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地方教師における自由民権運動 : 佐渡の「社会教育家」本荘了寛の場合

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(1)一地方教師における自由民権連動 佐渡の「社会教育家+本荘了寛の場合 久 A. Local. 木. Concern. Teacher's. Moveinent-A. Case. Education”. in Sado. of. 幸. 男. in Jiydminken. Honj∂ Ry∂kan,. A. (People's "Leader. Rights) of Adult. Island Yukio. HISAKI*. 近年,教育史の領域における自由民権運動の研究は,とみに活況を呈し始めているo 「日本近代政治史のなかで自由民権運動にかんする研究ほ,周知のように実証面において ち,また理論化の点においても,もっとも研究の進んでいる領域の一つであるl'+と,す でに指摘されているような段階にまではまだ達していないにしても,立志社・石陽社・自 郷社など著名民権政社における青年の学習活動をとり上げた宮原誠一『教育史』. (日本現代. 史大系)を比較的早い例として,以後,質量ともにすく小れた研究成果の発表があいつ+、で いるoすなわち,民権派教師の政治実践,教師を含む民権沢リーダ-たちの教育論ないし 教育思想を分析・究明の主要課題として,この運動の教育史的意義が多角的に追或されて きたoそして主な研究対象地域としてほ,岩手・宮城・秋田・山形・福島・埼玉・神奈)f卜 長野・富山・石川・福井・京都・高知・熊本などがとり上げられてきた。ただその際,節 究の焦点が,中央で活躍しあるいほ府県レベルで先進的・指導的な役割を果した教師個人 (およびその周辺グループ)にのみ,集中されてきた嫌いがないわけでもない。しかし運 動の一つのピ-クをなす明治13年の国会開設請騎書署名者総計約27万2'という数字が端的 に示すとおり,まさに「国民的ひろがり8'+をもって展開されたこの運動の教育史的意義 をより的確に問うためには,研究対象はさらにひろげられねばならないであろう。研究対 象地域の拡大もさることながら,とくに運動を最末端で担った教師たち,さらに,すく小れ て指導的役割を示さなかったにせよ,運動にかかわりをもった多数の教師たちにも,ひと しく目を注いでいくベきではないだろうか。. 27万の署名に結実するこの運動が,. A県議クラスの豪農層一B戸長クラスの在村有力者. 層一C一般農民という形で組織化されたこと, いること4'などはよく知られているが,教師はA・. Bにはかなり多数の小学校蒙師が含まれて Cにも見うけられ,従来教育史的研究. の対象とされてきたのは,主としてAに属する教師であった。民権運動が上からの組織化 *教育学教室(°ept.. of. Education).

(2) 18. 久. 木. 幸. 男. というプロセスを辿ったかぎり,それほそれで一定の意義のあることでほあり,また史料 的制約がB・Cクラスの教師をとり上げることを困難にしていることほいうまでもないが, 「国民的ひろがり+をもつ運動の究明ほ,やほりそれに対応する「ひ・ろがり+をもってな されねばなるまい。. B. ・. C層教師に関する新史料の発掘や,既出史料の再把握・再操作が. 望まれるわけであるが,本稿でほ,主として既出史料の再把握によるB. ・. Cクラスの教師. の運動-のかかわりの究明を,新潟県佐渡の-教師本荘了寛(1847-1920)の場合について 試みたい。. 民権運動の波が日本全土をおしつつむ明治10年代を,孤島の小学校教師として過した本 荘は,教師としてよりもむしろ教師退職後の行動-. 「佐渡に於ける新聞雑誌の噂矢5)+. とされる『北浜雑誌』の創刊,日清・日露戦の戦死者をまつる明治記念堂の建設など,社 会教育・社会教化的活動をもって知られ,従来「社会教育家+と規定されてきた6'僧侶 (真宗大谷派)であるが,彼はある時期-少なくとも佐渡における運動昂揚期である明治 13年,民権運動-のかなり積極的なかかわりをもったことが推定される。運動参加の前級 にキリスト教に入信した民権家としてほ,鈴木昌司,片岡健吉,湯浅治郎,本多庸一など が著名であるが,民権運動に加った仏教者ほほとんど知られていないので7',この点本荘 紘,相当特異なケースということができる。その上,後述のごとく著書や伝記が残されて C層教師としては,かなり特殊な例に属する。したがって,彼の いる点でも,本荘はB・ 場合を直ちに一般化して,. B. ・. C層教師全般に当てはめることはもちろんできない。しか. し運動から離脱後, 「政治上ノ所見ヲ除ク外-民智ヲ開発シ事業ヲ振興セシムルヲ目的8'+ とする『北房雑誌』の刊行に苦闘し,やがて戦死者の「冥福ヲ祈リ其忠魂ヲ弔9'+う明治 記念堂の建設に余生を賭ける本荘の生活軌跡は,数多くのB. Cクラスの教師が,大日本 帝国憲法体制下の明治20年代以降に歩んだみちと,案外近かったかもしれない10'。そして ・. そのかぎり,本荘はB・C層教師の「典型+とはいえないまでも,少なくともその「一例+ であることほ認められてよいであろう。この意味でほ本荘の民権運動へのかかわりも,早 なる特異な事例には尽きないのである。 注. 1)金原左門・江村栄一「自由民権運動関係資料H,国会開設請願書,建白書の作成過程+ (中央 大学法学会『法学新報』 71巻, 8号, P.52) (岩波講座『日本歴史』 15, P.18) 2) 江村栄一「自由民権運動とその思想+ (『論集日本歴 3) 大槻弘「民権政社の展開過程と国会開設請願運動一越前自由民権運動の展開+ 史』 10,自由民権, P.73) 4) 内藤正中『自由民権運動の研究』 P.188ff.後藤靖『自由民権』 P.107f。 5) 高橋宏通『佐渡の了寛』 p.260 6) 『新潟県教育百年史』明治鼠 p.5840 7) 民権運動が上昇の気配をみせ始める明治11年,東本願寺寺務所教育課は,僧侶養成機関である 教校対象に「各教授生徒漫二新聞紙上へ投書侯儀決テ不相成旨各生徒-予テ了達置此段相違侯 事 但不得己事実有之分-投書案相添当課-可為伺出侯事+という投書禁止令を4月13日付で 出している(多田周延編『真宗東派末徒必携』明治11年分, P.49)。当時の教校生徒の間に政.

(3) 19. 一地方教師における自由民権運動. 8) 9) 10). 論熱が高まりつつあったことがうかがわれるが,東本願寺派にかぎらず,僧侶の民権運動参加 の具体例ほ未発掘である。 『北浜雑誌』1-18号「例言+。ただし19号以下においては, 「政治上ノ所見ヲ除ク外+という箇 所が削除されている。 (『北浜雑誌』110号,明治29年2月, P・37) 本荘了寛「明治記念堂創立の趣旨+ C層教師の足どりには,それなりに屈折したものがあったであろう 運動から離れたのちのB 「忠 が,同じ時期の本荘についても, 『北漠雑誌』例言の「事業ヲ振興+の語を殖産興業路線, 魂ヲ弔+う明治記念堂建設を軍国主義・国家主義路線と,単純に割り切ることができるか否 か,若干の疑問が残る。民権運動参加の経験が,本荘を含むB C層教師のその後の生活軌跡 に(もちろん個人差ほあったにせよ),何の影響も残さなかったとは考え難いからであるが,明 治20年代以降の本荘の活動については,別の機会に検討したい. ・. ・. 本荘の民権運動へのかかわりをみる前に,彼の経歴,とくに明治20年頃までの経歴を概. (A)彼の知友萩野申之. 観しておくのが便利であろ15と思われるが,本荘の伝記としては,. の『佐渡人物志』 「沙門+の項中の記述が簡にして要を得ている。しかし小さい誤謬がな いわけでもない(萩野はまた,本荘の著書『佐渡水難実記』に寄せた序文の中でも,本荘 のエピソードのいくつかを紹介している)0 (B)単行の伝記書としては,高橋宏海『佐渡 また, (C) 『新潟県費青首年 の了寛』があり,もちろんAにくらべて遥かに詳細であるo 史』明治編, (D)井上鉄夫『新潟県の歴史』. (E). (県史シ.) -ズ15),. 『佐渡金井町史』近代. 編なども,そのT一節あるいほ一項を本荘に割いているが,記述の多くほ上記A. ・. B両書の. 域を出ていない。しかし以上の五書には,細部に若干の相違点もあるので,まずこれらA 『北浜発誌』発刊の明治20年に至るまでの彼の経歴を年譜 -E五書の記述にしたがって, ○内数字ほ記事番号)。 夙に記してみょう(括孤内のA-Eほ,それぞれ上記五書の略号, 弘化4年(1847). ①佐渡相川町光楽寺住職笠野典蔵の長子として生まれる。 E)0. (B,. C,. (Aは笠野操斎の長子というのみで,生年についての記述ほな. い)0. 文久元年(1861). ②金沢村待勝寺の養子となる(A)。母方の祖父,本屋敷村得勝寺本荘 了潤の養子となる(B,C,E)0 ③西蓮寺本間法西(雲敢)に漢籍を学ぶ(B)。. 明治元年(1868). ④得勝寺住職となる(A,B,C,D,E)0. 明治3年(1870). ⑤越後道学,青柳剛斎の塾に学ぶ(A,. B,. C,E)0. ⑥柏崎県学校に入学(A)0 ⑦脇野町村長昌寺に宗学を学ぶ(B,. C)。脇野町長勝寺に宗学を学ぶ. (E)0 明治5年(1872). ⑧帰国(A,. 明治8年(1875). ⑨上京して島地黙雷に西洋宗教の趨勢を問う(A)。上洛して島地およ. B)。そ?後相川中教院訓導となる(A)0. び鵜飼徹定に西洋宗教の趨勢を問う(B)。上洛して西洋宗教を研究.

