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ブラジル国エスピリト・サント州における珈琲栽培の発達と独乙人移民労働力

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ブラジル国エスピリト・サント州における

         珈瑳栽培の発達と独乙人移民労働力

 前稿において、リオ・デ・ジャネイロ及びサン.パウロ州低地にて開始された珈緋栽植耕が、サン・パウロ高原上に立 地移動を惹起した要因には、労働力問題解決の目的が看過さるべからざることを述べた。それは一八五〇年に既に奴隷貿 易禁止は決定的となり、労働力補給の途を絶たれたために、奴隷労働力に代位せしむべく、欧洲移民労働力の招致に努力 が払はれたが、欧洲移民には熟帯低地においては気候適応の困難さがあるために、彼らに好適な労働環境を高原上に求め ることによって、この問題を解決したのであると結論した。  しかるに、いま吾汝はエスピリト・サント州国。。比量。盈。彗8︹国暮ぼε召ロ碧8とも記す︺においても、また前者と略汝同時 代に、同様の輸出向作物生産の高地への立地移動の現象が惹起している事を発見した。この現象の原因の究明によって、        r 前稿の吾汝の結論が全く裏付けられ得るものと洋画は信ずる。即ちエスピリト・サント州においては一八四〇∼一八六〇        年代を韓期として、甘薦及び棉花栽培は後退して、珈排生産が大発展を遂げることに関して、吾汝は次の如き数字を示す ことが出来る。      ブラジル国エスピリト・サント州における匂油栽培の発達と独乙人移民労働力      三九

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ブラジル国エスピリト・サント州における珈瑳栽培の発達と独乙人移民労働力 砂糖輸出 珈緋輸出 一八四四年⋮⋮⋮:・三二四b 一八四五年:⋮⋮⋮・二二六、 一八五二年⋮⋮⋮⋮一一七、 一八六一年⋮⋮⋮⋮ 二二U 一八四五年⋮⋮⋮⋮ 三二、 一八五二年⋮⋮⋮⋮ 九五、 一八六一年⋮⋮⋮⋮二二四、 ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ ○○○ b山月。ぴ即。駐︵アロバスは一五妊︶ 四〇  右の如く、エスピリト・■サント州では甘熊より珈瑳生産への転換が見られるが、この転換は同一場所においては行はれ        ず、この転換は同時に低地より高地へ、栽培地の立地移動を悲起した事実がワーゲマン穿.離塁什考藷Φ嚢虫によって指摘 されている。しかるに吾汝は前稿にて、リオ及びサン・パウロ低地では、甘蕪栽植がそのまま同一場所において琢緋栽植 に転換され、その後に低地の珈誹栽植は高原へ立地移動した事実を述べたが、いま両者を比較するに、エスピリト・サン ト州では、低地の甘藤が同一場所において珈誹栽培に転換する一段階を越えて、直ちに高地の珈排耕作に転換した。従っ てこれを概轄的に述べると、輸出向作物生産地の高地への立地移動と云ふ点では、エスピリト・サント州でもリオ及びサ ン・パウ予州でも全く同一の現象が、しかも前者は]八四〇∼一八六〇年、後者は一八五〇∼︸八六〇年代と云ふように 時聞的に見ても略為一致して惹起していることを吾汝は知ることが出来る。  エスピリト・サント州における輸出向作物の転換を惹起した原因に関して、ワーゲマンは﹁奴隷売買及び奴隷制度の廃         止は、特に甘薫及び棉花栽培が珈瑳栽培によって騙逐されると云ふ結果となった﹂と云う説明を与へ、転出向作物転換は 奴隷労働力供給の杜絶に原因することを指摘し、更にまたべレイラ同州長官の報告書にも﹁この︹輸出向作物転換の 和田 補︺事実は、甘蕪栽培はすべての農業経済部門のうちでも、奴隷労働力に対して特に適当せる部門である、 と云う観察の

