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日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11) : 出師準備管理体制の第三次的成立

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(1)Title. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11) : 出師準備管理 体制の第三次的成立. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要, 人文科学・社会科学編, 60(1): 39-54. Issue Date. 2009-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1020. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第60巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.60,No.1. 平成21年8月 August,2009. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11) 一出師準備管理体制の第三次的成立−. 遠 藤 芳 信 北海道教育大学函館枚社会科教育研究室. Wartime Organization and Thought of the Mobilization Program. beforetheRusso−JapaneseWar(11) ENDO Yoshinobu. DepartmentofSocialEducation,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本研究の目的は日露戦争(1904∼1905年)に至るまでの日本陸軍の戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明 らかにしつつ,そこにおける動員計画思想を考察することである。本稿は,特に,1889年2月明治憲法制定 発布期から1890年11月帝国議会開設期の期間において,1890年庭師団出師準備書仮制定,馬匹確保のための 徴発体制整備,野外要務令制定,会計法・会計検査院法と出師準備会計体制,陸軍定員令制定と兵器装備管 理の統一化と常備軍整備の側面から陸軍動員計画思想を明らかにしつつ,出師準備管理体制の第三次的成立 に至ったことを考察するものである。. 251890年度師団出師準備書仮制定と出師準備管理体制の整備 前々満で1886年度鎮台出師準備書等仮制定を基本にした出師準備管理体制の第一次的成立を考察した(1)。 また,前満で1888年の戦時師団整備表等制定を基本にした出師準備管理体制の第二次的成立を考察した(2)。 出師準備管理体制とは,陸軍全体の出師準備(戦時編制実現のための動員態勢の立ち上げ準備)を緊密・有 効的に推進させようとする管理体制である。出師準備管理体制は戦時兵力行使の特に初期的な構造的な計. 画・構築の基盤であり,本稿主題の陸軍動員計画思想の考察にとって欠かせないものである。 さて,出師準備管理体制の中で本体的位置を占めているのが出師準備書である。出師準備書は,戦時編制 実現のための出師準備の計画策走に関する当該年度の全軍統一的な方針・基準を規定して令達したマニュア ル文書である。諸団隊は本文書にもとづきさらに各々の戦時編制を実現すべき具体的な出師準備の計画書の 調製・掟Ⅲが義務づけられた。H師準備書は1888年度までは近衛と鎮台に区分されて規定された(3)。その後, 1888年5月からの師団体制下においては,すなわち,1889年度の出師準備書からは近衛と師団に区分されて. 39.

(3) 遠 藤 芳 信. 規定された(4)。本稿では,まず,1890年度の師団出師準備書から検討していく。 (1)1890年度師団出師準備書の仮制定. 参謀本部副官上領頼方は1889年12月25日付で陸軍省副官宛に,「明治二十三年度出師準備書 近衛之部」「明 治二十三年度出師準備書 師団之部」「明治二十三年度出師準備書附録」「明治二十三年度出師準備調査及報. 告規例」の4件の別冊文書の配布を申進した(5)。陸軍省は同年12月28日付で近衛及び各師団に対して,同 4件の文書の仮制定と同文書にもとづき出師準備に関する諸事項の調査整理を達した(送乙第3565号)。また, 陸軍省は同日付で参謀本部と監軍部に対しても,同4件の文書を近衛都督及び各師団長に達したことを通牒 した。本稿では「明治二十二年度出師準備書 師団之部」(年度の期間は1890年5月1日から1891年4月30 日まで,以下「1890年庭師団出師準備書」と略記)を検討する。 1890年庭師団出師準備書は,第一に,1886年度鎮台出師準備書の前文に記述されていた出師準備の定義を 省き,かつ,同書第一章の「充員ノ令 此令下ルヤ監軍ハ鎮台司令官ヲシテ召集ノ令ヲ管内二布達セシメ」 云々にみられるような司令官の具体的な司令・指示の手続きの記述を変え,各種の召集の今によって充足編 成すべき戦時団隊を簡潔に規定した。たとえば,第一章の戦時団隊の編成では,①第一充員召集の令によっ て充足編成すべきものとして,野戦師団及び対馬警備隊,留守諸官街及び野戦補充隊を,②後備軍召集の令 によって編成すべきものとして,野戦予備隊,後備歩兵補充隊を規定した。出師準備書における以上の記述・ 規定の構えは,出師準備自体の定義等はすでに全軍的に了解・周知済みであって,出師準備における司令官 の基本的な司令・指示の手続きも職務上から自明であるという前提や理解に立ったものであろう。つまり,. 1884年鎮台出師準備書仮制定期(出師準備管理体制の萌芽期)(6)とは異なり,出師準備の基本に関する陸軍 内の統一的な理解と認識が深化したことを意味している。第二に,団隊の編成は1888年制定の師団戦時整備 表及び師団戦時整備仮規則(前満参照)にもとづくこととされた。師団戦時整備表は戦時の1個師団に編成 される官街・団隊の基本を表示し,師団戦時整備仮規則は野戦師団,野戦予備隊,留守官街及び諸隊に編成 される諸部団隊の編成方法や戦闘隊形(梯隊等)の用法・目的等を制定したが,これらは戦時編制の成立萌 芽の基盤になり,戦時編制の前身に相当するものであった。つまり,出師準備と戦時編制との対応関係の論 理が令達文書上で明確化され,出師準備の目的・性格は戦時編制の実現にあることが規定された。第三に, 馬匹徴発の規定である。すなわち,戦時の団隊編成に要する馬匹の徴発手続きとして,①1882年徴発令と同. 年徴発事務条例及び軍用馬匹の調査に関する令達(7)によること,②馬匹徴発区域は各師管(第一師団と近 衛は従前の所定の区域)に従うこと,③野戦師団・野戦補充隊所要馬匹はすべて買い上げ徴発にし,その他 は使用日数・違一般路程・費用の多寡等を酌量して師団長が適宜に買い上げと借り上げとの区別の規定を設け. ることである。第四に,「明治二十三年度出師準備調査及報告規例」においては,「幹部職員表」(現役予備 後備将校,同相当官,下士並びに臨時に陸軍省から附属すべき諸職員をもって詳細に調製,「明治二十三年 度 第何師団司令部並属部職員表」他計15件の職員表),「幹部欠員表」,「諸兵充足表」(諸兵の過不足及び 充足日数を予知するために出師年度初日の総員を予算化して調製するが,現役兵の欠員概算数6%,帰休兵・ 予備役兵の不応徴員概算数10%,後備役兵の不応徴員数16%を除去して戦時定員を充足する),「馬匹充足表」 (軍用馬匹調査の合格馬匹総数から疾病事故による不応徴居並びに実際不合格馬匹の概算数40∼60%を除去 して記入),「器具材料表」(各団隊用武器被服その他材料の準備品表や過不足表)の調製を規定した。特に「馬 匹充足表」は師団(野戦予備隊,補充隊)の諸隊毎の充足地・所要数・現在数・徴発馬合格数・過数・不足 数・徴発馬所要数充足日数(各々を乗馬・挽馬・駄馬に区分)の調製を規定した。なお,1886年度鎮台出師. 準備書附録で規定された予備役諸兵召集に関する地方行政機関の詳細な業務手続の記述は省かれた(8)。地 方行政機関の召集業務手続の記述はH師準備業務規定(参謀本部主管)でなく,召集事務規定(陸軍省主管 の陸軍召集条例等)が適切とされたのであろう。また,「諸費予算表」(「野戦師団及補充隊編成諸費予算表」. 40.