(4) 20. (C,E)0. ⑲帰国後『教法倣言』を書く(A,B,E)0 明治9年(1876). ⑪小学枚教師となる(A)。金沢小学校教師となる(B)。本屋敷村の小 学校教師となる(C,D,E)0 『竹窓日記』を書く(B,C)0. 明治13年(1880). ㊨ 『竹窓日記』出版(A)0. 明治18年(1885). ⑬『竹窓日記』出版(B,C,E)0. 明治20年(1887). ⑭教師をやめる(A,B,C,D,E,)。文部省から「功労4等賞+を受 けるという(A,B,E)0. 『北浜雑誌』創刊(A,B,C,D,E)0. 以上によって,数え年41歳になるまでの本荘のcareerほぼぼ明らかであるが,さらに 記事番号の順にしたがって,若干の補足を試みよう。 まず①にみえる実父豊野典蔵についてほ,後年萩野由之がその墓碑銘1)を書いている が,それによると典蔵は,若年京阪に遊学して宗学を皆遵院宜成に,詩文を古賀精里門の 篠崎小竹に学び,維新後ほ両津郷学校,相川県学校の教師に任じられている。その後「教 授於新穂大野松崎西三川各地+といわれるが,おそらく小学校教師をつとめたのであろ. う。学制に基づく小学校が佐渡(当時は相川県)に設立され始めるのは,明治6年末から7 年にかけてである2)。典蔵の小学校在職は数年間だったらしく,. 「十三年本山以師為米北. 教校三等教授。居数年+と,墓碑銘にみえる。米北教校ほ東本願寺が新潟県三条に設けた 僧侶養成機関であるがー墓碑銘のこの記述は,. 『竹窓日記』明治13年9月5日の粂に「早. 発,抵相川,送家君再航北越8)+とあるのに符合するo上引のごとく「居数年+といわれ ているので,典蔵は本荘が小学校教師をやめるのと相前後して米北教校を退職したものら しい。なお,典蔵の次子典励も,西三川・相川などの小学校教員を歴任しており4),本荘 の父子・兄弟は,いわば「教員一家+だったということができるであろう。 ②の金沢村はのちの呼称で,明治元年当時ほ本定数村である.明治11年の三新法公布の なかおき のちほ近隣の中興・和泉等の諸村と聯合戸長役場を結成,明治21年,合併により金沢村と なっている5)0. ③本間法西に漢籍を学んだことほ,相川の漢学者丸岡南陽(総四郎)が『竹窓日記』に 容せた序文にもみえ,本荘自身も,. 「園主雲鰍老,善詩愛客.余童時,往受句読6'+と書い. ている。. ⑤青柳剛斎ほ,長岡在の王寺川村に私塾希顔堂を開いた漢学者で,杉原心斎門,昇平校 「佐州思水_ にも学んだといわれる7'。彼も『竹窓日記』に序文を載せているが,その中に, 坐,頃郵寄日記,索予題言。生嘗遊於北越,寓予舎有年+ (思水は本荘の雅号)とあり,本荘. が希顔堂に学んだことほほぼ確かなように思われる。しかし彼が越後に遊学した明治3年・ 紘,青柳剛斎を教員首座とし,皇学・漢学・算術・英語の教師18名,会計幹事松村文次捗 らの事務スタッフをそなえた柏崎県学校が発足する年である8'。剛斎の県学校教員就任に. ともない希顔堂は閉鏡されたらしく,明治6年県学校廃校後,剛斎ほ新たに菅我学舎を的 塾してLt、る9).その上本荘ほ,後年,県会議長に任じて新潟県民権運動の.). -ダーとして.

(5) 21. 一地方教師における自由民権運動. 活躍する松村文次郎の写真を見た時の感慨を,. 「予向留学手相崎校。松村氏為幹事。無日. 不接膝論文。今観此軌宛然作再逢之想10'+と記しており,本荘の柏崎県学校入学ほ,普 ったく疑がう余地がない。それゆえ,もし本荘が柏崎県学校のはかに希顔堂にも学んだと すれば,それは明治3年11月県学校が開設される直前の何か月かであろう11'。剛斎ほ本荘 の県学校在学をも含めて「寓予舎有年+といったのかもしれない。 ⑥結局本荘の越後遊学ほ,柏崎県学校での勉学を主とするものだったということになる が,柏崎県学校の教育内容の詳細ほ明らかでない。しかし漢学・皇学のほかに数学・英学 が含まれていたことは確かであり,会計幹事松村と,日夜「膝を接して文を論+ずるよう な自由な零囲気の中で,当時24歳の本荘の視野や関心は,従来の漢学的教養の枠をふみこ えるような方向に,急速に拓かれていったのではないかと思われる。明治8年の上洛は, 恐らくこうした関心の延長線上のできごとであろう。 しかし,彼が英語や数学のような「新学科+に代表される「文明開化+的なものにのみ ⑦にみえるとおり,この時期に宗学(むろん,前時代か. とらえられていたのでないことは,. らの封建教学)を併せて学んでいることからも,たやすくうかがわれる。なお些細なこと だが,彼が宗学を学んだという長昌寺あるいほ長勝寺は,長殿寺の誤りである。 ⑧このように越後遊学以後の本荘には,在来のいわば伝統志向的なものに加えて,開化 志向的なものが新に生まれ,両者が微妙に混在・括抗しあっていくことになるのである が,帰国後,円山浜北(丸山裸)一幕末-明治前期の佐渡における代表的漢学者-と のつながりが生じたらしいことほ,おそらく多少とも前者を強化することになったかもし. れない.酎ヒは,不開化に音通する「浮海窟+の印章を愛用して12',一切の近代的なもの を拒絶しぬいた頑固な保守主義者であるが,彼ほまた度津神社宮司として中教院にも関係 していたので1S',本荘ほ帰国後の中教院訓導任命を放として,浜北と深く相識るようにな ったものであろう。浜北が当時の佐渡の知識人たちに広く影響を及ぼしていたことは, 「反中央集権,反官僚のための不断の斗い14'+を通じ佐渡民権運動の精神を最も純粋に継承 したと考えられている森知幾(のち相川町長)が,浜北の死を悼んで「今日国人ノ文事ニ従 フモノ或-間接ニ或-直接ニ揮テ先生ノ庇蔭陶冶ニ依ラサル-ナシ15'+と書いていること しかし,本荘が「文事ニ従フモノ+の一人とし からも,容易に察知でき畠ところであるo て,常北の「庇蔭陶冶+にあずかったにしても,両者のつながりほ必ずしも強固なものだ. ったキほ考えられず,また本荘が酎ヒから決定的な影響を受けたらしい証拠も見出し難いo 両者の関係は,倶北の側からいえば「以予一日之長,時来請益+と, ていうような間柄である。一方本荘も時折漠北を訪問しているが,. 『竹窓日記』に序し. 「先生老兵。求其継先. 生老,余未知其誰也+と浜北に学問的後継者がないことを,冷淡とも受けとれるような口 吻で語るのみである16'。本荘を「酎ヒ門下+に数える説17'は,おそらく再考の余地があろ う。もちろん酎ヒとの接触が,本荘に何の影響をも与えなかったとほいえず,その伝統志 向的なものを多少なりとも強めたに違いないであろうが,それは決して開化志向的なもの とのバランスを突き崩すはどの強烈なものでほなかったと考えられる0 ⑨ところで,本荘が越後から帰国した明治5年は,真宗西本麟寺沢の島地黙雷が「三条.