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喩 真実なることを立証するものと思はれる。甘薦生産が四〇年代以降に後退したのは、既に以前に禁止されている奴隷貿易 ︹ここでは︸八こ二年のブラジル独立承認に対する条件として、英国の主唱により締結せしめられた一八二六年の英伯奴隷貿易禁止協定        を指す 和田註︺が厳重なる監視をもって、今では抑圧されているからである﹂と説明されている。  エスピリト・サント州における輸出向作物の珈群への轄換、並に高地への立地移動の原因を、奴隷労働力補給杜絶乃至 は奴隷制度廃止に置かんとするワーゲマンの見解と、ペレイラ州長官報告書とは、吾汝のサン・パウロ高原への野駆栽植 耕の立地移動に関する前稿の結論と、全く一致することを発見した。換言すれば両地域の大小、及び立地移動の規模の大 小においては、比較にならぬものがあるとは云へ、サン・パウロ高原への珈群栽植耕の立地移動に関する傍近の結論が、 エスピリト・サント州における同種の立地移動の現象に対する、ワーゲマン及びペレイラの論述によって、裏付けされ得 るものと信ずる。  だが、吾汝は前稿の結論を得るためには、奴隷労働力に代位すべき欧州移民の熟帯低地への気候適応の困難さがあるこ と、並に欧洲移民に可能なる労働環境を熟帯高原に求めるために、高原へ立地移動を惹起したこと!云はば欧洲移民の 労働力気候適応の問題を指摘して、それを論証し、それを結論へめ過程における重要な前提とすることによって、高原へ 立地移動を惹起したと結論したのに対し、ワーゲマン及びペレイラの前述の見解においては、輸出向作物生産の高地への 立地移動を惹起した要因として、奴隷労働力補給の杜絶を挙げているが、奴隷労働力補給杜絶が、何故に高地へ立地移動 を惹起せしめたか、に関する論証を欠いでいる。もっとも、ワ1ゲマンの著述のなかには欧洲移民、就中独乙人移民の気 候適応に関する貴重なる記述があり、それを吾汝も後に引用せんとするが、ワーゲマンは欧洲移民労働力の気候適応に関 する彼自身の記述をして、輸出.同作物生産の高地への立地移動の問題に、柳かの関聯をも持たしめる意志がないように思 える。 ブラジル国エスピリト・サント州における珈腓栽培の発達と独乙人移民労働力 四一

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,      ブラジル国劇スピリト・サソト州における脚排栽培の発達と独乙人移民労働力      四二  故に吾汝はエスピリト・サント州における輸出向作物の転換、並に高地へ立地移動の原因が、サン・パウロ高原への立 地移動の原因と全く同一であると結論ぜんがためには、ワーゲマンの記述を去りて欧洲移民労働力が同点低地への適応に は困難があること、並に同書の高地が欧洲移民に可能なる野働環境を提供した点を論述する必要がある。一本稿の問題 点はエスピリト・サント州においても、また欧洲移民の労働力気候適応の問題が、輸出,向作物の転換並に高地への立地移 動を惹起したのではないかと云ふ点にあり、吾汝はそれを論証し併せて前稿の結論への裏付けを得たいと思ふ。 * @@

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拙稿 ブラシル経済開発史上における労働力気候適応の問題 彦根論叢 三十六号 拙稿 サン・パウロ高原における平話プランテーションの発達と欧洲移民、労働力 彦根論叢 三十八号 罰。且。算9。2b鼠m創①巳Φ Oo硲貯国Φ話マ9㍉目巳窪噛一cQ㎝ω.ωマお鵠. 国巨9薯罐①目碧昌”Oδ甑。蝿けの9窪国。δ露国8ぎび轟。・注窪尻魯霞目罫8尉呂一江8己Ωきひ9 ︵望①bβ。・ぽ融ヨ昌覗く。口国弓。冨Φ毎ぽ 9μ凹目8①戸弓。切㎝︶硫6︾畦儀亀嵩蹴低く恥越§も。\寓憶恥。甑勲奪。、隷隷︵寓ご暮憂身β■ピ①ぎN鐸曽6一σ︶同韻コざ尊ロ‘零 国び⑦ロ価勲ω●一ω 剴Φ獣。暮9砿胃器賦①暮①ロQo碓貯知胃巴冨尊鱒薗■ρ 盛人の海岸地方における額堂栽植耕経営とその後退一奴隷労働力補給の杜絶  一五三五年に同人が最初の欧人としてエスピリト・サント州に地歩を占めた。彼らはエスピリト・サント市︹現在のヴ イτヤ・ヴェーリやく首餌くΦ︸冨︶の建設から始めた。その後、聞もなく同市に相対峙してエスピリト・サント湾内の島に、 今日の首都ヴィクトリアが建設された。その後の植民の進歩は殆んど見るものがなかった。この植民活動を妨げるもの は、原住印皆人の敵魚心であって、彼らは森林内の潜伏所から白人居住地に繰返し破壊的襲撃をなした。印流人のうちで エスイト教団の改宗運動によって一部の印画人は欧洲文化に浴した。彼らは伝道村冒謀け昌。犠霧に居住し、白人はそこか

