対象と知とは対立し、 この対象においての Ansich は知における Ans 現象学 移ること、 その意味において、 個人をその形成発展されていない立場から哲学的知に導くことが、 精神 の課題であった。 この形成的発展においては、 具体的形態と特殊的形態と に、 いろいろの契機が相交錯し、 対 立 しあっているが、 その中でわれわれは、 主となっている限定をこそ観察 しなければならぬこ と、 また高次の 段階に立てる精神 においては、 低次の具体的定有はあらわならぬ契機に低下している。 すなわち、 さきには主 題そのものであったもの が、 今は痕跡をとどめるにすぎなくなり、 その形態はおおわれて一抹のニュアンスと. - 90 -.
(6) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その一) 化しているものであることを指 摘しているu) 。 i i 1 次に意識は( )外界においてans chにあるという事実の定有、 すなわち外界に埋没しているAns 2に の事 ch、 { i in od inner 実が思惟された場合には 「自己 (精神) におけるの有」 (Ans i t chse e An 3 ) s ch) となる。( .daser i i i i さらにこの 「自己におけるの有」 が精神にとって 「自己に対するの有」 (F r e n) となって、 精神の自覚 s chs するものとなる。 この形成過程に見 られる変更は、 表蒙されたもの ( das vo l l t t rges e) 熟知されたもの (da e s 2 1 Bekannt der Gedanke e) を、 思惟されたもの ( ) に変更することである ) 。 一般に熟知されたもの (よく知ら kannt れたもの) は熟知されているからといって、 認識されて ( ) いるのではない。 よく知られたものが認 r e i 識されたものになるためには、 表象の分析 (Ana l ) r en が必要である。 つまり表蒙の熟知性 (親密性) を否 se y 定することである。 自己を分割的に否定するという働きは悟性の働きであるが、 この否定性を強調するにつれ て、 精神は自覚の度を高めることになる。 「精神の生とは、 死を忌み輝って荒廃に近ょらぬ生ではなくて、 死 を耐え忍んで死の中に自己を維持する生である。 精神は四分五裂のただ中にあって自己自身を見出すことー ′ こよ ってのみ自己の贋選をうる……精神は否定的なるものにまざまざ と直面し、 これを熟旗することによってのみ 右の四分五裂のただ中に自己を見出すという威力である。 この熟覗こそは否定的なるものを有に聴ずる魔力で ね。 ある1 \← ゲルが強調しているように、 教育的な働きが高度に作用するためには、 死によって媒介される 」 と▼ 対立契機を必要とすることを指摘しているのである。 教育の狙いは人格的主体性の確立にあるとするな らば、 ヘー ゲルのこの 「魔力」 こそ、 それなのである。 (青め 1 ) 2) 3 ) 4) 5) 6) 7 ) 8) 9) 10) 11) 12 ) 13 ). Ph i l nomenol ogi e .S.74 , i i b d 6 7 .S.26 . ,. i i b d .S .27 . 金子武蔵訳、 上巻 p.38 . i b id .S.73 , i i b d .S .74 . i i b d.S .25 .. i i b d . .26 . 金子武蔵訳、 上巻 p.36 .S id.S.27 ib .. i i b d 二巻 p.65 . . 金子武蔵訳、 」 .S .40 i b i d . 同 上、 p .63 . . S.39 i b i d.S .26 . ib i d.S .28 .. i b i d 9 . .S .2 . 金子武蔵訳、 上巻 p.44 ,30. 3、 精神の発展段階 i i i i he i 「精神現象学」 は 「感覚的確実性」(d nnl che Gew t es )としての感覚的意識から始まり、 「縦対知」 s s da ) としての哲学的知に到達するまでの、 精神の自己陶冶の段階といいうる。 「現象学」 ( s en s sabsolute Wi に示された目次はつぎの通りである。 in A. Bewus t s se in bewus bs B. Se l t t s se C. (A A)、 Vernunf t i (B B)、 Der Ge t s ig i l (C C)、 Di e Re on (D D)、 Das absol e Wi ut s en s. しかしこれはつぎの如く二段になって発展する段階と解さるべきであろう。 A. Bewus i t n s se B. Se bs bewuss in l t t se c・ Vernunf t. i t e vernunf a. d i b. der Ge t s R i d i l on c. e e gi. 1- -9.
