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W.v.フンボルトにおけるプロイセン憲法構想と教育改革

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Academic year: 2021

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(1)Title. W.v.フンボルトにおけるプロイセン憲法構想と教育改革. Author(s). 大崎, 功雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 32(2): 31-46. Issue Date. 1982-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4875. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . W. v . フ ン ボ ル トに お け る プ ロ イ セ ン 憲 法 構 想. と教育改革. 大. 崎. 功. 雄. は じめ に. プロイセン教育改革初期( 1 8 0 9年)にその最高責任を担っ た W. v .フンボルトは, プロイセン憲法作 成作業の責任者でもあっ た( 1 1 8 9年) . フランス革命期の M.コン ドルセがそう であっ たように, 改革 の推進者たちは, 国家改革と教育改革を統一さ れた課題とみなしていたのである. もとより, フン ボルトにおける国家改革と教育改革の切り開く 地平はコン ドルセにおけるそれとは質的に異なるも のではあるが, 共に通じる教育と政治の同時性は教育をめ ぐる人権の論理と主権の論理の相互浸透 を示唆するものでもある。 プロイセン教育改革は, フランス革命の影響を受けた近代的教育理念を=朝台する改革の展開故に 教育史上重視されてきたの でもあるが, 国家的制度としての教育の改革という面から把握するなら ば, 国家改革と教育改革の同時性に着意しての教育制度化の論理が検討されるべきであろう 教育 . 改革を国家的枠組みにおいて理解しようとするならば, 改革期 ドイ ツにおける立憲主義の地平にお いて, その論理の構造から, あり得る教育改革 の大枠と筋道が解明される必要があろう . こうした問題の立て方・接近の仕方には, 優れて人権論の体系内で把握されるべき近代の教育改 革もそれが現実に展開するための制度的 (ある意味 では国家権力上の) 保 障な しには単なる理念 に終ら ざるを得ず, それ故, この時期の教育改革もそれが改革となり 得る上での不可欠の要件とし て国家制度上の原理的改革を展望したの であり, したがっ て, 対象それ自体は国家構成の原理ある いは主権論的体系からのアプローチを必須としている, という筆者の問題意識が基底にある. 教育 改革の内包する論理の水準は国民の政治生活に含まれ又それを規定する論理の水準を抜きには語る こ と が でき な いか ら であ る.. かかる展望の中で, 本稿は, フンボルトの憲法構想に焦点をあて, その内包する国家改革の論理 が教育改革をどのように包摂し得たか, あるいは前者が後者に如何なる条件を付与し得たかを明ら かにするもの である. にもかかわらず, ドイツ各邦はもちろんプロイセンにおける立憲主義の多様な内容を十分に比較 吟味することは為し得ていない. 又, フンボルトその人を取り上げても, 彼の国家思想の展開, と りわけフランス革命直後の国家思想とプロイセン改革期以降のそれとの相違と関連については捨象 している, それ故, 本稿は三月前 ドイツ就中プロイ セン改革期における教育改革を検討するための, 先に触れた限りでの問題意識における, ささやかな研究ノートである.. 31.

(3) . 大. 崎. 功. 雄. プロイセンにおける立憲主義の動き 1 8 0 6年に名実ともに廃止) に 代 る ライ ヒ ナ ポレ オ ン 侵 略 後 に 始 ま る ドイ ツ の 近 代 化 は 神 聖 ロ ー マ 帝 国 (. 92年, フランス軍がライン河を 越え ド としての ドイツ統一と各邦における近代化を課題とした. 17 803年の ドイツ帝国代表者会議において陪臣化が進め イツに侵入した時点で300を数えた諸邦は,1 806年のライ ン同盟により, ドイツはプロイセ られ, ライ ン右岸で112の帝国等族が整理された. 1 ン, オーストリアそ してライン同盟へと三極分解したが, 逆に ドイツ統一の気運は盛り 上がった. 8 15年6月)は ドイ ツ の 統 一 し 18 14年9月~1 解 放 戦 争 を 経 て 戦 後 処 理 の た め に 開 か れ た ウィ ー ン 会 議 (. た主権を形成することには成功せず君主-都市の連合としての ドイツ同盟を結成した, 参加国は プ 1 } ロイ セ ン, オ ー ス ト リ ア も 含 め て 41 の 君 主 と 都 市 であ っ た( .. ” )の連合を意味し, とりわけ t t )ではなく, ゆるやかな国家(≠ ドイツ同盟は同盟国家(Bundes s aa オ ー ス トリ ア と プ ロイ セ ン に 有 利 に 構 成 さ れ た. イ ギリ ス, オ ラ ン ダ, デ ン マ ー ク の 君 主 が そ れ ぞ れハ ノ ー フ ァ ー, ル ク セ ン ブ ル ク, ホ ル シ ュ タ イ ン を 通 じて 加 盟 す る と い う 変 則 的 な 内 容 も 有 し て. いた. 同盟はフランクフ ルトに同盟議会を置き, オーストリアが議長国となり, 邦の大きさに応じ た票決権が決められた不平等な国家連合 であっ た. i t and s cheVerfassung) が 行 な 同盟規約第1 3条は 「すべての加盟国では等族議会的憲法 (Lands 2 ( }と定め 加盟国における憲法制定をゆるやかに 促している ここにおける Land‐ われるであろう」 , , t andeは 「等族会議」 とも 「国民代表制議会」 とも解せるが, むしろその性格は各加盟国政府の決 s 3 ) ともかく 極めて不十分な形式にお 定に委ねるところに同盟規約の真意があったと言われ ている{ , . いてではあるが, ドイツ各邦の立憲主義の方向が打ち出さ れたのである, f r ‐ as さて, プロイセンにおける立憲主義の動きは公式的には1810年の国王による「憲法確約(Ve sungsversprechen)」 に 始 ま る. 同 年 10 月 27 日の「国家財政と祖税の新編成に関する勅令」(ぃわゆ tvon ハ ル デ ン ベ ル ク は 国 王 か ら 次 の よ う な る「財政勅令」 , 第一次憲法確約) に お い て, 宰 相 K.A.Furs. 国民代表の考えを引き出すことに成功している. i t t as )を, 州におけると同様国家全体のためにも与え, r en a on 「朕は, 国民に対し, 適切に整備された代議制(Rep 4 } その助言をよろこんで役立てるであろう」( . ional ‐ ‐Versammlung) で は な く 「国 民 代 表(Nat こ の 当 時 ハ ル デ ン ベ ル ク は 身 分 議 会(Stande ion)」 を 考 え て お り, 代 議 制 へ の 過 渡 的 措 置 と し て 1811 年 2 月 23 日, ベ ルリ ン に 「名 reprasentat i ) を召 t ung r eルVe r s amml e 士会議(Notabeln‐Versammlung)」 (公式名称 「地方代表者会議」(Landesdeput. 集する. この会議はハルデンベ ルクの意図通りには 進まず9月16日に閉会するが, 彼は11年9月 ional i i imi ‐ t t e r s s che Nat 3条で「仮国民代表会議( n 7 日の「国家財政と課税制度に関する勅令」第1 4年2月 21 i 0日と1 t t )」 を命じさせることに成功した. 仮国民代表会議は12年4月1 ras r ep en a on 日の二度にわたっ て開かれ, 立法権を含む広範な要求をなし, 国王に迫っている. ウィ ーン会議以前における議会制論議は旧等族会議の復活か国 民代表の創造かに 分かれていた が, 少なくともこの時期にはハルデンベルクも含めて国民代表の考えが力 を得ていた. 憲 法制 定 へ の 第 二の 動 き は, 1815年 5 月 22 日 の 「形 成 さ れ るべ き 人 民代 表 に 関 す る 勅 令 ldende Reprasentation des Vo ks l )」(第二次憲法確約) を機に始まる. e zu bi (Verordnung uberdi これはウィ ーン会議の動きとも関連し, この後の プロイ センにおける憲法制 定の動きを基本的に枠 付ける性格を有しているものとして重要である. 条文を訳出すると 32.