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ら出来るだけ遠ざけれらた。隼人の植民地が海岸近傍に限定されたのは、伝道村に侍みを懸けることが出来たからであ る。海岸地方では土地は甘蕪及砥棉花栽培に特に適してをり、又ペルナンブコにおける如く奴隷労働力に基く栽植経営を         発展させることが出来たからである。一六六二年には既に最初の黒人奴隷がこの地にやって来ていた。一八一七年には大         砂糖工場が七六、小工場が六八存在していたと云はれる。一八五六年には人口数は四九、000人に達し、そのうち奴隷 一二、○○○人、自由人三七、○○○人であった。,奴隷はもとより、すべて黒人及び黒人との混血種であった。然るに一 八四〇年代以降、羊腸生産の著しい後退が現れたのは、前述の如く奴隷労働力の補給が杜絶したことに依る、とワーゲマ ンは説明した。  エスピリト・サント州における甘蕪栽植耕の後退が、奴隷労働力補給の杜絶に基因して現はれ始めたとするのは、奴隷 労働力に対して甘庶栽植耕が最適であるからである、と彼は説明するが、何故に最適なりやと吾みは反問してみる必要が ある。  思うに、それは第一に甘辛栽培の最適気候条件は熟達性高温多湿であって、且つ乾湿の季飾的区分の明瞭なることであ るのは周知の事実である。従って自然気候条件に関する限り、冷涼な熟帯高原よりは熱帯低地の高温環境の方が、甘蕪栽 培に好適することは、贅言を要しない事実である。第二は糖業が農工両方面に多大の労働力を必要とすることである。工 場作業は一年中、常時的に行はれるものではないにしても、また耕転・刈取・積荷・輸送・加工においては、季節的に著 大な人間労働力を必要とするとしても、圃場における甘薦栽培は六欲通じて継続的労働力を必要とし、この労働力需要に        は季節的変動は・ない。従って労働力は悪業発展に重大な関係をもち、労働力は悪業経営における限界要素となる。然るに 当時奴隷制度存続中にあっても、印愚人奴隷は既に禁止されてをおり、自由労働力の基礎たるべき原住印旬人口も労働力 とは為し難く、従って唯一の労働力を提供するものは黒人奴隷あるばかりであった。しかも前述の如く高温多湿の含声低      ブラジル三口スピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力      四三

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     ブラジル国エスピリト・サント州における珈舞栽培の発達と独乙八移民労働力       四四 地を最適とする甘蕪栽培の労働環境においては、黒人の労働能力を凌駕すべきものはあり得ないと云って過言ではない。  然るにエスピリト.サント州にては、一八;六年の英伯奴隷貿易禁止協定が締結されるや、間もなく効を奏し、四〇年 代にはその監視が厳重となることによって、黒人奴隷の供給の途は絶たれ、それが直ちに同州の甘薫生産に影響を与へ て、前述の如く生産は後退を余儀なくされたのである。  同意における奴隷制度廃止は一八八九年に完成された。古き労働体制はそれによって破壊された。その結果多くの栽植 耕経営は崩壊した。解放された黒人の大部分は移住してしまい、また森林内に分散逃避して、原始的形態の自作農に身を 委ねることになってしまった。併し古き組織の廃嘘の上に、新しき生活が成長した。それは一八四〇年代に独逸人が移住 を開始し、一八七〇年代には大群をなして渡来した。それはあだかも一八七七∼一八九五年にブラジルに流入せる伊太利       コ        移民のそれの如くであった。独逸人は内陸の森林地帯の開発に、大なる植民的力億を以て突進して行ったのである。  かくの如くエスピリト・サシト州においても、また奴隷制度廃止の近逸せる事態に対処して、奴隷労働力に代位せし むべく企てられた欧洲移民の自由労働力を、最初に提供したものは、独逸人であったことに留意しなければならぬと思 う。しかるに独乙人は奴隷労働力に対する代替労働力として、招致されたにも拘らず、何故に従来奴隷労働力を以て経営 されて来た同州海岸低地の甘庶栽植耕を継承しなかったのであらうか。  吾汝は前里︵ブラジル経済開発史上における労働力気候適応の問題一東北海岸地方における重藤プランテーションの発達と奴隷労働 力彦根論叢三十四巻︶において、ブラジル東北海岸地方の甘蕪栽植耕を、経営して来たプランターとしての葡人の内部熱 帯への気候馴化能力の卓越性について述べ、また奴隷制度廃止に伴い、東北海岸地方の甘蕪栽植耕か瓦解に瀕する打撃を 蒙り乍らも、それが継続されて現今に及んでいるのは、この地方に定著せる葡人と、その型置との混血種たるカボクロ及 びムラトの自由労働者の存在が、奴隷労働力に代位することが出来たことと、解放とともに放浪に出た黒人も此んど究極

