近代日本における「修養」
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(2) 本が 「大国 」に膨 張 し たと いう幻想 のなかで 、 個人 は. き を 置こうと す る 風 景 が 多 く 見ら れ る よ うに な る 。 日. で あ っ た 。 当時 及 び その 後 私 よ り 一 級下 の 魚 住影 雄. 十八 歳だが 、満は 十六 歳十ヶ 月で 、岩波 より五 つ年下. 居り、最も多く 藤村 の死に 動 かされ た一人である切°」. 論じ たことは前 に も触れ たが、魚 住は藤村 と相 知っ て. 青雲 の 志 を 抱き 国 家 有 用の 人 物 た ら んと し て い た 若. が、 『校友会雑 誌 I誌 上毎 号人 生や宗教 の問 題を 痛烈 に. た。 園家 へ の忠誠 も関心 も弱く、 薄 く な り、 それ に 背. 者が 、俄 然 そのような世 俗的名 誉を 恥とするような心. 常は 生活 苦 に呻 吟 す る 民 衆 の 姿 が あ る ば か り で あ っ を 向け て歩 く人 間 像が 色狼くなっ てきた。 国家 からの. 境 に変 質 し た の で あ る 。 国 家 価 値 の 絶 対 性 は 希 薄 化. 一時 の安心 を 手 に したかに 見え た。 し かし 、現 実 の日. 個人 の乖 離現 象で ある。 このことは国家 の側 に してみ. もなく 、煩悶す る若 者の数は 増大し‘ ―つの社会現 象. を 論ず 凸 を 発 表 し 、 本 能 に 絶 対 的 価 値 を 置き 、 幸 福と. あの高 山標 午も、 明治 三十 四年に は、 例の「美 的生活. ナシ ョナリ ズム 昂 揚期 に 、日 本主義 を 高唱 していた. こと と な っ た 。. し 、個人 の関心 事は 、私 的なものに 限定 、集中 され る. れ ば 、国民統治 上の一 大ピン チであっ た。 この国家 へ の背 反、無関心 を 日 常とす る民 衆 の精 神 は、この時 代の象 徴的現 象 とな っ た。 それまで の国家. となっ た。 明治 三十六 年 五 月二 十 一 日 の藤村操 の華厳. この苦しみ を 親 友姉崎 嘲風 に 次のように 訴え てい る 。. は本能の充足 で あるとした。 明治 三十 五 年 四月に は、. へ の期 待も消え 、 そうかといっ て自 立するだけ の力 量. で あっ た。安倍 能成は、当時 の若 者の心 情を 次のよう. の滝で の投 身自 殺は、 このことの予 見的‘象 徴的 事件. 「予は 幾度 か思ひ き 、寧 ろ一切 の欲求 を解放 して‘. しむ、亦可ならずやと。然 れども吾が心流 石に 疾 しか. 其の為すがまヽ に あらしめ む 、我れ に 於て其の独 を 楽. に 語っ てい る。 に つ き つ め て 、自 殺 に駆. られ るといふ 傾き の我 々に あっ たことは事実 で ある。. は むが 為に は 、 吾が知、 明なるに 過ぐ 。予は是 の中 間. りき。 畢覚 悟ら むが 為に は、 吾が情、 強きに過ぎ 、迷. j. 「藤村 の自 殺が 我々に 与へ た衝撃 は大きく 、未熟の. 私 は 入 学 の 時 藤 村 、 藤 原 と 同 級で 、 藤 原 は 特 に 藤 村 と. に仔 徊して、 遂に 其の適帰 する所を 知らざ る也。足 下. 身で人 生を「 一 切 か皆 無か. 親 し かっ た。藤村 は紅顔 の美少 年 で 死んだのは数へ 年. -20-. 綱沢 近代日本における「修槌」.
(3) 14 巻 1 号 2002. 12 文学・芸術・文化. よ 、 悪夢 に 廣はれ た る夜 は眠らざ るに 等し、予 は実に 是 の十 数 年の歳月を かかる煩悶の間 に 過ご しい、 」. こ う の べ て い る。. 「当世に 最も 繁 昌す るを 、成功 青年と云ふ。 是れ其. ふ のみ。 而して此の 青年 や実 に 頼母 敷青年也。 彼等は. の成功 し たるが 為に 云はず 、 唯だ 成功を 焦 るが 為に 云. 自 己 の運 命 を 開 拓すると同 時 に 、帝 国 の 運 命 を開 拓. 、 わが 国 の民 衆 は 、 は じ め て 国 民 を. 日清戦争を 機に. は じ めて異 国の地に 赴. 、. 意識 し 、国 家 を意識 した と 言って よ か ろうと思 う。 さ らに、 日本国家の軍人とし て. ここで 蘇峰 は、一 応この 「成功 青年」 の存在 を是 と. す 固°」. してはいるが、し かし それ は 、個と国家とが 同 一方 向. 次い. 、. で 露 国 に も 勝利 す る 。 し か し 、 国 家 は 勝 利 し た が 、 民. に 向いて、 調和がとれ ている限 りのことで ある。 その. 兵士 と な っ た の で あ る 。 大 国 で あ る 清 国 を 破 り. くこととなっ た。 鍬 や鎌 や網が 鉄砲 に かわり、民 衆 は. 衆 の 日 常性 は 多 く の 犠 牲 を 強 い ら れ る こ と と な っ た 。. る若 者に 、 次のような酷評 を あび せ ている。. 後 、すかさず 蘇峰 は 、余 りに も金銭 に 目がくらん でい. 「現時 の成功熱 の流行 患者 は、 必ずしも高遠 理想 に. 戦 勝に よっ て掬い 上 げたかのように 思え た民 衆 の心 情 ことに 異 常な 憧憬 が 集 まっ たのも、国家へ の忠誠 に よ. 金の世 の中 なれば、 如何様に し ても金 持に なりた く と. あるに あら ず。 偉大 の経綸あるに あらず 。 唯人 間 万事. は 、 次々 と 国 家 の 網 か ら 落 ち て い っ た。 「成功 」と い う. 金 銭的な ものへ の関心 からで あっ た 。 この[ 成功」 と. 云ふ 一 念に使役 せ らる. る それ で はなく、個人レベ ル で の利 害 、な かん ずく 、 富の蓄 積 とが 一致 し た ことは、 当時 の国家政 策を 破 壊. 年 の仏果を 遂 げざ る者 は、何れ も皆 な此の餓 鬼道 に 堕. 運 命 を 免 れ ざ る 者 に あ ら ざ る な き 乎。 吾 人. A. に過ぎ ず。 惟ふ に 所謂 成功青. す るも ので は な かった。 日露 戦争の 勝利の展 に は、 巨. は成功熱 の昂 揚が、餓 鬼道 緊 昌の基 因た らん ことを 虞. 落す る の. 、. 大な財政 的危 機が存在 し、 その戦後 経営に とっ て、 民. 也m。」 A. さらな る発 展のた めに 、この経. 、. 二つ の戦 争に 勝利 を お さめ、 それなりの国際 的威 信 を 勝ち 取 っ た 国 家 が. る. 衆の関心とエ ネルギー が、 至富に 向かうのは 、 決して. マイ ナス で はなかっ た からで ある。. 大正 五 年、徳 富蘇峰 は 、 大正 青年 を い く つ かのパタ ー ンに 分類 し固、その ―つ で ある「成功青年 」に 関 して. -21-.