(4) . フンボルトのプロイセン憲法構想と教育改革. 「 S1, 人民の代表が形成されるべきこと. S2. この目的のために, a) 州等族議会があって多少とも活動しているところでは それが再建され 時代の , , 必要に応じて整備されなければならない 州等族議会が現存していないところでは それが設置されなければ . ,. な ら ない. S3, 州等族議会から全国代表会議 ( d i eVersammlungderLandes ‐Reprasentanten) が選 ばれ, ベ ルリ ンに そ. の本部を置くこと, S4. 全国代表の活動は, 課税も含めて、 公民の人格権および所有権に関する立法のすべての事項に及ぶ . i S5, 識見の高い官吏および州民(E i nge s e s s enederPr ) から成る委員会を即刻ベルリンに設けるべきこ ov nzen と。. S6. この委員会は, a)州等族議会の編成, b) 全国代表の編成, c)定められた諸原則に従い憲法典の作 成に, 従事すべきものとする, S7. 委員会は本年9月 1日に 開 か れるべ きこ と. S8. 朕が宰相はこの命令の実施を委任され, 委員会の成果を朕に提出しなければならない 宰相は委員会の構成 , 5 〉 員を指名し委員会の議長となる, 但し支障のある場合には代理者を任ずることができる」{ .. ここに重要な論点が示された.すなわち,この勅令は国会(全国代表会議)選挙を州等族議会(Prov i n ‐ i l t ande )を基礎とす る間接選挙に限定する方向を示したのである したがって 基礎となる州等 z a s . , 族議会を身分制 的な等族の会議として復活す るのかあるいは国民代表として編成する のかという 問題が改めて議論されることとなり, 又, 設けられるべき国会を州等族議会からではなく市町村自 治体の選挙民から直接選ぶとする方向での改革は大きく制約されることとなっ た この国王の第二 . 次選挙確約は 「国民代表」 構想に大きな制約を加 えたものであり, ハルデンベルク自身の軌道修正 をも意味した. カビネツトオーダー この勅令で約された委員会は即刻には設置されなかっ た.1 81 7年3月 20 日の 勅 令 により枢密院 t t t (S ) がはじめて召 集されて憲法問題が再び論議さ れるという状況を契機に, 5月 30 日 ra aa s カビネットオーダー の 勅 令 によって再び委員会が約され, 7月 7 日 に な っ て 「憲 法 委員 会 (Verfassungskommi ion)」 ss (ハルデンベルクを議長とする2 2名の委員で構成)と し て召 集 さ れ た, 憲 法 委員 会 は わ ず か 一 度 しか 召 集 さ れなか っ た が, こ こ に フ ン ボ ル ト が 委 員 と し て 公 式 に 登 場 す る こ と と な っ た こ の 後 17 年 10 月 の , ,. ブルシェ ンシャフトの ヴァ ルトブルク祭を契機とする政治 弾圧の強化 あるいは憲法委員会内の対 , 立から憲法作成は棚上になりハルデンベルクの手に残さ れたままとなった . 1819年1月, 内閣改造によって第四次ハルデンベルク内閣が誕生する フンボルトは新たに設け . i i られた憲法問題担当大臣 (Mi t ten) に 任 命 さ れた (1月11日) sche Angel n egenhe s e rfur standi が, 彼が実際ベルリンに招かれるのは同年7月のことであっ た . これより少し前, ハルデンベ ルクは憲法私案を国王に提出し早急の裁可を得ようとしていた (3 月) , 国王は同年7月 3 日, ハルデンベルク案を確定することにはちゅうちょ しながらも, 同案を重 要な素案として審議する憲法小委員会 (Ve f r a s sung saus s chuβ) の設置を命じた. 小委員会はハ ル デンベ ルクを議長, フンボルトを参与とする6人のメン バー で構成された フンボルトがはじめて . 6 ) ベ ルリ ン 行き の訓 令 を 受 け る の は こ の よ う な い き さ つ か ら であ っ た( .. ハルデンベ ルクのこのような画策は,シュタインーフンボルトの憲法構想とりわけ彼らの内閣(枢 密院) に関する位置づけと自らのそれとが著しく異なるため, フンボルトが活動を開始する以前に 自らの路線を固めておこうとする意図からであった. 宰相の権限を縮少し, 内閣合議制・責任内閣 制を主張するシュ タイ ンーフンボルトの方向を拒否し, 宰相の地位強化と全国代表の間接選挙によ る設置の方向での憲法制定を企図するハ ルデンベルクの強引なやり 方であっ た これについては , , ハルデンベ ルクの権力欲から出たとする評価が多いが,彼の人格面への評価は別として 当時の反動 , 化しつつある情勢の中 で自由主義的憲法構想を一方 では排除し保守層と妥協して でもとりあえず憲 33.

(5) . 大 崎 功 雄. 法制定を急く ハルデンベ ルクの戦略とも受けとれる. ともかく, 憲法小委員会はその権限を1815年 5月 22 日の国王の憲法確約の範囲内に限定され発足することとなっ た. 時あたかも, ブルシェンシャフトの急進主義的テロリ ズムを契機に自由主義者や民主々義者への バ 1 9年9月20日) 取 り 締 ま り 弾 圧 も 厳 しく な り, カ ー ル ス バ ー ド 決議 へ と 進 ん で い っ た( . カ ー ルス ー. ド決議をめ ぐって プロイセン内閣は 不統一を来たし, ハルデンベ ルクの策も あって, リベラルな方 法 を 意 図 す る フ ン ボ ル ト, K.F.v , バイ 〆, H.v . ボイ エ ン は 閣 外 追 放 と な る. 翌 年 1 月 1 日, フ ン. ボルトは免職となり, 政敵追放後のハルデンベ ルクはひとり保 守貴族層の攻撃にさらされることと なる. フンボルトの追放によ っ て, プロイセン 立憲主義の動きには事実 上終止符が打たれたの で ある. 以 後, ハ ル デ ン ベ ル ク は 1820 年 1月 17 日 の 「国 債 法 (Staatenschuldengesetz)」 に お い て 「国 家 i tand 」 を将来設置させる約束を国王から取り付ける (第三次憲法確約) が, 国王 等 族 議 会 (Re chss. は微温的なハルデンベ ルクの方向をも恐れ超保守勢力の意向を受け入れていくこととなる, フンボ ルト追放後再建された憲法委員会は皇太子を座長とし, その周囲に W. L G. FUrstzu ヴィ ト ゲ ン iner ) シ ュ タイ ン, シ ュ ッ ク マ ン ら 超 保 守 勢 力 が 結 集 し, ハ ル デン ベ ル ク は ジ ャ コ バ ン 主 義 者(jakob. カビネツトオーダー. と中傷され完全に孤立する. 結局保守反動層の動きが功を奏し, 国王は1821年6月11日の 勅 令 に より, 改革は州等族議会設置に限られる旨決定する.. i t ande国会のこと……筆者) の召集についての詳細は, 時と経験と事柄の発 「一般的等族議会 ( neLands angeme 7 } 」( 慮に委ねられるものとする 展および朕が国父としての配 . 1822 年 11月 26 日, ハ ルデンベ ルクはイタリアのジェ ノア で死去. プロイセン改革は名実ともに. 終了する. 1823年6月 5 日, 国王は 「プロイセン王国における州等族議会設置法」 を発し, 改革期 プロイセンにおける憲 法問題にはけりがつけられる.. 1 1. フ ンボルトの ドイツ同盟構想 フンボルトは プロイセン憲法を構想する前提的問題, すなわち ドイツ全体の統一に対しては如何 なる展望を有していたであろうか. 外交官であり政治家であるフンボルト自身, ハ ルデンベ ルクの片 腕としてウィ ーン会議でドイツ 同盟成立に尽力している. その手腕はフランス代表タレイランをしてヨーロ ッパに三, 四人居るか 居ないかの政治家の 一人と評させたほどである. 813年12月, 「ドイツ憲法覚書」をv フンボルトは既に1 .シュ タイ ンあてに著している. これは ド イ ツ全体の統一に関するフンボルトの基本的立場を明示するもの で, 後の ドイツ同盟の骨格との関 係からも興味深い. フンボルトの 基本的立場は 「自由で強力な ドイツ」 の形成であった. 「ドイツは自由で強力でなければならない. それは, 単に後者 (フランスのこと……筆者) ないしかの隣人あるい は一般にすべての敵から身を守ることができるためにだけではなく, 対外的に強力な国民が、 すべての祝福が内部 8 ) に向けて流れ込むような精神を自らの内に維持するためにである」( .. 自由で強力な ドイ ツの 形成は一つの全体と しての ドイ ツを形成すること である. 「ドイツの比較的小さな君主達は支えを必要とし, 比較的大きな君主達は依存を必要としている. プロイセンや オーストリアでさえも, より大きな, そして一般的に受け入れられる, より重要な, 全体の一部としてみなされる ことを有益としている. …… ドイツが一つの全体を形成するという感情は, ドィツ人の胸から抹殺されないである 34.