(6) 22. 久. 木. 幸. 男. 教則につき建白+ (いわゆる「大教院分離建白書+)を政府に提出して,設置されたばかりの 大数院からの分離運動の口火を切った年に当っている。翌6年から,分離運動ほ東・西両 本願寺派を中心に活発化し,一8年,遂に分離に成功,大教院の解体に至ったことはよく知 られているが18',この年本荘ほ上洛して,島地や浄土宗の鵜飼徹定に面会している。後年 本荘らに招かれて佐渡を訪れた島地ほ,. 「訪本荘思水師席上口占+と題する詩中に,. 「客窓. 一夜青灯下,話尽他年旧雨情+と詠じている19'.島地が本荘と旧知の間柄だったことは明 らかであり,明治8年の本荘上洛の際に面識を得たものと考えられる。また鵜飼徹定につ いてほ,. 『竹窓日記』明治13年7月31日の条に,. 「早起走串,抵沢根大乗寺,謁鵜飼徹定. 師。. -明治8年,予道西京,姶辱知遇,賜以新著諸書。師近年為布教伝道,窮験歩天下, 今航吾州。予以旧識,特往訪之20'+とみえる。 Aにいう「上京+ほ誤りで, Bの記述が正 しいことが判明するが,京都滞在期間はそれほど永くほなかったであろうから,. Eのよう. に「西洋宗教を研究+したとするのは誇張にすぎるであろう。しかし,在洛期間ほ短かっ たにせよ,キリスト教についての知識のあった島地から,学ぶところほ少なくなかったと 思われる。島地の思想は,. 「常識的合理主義以外の何ものでもなかった+との批評もうけ. ているが21),本荘にとってほそれなりに収獲ほあったことであろう。 しかし本荘が鵜飼や島地,とくに鵜飼において顕著な排耶主義にとらわれていなかった ことほ,彼が両津在留のカトリック宣教師ドロアールと親しく交際しており,さらにこの 交際について次のように述べていることからも,容易にうかがい知ることができる。 余之於師,所謂異道老。人或笑吾淀交。余不敢顧也。田伝,吾宗教家,傾力排撃耶蘇者,余不為 得策o惟宜再思o事在自修之一語而己9免)o 仏教者としての本荘が,. 『竹窓日記』の中で宗教について語っている唯一の箇所であり,. 短い記述でほあるが,少なくとも明治13年という時点での彼の宗教思想の一端ほよく現わ れている。この短い記述の中から,彼が近代的な宗教的寛容の精神を身につけていたこ と,明治の近代仏教の特性として指摘される内省的・自律的・自戒的なもが8'がそこに色 濃くにじみ出ていることなどを読みとることは,恐らく容易であろう。京都からの帰国直 後に書いたといわれる⑲. 『教法徴言』が未発見であるため24',彼の宗教思想の詳細ほ知ら. れておらず,したがって断定的なことほいえないのであるが,上洛を境として,開化志向 的なものが本荘の内部でいっそう強まったであろうことほ,想像に難くないのである。 開化志向を強めた本荘は,. ⑪にみえるごとく翌9年から,ある意味で開化の代表的存在. ともいえる小学校に勤務することになる。勤務先ほ金沢小学校(B)とも,本屋敷村の小学 校(Cなど)ともいわれるが,金沢小学校は後年の名称であり,本屋敷村には少なくとも小 学校が存在した形跡がない。のちの金沢村の村域に当時存在した小学校は中興小学校であ る。いったい学制にもとづく小学校ほ,佐渡においても他府県と同じく,明治6年から発 足しているが,中興村における小学校創設ほややおくれ,明治7年である。すなわち同年 9月,中興鐸舎(主著植田六十郎)が,私立学校開業届を出している25'。私立学校開業届 はその他11厚舎からも同時に出されているが,これら12校がその名のとおり純然たる私学 であったのか,あるいはほ実質上は公学でありながら私学の名を冠していただけなのか.

(7) 23. 一地方教師における自由民権運動. 紘,必ずしも明らかでない。しかしどちらかといえば,後者の可能性がつよい。当時は公 立・私立の区別があいまいで,公立校を私立と呼んだ例が少なくない上に,戸長が設立者 になっている学校が,名ほ私学でありながら実際は公学であった事例も,東京において見 出されている28)o中興岸舎を始めとする12岸舎は,その主著が戸長ないし戸長クラスの人 物と認められ,上記東京の場合と同じく,私学名称の公学であった可能性は相当に大き い。. 「今般佐州-ケ国ヲ併. 明治9年,相川県が新潟県に合併された際の「教育指令+にほ,. 但. セテ第九中学区トナシ従前設置スル所ノ二十五校ヲ以テ左ノ通改称侯粂此旨相違侯事 小学区井聯区ノ儀-従前ノ通可相心得尤弐拾五校中二四七九十十八番小学-文部省-関学 申牒以前ノ儀ニ付仮関学ノ儀ト可心得事+とあって,. 「元蝦州小学校政一番小学夷校+以. r元中興小学改十八番小学中興校+を始め,明. 下25校を列記しているが,そのうちにほ,. 治7年に私学開業届の出された6校が見えている27)。これら6校も,. 「従前設置スル所ノ二. 十五校+つまり公立小学校のうちに数えられているわけであって,それほ設立当初からの ことでほないかと思われるのであるが,俊にそうでなかったにしても,おそくも明治9年 以前に,公立校の扱いをうけていたことほ確かである。もっとも明治9年度の『文部省年 報』公立小学校一覧にほ,中興校の名ほ見えていない28'。上引「教育指令+に「開学申牒 以前ノ儀ニ付+とあるとおり,公立校としての正式の届出が文部省宛になされていなかっ たのであろう。. 『文部省年報』に中興校が現われるのほ翌年度で,それによると明治10年. 当時の同校ほ,教場3,教員男3,生徒男77,女4という規模であった29'.この「教場+ が,分教場(分校)をも含むとみてよいなら,本荘の勤務場所は本慶敷村所在の分教場だ ったということになろう80).. ⑫小学校教師としての本荘の生活は,. 『竹窓日記』に現われているかぎりでほ,かなり 優雅なあるいはのんびりしたものだったように見うけられる。 『竹窓日記』にほ, 「眠食ぇ 余,謡経作画,書生常課而己+とか,. 「予退校後,日弄筆研措山水+とかいった,趣味生. 活に関する記述がしばしば見られるうえに81',友人・知己を訪問歓談している記事が少な くない。それも放課後,休日に限らず,週日の早朝から出かけている場合もあれば,帰宅 が週日の午後に及んでいることもある。いずれも学校を欠勤したものと思われる。 日記』は明治13年5月7日起筆,. 『竹窓. 12月31日をもって摘筆されているが,試みに5-6月の. 「早発,過長畝村,誘松永 記事から若干例を拾うと,まず起筆翌日の8日(土曜)にほ, 氏,共訪潟上斎藤徹讐+とみえ, 17日(月曜)には新潟-遊学する従弟を見送ったあと, 「午後四時,遠州原田。困投大新亭--・。遂宿土居原氏+している。土居原氏とほ真宗永 福寺を指すと思われるが,翌18日(火曜)も終日同寺に滞在,. 19日(水曜)帰宅しているo. 6月1日(火曜)にほ畢光寺村本間氏(真宗照覚寺)の酒宴に赴いて宿泊,翌月「卯飲, -酔而還+という有様であった。ついで19日(土曜)・相川へ向ったが,途中友人と出会い 21日(月経) 「因与共酌+したため沢根で宿泊する始末になり,翌日は相川の実家に宿泊,. に至ってようゃく帰宅している.この時は午前8時に相川を出発し,途中,沢根-河原田 問を人力車に乗っているが,. 『佐渡三部町村統計明鑑』によって里程を計算すると82),歩.

(8) 24. 久. 木. 幸. 男. 市区問は約3里,人力車乗車年間1里29町で,午前中にほ帰着できなかったものと思われ る。また27日(日曜)にほ河原田で演説会開催の相談(後述)をしたあと,. 「飲某接+,翌. 28日(月曜)には「帰路頭痛等々。蓋宿醒所致也+と記している33'. このはか,週日の午後かなり遠方の友人を訪問している場合も多いが,当時の1日の授 業時間は5時間とされているので34',早退の形になることもあったと思われる。結局教師 としての本荘は,勤務時間などにあまり拘束されず,かなり自由に行動していたことにな るが,こうした「自由な+勤務ぶりほ彼のみに限ったことでほなく,第2次教育令のもと で教師に対する管理が著しく強化される35'明治14年あたり以前の,農村教師一般に広くみ られたところでもあったのである(なお『竹窓日記』には,教師としての活動を記した箇 所も若干あるが,これについてほの-ちにとり上げる)o. ⑬ 『竹窓日記』が最初から出版を予定して書かれたものか否かほ不明だが,明治18年7 月,のちの博文館主で当時長岡の越佐新聞社を経営していた大橋新太郎の大橋書房蔵版と して公刊されるまでには,むろん数多くの修訂が加えられたものと思われる。前にも多少 ふれたが,刊行に当ってほ円山漠北・丸岡南陽ほか数名から序や験が寄せられている。そ れらのうち最も早いのは, 「光緒十年歳在甲申端午日+の日付をもつ清国人王治本の序文 であり,最も遅いのほ,佐渡出身で当時新潟新聞社在勤の小崎藍川が「明治乙酉立春前一 日+に書いた後記である。これによって,王治本の序文が善かれた明治17年5月以前に原文 の修訂が終り,完成原稿ができ上っていたことが判明する。修訂ほおそらく明治16年末か ら17年初めにかけて行われたらしく,公表のほぼかられるような箇所ほ,むろん削除され たものと思われる。その結果,本荘が12月31日の条に,. 「余就雪聴下,綴録日記。自今夏月 起筆至此。凡-百八十日。其間,或出違,或独居,或題詠古鏡,或採収友人詩,以及風花 雪月晴雨晦明之景o随思随記,展覧一過,欣然自得,不復知筆凍硯氷之苦也86'+と書いて いるように,全体として文人趣味横溢の日記という印象を深めており,また司馬凌海や柴 田収蔵など佐渡出身の著名人のはか,中山千鶴・田中薬園のように島外ではあまり知られ ていない歌人・学者などの小伝を日記の中に織りこんでいることが目立つ点となi,て,内 村資深の欧文に「欲顕辺境逸民姓名,而伝其嘉言発行+,萩野由之の後記に「叙州人来歴 伝記処,使其人千載不朽+とあるように,先人の伝記を伝えることが『竹窓日記』の主な 公刊目的だとする見解87'も生まれている。この見解を全面的に否定するものではないが, 王治本の序文に, 「其始於庚辰五月,終於是年除日。忽而起,忽而止。度必有寓意於其間 者。諭諸竹窓主人。主人咲而不答+とみえることも,すこぶる示唆的である。本荘がr咲. 『竹窓日記』が「忽 って答え+なかった「寓意+が果して何であったかほ断定し難いが, ちにして起り忽ちにして止+んだ明治13年後半が,佐渡民権運動の昂揚期に当っているこ と,日記原文に修訂が加えられたとみられる明治16-17年ほ,彼の周囲で自由党入党者が 16年3月の高田事件に示されるごとく,新潟県下民権運動が大きい危故. 出ている38)反面,. に直面していた時期であ-.)たことなどを思いあわせると,運動の沈滞期に当って,かって ・の昂揚をそれなりに記念し,あわせて将来の可能性を探り求めようとする意図が,日記公 刊にほあったのではないかと考えることもできるであろう。もっとも『竹窓日記』ほ運動.