(7) . 広. 川. 正 ・治. d. dasabsol i e V▽ ut s sen. すなわち意識・自己意識・理性 (広義) の発展段階が前段、 理性の段階においては、 さらに理性 (狭義) , ) 精神・宗教・絶対知という発展 段階として考え られるべきであろう1 。 第一の 「意識」 は我と物との対立にお ける自覚 である。 第二の 「自己意識」 は我と汝との対立における自覚である。 第三の 「理性」 は我と普遍的世 界との対立の自覚である。 しかして理性の段階にあっては、 第一の 「理性」 はすべての実在を軍的に自己とす 「精神」 は民族の人倫的精神を自己とみる自覚であり、 第三の 「宗教」 る確実性に逢せる自覚であり、 第二の. は一般的精神を表象性において意識せる自覚であり、 第四の 「絶対知」 は対象的表象の形成を脱却して 一般 、 的精神が自己を絶対的精神として自覚せる縄対的自覚である。 いわゆる 「絶対的精神」 に彼の哲学の中核をみるかぎり、 それは逆立ち したものとなるであろう。 教育は何 よりも生命をもった、 血の通っている人間に対する人間の社会的な関係であるとすれば、 ヘー ゲルの弁証法は 「実体の疎外態」 (論理的には無限なもの・抽象的一般者) から、 絶対的な固定化された抽象態から出発する ) --すなわち俗にいえば宗教 と神学から出発する2 」 ものとしてしりぞけられねばならないでもあろう。 しか し教育哲学的立場から考察するならば、 そう した理性的精神においてよ りも、 む しろ生物的・ 生理的自然とし ての生命から、 それを根底として意識された 「欲求」 (Beg i de ) を媒介として、 我と物との対立の自覚とし e r ての意識から、 欲求の主体としての我と数との対立の自覚として、 自己 意識へと必然的に発展するヲ過程にこそ 重点をおいてみるべきである。 彼の人倫も 「精神」 と してではなく、 かかる自然的生命の ”be t r e zen されたも s のとして意義をもつものであり、 欲求の主体として我と汝と彼による社会的生命でなければならない。 「ヘ← ゲルの方法は、 自 然の道程を進むもの と自負する。 いかにもそれは自然を模倣する。 が、 模写には原物の生命 ) が欠けているのだ3 。」 血の通っていない生命ではなくて、 自然的・感性的生命がかかる社会生活体において、 一度欲求と して目ざめたかぎり、 必然的に意識から自己意識へ、 さらに理性的自覚へと発展 し行く過程こそ、 教育の過程でなければならない。 かかる教育活動を、 われわれは感覚的確実性から始まって絶対知に諮る 「精 神現象学」 の意識の経験の発展段階にみるのである。 かかる予想のもとに、 彼の哲学を教育学的立場から掘り 返 してみようと思う。 1 ) 金子武蔵訳、 中を訳謎、 p .629 ,630参照 2) マルクス 「ヘー ゲル批判」 マルクス・エ ンゲルス選集、 岩波書店版、 補巻4 .397 . 、p ik der Hege 3) Feuerbach: Kri l t i i l schen Ph os e oph . 岩波文庫版 p. lo. 「意識」 の謎展過程 1、 感. 覚. .タ 現象学の対象となるものは現象的知識、 すなわち意識の経験において、 ト見上とにかく自明なものと して確 実性をもって現われる知識である。 そう した対象の中で最初に現われるもの、 そしてまたその確実性において 一切の他の知識に先行 し、 基盤となるものは、 ヘー ゲルにおいてもまた 「感覚」 であった。 ヘー ゲル においては生成・変化・発展を正しく理解する鍵は、 それを矛盾と してとらえることである。 ある ものが変化発展するというのは、 まずあるものがそれ自身でないもの、 他のものになることを意味する。 そし て彼によれば、 あるものが他のものになるということは、 あるものにとって単に外部的な偶然的な事情による ものではなく、 そのあるもの自身の内的必然性によるものである。 意識的経験の出発点r はいか と しての感覚と{ なるものであろうか。 も し感覚に何らかの反省 (判断) が加えられるならば、 それはすでに感覚そのものでは なくなってしまう。 それは 「これ」 を意識 してはいるけれども、 「これ」 が何であるかをいまだ知っていない ものである。 それは全くの直接的な 「このもの」 であって、 意識が何らの反省を加えることな しに、 自己の確 実性を確信 しているラ 伏態にほかならない。 反省によって媒介されていないということが、 感覚をして意識経験 の最初のものたらしめているゆえんである。 ここでわれわれが注意 しておかねばならないことは、 感覚はつねに事物 (Sache ) の客観的対象の感覚だとい うことである。 ヘ← ゲルにとっては発展の各段階を最柊の段階たる絶対的精神に固有な規定をもって理解しよ うとし、 「感覚的なる物 という意味における外物が実在し存在するのは、 意識にとって縄対に員理であるとい 2- -9.