(6) . フンボルトのプロイセン憲法構想と教育改革. う. それは単に習慣, 言語そして文学の共同態 (Geme i i t )に依存しているだけでなく………共同の同志的 n s amke 権利と自由, 共同して闘い取った栄光そして所与の危険に対する記憶に基づいているのであり 祖先が結びつけ , , 9 / 子孫のあこがれの中になお生きている, 緊密な結合の追憶に基づいているのである」{ ,. 明らかにフンボルトの理念的展望は 「一つの国民, 一つの民族, 一つの国家」 としての ドイツで あ っ た.. しかしながら, 外交官ないし政治家フンボ ルトは 「一つの国家」 の形成を 「政治的全体」 の形成 に置換し, 単一の主権をもつ統一国 家の形成を直ちに望むものではなかっ た 彼は単一の主権国 家 . と国家同盟を対比して次のように述べる, やや長いが引用 してみよう . 「政治的全体 [をつくるため……筆者] の二つの結合手段だけがある すなわち 真の憲法体制あるいは単なる同 , . 盟である. 両者の相違 (それ自体ではなく, 現在の目的を規定するところの相違……原文) は 憲法体制にお , いては二・三の部分が強制権を専ら付与されているが, 同盟においてはすべての部分が違反者に対して強制権をも つ, ということに存する. 憲法は明らかに同盟に優っている. それはより厳かで強制的で永続的である ……あら , ゆる憲法は, 単に理論的に編成されたものとしてみなされるものでも 時代・環境・国民的性格の中にその生命力 , の実質的な芽, それはただ発展のみを必要とする芽を見出しているのである. 憲法を純粋に理論と経験の諸原理に 基礎づけようと望むことは, 非常にむずかしいこと である, それゆえ, 実際に永続性のあるすべての憲法というも のは, 形式にこだわらない, 厳密な検討には甚えられない出発点を有していたの であり, したがって 最初から首 , 1 0 } 尾一貫した憲法は存在しないし永続しないであろう」{ .. フンボルトの結論は明らか である. ドイツはいよいよ一つの政治的全体に向っ ているが 単一の , 国家としての実 質的な芽に欠けている. もし現状で単一国 家としての憲法体制を有するならプロイ センやオーストリアの強権の専制となる. 又, 現在単一国家 - 憲法体制を形成するには純粋に理性 的にしか為し得ない が, そういう憲法には永続性が欠け る . 「永続性が保証されてきた憲法は,それらが単に接している時代において確かな形式を見出してきたのであり その , ことは歴史的に証明されてきたとおりである. さてしかし, 我々の時代には, ドイツの憲法にとってその基礎とし て役立ち得るような如何なる形式も全く存在しないのである, むしろ, いわゆるあらゆる憲法 (Cons i i t t t ) u onen は, フランス革命から不快の時代に至るまで繰り逐えされた悲惨さとこわれやすさによって, 当然とも言うべき不 1 1 ) 人気を得てきたのである」( .. 要するに, 統一を支える政治主体 ( 「実質的芽」 ) に欠ける ドイ ツには, それに裏打ちされた 「確 か な 形式」(単に理性的に考えられたものではなく)に 欠 け て い る 神 聖 ロ ー マ 帝 国 と いう 政 治 的 形 式 - ■ . 1 2 )- - しか持ち合わせ て来なか フンボルトはこの旧体制に ドィッの敗北の原因があったととらえるのだが( っ た ドイ ツ に あ っ て は, 単 一 の 主 権 を 形 成 し 得 な い と い う の が フ ン ボ ル トの 判 断 で あ っ た フ ラ ン ス .. 1 3 ) 又~ 帝位によるライ 革命によっ て成立した国民議会を ドイツに適用すること は不可能であっ た( . 1 4 ( ) ヒ復興も望むところ ではなかっ た . かくてフンボルトのとる方向は ドイツ諸邦の連合 -- 国家 , 連合 一一 であっ た. 「……諸国家相互を給合するあらゆる政治的形式の完全な形成は現代に固有なものであり したがって 現在創設 , , i 1 5 すべき国家連合 (St t ) ) は現代の形式によってより確実に結びつけられるであろう」( aa enve r e n ,. かくてフンボルトは極めて政治的な力学を用 いて ドイ ツ同盟を構想する それは まず「防衛同盟」 , , であることを主要な契機 とし, 次のような倫理的でもあ る 「拘束的・保持的原理」 から成り立つ . 「オーストリアとプロイセンの一致;残余の ドイツ諸邦の中で最大邦の利益;オーストリアとプロイ センに対す l る小諸邦の絶対的劣勢 (Unmbg i i t ) およびオーストリアとプロイセンの復興:再び覚醒された国民の精神 chke , 1 6 } 自由と独立によって維持されるべき国民の精神;ロシアとイングランドの保証」( .. フンボルトは自らの政治性を自覚し, さらに続けて次のように述べる . 「確実で, 慣行化し, 決してこわれないオーストリアとプロイセン間の一致と友好が 全構造の要石である この , , 一致は, 一致を欠いた時に連合が維持されないのと同様に,連合によってもほとんど確実にされ得ない 同盟を結ぶ , ために与えられなければならない確実な眼目が同盟の外(ロシアとイングランドのこと……筆者)にあるのである , 同盟は徹頭徹尾政治的なものであるから, それはまた純粋に政治的原理に依拠しているのである」( 1 7 ) . 35.