(9) 25. 一地方教師における自由民権運動. を正面から描いてほいないが,直接・間接の言及ほあり,また次節で述べるごとく,在地 のリーダーとして活躍する人びとが多数登場しているのである。. ⑭ 『竹窓日記』公刊後2年を経て本荘が,足かけ12年に及ぶ教師生活に終止符をうつ理 由についてほ,小学校教師としてほ「佐渡の為に尽さんと欲する能はぎるを痛感したから である89'+といわれている。. 「佐渡の為に尽す+とほ,萩野由之によれば,本荘がかって. 彼に語った一生の抱負だというが40),この抱負が,前述のごとく本荘が身につけていたは ずの自戒・内省の精神とどのように接合するか,という問題ほ残るにしても,とにかく本 荘が,教師でありつつ「佐渡の為に尽す+こと,つまり何らかの社会的活動を試みること 紘,明治10年代後半を通じてまったく不可能になっていた。周知のように明治15年の集会 条例改正ほ,いかなる名目においてでも教師が政治にかかわることを厳禁するものであっ たが,明治14-15年に新潟県が文部省-伺出て承認をうけた教師の言動制限措置として 「雑誌類ノ社長幹事世話掛印刷長+ ほ,一切の「講談演説+や「類誌類ノ編輯+の禁止41), への就任禁止42)などがあり,さらに「教育勧業衛生等ヲ目的トセル演舌会ノ結社+に加入 することさえも, 「公衆ヲ衆メテ之ヲ倣ス48)+場合にほ,禁止の対象となっているo要す るに教師はあらゆる社会活動を封ぜられたのであり,このことほ,森有礼文相のもとでの いわゆる諸学校令体制下においても,基本的にほ変っていない。それゆえ本荘が「佐渡の 為に尽+そうとしたかぎり,教師をやめるはかなかったのであろう。ただし, 『北倶薙誌』 創刊の議が熟して教師を退職したのか,退職後に兼誌発行を思い立ったのかほ,現存史料 の範囲ではいずれとも断定し難い。. なお退職に際して「功労4等質+をうけたというのほ,. 「教育二閑スルー切ノ職員ニシ (明治15年文. テ特二勤労アル者+を5等に分けて「賞与+することを定めた「学事賞与例+. 部省達15号)44)に基づいたものと思われる。もっともこの「賞与例+ほ,担当の文部省褒賞 課が明治18年廃止されたのちほ「自ら行はれなくなった45)+といわれるが,褒賞課廃止後 その事務ほ内記局が受継いでいるので46), 「賞与例+の適用はその後も行われたのであろ う。前述のようにかなり「自由な+勤務ぶりを示した本荘が,. 「特二勤労アル老+として. 表彰対象になったのは,当時としては恐らく在職年限が永かったことによるものと思われ る。. 以上本荘の思想形成の問題にも若干ふれながら,明治20年に至る彼の前半生の足どりを おおまかに眺めてきたが,これまでの叙述をふまえて,本稿の主題である民権運動への彼 のかかわりの問題を,次に取りあげよう。 注. 1) 2) 3) 4) 5). 萩野由之「捷斉師墓碑銘+ (『北浜雑誌』111号,明治29年3月, P.18f.) P.850 『新潟県教育百年史』明治編, 『竹窓日記』15丁オ。 『竹窓日記』3丁オ。相川小学校創立百周年記念誌編集委員会『相小の百年』 『佐渡金井町史』近代編, P.50ff.. P.. 179。.

(10) 26. 6) 7) 8) 9) -9) 10) 0) 11〕 1). 1 2) 1 3) 1 4) 1 5) 1 6) 1 7) 1 8) 1 9) 2. 0). 2. 1) 2) 2 3) 2. 2. 4). 25) 26) 27) 28) 29) 30). 31) 32) 33). 『竹窓日記』30丁オ。 伊東多三郎「近世郷村社会の学問教育管見+ (『国民生活史研究』 3,生活と学問教育, P.383)。 『新潟県教育百年史』明治編, p.680 結城伴造『長岡の教育百年』, p・38。 『新潟教育百年史』明治編, p.550 『竹窓日記』10丁ウ。 『竹窓日記』(25丁り)に「余嘗講業於先生之門+とあるのは,希顕堂に学んだとも,県学校に 学んだともとれるが,つづいて「余同令嗣清蔵,読書於楼上+とある箇所は,希願堂での学習 を叙したものとみるのが自然であろう。 『竹窓日記』27丁オ。 『両津町史』P.3390 森三郎「藩閥郡長と島の民権運動+ (『佐渡史学』9号, p.101) 森知幾「鳴呼浜北先生+ (『北浜祥誌』56号,明治25年6月, P.ll) 『竹窓日記』27丁オ。 松本健一『孤島コソミューン論』 P.270 吉田久一「大数院分離運動について+ (『日本近代仏教史研究』 P.81 ff.) 『北浜雑誌』33号(明治23年7月) P.19o. 『竹窓日記』10丁オ。 福島寛隆「明治前半期仏教徒のキリスト教批判について+ (『仏教史学』 12巻, 4号, P.53) 『竹窓日記』24丁才。 P. 353ff.) 相原祐泉「近代仏教の自律的発展+ (『日本近世近代仏教史の研究』 高橋宏通『佐渡の了寛』ほ,本文に本荘が『教法倣言』を書いたとの記述はあるが, 「参考文 献+中の本荘の著書としてほ『竹窓日記』, 『佐渡水難実記』をあげているのみで『教法徴言』を あげていない.また同書「後記+に「師の記録されたノートが多少ある筈と思われるが,自坊 得勝寺には何も保存されて居らず, -ヰを尽して探し求めたけれども遂に入手し得なかった+ (P・135)とみえる。高橋氏も『教法徴言』を発見しておられないものと思われる。 『府県史料・相川県史』政治乱 学校三。 倉沢剛『小学校の歴史』凱 P 5400 『府県史料・新潟県史』政治部, 学校二之三。 『文部省第4年報』 (明治9年) 2, P.873f. 『文部省第5年報』 (明治10年) 2, P.9050 なお,本荘が小学校教師になった明治9年には, 「ニケ月以内ヲ以授業法ヲ講習セシムル+棉 川仮講習所が, 9月11日開設されており, (『府県史料・新潟県史』政治部,学校一之三),教 師就職前後に彼がここで講習をうけた可能性はある。 9丁オ。 『竹窓日記』7丁オ。 斎藤長三『佐渡三郡町村統計明鑑』 (山本惨之助編『佐渡叢書』 9巻) .. 『竹窓日記』 1丁オ。. 3丁オ。. 4丁り。. 6丁ウ。. 7丁オ。. 「新潟県小学校則+ (明治9年), 「村落小学教則学科表+ (明治11年) (『新潟県教育百年史』明 治編, p.1013, P.1018) 35)明治14年1月の「学務担任ノ老事務要賓+ (明治14年文部省達8号)は,郡区の学務担任者の 任務の一つとして「町村立小学校及私立小学校教員等ノ能否勤惰ヲ監督スル事+を定めている が(『明治以降・教育制度発達史』巻2, P.220f.),新潟県でほこれをうけて同年5月, 「郡書 記中学務担任者事務心得+を制定,そのなかで「学務委員町村立学校教員ノ進退並能否勤惰及 其褒賞慰労徴罰等ノ件ヲ調査スル事+を規定した(『新潟県教育百年史』明治編, p. 1039)。 36) 『竹窓日記』30丁り。 37) 高橋宏通『佐渡の了寛』 p.21。 38) 『佐渡金井町史』近代編, P.290 39) 高橋宏通『佐渡の了寛』 P.250 40) 萩野由之「序文+ (本荘了寛『佐渡水難実記』) 41) 『文部省日誌』明治14年, 24号, P.32。 34).