(8) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その一) ) う説」 を否定しようとしているのであるが1 とはでき 、 われわれはさきにも論 じたように、 これを承 認するこ. ない。 感覚は他の一切の知識に先行する基盤であり そこから始めるのでなくては 前進 しえない出発点であ 、 、 . 確実性として豊かに強く 印象づけられなければならな るがゆえに、 無規定的な印象ではありながら、 いであろ うo 感覚という意識経験の内容は無規定的内容で、 ただ抽象的にあるということが 、 その内容全体の本性をな し ている。 ところが何ら反省を伴わない意識はいまだ誰の意識ともいえな い 確実に存在する感覚であるかぎ り、 。 あくまでも誰かの、 何かについての感覚であるり 不可避的に主観 ( l ch) と客観 (Gegens 〔 nd) との関係として 成立する。 「われわれが、 私としての 『この人』 と、 対象としての 『この物』 という区別を反省して見れば 、 『私』 も対象もともにただ無媒介的 にのみあるのではなく 、 すなわち感覚的確信の中にのみあるのではなく し て、 同時に媒介せられていることがわかる。 私は他者すなわち事物を介して確信をもち そうして事物もまた 、 他者、 すなわち私を介して確信の中に存する2)」 つまり現象的知識というものは す べて二つの極の間の媒介 、 として現象することが示されている。 直接態としての感覚的経験の核心は 「このもの」 として個物であり 特殊 性でなければならない 、 。 具体的存 在としてのこの内容が、 この心に現われている時にのみ感覚は贋実である。 したがって個性的に規定されてい . るところに直接性の本質があるのである。 逆にいえば、 この具体的・個性的内容が.他のどこにでも通用しうる ような抽象的・普遍的内容になったり、 この意識がどれでもの意識にな ったりしたのでは 、 感覚たるものの本 質は失われて しまう。 感覚の直接的対象 である 「このもの」 は 具体的・個性的規定態と して 時間的,塞間 、 、 的に規定された二重の形態によって直接に存在する。 すなわち 「いま」 「ここ」 にあるのである けれども か 。 かる感覚的確実- 性は、 その本質が、 「対象」 の中にあるのでもなく 「私」 の中にあるのでもない この場合 、 。 の直接態は、 対象のそれでもなく、 主観のそれでもない。 感覚の二つの契機である対象と主観のうち いずれ 、 か一つの契機のみをもって、 その確実性の本質と考えるこ とは出来ない 。 そこでヘー ゲルは進んで今までの考 え方 をすてて、 改めて感覚的確実性の 「全体」 をもって、 その本質となすべ きことを要求する 「かくの如く 。 単純なるもの、 すなわち否定によってあり 『このもの』 でも 『かのもの』 でもなく 、 『このものならぬもの』 d i (Ni t ) でありながら、 しかもこれと同時に一様にこのものでもかのものでもあるところのかくの如く ch es e s 単純なるもの、 われわれはこれを一般者 (AI I i ne ) と名づける。 したがって事 実において一般者こそ感覚 s geme ) 的確信の贋理で ある3 「 直接態と してのこの確信を 固持することによって、 さきの場合に成立した対立 (こ 。」 この樹、 ここの家) をす べて斥けるところのものは、 感覚的確信の全体そのもののみである 4 )」 と 。 。 ヘー ゲルがここで感覚の全体という場合の 「全体」 の意味は、 一 つ一つの感覚をすべて寄せ集めた量的全体 という意味ではない。 