(4) 済的苦 境を 脱皮 し 、ナシ ョナリ ズム 昂 揚を はかっ て ゆ. ( 略) … 甚し きに 至っ ては、国民道徳 の危 機を 叫ぶ 者. ある事実 が 認められ なが ら、他面に 於て 、 仮に も 此れ. さへある。 一面に 於て 、国運 が隆 々とし て進 歩し つ. と相対照 し て何人も一 種奇怪 なパラ ドキシ カルな惑に. A. 必要とし た。. く ために は、是 が 非で も 、広汎 な 国民的エ ネル ギー を 国 家 は 国 民統 治 、国 民的 エ ネ ル ギ ー の 結 集 の た め. 打たれざるを得 ない⑨°」. 国家 は飛 躍的発展を 遂げ、国際 的 舞 台に 踊 り出そう. に 、あれ これ と対応 策を とりは じ めたので ある。国家. と し て い る に も か か わ ら ず 、 国 民 の 精 神は 大 き く 動 揺. 煩悶 青年 、 耽溺青年 の激 増に 対応 し 、国家 は、 先の. とも、民衆が協力 し てくれる方 向で の対策に 奔走 し は. 「 戊申 詔 書」に 先き 立 ち、地方に 生きる若 者に 注目し. は、 いま一度 、己 に 関心 を 持たせ 、 忠誠 とまで いかず. め、 社会的 混乱 を 鎖め、 勤労、 忍耐 などの徳 目を 重視. は じめてい た。 い わゆる 官製 的青年 団 形成 の前 兆 であ. し 、 衰 弱 し て ゆく の は 何 故 か と い う わ け で あ る 。. す る 国 民教 化政 策が、 日程に のぼっ てくる。 明治 四十. じめ た。 人 心 の 乱 れ を 是 正 し、 軽 桃 浮 華 の 精 神 を 戒. 一 年 の「戊申 詔 書巴 は 、こ の時 期 の国家 の焦 りを 象徴. った。明治 三十 八 年 九 月、内 務者が 、「地方 青年 団向 上. に対し、 地方 で 農業 、 山林 業、 漁業に たずさわる質 実. 身 体を 動 かすことな く 、 煩悶を 繰り返 す軟 弱 な学生. が、「青年 団二 関ス ル 件」という 通牒を 出し て いる。. 発達 二関 ス ル 件」を 、 そし て 同 年 十 二 月に は 文 部 省. す る も ので あっ た。 明治 四十 四年 三月一日、雑誌 「太 陽」は 、 次のよう 「国 民思想 又 は国民精 神の動揺 といふ 事は 、 近 頃到. 剛健な若 者 の埋 もれたエ ネルギーに 注目し はじ めた の. な 論 説を掲載 し ている。 る処に喧しい。 十年 前 まで は、荀に も此の種類 の説を. で ある 。. 同 じ国に 生れながら、一 方 は 世の中 で 温かく迎え ら. 口に し た者は 、直 ちに 社会から異 端視 され 、世 論の迫 上に 据え られたかの観 があっ た。 然るに 、時 勢 は 、 急. い て 、 他 方 で 、 国 家 か ら も 中 央 の ジ ャ ー ナ リ ズム の 世. れ 、可愛 が られ 、国家 的期 待を 寄せ られてきた 若 者が. 害 の的となっ て 、 国 民思想 の基 礎は 、さなが ら盤 石の. の 韮 礎 に 就 て 、 先 づ 理 論 的 疑 惑を 懐 く 者 が 現 は れ 、 …. 転直下 の勢を 以て進 行 し 、国 民思想延 いて は国民 道徳. -22-. 綱沢 近代日本における「修洒J.
(5) 界からも無 視され た若 者がいたので あ る。 その後 者の. が 、「 広大」な 国家の青年 に され てゆく ので あ っ た。. 最初の青年 の全国的集 ま りが 開 催され たのは 、 明治. 「明治 四 十三年四月二十 六 日 に、 名 古屋市 に 於て 全. 若 者たち が 、 俄かに 注視 され はじ めたので あ る。 当時. 国青年 大会が 開 催され た。これ は お そら く 、 全国と名. 四十 三年 のことで あ っ た。『大日 本青年 団 史」 ( 熊谷 辰. 「挙世 沿 々、 青年 を 以 て学生の別号なりとし 、 青年. の つ い た 青年 大 会 の 最 初の も の で あ ら う 。 … ( 略) …. の地 方の若 者の存在 を 、 青年 団の生み の親 とし て知ら. と云 へば 一も 二もな く直ち に 学生を以 て之に答 ふ 、 こ. その数 千九 百 十四人に 達し 、 そのほ か広島県 沼 隈 郡青. 治 郎) に は 、 次のように 記 され ている。. こに 於 て か 、 学 生 に あ ら ざ る も の は 青年 に し て 青年 た. 年 会員 四百 十 二名 は一 列 車借切 りで 乗 合するな ど、な. れ る 山 本 瀧之 助 は 、 次の よ う に 評 し て い る 。. ること能 は ず 、 今や都会僅 々数 万の学生、独 り時 を得. かなかの盛 会で あ っ た⑬°」. このよう な 国家主導 型の画一 化の強要 に 対し て、 抵. 殆ど自 屈自 捨 蟄居縮小 せ り。 . . .( 略) …近 来青年 の呼 声漸く高 まれりと雖 も、 其所謂 青年 は全く 学生 に 外な. 抗す る 若 者 集 団 も な い で は な かっ たが ⑬、 大 勢 と し て. て既 揚闊 歩し、 全国青年 の大部 百 万人の田舎 青年 は、. ら ず し て 、 青年 論 と 云 た 少 年 論 と 云 ふ も 、 多 く は 之学. っ た。いまだネー シ ョン の自覚は浅く、 未 知数の 活力. いては、 地方の若 者の存在 意味 も喪 失し てゆく ので あ. は 官製化 の道を 余儀なく され た。 結局は その方向 を 除. てきたので あ る。若 衆組、 若 者組と呼 ば れ た青年集 団. を 豊かに 残存し てい た地方の若 者集 団が 、 国家的 修 養. ここで 山 本の言う 「大部 百万 人 」の若 者が 、浮 上し. 生論に あ らざ るはなく ‘ :而 」. のなかで 、 それ ぞれ の特 徴を 保持し なが ら、呼 吸 を し. 育が浮上 してく るのである 。 この 教 育は、 地方 の 若 者. に よ る 国 民教化運 動の― つ の大き な柱とし て修 挫的教. のみ ならず、一 般的国 民教 育の中軸 に 置かれ ることと. 団 体に 官製化 され てゆく 風 景が ここ には あっ た 。 国家. 面的リ ー ダー とし てのもので はなく 、 下から支え るカ. なっ た。 人格 を 陶治 し、 品性 を 高め、 忍耐を 養 い、 国. ていた若 者に、 国家有 用の人材とし ての称号が 与え ら. 持ち と し て の も の で あ っ た 皿。 い ず れ に し て も 、 それ. れ たので あ る。し かし 、有 用という意味 は、 国家の表. ま で 各 々 の 地 方 を 全宇 宙 と し て 生 息 し て い た 若 い 衆. -23-. 2002. 12 14巻1号 文学・芸術・文化.
(6) 家を支え う る人間 を旋 成すること と なる。 日露戦争後 言う 。. 点で必要と されてい る 修 養と は何か。 彼は次のよう に. は少 しずつ 移 ろいゆくものでなけ れば ならない。現時. 「新 時 代の 新 修 接 は 又 新 意 味 を 以 て 解 せ ざ る を 得. から大正 時 代にかけ て‘修 挫は、 青年 教 育、 社会 教 育. 知 に 偏 することなく 、信 、情を 重 んじ、 身 体を よ く. ず。吾 人は僅 かに静、以 て身 を修 め、 倫、以 て徳 を養. に お い て 大 き な 目 標と な る 。 動 かし 、 世俗 的名 誉、 富に 憧が れることなく、人 格 の. し、 勤、以 て道を行 はしめんと す 。 此の故に 吾人の謂. ふ の み を 以 て 足 れ り と せ ず 、進 ん で 動 、以 て 世 に 等. ふ 所の修 養には静 の外に 動 あり、 徐の 外に動 あり、殊. 陶治 に専 念するこ とが 、 修 養教 育の指 針と なる。 多く 全国民 に向け て、修 養運 動の精 神 を高唱した一人 に. に 其の修 養する所、人格全般に 亘るが 故に 、 唯だ 其 の. の修 養団体が 生れ 、「修 洒学者 」が 登場 する。. 『 修 挫論」(東亜 書房) を 世に 出している。「修 養の要. 加藤咄堂 (本名熊一 郎) が いる。 彼は明治 四十 二 年 、. 修 養であると しても、 ボイン ト は、 それが 新時 代に お. 人 格の完 成、 品性 の向上、 その ための 意志 の 鍛 練が. 練の一 面あり⑱° 」. 目的とする所心 田耕 転 の一面に 存せ ずし て別に 身体訓. 「 修 養 の 要義 は 己 を 知 る に あ り 。 自 己 の 宇 宙 に 於 け. い て 、ふ さ わ し い も の で あ る か 否 か に か か っ て い る 。. 義 」と し て 、 次のよう に 言う 。. に 立 っ て世 に 処し 道を 行 ひ。 我が 生 存を し て意義 あら. る位 置、 人生に 於ける任 務を 自 覚 し 。 此の自覚の根 底. 誰 に と っ て 、 何に と っ て ふ さ わ し い も の で あ っ た か は. 別とし て、 明治 、大正 、 昭和 期のなが きに わたっ て、. しむ。 これ 吾等が 修 養の指 針たり⑭°」 「 修 養 の 目的」 に関し てはこう言う 。. 日本列 島を 席 巻した ものに 、 蓮沼門三 の修 養団運 動が ある 。. 「 修 挫の目的は人格を 完 成し、 当世 に 等し て有 用の 材 た ら し む る に あり 。 此 の 目 的 を 思 索 す る に 当 て は 先. 清掃、美化に 精 力 を費す 。蓮沼の「年 譜」に こう ある。. 蓮 沼 は 、 こ の 寮 の 汚 染 と 不 潔 さに 驚 愕 し 、 こ の 環 境 の. 明治 三十六 年、 東京師 範 学校に 入学し 、寮 に入っ た. 修 養の要義 や目的はこう で あるが 、これ は時 代によ. づ 人格の何たるやを 定 めざ るべ からず⑬°」 っ て 、 その現 出の仕 方 は異るものだと 言う 。 旧い 修 養. -24-. 綱沢 近代日本における「修養」.