(11) 27. 一地方教師における自由民権運動 42) 43) 44) 45). 同上,明治14年, 35号, P.400 同上,明治15年, 17号, P.350 『明治以降・教育制度発達史』巻2, 同上,. P.234f.. P.2370. 46). 同上,. P.5950. ⅠⅠ. 『竹窓日記』が善かれた明治13年は,前述のごとく民権運動の新しい波が佐渡に流入し, いっきょに昂揚をみせた年であり,羽生郁次郎(のち鵜飼家に入籍し,県議・代議士となる),若 林玄益(夷町の医〔軌漢学者)を始め,運動指導者の多くが『竹窓日記』に登場している。 しかし『竹窓日記』が民権運動について直接に述べているのほ,. 11月3日の次の記事のみ. である。 近来,国会論蜂起四方,請願者集驚下。吾州亦有遠縁代之議。是日,石塚氏来日,羽生当牒,昨 己上舟1)0. 文中にみえる石塚ほ隣村中興の石塚秀策で,本荘自身が,. 「予近郷可与言老,独有石塚. 秀策耳2)+と語っている人物,羽生ほいうまでもなく羽生郁次郎である。彼ほ原黒村鵜飼 家に入籍してのちほ,本荘と姻戚関係になるのであるが3',この時点では竹田村豪農の子 息で本質のア歳年少の友人である。彼が「佐渡国二郡二十六ケ町二十壱ケ村二百八十七名 総代+として国会開設請願書を提出し,国会期成同盟第二会に加わったことはよく知られ ているが4),彼の給代当選を本荘がわざわざ書きとめているのは,ひかえ目にみても,国 会論-民権運動-の本荘の関心の深さを示しているということができるであろう。その 上, 「吾が州もまた総代を通すの議あり+という表現は,本荘がかねてこの「議+に与っ. ていたか,あるいほ少なくともそれを前以て知っていたことを示しているようでもある。 もちろん,そのいずれとも断定することはなかなか困難であるが,本荘の民権運動へのか. かわりが単なる関心のレベルにとどまるものでなかったことは,実は『竹窓日記』の記述 そのものをとおして明らかにし得るのではないかと思われる.ただその際,明治13年にお ける佐渡民権運動の進行状況を,まず明確にしておく必要がある。なぜなら『竹窓日記』 ほ上引の箇所以外,民権運動について明示的な書き方をしていないので,運動の進行状況 と照合しつつそれをみていかないと,本荘が運動にかかわったことに関する記述も見落さ れてしまう可能性があるからである。. ところで,先行研究によってすでに明らかにされているところによれば5',明治13年の 佐渡民権運動には二つのグループがあったといわれる. オっ. ′-i. Jナ、. -つほ羽生を中Jむとする相川・国. 仲地域ないし薙太・羽茂両郡グループであり,他ほ若林や神原清典(湊町)による両津地 域ないし加茂郡グル-プである。運動に先鞭をつけたのは後者であるが,組織としては前 者が大きい.. 13年段階では両者は平行的に運動を進めていて,合流・統一には至らなかっ. た。若林・神原が運動に乗り出すのほ,越後の山際七司・小山宋四郎らがひろく県下有志 に呼びかけて, になっている6). 4月5日新潟区で開催した国会開設懇望協議会に出席したことがきっかけ (かって官立新潟師範学校に学んだ神原が,同校が廃校になったため上京.

(12) 28. 久. 木. 幸. 男. 遊学を企て,途中高田で室孝次郎に出会ったことが,. 「新潟と佐渡gJ民権運動を結びつけ る役割を果+したともいわれているが7',典拠ほ明らかでない)。ついで5月16日開会の第. 2回協議会にほ,両津グループを代表して若林が出席した。この会議でほ,国会開設建白 書の文案と上京委員(山際はか1名)が決定され,委員ほ6月末上京して,元老院に建白し ているo委員帰国後2回(9月1日・10月1日)にわたってもたれた協議会(いわゆる弥彦会 読)に両津グループの出席があったか否かほ明らかでないが,来会者ほ「各郡幹事二十一 名+といわれているので,おそらく若林が参加したのであろう。そして第2回弥彦会議で 「新潟県下越佐両国一区十五郡有志人民一千二百五十一名総代+に選任された山際らほ, 発太・羽茂グループ代表の羽生を始め,県下他グループ代表とともに上京,活発な請願活 動に入るのであるが8',. 4月に運動を開始して以来この時までに両津グループが獲得した 請願書署名数は, 47名であったといわれている9'。 両津グループの運動がはかばかしく進展しなかったことは,同グループの磯野信書が越 後の小柳卯三郎に宛てた10月26日付書翰に, 「我佐州ノ国会論者タルヤ家々農星タタナラ スト錐モコレカ先鞍トナリ多少之困難アルモ不屈同義タル老-我加茂郡即チ我々ノ山際君 二新潟二同義ヲ表スヤ帰郷ノ上迅速三郡団結ヲ計画セントシ小葉ノ印刷物ヲ配布シテ勧奨 シタリシモ時運未来--カ将夕智識ノ進歩セサルこ因ルカ皆人打捨テ回顧セスー言ノ国会 件二及フ者ナシ10'+と書いているとおりであるが,いっぽう薙太・羽茂グループが動き出 すのほ,. 9月中旬からだとされている11'。すなわち磯野書翰によれば, 「此程与板斎藤和 内卜云フ青年渡航--雄太郡工来り相川二在駐シテ同志ヲ募リシカ-数日ナラサルニ三拾. 余名ノ同議者団態シタリ--・遊説委員六名ヲ撰ヒ三部-派出セシメ町村毎二遊説セショリ 同意ヲ表スルモノ数多ニテ釆り廿八日川原田町二於テ三部大親睦会ヲ開キ十一月十日東京 大会二出会ノ委員ヲ撰挙シ其後釆ノ方向ヲ議決セントノ旨意ナリ10I+といわれ,両津グル ープにくらべ,きわめて短期間に運動が拡大していることがうかがわれる。この書翰中に いう「川原田町+の「三部大親睦会+が,本節の始めに引いた『竹窓日記』に, 「羽生当 撰+とみえる「追給代之議+にほかならないが,このように,両津グループの行きなやみ とは対照的に,わずか1カ月半はどの間に薙太・羽茂の運動が急速に進展し,. 300名近い. 署名12'が獲得されたについては,もちろんいろいろの原因・理由があったことと思われ るo予想される原因の第一ほ,雑太・羽茂と加茂との社会的条件の差,あるいほそれぞれ の社会的基盤をふまえて登場する運動の担い手の相違であり,第二ほそれら担い手を代表 しつつ1). -ドしていく指導者の問題である。 第一の点に関してほ,担い手の社会階層や職業を分析して,運動の地域差を明らかにす ることも試みられている。運動をキメこまかにとらえていく上で欠かせない貴重な視点で あるが,実際に行われた請願書署名者の階層分析の結果によれば,同じ雑太郡内でも相川 でほ中小商工業老・知識人が主体で,地主・廻船業者・酒屋を主とする国仲とは著しく相 違し,後者ほ両津地区と共通するところが多いといわれている13'oしかし,相川対国仲. 両津という比較の仕方では,当面の問題である雄太(相川・国仲)と加茂(両津)とにおけ る運動進展状況の違いを解く鍵が得られないだけでなく,例えばひとくちに地主といって.

(13) 一地方教師における自由民権運動. 所得金高(円) 4,743. 第1表. 明治20年慶祝税下詞書(新穂村後藤家文書)14). 郡・町. 村. 名. 1発太・相川町. 職 F. 秋. 田. 藤十郎. 商・地主 地主. も296. 加茂・小田村. 梶井五郎左二門. 3, 872. 乗巨大・相川町. 幅. 野. 長. 蔵. 商・地主. 〝. 大. 島. 喬. 任. 鉱山局長. 治. 作. 地主. 渡. 鉱山技師. 3, 654. 〝. 2, 450. 〝. ●. 〝. 松. 栄. 1, 350. 〝. ●. 〝. 渡. 辺. 1, 316. ク・河原田町. 中. 山. 1, 291. 羽茂・宿根木村. 1, 205. 兼太・沢根町. ●. 1, 146. 〟. ・米郷村. 1, 000. 〟. ・相川町. 936. 〝. ●. 〝. 】◎. 五兵衛. 地主. ◎. l ◎△. ◎. 伊藤佐左工門. 地主. 】. 青. 野. 半五郎. 地主・廻船. l. 渡. 辺. 七十郎. 地主. 川. 島. 尊大郎. 地主. ○. 浅. 香. 周次郎. F. 代言人. ※. E. 商. 630. 加茂・夷町. 土星六右エ門. 591. 雄太・相川町. 柄. 沢. 寛. 586. 加茂・原黒村. 鵜. 飼. 郁次郎. 560. 雑太・舟下村. 後. 藤. 五郎次. 523. 羽茂・背合村. 松. 本. 八十八. 439. 加茂・葵町. 鈴. 木. 立. 雄太・新町村. 山. 本. 加茂・湊町. 北. 帝大・河原田町. 高. 加茂・梅津村. 市. 雄太・五十里町. 児玉茂石工門. 〟. ・中興村. 植. 〟. ・千種村. 橘. l代言人 地主・酒造. 医. 桂. 医・地主. 地主・酒造. 橋. 又三郎. 地主・郵便局. 橋. 藤. ※. △※. 地主. 地主・酒造. 五之八. 善. ○※. 地主. 慶太郎. 田. ※. 、地主・酒造. 庵. 蔵. ◎△. 書. 地主. l地主・牧畜. △※. l ※.