(4) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). は召集下令日より30日間を目途にして予算化,「野戦師団諸費予算表」は師団出師準備完成後3ケ月間分を 予算化)の調製を規定した。ここで,後者の「野戦師団諸費予算表」の諸費用の費目化区分は,およそ,1876. 年2月陸軍省達乙第52号の戦時費用区分概則に規定された費用区分にもとづいたものである(9)。さらに, 本表の費目化区分は日清戦争期の陸軍省所管の臨時軍事費支出の予算算出上の費目内訳(1個師団経費算出) の基本になった。 (2)1890年徴発事務条例中改正と馬匹徴発体制整備. 以上の1890年庶出師準備書の仮制定のもとに出師準備の調査と整備が進められたが,参謀本部として最も 危惧していたのが出師準備体制の整備の向けた徴発馬匹の確保・充足の見通しである。徴発馬匹確保・充足 の見通しを明確化するための作業として,軍用としての乗馬・挽馬・駄馬に適しているか否かに関する馬匹 調査と統計化がある。この馬匹調査と統計化は1882年徴発令で規定されていたが,馬匹の調査・報告は他の 物件とほぼ同様に位置づけられており,固有の調査方法等は規定されていなかった。そのため,1880年代末. に参謀本部と陸軍省との間で徴発馬匹の調査方法に関する協議がすすめられたが(10),徴発体制は一般行政 に関連するものがあり,徴発令等の改正調査は内務省等との協議・調整を経なければならなかった。 当時,1889年3月に陸軍省は主に1886年閣令第11号徴発事務条例中改正による徴発物件表の調製・碇出に. 関して,徴発事務条例中改正案の協議を内務省等と開始していた(11)。内務省等との協議は同年10月末には やや一段落していたが,同年末に参謀本部は徴発馬匹の調査方法の未定立によって出師準備に不可欠な徴発 計画に困難を生じさせているとして,徴発区の変更等も含む徴発令中改正及び徴発事務条例中改正を陸軍省. に求めた(12)。これに対して,陸軍省は1890年1月23日付で参謀本部に対して主に,①徴発令中改正案とし て,徴発書発行権者の官憲に近衛都督を加え(第3条),徴発物件の米麦殊と乗馬駄馬駕馬車輌その他運搬 用獣類・器具の徴発区を府県にする(第4条),徴発物件を6里以外の差出場所に輸送する場合には当該官 憲が輸送賃を賠償する(第30条)とし,②徴発事務条例中改正案として,府県知事は徴発物件表(郡区長調 製碇出の米麦殊と乗馬駄馬駕馬車輌その他運搬用獣類・器具に関する表を府県毎に集約する)の陸軍省宛提 出期の「毎年」を「毎三年」に改める(第24条),徴発物件差出場所は徴発区内を定例とするが戦時の時機. 切迫の場合にはその限りではない(第39条),等と起案・協議した(13)。参謀総長は1月29日付で異存なし を述べ,出師準備書作成の時日が切迫しているのですみやかに詮議してほしいと添え書きして陸軍大臣に回 答した。 陸軍省は参謀本部回答を受けて,さらに調査をすすめ,同年2月上旬に,出師準備上において徴発令中改 正を必要とする件も生じたとして徴発事務条例中改正について,陸軍大臣と内務大臣及び海軍大臣連署の閣 議碇出案を省議で決定した。陸軍省起案の閣議碇出案と「理由書」は上記参謀本部への協議を経た改正条項 や趣旨に加えたものであるが,主なものとして,第一に徴発令第42条における船舶徴発の損料代償の1ケ月 64分の1は1ケ年1割9分弱で平時でも「高価」であり,徴発を受ける会社は「非常ノ利潤」を得るので費 用減省のために損料は1年に6分乃至9分6厘弱にする,第二に徴発事務条例においては,①徴発書は平時 の演習には直ちに郡市長に下付することを加える(第10条),②鉄道局長・鉄道会社長は毎年12月末現在の 鉄道表を調製して翌年3月末までに陸軍省に送付し(新設・改築時もその時々に送付する,第22条として新 設),③第24条の徴発物件表の提出者に北海道庁長官を加える,④北海道庁長官府県知事は附録第5号雛形 にもとづき「汽船表」(100トン未満と100トン以上に区分する)を調製して毎年3月末までに海軍省に送付 する(第25条,管内での100トン以上の汽船の新造・買入れの時はさらに個々の汽船に関する資料を調製し その時々に海軍省に送付する,ただし,海軍大臣は便宜により船舶会社に「汽船表」を直接に送付させるこ とができる),⑤附録第3号の1表(北海道道庁長官府県知事調製淀川の徴発物件表,府県における市町村 毎の幅員・家屋戸数総坪数宿舎用坪数・人口・人夫・官廊・倉庫・廠・寺院・学校・製造所・水車場・病. 41.

(5) 遠 藤 芳 信. 院・日本形船舶の数を記載)と同2表(北海道道庁長官府県知事調製碇出の徴発物件表,府県における市町 村毎の乗馬・駕馬・駄馬・耕馬く各々牡牝毎の合格・不合格数〉・午・車輌く馬車・荷馬車・人力車・荷車・. 牛車〉・馬車と駄馬の属具の数を記載)については,「甲部」(人家桐密地の東京・京都・大阪の3市は記載 区画を市区町村までに止める)と「乙部」(東京京都大阪3市を除く一般の市部郡部町村の記載区画であり, 1889年4月施行の市制町村制のもとに町村合併した町村においては,散点村落があるので町村合併前の旧町 村の大字地域までの細別区画を設ける)に区分した記載要領を示す,という改正内容がある(14)。 以上の陸軍省起案の閣議提出案で特に出師準備管理体制上で重要なのは,徴発事務条例の附録第3号の2 表の徴発用の馬匹及び車輌の調製・碇出規定の改正である。陸軍省の閣議碇出案の「理由書」は,従前の徴 発馬匹表は不完全であり今回改正は「出師準備上必要ナレハナリ」と強調した。また,第25条における北海 道庁長官府県知事の「汽船表」の調製・送付にかかわって船舶に対する海軍省の役割・管理が強化されたと みてよい。陸軍省起案の閣議提出案は内務省・海軍省・司法省・農商務省への協議を経て(2月∼6月), 同年7月に閣議に提出されたが,内閣法制局は陸軍省に徴発命中改正は徴発事務条例中改正に包含すべきこ とを指示した。この結果,あらためて陸軍大臣と海軍大臣の連署により,同年8月8日に徴発事務条例中改 正案(第6条において,徴発令第3条の徴発書発行権者の官憲の師団長には近衛都督を包含し,旅団長には. 屯田兵司令官を包含する,等々)として閣議に碇出された(15)。そして,8月20日の閣議決定を経て,9月 5日に勅令第196号によって徴発事務条例中追加改正が公布された。 これにより,1891年庭師団出師準備書における戦時の動員を基準にした徴発馬匹確保の一応の計画・見通 しがつけられたとみてよい。たとえば,1890年12月23日仮制定・送達(送乙第3547号)の1891年庭師団出師 準備書はその「明治二十四年庶出師準備調査及報告規例」において,野戦師団等の出師準備における人馬整. 備景況の予知のために,「人馬概見表」の調製・報告を規定した(16)。これは参謀本部が同年6月に調製の 必要性を陸軍省に協議していたものであるが(17),1891年度から陸軍全軍の戦時の動員人馬員数の計画全容 が明確化されるに至った。ただし,実際の動員人馬数の充足の場合には課題を残した。 (3)1891年野外要務令の制定. ①1889年野外要務令草案の頒布 1890年庭師団出師準備書仮制定に際して,戦時編制下の諸団隊・部の戦闘活動を支える戦闘地域・戦闘現 場の一連の連繋しあう基本的な勤務・業務・設備等の要点を規定したマニュアル書が編纂・制定されたこと が重要である。すなわち,1889年9月30日陸達第142号によって制定が通達された野外要務令草案である。 ここで「草案」としたのは,陸軍にとって初めての編纂であり,軍隊の編制・戦用器材等の未整備によって 直ちに準拠できないものは適宜の処置をとり,「取捨修補」(裁可の勅語)等によって,試行の積み重ねを経 ることを企図したからである。特に「給養」等に関して未解明・未解決の課題が残っていたためであろう。 出師準備は特に初期的な兵力行使活動の勤務・業務・設備等の遂行・充実を目ざす動員態勢の立ち上げを基 本にしているが,野外要務令は戦闘活動を支える勤務・業務・設備等の要点をマニュアル化し,動員態勢立 ち上げ後の戦闘地域・戦闘現場における戦闘準備や条件・環境整備の統一的基準を明示するものであった。 さて,1889年野外要務令草案は陸軍参謀本部が当初「陣中軌典第一版草按」として編纂したものである。 すなわち,参軍機仁親王は1888年7月6日付で陸軍大臣宛に陣中軌典第一版草案を調査したので意見を承知. したいと照会した(18)。これに対して,大山陸軍大臣は約半年後の翌1889年1月14日付で参軍宛に,陣中軌 典の編纂は創始事業であって,かつ1886年以降に軍隊の制度・編成・教育等の改革をすすめてきたが,また 現在も調査中のものもあり,彼是連繋する各主任者が意見を出しても自然に偏りが生ずるので,関係将校を もって審査委員を組織し,審査をしたい(監軍部も了承済)と回答した。審査委員の組織については参軍も 同意した。そして,陣中軌典草按審査委員長として陸軍中将小沢武雄,審査委員として,陸軍省からは人事. 42.