(7) いたち‘起床前単身廊下の雑布がけや便所掃除、運動. 靴に踏みあらされ 、不潔をきわめた寄宿舎の美化を思. 「 「 天下 を動かさんとする者はまず 動くべ し」と泥. 設に、貢献可能な人物の挫成を主眼とした。修挫団は. がら、白色倫理運動⑲を推進し、国家社会の新 たな建. この修旋団は、流汗鍛練と同胞相愛を基本に置きな. 充満しているこの環境を妾慇した蓮沼の熱い情念は、. 迎合するエセ 自発的民間運動で、純粋で正直で真面目. 部 の人たちからは、国家権力に このことに関して、 一. も得て、全国 的運動へと拡大していったものである。. 策と合致する面も多く、また、現実に政 •財 界の協力. 民間の団体とはいうものの、国家の基本的国民教化政. 明治三十九年 二月十 一日 、仲間と共に修稲団を設立す. な若人のエネ ルギ ーを国家へ、また企業へ奉仕させる. 悲憤棟慨する気持も衰弱し、煩悶を繰り返す空気が. 範学校を卒業し、 四十一年 には、修養団の機関誌「向. る。蓮沼二十 四歳の時である。翌四十年には、この師. 役割を演じたのが、この修旋団迎動であるとの酷評も. のかと‘互ひに毒舌を吐き‘毒剣を揮って修羅の巷を. 創立八十周年を迎え、修挫団は「八十年史」 を刊行す. ったことは高く評価され てよかろう。昭和六十年 に、. 共惑を与え、全国的な社会教育運動にまで拡大 してい. -25-. 場の草とりなどをはじめる 17 」 。. 上」 を発刊することとなる。修投団設立の根本的理由. 社会的矛盾の認識を抱くこともなく、ただ身体を動か. ある。そ こにあるものは、階級的視点をはじめとする. 「 つらつら世のありさまを見れ ば、沿々として我利. し、汗をかき、堅思持久の精神があるばかりであった. を彼はこう語っている。 我欲に趨り、自己のためのみをはかって他人を顧みる. 現出し、互いに血潮を流しておる。 :・(略) … あふる. ることになったが、そ の時の理事長、有 田一壽 は、「刊. しかし、この運動が、全国津々浦々の多くの人々に. してやむ あたわざる憤慨の念は、ついに誠心ある青年. 「 修養団が蓮沼門三を中心とする青年学徒によって. 行の辞」 で次のようにのべている。. る⑱° 」. の一大 団 結 と なり 、修森 団 は組 織 化 さ れ た の で あ. る熱誠は、現世の状態を黙視するに忍びず、やまんと. の懐に金が入り、おのれ の立身ができるならかまうも. との見方 もないではなかった。. 2002. 12. の暇なく、人を引き落としても、噛み殺しても、自分. 14巻l号 文学・芸術・ 文化.
(8) 来、明治 、大 正 、昭和 の 三代 ‘八 十年 の 永き に わ た り、. 創立 され たのは 、 明治 三 十九年二 月のことで ある。 爾. 民衆の精 神構 造そのも ののな かにこ そ、 それ を 解明す. いっ たのは、 それ を 受け入れ 、積 極的に 協力 し てゆく. 運動 は 、企業 経 営、 工場 経 営の 上か ら も 歓迎され 、 労. 流 汗鍛 練、同 胞相 愛 、総親 和 総努力に よ る 白色倫 理. る 鍵が ある と言え よう 。. 国 の 主 と し て 社 会 教 育 の 分 野 に お いて 、幾 多 の 新 機. 資の 階 級 対立を も 超え た人間 愛あふ れる 世 界構築と い. 略) … 修 養団の運 動は 、わが :( 今日に 至っ て いる。 ·. 愛 と 汗と を 標 榜し て 、明る い社会建 設運 動を展開 し 、. 軸 、新 生 面を 切 り開き 、 識者に よ り、 日本 に お ける社. 域 で 、各自 が 個人とし て修 養を 粕ん で ゆく ことが 、 い. う こ と で 、もてはやされ ることとなる。 それぞれの領. ず れ は 国家社会に 寄与 す る ことに なるとあっ て、 若 者. る ⑳°」. の心 は 躍動 し た。 強 制 労働で はなく 、 梢 極 的 、自 主的. 会 教 育の 源流 とし て高 く評 価 され て いるところで もあ. ところで 、この修 養団連動 が 、 一部 の人 からの批判. 労 働へ の 意欲 は 、企業側 に とっ ても、 願 ってもな いこ. と で あ る 。 修 養 団運 動 の 拡大 状 況を 、『 修 養 団運 動 八. 数者を 引き つけ 、全国的運 動に まで発展しえ たのであ. ろう か。 こ の 秘 密の 解明は 、 社 会 運動 、政治運 動 考察. 十年 史 ・概 史』 は次のよう に語っ て いる。. を 受けな が ら も 、なにゆえ に力 を持ち 、あれ だ け の 多. の場 合、 欠かし ては な らな いものとな るので は な かろ 渋 沢栄一 、森村 市 左衛 門 、井 上 哲次郎、新渡 戸 稲 造 、. 千 名 に 達し ( 昭 和 三年 十 二月)、八 幡 製 鉄 連 合 会 の 団. こ と の 一端を 記し てみ る。 東 洋紡姫路工場 の団員 は三. 「団運 動 が いかに 領 域へ 浸透し て いっ た か 、と いう. 河野広 中 な ど、政 財界の 人 た ち に 支持、協 力をえ た と. セ メン ト秩 父工場で は 全従業 員 二百六 十名 が 終身団員. 員 数は 五 千人 を 突 破し て いる ( 昭和 六 年二 月)。 秩 父. う か。. いう こと、 ま た 、時 の国策に 治 っ たものであっ たこと. となり ( 昭和 八 年 一 二月) 大 阪住友 製 鋼 所 で は 終 身 団 、 」 員 五百 二十 二名に 達し た ( 昭和八 年 末)仰°. を 考應し て も 、 それ だ けで この連動 の成 功 の理由が 完. ―つの 師範 学校と いう 小 さな 世界に 芽生 え たこの 運. 欲 望を 無制 限に 発散することに よっ てではなく 、修. 全 に 解明され たことに はならな いであろう 。 動 が 、日本 列島 全体に 拡大し 、 蓮沼 の 精 神が 浸透し て. -26-. 綱沢 近代日本にお ける 「 修 養」.
(9) 養と いう 、 いわば 禁欲 的 倫 理の 実 践こ そが 、 資本 主 義. う に のべる人も いる。. も 、修 挫 団の 精 神は 強 く深 く浸透 し て いった 。 次のよ. 工場のみ ならず、地 方 農村に 生き る人 た ちの心 情に. 農村 社 会 の沈滞、衰 退が 問題化し 、 農村 社 会 解体 「. る 。労 資の 対 立を 単に 回避す ると いう 消極的意 味 だけ 日東紡績 株式 会社 」の が 、 そこに あった のでは な い。「. の危 機感が いだかれ るなか、 そこで 生き る個々人 も、. の精 神に つ な が ると いう 風 景を ここ に 見る こ と が 出来. 片倉三 平は 、修 養団 と工 場 の関連につ いて 、次のよう. を 模索し て いた 。 そう し た 状況のな かで は、 個人の道. 大きな不 安に さ いなまれながら、 自 分た ちの生きる道. 徳 的向 上が 即、社 会 を 向 上させ る、 改良することに な. 「 創 立当 初から 精 神修 猜の一 環と して 取り 上げた 修. に 述懐し て いる 。 養団運 動は、 当社 の訓育、社 風 の 形成に 神 益す る と こ. 」 った に 違 いな い⑳°. ると いう修接 団の 論 理は 、き わめて魅力 的な もので あ. 近 代主義的知 識 人からは、 非科学 的 、 非論 理的 な ど. 木 崎 湖 畔 の 第三 十 五 回 修 据 団講 習 会 受 講 が 発 端 と な り ‘ 蓮沼 先生を は じ めとする 諸先 生 方の 熱意溢れ る ご. と 嘲笑されたこの修 接 団運 動も、 国家から無視 され 、. ろ 大な るも のが あり、 とりわけ、 昭和 三 年 八 月の信 州. 指導、ご煎 陶を 受け 、 愛と 汗の 運 動は 、燎原 の 火の ご. じ、己 の 存在 を 公的 に 示し 得 る 千載一 遇の 好機 で あ っ. 放 摘 さ れ て いる 人間 に と っ て は 、 己 の 生 き 甲 斐 を 感. 従業 員 の労 働意欲、 向 上心 に 碁づ く生産 性向 上は 、. と く日東 紡 各工 場に 拡が って いっ た ので ある 四。」. く、惜し み な く己 のエ ネ ルギ ー を 放 出し、 か つ て 経験. に も 急 進的 労 働 組 合運 動 へ の 道 を 選 択 す る 必 要 は な. 認 出来、 自 主 独立の 精 神で 各々 貢献可能とあれ ば 、 な. 側 に とっ ても‘ このことに よっ て、己 の存 在 理由が 確. は、 それ に 代り得 る、ある いは それ を 凌駕す る だけ の. を そら し て は な らな い。 そらしてはなら ぬが 、 それ で. ことを覚悟しなければ ならな かっ た 。この 現実 から 目. 忠良な る 国 民と して生き ることを 余儀な くされ て ゆ く. 者の野性 味 は 駆逐され 、 毒気 は 消され 、角は 抜かれ 、. も ち ろ ん、 そのた めに は、 本 来持ち 合わせ て いる若. た かもしれな い。. し た こ と も な かっ た 「 国 民」とし ての自 覚 と喜び に 酔. 経営者に とっ て も 、この上 な い喜び で あっ た が、働 く. う こ とが 出来た ので ある 四°. -27-. 2002. 12 14巻 1 号 文学・芸術 ・ 文化.