(14) 30. 久. 木. 幸. 男. ち,それがどのような地主か-寄生化しつつある大地主か,手作り地主か-を不問に するかぎり,運動の担い手をその社会的基盤との関連においてとらえるということにほな り難い。事実第1表に明らかなように,鵜飼を除いて大地主層からは雄太・加茂を問わず 「民権派+は一人も出ていないo国伸の「民権沢+地主は, 『地価持銘鑑』に登載されない ていどの手作り中小地主である。彼らのあるものが,大地主とともに「相川暴動+の襲撃 対象となっている点は無視できないが,同時に手作り地主として富農・中農層-さらに 第2表 佐渡7町における国税5 円以上納付老数15)(明治27年). は同じく独立自営者として中小商工業老とさえ,共通 基盤をもっていたことも,また見のがすわ桝こはいか. ない。つまり雄太・加茂いずれの地域でも,運動の担. 5円以上 15円未満. 15円以上 17. い手ほ(知識人を除桝ぎ),このような意味での独立 自営者層だったのであり,それゆえにこそ自由民権運. 相川町1. 16. 動はブルジョア民主主義革命を目ぎす運動と規定され. 五十里町1. 34. もするのであろう。. 新. 22. 雄太・羽茂と加茂との違いほ,むしろこうした独立. 河原田町. 自営者の数,あるいほその層の厚さにかかわる問題で ほないかと思われる。第2表は,時期的にほややおく れるが,佐渡3郡でそれぞれ地域の中心をなしていた. 第3表. 湊. 町. 夷. 町. ll. 12. 小木町. 7町における国税5円以上納付老数を示したものであ るが,一見明らなごとく,両津. 町. 32. 国税15円以上納付老出現率16) (明治23年). (湊・夷)と,相川・国仲3か町 総戸数. (五十里・新町・河原田). ・小木(羽 茂郡)との間の相違は,ひじょ. 国税15円. 同左出. 以上納付 (a) 者数(b). 現率 b/a x. 100. うに大きい。すなわち両津では. 雄. 相. 川. 2,836. 1. 5円以上15円未満層が絶対数に. 太. 農. 村. 7,070. Z. 235. 3. 32. おいても,また15円以上層との 比較においても,とくに目立っ. 那. 10,906. 1. 253. 2. 32. 計. 加. 両. 津. 茂. 農. 村. て少ない。概括的にいって前者. は中小地主や商工業者,後者は 大地主・大商人と考えられ,前. 那. 者が民権運動の主要な担い手た. 羽. 小. 木. る独立自営者層にはぼ該当する. 茂. 農. 村. のであるから,両津におけるこ. 計. 那. の階層の数的貧弱さほ,この地 域の運動の進展を困難にする,. 計 都 市. 少なくともかなり有力な一因だ. 那. ったということができるであろ う。. 計. 農. 村 計. 940. 18. 1. 0.63. [. 214. 3.64. 6,848. 1. 222. 3.10. 854. E. 3. i. 71. 2. 06. 4,299. 1. 74. 1.72. 16, 423. 21,053. 】. 2.79. 0. 35. 3,445. 1. 0.63. 520. !. 3.23. 549. 1. 2.49. 29. 2.69. 0. 85. 8. 5,908. 4, 630. 農村と都 市の出現 率の差. 1.71. 2. 60.

(15) 31. 一地方教師における自由民権運動. その上両津は,周辺農村部との社会構造における差遣が,とくに大きかったのでほない かと考えられる。第3表によれば,各郡の中心都市である相川・両津・小木ほ,いずれも 周辺農村部にくらべて,国税15円以上納付者の出現率がはるかに少ない。このことほ,都 市部において貧富の差がひろがり,階層分化が進展していることを示していると考えられ るが,逆に農村部では15円以上納付老出現率が高く,階層分化は未発達である。これほ三 部全体に通じる傾向であるが,その中でもとくに未発達なのほ加茂都農村で,そのため両 らべ. 津と加茂郡農村との出現率の差は,相川と耗太郡農村,小木と羽茂農村との差にく て,いちじるしく大きくなっている。両津と加茂郡農村との社会構造におけるこのように 大きい差違は,両津に流入した運動が周辺農村に蓉透していく上での相当大きい阻止要因 になったと考えられるのである。 次に指導者の問題であるが,指導者といっても両グループの指導者羽生と若林の資質や 能力をとり上げようというのではない。彼らがそれぞれ運動の担い手たちの要求や動向を どのように代表し得たか,あるいほことばを換えていえば,明治維新後「佐渡の政治上の 位置ほ急速に没落の度を加えた。そうしたできごとが鳥人の政府観に変化を与えたのは当 然であった17'+と指摘される場合のこの「変化+杏,彼らがどのように体現し得たか,と いうことが問題である。そして結論を先取するなら,幕末に京都へ遊学し維新後「歌代郷 校教師となり徳望が高かった18'+といわれる若林よりも,恐らく郷党の輿望を担って上京. 「島人の. しつつ3年後に深刻な挫折体験をもって帰国せざるを得なかった羽生のほうが,. 政府観の変化+をよりよく体現し得る人物だったといえるのでほないかと思われるのであ る。羽生の挫折体験についてはすでに先行研究でもとりあげられているが19',若干の新史 料の紹介も兼ねて簡単にふれておこう。. これまでにも知・られているように,羽生は如治9年12月,官立新潟師範学校をその第4 期生として卒業している。同期卒業生ほ次の15名だが,そのうち岩木と羽生が佐渡出身 で,岩木は師範入学以前の明治6年,相川小学校教員を勤めた経歴のある人物である20)0 新潟師範学校小学師範科卒業生 新潟県 岩木 拡二十二年七月 新潟県 草生鉄馬二十年一月 新潟県 木村直義二十八年五月 新潟県 小林撰蔵二十二年六月 山形県 中山欽一郎十九年二月. 福島県浜崎芳雄 長野県原沢紀堂 新潟県安原金八 新潟県奥羽広義 山形県根本利三郎. 息詞. 二十三年. 新潟県閑. 二十一年十月. 新潟県羽生郁二郎 新潟県木村慎二 新潟県矢部成党 新潟県重野緩行. 二十年 二十三年八月. 二十三年八月. 二十二年五月 二十二年六月 二十三年四月. 二十四年七月 Bl). 二十年. 周知のように大学区ごとにおかれた官立師範学校は,卒業生をその大学区内各府県に派 遣して正則による小学校教育を普及することを狙いとするものであったが,この15名の卒 業生中,岩木・羽生ら7名が東京府に招かれることになった。すなわち東京府では次の 「懸合奏+を作り,岩木らの派遣方を11月17日付で新潟師範学校-照会している。 小学校教員徴募之義二付官立直轄師範学校卒業生承合侯処,別航人名之老十二月上旬卒業之趣二付 左二新潟師範学校-御掛合案相伺候也 但一人月給十五円之筈二幹事平井正ヨ1)往復済二有之供事 御懸合案 新潟師範学校御中 東京府.

(16) 32. 久. 木. 幸. 男. 青森県士族浜崎佐太郎 長野県士族原沢紀堂 新潟県平民羽生郁二郎 薪潟県士族閑 息詞 新潟県平民岩木 拡 新潟県士族奥原広義 山形県士族中山欣一郎 右之老共当時於御校就学中之趣之処卒業之上-府下小学教員二採用致度侯問御差支モ無之侯-予メ 卒業之期共御回答有之度及御癒合険也BB). 15名中この7名が選ばれた基準は明らかでないが,新潟師範では上記照会に対し次の回. 答を寄せ,岩木・羽生らの東京府小学校への赴任が決定した。 当校卒業生御府下小学校教員二御採用相成供二付予メ卒業之期回答可致旨御照会之趣拝承仕侯右釆十二月中旬頃迄二無相違卒業相成侯二付此段御東知被下度右御回答侯也 明治九年十一月廿八日 新潟師範学校(校印) 東京府御中B3). 明治9年末あるいほ10年早々上京した岩木たちは,いったん東京府学務課傭の身分を与 えられたが,. 1月17日付で岩木ほ,. 「第五中学区三番公立小学待乳山学校四等訓導申付月. 給金拾五円支給侯事24)+という辞令をうけた。いっぽう羽生ほはぼ同じころ,月給15円の 学務課傭の身分のままで「霊岸島学校当分出束25'+を命ぜられている.ところが岩木ほ, 待乳山小学校赴任後4か月の5月18日付で, 存せず退職理由は明らかでないが,. 「依願免職務26)+ぜられた.岩木の辞表は現. 『竹窓日記』にほ『岩木氏,名拡。. --嘗同羽生氏, 卒業干師範校,共道東京。先走以病婦。今従事小木校27'+とみえる。帰国後小木小学校に 勤務しているのであるから,教師の仕事を嫌ったのではなく,. 『竹窓日記』にいうごとく. 病気による退職であろうが,都市生活への適応困難という事情もあったかもしれない。羽 生ほ岩木の帰郷後も東京にふみとどまるが28),勤務校も俸給も変っていない。ただ身分 は,. 6月6日付で学務課傭から東京府師範学校六等教師兼霊岸島小学校四等訓導29),つい. で7月19日付で師範六等教師を免ぜられて霊岸島小学校専任80)と,目まく小るしく変ってい る。学務課傭,師範教師といってもおそらく形式のみのことで,終始霊岸島小学校の首座 教員格として勤務したものと思われ,明治12年5月8日にほ, 「満壱年以上勤続二付為慰 労金五門下付31)+されているが,同年10月末,遂に次の辞表を提出する。 解職顕 私儀 是迄霊岸島小学校教員相勤来候処近来胃病二羅り何分軽業致兼侯二付職務御差遣被下度此段奉懇頃 候也 明治十二年十月三十日. 羽生郁次郎㊥. 東京府知事楠本正隆殿8皇) 辞表にいう「胃病+が,果して「授業致し兼ね+るはどの重篤なものだったか否かほ明. らかでないが,下町の小学校での3年にわたる教師生活に新しい展望を見出せなくなり, 深い挫折感にとらえられていたことが,彼を辞職にふみきらせた主な原田でほないかと思 われる。羽生の辞職前後の事情について『竹窓日記』は,. 「遷東京,為某校教員者三年。. 一日慨然日,小学教員所謂好為人之師o我輩当自求進取o豊可棟々与童児伍乎.遂辞職, 客秋北帰88)+と述べ,後年山本悌次郎が書いた彼の頒徳碑にほ, 「明治九年卒業官立新潟 師範学校,遠従事東京府教育,既而祝時勢変遷,深憂之,辞教職,而掛合同志建国全開設 之議きl)+とみえる。後者ほ辞職帰郷後の彼の行動から,逆に辞職理由を推測したものと見.