(6) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). 課長歩兵大佐沖原光学他2名,参謀本部からは第一局長歩兵大佐西寛二郎他5名(陸軍大学校教官2名含む), 監軍部からは陸軍士官学校長歩兵大佐寺内正毅他7名が任命された。陣中軌典第一版草案は陣中軌典草按審 査委員による審査の結果,野外要務令草案と修正された。「陣中軌典」と称する場合は,戦闘現場における. 戦闘制式のマニュアルの意味としてうけとめられると判断したためであろう(19)。その後,職仁参謀総長は. 9月16日付で野外要務令草案を制定したいとして陸軍大臣に協議した(20)。これに対して,大山陸軍大臣は 9月16日付で意見なしの回答を発し,参謀総長からの上奏と裁可を経て9月30日に制定された。. 1889年野外要務令草案は冒頭に裁可の勅語が掲載され,本文目次大要のように(21),綱領と陣中勤務(第 1部全12篇,全345款)及び秋季演習(第2部全6篇,全96款)から構成された。その中で特に綱領は,今 日の軍制や兵器は欧州諸国にならっているが形而下のものにすぎないので「其ノ所謂ル軍人精神ハ即チ我力 固有ノ大和魂ノミ武士道ノミ」として,軍人精神の強調と軍の成立における軍紀の重視を記載した。 さて,1889年野外要務令草案は,第一に,全軍構成の戦闘序列における大単位の兵力行使組織として師団 を規定したが,戦時編制下の師団編成(衛生隊・野戦病院も含む)は1888年制定の師団戦時整備表にもとづ き,さらに,大兵力を支える物品携行としての行李の定数は1887年2月制定の歩兵一連隊戦時編制表他にも とづくものであった(第1,第272,前稿参照)。ここで,行李の運輸は副馬(馬卒が牽引)と定数駄馬(輸 卒が牽引)から成り,さらに小行李(軍隊戦闘間の必要物品,弾薬・衛生材料・工具)と大行李(宿営間必 要物品,荷物・炊具・糧殊等)に分割されたが,輪重・運輸手段の基本としては駄馬編制までが限界であっ た。また,下記の「給養」における携帯糧課も1888年12月制定の師団戦時物件定数表にもとづくものである (静稿参照)。つまり,1889年野外要務令草案は戦時編制表との重複的な規定もあり,戦時編制との区別認 識が薄い。. 第二に,戦闘準備や条件・環境整備の基準で最も困難とされたものが第8篇の給養である。人馬の給養は, 宿舎給養,倉庫給養,携帯糧殊給養,縦列給養,徴発給養の5種に区分されたが(第274),本文欄外におい て「軍隊保全上我邦二於テ最モ困難ナルハ給養法ナリ故二本篇載スル所ノ条項モ亦不完全ノ憾ナキ能ハス尚 ホ将来実地二就キ殊二其器具材料等ノ研究ヲ勉ムルヲ要ス」と参考注記された。ここで,宿舎給養は「合主 炊螢」(宿舎の舎主が供給)と「部隊自炊」に区分されたが,注月すべきは徴発給養である。徴発給養は, 国内(徴発令にもとづく)と同盟国(最高司令官に与えられる徴発権によって特定された方法にもとづく) 及び敵国での徴発に区分された。国内の徴発は「官憲徴発」(師団長もしくは「兵端監」が監督部長に糧殊 等を特定場所に徴発させ,各部隊に分配する)と「部隊徴発」(当該部隊の徴発隊をもって某地に糧殊を供 給させる)に区分したが,兵端機関としての「兵端監」を規定したことが注目される(第280)。兵端は本来 的には戦闘地域・戦闘現場にある野戦軍の戦闘力行使・作戦力を持続させるための軍需品補給・交通・輸 送・通信・衛生・民政関係等の一連の後方支援活動であるが,第8篇の給養や第9篇の衛生(第291の「兵 端司令部」)に規定されたのは,兵端体制構築への調査着手を反映している。しかし,これらの兵端体制構 築の調査着手とあわせて,兵端自体の困難さが自覚され,建軍期の1873年在外会計部大綱条例等に規定され た糧食供給方法としての現地調達思想を踏襲し,敵国での徴発(敵国での徴発は給養法中の最多方法とする) を含めて徴発一般の強圧的な手続きや方法が規定され,あるいは徴発における「暴戻」発生の可能性が認識 されたのであろう。たとえば,占領卜の村落での徴発は「動モスレハ暴戻拾奪二流レ易シ故二厳重ナル方法 ヲ以テ之ヲ禁渇セサル可ラス」とされ,村長や居民が抵抗する時は徴発物品を「強取スヘシ」とか,国内に おいても徴発遅延により危害の恐れある時は「強迫ノ方法ヲ用ユルコトアルヘシ」と規定された(第2飢, 第282)(22)。 第三に,第9篇の衛生において注目されるのは,①1886年の国際赤十字条約加盟により,衛生要員は退却 時に際しても傷病者とともに舎営病院・該地在来病院等に遺留し,保護が与えられる,衛生部要員及び衛生. 43.

(7) ᘴ.

(8) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). と戦時の1個師団の人馬員数・定員を表示化した戦時師団司令部編制表他計12件の編制表(陸達第156号) の改正着手を意味しているとみてよい。また,この場合,参謀本部における「戦時編制」の改正着手は,従 前のような戦時の諸団隊の編制表のたんなる統一的表示化に関する改正調査でなく,戦時編制表のさらなる 体系的集成化も含み,戦時の全軍統帥機関及び諸官街・団隊の編成の統一的方針や要点の調査着手中にあっ. たと考えられる(24)。ただし,戦時の全軍統帥機関等の編成は参謀本部や陸軍のみで解明・構想・策定され るものでなく,野外要務令発布と同時に明確化できるものではなかった。参謀総長は上記の8月1日付の陸 軍大臣宛の通知日に野外要務令改正を上奏し,さらに6日には同改正案を天皇に説明し,10月19日と11月5. 日及び11月13日には本文冒頭の勅語掲載も含めて上奏するなど慎重な制定手続きをとった(25)。その後,裁 可を経て,12月12日に陸達第172号をもって野外要務令の制定が速された。 1891年野外要務令は1889年野外要務令草案の記述内容(給養,徴発,衛生,憲兵,演習時の危害予防・賠 償補償等)をほぼ踏襲した。ただし,軍隊の携行糧食の8日分(携行口糧2日分,大行李1日分,縦列5日 分)を6日分(携行口糧2日分,大行李1日分,縦列3日分)に減らし,「外征」に際しては携行糧食の若 干日分を増加するとした(第284)。外征を基準にした給養の組み立てに着手したのである。また,携行馬程 の8日分も6日分に減らした。さらに,歩兵の弾薬補充方法を一部修正し,1箱内の弾薬を結束のまま箱よ. り出し,兵卒2名に分けて搬送できるように規定し,弾薬補充時間を短縮した(第217)(26)。ところで,1891 年野外要務令で最も注目されるのは改正協議時にも指摘された「船舶ノ輸送」(第13篇)の増設である。す なわち,「軍隊ノ海運ハ海軍又ハ徴発若クハ雇役ノ船舶ヲ以テ行フヘキモノニシテ陸軍官憲ハ兵端勤務令二 親走セラレタル如ク其請求書ノ発船地所管ノ鎮守府司令長官二移牒シ或ハ船舶ノ会社或ハ事務取扱所若クハ 船長二下命ス」(第350)と規定された。これによれば,船舶による輸送は「兵端勤務令」の規定を前碇にし. た上で,さらに,海軍による船舶確保及び鎮守府司令長官の関与を含めて組み立てられることになる(27)。 そこでは,たとえば,鎮守府司令長官は請求された船舶の整備や航海に向けた検査と内部改造及び搭船揚陸 諸材料の準備等の勤務に従事することになるが(第351),海軍は陸軍船舶輸送の支援勤務担当者になり,海 軍側からみれば納得できないいわば「陸主海従」の兵端体制が内包された。1891年野外要務令(正確には兵 端体制)における海軍関与の船舶輸送規定は海軍省との協議・調整を経なければ本来成立しがたいことは当 然であるが,その後,日清戦争の開戦直前において,陸軍省所轄の兵端勤務令制定をめぐって,陸軍省と海 軍省間の船舶輸送の兵端体制の協議が成立せず,決裂した。すなわち,1891年野外要務令は対天皇との関係 では慎重な裁可・制定手続きをとりつつも,船舶輸送に対する海軍側の協力・支援体制の担保を得ないまま に制定された。 (4)1889年会計法体制と出師準備品管理. ①1889年会計法制定と陸軍省 出師準備計画は膨大な戦時費用を必要とし,戦時財政支出に関する会計経理を組み立てなければならな かった。ところで,1889年2月の明治憲法発布とともに,同日に国家の会計原則を規定した会計法が制定さ れた(法律第4号,全33条)。さらに会計法施行の基本規則を規定した会計規則が同年4月に制定され(勅 令第60号,全123条),同年6月に政府所属物品の会計(保管出納等)の原則を規定した物品会計規則が制定 された(勅令第84号,全22条)。また,同年5月に明治憲法第72条にもとづく会計検査院法が制定された(法 律第15号)。陸軍海軍両軍の合計軍備費は1889年度当時には国家全歳出の3割弱を占めていたが,軍備費会 計経理も立憲国としての会計法体制に位置づけられなければならないことは当然であった。しかるに,会計 法制定時からも軍備費会計経理にかかわって,会計法体制下のゆるやかな特例的措置を受けるべき取扱いや 手続きが議論され,かつ法制化されてきた。 まず,会計法制定に際して,陸軍省の企図を検討しておく。第一に,1888年5月15日に大蔵大臣枚方正義. 45.