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において、労働へ復帰したことに依ることを述べた。  これに比べてエスピリト・サント州においては、既に奴隷貿易禁止による奴隷労働力補給の杜絶に基因して、碧し始め た甘庶栽植耕後退の現象は、前述の如き奴隷解放による黒人の放浪移住によって、決定的となったとは云へ、それに先立 って奴隷解放の近迫せる事態に備へて、奴隷に代位すべく、独乙人移民の自由労働力が招致されたにも拘らず、何故に従 来奴隷労働力を以て経営された低地の甘心栽植耕を継承しなかったのであらうか一そこに吾汝は寒国的白人種たる独乙 人の、同州の熱帯低地気候への適応能力の問題があるのではないかと云ふ点を指摘したい。そして東北海岸のペルナンブ コ及びバイヤ地方へさへ、定著を可能とする暖国的白人種たる、葡入の熟帯気候馴化能力との聞に、明確なる虚説的差異 があることも指摘せんが為に、吾汝は独乙人の心張低地への気候適応如何の問題を点穴において検討しなければならぬ。  ①O①N霞卜長三戸。旨霞舅塁騨∪︸8δ纂巳。ぼ確まほ8噂σ身8σ隠冨噂三8Φ窃鐙象。・銘8量子。ぐぎ。ぎq。国。。雲門ぱ鈴。召Q寒8層田。画①﹄寒。マ。一。。N。。甲    ℃.U。。  ② Hび藁二冒●o。ω  ③根岸勉治栽植企業方式論二三九−二四〇頁  ④田塁酔堵塑。9Φ巨碧β”冒。9暮の魯露国〇一。巳。・叶8ぎ育器乱臣読魯睾ω蜜9。野喝三8解きρ砕蒔 二 独乙入移民の植民地建設  エスピリト・サント州における独乙人植民地は、約五〇〇〇平方粁、即ち池州面積の約九分の一に及んでいる。北部及 び東部にては、首都ヴィクトリアからミナス・ヂェラエス州に通ずる鉄道沿線に多く、西部ではΩβ暴き河西部の河畔及 びミナス州境にまで拡がっでいる。南部では身9青男各をも含んでいる。ドー露訳國ご∪。8に注ぐQq睾貴。2諺宣﹄。㍗      ブラジル国師スピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力      四五

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     ブラジル国エスピリト・サント州における古謡栽培の発達と独乙人移民労働力      四六 目冨”。Q諺鐙旨乱民暫の三支流、他方では海に注ぐ三景河及びζ・日豊冒ぎ智舞く§。巳四河上流地方が、エスピリト・サント州 における独購入植民地の領域であって、域内には多くの未開墾地か含まれている。その植民地の高距位置は海抜三〇〇∼ 一〇〇〇米の高地で、この高地は大西洋海岸とリオ・ドーセ河との二方向に傾斜している。 o爵銭戸。・諺蜜き導冨曽ω匹ロ蜜 冒留置の三河の漢谷は、海抜一〇〇∼三〇〇米の低地で、平坦地広く、農業に利用されている。 一方高地の漢谷は、狭い 河床だけが平坦地で、従って耕地は殆んど平坦な位置を占めない。景観は全体とじて中部春心の山岳地方が、肢帯性植生         をもてるが如ぎ景象を与へている。吾汝はこの独乙人植民地領域内に設立された、有名な二つの植民地について述べたい。  サンタ・イザベルω山ロ紆冒魯巳植民地の建設  この植民地は一八四七在に設立され、当時王位継承者と予想された人名を以て命名された。この植民地に最初に渡来せ る独乙人移民は、三八家族一六三名のライン地方の広口昌塁冥目出身者である。その後に切9墨壷窪器βからの移民をも受入 れている。この植民地の教区本部所在地はカンピーニョ。器窟臣。にあり、海抜四五〇米である。此らの独乙人移民は山 岳地帯の出身で、生来小農夫、叉は日傭労働者として重労働にも慣れてをり、ブラジル原始林における植民事業に優れた 資質をもっているとは云へ、彼らの入植当年において、エハ一二名のうち大抵の者は病床につき、そのうち九名が死亡し た。カンピーニョの教会の過去帳から、知られた彼らの死因は、チブス・マラリア・黄熟病であった。併し政府は強き援 助を与へ、移民に医薬と医療と生活資料を提供することによって、その苦難の時代は間もなく過ぎ去った。当初、各家族 は一区劃約五〇ヘクタール余の土地と、政府の補助金とを受けたが、それにも拘らず移民は時には全く飢餓に苦しまねば ならぬことがあった。それはヴィアナ町の旧教徒の住民が、宗教上の敵傾心によって、プロテスタントの独乙移民から、 如何なる生活資料も生産品も購入することを拒んだからである。かかる時代を経て、 一八六〇年における移民の状態は、 先づ我慢出来る程度であったことを円器ゴ象報告書は伝へている。