(17) 33. 一地方教師における自由民権運動. られなくもないが,彼が在京した明治10-12年ほ,西南戦争中の立志社建白を契機に,氏 権運動が「広汎な国民層に基盤をもとうとする質的転換の第一歩をふみ出した85'+時期に 当っており,彼がその影響をまったく受けなかったとはいえないであろう。しかし在京中 の羽生が「時勢の変遷を祝,深く之を憂+えたにしても,帰郷後直ちに「同志を糾合して 国会開設の議を建+てたわけではない。時勢への憂慮ほ,東京生活における展望の喪失あ るいは深刻な挫折感と,おそらく重なりあうようなものだったのであろう。彼が辞職に際 し「我輩,当に自ら進取を求むべし+と考えたと『竹窓日記』が述べているのほ,当時の 「東京+ほ自ら 羽生の心境を正確に伝えるものというべきである。つまり羽生にとって, の「進取+を阻害するものでしかなかったのであり,同時にまた「東京+に代表される明 治政府ほ国民の「進取+を妨げるものとして映じたのである。 このように,東京における挫折体験を通じて,自己と国民の「進取を求むべし+という 一つの結論を持ち帰った羽生ほ,確かに佐渡民権運動の背景となった「島人の政府観の変 化+ないし「政府批判の高まり86'+を代表するにふさわしい人物として帰郷したのである が,相川・国仲地区の運動が成功した理由としては,叙上の二点,つまり同地区の社会的 条件および指導者の問題以外に,今ひとつ見逃せない点がある。それほ,既述のごとくこ の地区の運動が表面化する明治13年9月以前に,運動の地ならしあるいは準備工作的な活 動がなされていた形跡があることである。そして本荘の運動-のかかわりも,実はこの段 『竹窓日記』6月27日の粂 階から見出されるのではないかと思われるのである。すなわち, には次の記事がある。 同羽生中山石塚諸氏,会川原田高橋氏,議開演説会8n.. このうち羽生ほいうまでもなく羽生郁次郎,中山はのちに羽生グループの中堅リーダー 格の一人となる河原田町の中山春三,石塚は前記石塚秀策(のち自由党加入B8'),高橋は欝 1蓑にみえる高橋又三郎で,羽生グループの中堅リーダーである。この演説会が実際に開 かれたか否か,また純然たる政談演説会であったかどうかほ明らかでないが,佼に政談演 説の形がとられなかったにせよ,当時は一般的な啓蒙を標模した小結社や演説会が盛行し ており,それらが民権運動の先駆的役割をにないあるいは運動組織の母体となっている例 が多い89'。羽生や本荘とともに「演説会を開くを議+した人たちののちの行動から考えて ち,この演説会計画が少なくとも結果的にみて,運動の準備工作的役割を果したであろう ところが羽生たちと演説会の計画を練った本荘ほ,これより ことは,想像に難くないo 先,. 5月8日,両津の若林玄益を訪問している。用件は明らかでないが,若林が第2回国. 会開設懇望協議会(5月16日)に出席する直前であり,かつ両者は「締交累年40'+という間 柄であったから,運動のことは当然話題にのばったことと思われる。いなむしろ,前引磯 野信書書翰にいうごとく当時組織の拡大に努めていた両津グループのリーダー若林が, 5月9日帰宅 本荘に強力に働きかけたとみるはうが,自然であるかもしれない。その上 した本荘のもとへ,中山春三が来訪している41'b もしこれが偶然でなければ,羽生・中山 など国仲の人たちを代表する形で本荘が若林と会談し,中山はその結果の報告を求めて本 荘を訪ねたものと考えることも可能であろう。また仮にそうでないにしても,若林からの.

(18) 34. 久. 木. 幸. 男. 働きか桝ま本荘を通して羽生・中山らに早晩伝えられ,その結果が6月27日の演説会計画 に連なっていったのであろう。若林ほその後も本荘と連絡をとりあっており42',また両津 グループからの働きか桝まむろん若林一本荘というルートのみにほ限らなかったであろう が,結局そのいずれもが奏功しなかったことほ,磯野書翰にいうとおりである。しかしこ の段階でほ不発に終ったにせよ,国仲の人たちの間に組織化の動きが事前にあったこと ほ,やほり9月以降の運動の急速な進展の伏線をなすものだったといわざるを得ないので ある。. 雄太・羽茂における運動が活発化する9月中旬以降に関してほ,. 『竹窓日記』に次の諸. 記事がある。 (九月)十四日,晴。三部有志諸氏会川原田,議設物産会社。夜亦開演説会。予赴之。釆友夢々, 論壇寂々。郷里橘君,素非説客。是夕,立演賛成之説。余及羽生氏,亦述意見而罷。中山兄投岩木 羽生及予,就某楼-酌48). (十月)十七日,是夜約演説会於沢板校o ・・.・・・同社友,-酌伊藤楼,酔後上論壇.論弁頗覚吉本渋 滞44)o (十一月)十三日, I--午刻連小木。 -・-投宿伊藤氏 主人乃語日,社友風間岩木二氏首来訪。 困倶至校舎.設壇於楼上聴客満賂,論士不乏o甲退乙進,各吐思想.余亦説漬物之成立一題46). (十一月)廿八日,風止,徴雪。午後郵丁投一書。有設演説会於五十里校之報。逓致後時,遂不得 赴46). (十二月)十八凱徴雪.再赴演説会,於小木.事如前47).. -. これらの記事に現われる既出以外の人物としては,橘・岩木・風間があるが,橘は橘善 普(のち自由党加入48'.第1表参照),岩木は羽生とともに上京した岩木拡,風間は風間 儀太郎49'で,この二人ほ当時小木小学校教師である.. 「物産会社設 立+を前面に押し出して,ブルジョアジーへの転化の直前段階にあった独立自営者層にひ 9月14日の演説会は,. ろく結集を呼びかける形になっているが,中心メンバ-や開催時期からみて,井太・羽茂 グループ民権運動の国仲地区における旗揚げを意味する集会だったと考えられる.物産会 社設立を標模したのは, 6月段階での運動の行きなやみにかんがみて,独立自営者層の要 求を広くくみ入れる形をとろうとしたものであろう。しかし「釆友家々,論壇寂々+とい われるとおり,集会ほ不成功に終っている。その後本荘ほ,彼なりに組織化に努めたらし く,石塚(9月17日),中山(10月10日)のほか,河原田の医師近藤玄洋(10月6日),同じく 小学校教員金刺操(10月16日)らと面談したり,長畝村の親戚をわぎわざ訪問(9月28日) したりしている50'o. これらの訪問,面談がことごとく運動に直接関係するものだったとは. いえないが,とにかく兼太′・羽茂両郡中心の結社がやがて成立するに至ったことは,上引 10月17日,. 11月13日の記事に「社友+の語が見えるところから明らかであろう。そして. 「社友+たちの努力によって10月17日にほ上引のごとく沢根で演説会がもたれ,こうした 運動の盛り上りほ,本節始めに述べた10月28日「三部大親睦会+へと連なっていくのであ るが,本荘たちの演説会は,この親睦会後もつづけられている。上引11月18日の記事によ ると,この日の本荘の演説は「物之成立+であるが,おそらく一般的啓蒙という形式をと りつつ,運動ほ展開されていったのであろう。 ところで10月28日の会合では,  ̄羽生が既述のごとく出京委員に選ばれたほか,丸岡南旅.

(19) 35㌻. 一地方教師における自由民権運動. の子息丸岡重五郎が会長に選出さ.れその他9名が委員・会長選挙で得票を得ているo社 友たちの中でリーダー格と目されるこれら11名の氏名(住所・職業)ほ次のごとくである が,知識人層がとくに多いことが目立っている。. <相川地区>. 浅香周次郎(軌代言人). 丸岡垂五郎(相川町,折柴小学校教員). 勝弘(同,湘北小学校首座教員). 早川直昌(軌旧幕臣・剣士). 橋本. 黒部権吉(同,商人・. 戸長). <国伸地区> 川村,県議). 羽生郁次郎(竹田村,師範学校卒). 中山春三(河原乱師範学校卒). 山本桂(新町,医師) 浦本金太郎(同,商人). 池野最平(皆. 高橋又三郎. (同,農)51). 社友中の幹部クラス11名中,. 2名が現職小学校教員,. 2名が師範出身であるが,相川町. の請願署名者50名52'中にみえる長谷川安邦・井関伯二・渡部安雄の3名も53'小学校教員で ある。当時の相川の小学校2校の教員総数ほ10名内外と考えられるので,丸岡・橋本以下 5名,つまり半数前後の教員が運動に加っていたことになる.一地域における教員の参加 率としては,相当に高率だといえよう。そのほか小木の岩木・風間,国仲の金刺・本荘, 両津の神原など,いずれも現職教員あるいぼ師範出身者である。松沢求策が「我地方ノ自 由-師範学校ノ森林中ヨ1)所生セリ54)+と述べたことほ余りにも有名であるが,佐渡の民 権運動も師範出身者や小学校教師たちを有力な担い手として推進されたのであり,. ・本荘の. 運動-のかかわりもこうした状況の中で展開していったのである。 運動の中で量的にも質的にも重要な位置を占めた教師たちが,その政治関心や政治実践 をどのように教育実践と結合させていったかは,佐渡の場合に関してほあまり明らかでな い。. 『竹窓日記』にも,本荘の教育実践の内容や方向をうかがうに足るような記述は見当. らない。. 5月12日の粂によれば,彼ほ次の詩を作って児童に示したというが,とくに彼独 自の教育観が現われているわけでほない。 児童今日喜文明,従我朝々上学資.才与不才均努力,相期他日博栄名68)o. わずかに「均努力+というあたりに,のちにイタリア王族の平民的態度を「泰西夙以文 明鳴o 宜哉56'+と称讃しているのに通ずるものが見出されるべきであるかもしれないが, それにしても「相期他日博栄名+という激励は,前述のように羽生が自ら求めるべきこと を痛感した「進取+とは,かなり異質のものだったのではないかと思われる。そのはか 『竹窓日記』にほ,学事会(教育小会)の記事が散見するが,その議事内容についての記 述はない57).新潟県でも明治12-13年にかけて教育小会-の規制は強められており58),教 育小会は教師たちが自己の教育実践を鍛える場ではなくなっていた。なお本荘は,明治12 年から「為学齢外子弟開夜学59)+いているo一般的にはとくに珍しい例でほないが,当時 の佐渡ではかなり稀有なことだったのではないかと思われる¢0)。このように本荘の場合, 政治関心を小学校教師としての教育実践に結びつける点が弱く,従って彼の努力は,青年 対象の夜学を含む社会実践に向けられがちであった。ところが前節でも述べたごとく;明. 治14-15年にかけて教師の社会的活動が全面的に禁止された結果,本要は遂に運動からの 後退を余儀なくされたのである。.