(9) 㙿.

(10) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). 品の詳細な定数表を規定した。. その後,大山陸軍大臣は物品会計規則第1条の兵備に関する物品の種類を勅令で規定してほしいとして, 勅令案「陸軍兵備物品会計規則案」(全7条)を起案し,内閣総理大臣山県有朋に1890年2月26日付で閣議. 請議書を提出した(31)。陸軍省勅令案は,①兵備物品は兵器・弾薬,軍隊(生徒隊・教導隊も含む)の備付 諸品,軍隊の糧食・被服・蓼課,出師準備の物品及び演習用材科,秘密図書,馬匹の6種類とされ(第1条), ②物品会計規則第14,15,17条により陸軍大臣が調製して年度後6ケ月以内に大蔵省に送付すべき物品の数 量価格の報告書と同省の物品会計官吏が調製して会計検査院の検査判決を受けるために碇出する毎年度の物 品出納計算書の物品については,「価格ノミヲ明記スヘシ」とされ(第3条),③第1条の兵備物品数量の精 確さは,砲兵方面・工兵方面の掟理や各輪重兵大隊長・近衛師団の監督部の当該監督部長等の「証明書」に よって保証するとされ(第4条),④本規則にもとづいて物品を管理する官吏は「身元保証金」(会計法・会 計規則・物品会計規則の規定)納付義務を不用としたように(第7条),広範囲な兵備物品を示し,ゆるや かなかつ狐善的特権的な兵備物品管理方法を起案した。これに対して,法制局内部(主査・参事官レベル) では当初,①の兵器・弾薬と秘密図書を除く物品は,海軍兵備品会計規則(1890年3月27日勅令第64号)と の権衡を保つために物品会計規則第14条にもとづかせることが相当であり,④の身元保証金は物品会計官吏 である以上は当然の責務であり陸軍省に限って免除される理由はないとして第7条を削除しつつも,陸軍省 勅令案をほぼ認める判断・方針を示した。陸軍省も法制局の方針にそって同勅令案に削除・修正を施した(全 4条)。. しかし,法制局内部ではさらに審査をすすめ,法制局長官井上毅は3月4日付で大蔵省総務局長宛に陸軍 省勅令案にかかわって物品会計規則第1条の但し書きの主意を照会した。これに対して,大蔵省総務局長渡 辺国武は3月12日付で法制局長官に,①同第1条但し書きの主意は兵備に関する物品会計規則は別に制定さ れるべきことを示したものであり,単に物品の種類を別に規定するということではない,②兵備品検査方法 を規定することは既定法律の外に捗ることがあり,別段の法律をも必要とするが,兵備物品の会計規則・会 計法制定に関することを陸軍大臣に委任したことではない,と回答した。この結果,法制局内部では大蔵省 回答にもとづき,一時,陸軍省の閣議請議の趣旨は採用できないという判断にも至ったが,その後,法制局 の審査方針としては兵備物品中の出師準備用物品を会計検査院の検査判決との関係で規定する構えをとっ. た。すなわち,法制局は6月26日の閣議において,陸海軍兵備品申出師準備に要する物品は「国家ノ大計上 極テ秘密ヲ要シ敵国ヲシテ其虚実ヲ窺知セシムヘキモノニアラサレハ」会計法第26条規走による会計検査院 の検査判決を要すべきものではなく(しかるに兵備品自体は物品会計規則第1条の除外例に属しても,同規 則は勅令であるので,法規走の会計検査院の検査判決を不要とすれば),そのためには会計法の範囲外に出 ざるを得ないが故に,まず「陸海軍出師準備二属スル物品二対シテハ陸海軍大臣其ノ責二任シ会計検査院法. ヲ適用スルノ限二在ラス」という単行の法律案が発せられなければならないという審査報告を碇出した(32)。 但し,兵備品会計規則の制定は主務省と協議の上で閣議を請議すべしとされた。 以上の法制局審査報告と法律案は,上記2月の陸軍省の当初の勅令案「陸軍兵備物品会計規則案」の閣議 論議の趣旨に比較すれば,陸海軍の膨大な出師準備用物品の媛慢な管理に対する格段の高いレベルの法的な 根拠や庇護を与えたことは明確である。法制局審査報告は同閣議で了承され,同法律案は7月8日に元老院 に下付された。しかし,元老院は7月22日に,①同法律案のような特例設定は,平時の物品との区域を混同 する弊害を生じ,会計検査院法をして陸海軍物品全体に対する検査効力を失わせる虞があり,②陸海軍大臣 の「責二任シ」云々も明確でなく,「大二人民ノ悪感触ヲ惹起セン是レ唯り政府ノ為二取ラサルノミナラス 立憲制度実施ノ本旨二禿戻スル所アルヲ憂慮スルナリ」という反対理由を述べ,否決・廃棄の院議を上奏し. た(33)。しかし,8月14日の閣議は,出師準備に要する物品は軍略上で特別の扱いを要するとして同法律案. 47.