(7) . 大 崎 功 雄. 1の節に分けて ドイツ同盟の骨格を描いている.最初の6節は同盟の目的・性格を, フ ン ボ ル トは 3 次の11節は同盟国の 「外的国法」 として ドイツの共同防衛の ための軍事同盟と同盟国間の紛争調 停について述べて いる. 第18節から27節までは 「内的国法」 として, 主に等族議会と司法とが述 べ られる, 最後の4節では 「立法」 として, 同盟国間の移動の自由, 大学での研究の自由, 通商条 約の締結などが提唱される. ここで後の プロイセン憲 法構想とかかわっ て重要なのは, 等族議会に関するフンボルトの見解で あ る. 「各君主はその邦内においてあらゆる君主特権を有しているにもかかわらず, 各ドイツ郭内に等族議会が設立ない 8節) し整備されなければならないであろう」 ㈱(第1 ,. その説明と して以下の数行が付されている. i t )への政府の干渉に対する必須の防衛であるばかりでなく, 国 vat r e ch 「よく整 針篇された等族議会は私的権利 r かり結びつけるものである 国民を政府にし 民の間の自立感情を高め, っ . しかも等族議会は, 古い制度であって, 1 8 } ただ近代になってからすたれてしまったり空虚な形式になってしまっているだけなのである」〉 .. この簡潔な定式は, 1) 君主権を制限する方向での議会制構想, 2) 等族議会としての議会制構 想, 3) 等族議会の主たる目的は身分的権益の保証というよりも国民の私的権利保 証にあること, 4) 等族議会は国民の政治参加の道を通じ国家と国民を結合するものであること, 5) 古い等族の 会議制度を例証することにより等族議会設置の妥 当性を主張している点において, 後の プロイセン 1 8 1 5年以前) 憲法構想と基本的性格を同じく するものである. この時期( , ハルデンベ ルクによって国 民代表議会が構 想されているのに対し, フンボルトが「等族議会」0日来の等族会議そのものではないとし ても) を足場にして議会制を構想していることも注目しておかなければならない. フンボルトの ドイ ツ同盟構想は ウィ ーン会議において十分には受け 入れられるもの ではなかっ た.領土分割に汲々 とする各邦君主は自由で強力な ドイツという方向を決して望むものではなかっ た. フンボルトの構 想よりもずっ とゆるやかで無力な ドイツ同盟が生まれることとなった. しかも内政 改革(フンボルトが最も期待したもの“こつ い て は ほ と ん ど 真 剣 に 論 議 さ れ ず に 終 わ っ て し ま っ た の で あ. 815年6月 8 日調印された同盟規約は,その第13条において加盟国における等族議会設立を促 る.1 したが, 「すべての加盟国では等族議会的憲法が行なわれるであろう」 とする規定は, 「各 ドイツ邦 内に等族議会が設立ないし整備さ れなければならないであろう」(傍線はいずれも筆者)としたフンボル トの主張からは後退したものであっ た. もちろん, フンボルトよりも明白に統一 ドイツを志向し, かつ邦等族議会設置を強調するシュ タイ ンの方向からは大幅な後退 であっ た.. 1 1 l. フ ン ボ ル ト の プロ イ セ ン 憲 法 構 想. 1 8 1 7年7 フンボルトは二度にわたっ て プロイ セン憲法構 想を著している. 一つは 憲法委員会召集( 4日) である. 「行政の現況と大臣について」 と題す 月7日) 直後ハルデンベ ルクにあてた書簡 (7月1 1 9 ) 等族議会設置の 必要性に 触れると同時に 主に内閣制度のあり方を問題にするもの で る書簡は( , l t ) の権限強化を地で r e aa skanz あっ た, それは内閣の合議制・一致制を強調するもので, 宰相 (St 行くハルデンベ ルクと対立するシュ タインの路線を示すものであった. 9年2月 4 日シュ タイ ンにあてた覚書き『プロセイ プロイセン憲法構想を詳細に示したものが181 2 0 ( ) ) である. 既に彼は憲法 劃薦について』 (通称『プロィセン憲法覚書』 ン諸邦における等族議会憲法の整 中で, 国王と ベ 彼一流の画策をしている )ハ ルデン ルクが 1月1 1日 問題担当大臣に任命されており( 36.

(8) . フンボルトのプロイ セン憲法構想と教育改革. 書簡を交わし内閣制度についての私見と憲法担当大臣の地位・権限の明確化に努めていた その意味 . で, フンボルトの 『憲法覚書』 は, プロイセン立憲主 義の最後の良心という ことができる . フンボルトの 『覚書』 は丁度フランクフルトに滞在していたシュ タインの協 力のもとになり ま , た駐英大使 ( 1 8 1 7年~1 8年) 直後でもあり, シュ タインとイ ギリ ス憲法から強く影響 を受けたも のと 1 2 } ともあれ 主だ た論者の憲法構想に目を通したフンボ 言われている{ っ ルトが制定されるべきプロ . , イセン憲法の諸論点を整理したものである したがっ て 憲法としての条文の体をなさないが 全 . , , 体の構成は撒密 であり, 当時の年代記作者エンゼ (Varml agenvonEn ) から 「その英知と自由, s e しっかりしだ構成とまとめ方の 点で驚嘆すべき」 と指摘された程である( 2 2 ) 全体は 「等族議会当局 , の目的と職務の範囲」「等族議会当局の形成と活動」「段階的移行」 の三部に分けられ 合計15 7の , 節から構成されている. 1. 憲法の理念. 一般に憲法は人権宣言部分と政治・統治構造の部分からなるが フンボルトの構想は どのような , 人権を想定しているであろうか 全体としてはわずかであるが 以下のような記述からそれを伺う . , こ と が でき る. l k 「 S7. 人民 (Vo ) が憲法を通じて得る保証は二重である すなわち 等族議会の存在とその活動から間接的に . , 生ずるものと憲法 (Con i i t t t ) の一部として憲法によって直接に表明されているものとである s u on , S8. 後者は是非とも以下のことを包含しなければならない 1)法にのみ基づいて取り扱われるという個人の人 . d i l l i 格的保障 ( i he i eindividuel eper s6n t cheS ) 2 3 che ( ) r , 2) 所有権の保障, 3) 良心の自由, 4) 出版の自由」 .. 等族議会の存在とその活動から間接的に得る保証は 後に述べ るように等族議会の権限ともかか , わるものであるが, それも含めて憲法によっ て直接表明される諸権利を背景に考察さ れるべき であ ろう. フンボルトによ れば, プロイセンには出版 の自由を除き前段三つの権利は存在する とされる が, それでも憲法に人権を直接に明示するのは 「人民が犯すべから ざるものとして 原則として法 , , に従うために, 法に由来する権利を犯すべかさ ざる原則として叙述しなけれ ばならない」 からであ る,. 「法に由来する権利」 , 犯すべかさ ざる権利としての窓意排除権・所有権・良心の自由,出版の自 由,いわば自由権的人権,これがフンボルトの考える人権であっ た だがしかし そこには実定法以前 . , の権利, したがっ て法によ って犯すことのできない 法によって保障しなけれ ばならない権利 而- , 西欧型の自然権的 人権 -- の認識は希薄 であり 人権は法の認める権利( 「法に由来する権利」 ) , , いわ ば ドイツ型 「基本権 (Grund t )」 であった. r e ch 問題は, このような人権認識から人権主体としての個人 人権を拡大していく主体としての個人 , が描かれ得るか どうかということ である 論理の単純さ は免れないが ここには法の確定す る範囲 . , 内での活動の自由は認められこそすれ(自由の保障にょる市民の育成) 人権を拡大し法を確定していく , 活動の自由は認められていない, と言うべき である , した が っ て こ こ か ら は 臼効こ見る国家の事業としての学校という認識を重ね合わせて把えた場合 より明白で ,. あるが) , 教育活動一般にま で広がる人権認識は読み取れない. せいぜい, 良心の自由のゴロラリーと しての学校 教育における信教の自由, 出版の自由の内意としての思想,信条の自由 にの場合 知識人 , の自由) , 大学など高等教育機 関における研究・教授の自由 (すでにフンボルトは, ドィッ同盟構想の中で邦 間の大学での研究の自由を特に要求している) が示 唆 さ れ る 程 度 であ る .. にもかかわらず, プロイセン立憲主義の歩みの中では 法による身分制的でない権利確認は君主 , N特権を止揚していく前提であり 明らかに歴史の進歩の事実 専制と身分 に属する. , 次に, 上に述べた限りでの人権の保持者は統治構造において如何に描かれる であろうか . 37.