(10) 使命 、 役割を担う ことに なっ たのである。 修 養団運 動. そし て 三つ な い し 四つ の家 で 組を 作り、 三つ の組で 向. 貫行 、自 彊、醇厚‘弘毅、感謝 、分担 、和楽であっ た。. それ ぞれ 家 に 擬し 、十の家の名は、公共、勤 倹、協同 、. の 講習生 と 八 名 の 聴講生 は 十 の 天幕 に 分かれ て 入 り、. は 、この国家 と若 者を 繋ぐ 、 極め て 優良な 媒体とな っ. 病院、郵便局 、産業 組 合、 来賓用に あて 、 湖畔に 一っ. 上村 となした。その 他の 天幕は、向上 村 の役場 ‘学校 ‘. 村落 共同 体内部 で 生き 死に し てい た若 者が 、 国家 的. 道が 、 彼 ら の 行 く 手 に あ っ た の か 。. モラ ル、愛 を 破 壊す ることな く 、修正 し て継承し てゆ. 国 家 の 細 胞と な る 理 想 の 自 治 体 実 現 が 目標 で あ る. の自 治 体が出現し た 四。」. ていたので ある。村 落 共同 体で 通用し て い た ルー ル、. く テ ク ニ ックを修 挫団は 持っ て い た。 旧習に 碁づ い て の 新鮮な 実 践が 、修 養団運 動の基 本に あっ たという こ. 原湖畔で の 第一 回天幕 講習会 に その ことはよく現 われ. るかのよう に 見え るところに 、こ の 講習の ねらいはあ. た。 これがあたかも若 者の自 主的、内 発的なもので あ. に お け る も の で あ っ た 。 い わ ば 、枠 の 実 現 で も あ っ. 睦を 旨とす ることに な る。 その 場 合、 自 由はある枠内. が 、 その ため に は 具体的 、 日常的 仕事に よ る 団結 ‘親. て い る 。修 養 団 史 上 は い う ま で も な く 、 こ の 講 習 会. 例え ば、大正 四年 八月に 実 施さ れ た 福島県 那麻 郡桧. とが 出来よう 。. は、 日本の社会教 育史 上 で も 極め て 重要な 意味を 持つ. っ た。. 若者の 初々しいエ ネ ルギーを 吸 収し 、同 胞主義 、 総. も の で あっ た。 全国 か ら 選抜され た青年 が 、蓮沼精神 の 徹底 化を は. 入れ てゆく 巧妙 なものが 、 そこに は隠され ていた。 そ. れ で も 、 こ の 修 挫 団運 動 が 、 多 く の 民 衆 の 関 心 を ひ. 親和主義 でもっ て、 天皇制 国家 完 成、 強化の 枠に 組み. は ‘蓮沼のほ か、田 沢義 鋪 、 小尾晴 敏 、 山下 信義 、有. っ し て冷笑し てはならない。. き 、大きな運 動として展開 し てゆく とい う 事実を 、け. しつつ、団結 を 強めてゆく ことを 目的 とし た。 講師 に. 馬頼寧 、 松 崎 蔵之助ら の 鉾々た る メン バーが あてられ. か り 、国家 の 細胞と な る べ き 村 落 共同体の 自 治 を 浄化. た 。 具 体的内 容は次のよう なも ので あ った。. 「 天幕 は十 六 建てられ、全国から集まっ た 七十 五名. -28-. 綱沢 近代 日 本 に お け る 「修餐」.
(11) 1 4巻 1 号 2002. 12 文学 · 芸術・文化. こう い っ た 修 養 主 義 、修 稲 運 動 と は 別 に 、和 辻 哲. の探求 と は、外 部の 世 界を 見 ぬこと で あり、古典を 師. と して 、それ に 没頭す ること であっ た。. 大正三 年 に 第 二尚等学校 に 入学し た 三木消は こ う 語. 入に よ る 教捉 主義 、教養派と 呼 ば れ る知 的 迎動 の潮流. 蒙思 想|ー' 福沢諭吉な どに よっ て 代表 され て ゐるーー'. 「大 正時 代に お ける教 挫思想 は 明治 時 代に お ける啓. っ てい る 。. が あっ たこと は 周知 の通りで ある。 こ の教 裾 主義と か. は その教 提思 想 が 拾頭し て き た時 代に 高 等学校を 経過. 略) …私 . .( に 対する反動 と し て 起っ たもので ある。 .. 郎 、 阿部次 郎 、安 部能 成ら を 中 心と し た 西欧思 想 の輸. 教挫派と い う も のは 、修 槌 主義 な どと 較べ る時 、 極め. し たのであるが 、 それは非政 治 的で 現 実の問 題に 対し. て 新鮮な 響きを持っ た ものであ る 。 堅苦し い規範 や 形 式、 枠な どに 拘 束さ れ る こと なく、自 由、 進歩 を 重ん. て 関 心を もたなかっ ただけ、 それ だけ多く 古典と いふ. 自ら現 実世 界の 侵 入を 峻 拒し ただけで はなく 、現 実. ものを 重んじ ると いふ 長所をもっ て ゐた⑳°」. 大 正教養 主義と いう ―つ の知 的運 動が 、 日本 近代の. 世 界で 汗と 血を流 しなが ら の 日常を 余儀なく され て い. じ 、新し い時 代を 開 拓するための知的潮流 で あると の. 知を 代表 するかのよう に 、言論界を 席巻し 、 当時の知. は 無視し て し まっ た。. る多く の人たちの世 界が ある こと を 、彼らは結 果的に. 印象 を強く与え た ので あ る。. 識人 、学 生 な ど の 間 で 流 行 し た こと が あ る 。 た し か. 明治 の末 期から 大正に かけて の時 代は 、いう まで も. に つ な が る も ので あっ た。. で、 どれ ほ ど遊戯的苦 悩をしたかが 、 彼らのプ ライ ド. 典を どれ ほ ど読み 、知 識 を どれ ほ ど増 やし 、観 念世 界. 現 実 の 民族や国家、 社会 から 離脱し たと ころ で 、 古. に、こ の 大 正教 捉 主義 の果 し た役 割は 多く ありは す る が 、 ここ で は 、 その 良 面よ りも、運 動と しての 「力 」 のな さを 説 いてみる こと にし たい 。. 政治 的 、国 家 的 な る も の、また、 俗世間 的なるもの の 密着 を 通じ て 、思 索に 耽る こと を も っ て 、教 養 主義. なく 、 国内 外と もに 激し く揺れ 動 いた時 代で あっ た。. への発言を 極力 控え 、 個人の人生を 優先させ 、 古 典へ の特 徴と する。 教裾派と 呼 ば れる人たちに と っ て真 理. -29-.