むしろ一つ一つの場合それ自身が それだけで具体的・独立的なまとまった一全体 い 、 、 わば質的全体でなければならない。 自然的直接的な意識そのものの全体性 (AI he i 1 t ) である。 かく して感覚的 確実性は 個別性からそれ自身の他者、 すなわち全体性へ と移行 して行く 。 それが感覚的確実性のおもむく べき 運命なのであり、 そしてそれこそ贋理にほかならない。 そもそも直 接 態はこれを言表することも、 また指摘することもできな いものであった 言表し指 摘するとい 。 うことはつまりは特殊態を一般者に、 具体者を抽象態に (それ自身と それ自身ならぬものに) 変更する運動 、 である。 しかしヘー ゲルにおいては、 この運動の過程こそ弁証法であり 贋理はそこにあるのでなければなら 、 ない。 この感覚的確実性の自己運動の過程は、 心理的には 心がいろいろの未知の事柄に目ざめて行 G過程で 、 ある。 法則的な方向において、 未知なるものが段々とあらわになってゆく過程でもある 。. 1) 2) 3) 4 ). Ph l i non ・ enol ogi e . S.87 .. i i b d ,S ,80 , 金子武蔵訳、 上巻 p,134 , ,135 i bi d ,S ,82 , 同上 P ,138 , i bi d.S ,84 , 同 上 P,143 .. 2、 知. 覚. 知覚 (Wahrnehmung) は 「蝿理を捕 捉する」 (Wahr J nehmen ) ことである。 それは直接的なるものに固執 - 93 -.
(9) . 広. 川・ 正 ・治. する感覚とは異って、 む しろ感覚の対象を、 それの贋理において把握することである。 対象をまさにこのよう に、 すなわち なもの (多数性質の集合) として捕捉するものである。 ゆえに知覚は、 物をそれが贋にあるようi この場合の性質 (扇性) f の集合として捕捉することとして成立する h t ) n n a e 一つの物を多くの属性 (Bi e s c 。 g 一般者でなければな らない。 感覚はみずから対象の贋理を把 握するものと確信していたが、 その感覚的確実 は. 性の不整合が暴露されて、 それの成就 しえないものを成就すべく、 蝿理捕捉としての知覚へと移行して行く。 感覚においては、 いま だ何らの判断が加えられていないものであったが、 その感覚された意識内容にはじめ て 「このもの」 として判断が加えられる時、 知覚は成立する。 したがってここにおいては、 知覚する働きの側 面としての私と、 それの対象とは、 知覚の構造における本質的契機である。 しかしながら、 知覚されるという 事実においては、 対象が知覚されることである。 それゆえ、 知覚に贋に本質的な要素は、 むしろ 「対象」 であ るとして感じられる。 もともと対象そのものは、 それが知覚されると否とにかかわらず実在するのであって、 そのかぎり本質的なものでなければならない。 それを知覚するものがあるか否かは、 むしろ非本質的な事柄に 属する。 i t ) である。 それ nghe へ← ゲルはどのように対象を吟味 して行く であろうか。 知覚の対象はまず 「物」 (Di 規定の主体であって D i - 面 多くの性質の 「 ) である 物は - からみれば ( 物 n もつ一つの 」 g は多くの性質を 、 。 、 多くの性質が内含されている。 そのかぎり一つである。 他面、多くの性質規定という点からみれば多様である。 f i ) との矛盾があらわにされる。 物の員埋はいずこにある i l t i t ) と多面性 (Vi e a chhe ここに一面性 (B nf achhe 行くものこそ、 物の贋理捕捉としての知覚の働 何か この間に答え 限定するものは のであるか。 