(9) . 大 崎 功 雄. フンボルトの憲法構想はその標 題から見られるとおり, 主たる課題は議会制 (等族議会) の国家 的整備にあった 例. われわれは, フンボルトの掲げる等族議会設置目的を視野に入れるとき, 彼の 描く 人権保持者の政治的姿 を把捉することができる. フンボルトは等族議会憲法を設ける主目的を三つ挙げ, その一つを次のように述べている. 心と市民的 i de ) i rs ub ekt 「主体的目的 ( ve , すなわち, 市民が立法・監督および行政に参加することによって公共 i )とをより一層保持し, そうすることによって, みずからが対目的により倫理的となり, 自 技量(Burge ck r s ch ge 己の職業と個人的生活に対し, その両者を彼と同じ市民の選挙に一層密接に結びつけることによって, より高次の 2 ( 5 ) 価値を付与するということ」 .. 要するに, 市民が 「公共心」 「市民的技量」 を向上させ 「倫理的」 になり, 市民の 「職業と個人的 生活」 により高 次の価値を付与するこ とが目的であり, 立法・監督・行政への参加そして等族議会 選挙への参加はその政治的手段 であっ た. 近代市民の育成とその 政治的発達が課題であっ たのであ る.. ここには, 市民社会と国家との 区別と関連が, 市民の倫理的・経済的 生活と政治的生活との, よ り抽象的には, 人権の倫理的・経 済的側面と主権の政治的側面との区別と相 互浸透が着意されてい る, と いう こ と が で き る.. フンボルトの構想する憲法の理念は, 以上のように, 未だ非自立的な市民を制 度的に上から自立 させていこうとする 啓蒙的なそれであっ た. しかし, それは同時に, 人権を創造し政治的枠組み自 体をも改変していく 市民像を内包するものでは なかっ た.. 2 政体 -- 立憲君主制 フンボルトの 企図する等族議会とは如何 なるものであろうか. まず, 主権とのかかわりにおいて とらえてみよう. 彼は等族議会と 内閣およ び国王との関係を次のように描く. St andeve )には対抗できないが故に, 最上級行政当局は確実な諸原理に従 r s amml ung 「首尾一貫した行政は議会( ) t andeve r ung amml s い, そして人的交代に際しては現存していてただ注意深く変更すべき諸原理に従い, 国会(S を通じてふるまわざるを得ないしまたそれに習熟するのである. このことは内閣の 優秀さの唯一の内的保証であ り, それは厳格な責任が内閣の優秀さの唯一の外的保証であるのと同様である, 但し, 責任は二重の仕方で生ずる, 6 2 ( } t ande ) に対し, 次に国王に対してである」 まず国会 (Lands .. 内閣が等族議会 (国会) と国王とに対 して独自の位置を与えられていることがわかる. 一般に, 内閣もしくは政府は君主制の下 では君 主に対してのみ責任を負うものであり’ 政府は君主の政府な のである. だとすれば, 議会への責任とは何 を意味するの であろうか. それは君主権の制限ではな い だろ う か. フ ン ボ ル ト は 首 肯 す る. 「人が等族議会憲法を敵対的に考えたり, 等族議会を対立的に考えたりしているとしても, これは少なくとも非常 に当然な異議であるが, われわれの下ではこの異議は王権への干渉に対する異議とは何ら見なすことはできない. 2 { 7 } 「憲法はいか 王権への干渉は, 長い経験が示しているように, ほとんど恐れられるべきものではないのである」 . にゆるやかにそして徐々に着手されようとも, 現存の君主制の行政をほとんど完全に変更するということは誰しも 否認し得ない. ……等族議会憲法のあらゆる導入と王権の一部放棄とが結びついているということは否定され得な 2 8 ( ) い」 .. 君主権限の一部議会への移譲という考えは 君主主権に対する別 の 主権を想定させるであろうか. 結論を急ぐと, フンボル トの主権構想したがって政体構想は立憲君主制であった.「成文化された 9 ( 2 ) 憲法をもつ君主制をのみ立憲君主制と呼ぶことができる」 . 「成文化された憲法をもつ君主制」 とは憲法によ って君 主と臣民の権利・義務を明確化するとい 4年の「一般国法」において行なわれているところである. フ 79 うことだろうか?それならば既に1 ンボルトに あっ ては, 憲法とは等族議会制憲法であっ て君 主権の制 限を意味することは自明であっ 38.

(10) . フンボルトのプロイセン憲法構想と教育改革. た. フンボルトがここに君主制と言う のは, 君主権が制限さ れても 最高権は君主に存するという , 意味である. 彼は 「議会はどの程度君主制 でなくなるべきか」 と問い 君主から議会への権限移譲 , のいくつかの段階を示しながら, 君主制と共和制の相違を描いて見せる . 「但しこの点 (議会の不同意権のこと……筆者) で統治者がどれ程制限されようとも 憲法は実際上常になお君主 , 制であり続ける, 統治者か ら [議会 …… 筆 者] 解散権が奪われる場合, それ故統治者から独立した政治的団体が 統治者とはもちろんその団体内の人間とも対抗し ,ているような場合 (フランス的議会制と政党政治を想定……筆 者) にはじめて, 憲法は本来の共和制へと進んでいくのである」◎ .. 共和制をもちろん望まないフンボルトがここ で描いて見せているものは 最大限許容可能な君主 , 権制限について である. したがって, そこからは君主の最高権を残した範囲での主権の君主と議会 による共有という構想力轡 論理的には可能である, では 内 閣 あ る い は 政 府 と は 何 か. フ ン ボ ル トに と っ て は 内 閣 は Mini ium であ っ て Kabinet ter t s ,. すなわち国王の内閣とは異なる意味を付与さ れている その内閣は先に見たように議会と国王に対 . し二重の仕方で責任をとるものとされた. i l 「まず ( dann ) 国会に対して, 次に ( e nma ) 国王に対して」. 内閣はまず国会に対し顔を向け, 国会と国王を結びつける強力な, 責任のある独自な位置を占有 する. まさにシュ タインの志向する責任内閣制である 君主権と議会が対立しないのもこの内閣の . 位置にある. こうした発想は内閣・君主さ らに議会を国 家の機関ととらえる着意をも なお 萌芽的 , ではあるが伺わせるものである. 1 3 ) それには 議会に対 それに しても内閣が議会と対立す ることは如何にして防ぐこと ができるか( , , し単なる助言権を認めるだけでなく,あるいは違憲事項の審議権だけを認めるという方向でもなく , 憲法の範囲内で決定に参与する権利すなわち 「決定権 (En i dungs t t s )」 を認めることが必要 che r e ch とさ れる. 「したがって, 最も自然で, 単純で, 目的に 適っていることは, 等族議会 (国会……筆者) に対し次のような権利 を認めることのように思われる, すなわち, [政府から……筆者] 国会に対してなされた諸提案の妥当性そのもの に基づく真の決定権を認めること, そしてこの決定権をあらゆる本来の一般的法律, 並びに一般的課税におけるあ ( 3 2 ) らゆる変更にまで広げることである」 .. 君主から内閣へ, 内閣から議会へと権限を移譲し, 議会をして国政に参与させ そのことにより , 議会にも責任を付与し, もっ て議会と内閣・君主とを一体化 する フンボルトの憲法構想は以上の . ような構図を有する. それは明らかに専制君主制ではなかっ た だが同時に議会主権 そのものでも . なかっ た, いわんや主権を国民に帰属させる政体でもなかった それは王権を部分的に 制限された . 立憲君主制であっ た. それにしても言葉の厳密な意味での議会制を未だ有しないプロイセンにあって 近代的代議制 へ , の一里塚は確かに示されているという ことができる. 絶対君主制の否定がそれ である 妥協的否そ . れ以上に倫理的であるフンボルトがとらえたプロイセン再生の道は, 伝統との連続的・調和的格闘 であっ た. それはフンボルトの歴史認識の方法論でもあっ た . 「国家における新しい措置や制度は既存のものと結合されなければならない そのことによって それらは土着の , , ( 3 3 ) ものとして, 祖国のものとして地中に根を張ることができるの である このことは昔からの賢明な格率である」 , .. ここに革命 ではなく 改良を望んだフンボルトをとらえることはいともたやすいが むしろ プロイ , セン改革の戦略を読み取るべき であろう. 3, 議会と国民との関係 - 人民に直接帰属しない議会 君主から権限を移譲され, 君主の最高権 の下 で君主と主権を共有する限りでの議会の権能は何に 39.