(12) 大逆事 件 、韓 国 併合、 大正 三年のシ ー メン ス 事件、第. 明治 四十年の足 尾、 別 子銅山の 暴動 、 明治 四十三 年 の. す ら 、古典に 依拠し つ つ 、内 面的 思索に 没入す ること. 囲 饒 す る政 治 、経済に も 何の 関 心も 示さ ず 、ただひ た. どに 、いささかも価値 を 見出す こと な く 、ま た、 己を. を 唯一 の 生甲斐と す るという のであ る。. 一 次 世界大戦 、 大 正七年の 米騒動 、 シベリ ア出兵 、 大. 正 八 年 の 普 選運 動 、 大 正 十 二 年 の 関 東 大 震 災 な ど な. 先述し た 修 養 団の 天幕 講 習会が 開催され た大正 四年. 刊行さ れ て い るが 、この 『 三 太郎 日 記』 に 教裾派の 特. に 、 阿部次 郎 の 『 三太郎 日記」 (第 二) が 岩 波 書店よ り. ど。. こ う い う 時 代 で あ れ ば あ るほ ど 、教 養 派 の 人 た ち. 効率 主義 な どと いっ た国家 、社 会に 役立 た ねば な ら ぬ. 徴が よくあらわれて いる。 啓蒙 合理主 義や実 用主 義 、. は 、 そう いっ た現実と己 の間 に、幾重も の 厚い 壁を 用 意し 、「良質 ?」の 思索に 耽っ たので あ る。. 唐木順三 が 、教 養派の性 格を次のように 特 徴 づけ た. と いう 気 分を 排す るところに 教 養主義 、教 養派が 位 置. (略) …その 二つ に は 社会的 政治 的な 外面生活を 問 題. かつて修 裾が その 規範 と し た 形式を 問題に し ない。 …. し ない。 ―つ は 我々の身 体的、或は 行 住 座臥的 な 型、. 二重の 意味 に 於て 外面的 な も の 、外 面生 活を 主問題に. ため、 全体の ためという ところ へ収敏し て ゆく ことに. 甲斐と し て い るところが あ る。 し かも 、 それが 国家 の. と し て 受容し 、 それに 役 立つ ことを もっ て、 最高の生. いつ の 間に か近 、 現代人 は 、生 産活動 を 唯 一の人の道. ど危 険な ことであ るかを 私 たち は 知ら ねばならない。. 浅 應な 実 学や 実 利主義 の 帰結 す るところが 、 どれ ほ. す ることにな るのは 明ら かで あ る。. にしない。 … (略) … 問題は 個性と 並曰 遍、自我と神 に. よ っ て 、さらな る価値 が重 ねら れ てゆく と いうシ ス テ. 「教 養派は 内 面的 生活、内 生 に 閉ぢこ も る。 それは. こ と が あ る。. 弟関係の 稀薄 な 、人と人との間 に信 用のない時 代に あ. あ る。 さう し てその中 心 問 題の 究明は 、 今 日の 如き 師. ム が 構築され て いる。. 政 治 状況を 鳥 諏し 、 役に 立たないという ことが 、 決定. それ だ から こ そ、 日常から 遠く 離れ 、高所より時 の. っ て は 古 人 の 書物 に 頼 るよ り 外に な いと い ふ の で あ H本人 の 生活規範 の伝統 とも言う べ き 秩序 や 形式な. る ⑳°」. -30-. 綱沢 近代 日 本における 「 修 養」.
(13) とが 前 提とな ることも忘れ ては な らな い 。はなから、. 強烈 な 現実 へ の関心 と 対応の欲求 が 猿犀に 存在す る こ. 的に 重要な 役 割を 果す ことが ある 。しかし 、そこに は. ぎ ると、人 間が 人 間と し て持っ ている人類 的普 遍的 価. 日 本人といっ たものに 執着 し 、民 族の 道を 猥く 出し す. や 国家 より も 、普 遍的人 間 に 価値を 箇く 。 日本 と か 、. か 。血の 団結 だとか結 束だとかを教槌 派は 咄う 。民族. 値 を 過小 評 価 し 、 また 欠落 さ す 危険性 があるという の. いかなる欲求 も関 心も な く 、 それ が 常態と な る 時 、こ の姿 勢 は 単な る 空虚な 遊戯と な り 、 エセ客観 主義 を 生. j. し て の教 裾の問題が ある と し て 、 『 三太 郎の日 記 は 次. である 。 民族ではなく 、 それを超え たところに 人 間と. の よう に 説く 。. 果 す こと と な る 。 実 践、実 行 に 敬意を 表し つ つ も、 その 空虚 さに つ い. る思 想 上の 根底を有 せ ざ る 実行の生 活も また 空し い 。. 行の生活に つ く べ き ことを 奨説す る 。し かし 、確 乎 た. ー 約言すれば 思想 の 生 活の 空し さを 説い て 、事業 と 実. 「あ る 人 は 考察の 生 活、観 照の 生活 、 瞑想 の生活ー. とはできない 四。 」. の の 生 命に 参加す る こと に よっ て この 渇望を み たすこ. る欲求 である 。ゆえ に 我ら は 民族と い う 半 普遍的 なも. 個体的 存在の 局 限 を 脱し て 全体の生命 に 参加せ んとす. な る も の は 普遍的内容を 獲得 せ んとする憧憬 で ある。. お よそ我らに とっ て教猜を 求 むる努力 の根 本的衝動 と. 「民 族的 教 挫は 我らに とっ て 唯一 の 教 褪ではな い 。. … ( 略) … ただ動く が ため に 動 く 生活のあわただ し さ. 国 粋 主義 や 民族至上 主義が 横行 す る時 、この人間 と. を 思え 。 . . .( 略) … 実 行のために 実行 を 追う も のは 、 ただ 無数の事件を 経 験す る のみ で 、真 正に 「 我.一を経. し て の 普遍的価値 追求 の 理念は 、 極め て 重要な 思 想的. る 教養 派で あ る が 、し かし 、 その 軽 く 見て き た 梨 団や. れ を 追求す ることに 、す べ て の 瑕疵があるとい う こと. 一国の 、 また、一 民族の自律性 、独立 性を 問い 、 そ. 武 器と な る こと は い う まで も な い 。. その 人 たち が 形成してきた力 強 い 圧力に 対し 、一 矢も. で はなく、 それ は 一 面的で あり、普遍的価値 そのもの. 行 動、実 行 の生活とは 離れ たと ころで呼 吸を したが. 験す る 機会 を 持たな い 磁°」. 報い ることも な かっ た事実 を どう 弁明す るので あろ う. -31-. み、 遂に は 、体制内存在のために 極めて 重要な 役 割を. 2002. 1 2 て『 三太 郎 の 日記」 は 、 次の よう に 語っ て い る 。. 1 4巻 l 号 文学 ・ 芸術 ・ 文化.
(14) しな いほど完 璧 なも の のよ う であ る。 し かし 、憎 悪 の. 対 象 と し て し か 見 て こな か った 民 族 や、天 皇 制 への. ではな いと、 『 三太 郎 の日記」 は このよ う に言 う。. 日本 人」 と いう特殊 の資 我 らが教養 を求 む る は 「 「. 恋 々と した情 念 が、現実 世界 におけ る多 く の民衆 の心. j. 人 と いう普 遍的 の資 格 にお いてす る のではな く て、『. と心 情 を 凌 駕 す る こと がど れ ほど 困 難 な こ と であ る. 抽 象 的 人類 史 や普 遍 的 人間像 が 、具 体 的 日本 の歴史. 情 であ った ことを も同時 に忘 れ てはなるま い。. か、私 たち は苦 い過去 の歴史 から多 く学 ん でき たはず. と して の教接 の 一片 にすぎ な い。民族的 教 養 が. 唯 一の教 養 であ り え な いこと は、教養 の本質 よ り見 て. であ る。世 界 平 和 や人類 愛 の尊 厳を 認 めぬ者 は いな い. j. 自 明 の道 理 であ る。 ゆえに我 らが教養 の材料 を 求 む る. が 、ギ リギ リ のと ころ で、己 が日本 人 であ り 、日本 の. 人 『. 格 に お い てす る の で あ る。 日 本 人 と し て の 教 裾 は. の祖 先 によ って作 られ たも のであ る かな いか の点 にあ. と き 、そ の材料 の価値 を定 む る標 準 は、そ れ らが我 ら. 歴史 を皆負 い つつ生存 し てきた と いう歴然 と した事実. が 、宗 教 、政治 を異 にし つつ、それ ぞれ独 自 の歴史 を. る のではな く て、それ が神的宇 宙 生 命 に浸透 す る こと ナ シ ョナ リズ ム昂揚 期 、激昂期 にお け る、あ の民族. 紡 いでき た のであ る。 この事実 への自 党 のなさ 、軽 視. も 明確 に自 覚 せざ るを 得 な い。 それ ぞ れ の国家 、民族. 的神 話 によ る人間改造 の恐怖 を忘れ てはな らな い。民. が 、共 産主戦 運動家 の転 向 の原因 にな った こと は いう. の深 さ に依 従 す る のであるOOl 。 」. 族 の固 有性 を 語 る時 、そ の前提 と して常 に ク ー ルなブ. ま でも な かろ う。. そ れ はそ れ と し て素 晴 し い。 コミ ン テ ル ン の 「テ ー. 世界平 和 も人類 愛 も 、「 万国 の労働者団結 せよ」も 、. レーキ のきく装 置 が市 民 レベ ルにお いて用意 さ れ て い 「 普 遍的妥当 性 に対 す る純真 なる憧憬 を欠 く と き 、. ゼ」 も 、そ れ なり に立 派 であ る。 し かし、現実 に、確. なければ な らな いであ ろう。 あ ら ゆ る教 養 は 、あ ら ゆ る学 術 は そ の根 底 を 喪 失 す. るわ け ではな いのであ る。 究極的 に、絶体絶 命 のな か. で個 人が選 択 し得 るも のが 、例外 はあ るとし ても 、家. 実 に存在 す る 一国 の歴史 と切 り離 し て個 人 の存在 があ. にあ る こ の文章 は、訂 正を 必要 と. 」 の道具 と な る にすぎ な いであ ろ う⑳° j. j. る。 かく のご とき教養 は民族 と民族 と の間 の憎 悪 を増. 進する 『 戦争. 三太 郎 の日記 『. -32-. 綱沢 近代 日 本 に お け る 「修淮」.