物を物として 。 きでなげれるまならない。 それはまず、 いずれともつかぬ受働的な一般性であり、 多数の性質の、 ない しは素材 ) i t ) の 「もまた」 ( auch) である “。 へ← ゲルの例にしたがえば2 e r e (Ma 、 塩は白くもあり、 また立方形で 「 質が もまた 多様の性 」 の関係で結合された一集団が物 重量をもまたもっている もあり、 また辛くもある。 。 i M d である。 かく rもまた」 は諸 樫質を結合する媒体 ( e um) である。 それは媒体として諸性質と結合するこ とによって物を可能ならしめる純粋なる一般者である。 しか しこのことはそのまふ物の贋理としての普遍性が i ) という他を拒斥する否定の契 tは 「一」 (Ei ns nghe はかなき抽象性であることを示している。 しかしまた Di ) 係であり、 没交渉で 機によって Di ngと して限定されている3 。 一つの性質というものが、 絶対的に他者と無関, あって、 全然それ自身だけで考え られているならば、 それは、 いまだ限定された一定の性質という事はできな い。 なぜなら、 一つの性質は他者から区別されて、 他者と対立せしめられてこそ、 はじめて一定の性質として 規定されているのであるから。 それゆえ物を物として限定するものは、 他の存在を拒斥する 「一面的な統一」 i i i t ) である。 かくて物の虞樫たる媒体は 「もまた」 の如き相互無関心的な統一であるばか nhe (d e einfache E 統一である。 このことからヘ← ゲルは、 物を多数の性質それ自身であるととも なく 他の存在を否定する りで 、 に、 「もまた」 と 「否定する統一」 との二つの契機の関係と考える。 すなわちいずれともつかぬエ レメ ントに ● 関係して、 このエ レメ ントにおいて区別された多数の項として拡がる否定であり、 存在に要する媒体の中にお いて、 発して多様性となる軍 ー注の点である。 物は多くの性質をもつものであるから、 それは単なる 「一」 で あることは できない。 しかも一つ一つの性質はそれぞれまた規定態であり、 他者を排斥する。 しかしまた 「も また」 という媒体の中で、 多数性にまで発する単一の点でもある。 知覚的贋狸は多数性にまで発する単一性に -は、 そのままわれわれの教育哲学的原理でな ければならない。 あるという矛盾の発展的統- 知覚の主題は私 (知覚における非本質的要素) の受取る対象 (本質的要素) であり、 物である。 それは感覚 的個別者として一つのものでありながら、 多くの性質 (感覚的に制約された一般 者) をもっている。 知覚を今 までの考察の如く、 対象に本質をおくかぎり依然と してこの 「一」 と 「多」 との矛盾は避けられない。 単一な る 「一」 としてそれ自身何らの分裂のない物を、 多数の分離的集団と見るのは 「私」 である。 同様に 「一」 っ i e ne のものとして限定されるのは他者との対立においてであるから、 前のように対象的事物を 「共同一般」 ( f ins Geme be ta t ) とみるのは正当に把 握 していないことになる。 むしろ連続を断ち、 没交渉に分離さ cha rhaup. れた 「一」 として定立す べきである。 かくて一対多の矛盾は対象 の側においても生ずる。 知覚においては、 一 と多、 私と対象という動揺不安定に迷っている。 しかし贋理は、 この動橋性にこそあるのでなけれ ば な ら な ・ )の ‐ zug runde い。 ヘー ゲルによれば、 知覚の対象はかかる本質的性質のゆえに没落 して その根に至る ( gehen 柵 94 一.