(11) . 大 崎 功 雄. l ks )」 と呼んでお rdende s Vo 由来するか, フンボルトは等族議会をしばしば 「人民の当局 (Behb り, あたかも議会の権能を人民に 由来させているかに見える. だが議会の人民への直接的帰属性は 承認されてい ない. 議会の形成は直接人民大衆か らではなく段階的になされる. 彼は議会の制限に かかわって次のように 述べる. 「但し国会でさえ不適当な改革の一つの要素となり得るから, 国会を制限することが主要な注意でなければならな いとよく言われる. このことは, 以下に示すように, 国会の活動領域を厳密に制限することによって, またフラン スにおいて通常行なわれているように国会を全人民大衆に直接 基礎づけるというの ではなく, 最も単純な市民 i ) の行政から媒介的に全体に関する審議へと人が高まっていくことによって行なわれるので r n の組合 (Bar r ve e ge 4 } あ る一樽 .. ここ で, 議会が直接全人民に 基づかないということは人民の政治参加に一定の条件を設定するこ とを意味する. tni ) se l ba s t t unmi e r e sBeruhrenderVerhal 「〔人民の政治への……筆者〕 参加は隣人同胞の間で直接的交流関係 ( が実際的判断力と有効な作用とを可能とする時に始まるのである, すなわち, この政治への参加は, 必須の段階を とび越えようとしない限り, その後そこから最高のそして最も一般的なもの (つまり国会の選出とそこでの審議の 3 5 { } こと……筆者) にまで高まることのできる時点に達した時に, 始まるのである」 .. 人民の政治参加には 「隣人同胞の間での直接的交流関係が実際的判断力と有効な作用とを可能と する」こと,つまり「必須の段階」が要求された. これは人民の政治参加を段階的に -- 時間的に -- 設定することを意味する. 換言すれば, 人民の政治的能力 ・政治的資質を政治参加の前提としたも のに他ならない, フン ボルトが 「必須の段階」 として要求するも のは, 「直接的交 流関係」 , 「比較 的小さな団体 f t ) の成員となる結びつき」 あるいは 「最も単 純な市民の団体の行政」 を人民がく (Geno cha s sens i t ) ra on rpo た ぐることであっ . 要するに, ツンフトとは異なるがなかば身分的でもある職業団体(Co における交流あるいは地域的結合, さらには地方自治体における政治参加がより上級の等族議会的 政治への参加の条件とされたのである. ここに, シュタイ ン -- ハ ルデン ベ ルクの都市改革と結び その発展の上に立っ て, 州および邦レベ ルの等族 議会を構想するフンボルトの姿が浮かび上がるの であ る.. それはまたフンボルトの改良の路線, ある 意 味 では フ ラ ンス革 命 か ら強く 影響 を 受 け た ドイ ツ国内の民主主義者への批判をも意味した. 「フランス革命によって, またフランス革命から発展した諸事件によって, 心情が突然少なからず純粋な動機から 政治的行為に向けて揺り上げられた時に, その心情はすべての中間的段階をとび越えて最高の, 最も一般的な統治 手段への直接的参加へと向って進んでいったのである. そしてそこから, 人が声高に非難し, 転換し, 可能なら抑 3 7 ( } (傍点筆者) 圧しなければならないものが生じたのであるし今もなお生じているのである」 .. 4, 議会と国民の関係 -- 直接選挙制・制限選挙制 さて国民の等族議会への参加方式は如何. フンボルトは等族議会当局を1) 農村・市・郡の 各長 i d) の三層に区分する. V teher ), 2) 州等族議会 ( ors , 3) 国会 (邦等族議会augemene Stan e 人民はこれに代表を送ることによ って参加することに なるが, その選挙方式は一考を要する. 「これら三種類の当局の構式員の選挙は直接人民から発しなければならず, 一方の成員が他方の成員によって選ば 3 8 ) 「第三の原則は 結局選挙は中間的段階を経ずに行なわれなければならない, ということであ ( れてはならない」 , . 9 3 ) { る」 .. 1815年の国王の 第二次憲法確約 がその第3項において 邦等族議会を州等族議 会から選出する方 向を示し, その後ハルデンベ ルクも含め大方の 改革路線が邦議会の間接選挙を当然のこととしてい る時, フンボルトが直接選挙制を志向していることは 注目に値する. その目的とするところは, 州 40.