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 当時の住民の人口数は、移民及び自然増加によって六二八名に増加した。その国籍別は次の通りである。        独  乙  人      四一〇        ス イ ス 人       八        仏蘭西 人       ニ        サルヂニア人       二四        ブラジル人︵ブラジル生れ、移民第二世︶一八四          計      六二八名  一八六二年の終りには八〇一名で、内男子四二四人、女子三七七人であった。同年一万アロバスの珈誹が牧羊された。         しかも一八六五年にはこのサZク・イザベル植民地では、奴隷解放が実施されたことは、独乙入移民労働力が完全に奴隷 労働力に代位して、生産が遂行されるに至ったことを傍証するものと思う。先に述べた如く、独乙人の最初の移民の自然 淘汰の原因が、医薬や医療によって克服され得る可能性のある﹁疾病要因﹂にあり、 ﹁彼らの新しき郷土の気候状態は全         く都合悪きものではない﹂と云はれる点に吾汝は留意したいと思う。  サンタ・レオポルデイナ乙Q窪鐘び⑦。贋9巳冨植民地の建設  サンタ・イザベル植民地は殆んど純独乙人植民地であったのに対し、サンタ・マリア・ダ・ヴィクトリア河畔に国籍混 合の植民地が一八五七年に建設され、第二王女に因んで、サンタ・レオポルデイナと命名された。その設立は一八五七年 で、この時代にブラジル政府は、南部諸州に多数の官設植民地を建設して、欧洲移民の招致に努めたことは前稿にて述べ た。此の植民地の教区本部所在地は海抜約五〇〇米の位置にある。  最初の移民は一八五七年に一四〇名のスイス人が渡来し、次善に二二二名の各国籍の欧洲人が渡来した。一八六〇年一 〇月には、この植民地には二三二家族一〇〇三入が居住した。その国籍別人口数は吹の如くである。      ブラジル国エスピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力      四七

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ブラジル国エスピリト・サント州における珈球栽培の発逮と独乙人移民労働力 プ ロ シ ア 入 ザ ク ゼ ン 人 へ ッ セ ン 人 バ 一 デ ン 人 ホルシュタイン入 ナ ッ ソ 一 人

その他の独乙人

   計 ブラジル生れ二世

 イフベルチスォ

    ク

 ギラルセPイラ

計・・琴ルスン

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    グ

 入人入人入入人

三八四  七六  六一  二七  一三  =二  一九 五九三名  二四名

天   七八〇二

六一一八○二四〇

名 四八  一八六〇年にこの植民地を訪れた日ひ・g目貼の報告によると、この植民地は惨憺たる状態にあり、その原因の一部は土壊 の痩薄さにあり、他はブラジル政府の財政的失政に責任ありと報告している。その後、一八六七年置発表されたプロシブ 総領事ハウプトの報告によると、その状態は大いに改善されていることが窺はれ、前者の報告とは全く異れるものであっ た。 一八七〇年代にポンメルン出身の独乙人が数百名渡来して、彼らの植民的適性により、開拓事業は大いに進捗した。 彼らは生来山地伐栽の如き、重労働に慣れてはいなかったが、彼らは日傭の重労働者となり、その肉体労働能率の優越と

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彼らの質素、意志力の強靱さは彼らの特微であった。彼らは今日エスピリト・サント州における、プロテスタント的野乙 人移民の主なる集団を形成し幽ている。この植民地から独思入の植民地は、賀州の南へも、西へも北へも、著しい低地にま        .④‘ で進展することになった,  ①年器酔貞轟Φ唐霞員Uけ幽窪け砿9自国。ざ獣。。8ロぼ爾器一寅巳皿魯窪の富9Φ国憲ぼ紳。ωき酔pω.国一認  ② 国び05留切.Po。ーヨ  ③穿窪富の●悼。。  ④国び窪量ω・ヨーωU 三 独乙人植民地の気候状態  高地の気候状態ーサンタ・レオポルデイナ植民地の場合  サンタ・レオポルデイナ植民地の教区本部所在地は、海抜五二〇∼五三〇米の位置にあり、同地の観測によれば、年平 均気温は二一∼二二度Cで、その高島は三三度を僅かに越えるに過ぎない。低極は八度以下は観測されていない。夜は夏 季においてさへ、常に快適である。朝六、時に二〇度を越えた日数は、十一月に七∼八、十二月に一一∼一二、一月に一七 ∼二〇、二月に九∼⋮五、三月に二∼四.であり、二二度を越えた日数は一月に僅か一日あるに過ぎぬ。雨季が夏十一月か ら四月置での聞にあるが、雨季が始まる頃に長雨が続き、夜間に不快な蒸暑感が実際に感ぜられるのはその頃だけであ る。夏の暑さは空気が乾燥しているためと、正午頃に屡汝強力な海風が東北方より吹いて来るために、.暑さは耐哀難くは 感じられない。五月∼一〇月までの冬季には、降雨は極少量で、それが霧雨となって一日中降り続く。年雨量は約二〇〇         ○粍にも及ぶ。      ”      ブーヲジル国エスピリト。サント州における日興栽培の発達と独乙人移民労働力       四九