(10) . ヘー ゲル哲学の教育学的研究 (その一) ) である4 i I ) ne s geme 。 知覚の対象は感覚的なる存在から出て、 その感覚性が止揚され(自覚きれ)て一般者 (AI とな ったものであるが、 しかしいまだ感覚的なものによって制約された一般者にすぎない。 ここに動揺する矛 盾が起因する。 それゆえこの困難な矛盾が解決されるためには、 知覚の原理につきまとラ感覚的残律 (個別 生 ・制約性) が止揚されて、 制約きれない絶対的普遍性になることが必要であると彼は考えるのである。 かく し て感覚によって制約されることなく、 むしろ感覚を制約する条件としての概念へ、 すなわち悟性の世界へと高 められて行かねばならないのである。 彼はさきに 「死を忌み煙る」 生ではなくて、 「死を耐え忍 んで死の中に自己を維持する生6 } 」 でなければな らぬことを強調した。 そうした客観的現実のきび しさを実践的に感得して行くところにこそ精神のいきいきと した発展が考えられたのである。 しかるに知覚の発展過程の認識については、 感覚的表象をただ観念の中で、 い わば眼をつぶっては思いめぐらすという嘉朝会の しかたで終始しているのであって、 死の中で自己を維持する という態度ではない。 われわれは意識の経験の発展はこれを肯定 しつつ、 非対象的な存在の方向は結局 非存 、 在の方向であることを注意しなければならない。 「非対象的な存在とは、 非現実的な、 非感性的な思惟された だけの、 すなわち塞想されただけの存在、 抽象の存在である。 感性的にある、 すなわち現実的にあるとは 感 、 性 の対象であること、 感性的な対象であること、 すなわち自分の外部に感性的な対象をもつこと、 自分の感! 生 の対象をもつことであるG)。」. (詩) i i i l 1) Ph nomeno og e .S . 92 . 2) ebd .S .91 . S ebd . .92 .. 3) 4) 5) 6 ). i bi d . S.99 . i bi d .S .29 .. 3一悟. 「ヘーゲルの弁証法ならびに哲学一般の批判」 大月書店版 マルクス・エンゲルス選集補巻4 0 ,p .41 . 、 性. 知覚が感覚的残津を、 その本質的動揺性のゆえに、 浸落し行 G過程で洗い落しえた時 無制約的一般者とし 、 i f f ての概念 (Be ) に到達する。 かかる概念を対象としてもつ意識が悟性 (Ve gr t r s and) である。 知覚の虞理として目ざされたところの、 多様なる現象的変化の間にあって、 つねに変ることなく自己同一を 保持するような本質を知覚することはできない。 そのことは悟性の概念としてのみ成立する0 ところが概念は 意識みずからが作るものである。 それにもかかわらず、 悟性としての意識の領域では 概念が意識の所産であ 、 ることが忘れられて、 対象に即 してのものと考えられている。 そのかぎり意識はいまだ自分の概念を贋に把握 しているとはいえな い。 概念における、 意識がみずから作るものであるということと、 対象の側にあるもの で あるということとの対立は、 悟性をさらに発展せしめる矛盾である。 ヘーゲルはこの過程をいかに吟味 してい るであろうか。 知覚における矛盾は、 物の統一としての 「一」 と性質の多様としての 「多」 の対立であった。 両者を二つの 契機として統一する無制約的一般者を把握することによって、 知覚の矛盾は解除される。 この過程においては 差別的な性質の多様は統一へ移行し、 統一はただちに差別的多様の展開へと移行するのでなければならない 。 この移行関係を把握することによって、 われわれは物の贋理を具体的に把握することができるであろう。 へ- ゲルはこの移行関係の運動は 「力」 (Kr f t ) においてあらわれるものと考える。 力の概念においては、 第一に a その発現は外化. rung) として、 現象的・顕現的に差別的多様に働いている力である。 第二にはこの発 us s e 現から自己の中に帰還したものと しての力である。 いわば自己の中に押 し詰められた緊張 すなわち潜在的な 、 力としての統一的な本来の力である。 力の概念からすれば、 物と性質との関係は 力とその発現との表現的関 、 ) 係として、 具体的に把握することができる1 。 (知覚における 「多数性にまで発する軍 ー性」 の考えの発展と みるべきであろう。 ) i i i l 力の概念は二つの力 (誘発する sol t z er en 能動的力と誘発される受動的力) に分解することによって現実 的となるのであるが、 「これらの二つの力は自分だけで存在す る実在として現存す る 。 がしかし両方の現存は つぎのような意味において、 一方 から他方への運動である。 すなわち、 両方の存在はむしろ全然他者によって. 5- -9.