(15) 伝統、習似で は な い か。 それを 無視 した階 級闘争 、 平. 族的 情愛 で あ り、長期 に わた る その 国 の 、 その 民 族の. 平 和のためという運 動 の最中 に 、 次々と 斃れ て ゆく 家. けていなければ ならない。 し かし 、抽 象 的 人類 の 永 久. 排他的 、利 己 的 ナ ショ ナリズム の 危険性は常に気 に か. 族や 仲間 の 姿を 眼の 当にする時 、己 の体内 を 流 れ る血. 和運 動が、 い かに 貧困で 、やせ 細っ たもので し かない かは 証明済である。 昭和八 年 の、あ の佐 野学 、 鍋山貞. は 、い かな る 声を あげる の か。 人 間 個人 の存在は 、い. 民 族に も 囚われ ず 、 日常的政 治 、 経 済 から も 逃れ 、. し. ‘。. き な り 無 媒介 に 人 類 や 宇 宙 に つ な が る わ け で は あ る ま. 親 の 獄中 転向 「 共同 被告同 志 に 告ぐ 」にも、 その こと. は よ く 表 現 さ れ て い る 。 転向 者 の 一 人 、 小 林 杜 人 も 、 獄中 生活を 体験 し、 次の よ う な 声をあ げてい る。 文中 に 小 野と あるのは 、小 林のことで ある 。. 師 として仰ぎ 、思 索を 続けるという行 為は、 狭 陰で独. 善的な立場 から の 脱却、解放 を 意昧し 、人 類が 創造し. 内 面的世 界に のみ 閉じ こも っ て、 古典を 読み 、 古 典を. て き た 数々の 文化を 極めて 自 由に 評 価 するという精 神. 「 小 野は ヨー ロ ッパ 人に も 、 ア メリ カ人 に も な り得 本 民 族の 血が 、小 野の 血管に 躍動 し て居 るのだ。 そこ. に つな がる よ うに 見え はす るが 、 そう で はな かろ う。. ない。 即ち 瞑々 の 裡に 、この三 千年 の 歴史を 持っ た 日. た呼」. そこ に 生れ る も の は 、無責任な 相対主義 と、不 徹底な. で 先づ第一 に 日本人 たることを 肯定せ ざ るを 得な かっ. 「仮りに ソビエ ット ・ロシ アと 日本が 戦 争するとし ビエ ット ・ロシ アを 守れ」と 云 って 居る こ と が 出 来る. 否 定す る な どとい っ た大それ た独 断が 許 され て い い は. も ち ろ ん、教挫主義 、 教養派が 果 たし た役 割を 全面. ニヒリズム で あろう。. だろ う か。 自 分に は それ は 出来な い。 それのみ か、 そ. ずはない。 岩 波 文化と 言 われるも の の 創造者た ち の 貢. て 、小 野は 日本 共 産党の政 策の一ス ロー ガン た る 『 ソ. うし た場 合は 、小 野は 自 国のために 死を 捧ぐる ことこ. 作を 紹介し 、或は それ を 基 礎とし た着実 な学究を 登場. 「 西 洋 文化の 根 源を な す 様々の 古典、 各国一流 の著. 献は 、 亀井勝 一郎 の 次の 言辞に 集 約 されている。. 日本人としての己 を投 げ捨 てても‘ 闘っ て 勝ち 取る. そ欲するで あ らう 図。」 に値 す る 普 遍的価 値が 、 この 世にな いとは言え ない。. -33-. 2002. 1 2 文学・芸術 ・ 文化 14 巻 1号.
(16) せ し めた。 同時に 、 東 洋 及び 日本 の 古典伝統 を ふ り か え り、これ を 西欧的知性 の照明のも と に 再検 討し よ う. を 、唐 木 は さ ら に 次 の よ う に 言 う の で あ る 。. 「 教養 が 自 己を絶 対化 し た存在 に 対し て 如何に 無力. 対し て 如何に 弱く、更に は ま た型に 憧憬 す ること か。. れていっ た こ と か。 そし て人間 が、殊 に 日本 人 が 型に. であ っ たことか。 或は絶 対 化し た 存在に 如何に さら わ. 教投人 は 、 物識 り、博識 でなければ ならなかっ た。. ( .. . 略) …教裾と は 所 詮型に 抗 しえ ないものである。. 」 つ を 私は 意義 ある 企図とし たい ⑳° と し た。 こ の 一―. 代を 超え 、 地域を 超え 、ジ ャン ルを 超え て彼 らは 古典. ま た抗 しえ ない や う な 教 養が 日本 の 教 養 で あ っ. 同 時 に 教養人 の読 書の幅に は 驚嘆す るも のが ある。 時. を 師 とし て学んだので ある。 し かし 、 その 行為が 現 実. た 国。」. に対してい かに 強力 なもので ある かは、い ま も 私たち. 枠 、し き たり 、形式 に 依拠する行 的実 践が 近 代的知. 的 人間の 存在に 測鉛を 降す こと は な く 、 ただ浮 遊し て れ で は、信 仰に も ち かい絶対 的 形式、拘束 に 碁づ い た. は 日常 的に 経験し てい ることで も ある。 カ ン トも ヘー. いたにすぎ ないという 酷評 も是とせ ざ るを得 ない 。 こ. と ころ から 生れ て く る 決断、 行動に、 かなう はずはな. が 、 何故その 行 的実 践に 敗北を 喫す る の かと 涙を流 し. ゲ ルも 、 ニーチ ェも キエ ルケゴー ルも 理解し て い る 己. 軍) は 機械的 に 天皇を絶対化した。 国家 11 「彼 等 (. 型 」と 軍隊につ いて唐木順 三はこう 言う 。 い。 「. こ の 教養 主義 、教養派的 な るも の と 、蓮沼の 修 養を. 知識 人」は あ とを 絶 たない 。 て悔し が る 「. 較べる時 、 その 違い は 歴然とし てく る。 蓮 沼は 常に 行. 略) … 軍の を絶対化 し た。 統 帥部を 絶対化し た。 … (. 故に こう いふ ことが 簡単に 行 はれえ たか。 軍が 型を も. 絶対化の前に政 治も 文学も 萎縮し た ま ま 追随し た。 何. りたりの碁盤 に 溶け 込んで いる。 平 和憲法よ り一 片 の. 動 実 践、行 動を 優先 させ る。 神道で あれ 、 キリ ス ト教. パ ンを 選択す る 極限 状況下 に 置 かれ た人 間 の苦悩を 救. っ ていた からである 。或は むし ろ 型 そのもので あ った. 迷う ことな く ‘ ―つ の 方 向へ 自信 ( ?) を 持っ て 突. で あれ 、仏教で あれ 、 それ らは 彼 の心 中で ―つのし き. き 進 ん で ゆ け る 、こ の し き た り を も っ た も の に 対 し. 済す るものは 何 か。ま た 、 その時 その人間 の 魂を 突き. から で ある 困°」. て、 教接が い かに 弱く 、 は じ め から 勝ち 目 のな い こと. -34-. 綱沢 近代 日 本 に お け る 「修裾」.