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     ブラジル国エスピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力      五〇  従ってサンタ・レオポルデイナ植民地の二〇度Cを越える年平均気温は、ズーパンの気候分類によれば外帯気候である が、ヶツペン︵一九〇〇年︶の分類によれば全智通じて各月二〇度以上を声帯気候とするから、この植民地の気候は熟帯気 候には含まれず、その後︵一九一八年︶クツペンは最上月一八度以上を熟帯気候とするように分類を改訂したので、この植 民地は辛じて熟帯気候に入ることになる。いつれの分類に従っても、サンタ・レオポルデイナ植民地は熟帯気候の限界近 くにあることは明かである。  ワーゲマンの記述にある如く、気温の日較差が著しいことは確かに凌ぎ易さを思はせるに足る。 ﹁それ故に、気候はこ の点では吾汝にとってはかなり温和に思はれる。それにも拘らずこの地帯の呼笛季が独乙の夏に匹敵しなくとも、晩春に 匹敵することを吾汝が考慮に入れるならば、高地の気候が独乙の吾汝の故郷のものと相違していることが理解されるであ    らう。﹂  吾汝は南緯二〇度の高地に位置せるサン・レオポルデイナ植民地の気候と、・南回帰線下の低地にあるリオ・デ・ジヤネ イロのそれと比較する時に、前者の方が寧ろかなり冷涼であることが明かとなる。云ふまでもなく前者が数理的熱帯内部 にあってもその位置が高地であるからである。 低地の気候朕態  乞998b醜。票。℃8轟植民地の場合  宮“。︸。。畦ぽ塁。団自8はドーセ河の支流臣。象爵きの漢谷に位置し、海抜一六二米の低地にある。 大抵の低地域は完 全に熟帯気候をもっている。特にサンタ・ジヨアンナ河漢谷についてそれが当はまる。その地では気温が三八度を越える ことは稀れに見るだけであるが、夜になっても気温は僅かに涼しくなるだけである。夜一二時に二八∼二九度の高温が屡 汝観測される。かかる場合は朝までに二六度まで下降すればよい方である。冬季には空気が乾燥して大抵温和な状態にな るが、それでも蒸暑き日が珍しくない。この冷季にさへ]四∼一六度以下の涼しさになることは、例外的な場合だけであ

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る。   、  高地においては常に新、鮮な泉水が自由に使用出来るが、低地では生温い河水があるだけで、それは冷味を殆んど与える ものでない。一九一三年五月には二八度以下の河水温は,観測されなかった。井戸水はその場合二六度であったと云はれ る。  降水量の年間配分については、四∼九月までの間は高地よりも降雨は少ない。 ]○月には雨季が始まり、クリスマスま で雷雨が起る。本格的雨季はクリスマスから一月末或いは二月申頃まで続き、その後三∼四月には︸、二週閤位の降雨日        数があり、それから乾燥せる冬季が始まる。  従って、明かに年平均気温は熟帯気候を示し、雨季と乾季との明確な区分をもつことにより、熟帯サバナ気候を提示す る。この地帯の高地の気温と比較すると、年平均気温は三∼四度も高い。、これらの気候表のデータから欧洲人、特に寒国 的白人の気候馴化には困難が伴ふのではないか、との推測が吾汝に起って来るがこの点は嘉節に述べる。

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ブラジル国国スピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力 五四         四 エスピリト・サント州における独乙人の気候馴化と彼らの労働能率  エスピリト・サ/ト州における独乙人の気候馴化の成功は、屡々寒国的白入の内部熟帯への気候馴化の成功例として指 摘されるものであるが、前節に見た如く同区の高地と低地とでは気候状態に著しき相違があり、,従って気候状態の差は必 ず独乙人の気候馴化にも、異れる効果を現すであらうと、推測することは不当ではないと思う。故.に吾汝は同坐における 独乙人の気候馴化の成功は、高地においてか、低地においてかを明かにする必要がある。  エスピリト・サント州高地における独乙人の気候馴化  いまワーゲマンの記述に従えば、 ﹁吾汝︹独乙人和田註︺が完全に良好なる健康状態にあるのは如何なる理由に基くか を究明するときに、吾々の健康状態が完全に気候によってのみ説明されると云うことに吾汝は強く論及するであらう。﹂        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ と述べ、 ﹁とにかくエスピリト・サントの山地の森林地帯より以上に人間の健康に良いところは世界中に殆んどないと云 へ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ って差支へないであらう。そこでは日中の温度は過度に湿潤でもなく、夜は大抵冷涼である。また冬季には爽快な雨季が         あって、夏季の蒸暑なる数週間に対し健康によき償いをなすのである。﹂ ︵傍点和田︶  気候の良好さは独乙人たちの農村居住者の外貌を見ただけでも承認される。男子の場合は身長がひよう長く細く、また 彼らの父親よりは低いと思はれるが筋肉は逞しく強靱な姿をしている。彼らの肉体的労働能力については後述する如く殆 んど低下していない。女子の場合にはブラジル婦人の如き繊細な優雅さをもたない。それは彼女たちはラテン女の如き無 為に耽けることなく、男子と並んで農耕に従事しているからである。その母親や祖母たちがそうであった如く、相変らず 逞しく強い女たちである。とにかく気候の虚脱的作用はその最少のものさへも高地の上では感知出来ないとワーゲマンは