(11) . 広. 川・ 正. 治. ) にほかならないという意 nden 定立されてあることであり、 すなわち両方の存在はむしろ全然消失 ( s ver chwi ) 「 現実的なる力とは さ らにまた と彼はいう 味において、 一方から他方への運動である2 」 。 、 どこま でも発現 。 の中にのみ存するが、 しかしこの発現とても同時に自己自身を止揚するものにほかならない。 この現実的なる 力は、 その発現から解き放たれて自分だけで存在するものとして思ひ浮 べられた場合には、 自己の中に押し戻 ) された力である3 。ふ といっているように、 悟性的 意識の内実は (彼における如く) 概念 的な論理として止まる のでなく、 現実的な場において、 文字通り力と して体遵会的に把握され、 自覚されて行くのでなければならな い であろう。 またこの段階に至れる意識としては、 つねに対象を表現的に誘発し、 誘発される両極の緊張関係に ・ (、 しかも相互に消失し行く惨透性をもつて発展し行くものと して、 とらえうるのでなければならないこ おい・ とをわれわれに示してくれる。 i さらに悟性的意識においては、 内なるもの (Daslnner と現象 (Er nung) とに区別されなければなら s che i i l ) であり、 現象はそれ ない。 内なるものは感性的現象的世界を超えた 「趣感覚的なもの」 (Das Ube r nn che s の発現として意識に奥えられるものである。 内的なるものは特殊的・変化的現象の内部と しての普遍的法則、 ) であることをいいあらわす。 悟性的意識の対象と して、 力・現 すなわち現象の一般者としての法則 (Ge t z s e 象.内部・法則などの概念 が区別され、 しかもその区別が止揚されて、 もともと同一であることが示される。 力は内的なるものと現象との発現的移行関係として止揚されて、 法則があらわされる。 「換言すれば力は法則 ) と全然その性質を同じぅ している4 。」 かかる関係を演ずる運動が悟性の本質的働きであるが、 ヘー ゲルはこの l E i ) することとしてとらえている。 それは現象において法則をあらわし、 現象を 弁証法的運動を説明 (Er ( r en 法則へ帰還せしめることである。 悟性的意識は自己自身の運動として自己を区別 し、 この区別を止揚して、 自 己に復帰することにおいて、 ,自己の贋理をあらわにして行く。 この運動が説明にほかならない。’樹性はその説 明という運動において、 実はただ自分自身をのみ経験するにすぎない。 物の内部 といい、 超感覚的なものとい i J い、 「彼岸」 ( t ) といっても、 つまりは自分自身の内部にほかならないのである。 したが づて悟性は自 ens e s 己の対象の弁証法において、 自己自身を経験する。 かかる意識は自己の内に反省する意識、 自己自身を対象と する意識としての 「自己意識」 へ移行 して行くのである。 すでに 「知覚」 の項でわれわれは注意 しておいたように、 i闇生の段階に至っていよいよ客観的対象の世界か ら遊離して来ているのである。 現象も力の概念の一契機として考えられ、 結局意識の内的なるものの発現とし てとらえられるに至っている。 矛盾●の統一としての発展もただ意識の内部での非対象的な対立と化 していると ころに、 われわれは非教育的な抽象性をみる。 知覚から悟性への自覚的な発展が可能となるためには、 正 しく ぼならない。 そうした死の中で死を耐え忍 はより強化された客観的世界の対象との対立を体験するのでなけれ0 び行くもののきびしさなしには、 超感覚的なものとか、 彼岸といっても、 要するに瀞的に固定された観念の遊 戯に堕するであろう。 ヘー ゲルがこの頃でいう 「内的なるもの」 は現象に対する本質とみられるのであるが、 それは現象についての直接的知識から出発して、 具体的に研究され、 あるいは現象と他の現象との内的連関を 明らかにすることによって、 ますます深くとらえられ行くものでなければならない。 本質は現象のうちにある ところの相対的に堅牢な、 相対的に持続的なものでありながら固定 したもの、 運動 しないものではなくて、 そ れ自身現象との対立において果しなく深まりゆくものでなければな らない。 これに対して、 現象は本質を正し く表現しておることもあるし、 歪んだ形で表現しておることもあり、 全面的に表現しておることもあれば、 局 部的に表現しておることもあるのである。 (青め 1) 2) 3) 4). i Phれnon ・ enol e og . S.105 ,. i i b d .S ,100 , 金子武滅訳、 上巻 p.197, 可)d 」 ; . S.109 . 同- .198 . 、P i b id .S . 119 . 同じ、 P.220 .. 19 54 ( 2 ) ,1 ,21. - 96 -. (未完).
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