(17) 1 4 巻 1 号 2002. 1 2 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 責め抜く ことに よ っ て 、 そのことを 体惑 し てい る。 実. 動 かす も のは 何か。 蓮 沼は 己の 肉 体と 精 神を 極限 まで. であった。 ま た 、その 国 家 権力と の 結 合と い う 危険性. は 、 むしろ 国家権力 の側 で あり、 それ を 支援す る 学 問. 略) … 吾人 は学者で な いか 営 めば よいので ある。 … (. 語 る よ りも 卑近な 道 理に 満足 して 、意味ある其生活 を. 「 吾人は 徹 頭徹 尾、 実 行主義で ある。 高 尚な 理論を. と 矛盾の 錯綜する村 落 共同 体は 、 山 紫 水明の 桃源境に. 機と 病 理が 生じ た 時、 その欲求は 項点に 達す る。 貿 困. も 、待ち 望んで いる。な か ん ず v、国 民統 治 機能 に 危. 切 ろう とす る 極端な 真 面目人 間を 、国家は い つ の時代. 疑 心を 喪 失し ‘歪ん だ 現実を己 の忍耐 と努力 で乗 り. を は ら み な が ら の 、 述沼ら の 修 挫 迎 動 で あ っ た 。. ら 深 遠な 倫 理説を 説き 、 そし て 人 を 理屈づ めに す るこ. すりかえ られ 、青年の野性 味 と本能的燦発 力 は愛撫 と. 年 の蓮沼 の言は こう で ある。. 践、行 動 を 伴わない教 挫 を 彼は 信用し な い。 明治四 十. と はで き ぬ。 … ( 略) …た だ実行 方面にお い て 成功 し. ど欲しがるもので ある。. 蓮 沼の 次の よ う な 発言を 、国家 は 喉から 手 の出る ほ. 暴力 で もっ て骨抜き に され てゆく 。. この 主 張、 主義 は 蓮沼 の人 格の基 底の部 分に 存在 し. よう と思 う ので あ る 岡。」 た もので 、 生涯変 ることはなかっ た 。肉 体化し な い思. 「私情 私 心を 去り、 国本確立のた めに 、身命 を 捧ぐ. 善 化網 心 と な り 、せ め て 自 分 の 網 域 だ け で も 分 担 し. べき時 機は 到 来し た ので あり ま す。 われ われ は、 その. 地 中 深 く 堀り下げ、水脈を 探り 当て 、 それ を 吸引し. て、 わが 住 む里を 総親 和総努力 の 明る い 里と し て 、か. た こ と か。. 想 、教 挫 の 虚を 突い て 、どれ ほ ど多 くの 暴力が 横 行 し. て 構築して い っ た 理論 や思 想 を 、日本 の近 代は 、 例外. 的、 非論 理的だ と し て 軽蔑し 、 無視し 、放 摘し て いっ. 生 れな い。 原 子化され た 個人は、 その 不 安 解消のた め. か、 是が 非で も 決 行す る と い っ た 力強い 行動、実 践は. 宙 吊 り 状 態 に な っ た 精 神 か ら は 、断 じ て 動 か ず と. くし て国 家進運 に 貢献しな ければ なら ぬので す 偲°」. た 、あきれた 近 代思想 が あるば かりで あっ た 。 水脈や. に、 それ が 疑似とわかっ てい ても 、 共同 体と い う 罠に. 衆 の 肉声、 情念を 吸 み あげる どころ か、 それ を 非合理. 的に し か創 造し 得な か った 。 日常のなかで 呻 吟す る 民. 鉱脈に 眼を つ け 、 それ を 堀り当て 、利 用し て いった の. -35-.
(18) 身 を 寄 せ よ う と す る 。 血 や 土 の神 を 唄 い つ つ 、 神 話 と い う 酒 で 、 国 家 は 人 を 酔 わ せ る 特 技 を 持 って い る 。相 対的 「 知 」 によ る供 宴 が何 万 回 開 催 さ れ よ う と 、 そ れ. は 、 し き た り や 拘 束 を 持 った も の に 対 抗 し き れ ぬ と い う 歴 史 を 私 た ち は 持 って い る 。 ど れ ほ ど 陳 腐 で 、 浅 慇 で 、 非 合 理 的 で あ った と し て も 、 人 を 究 極 的 な と こ ろ で 動 か す も の は 、 神 話 的 な る も の で あ る と いう 絶 望 的 自 覚 が 、 と り あ え ず 必 要 と な って く る 。 蓮 沼 を 中 心 と し た 修 養 主 義 、 修 接 団 運 動 は 、 そ の出 自 は別 と し ても 、皇 国 民 養 成 のた め の社 会 教 育 運 動 で あ った こ と は 否 定 出 来 な い 。 階 級 対 立 、 土 地 制 度 の 矛. 本 的枠 組 み と な った 〈 修 森 〉思 想 は、 日本 人 個 々 の 〈自 己支. ( 略 ):む しろ 、〈 自 己支配〉の自律 的 願 望 に支 え られ た 〈修. 配〉 の自 律 的願 望 にも とづ いて形 成 され た も のであ った。 :·. 捉〉思 想 は 、本 性 上 、国 家 権 力 によ る強 制 を も含 めて他律 を. 排 しよ う と いう姿勢 のも と に形 成 さ れ たも のであ った。」 ( 宮 二九頁 。). 日本 精 神 史 の課題」紀 伊 國屋沓 店 、昭和 五十 五年 、 一 川透 「. ③ 安倍 能 成 「 岩 波 茂雄 伝」岩波hu 店 、昭和 二十 ご年 、六 ニ ー六 三頁 。. 「 何 の目的 あ り て是 の世 に産出 せられ た る かは 、吾 人 の知 る. ③ 明治 三 十 四年 四月 、雑誌 「 太 陽」 に掲載 。 一節 に こうあ る。. 所 に非 ず 。然 れども 生 れ た る後 の吾 人 の目的 は 、言 ふま でも. て見れ ば 、本 能 の満 足 、即 ち是 れ のみ。本 能 と は何 ぞ や 、人. な く幸 福 な る にあ り 。幸 福 と は何 ぞ や、吾 人 の信ず る所を 以. 性 本 然 の要 求 足れ也 。 人性 本 然 の要 求 を満 足 せしむ るも の‘. 絃 に是を 美 的 生 活 と云 ふ。」 ( 「 標 牛 全媒」 第 四巻 、日本 図 土自. 盾 な ど を 隠 蔽 し 、 総 親 和 、 同 胞 相 愛 主 義 な ど と い った 旗 を 掲 げ な が ら 、 国 家 体 制 へ の協 力 を 惜 し む こ と は な. j. 近代 〈. 標牛 全集」第 二巻 ‘H本 図忠 セ ンター 、平 成 六年 、七 二五 「. セ ン ター、平成 六年 、七 六 六 i七 六七頁 )。. い. 大 正青 年 と帝 国 の前途」 ( 「 徳 富蘇 峰 集 神 島 二郎 編 「. 頁。. の な か で 、次 の よ う な 青 年 の 姿 を あ げ て い る。 「 模範平 日. 日本 思想 大 系 ⑧〉筑 摩 書 房 、昭和 五十 ― 二年 、七 一i七九頁 ). 成功 青 年 」、 「 煩 悶青 年 」、 「 年」、 「 耽 溺青 年 」、 「 無色青 年」。. ③ 橋 川 文 三 は この 「 戊申 詔 苔 」に ついて こう の べて いる。「 明治. m 同上K自 ‘七 叫頁 。. ① 同上 沓 、七 二頁 。. ③. か った 。. し か し 、そ う い う 主 義 、運 動 が 、燎 原 の 火 の ご と く 、 全 国 に 拡 大 し て い った 事 実 を 無 視 し て は な ら な い し 、. 行 動 、 実 践 を 唯 い な が ら 、 な に 一っ そ の 勢 力 に 抗 す る こ と も 出 来 ず 、 安 全 地 帯 で 、 哲 学 を 語 って いた 教 裾 派 、 教 提 主 義 を 忘 れ て も な る ま い。. 近 代 日木 人 の人 間 形 成 にお け る括 い 次 のよ うな 見解 があ る。 「. 注. -36-. 綱沢 近代日本における「修 接」.
(19) 末期 の日本 には、 一種病理的な機能不全を思わせるような様. j. よ って発布 された 「 戊申詔粛 そ のも のが、そうした社会的. i. 相が広 汎にあらわれて いた。それらの事例を 一っ ―つとりあ げ てみるま でもなく、明治四十 年十月卜三II 、天皇 の名 に. j. 病理 の妓延 に対す る昔告 以外 のも のではな か った。 昭和 」( 「 維新試論」朝日新聞社、昭和五十九年 ‘ 10二頁)。 ⑨ 金子筑水 「 国民思想 の動揺」「 太陽 第十七巻四号、捕文館 ‘ 明治四十四年三月、 一四頁。 ⑩ 「 田舎青年」 「 山本瀧之助全謀」山本瀧之曲功労顕頌会 、昭和. 一‘心身を. 一、職 業に必嬰なる知識技能を補苦 し. て世 の進歩 に後 れざ らんこと に心懸く べきこと. 進を心懸く べきこと. 鍛練 し勤労を愛するの習憫を浪 ふ べき こと 一、且 に普行を 励 み風紀を正 しうし善良な る郷 風を作 る こと に心懸 く べき. こと 一、質 索 にして分度を守り進んで公益を広 め慈善を行 ふべき こと 一、 一致協力 の習慎を作り公共 の為め有益なる Ili 業を起さんことに心懸く べき こと 一、公衆衛生を祖 んじ. 各自 の健康を保 たん こと に注意す べき こと」 ( 同上t白 ‘ 10 五頁)。 ⑬ 長野県下伊那郡 の青年会などはそ の 一例 である。 「 下伊那郡. 国上社 、昭和三十五年 、参照)。 青年連勅史」 ( j. ⑭ 加藤咄堂 「 修径論 東亜因房、明治四十 二年 、自序°. 六年 、 一頁。 皿 鹿野政直も この点 に触 れ て次 のよ うに のべている。 「 青年を ート熟 として固翌心させよ うとする慈識 であ った。· :( 略):·. 教育する熱意 にも かかわらず 、かれらをぱあくまでも非 エリ. ⑰. ⑮ 同ヒ書、 一三頁。 ⑯ 同上苫 、三頁。 「 蓮沼門三全集」第十 二巻 ‘修没団、昭和四トヒ年。. j. ⑱ 「 蓮沼門三全集」第十巻 、修租団、昭和四十四年、 一0四i -O丘頁。 ⑲ 述沼はこの連動を次 のよ うに説明 して いる。 「 本 団運動 の倫 理概念。太陽 の光が七色融合 して白 色となるように、人間社 会 にお いても、それぞれ の持ち味 や個性を否定す るのではな j. エリートと大衆 の深淵 は、このとき ぬき がた いも のとな っ た。青年団運動 における人間形成が、なによりも被治者的粕 神 の検成 を目途 とした のは、そう いう理由 によるも のであ っ 「 た。 戦後経営と股村 教育ー� 日紺戦争 後 の青年 団迎動 に 」( ついて」 「 思想 岩波書店 、昭和四十 二年十 一月、四五頁。 ⑫ 熊谷辰治郎 「 大 n本率 11 年団史 ‘ JO三頁。なお、この大会 で 協議されたも のの 一っに 「 青年団規十 二則」があるが、それ. 類 の総幸福を実現させよ うと いうも の。本団運動 の別称とし てもち いられ る語。 「 述沼門三全集」第 五巻、修捉団、昭 」(. ⑳ 同上内、 一―五頁。. く、むしろそれらを組み合わ せ、総親和、総努力 によ って人. は次 の ような も のであ った。「一、教育勅語 並に戊申 詔内 の 御趣旨を奉体す べき こと 一、忠君愛国 の精神を挫 ふ べき こ と 一、国体を直んじ祖先を雑 ふ べき こと 一‘克 く父母に. 和四十四年、 ニ ハ0頁) 。 ハ十年 、二貞。 修投団連動八卜年史 ・概史」修投団、昭和」 ⑳ 「 一、業を励 み産を治 め国 力 の増. 事 ヘ 一家 の和合を図り身を修め家を典す こと 一、常 に自治 団体 の 一員 たるを 忘 る : ) となく先 輩 を 敬 ひ隣保 を愛 し郷 里 の為 に力を尽す べき こと. -37-. 2002. 12 号. 14巻 l 文学・ 芸術・ 文化.