(11) 遠 藤 芳 信. 決行を決定し,8月21日に法律第70号の「陸海軍出師準備二属スル物品検査ノ件」が公布された。内閣の決 行は,本法律案を後に帝国議会に碇出した場合,元老院の院議のような反対意見が続出するのは十分に予想 され,帝国議会開設前に公布すべきと判断したからである。つまり,政府一体化による議会対策を前面に出 し,出師準備用物品の秘密保持を名目にして会計検査院法適用除外を強行したのである。この結果,通常物 品を出師準備品に組み込むなどの窓意的な会計管理傾向を醸成する素地が作られ,「身元保証金」の納付も. 除外化された(34)。かくして,会計法・会計検査院法体制を崩しつつ出師準備管理体制が成立したのである。 (5)1890年陸軍定員令制定と平時編制の第一次的完成 ① 平時編制表の整備と陸軍定員令制定 前稿で述べたように,1887年の平時及び戦時の各歩兵一連隊編制表の制定・表示化と1888年5月からの師 団常備化(師団体制の成立)がもたらした戦時編制概念の転換の意義は大きい。すなわち,諸兵の平時編制 の基本を戦時編制に置くとともに,戦時編制表の統一的表示化への一歩をすすめた(戦時編制の成立萌芽)。 ただし,当時は戦時編制表に対応すべき平時編制表が未整備であった。平時編制表の整備は,1889年2月の 明治憲法制定及び翌1890年11月末の帝国議会開設前までの間にすすめられた。この場合,平時編制表の整備 は,立憲体制開始・帝国議会開会に対する陸軍側の既得権益防禦策として強行され,特に陸軍大臣による「椎 陸上奏」の手続きによって制定されたのが1890年11月1日勅令第267号の陸軍定員令であった。 陸軍定員令の制定はその起案・審議過程等からみれば二つの部分から成り立っている。 第一は,桂太郎陸軍省軍務局長が10月11日付で大山巌陸軍大臣宛に「今般陸軍定員令別冊之通取調候間椎 帳へ上奏ノ上内閣へ行下シ勅令ヲ以テ公布相成可然存候也」として碇出したところの,陸軍定員令制定に関 する「奏請接」の上申書(上奏用添付の「理由書」が付される)である。これは,軍隊編制制定にかかわる 「椎陸上奏」手続きを先行させつつ,陸軍各官街の組織も平時編制とみなした上で,陸軍の現役人員(馬匹,. 在職文官を含む)の定員を起案したものである(35)。桂軍務局長の起案・上申において,勅令本体に関する 起案条文・附表等は不明であるが,勅令公布成文のように(全10条,附表は全15号),常備軍隊,屯田兵, 憲兵隊,諸学校生徒隊及び教導隊,軍務分掌部局(中央部は参謀本部,監軍部,地方部は近衛及び師団司令 部他),特務部(東宮武官,陸地測量部他),衛戊部(病院,監獄),諸学校(陸軍大学校,士官学校他),伴 属部(軍馬育成所,中央司計部他),から構成されたとみてよい。また,常備軍隊,屯田兵,憲兵隊の人員と, 近衛や師団の司令部の人員は「編制表」と表示され,官街の人員は「定員表」と表示されたのであろう。以 上の桂軍務局長の起案・上申は,10月21日に了承されて陸軍大臣から上奏されたが,陸軍の官街及び軍隊編 制の基本的な所管関係に関する参謀本部と監軍部の関知・認識がどのように扱われたかについては不明点が ある(36)。. 第二は,職仁参謀総長が10月16日付で大山陸軍大臣宛に起案・協議した近衛司令部編制表他20件の司令部. 及び諸兵等の平時編制表改正案である(37)。これは,まず,1889年3月陸達第28号平時野戦砲兵一連隊編制 表が陸軍省(総務局第三課,砲兵局)の起案・上奏によって制定されていたのに対して,参謀本部が諸兵の 平時編制表全体の改正案を起案したことが特質である。つまり,編制表起案に関する管轄権が全面的に参謀 本部に移ったことを示している。次に,上記1887年の平時及び戦時の各歩兵一連隊編制表他,1890年3月29 日陸達第57号の平時近衛歩兵一連隊編制表他5件の近衛諸隊の編制表,1890年9月30日陸達第192号の平時 屯田歩兵一台隊編制表他3件の屯田兵諸隊の編制表がすべて編制表中の階級・区分において兵卒を含む「職 員」と「馬匹」(乗馬,挽馬,駄馬)に区分・表示していたのに対して,「人員」「馬匹」の区分・表示に修 正したことが特質である。つまり,編制表から行政機関・官街の職(官)員の呼称・意義を失わせた。また, 1890年3月勅令第45号師団司令部条例中改正の「師団司令部職官表」と同年3月勅令第46号近衛司令部条例 制の「近衛司令部職官表」の両表示に対して,上記参謀本部起案・協議の平時編制表改正案は「師団司令部. 48.

(12) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). 編制表」及び「近衛司令部編制表」の編制表に修正し,かつ,馬匹(将校馬16)を明記した。すなわち,司 令部も含めて官職上の定員・人員から軍隊編制上の定員・人員への認識・管理に決定的に移行したことを意 味し,これらは軍隊本然の兵力行使組織の編制上の人員表として際立たせることを意図したものである。な お,上記の諸編制表が縫工・靴工の職員数掲載を欠かしていたのに対して,縫工・靴工の職員数明記の1890. 年7月3日陸達第132号の平時近衛各隊編制表中改正及び平時師団各隊編制表中改正(38)をふまえ,たとえ ば,平時歩兵一連隊編制表(3個大隊・12個中隊)の人員合計は1,721名になり,1887年平時歩兵一連隊編 制表の人員合計1,689名に比較して32名増員になった。したがって,参謀本部起案・協議の平時編制表改正 案は,兵力行使組織上の人員編制表示を前面に出しつつ,ほぼ従前の諸兵の平時編制表上の人員数を維持す るものであった。以上の参謀総長の協議に対して大山陸軍大臣は10月24日付で意見なしの回答を発した。こ れによって,1887年からすすめられた諸兵の平時編制表の改正・整備と統一的表示化が一段落した。 その後,10月24日に直ちに軍事参議官の会議が開催され,上記の陸軍省起案の陸軍定員令の本体部分と参 謀本部起案の近衛司令部編制表他20件の司令部及び諸兵等の平時編制表改正案が一挙に一括審議可決され,. 陸軍大臣の上奏と裁可の結果,同24日に直ちに内閣に行下されたのだろう(39)。そして,陸軍定員令は11月 1日に公布された。同年11月末からの帝国議会開会直前に陸軍予算の根拠としての定員基準を明確化し,平 時編制表の全容を示した点では平時編制の第一次的完成を意味し,常備軍の整備化をすすめた。 ②1891年兵器弾薬表制定と兵器装備管理の統一化 1889年陸軍定員令の平時編制表における人員の統一表示化と並んで重要なのは,戦闘力行使の物質的基盤 としての兵器装備管理の統一化である。すなわち,まず,陸軍定員令の平時編制表と1887年から制定された 平時戦時の歩兵連隊編制表その他諸兵の平時戦時の編制表における定員・人員数を基準にして,1891年に兵 器弾薬表が制定された。建軍期からの各隊への備付・支給の兵器弾薬員数は,1874年1月15日陸軍省達布第 16号の各種兵携帯銃器等の員数表(戦時人員)によって規定されていた。たとえば,「各種兵隊下士以下携 帯兵器表」「山野両椒六管鎮台砲隊弾薬備付表」や「六管鎮台各兵小銃弾薬運輸人馬表」等を示し,小銃及 び山砲・野砲とその弾薬等の員数(種類,重量,運輸に必要な人馬員数等を含む)を詳細に規定していた。 その後,1880年と1885年に小銃装備の制式が村田式に統一されたが,演習用弾薬や射撃演習用弾薬の支給も 含めて,その都度,各隊の兵器弾薬に関する備付員数定則表・支給定則表が令達された。しかるに,上記1887 年以降の戦時編制表・平時編制表の制定・改正が一段落した結果,陸軍省は1890年12月の参謀本部との協議 を経て,1891年2月24日に兵器弾薬表制定を近衛各師団等に内達した(陸軍省送乙第342号)。 1891年兵器弾薬表(冊子)は出師準備に関して最も秘密を要するとして内達頒布されたものであるが,そ の総則において主に,①本表は平時戦時のすべての兵器弾薬定数を規定し(要塞の火砲・弾薬は当分別規定, 屯田兵の兵器弾薬は本表規定外,団隊編制未定のものは暫く本表にもとづき兵器弾薬を備付),②本表は,「砲 兵方面備付兵器弾薬」,「兵隊備付兵器弾薬」(憲兵隊及び歩・騎・砲・工・輪重兵隊,対馬警備隊,要塞砲 兵隊,軍楽隊),「学校官街備付兵器弾薬」,「演習用器具」,「一人別兵器弾薬」(諸兵携帯兵器弾薬表,諸兵 演習用弾薬表),からなり,③備付兵器弾薬表記載の名称はすべて付属品・装載品・装填品を含有する,④ 当分の整備方法は,兵隊・学校・官街及び砲兵方面備付の「第二支須」(其一,其二)の兵器はまず制式制 定済みのものをもって充て,不足分は代用品(たとえば,卜士用刀不足は旧製真鎗鍔軍刀)をもって補充す る,⑤砲兵方面備付の「本須」「第一支須」「第二支須」(其三,其四)も上記④に準じて整備・補充するが,. 某一隊においてはその種類をなるべく斉一が必要である,等と規定した(40)。さらに,同年3月27日陸達第 43号の兵器弾薬取扱規則(全42条)は,平時の兵器弾薬の整備と戦時への供用を完全にするための方法を規 定した。すなわち,兵器弾薬の管理・保管責任者,費用,製造・購買,新調・修理・手入れ,支給・交換, 返納,廃兵器・弾薬の処分,兵器保存期限等に関して詳細に規定した。また,同年3月2日陸達第13号の兵. 49.