(20) 36. 久. 木. 幸. 男. 明治14年以降の何年かをよ,小学校教師の活動にとくに依存するところの多かった佐渡の 民権運動にとっても,確かに沈滞の時期であった61'。羽生・丸岡も,明治14年設立の佐渡 中学教師としてしばらく雌伏している62'.羽生が県議に出るのほ明治18年,丸岡は同年折 柴小学校校長に転じたあと,明治20年代になって相川町政に活躍する。むろん一方には, 岩木や井関伯二のごとく20年代以後も永く小学校教員の地位を離れなかった人もあった。 明治20年,教師をやめて「社会教育家+のみちを歩む本荘ほ,羽生・丸岡と岩木・井関の 中間に位置づけられようが,それはまた,ともに民権運動の激動にかかわった地方教師 の,一つの生き方であったともいえよう. 注 1) 『竹窓日記』24丁オ。. 2)同上,. 18丁オ。. 3)明治21年,郡役所移転問題にからんで,相川の壮士たちが鵜飼(羽生)郁次郎宛に「其親戚た る本荘了寛氏の名前+をかたった「決闘状+を出した事件があったが(『北浜雑誌』 15号,堺 治22年1月・ P・ 13),本荘の母方の祖母ほ原黒村鵜飼家の出身であり(高橋宏通『佐渡の了寛』 P・7),本荘と鵜飼(羽生)は姻戚に当る。 4) 『自由党史』(岩波文庫版)中, P.310 5) 金原左門,江村栄一「自由民権運動関係資料(-),国会開設請願書,建白書の作成過程+ (中 央大学法学会『法学新報』 71巻・ 8号, P・57)。本間均一「国会開設運動とこ三の県内資料+ (『新潟史学』4号, P・71 ff・)o新潟県史研究会『新潟県百年史』上, P.317ff.松本健一『孤 島コソミューソ論』 P.15ff. 6) 永本千代治『新潟県政党史』 P.29ff. 7) 松本健一『孤島コソミューソ論』 P.1330 8) 永本千代治『新潟県政党史』 P. 510 9) 新潟県史研究会『新潟県百年史』上P.3160 10) 本間怜「国会開設運動と二三の県内資料+ (『新潟史学』4号, P.72) ll) 金原左門・江村栄一「自由民権運動関係資料(-),国会開設請願書,建白書の作成過程+ (中 央大学法学会『法学新報』 71巻, 8号, P.57) 12) 『自由党史』(岩波文庫敵中, P・31)によると請願書署名者は287名であるが,羽生が提出し た「国会開設哀願書+によれば,署名者は290名である(新潟県史研究会『新潟県百年史』 上, P.319f)0 13) 石瀬佳弘「佐渡の自由民権運動について+ (『地方史研究』136号, P.38) 14) 田中圭一「北一輝と佐渡+ (『新潟史学』6号, P・45).ただし明白に誤植と認められる部分は. 15) 16) 17) 18). 19) 20). 21) 22). 訂正し,また「職業+ 「備考+欄ほ, 『北浜雑誌』,『明治25年地価持銘鑑』(『新潟県農地改革 史』資料篇5 P・65f),阿部恒久「明治二十三年米騒動の展開過程+ (『新潟史学』 ,地主資料, 7号,P.45ff.)により作成。 斎藤長三編『佐渡三郡町村統計明鑑』 (山本惨之助編『佐渡叢書』 9巻) 線戸数ほ『北浜耗誌』 34号(明治23年8月)P.29, 35号(同年9月)P.34. 36号(同年10月) P・31に,納税者は同30号(同年4月)P.22による. 田中圭一「北一輝と佐渡+ (『新潟史学』6号, P.43) 『両津町史』P. 3260 松本健一『孤島コソミューソ論』 P.133o 相川小学校創立百周年記念誌編集委員会『相小の百年』 P. 1780 『文部省報告』明治10年1号(明治10年1月12日) 東京府学務課『諸官省往復留』 (明治9年1月起) 127号(東京都公文書館)。なおこの文書は 倉沢剛『小学校の歴史』 班, P.596f.にも紹介されている。.

(21) 37. -・地方教師における自由民権運動. 東京府学務課『諸官省往復留』 (明治9年1月起)出111号(東京都公文書館) 東京府職務科『学校教員吏員任命録』 (明治10年1月至12月) 1月17日(東京都公文書館) 東京府学務課『学事改正書類』第2号(明治10年1月) (東京都公文書館) 東京府職務科『学校教員吏員任命録』 (明治10年1月至12月) 5月18日(東京都公文書館) 『竹窓日記』24丁り。 「日本橋区婿殻町一丁目 28) 羽生が明治13年11月,国会開設請願書を携えて上京した療の宿所が, 明治10-12年の在京中も岡倉家に寄寓していたのではない 三番地岡倉由三郎方+であるた軌 「第 かともいわれているが(松本健一『孤島コソミューソ論』 P.35),当時の羽生の住所は,. 23) 24) 25) 26) 27). 一大区十六小区霊岸島塩町一番地+である(東京府職務科『教員任免録稿』明治10年7 7月17日).岡倉家(天心・由三郎家)は日本橋痢殻町で旅館を営んでいたから(斉藤隆≡ 倉天心』 P.13), 13年上京した羽生が宿泊したのほ偶然のことであろう。 29) 東京府職務科『学校教員吏員任命録』 (明治10年1月至12月) 6月6日(東京都公文書館) 30) 同上, 7月19日。 31) 東京府職務掛『明治12年進退録』教員,. -. 8月。 『岡. 5月8日(東京都公文書館). 32) 東京府学務課『公立小学校教員解任解約書類』自明治12年7月至12月(東京都公文書館) 33) 『竹悪日記』7丁オ。. 34) 「竹田鵜飼君碑+ (『両津町史』P. 351) 35) 後藤靖「自由民権運動と農民-撹+ (『論集日本歴史』10,自由民権, P.31) 36) 田中圭一「北一輝と佐渡+ (『新潟史学』6号, P・43) 37) 『竹窓日記』7丁オ。 38) 『佐渡金井町史』近代鼠 P.290 39) 明治13年前後に,越後における小結社は35が知られている(新潟県史研究会『新潟県百年史』 上, P.324ff.) 40) 42) 44) 46) 48) 49) 50). 51). 52). 53) 54). 『竹窓日記』1丁ウ。. 41)同上. 2丁オ。. 同上, 10丁り。 同上, 22丁オ。 同上, 26丁オ。. 43)同上 45)同上. 17丁ウ。 24丁ウ。. 47)同上. 28丁ウ。. 13丁オ。. 『佐渡金井町史』近代鼠P.290 小木町出身で新潟師範卒,小学校教員からのち新潟中学・新潟師範教員となっている(村島清 雄『佐渡人名辞書』 P.164) 19丁オ。 『竹窓日記』18丁オ。 21丁オ. 19丁り. 22丁*. 松本健一『孤島コソミューソ論』 P.33ff・本間陶「国会開設運動とこ 三の県内資料+ (『新潟史学』4号, P.73f)。ただし本間氏は中山・橋本を,松本氏も橋本を不明としている が,橋本は当時湘北小学校首座教員である(相川小学校創立百周年記念誌編集委員会『相小の 百年』 P.405)。また浦本ほ両氏とも両津の商人としているが,河原田在住と考えられる(『北 浜雑誌』 25号,明治22年11月, P.21)0 本間拘(『新潟史学』4号, P・81 f・) 「国会開設運動と二,三の県内資料+ 相川小学校創立百周年記念誌編集委員会『相小の百年』 P・ 177 ff・ (『月桂新誌』24号,明治12年6月 松沢求策「我地方ノ自由-師範学校ノ森林中ヨt)萌生セリ+ 29E],. P.1f.). 55) 『竹窓日記』3丁オ。 5丁オ。 17丁オ。 ・57) 同上,. 56)同上,. 13丁ウ。. 「衆議ヲ要ス-キ事件モ減少妖義二相聞慎二付+という理由で,従 58) 明治12年3B,新潟県は, 「数育会 来隔月に開かれていた教育小会を3か月1回の開催に改め,さらに翌13年5月にほ, 議ヲ開設セントスルトキ-集会ノ償序方法ヲ議定シ学務委員ヲシテ郡区役所ヲ経由シ庁裁ヲ乞 ハシム+ことを定め,内容に大きい規制を加えた(『府県史料・新潟県史』政治部学校二之六)。 59) 『竹窓日記』5丁オ。 60) 佐渡の夜学校開設例ほ従来あまり知られておらず,明治14年加茂都北方札羽茂郡小木町にそ. れぞれ開設されたものが古いとされているが(松本健一『孤島コソミューソ論』P・42),本荘.

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