(20) j. 月報」‘修 四 「 蓮 沼門 三全其 第 一巻 修 捉 団 、昭和 四十 六年 の 「. 図 唐 木 、前 掲 書 ‘七 一頁 。 ⑰. 「 蓮 沼門 三 全練」第 二巻 、修 投 団、昭 和 四十 四年 、 四 七頁 。. 「 述 沼門 三 全集 」 第 十 巻 ‘ ―一三 i -―四頁 。. g 同上K口、七 三 i七 四頁 。 ⑱. 養 団 、 昭和 四十 六年 、 三頁 。 立 がな いわ け で は な か った 。 「 戦 域 に団 民 の数 が増 え、 そ の. j. j. 筑摩 魯房 、昭利 三十 八年 。. 国土. 四 いうまでも なく 、 労 働 組 合 と修 捉 団と の間 に、次 のよ うな対. 主要参 考 •引 用文献 ( 蓮 沼 門 三 の著 作 は省 略 ). 迎 動 が活 発 にな って いく と 、労働 組合 の過激派 の幹 部 の目 に. 大 道 社 、昭和 七年 。. 中 島 力造編 「 修 槌 講 話」 目黒 書 店 、明 治 四十 一年 。. 昭和 五 十 年 。. 日紺 戦 争 後 の青 年 運 動 に つ. 」(「 社 会 科 学 討 究」第 十 九巻第 一号 、昭和. j. 修 捉 団創 立ヒ 十 年 記 念 大会 実 行 委 員 会 編 「 蓮沼門 之 論 修 渓 団、. 房 、昭和 五 十 年 。. 住 谷 一彦 編 楳 ・解 説 「 三木 清 」 〈 近 代 日 本 思 想 大 系 四〉 筑摩 書. 四十 八年 卜 ニ月 。. 修 挫 団」活 動ー 「. 松村憲 ― 「 近 代 日 本 の教 化 政 策 と 「 修 租」 概 念—ー蓮 沼 門 三 の. 亀 井 勝 一郎全 秘」 第 十 五巻 、講 談社 、昭和 四十 六年 。 「. 三太 郎 の日記」 角 川 掛店 、昭 和 四十 三年 。 阿部 次 郎 「. いて」 「 恩想 」 岩 波 讃 店 、 昭 和 四十 二年 十 一月 。. 鹿 野 政直 「 戦 後 経 営 と農 村 教 育 1. 武 田消 子 「 天皇 制 思想 と教育 」 明治図 魯 出版 、昭和 三十 九年 。. 間木順 . 一「 新版 ・現代 史 への試 み .. 社 、昭和 三十 五年 。. 長 野 県 下 伊 那 郡 青 年 団史 編 纂 委 員 会 「 下伊 那 青 年 運動 史. 安 倍 能成 「 岩波 茂 雄 伝」 岩 波 古店 、昭和 三十 二年 。. 熊 谷 辰治 郎 「 大 日本 青 年 団史」 細 川活 発所 、昭 和 十 七年 。. j. は 、団 運 動 はた い へん邪脱 な存 在 と し て映 ってく る。とく に. 四ニー i. 「 共 産党 を 脱 す る迄」 大 道 社 、昭和 ヒ年 、 一六三頁 。. 小 野陽 一 「 共 産党 を 脱す る迄. 団 連 動 が広 がると、スト ライ キ がやり にく い状 況 が起 ってく 修 投 団 、昭 和. 加藤 咄 堂 「 修 挫論」 束 亜杏 房 、明治 四十 二年 。. j. る ので、スト ライキを も く らむ指 導 者 は団を 敵 視す る よ う に 」( 修 挫 団 迎 動 八 十年 史 ・精 神 と事 業 な る。 「. 六十 年 、 一五0頁 )。. 頁。 i. 彦 編 秘 ・解 説 「 三木 清 其」〈 近 代 日本 思想 大系 ⑳〉筑摩. 「 修 掟 団 連動 八十年史 ・概史」修 掟 団 、昭和 六十 一年 、 八〇. の思 想」 不 二出版 、昭 利 六十年 、八 七頁 。. ⑳ 岡田洋 司 「 農村青 年 =稲 垣稔ー ー 大 正 デ モク ラシ ーと 〈 土〉 ⑳ ⑳ 住谷 告 尻 、昭和 五十 年 、 一三 i ―四頁 。. ―四三頁 。. 合 本 ・三太 郎 の日記」角 川因 店 、昭和 四十二年 、 「. 新 版 ・現代 史 への試 み」筑摩 甚 房 、昭 和 三十 八年 ‘凹五頁 。 四 「 ⑳ ⑳ 同 上忠 、三 五 二頁 。. ⑳ 同上 書 ‘三 五 一T'三五 三頁 。 g. ⑳ 同 上 杏 、三 五囮頁 。. 貞゜ 図 同 L 内 、 ニ ハli 四十 六年 、 二六五貞 ゜. 約井 勝 一郎 全集 」第 十 五巻 ‘講 談 社 、昭和 現代 人 の研 究」「 ⑳ 「. -38-. 綱沢 近代 日 本 に お け る 「 修養」.
(21) 饗庭孝 男 「 近代 の解 体」 河 出古 房 新 社 、昭和 五十 一年 。. 和 五十 三 年 。. 神 島 二郎 編 「 徳 富 蘇 峰 其」 〈 近代 日本 思想 大 系 ⑧〉筑序因 房 、昭 日本粕神 史 の課 題」 紀 伊 固屋 古 店 、昭利 五十 五年 。 宮 川透 「. j. 不 二出 版 、昭 和 六十 年 。. j. 修養 団 、昭和 六十年 。. j. 岩波 魯 店 、平 成 七年 。 信山. 正デ モク ラ シーと 〈 士〉の思. 朝 日新 闘社 、昭 和 五十 九年 。. 「 地 方 史 研 究」 昭 和 五 」(. 岡田洋 司 「 牒 村 社 会 運動 と し て の修 養 団 運 動 の論 理 と実 態. 十 六年 八月 。) j. 大 正後 期 の愛 知 県 碧 海 郡 の事 例ー 昭和 維 新試 論 稿 川文 三 「 想. 岡 田洋 司 「 此 村青 年 11稲 垣 稔�. 「 修 程 団 八十年 史 ・概史. 「 修投 団 八十年 史 ・精神 と事業」 修 投 団 、昭和 六十 年 。. 「 修 挫 団 八十年 史 ・賓料 篇」 修 捉 団 、昭 和 六十年 。. l. 「 標 牛 全頻 」第 二巻 、日本 図書 セ ン ター、平 成 六年 。 日本 型 「 筒井消 忠 「 教簑 」 の運命 社 、平 成 十 三年 。. 宮 坂広 作 「 ―高 自 治 の成 立 と展 開 旧制 高 校 史 の研 究 ー| _. -39-. 2002. 1 2. 14巻 1 号 文学 · 芸術 ・ 文化.
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