(13) 遠 藤 芳 信. 器弾薬細目名称表制定は,携帯兵器・野砲山砲・砲兵工具・馬具・弾薬等の部品・付属品等名称を統一した。. すなわち,平時編制表と戦時編制表にもとづき,兵器弾薬表制定を基本にして兵器装備管理の統一化がすす められた。. 以上,本稿は1889年2月明治憲法制定発布期から翌1890年11月帝国議会開設期にかけて,1890年庭師団出 師準備書における出師準備の基本に関する陸軍内の統一的な理解と認識の深化(令達上における出師準備の 目的・性格の明確化)を中心にした動員態勢立ち上げ準備を支える基盤として,馬匹確保のための徴発体制 整備,野外要務令制定と戦闘現場の勤務体系の要点規定化,会計法・会計検査院法体制下の出師準備品に対 する窓意的な会計管理方法の. 造出強行,陸軍定員令制定と平時編制表の統一的表示化,兵器装備管理の統一. 化を考察してきた。その中で,陸軍が特に軍備維持経費と出師準備品に関する新たな特例的会計管理と法令 的庇護を獲得したことの意義は大きい。陸軍の出師準備管理は会計管理方法等も含めて成立したことになる. が,出師準備管理体制の第三次的成立と称することができる。. (注). (1)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(9)−−−−−−−一鎮台体制の完成と出師準備管理体制の第一次的成立−」. 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第59巻第1号,2008年8月,参照。なお,同拙稿117頁の注(14)は 〈陸軍省大 日記〉 中『明治十九年自一月至十二月 総務局綴』所収,である。 (2)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(1¢ト一戦時編制概念の転換と師団体制の成立−」北海道教育大 学紀要(人文科学・社会科学編)第59巻第2号,2009年2月。 (3)①1887年度は,「明治二十年度出師準備書 近衛ノ部」「明治二十年度出師準備書 鎮台ノ部」「出師準備調査及報告規例」 「出師準備調査二関スル近衛鎮台交渉ノ件」から構成され(参謀本部長の1886年12月22日付協議に対して,陸軍大臣は同年 12月28日付了承回答。同12月28日陸軍省送乙第4961号により近衛及び各師団に内達),②1888年度は,「明治二十一年度出師. 準備書 近衛之部」「明治二十一年度出師準備書 鎮台之部」「出師準備調査及報告規例」「出師準備調査二関スル近衛鎮台 交渉ノ什」及び「出師準備物件数額表」から構成された(参軍の1887年12月23日付協議に対して,陸軍大臣は同年12月28日 付了承回答。同12月28日陸軍省送乙第4072号により近衛都督及び各鎮台司令官に達)(防衛研究所図書館所蔵〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1886年12月総参第229号,同『弐大日記』坤,1887年12月総参第222号,同『明治二十年 総務局綴』, 参照)。ただし,両年度の出師準備書は編綴されていない。なお,1887年度の出師準備にかかわって第一軍管内における近 衛と鎮台の馬匹徴発の府県区域が規定された。すなわち,近衛の馬匹徴発区域は長野,山梨,埼玉,静岡,神奈川の5県と. され(上記1886年12月陸軍省送乙第4961号),翌年,東京府の一部(赤坂,四谷,牛込,小石川,下谷,浅草,神田,本郷 の8区,東多摩,南足立,南葛飾の3郡)が加わり,その他は東京鎮台の馬匹徴発区域に組み入れられた(1887年3月25日 東京鎮台への通牒,前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1886年12月総参第229号所収)。その後,1888年5月の陸軍管 区改正により静岡県はすべて第三師管に組み入れられたので,1889年度出師準備からは近衛の馬匹徴発区域から除かれた。 (4)1889年度は「明治二十二年度出師準備書 近衛之部」「明治二十二年度出師準備書 師団之部」「明治二十二年度出師準備 調査及報告規例」「出師準備調査二関スル近衛師団交渉ノ件」から構成されている(参謀総長の1888年12月3日付協議に対 して,陸軍大臣は12月22日付了承回答。同年12月28日陸軍省送乙第4313号により近衛都督及び各師団長へ達)(前掲〈陸軍 省大日記〉 中『弐大日記』坤,1888年12月総参第182号,同総参第198号参照)。ただし,出師準備書は編綴されていない。 (5)防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1889年12月稔参第177号所収。「明治二十三年度出師準備書附. 録」は出師準備にかかわる従前の「出師準備調査二関スル近衛師団交渉ノ件」の文書を吸収したものと考えられる。 (6)拙稿「軍備拡張下の陸軍動員計画思想」北海道教育大学函館人文学会編『人文論究』第77号,2008年3月,参照。 (7)軍用馬匹の調査に関する令達とは府県宛の1886年12月陸軍省訓令甲第2号を指し,徴発令第12条第2項の乗馬駄馬駕馬(年 齢・身幹・牡牝に種別化して合否記載)車輌(二輪又は四輪の人乗馬や荷馬車)並びに属具の員数に関する調査・報告を規 定したものである。ただし,府県の調査・報告範囲は都区段階であり,調査・報告の精密さに欠けることがあった。 (8)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(3)一西南戦争までの戦時会計経理制度−」北海道教育大学紀 要(人文科学・社会科学編)第56巻第1号,2005年8月,参照。なお,1876年陸軍戦時費用区分概則を含め,注(1)の拙稿で 示した1886年「出師準備書 会計ノ部」中の「師団諸費予算表」においては「囚虜費」が費目化されていたが,「明治二十. 三年度出師準備調査及報告規例」中の「野戦師団諸費予算表」では費目化されていない。. 50.

(14) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). (9)前掲 〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1890年12月軍第396号所収。 (1¢)前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治二十三年自一月至六月 大日記 参謀本部』参天第319号第1所収。参謀本部は戦時の動 員を基準にした近衛及び各師団の人馬の整備集約状況を摘録し概見するために「旧師準備人馬概見表」を調製し,作成計画 の参考に供することにした。すなわち,参謀総長焼仁親王は1890年6月23日付をもって陸軍大臣に1890年度各師団出師準備 人馬概見表の調製を協議した。その際,参謀総長は「今ヤ諸兵年ヲ逐テ増殖シ兵器材料之レニ伴テ填実シ野戦師団殆ント整 備ノ域二臨ミ野戦予備隊モ亦大小之レヲ編成スルヲ待ルニ至レリ」と師団体制・出師準備体制の整備を述べたが,「壇眉ノ. 顧慮」すべきものとして「幹部ノ欠乏」と「徴発馬匹ノ不確実」があると強調した。特に現在の馬匹調査方法の不完全によっ て合格馬が所要数を充たさず,過半数が軍用に不適当であることが演習結果からしても判然しているので,前年来協議の馬 匹の徴発方法の規定化をすすめてほしいと協議した。ここで参謀総長の前年来協議の馬匹徴発方法の規定化とは,出師準備. に向けた徴発令中改正及び徴発事務条例中改正にかかわるものであった。 (川 前掲 〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1890年9月総軍第212号所収。1882年徴発令の制定を基本にした徴発制度につ いては,拙稿「近代日本における徴発制度の成立」北海道教育大学函館人文学会編『人文論究』第78号,2009年3月,参照。 その後,内閣報告書取調委員会(委員長田中光顕)による陸海軍両省主任官との協議を経て修正された徴発物件表様式の報 告(1886年1月22日)にもとづき,陸海軍内大臣と内務大臣の連署によって1896年3月15日に徴発令中及び徴発事務条例中 改正の閣議講議がなされた。これは徴発事務条例中第22,23条の削除等により郡区長の徴発物件表調製の手続等を簡便にし たが,①「人夫」については駅伝のみの解釈による調査は非常の需要を欠くことがあるので,その範囲を広げて「農夫漁夫 挽夫日雇人足等総力業二従事スル者ノ概数」を記載する(附録第3号の1),②従前の府県知事調製の「徴発物件概覧表」 から牛・馬・車輌及び玄米・大小麦・塩・醤油等の記載を分離した徴発物件表(附録第3号の2は牛・馬 〈乗馬・馬車馬・ 駄馬・耕馬〉・車輌〈馬車・荷馬車・人力車・荷車・牛車〉 の内訳を細分化し,附録第3号の3は玄米・大小麦・塩・醤油 等を記載)を調製・碇出する,③従前の町村戸長役場調製・碇出の「西洋形船舶表」と「日本形船舶表」は,府県調製・提 出の西洋形船舶を基本にした「船舶表」「汽船表」(附録第5号の1,2,3)の記載にする,としたものである。以上の三 大臣連署の閣議講読は法制局審査において徴発事務条例中改正として扱われ,かつ,勅令ではなく閣令として公布すると審 査され,閣議決定を経て5月14日に閣令第11号によって改正が公布された(国立公文書館所蔵『公文類衆』第10編12巻,兵. 制門一兵制総,第4件,第6件上所収)。しかるに,その後,大山巌陸軍大臣は1889年3月8日付で徴発事務条例中改正に 関する閣議案・勅令案・理由書を起案して海軍大臣と内務大臣に協議した。陸軍省起案の閣議案等によれば,①上記1886年 閣令第11号による府県からの報告にもとづいて3ケ年間徴発物件表を編纂してきたが,各府県からの材料報告は簡略に失し て精密な徴発物件表を編纂できず,各師団はやむをえず直接に府県に照会し,府県は調査手数を増加させるに至り,府県と 師団双方が不便になっている,②現行の馬匹徴発は戦時・事変には施行し難い面があるので,馬匹や車輌等の差出しについ ては戦時・事変に際しては郡区外所要地に輸送を命ずる(徴発事務条例第39条に増設),③附録第3号の1の徴発物件表の 表区画改正として「市町村」の表区画の下に「管轄町村又ハ旧町村」の区画を設けた理由は,特に同年4月からの市制町村 制施行を迎え,数十の連合戸長役場を合併して一つの町村になるのもあり,その結果,山間僻地や人家稀少の村落において は一町村の管轄が4,5里になって宿舎又は所要器具材料等の徴発が困難になるので,旧町村名を記載して散点村落を把捉 することにある,④附録第3号の2の午・馬・車輌の表区画は不完全のために出師準備に支障を米たすので,馬匹の乗馬・ 馬車馬・駄馬・耕馬についてはさらに牡・牝毎の合格・不合格の区別を記載し,車輌の馬車・荷馬車についてはさらに各々 1頭曳・2頭曳の区別を記載する,等とされている。これに対して海軍省は異存なしの回答を発したが,松方正義内務大臣 は7月18日付で陸軍大臣宛に,特に附録第3号の徴発物件表の旧町村の細別区画に対しては,①市町村事務の繁忙化(市制 町村制の実施,府県会議員選挙の調査,衆議院議員選拳法実行等)があるなかでさらに調査手数を増加させることになり(東 京市の例では旧町村は1,300余を下らず,他の市でも旧町村は数十になる),また,一町村の管轄が4,5里の場合の山村僻 地では実際の徴発は稀であるので,lR町村の細別記載は必要でなく,②徴発物件表なるものは,表面の数字をみて直ちに物 件の有無を確知できるものでなくて唯その梗概を察する手段にすぎないので,毎年の調査を廃して4∼3年毎に1回の調査 にすべきことを協議したいとして回答した。内務大臣の回答・協議に対しては,大山陸軍大臣は9月10付で,徴発物件表の 市町村区画については東京・京都・大阪の3市では市内の各区の記載に止めて,他市町村では旧町村細別区画を設けるが, 3ケ年毎の調査にしたいとさらに協議した。以上の陸軍大臣の再協議に対しては,山県有朋内務大臣は10月29日付で,現在. の市町村は旧町村合併が多いが従前の戸長役場組合のような戸長事務上の都合による連合ではなく法律上一個人の団体であ るので,散点村落をかかえる町村に限り旧町村の細別区画は同意するが,東京・京都・大阪の3市以外の「連槍櫛比セル」. 人家連続の市町村における旧町村細別区画は不要であると回答した。 (1錮瑚14)前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1890年9月総軍第212号所収。 (15)国立公文書館所蔵『公文類衆』第14編19巻,兵制門一兵制総,第9件所収。 (16)前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1890年12月軍第369号所収。. 51.