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云う。 −エスピリト・サント州高地における独乙人の労枕能率  独乙人移民によって遂行される労働の強さと量についての問題、特に三野気候が彼ら移民の労働能力を侵害するかどう かの問題について一般的観察を与えるならば次の如くである。  独乙人移民は生活最低限度国図馨・震巨不日β唐の獲得に必要である程度以上に、遙かに多くの労働に従事している。それ 故に独乙人移民の最も怠惰なものでさへも、少数の醜名ある大酒飲みを除けば、常に土着人の平均以上に熟心且つ敏捷活 濃である。この場合、無期入の原始林農夫の肉体的訪働能率は著しく高いので、彼は短期間に屡汝巨大な仕事を遂行する 即ち森林伐裁や家屋建築、道路建築め如き労働に際して、独乙から新しく渡来せる労働者は従来の独乙人移民に匹敵し難 い程である。  平均して一日の労働時間は余り長くはない。移民は夜明けの頃、冬季には六時前、夏季には五時前に起床することは殆 んどない。七時頃に農耕に鼠かける。短い朝飯休みを除いて、十一時半頃まで懸命に労働する。昼食後、高地では二時頃 低地では三時頃に、再び労働を始め、暗くなるまで続行し、冬には六時頃まで、夏にはもっと長く、時にはランプの光で 夜もなほ労働することがある。夜業には籠や節を編み、又修繕などを行う。併し一般には人は早く就寝し、平均八∼九時 闇の睡眠をとる。この長睡眠時間が、移民たちを疲労させる暑さや光線の作用に対し、移民の労働能率維持の基礎条件と なると思はれる。  時飛行はれる夜業を除けば、この地では冬は普通八時聞の労働時間をもっている。夏には農耕は中止され、労働時間は 冬より少なくなる。併し珈県警獲期には一〇∼一一時間も労働する。主旨には昼休みが省かれて一〇∼一一時間労働する こともある。エスピリト・サント州の独乙人は、最中における小農夫や日傭労働者よりは労働時間が少ないが、その労働      ブラジル国エスピリト・サント州における珈排栽培の発達と独乙人移民労働力      五五

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     ブラジル国エスピリト・サント州における珈緋栽培の発達と独乙人移民労働力      五六 時間内には独乙、におけるより以上の強さで労働すると云ふ印象を受ける。とにかく彼らは労働力を維持してをり、恐らく        エ それを増大さえしている。  エスピリト・サント州低地における独乙人の気候馴化  ﹁高地気候は極めて健康的であると云はれ得るけれども、同様のことが直ちに低地気候については云うことは出来な い。なぜならば、たとヘサンタ・クルズ村にて出生月影〇∼六〇、死亡数は僅かに八∼一〇、サンタ・ジ。アンナ村では 出生数日〇∼七二、死亡数一一∼一四忽であって、此らの数字が法外に健康的であることを示しているのは、此の地には 殆んど若い植民家族ばかりが生活しているとしても、この地にてはマラリア・赤痢・チブスが多くの犠牲を要求する。だ がそれは大部分は用水状態の不良の結果であって、気候にはただ足る程度の原因があるだけだと云ふことは看過さるべき でない㎝﹂としてエスピリト・サント州低地における独乙人の気候馴化の或る程度の困難さを認めているが、それは気候要 因に基くよりも、現今にあっては保健対策によって寄書し得る可能性をもつ、伝染性疾病要因に基くものである、と云う ことは注目に価するが、ワーゲマンはその気候要因の重要性を否定するのではなく﹁併し、低地気候が・精力錯磨性の作用        をもっことは全く疑いない。吾汝はその地方では子供の生了した顔色を見失う。成人の場合にあっても同様のことが云え る。女子㊨場合には月経は屡汝不規則で、初潮は大変遅れて始まることが多い。人々は暑さと寒きとに対して、特に敏感        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ となる。大抵の場合考えさせられることであるが、植民はその生活態度において香る虚脱状態を示し、 ﹃ブラジル人化﹄         ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ  する傾向があり、彼らの経済的能率も疲れ始める﹂︵傍点和田︶ と述べて独乙人の低地における気候馴化の困難さを卒直 に認めている。  更にエスピリト・サント州低地への魚影入の気候馴化の困難なる事実を示すものとして、ワーゲマンは﹁初期の植民の 子孫で、勢州高地で生れた者は、欧洲から直接同州低地に植民した新来住者よりも、︹低地に︺より容易に気候馴化するこ