(12) . フンボルトのプロイ セン憲法構想と教育改革. 等族議会有力者が直ちに国会に移行しないため(国民代表たり得なくなるから) 「行政体(Amt s co rpa ra ‐ , i ton )」 の 「団結精神 (Corpora i i t t )」 の分裂を防ぐため, 州間の対立を惹起 しないた め あ onsge s , るいは州等族議会少数派が国会の場で党派性を出さないため だとされた これを要するに 州等族 . , 議会と国会を分 離することにより 国家に一定の統一性を保 証し 選挙民と議会ひいては政府との- , 体化を図るうとするもので, 必ずしも近代的直接選挙制を意味するものではなか た っ . フンボルトの企図する直接選挙制は同時に制限選 挙制 でもあっ た それは二重の意味を有する . . 第一に疑似身分 内選挙 であっ た . 「選挙に際しての第二原則は, 各身分はその成員からの代表のみを また各地区選挙集会はその所属す る郡内にお , いてのみ当該郡居住の代表 (e i nge s e s s ene Personen) お巽ぶ こと が でき る, と いう こ と である」◎ .. 身分内選 挙であり,農村においては土地(Grunds t uck)所有者,都市においては職業団体(Corpo ra ‐ i t ) に 属 する 市 民 的 営 業 を 行う 者 が有権 者 であ り 又 彼 らの仲 間 同 士 の選 挙 であ る 住 on 民 , , i (E nwohne ) を母体とする選挙区が構成さ れるのではない 団体内選挙 であった r . . 等族議会は基本的には三身分で構成される 旧等族の会議は貴族’僧侶・都市貴族をも て構成 . っ されたが, フンボルトにあっ ては農民・市民・貴族が念頭に置かれ 身分的とは言え 国民代表的観 , 念が付与されてはいる. 州と邦レベ ルの等族議会は二院制 であり 第一院 (上院あるいは貴族席とも言 , う) は1) 世襲貴族 身分・高級聖職者 2) 一定量の相続地 を有する地主 3) 高額納税者 ( (市民的 営業従事者も想定されている)か ら 構 成 さ れ る 第 二 院(下院 - これだけが選挙される)は 貴 族 剣・額納税 者), . 農 民 (地主)・市 民 (市民的営業を行う者だけ でなく知識人も含む) か ら 構 成 さ れ る( 4 1 ) 国 会の第 二院 には大 .. 学代表も含ま れる.. も っ と も, 「金 の 富 (Geldrechtum)」 を除外し 「土地財産 (Gr i hum)」 のみに貴族の地 t unde gen. 位を限定し, したがっ て都市貴族を本来的なものとしては認めないフンボルトは 貴族特権を限定 , 4 2 } 的に押さえよう としたものでもある( . 選挙は又, 農村・市・郡から州 そして邦レベルになるに従いその選挙資格 (被選挙 資格) におい ても制限的 であっ た. 「州等族議会と国会の選挙にもこのような区別 (選挙資格の区別……筆者)を 4 3 ( )として 州議会選挙と邦議会選挙との間に選 認めることができるかどう か?は 疑わしい」 挙資格 , , の区別を設けることにはやや否定的姿勢を見せ るフンボルト ではあるが 当時の一般的意見にほぼ , 従 っ て い る.. 「ヴィンケ(Vi ) 氏の論文は邦等族議会選挙に村長(Geme ncke i t t neve ) 選挙以上の高い選挙資格を要求して r r e e r 4 3 { ) 「国会選挙に州等族議会選挙以上に高い納税額を定めること いるが, これは確かに正当なことである」 は, 確か . ( 4 の に賢明なことであろう」 ,. 上級の 等族議会ほど高い識見, 全体を見渡す能力が要求されるというのが選挙資格制限の論拠で あるが, 選挙資格 は主に納税額の多寡によって制限されるもので むしろ市民的営業に従事する高 , 額納税者 (銀行家 , 大商人 , 工場主等) を国政に参与させようとするも のでもあっ た.. IV. フンボルトの憲法構想と教育改革の接点 、◆ フンボルトの教育改革は, 一般に人間教育を教育理念とする単線型の公教育制度創出を展望した 4 5 ) 本稿では教育改革 そのものに内在する理念の検討 ものとして 評価さ れているが{ ではなく, 憲法 , 構想自体の論理を追うことによ っ て国家改革 が教育改革に提示した枠組みを明らかに したい . 41.

(13) . 大 崎 功 雄. 1. 憲法構想に内在する国民観 憲法はいわば国家論である. 国家は国民と対応する. フンボルトは国民を如何に規定するであろ うか・. 「国家における生活には, 全体にかかわる活動や参加に関して三つの種類, あるいは気に入られる言い方をすれば 三つの段階がある. 〔第一に…筆者〕慣習となった秩序への受動的適応, それは住民が居留民であろうと外国人であ f i l l )から秩序の創設と ru neBe a geme ろうと行なわれなければならないものである. 〔第二に…筆者〕一般的職業( 維持に参加すること, それは公民の本来の仕事である. 〔第三に…筆者〕官史としての特殊な職業から〔秩序の創設 と維持に……筆者〕 参加すること, この三つである」 ◎.. この 叙述はただちに三種類の国民を規定としたものとは解釈できない が, 国家論あるいは政 治論 burger t )」そして「官 )」「公民(Staa s r としては三層の国民規定である. すなわち 「住民(Bewohne. 吏. (Staatsdi ener」 であ る. 1月24日, アルテンシュタインの筆 1 808年1 し ば し ば 指 摘さ れ引 用 さ れ る シ ュ タイ ン の『政 治 的 遺 言』 (. になる) の次の 一節と比較することにより, フンボルトの 意味するところは明 瞭となる. 「したがって, 私のプランは, それぞれの能動的公民, すなわち, 100フーフェの土地所有者, 農業・製造業・商業 を営んでいる者, 市民的営業をもちあるいは精神的紐帯で国家と結ばれている者, これらは代議制に権利を有して いる, というものであった, ……わが国の幸・不幸はこのようなプランを実行するか除去してしまうかにかかって 4 7 { } いる. なぜなら, この方法によってのみ, 国民的精神を覚醒し, 鼓舞することができるからである」 ,. フンボルトにあっても, 国民の 「公民」 としての生活あるいは 「能動的公民」 が緊要の課題とし て自覚さ れた. 「まさに中間の段階 (公民としての段階……筆者) は, ことにプロイセンにあっては, ……何年も前から失なわ れてしまってきているのである. 人は功名心や虚栄心からより高いものへと突き進んで行ったし, 人は又怠惰・快 楽および利 己心からより低いものへと退歩してしまったのである. かくてその結果は統治の様式や措置に対する最 4 8 ) 高に有害な無関心であった」( ,. フンボルトは 又, 国民を 「身分」 においてとらえる.. 「人民に関する一般的概念にしたがえば, 一国民の中には数多くの身分が, ほとんど職業の数と同じくらい多くの 4 9 ) 身分が存しているのである」( ,. 当然のことながら, フンボルトは 「職業の数と同 じく らい多くの身分」 に国民を細分化すること には反対 で,「人が看過したり混同したりし得ない二つの分離された身分, すなわち農民と市民が明 5 0 )として 身分制を緩和させている 又貴族身分に対しても, 先に見た通り制限的 らかに存する」( . , であ る. 「貴族という概念はただ政治的概念であり, ,政治的性格においてのみ確定される. しかしながら, ドイツの貴族の t ) の形成 一一 は大 r and r ens 民に対する支配的地位 (He 多かれ少なかれ隷属的な農 先的参与 性格 も 国防への卒 , 5 1 } 部分衰退してしまっている」( .. そして, 貴族の倫理 性を強調するフ ンボルトは都 市貴族をその 一構成要素 とは認 め ず, 「地主 5 2 ) i r)」 で あ る こ と を そ の 条 件 と す る( . ewohne tzer )」 であ り 「農 村 居 住 者 (Landb (Landbes 封建制の崩壊 を自覚的にとらえ, 第三階級の存在 を認め, 貴族の特権にも批判 的でむしろその範 囲と 地位を制限しようとするフン ボルトでは あるが, それにもかか わらず国民を 「身分」 という姿 でとらえる. その場合期待さ れるのは都 市身分としての市民であっ た. 1 i r n der Wi 国民を, 一方 では 政治概念上 「住民」・「公民」・「官史」 として, 他方では実際上 ( であろうか i 1 i t ) 「身分」 (農民・市民・貴族) においてと らえるということは何 を意味するの chke . く 人民 主体としてとらえるの ではな 一不可分かつ直接的・個別的 単 それは, 国民を人民として, , とは区別さ れた概念上の 「国民」 としてとらえることを意味する. 意味される 「国民」は, 客観的・ 実態的には身分,職業として土地所有・納税額・職業・居住地のカテ ゴリー で現われ, 主観的・行 動的には市民的営 業と結合する政治参加 (公民) として現われ, 倫理的・文化的には統一体 (国家・ 42.