(15) 遠 藤 芳 信 (17)前掲〈陸軍省大日記〉中『明治二十三年自一月至六月 大日記 参謀本部』参天第319号第1号所収。なお,参謀総長は1891 年6月5日付で陸軍大臣と監軍に「陸軍団隊出師準備人馬概見表」を送付した(前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治二十四年自 一月至十二月 大口記 参謀本部』参地第191号第1所収)。本表が防衛研究所所蔵 〈中央軍事行政 編制〉 中『明治二十四 年度陸軍団隊出師準備人馬概見表』である。それによれば,1891年度の近衛及び第1∼6師団・対馬警備隊・要塞砲兵・屯. 田兵の5月1日現在調査・報告にもとづく戦時の人馬動員に関する定員総員と欠員は下記の通りである。人員定員総計は 185,302(4,360)人で内訳は将校4,025(1,551),下士9,780(1,300),卒161,363・予備徴員10,134(1,509)とされ,馬数 総計は40,755(旦墜)頭で内訳は乗馬3,511〈4,369〉(841),娩馬1,100〈1,140〉(110),駄馬1,281〈29,354〉 とされている (()内は欠員であり,下線部は来観馬合計の欠員,〈 〉 内は徴発馬匹数)。なお,徴発馬匹中来観馬の不足は駄馬より 撰用する見込みとした。1888年7月輔重兵操典は駄馬編制を輔重・運輸の基本にし,動員に必要な駄馬の大半は徴発馬匹よ. り充足されることになる。 (咽 前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1889年2月総参第12号,同『弐大日記』乾,1889年3月総総第121号,所収。 (1功 野外要務令は1891年,1900年,1907年の改正を経て,1914年に陣中要務令と改称された。1889年野外要務令草案の篇構成 は,ドイツ陸軍卿シュレンドルフ原著・陸軍少佐メッケル補訂『参謀服務要領』(1884年)の「後編 戦時ノ部」(1885年, 陸軍大学校教授歩兵中佐大島貞恭訳,陸軍大学校講本として刊行。全9巻に区分され,主に,戦闘序列・兵隊区分,軍隊戦 時編制,戦時局務,行軍,休憩・宿舎,給養,軍美保全,偵察,作戦中参謀官特務,を記述)を基本的に参照し,さらに同 書の「前篇 平時ノ部」の第6巻の「野外演習」を組み入れたとみてよい。なお,防衛研究所所蔵・参謀本部編『参謀本部 歴史草案 〈資料卜二∼卜四〉』(1889∼1891年)には2月8日の参軍の指示として,①『陣中軌典審査会議々別」(会議での 委員の意見は各個別に委員長に陳述し,特別の場合を除き委員相互に「問答談論」すべきでなく,議事の可否は委員長が裁 決する),②「陣中軌典草案審査委員へ与フ訓令」(陣中軌典の制定は陸軍の創始事業であり,日本陸軍の「軍事進歩ノ程度」 を考慮し「欧州強国ノ制ヲ参酌シ」て起草したが,条例・規則や編成に関する既成のものはつとめて存続させること)が収. 録されている。 餉 前掲 〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』坤,1889年9月総参第114号所月‰. 帥1889年野外要務令草案の本文目次大要は,目次 綱領 第1部 陣中勤務 第1篇 戦闘序列 軍隊区分 第2篇 司令 部卜軍隊トノ連繋(命令 通報 報告 詳報 掌図 略図 陣中日誌 命令及報告ノ伝達 通信ノ通則)第3篇 捜索勤務 第4篇 警戒勤務(通則 行軍 前哨)第5篇 行軍 第6篇 宿営(要領 舎営 村落露営 露営)第7篇 行李 弾薬 縦列 輔重 第8篇 給養 第9篇 衛生(隊附衛生勤務ノ人員及材料 衛生部 駐留舎営ノ勤務 行軍中ノ勤務 戦闘中 及戦闘後ノ勤務 篤志看護者 中立ノ徽章)第10篇 弾薬補充(通則 歩兵 騎兵及工兵 砲兵)第11篇 鉄道 電信(鉄 道ノ輸送 鉄道及電線ノ破壊)第12篇 憲兵 第2部 秋季演習 第1篇 一般ノ要領 第2篇 演習ノ結構(通則 対抗 演習 仮設敵演習)第3篇 演習ノ実施(要領 演習ノ経過 講評 宿営 再興)第4篇 審判 第5篇 工兵隊 野戦電 信隊 大小架橋縦列 大小行李 第6篇 雑則(危害ノ予防及損害ノ賠償 平時行李),である。漢数字をアラビア数字に 改めた。()内は章構成。 ㈹ 徴発令は拙稿「近代日本における徴発制度の成立」北海道教育大学函館人文学会編『人文論究』第78号,2009年3月,参. 照。 餉 前掲 〈陸軍省人日記〉 中『弐人日記』坤,1891年8月参第68号所収。 錮国立国会図書館憲政資料室所蔵『樺山資紀関係文書(第二次受入分)』には「戦時編制書草案」(1891年10月活版印刷)が 収録されているが,参謀本部では文書としての戦時編制をすでに1891年段階で調査・起草していた。これらについては次稿 で述べる。. 錮 日本史籍協会編『職仁親王日記 五』499,500,524,534,537頁1976年,東京大学出版会,原本は1936年。宮内庁臨時 帝室編修局編修『明治天皇紀 第七』883頁,1972年,吉川弘文館,参照。 佃 野外要務令草案改正については,野外要務令改正委員長の歩兵少佐田村悟与造が7月11日付付で特に戦線における歩兵弾. 薬補給法の細部について意見を碇出した。同意見は現行の「1駄3箱制」の不利として,①1箱運搬中の2名兵卒中の1名 が流弾で死傷した場合には弾薬運搬が大きく遅延する,②戦線(火線)で弾薬箱を開くことは当を待ず,空箱送還に人と時 間を費やす,③戦線後方所在の駄馬は空箱送還を待つための時間空費を生み,弾薬縦列までの積載・卸脱が遅緩する,こと. を示した。そして,改正考案として,①1箱に入れる弾薬を4個に分けて結束し,1結束は約200発にして兵卒1名が2結 束を携行運搬する,②4結束入りの箱の2個(1箱は計800発)を1馬に駄戟し,その箱は馬背から卸さずして開くことが できるようし,1駄の弾薬を4名の兵卒が各自2結束を戦線に運搬し,空箱の駄馬は直ちに弾薬縦列に戻る,という「1駄 2箱制」を示した。しかし,「1駄2箱制」は兵卒人員を倍化しなければならないとした。なお,将来,歩兵弾薬縦列の全 部又は一部が車輌編制になった場合の「1駄2箱制」の有効性を顧慮すべきであるが,その時にも「/ト行李ノ弾薬マデモ車 輌ヲ以テ運搬スルコトハ我国ノ地形二於テハ到底為シ能ハサル所ナリ」と,国内の運搬・輔重体制における駄馬編制の基本. 52.