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とは︵乞巨8庸ま塁。国ロ冨低地の揚合に見られる如くである﹂と云う一つの観察を提示する。この観察は決して新しき ものではなく、既にノホト宕。受による観察、即ち﹁熱帯クインズランド︹濠洲 和田註︺の植民の成功は彼らが直接に欧 洲.から移住したものではなく、亜熟否的な南部濠洲からの移住によって、植民が実行されたことに原因がある。而して熟 眠クインネランドでも第一に亜熱帯へ、 次に熱帯への漸進的気候馴化卜目蟹讐賦魯①b犀姦濫無δ帥鉱。昌︹これは気候馴化の段階法        ぷ      ウ 国匿琶塗壁霧。冒。導。口㊥と一面ひ、生物学者薯昌舘Φの意想に由来する。和田註︺ が必要であり、その場合には先づ亜熟帯に適応し        た人の子孫が考慮に入れられなけれぽならぬ﹂と云ふ見解と全く符合するコこの事実はエスピリト・サント州低地への独 乙人の気候馴化の困難を明示するものにほかならぬ。  南緯二〇度線は同州の略汝中央を横断し、数理的熟帯に位置しているので、同源における独乙人の気候馴化の成功例は、 屡汝寒国的白人の熟帯気候馴化の可能性を実証するものとして提示されたが、いまワーゲマンの詳細なる観察によって、 独乙人の成功例は同州高地において認められるけれども、甲州低地においては彼らの気候馴化の困難があることが明確に された。従って同州が数理的熱帯に位置するにも拘らず、独乙人の気候馴化が成功したのは、同州高地において、その気 候が純熟帯的ならざるが故に成功したので、況んやこの成功例を以て、全熟帯領域に対する寒国的人種群の成功の可能性 の証左と為すべきでないこと云うまでもない。  ①       ご昏

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ブラジル国エスピリト・サント州における薫習栽培の発達と独乙人移民労働力 五八 結 目  エスピリト・サント州の独乙人植民地は数理的内部熟帯に位置するが、薩州高地気候は内部羽帯においても、特に温良 な性質をもつ故に、高地においてのみ、独乙人の気候馴化は成功を見たのであって、丹州低地気候への気候馴化に当づて は気候馴化の漸進法を必要とし、直.接的移住によっては気候馴化に困難が伴うことを明かにした。  加ふるに、この地への独乙人の気候馴化を成功せしめた間接的理由として、思召山筒地における独乙人植民地の位置が、         全く孤立閉鎖的場所にあり、且つ個汝の居住地は孤立荘宅国ぎ邑謀露 をなしているFことを指摘しなければらぬ。これが 独乙入の定著に当って彼らの嫌悪する有色入・黒人との並存関係より独乙人を解放していることが、.彼らの気候馴化を妨 げなかった社会的要因の一つであることを特筆しなければならない。叉彼ら各自が殆んど規模小と錐も地主であって、栽 植耕のコロノたる身分でなかったことも彼らの気候馴化の成功に幸しているものと思われる。  されば同州における奴隷貿易禁止が実効を発揮し始めた一八四〇∼五〇年頃より、奴隷労働力の補給が杜絶して、奴隷 に代位せしむべく招致された独乙入移民労働力は、同州低地においては気候馴化の困難があったが、高地にては気候馴化 の成功を見たことは、同州高地において栽培可能なる湯薬栽培の発展へと導き、延いては輸出作物の種類の転換と、その 生産地の高地への立地移動を惹起せしめたのであると結論したい。換言すれば輸出向作物生産物の立地移動と種類の転換        り とは、労働力問題解決策に基いて惹起したもので、これ霜先に吾汝がサン・パウロ高原への琢鐸生産地の立地移動に見た と全く同一の現象であると思う。  * ○簿。蜜塑巳犀bd轟獣一.︵oQ鼠出日Φ既望嘘ぎ累暮導.内鼠ε∬鐸名寄器罫津︶国塑目き自魯q霞⑯8σ⑫崔9置発露名一器Φ塁魯睦︵蜀。ヨ量日    おω0︶乙Ω.障随0一障曽       一九五七・二・二〇稿

参照

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