(14) . フンボルトのプロイセン憲法構想と教育改革. 政府との一体化) として現われる. 議会を人民に直接 帰属させなかっ たのはこの国 家との一体 化が脅かさ れるのを恐れるから であ り, 選挙制度における直接制の強調は市民をしてその営業を向上させ国 家生活に参与させることを 意図したからであり, 等族議会を構想するのは客観的実態への対応からであった , そして又, 主権論的に国民をとらえると, 主権は単一不可分 であることを本質的特徴とすること から,倫理的・文化的にとらえられた国 民 (君主・政府いわば国 家と一体化した国 民) に帰属する . 制限された君主権は国家と一体化した国民に移行する. こう して立憲君主制は可能とされるのであ る.. フンボルトの憲法構想から要求される第一義的教育目的は, したがっ て, 抽象的国民としての一 体性の育成であった.折しも 1 81 9年に草案が完成し1 826年に廃案となっ た「プロイ セン一般教育 法 案」が「人 間 の 一 般 的陶 冶」 に れ自身様々な下位概念を内包し したがって実際はその下位概念によって代表され ,. てしまうものであった) と 「国家社会 への参加」 , 「国王と国家に対する忠誠愛」 を一体のものとして内 包 していたのは 決して偶 然 では なく, 同法案の最大の後援者フンボルトの憲法構想とそれこそ- 体のものであっ たと言うべき であろう. 「人間の一般的陶冶」 あるいは 「人間性」 の陶冶は すでに , そこにおいては, 抽象的国民あるいは一体性を媒介する概念 ですらあっ た , 2. 国家事項としての学校 憲法構想においては学校はどのような事項として位置づけられたか 憲法覚書き であり論点整理 . であるその構想は, 明確な文言としては教育事項を含んでいない 但し 学校 (教育) に間接的に , , 触れた叙述がニケ所ある. その一つは, 州等族議会以下の 「人民の当局」(地方行政当局)の行政事項を分類しながら次のよう に述べている箇所である. 「教会・学校・救貧院・刑務所のような, その性格がむしろ国家全体の事柄に属するような事項 ここでは 国家 , , は積極的に歩み寄らなければならない, どの程度多くあるいは少なく, 国家がこの点で権限を譲ろうとするかは全 く国家次第でなければならない. 〔地方の……筆者〕等族議会当局をこれに常に可能な限り関係させることは 地域 , 5 3 } の状況に応じて可変的である行政原則 でなければならない」( ,. ここからは, 1) 学校は国家の事項 である, 2) 地方自治体 が学校行政に関係することは原則 で ある, 3) その限界は国家が定める, という認識が伺え る . 教育に触れたもう一つの文言は, 議会 (国会) の権限(憲法の範囲内で決定に参加する権限) を明示し た次の一節 (S34 ) である. 「すべての市民もしくはその市民の個々の階層の法的地位を本質的・持続的に規定することを目的とするあらゆる 法律は国会の審議に委ねられる. それに反し, 例え一般的訓令であっても政府の行政義務行使に直接属するような ものはすべて, 国会の審議のもとに置かれる法律とは見なされるべき ではない 例えば 教育施設 (Er i z ehung ‐ . , l t t )を計画しようとする者は誰でも試験に服さなければならないといった訓令 天然痘患者は社会によって他 s an s a , の人から隔離されなければならないといった訓令, いわんや自発的に政府と契約を結んでいる個人および服務関係 にある公務員に対する訓令などは, 国会の審議のもとに置かれる法律とはみなされるべきではないのである」( 5 4 1. 国会の ,審議事項は市民的事項 であり,学校は一般的にはこれに含まれない.教師の資格試験といっ た事項は政府に固有な行政事務に含まれる. 公学校の教師(公務員もしくは政府と自発的に契約を結ぶ者の 範ちゅうに属した) は原則として政府の行政下に服する, 以上の事が伺わ れる . したがっ て学校が国家の事項であると言う 場合, それは議会の事項ではなく政府の事項であるこ とを意味した. この点で見る限り, 当時の最高国法 であっ た1 4年の「プロイセン一般国法」にお 79 ける位置づけ と少しも変るところがないと言うことができる そこ でも学校は「国 家の学校」であっ . 43.

(15) . 大 崎 功 雄. た. l t )であり, 青少年に有用な知識と学問を教授することを目的と rwa ungen 「学校と大学は国家の主宰するもの(Ve する」(第12章第1条) ,「すべての公的な学校および教育施設は国の監督の下にあり, あらゆる機会に国の監査と ) 5 5 査察に服さなければならない」(同第9条) ( .. 絶対君主制下 での国家と立憲君主制下の国家という 相違はあるが, 主権論的に見た場合, 学校は 議会 (国会) の審議事項ではないという点で共通する. 「一般国法」 が教会的事項であった学校を, 宗派と等距離にある国家が宗派に学校への平等な権利を承認することによ っ て国家の学校としたこ とは, 学校行政の統一化という点で歴史的には進歩の事項に属していた(それ自身としては近代的とは言 わらず学校を国家(政 えないが) . しかし, フンボルトの憲法構想が立憲君主制を企図するのにもかか 府) の事項としたことは, 主権論的にみれば首尾一貫したものとはみなせないであろう. 当時立案 さ れていた 「一般教育法案」 もその審議は政府の事項であって, 国会におけるその審議はフンボル トの憲法構想において も予想だにされなかっ たと言うべき である. さ て, フ ン ボ ルトの 憲法構想の中 で意図さ れたものは, 先に 見たとお り, このよう な国 家の 事項と しての学校行政を政府の行政事務として地方に移管すること であっ たと言える. それは地方 自治制度や地方教育行政制度の改革とも符号するもの でもある. ま とめにか えて. 立憲君主政体の中での国家と一体化する新しい国民の創出, これがフ ン ボルトの憲法構想が教育 に課した課題 であっ た.それは政治参与の 条件 である政治的能力を国民に付与することを意図した, いわば上からの国民教育であった. 政治的能力は, まず, 職業団体と地方自治への参加の中で形成さ れなければならなかった (中間 国民教育は今日的に言えば移管事務と の段階) . 地方自治制度の一定の改革という既成事実の上 で, である. ここに プロイセン教育 トの企図 委ねられるというのがフンボル して地方行政に可能な限り 改革初期に至るまで見られた自己教育を基礎とした国民教育という思想と似通う 一面を見ることも できなくはないが, しかし憲法構想においては国家の事 業としての学校という大前提に立っ ている ことを看過してはならない. さらに, 未成熟な 「国民主権」 の構想は国民の教育 を議会制のルートではとらえなかっ たが, そ れは予定されている人権の体系から見ても教育の 内的事項を自覚してのこと ではなかった.ここに, プロイ セン改革 初期 あるいはそ れ以前に おける フンボルトの国家と教育についての認識との関連 が改めて検討課題と して提起されるが, 稿を改めたい.. )王. 2公国, 4自由市そして ( 1 ) その内訳は1帝国(オーストリア) , プロイセンを含む5王国, 1選帝国, 7大公国,1 48 条で独立国 と し ブルクはウ ーン会議議定書第 ヘ セン=ホン なお ヘッセン=ホンブルク地方伯領の計41 ィ ッ , . fas H b Deut 1 E R V ‐ r: scheVer も 詳 細は u した の e て 認 め ら れ, 1817 年 7月 7 日の 同 盟 決 議に よ り 加 盟 , g., . . ,. l 1 lhammer ) tgar tl975( l i t1789 ag w.Koh e .561 Chtes sungsgeschi ,559 .Auf .1960 ,S ,S.578 , ,S .Bd .1 ,Stut ,Ver プ f ○ S 4 5f H b 7 盟 と ロイ セ 1 E R なお ドイ ツ同 V S 8 4 S.582 5 て e r; a a 同 盟 全 体 に は u つい ツ ドイ g . .. . . ,. , , . . , ,. .. 3年, 小林孝輔『ドイツ憲法史』学陽書房 96 ン立憲主義の概要は, 山田展 『ドイツ近代憲法史』 東京大学出版会1 2年, シュティ ミンク著・市川米彦訳『近代ドイツ 19 8 0年, 石川澄雄 『シュタインと市民社会』 御茶の水書房197 憲法史』博文館昭和18年, 浅井清『近代独逸憲法史』慶応義塾出版局昭和3年 などを参照. また, バーデンに. 44.

参照

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