(16) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(11). は残るという見解を示した。そして,結論として,①弾薬箱の弾薬は兵卒の搬送に便なるようにあらかじめ結束しておくこ と,②今後に新造する弾薬箱は「1駄2箱制」に改良することを述べた。その後,田村委員長の意見は砲兵会議の議題とし. て碇出されたが,①は可とされ,②の「1駄2箱制」は実験を経なければならないという審議報告が出た(9月9R)。こ れにより,陸軍省と参謀本部も砲兵会議の審議報告を支持し,野外要務令の歩兵弾薬補充法が修正され,翌1892年5月陸軍 省送乙第875号は箱内の実砲を150発分2梱と100発分2梱にして負条2個を追加することを通牒した(前掲〈陸軍省大日記〉 中『明治二十四年自一月至十二月 大日記 参謀本部』参天第272号,同『弐大日記』坤,1892年5月参第51号,所収)。 帥1891年12月の野外要務令制定時点では兵端勤務令は草案の起草・脱稿中であった(防衛研究所図書館所蔵〈中央軍隊教育 典範各令各種〉 中『明治二十四年四月改正 兵端勤務令草案 第二回』参照)。兵端勤務令の起草・起案・制定等について. は別稿が用意されなければならない。 ㈹ 前掲〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1888年10月総総第666号所収。 餉国立公文書館所蔵 〈公文別録〉 中『未決並廃案書類』(1887年∼1915年,内務省・大蔵省・陸軍省・海軍省・逓信省)第 2巻,第15件所収。. 郎)国立公文書館所蔵『枢密院会議筆記』(会計法完),. 1888年,所収。. 帥卵錮 前掲『公文類衆』第14編39巻,財政門三財政給三,第8件所収。 錮 陸軍省勅令案「陸軍兵備物品会計規則案」の第7条起案は,会計法規定の出納官吏に対する「身元保証金」納付義務を陸 軍に限り不用とし,陸軍省所管会計管理の独善的特権化を執拗に画策していた。第一に,1889年6月11日付で陸軍人臣人山 巌は軍人に限り身元保証金納付義務除外を大蔵大臣に協議した。しかし,大蔵大臣松方正義は12月23日付で認められない旨 の回答を発した(前掲 〈陸軍省大日記〉 中『弐大日記』乾,1890年3月総会第130号所収)。他方,松方大蔵大臣は会計法第 28条(現金又は物品の出納官吏の身元保証金の納付要綱は勅令で制定する)にもとづく勅令案(「出納官吏身元保証金ノ件」,. 全6条)を起案して12月17日付で閣議に碇出した。同勅令案は12月26日の閣議で決定され,翌1890年1月18日に勅令第4号 として制定公布された。すなわち,同勅令は第1条で,1年間に金額500円以上又は常時保管物品の価格1,000円以上を扱う 出納官吏に身元保証金納付を義務づけたのである。しかるに,大山陸軍大臣は同閣議決定日の12月26日付で,(手軍人は,自 己の本分遂行にあたり一身の生計や私行動作は上司の制裁・監視をうけているので(不正はありえず)他の普通官吏と同一 視できない,②軍隊内部では各隊金権条例(1886年陸軍省令乙第20号)により大隊毎に委員を編成して委員会同のもとに金 権開閉をするという連帯責任制をとっている,③フランスの陸軍会計法でも会計官の集合体組成のもとに連帯責任制をとっ ていると述べ,身元保証金免除を求めて閣議を講読した。これに対して,法制局は1890年2月28日の閣議に,会計法は官職 身分の如何を問わずに出納官吏の分限を規定したものであり,軍人であっても出納官吏の資格上は普通官吏と異ならず,軍 隊内部の金権の取扱い事務を規定した各隊金権条例によって出納官吏の資格を推論できず,陸軍省の閣議講読は認められな いという審査報告を碇出した。同審査報告は同日の閣議で決定され(海軍大臣も同様趣旨の閣議を1890年1月18日付で講読 したが認可されず),3月14日に不認可が陸海軍省に通牒された(前掲『公文類衆』第14編39巻,財政門二財政総二,第38, 39件所収)。そのため,陸軍省は急遽3月26日に陸達第46号を制定し,会計法第15条第2項(軍隊軍艦及び官船に属する経費) にもとづき陸軍大臣から常時現金前渡しを受ける有資格者として,歩・騎・砲・工・蛸重兵の各隊及び警備隊の隊付軍吏他 10種の官吏を指定した。さらに,翌1891年3月11日に勅令第22号の陸軍兵備品会計規則(全10条)が制定された。それによ れば,陸軍兵備品は,「出師準備品」(兵器弾薬・各兵器具材料,秘密図書,馬匹及び戦時に要する器具,戦用糧林・炊柴具, 戦用被服・裁縫具,戦用衛生材料,戦用獣医材料,戦用天幕,陣中事務用品)と「通常兵備品」(図書,糧株,被服・裁縫具, 衛生材料,獣医材料,兵営備付陣営具)に区分された(第1∼3条)。ここで,出師準備品(会計検査非適用)の品目数量 は陸軍大臣と参謀総長の協議により上裁を経て規定する(第4条),出師準備品の保存を「全力ラシムル為メ通常兵備品卜 新陳交換スルヲ例トス」(第5条)とされた。また,通常兵備品の会計は1889年物品会計規則に依ると規定された(第9条)。. 第「に,1891年4月21日付で陸軍大臣大山巌は,上記の陸軍兵備品会計規則の第9条中に,通常兵備品の会計は1890年勅令 第4号の身元保証金の納付除外化の文言を加えたいとして閣議を講読した(閣議講読の理由は上記1889年12月26日付の閣議 講読とほぼ同趣旨)。これについては,大蔵省も賛成し,法制局は上記2月28日の閣議への審査報告の趣旨を廃棄し,逆に「兵 備品ノ出納ハ特殊ノ取扱法二拠ルモノニシテ」と陸軍省碇案を支持し,1890年勅令第4号第1条に「但兵備品ノ出納ヲ取扱 フ武官ハ本条ノ限ニアラス」という但書きを追加する改正案を閣議に提出し決定された(6月3日勅令第51号,前掲『公文 類衆』第15編15巻,財政門一会計一物品会計,第38件所収)。なお,1891年陸軍兵備品会計規則中の通常兵備品は会計検査 を逃れるべく「戦用00」と称するなどして,出師準備品との混同を生じさせるようなあいまいさ発生の可能性を残した。 以上の出師準備品の会計管理を含む陸軍省所管の歳入歳出の経費不合規(不当支出,法律・勅令違背)は,会計検査院検査 報告(1891年度から1901年度まで,臨時軍事費特別会計を含む)を収録した会計検査院長官房調査科編纂『検査報告集 第 一輯』(1935年)に掲載されている。その他,会計検査院事務総長官房総務課編『会計検査院八十年史』144頁,1960年,等. 参照。. 53.

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